言うも愚か、下劣の極・売国の徒 

 大まかに規定するなら、「治外法権」とは 国際法上、「特定外国人が所在国の法律、特にその裁判権に服さない権利」とされる。ここで言われる「特定外国人」は「米国軍人」で、「所在国」、つまりは日本の国土内でどんなことをしても「免罪」されると広く受容(錯覚)されている権利だと、誰が決めたんですか。今次の報道(公開)された事案(事件)について触れれば、確実にぼくの「血圧」が上がります。このところ、異常に高い数値を示していたのが、この数日でようやく「準正常値」に入りだしたところで、夢々、油断禁物。

 何、構うものか。「悪は悪」「犯罪は犯罪」と厳しく断罪すべきですが、なんと、ことアメリカ相手だと切っ先が鈍るというより、端から切っ先のない鈍刀もどき(まがい)すら抜こうとはしないのはどうしたことか。おそらく、アメリカ子飼い日本政府の固い戒めが出されていて、「アメリカの尻尾は踏むな」ということのようです。ぼくは、この島国はアメリカの属国だという認識には立っていない。「他国の支配を受ける国」を属国とするら、日本は属国なんかではなく、それ以下です。では、なんと言ったらいいのか。

 俗に「属国」とはどこかに従属しているから「非独立(depenndency)」で、宗主国による問答無用の支配を受ける地域のことでしょう。その「属国以下」なのだから、この国の現実は「植民地(colony)」でしかないと思うのです。この形態は「ある国の国民または団体が、本国に従属する関係に置かれた地域に移住・定住して、経済活動や開拓活動などをすること。また、その移住民」(デジタル大辞泉)アメリカの外交官や経済人、さらには軍人・軍属やその家族が「植民者(Colonizer)」で彼や彼女が居住する地域はすべからく「コロニー(植民地)」であって、そこでは「治外法権」どころの騒ぎではないのです。その昔の「日本と朝鮮」の関係に置き換えたらどうか。旧韓国(李氏朝鮮)は、現下の日本国に相当し、旧日本は現下の米国に等しい。つまりは、極めて少数の米国民が大人口を抱えている日本を「植民地」にしている構図です。

 現在、どれほどの米国軍関係者が日本に居住しているか。詳細は不明ですが、おおよそは「日本にいる米軍関係者(軍人・軍属・家族)は2009年3月末現在で10万2454人」とされている。極論を言うなら、十万のアメリカ人が「植民者」としてこの島に君臨(時には統治)しているということです。日本が朝鮮半島を植民地化していた時期、日本国と通じていた朝鮮人はかなりの数に上りました。日本の敗戦後、これらの人々は「知日派」「親日派チニルパ)」として、機会あるごとに「抗日派」からは糾弾されてきた。その歴史は今も続いている。そのあり様をそっくり、今日に移行させることは滑稽を極めるのですが、それにしても、同胞女性が暴行や暴力による性被害を被っても、その犯罪事実を沖縄県当局に報告しなかったのはなぜか。沖縄警察や検察、外務省、さらには日本国政府を「親米派」と名付けるのは容易いことですが、その許しがたい行為によって、どれほどの人的物的精神的被害を、沖縄民衆、ひいては日本国民が受けているかを考えるなら、アメリカ軍人・軍族関係者の犯罪事実を国内に向けては隠蔽を決め込んでいたという事実は、目を剥くばかりの人権侵害の極みであると言うほかない。

 この国の要路に立つべき人間が「事実の隠蔽」「事実の捏造」にいささかの痛痒も感じていない厚顔の素振りは、どういうことなのか。表に出た事実(犯罪)の何倍もが闇に葬られているのではないかと疑心ばかりが膨らむ。嘘をつくことが大小の権力を握っている人間の共通財産(信条)だとすると、この国はどこまで堕ちるのか、想像を絶しているというしかありません。さて、どこから始めるか。現在の政治状況ではその「きっかけ」すら見当たらない。米国の大統領選の行方によって、さらにこの国は奈落に突き落とされるでしょう。(何一つとして、自前で実行することはおろか、自分で判断も選択もできない「非植民地」に未来があるとは思われないのです。「韓国併合」時(1910年段階)、韓国(朝鮮)在住日本人は約十万人とされ、日本の敗戦時(1945年8月当時)は約七十万人と言われています)

 (「血圧」がかなり上がってきましたので、怒りを鎮めるためもあって、一旦中断します。再開は未定)

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● 治外法権(ちがいほうけん)(extraterritoriality・extrality)= 国際法上、外国人は現に滞在する国家の管轄権に服するのを原則とするが、例外的に、滞在国の管轄権を免れる場合があり、その地位があたかも滞在国の外にあるかのようであるところから、これを治外法権という。治外法権が認められる場合はいくつかあるが、その内容は同一ではない。/治外法権のなかでもっとも一般的で重要なのは、外交官に認められたものである。外交特権の一部であり、古くから国際慣習法として確立しているが、1961年の「外交関係に関するウィーン条約」によってその内容がいっそう明確にされた。外交官の治外法権は、裁判権および行政権からの免除である。外交官は、接受国において、刑事裁判権から免除され、一定の場合を除いて民事および行政裁判権から免除され、また、訴訟において証人として証言する義務から免除される。外交官は接受国の警察権に服さず、各種の租税を免除され、すべての人的、物的役務や各種の年金、保険などの社会保障上の義務を免除される。なお、国家元首や外務大臣なども外国を訪れたときは、同様の治外法権が認められる。/領事が駐在国において自国の国民に対し本国法に従って裁判権を行使する、いわゆる領事裁判制度も治外法権の一種である。しかし現在では、外国の領事裁判権を認めている国はない。/このほか、領事、外国の軍艦・軍隊・軍用航空機、国際組織の職員などにも、国際慣習法および条約によって、それぞれ一定範囲の治外法権が認められる。(日本大百科事典ニッポニカ)

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【大弦小弦】米兵による暴行事件 県警はなぜ公表しないのか 2003年10月、宜野湾市で会社員が米兵3人に殴られ、金を奪われた。米兵らは米軍の管理下に置かれたが、行動規制は緩く、互いに接触できたらしい。取り調べ状況が筒抜けで苦労したと、元県警捜査一課長の石垣栄一さんが著書に記している▼事件が報道されたのは1カ月後。逮捕と違って書類送検は非公表がほとんどだが、この時は県警が重大事案と受け止めた。そうでなければ、闇に埋もれていたかもしれない▼片や在沖米空軍兵が少女を誘拐して暴行したとされる事件。書類送検だったことや、被害者のプライバシー保護を理由に、県警は公表しなかった。起訴前の身柄引き渡しも要求せず、政治問題化を避けたように見える▼そして今度は海兵隊員による事件である。成人女性に暴行を企て、けがをさせたとされる。容疑者は基地外で逮捕された▼なのに、なぜか県警は公表しなかった。これまでも性犯罪では、被害者の個人情報は徹底して伏せ、特定されない配慮をしているはずなのに▼空軍兵の事件が起きたのは、辺野古新基地を巡り「代執行」が行われる直前だった。海兵隊員が起訴されたのは、県議選の翌日。被害者のためのプライバシー保護を、捜査機関や政府が都合よく使って事件を隠したのではないか。日米のいびつな関係が、刑事司法にも影を差している。(鈴木実)(沖縄タイムス・2024/06/29)

【独自】米兵の性的暴行、5月にも 新たな事件発覚 県警が不同意性交致傷の疑いで海兵隊員を逮捕 沖縄  在沖米軍所属の20代の海兵隊員の男が5月、県内で女性に性的暴行をし、けがを負わせたとして不同意性交致傷の容疑で県警に逮捕されていたことが27日、分かった。/複数の関係者への取材で判明した。昨年12月に発生した米空軍兵の被告による少女誘拐暴行事件が25日に明らかになったばかりの中、米兵による別の性犯罪事案も発覚した。/関係者によると、海兵隊員は5月下旬に本島内の建物で女性に性的暴行した。女性は抵抗し、その際にけがを負った。海兵隊員は逃走したが、その後、通報を受けた県警が海兵隊員を特定し、当日中に基地外にいたところを逮捕したという。/日米地位協定では、国内で米軍人らが公務外で犯罪を起こし、日本の警察が現行犯逮捕などで身柄を拘束した場合は、日本側が身柄を確保して捜査すると定められている。同協定の規定に基づき、日本側が逮捕後も海兵隊員の身柄を拘束して取り調べたとみられる。/県警が公表している統計によると、今年1月から5月末までに不同意性交容疑などの「凶悪犯」で摘発された米軍人は4人(5件)。そのうち3人(3件)が致傷を含む不同意性交容疑で摘発されている。/県警は5月の海兵隊員の逮捕事案について、報道発表していない。性犯罪が疑われる事案について県警は、被害者保護などを理由に容疑者が米軍関係者かどうかにかかわらず報道発表を控える傾向にある。/一方、25日に明らかとなった米兵少女誘拐暴行事件では、米空軍兵長の起訴を3月に把握し、米側に抗議もしていた外務省が約3カ月間情報共有をしなかったなどとして、県は反発している。(琉球新報・2024/06/28)

 外務省“沖縄県への連絡は適切” 米軍兵士起訴の性的暴行事件 沖縄のアメリカ軍兵士が少女に性的暴行を加えたなどとして起訴された事件で、外務省から沖縄県への連絡が遅かったと指摘されていることについて、外務省の報道官は、プライバシーに関わる事件で、慎重な対応が求められるとして、対応は適切だったという認識を示しました。/沖縄のアメリカ空軍に所属する兵士が、面識のない16歳未満の少女に性的暴行を加えたなどとして起訴された事件をめぐっては、起訴されたことし3月27日に、外務省の岡野事務次官がアメリカのエマニュエル駐日大使に抗議しました。/しかし、沖縄県によりますと、外務省が沖縄県側に抗議したことを連絡したのは、6月25日だったということで、玉城知事は「信頼関係において著しく不信を招くものでしかない」と述べました。/これについて外務省の小林外務報道官は、26日の記者会見で「個別具体的な事案の内容に応じて適切に判断して対応している。特に本件のように被害者のプライバシーに関わるような事案については、慎重な対応が求められると考えている。常に関係各所にもれなく通報することが必要だとは考えていない」と述べました。/また、小林外務報道官は、外務省として、アメリカ側に引き続き、事件・事故の再発防止の徹底を要請していく考えを示しました。(NHK・2024/06/26)

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平凡に咲ける朝顔の花を愛す

【滴一滴】カフカ没後100年 文学紹介者の頭木(かしらぎ)弘樹さんは20歳のとき、難病の潰瘍性大腸炎を患った。それまで健康だったのに突然、ベッドの上で長く過ごすことになった▼今年の成人の日に合わせた本紙の寄稿に記している。当時は大学生。それからの人生に期待していた分、落ち込んだ、と▼そんなとき、ある人の言葉に救いを感じたそうだ。例えば、「生きることは、たえずわき道にそれていくことだ」―▼今のチェコのプラハに生まれ「変身」などの小説を書いたカフカが、日記などに残したものである。今月で没後100年になった。頭木さん編集の断片集が刊行されるなど、今も人気がある。だが、生前はほとんど無名だったという▼嫌で仕方ない勤め人の仕事は生活のために辞められない。結婚したいと願いながら踏み出せず、生涯独身だった。2度婚約し、2度破棄した女性への手紙にはこうある。「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいること」▼生きづらさを抱える人が少なくない現代。励ましの言葉が素直に心に届かないこともあろう。そんなとき、こんなネガティブな人もいたと思うと不思議と力がわいてくる。それは、文豪を敬愛を込めて「絶望名人」と呼ぶ頭木さんだけではないに違いない。(山陽新聞・2024/06/25)(ヘッダー写真は致知出版社より:https://www.chichi.co.jp/info/chichi/pickup_article/2021/12_kasiragi/)

 しばしば述べているように、ぼくにはいくつもの「悪癖」がある。「なくて七癖、あって四十八癖」とは言うから、長く生きていれば、いくつもの「悪癖」「習癖」もそれなりに増えてくる。逆に、ぼくなどは「悪癖」「習癖」から出来上がっている人間だとも思えてくる。ぼくはあまり言われたことはないが、学校の教師の悪癖(口癖)もいろいろあるようで、中でももっとも多いのは「勉強する習慣をつけろ」ではないか。いつもこれを耳にして不思議に思ったものだ。「習慣化された勉強とは?」と。意識を働かせないと判断力がつかないし、無意識状態でできることは「習慣」というのだから、知らないうちにやっている勉強は、おそらく勉強の内には入らないのだろう。

 それはともかく、悪癖の一つに寝ながら(寝床に入って)ラジオを聞くというのがある。かれこれ三十数年も続いている。「NHKラジオ深夜便」(夜十一時過ぎ~朝五時)だ。泊りがけで出かける時は除いて(今ではめったにない)、毎日聞く・聴く。ただの惰性になってしまったのだが、しかし時には耳をそばだてて聴くものもある。そのうちの一つが頭木弘樹さんの「絶望名言」だ。一ヶ月一回あての放送ですから、これまでにどれくらい聴いたことだろう。ごく初期の頃「かしわぎ」と間違えて覚えていたが、やがて「かしらぎ」の間違いだったこと、とても珍しい名前だったことに関心が加わって、以来、聴き続けている。頭木さんはぼくよりもかなりお若い。ぼくが大学に入った年(前回の東京五輪開催)に生まれている。現在六十歳。学生時代に「潰瘍性大腸炎」に罹患、生死の淵に立たされ、十三年間の闘病生活を余儀なくされたと言う。(「絶望名人カフカ」頭木ブログ

 自身を「文学紹介者」と名乗られている。聞き出した初期の頃、この呼称に違和感と言うか、聞き慣れない自己紹介だとことさら気になった。頭木さんいわく、「文学を論じるのではなく、紹介するだけ」と謙遜されての呼称らしい。静かな夜陰中に「絶望名言」を聴いていると、さまざなま想念や夢想が浮かんで来るのが、ぼくには楽しい。時には苦しくなるような「名言」もあるが、その言葉の主の「胸中」「心境」に想いが及ぶと、「君なら、どうする」という問いかけがぼくに向かう。(放送は月一回で、聞き手は元NHKアナウンサー、川野一宇さん)

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 昨夜来の雨が続いています。気温は二十度を越えてはいますのに、肌寒ささえ感じられる朝。水無月(六月)も、残すところ、本日を入れて三日。「釣瓶(つるべ)落とし」というのは秋の日没の速さを指しますが、齢八十を迎える人間には、その「一ヶ月」の過ぎ去り方は、まるで「一日」の暮れ行きに等しく感じられて、怖いほどのものがある。各駅停車ではなく、まるで「リニアー」並の超速です。ゆっくりと何事かを味わう暇(遑)もなく、と言うと語弊がありますけれど、取り返しのつかない日々の過ぎ行き方が「矢の如し」と実感されればされるほど、それこそいろいろな感懐、いや焦燥に駆られるのです。しばし待て、時間よ止まれ、そんな無茶な物言いを「時」に向かって投げかけたくなる。

 取り立てて珍しくもない季節の花に「朝顔」がある。俳句では「夏」の季語となっている。今どき、「季語」などあってなきものと捉えられかねない異常気象(気候)が常態化しているのですから、季節感が溢れ出るような「風物」など探しても無駄という情けなさも消えない。人間の住むところに「自然」はないに等しく、あったとしても「擬似自然」であり「人工自然」でしかないでしょう。まるで「擬木」のたぐいで、見た目は「木」だが、実際はコンクリートだったりプラスティックだったりといった塩梅です。

 その伝で言うなら、この社会のあらゆる制度や仕組みも、所期の目的が薄れてしまい、すべてが「擬制(擬製)」に見えてきます。「政治」ではなく、「政治擬(もど)き」であったり、「教育」が「教育擬き」であったり。それはまるで「雁」の肉ではなく、「雁擬き(雁の肉みたいな)」のようではないですか。だから、心底、感心するということが近年ではすっかりなくなった気がします。「文学」は「文学擬き」であり、「音楽」は「音楽擬き」であるというように、です。ひょっとして「人間」ではなく「人間擬き」が横行してはいないか。そんな時代にあって、頭木さんの「絶望名言」の紹介は極めて珍事であり、稀有なことに感じられてきます。擬態に満ち溢れる時代や社会にあって、いや、その社会の表層を捲(めく)ってしまえば、きっと存在する生き様、真率一路、誠実一貫を示す生き様を語ることは、誰にでも可能なことではないと痛感する。

 そんな中での表題句、です。作者は日野草城氏。「平凡に咲ける朝顔の花を愛す」技巧も擬態もない、まったくの「平凡」さをそのままに、詠む。草城さんも「絶望を背負って」生きた俳人だった。頭木さんと同じように「病気に取り憑かれた生涯」でした。ありのままの風姿をありのままの感情で、それがだれにもできるようで、なかなかできないのはどうしてかと思うほどに、ぼくたちは「擬態」を強いられているのでしょうか。チェーホフだったか、雨が降っている、ならば、(素直に)「雨が降っている」と書けばいいと言った。「王様は裸だ」と、誰もが知っていて、知らないフリ(擬制)をする。実に嫌な時代になったんですね。

 (昨日の東京新聞だったか、若い頃のドナルド・キーンさんが千葉県市川の永井荷風の家を訪ねたことがあった。「汚いところだが、どうぞ上がってください」と断腸亭に勧められた。日本人なら誰でも、謙遜しつつ言うのでしょうが、「本当に汚かったのは荷風のところだけだった」と懐かしく語っておられた。その家屋の汚さは半端ではなかったと言う。その荷風本人もまた、汚い老人そのままでありつつ、一旦口を開くと「あんなに美しい日本語を話す人に出会ったことがなかった」とも言われていた。汚かったのも、美しかったのも、どちらも「生のママ」の荷風だったのですね。

 今は、上を下への「擬制」の時代、玉石混交といい条、その殆どは「擬態」「偽装」で、方々に「疑似餌」が撒かれている。まさしく偽物花盛りというべきでしょうか。そんな時代にあってなお、「絶望」するというのはなかなかのもので、ドストエフスキーは「絶望するにも才能がいる」という意味のことを言っています。ぼくのように、絶望経験のない駄目人間が「絶望したふり」をしても仕方がないもので、それこそ、自分流の、なけなしの「人生観」で、借り物ではない生き方を貫くしかないのでしょうね。その貫き方も、右往左往、時には転(こ)けつ転(まろび)つ、挫折に頓挫は隠しようもないのです。それでも振り返れば、一本の細流のようで、水の流れだけは貫かれていたという、そんな生き方に身を寄せる他ないのですね。

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 余談 世は挙げて「もどき(似て非なるもの)」の時代、です。よく似た風情が感じられる落語に「二階ぞめき」という、大店のドラ息子の噺があります。例によって、ぼくは志ん生の語り(騙り)で堪能しました。驚嘆すべきバカバカしい噺。「ぞめき」は「騒き」と書く。「そめき」とも。(突然ですが、お後がよろしいようで)

 あらすじは「とある店の若旦那は毎晩のように吉原に通っている。父親は腹を立てて息子を勘当すると言い出し、困った番頭が意見をしに行くと、若旦那は吉原がこっちに来れば遊びに行かないと答え、腕のいい棟梁に頼んで二階を吉原そっくりに改造してしまう。/浮かれた若旦那は吉原遊びを空想して一人芝居を始める。花魁と口論になり、止めに入った他のお客も巻き込んで大喧嘩、という場面を一人三役で熱演していると、二階が騒がしいので変に思った親父が丁稚に様子を見に行かせる。丁稚が声をかけると若旦那が「悪いところで会ったな。おれに会ったことは家に帰っても内緒にしろよ」(Wikipedia)
●日野草城(ひのそうじょう)(1901―1956)= 俳人。東京生まれ。1917年(大正6)高浜虚子(きょし)の句に接して句作を始め、18年8月『ホトトギス』雑詠入選、24年『ホトトギス』課題句選者に、29年(昭和4)『ホトトギス』同人になる。この間第三高等学校、京都帝国大学法学部を卒業、27年には句集『花氷(はなごおり)』を刊行した。35年『旗艦(きかん)』創刊、新興俳句運動の最左翼にたち、俳句近代化を図り、翌年『ホトトギス』同人を除名された。新興俳句弾圧の嵐(あらし)のなかで41年『旗艦』指導者の地位を去る。戦災、戦後の苦労を経て49年(昭和24)『青玄(せいげん)』創刊。病苦のなかで清明な句をつくった。句集に『青芝』(1932)、『昨日の花』(1935)、『人生の午後』(1953)、『銀』(1956)など。代表句「高熱の鶴(つる)青空に漂(ただよ)へり」「見えぬ眼(め)の方の眼鏡の玉も拭(ふ)く」など。(日本大百科事典ニッポニカ)

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言葉飛礫の衝撃力と柔軟性

【海潮音】「日本は本当に情けない劣化した国になりました。言葉が出ません。一部の人たちとはいえ、こんなことがあっていいのでしょうか」。情報通の知人から東京都知事選の候補者ポスター掲示板の写真と共に、憂いと失望にあふれたメッセージを受け取った◆ほぼ裸の女性、候補者を連想できないデザインのポスター。かつて風俗店のピンクチラシが社会問題になった公衆電話ボックスの光景を思い出す。まさにカオス状態だ◆都知事選の前にあった衆院補選東京15区では、候補者が演説している脇で他の候補者が大音量でがなり立てたり、突撃したりして逮捕案件にまで発展した。選挙はある意味「祭り」の側面もあるが、民主政治の根幹とされる選挙が、無秩序な“らんちき騒ぎ”であっていいはずはない◆現状の制度や社会への問題提起、アンチテーゼなどと言い分もあるようだ。しかし、法に抵触していなければ何やってもオッケーの風潮には危うさを覚え、自由を履き違えた自分本位の身勝手さに嫌悪感も募る◆これもSNS時代、ネット社会の“副産物”なのか。こうした状況は東京だけの話か、時間差で地方にも波及するのか。他人の目を気にする社会は息苦しいが、日本には「恥の文化」があった。一体、どこに消えたのか。(小)(日本海新聞・2024/06/27)

 「言葉」あるいは「言葉の飛礫(つぶて)」に些少と雖も存した破壊力が失われたのはなぜか。コラム文中の「情報通の知人」氏の意見に同感。「選挙が、無秩序な“らんちき騒ぎ”であっていいはずはない」というコラム氏の筆致にも賛成。でも、割り切れぬものが残るのは、いささか気色悪い。おそらく打鍵(筆力)の「曖昧」「忖度」「右顧左眄」「優柔不断」等々の姿勢が災いしているのだ。「法に抵触していなければ何やってもオッケー」とは悠長・かつ大甘な見立てで「法に抵触しても、オッケー」が堂々罷り通る各界各層、それを許す状況を問い糾すのは誰の仕事か。「自由を履き違えた自分本位」というだけで、敵陣に塩を送る如き惰弱な運筆姿勢はなんとかならぬか。社会悪の横行は、確かにネット社会の「副産物」の一面はあろうが、ここまで「恥も外聞も」が有していた「自堕落」を克己する力が失われたということ、それを見逃していた節穴は誰のものなのか。とはいえ「堕ちるところまで堕ちる」に任せるも一法。何、間もなく「底ですから」な。そして、出直しは「底から」だから。

 日々の出来事や報道に、ぼくは慨嘆するのではありません。諦念を抱くのでもない。いつも綴るように、この社会で生きるとは、否も応もなく「一蓮托生」であり、「一抜ける」という「抜け駆け」「先駆け」はしない、したくない。悪い時代に居合わせた不運を受け入れるさ、そんな素っ頓狂(間抜け)な態度を曲げたくないんですね。「堕ちるところまで堕ちる」と言うけれど、どこまで堕ちるか、誰も試してみないから、その深さ(限度)がわからないのだ。ここまでの歴史を閲(けみ)すれば、「人間の魔性」「堕天使」ぶりは留まることがないようだと分かる。

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 紙礫(かみつぶて)は無害か。各新聞のコラムの力は、いわば「紙礫」のようなもの。いくら投げ付けられても痛くも痒くもないと、懲りない面々から侮られている。侮られる側に無能の誹(そし)りを受ける理由はないか。ときには「紙爆弾」であるかもしれないという「恐怖感・危険視」を与えない「紙礫」は児戯のネタにもならない。「噂の真相」や「紙の爆弾」ほどの悪態を期待はしない。せめてものこと、「悪玉のアキレス腱」を撃つ程度の「威力」があれば。それを称して「言葉飛礫(ことばつぶて)」という。

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「大学は出たけれど」ではなく、…

 

<あのころ>広末涼子さん、早大初登校 ファンに囲まれ騒然 1999(平成11)年6月26日、早大入学を果たした人気タレントの広末涼子さん(18)が初登校すると多数のファンや報道陣に取り囲まれ大騒動に。自己推薦入試で教育学部国語国文学科に合格したものの仕事が多忙で学校に姿を見せなかった。学業との両立は難しいと、4年後に退学届を出した。(共同通信・2024/06/26)

 どうしてこんな写真(ヘッダー)を出したか。他意はありません。あんなことがあった、こんなことがあったというような過去のエピソードの一つに過ぎませんが、共同通信が「今日は何の日」の本日分に出していたので、拝借した次第。筆者になにか関係があるのかと問われれば、「ぼくは彼女の熱心なファンだった」から、というのは嘘で、入学その他の業務に関わっていた友人が、この当時の出来事を語ってくれたことを思い出したというだけのこと。「裏口入学(?)」などと不穏当なことを口にすれば、方々から叱られそうですが、このタレントさんは確か「自己推薦(女優業?)」というカテゴリーで合格されたそうです。自薦・他薦が引きも切らない時代でしたから、入学試験にも、どんなにへんてこなものがあっても驚かない。今でも、この入試形態を採用している大学はあるのかどうか、現役教員ではなくなったので詳しくはわかりません。

 受験競争は「詰め込み」を強制する、暗記に特化するだけでは実力はつかないなどと、いろいろな批判が出た結果、多様な受験形態、入試方法が工夫されて来たのは事実ですが、受験が間違いなく「競争」である以上は、それが「自己推薦入学」であろうと競争原理は働きますし、その合否を判断する側の都合もあるでしょう。受験であることは他の方法と取り立てて変わらないのです。

 このタレントさんは「稼業多忙」を理由に「退学」したそうです。巷間では「裏口入学」が実(まこと)しやかに囁かれていましたが、そんなのは当たり前ではないかと見る人もいるだろうし、厳正な入試なんだから、不正はあってはならないと厳格を求める向きもあるでしょう。ぼくは、ずいぶん昔から、入学希望者は「全員入学」を認めるべしという立場を取っていました。定員が300人のところに1000人が入学を希望したなら、それを全員合格させて、四年以上という「時間」をかけて、真人間にするための教育に、大学側も勤(いそ)しむべしという考えだったからです。収容しきれな場合には、今で言う「オンライン授業」、つまりは「自宅学習」、ときには「スクーリング」を勧めていました。こんな突飛な考えに賛成する人も殆どいなかったけれど、実際に大学でやっていることは、一般入学試験を通って入った学生に対しても、同じようなどっちつかずの教育方法で、時間をかけて鍛えなければ話にならないのは言うまでもありません。

 しかし、そんなことは夢のまた夢。厳しい授業や厳格な卒業判定をすれば、落伍者が続出するばかりだから、営業政策上からもまずいわけで、結局は中途半端な「遊学程度」で大半は卒業させているのが実情ではないでしょうか。また、裏口入学というものの実態はよくわかりませんが、仮にそんな怪しい合格方法があるなら(「蛇の道は蛇」と言うから、きっとあるのでしょう)、当然「裏口卒業」もありはずです。入学は「表口」からだったが、卒業は「裏口」から。こちらの方は、あるいは横行している気配があります。確たる証拠があるわけではありませんが、時の総理大臣やもろもろの大臣諸侯を見ていると、「漢字は読めない」「言葉遣いが怪しすぎる」などなど、立派な学歴を誇っている大人の中にもどういう「学校育」を経てきたのかと、どう見ても「最高学府(今でもこの「死語」を使っているらしい)」を終了したとは思えない連中が多すぎるという状況からする、ぼくの独断、偏見、あるいは直感的判断です。(ぼく自身の拙劣な教師経験も判断に加わっているでしょう)

 「教養という名の無教養」、それをとやかくあげつらうのではない。本当に学びたいなら、人は大学なんかには行かないだろうという直観があるからです。ぼくも一人前に、そして恥ずかしいことですが、「大学卒」です。ある時期から、ぼくは大学に行ったことは「痛恨の極み」と激しく悔いることしばしばでした。入学後、間を置かずに「これが大学だったのか」という深い落胆(disappointment )を味わった。理由は単純です、学ぶ気力も将来の展望も持たないで「大学(空白期間)」を素通りしている・していたたという、取り返しつかない過ちを実感したからでした。とうじ、ぼくは「大学」という危険箇所、難所には無垢だったのかもしれない。と同時に、大学に行かないことが「普通日用」の生活スタイルだった明治以前が羨ましく思ったほどです。今でも、その無顧慮の念が強く残っています。

 日本の大学の水準はどの程度か、自分の経験を尺度にすると、いかにも脆弱、教育や教養には無力そのものであるというほかない。だから、外国の大学へ、と考える人もいるのは当然。現在選挙運動期間中の都知事選の現職候補は、エジプトの「名門大学」を「首席卒業」だと、自認・詐称しておられたが、その件につき疑惑が沸き起こり、今では「裏口入学」ならぬ「裏口卒業」だったことはほぼ確実視されています。あるいは、もっとはっきり言うなら「入学」も「卒業」も「裏口」だったということでしょう。これならぴったり「平仄(ひょうそく)」は合う。もしそうなら、「前後の脈絡は通っている」からです。「通学」も「在学」もしないでも卒業できることはあり得ること。それだって構わないではないか、そんな気もしている。

 現都知事は、深慮か遠謀か、「私はK大学を卒業したのよ」とは断じて言われない。「K大学が意思を持って卒業を認めている」と実に奇っ怪な言葉遣いを以て、いっそう事態をややこしくしているのです。嘘はやめて、この際、入も出も「裏口」、または「キセル(中は空洞)」だとはっきり告白して、その可否を選挙で問えばよかったと思う。今から一世紀も前「大学は出たけれど」と言う時代、世界同時不況の時期があった。同名の映画も日本では作られました(1929年)。その伝で行くなら、「大学は出なかったけれど」という時代が、来ているのではないでしょうか。来てほしいですね。

 大学を出なかった、行かなかったという「学歴(学習歴)」が物を言う時代や社会こそ、誰もが当たり前に生きられる、真っ当な人間評価のあり方なのだと認められる時代の到来を、ぼくは期待しているのです。ただ単に大学に行くとか卒業するというような「学歴(卒業歴)」ではなく、自分の頭で考え、自分の意欲で生きてゆく算段をする「学歴(学習歴)」、どこを卒業したかという「学校卒業歴」などではない、そんな「自己教育」こそが求められることをいつも待望しているのです。

 なんとかいう「大学」を何十年も前に卒業したという、その卒業歴、それは、例えてみれば何年も前に特上のステーキを食べたが、それが、現在の自分の身体の大事な部分を作っていると信じていればこそ出てくるような、何時までも古臭い思い出話、取るに足りない自慢話をすることにどんな値打ちがあるんですか。大学出でない人々(青年たち)よって、この「日本」は作られたのだという、明治初期の時代刷新に果たした若者のことを想起しておきたいですね。

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あんた方何処さ 肥後さ 肥後何処さ

 二日続きの「新生面」です。「雨の慕情」から「あんた方何処さ」へ、です。どういうわけか、ぼくは若い頃から熊本贔屓(びいき)で、明治期の何人かの俊傑について小さな原稿を書いたこともあります。中でも横井小楠は大好きでした。そのつながりで、いわゆる「熊本バンド」なるものの青年たちについても、あるいは、解放された女性の歴史に残る活動に関しても大いに関心を持ったものです。矢島楫子(やじまかじこ)という女性をご存知でしょうか(左写真)。彼女の生涯は、後に続く多くの女性の導きの糸になったでしょう、特に学校や教育に関して、です。

 この矢島楫子さんの四人の姉妹が、明治時代に果たした、あるいは記(しる)した軌跡には、ぼくたちはもっと積極的に学ぶべきだと思う。さらに忘れてならないのは「癩(らい)病」、現在は「ハンセン病」の患者救済の活動に立ち上がった女性たち(その中心はハンナ・リデル氏、右写真)の先進的な取組に付いてです。その他、…。どうして熊本が明治期を通して多くの政治・社会・教育活動に携わり得たかとても不思議だったし、若い頃の感情をぼくは大いに刺激されたのでした。(このような問題に関しては別の機会に考察してみたいですね)(いずれも、後掲の辞書・事典類を参照)

<新生面>学びの多様化学校 野山を駆け巡りながら木工や陶磁器づくり、動物の飼育にいそしみ、海に親しみながら農業を学ぶ-。そんな学校が天草市天草町にできそうだ。熊本県内初の「学びの多様化学校(不登校特例校)」である▼一般社団法人「熊本私学教育支援事業団」が、天草町の旧下田南小に昨年8月開校したフリースクール「天草下田南校」を私立学校化し、特例校として来春開校させる準備を進めている。狙いは不登校の子どもたちが学ぶ場の確保。学びの多様化学校になれば通常の授業時間数を7割程度に抑え、学校独自のカリキュラムを組むことができる▼不登校の児童生徒は2022年度、全国で過去最多の約30万人に上った。フリースクールのニーズも全国的に高まっており、多様な学びへの理解は広がりつつある▼下田南校では先週末、不登校の子どもたち10人が地域住民と田植えを楽しんだ。泥んこになりながら、川遊びをしたり、ヤギと触れ合ったり。校内には笑い声が絶えず、子どもたちの表情もいきいきしていた▼下田南地区は人口約160人。特例校の開校は、過疎が進む地域にとっても喜ばしいことだろう。田植えのように、住民が“先生”となることもしばしばある。地域と学校が両輪となって子どもたちを支えることができそうだ▼事業団の仙波[せんば]達哉代表(69)は日々接している子どもたちについて「自然に触れることで本来の自分を取り戻している。環境が変われば必ず変われる」と話している。特例校でどう成長していくのか、楽しみだ。(熊本日日新聞・2024/06/25)

 本日の「新生面」では「学びの多様化学校(不登校特例校)」について触れている。その目的・内容について「狙いは不登校の子どもたちが学ぶ場の確保。学びの多様化学校になれば通常の授業時間数を7割程度に抑え、学校独自のカリキュラムを組むことができる」というもの。その趣旨には大賛成します。でも、ここで長考一番、それでは「通常の学校」の実態はどうなのかということです。昔の話を持ち出すまでもなく、ぼくの経験した小学校・中学校は「学びの多様化学校」だったし、普段の生活が学校生活と大いに繋がりがあったように思い出す。いい面も悪い面も含めて、学校には「現実の社会」そのものがあった。(「特例校」には文科省の臭い息がかかっているのは、よくないですね。その軛(くびき)から離れる手立てこそが考えられなければ)

 いつも不審に思うのは、「学校教育の取り澄ました容貌」とでもいうような雰囲気です。勉強と遊びは別個のもの、勉強は然で、遊びはあく、そんな勧善懲悪趣味がどこにでも漂っている・いたんじゃないですか。もっぱら「学校は学習オンリー」という姿勢を取っているけれど、それだからこそ、多くの子どもたちは息が詰まるんでしょ。良質の酸素(オゾン)というか、「遊び」が決定的に不足しているのが学校だった。つまりは、真面目に「役に立たないことを詰め込む」錯乱狂気を「教育」と勘違いしていた・いるのです。「自然に触れることで本来の自分を取り戻している。環境が変われば必ず変われる」とはこの学校の運営責任者の言。学校から自然が奪われ、無機質の環境で一体何が学べるのか、そんな素朴かつ基本問題でもあるでしょう。

 その昔、文部省(文科省)が「学校教育によって生きる力を育てる」とかいう冗談を言いだしたことがあった。「生きる力を奪う教育環境」において、「生きる力を育てる」ことが本当に可能だと考えていたとは思えなかったから、ぼくはさんざん悪態をついて、友人だった「中教審」(当時)のメンバーに茶々を入れたことがあった。「馬鹿も休み休み言え」、そんなことだったろう。その「馬鹿」はいま以って改善された痕跡は見当たらないのです。子どもの未来を奪う教育、その狂態に気が付かないのだろうか。いつも言うことで、今日のこの社会の惨状のほとんど(政治・経済を含めた)が、学歴だけが誇りうる財産のような、そんな空疎な、見掛け倒しの看板を掲げた人間どもによってもたらされているのを、どのように見るか。

 数ある愚劣さの中のほんの一例です。都会の学校の校庭は一時期、大半がコンクリートで固められていたが、それを剥がして土に戻すことにした。どうしてですかね。「コンクリートの地面で転べば痛い」という大発見が教育関係者によってなされたからでしょうか。ならば、子どもたちの繊細な感性もまた、コンクリート詰めにする危険と愚劣を、新たに発見してほしい。そんな悠長なことは認められないから、学校教育を拒否する子どもたちが生み出されているのでしょう。残念ながら、いつまで愚劣を繰り返せばわかるのかと、まるで「百年河清を待つ」身に置かれているのが、庶民(特に子どもたち)ではないでしょうか。

 建物もコンクリート造り、そんなところで「友だちに優しい心を育てましょう」と真面目に考えているんですかと、虚仮の一念で、ぼくは言い続けてきました。もちろん、それは単なる気晴らしだったかもしれないが、学校の「狂った教育に専心するという、絶望的真面目さ」には、ほとほと慨嘆するばかりだった。以来、「真面目は怖い」と心底、腹に染み込んだのでした。級友と一点を争う闘技場、それが学校でしたし、今でもその狂った勢いが削がれているとは思われません。

 そんな時に、遥かの昔の「あんたがたどこさ」「熊本さ」の地で燃えたぎっていた若い人々の「心意気」に、二十~三十代のぼくは懐かしさと同時に、大きな未来を見出していたとも言えます。面倒なことは避けますが、端的に言うと、いまからでも「特例校」が普通(まとも)であって、「普通校」こそが異常(勉強オタク強制校)なのだと気がつくべきでしょうね。手遅れの気味はありますが、何時だって「再生」「甦生」できるのもまた人生なんですね。

 次は、熊本贔屓の余沢です。たくさんの恩恵から、その一つを。今では当地(肥後)の子どもですら知らないのかもしれませんね。

 (「あんたがたどこさ」https://www.youtube.com/watch?v=t70ctebBGTc&ab_channel)(「九州熊本がその発生地のように思われていましたが、実は関東の歌で、埼玉県川越市喜多院裏の「仙波山」あたりがそもそもの発祥地であることが地元川越市の郷土史研究家によって明らかにされています。(中略)幕末期の薩長連合軍が仙波山に駐屯した際に、地元の子どもたちとの問答からうまれたとのことです」(「レファレンス協同データベース(レファ協)」:https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000109298

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● 熊本バンド(くまもとばんど)= 明治初期、熊本洋学校生徒の間に結成されたプロテスタント・クリスチャンのグループ。彼らはアメリカ人教師ジェーンズの強い感化のもとに聖書を学び、洗礼を受け、キリスト教によって祖国を救おうという固い決意のもとに、1876年(明治9)熊本郊外の花岡山において奉教趣意書に署名・誓約した。その数35人のなかには、宮川経輝(みやがわつねてる)(1857―1936)、金森通倫(かなもりつうりん)、海老名弾正(えびなだんじょう)、徳富蘇峰(とくとみそほう)、横井時雄らがおり、その多くはのちに同志社に学び、組合教会と結び付いた。また、彼らに共通するのは、信仰の情熱とともに、祖国日本の社会に対する真摯(しんし)な使命感と責任感であり、ここから、宗教界のみならず、広く政財界、言論界に活躍する人材を生み出すこととなった。(日本大百科全書ニッポニカ)
● 矢島楫子(やじまかじこ)(1833―1925)= 女子教育者、社会改良家。天保(てんぽう)4年4月24日熊本藩総庄屋の家に生まれる。25歳で結婚、1男2女をもうけたが、35歳のとき離婚して矢島家に帰る。1872年(明治5)上京、40歳にして教員伝習所に学び、1876年新栄女学校教師となり、翌1877年受洗。1889年桜井女学校、新栄女学校が合併して女子学院となるや院長に就任、1914年(大正3)退職までキリスト教に基づいた教育によって多くの子女を訓育した。東京婦人矯風会(きょうふうかい)(1886)、日本キリスト教婦人矯風会(1893)を組織して会長となり、第7回矯風会世界大会(1906)に出席のため渡米し、ルーズベルト大統領に会見するなど、女性運動、社会改良事業に尽力。その姉には、順子(1825―1905。竹崎茶堂(たけざきさどう)(1812―1877)の妻で熊本女学校校長を務めた)、久子(1829―1919。徳富一敬(とくとみいっけい)(1822―1914)の妻で蘇峰(そほう)・蘆花(ろか)の母)、つせ子(1831―1894。横井小楠(よこいしょうなん)の妻)があり、矢島家の四姉妹としてつとに名高い。大正14年6月16日没。(日本大百科全書ニッポニカ)
● ハンナ リデル(Hannah Riddell)(1855.10.17 - 1932.2.3)= 英国の宣教師。北ロンドン生まれ。日本におけるハンセン病者救済の先駆者。英国教会宣教会の宣教師として1890年熊本に赴任。その年ハンセン病患者を見て、生涯をその救済に捧げる決意をする。1895年熊本市郊外にハンセン病患者収容施設、熊本回春病院を創設し、宣教師を辞して病院運営に専念。又政府当局に訴えて救癩の立法化に成功した。彼女の死後は姪のライトが事業を受け継ぎ、二人の死後病院跡はリデル・ライト記念老人ホームとなっている。藍綬褒章、勲六等瑞宝章受章。文献「ユーカリの実るを待ちて―リデルとライトの生涯」内田守編(’76年)。(20世紀西洋人名事典)
● 横井小楠(よこいしょうなん)[生]文化6(1809).8. 熊本 [没]明治2(1869).1.5. 京都 = 幕末維新の開明的経世家,政治家,思想家,教育家。肥後藩士大平の次男。幼名は又雄,のち時存。通称は平四郎。小楠,沼山と号した。藩校時習館で儒学を学び,30歳のとき江戸に出て藤田東湖らと交わり,翌年帰郷して家塾を開き,学問と政治を一致させる実学を唱えた。各地を巡遊し,安政5 (1858) 年から7年間,4回にわたり越前藩主松平慶永に招かれて福井に滞在し,『国是三論』を著わして,開国通商,富国強兵,士道3論から成る大綱を主張。慶永を通じて幕政にも参画し,幕府改革,公武合体運動を進めた。福井藩の政変で失脚して帰国。維新後新政府に招かれて京都に行き,制度局判事,参与に任じられたが,その開明的な言動が保守派にキリスト教信者と誤解され,退庁の途中十津川郷士,津下四郎左衛門らに暗殺された。その立場は豪商農層を背景とする重商主義,農権国家の樹立であったとされ,その論策,書簡は山崎正董編『横井小楠遺稿』に収められている。(ブリタニカ国際大百科事典)

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くもり空なら いつも逢いたい…

 「梅雨入りしたらしい」という。気象庁の噂話(他人事)程度の報道で2日連続で降雨が続きました。「降れば土砂降り」(It never rains but it pours.)(It’s raining cats and dogs.)という表現は昔からありましたが、今は、まさにその形容句がドンピシャの「雨三昧」、いや「豪雨襲来」です。「降れば土砂降り」は昨日今日出来た言い回しではなく、かなり前からあったのですから、集中的豪雨は珍しくなかったでしょう。「降れば土砂降り」どころか、「降れば災害」となると、この異常気象の仕業であることは間違いないところ。その「異常」に大きく加担してきたのが「人間の経済活動」だったというのは誰にも否定できない事実です。

 ところで、ぼくたちの社会に限らず、「雨」にまつわる言葉は数限りなくあります。それだけ、人間の生命・生活には雨(水)は不可欠(構成要素として)だということであり、しかし降り過ぎは望まないという気分でもあったでしょうか。甚大な被害をもたらす「豪雨」と言いますが、ぼくの感覚ではその被害・被災の大半は、本来なら人間の居住環境にふさわしくない場所に、人為を駆使してか、家を建て道路を作るという、自然克服の技術の過信・盲信がなかったどうか、それこそが問われる必要があると思う。それは「地震」の被害・被災の多発にも言えることでしょう。加えて、その大部分は行政が認めた工事や改良によって承認された土地造成、あるいは建築施工によって生じています。誤解されそうですが、「天災とは、人災の別名」であるとも言えそうです。人間不在の環境で何が発生しても、それを「災害」とは言わぬが道理です。それは「自然現象」という一語で語られるばかりでしょう。

<新生面>雨の慕情 雨音を聞きながらひとりの女が、別れた男を思い出している。<憎い 恋しい 憎い 恋しい めぐりめぐって 今は恋しい>。八代亜紀さんの『雨の慕情』だ▼作詞した阿久悠さんが平成も半ばになったころ、人の思いを雨に託せた昔を懐かしんでいる。「雨は雨で終わらず、風は風に限らず、人の感傷を語る言葉であった」(『昭和と歌謡曲と日本人』河出書房新社)。人の心が雨と離れ、歌謡曲に雨を使いづらくなったとすればなぜだろう▼熊本地方気象台が最近まとめた調査結果におやっと思わされた。「熊本の大雨は人の寝静まっている時間帯に多い」ことが分かったという▼過去48年間の雨量を調べたところ、1時間に50ミリ以上の非常に激しい雨は午前0時から午前8時ごろまでに集中していた。2020年に球磨川を氾濫させた熊本豪雨をまっ先に思い出す。県民が肌で感じていたことが、気象データで裏付けられた格好ではないか▼なぜ深夜から朝に多いかは分からないというが、やっかいなことだ。災害に気付くのが遅れ、避難するには暗い。明るいうちに予防的避難をしておくにしくはない、ということだろう。現在の乱立した防災気象情報は複雑で分かりにくいとされる。気象庁はこれをシンプルに整理するつもりだという。大雨の予測精度の向上と合わせ、伝え方の改善を急いでほしい▼シトシトは減り、ザアザアどころか、ドウドウとしのつく雨が目立つ気がする。<雨々ふれふれ もっとふれ>と気楽に歌いにくい時代である。(熊本日日新聞・2024/06/24)      

八代亜紀「雨の慕情」https://www.youtube.com/watch?v=FZMWYN8pzG0&ab_channel)(昨年12月30日に亡くなられた。七十三歳でした。歌声を聴いても、懐かしさがこみ上げてきます)

 拙宅前の道路がやや傾斜していて、たくさんの雨が降るとかなりの部分が宅地内に入るから困ると、隣家の住人が役場(行政)に文句(注文)を言ったら、「こんなところに家を建てる者が悪い」と役場の吏員が言い捨てた。横で聞いていたぼくは、「ふざけたことを言いなさんな。建築申請を認めたのは誰だ」と横槍を入れた。「それはそうですけれど…」と吏員は腰が砕けたのだった。拙宅も「町の崖条例」か何かに指定されている「要注意物件(宅地)」だそうで、三十年ほど前にヒノキの植林地の傾斜部分に、かなりの盛り土(造成)をして、そこに家を建てた。敷地余裕がそれなりにあるので、いきなり崖が崩れ家屋が崩落するということはなさそうですが、気は抜けない。だから、なおさらに「天災は人災の言い換え」だと思うのです。

 閑話。まるで気象予報士のように「空模様」を気にかけていた田舎少年は、一気にではなくとも、すっかり老人に成り果てつつあります。でも「三つ子の魂」はなお健在で、今からでも予報士の受験をしようかと思うくらい。問題に挑戦したことも何度か。だから、猫の挙措をつぶさに見ているのは当然で、今日や明日の天気が大いに気になるし、台風発生となると、目を皿のようにしてその行方を追っかけたりします。「雨」に関わる好きな言い回しをいくつか。いくらでも数えられますが、本日はここまで。

・月に雨笠日笠なし ・朝雨と女の腕捲り ・雨後の筍 ・雨夜の月 ・雨の降る日は天気が悪い ・雨晴れて笠を忘れる ・横板に雨垂れ ・頼む木陰に雨が漏る ・「雨 雨 ふれふれ もっとふれ 私のいい人 連れてこい ♪」

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 列島が壊れゆく、その過程のさなかの「都知事選」です。「悪法もまた法なり」と言うけれど、「悪法は悪法」で、言語矛盾しているんですね。「悪法は無法であり、不法」ですよ。人間の知性などという上品なものを求めるのではない。あるいは「常識」という腐臭紛々の古手形を持ち出すのではない。集団の一員であり、他のメンバーに不愉快な思いをさせないという感覚のない愚連の衆、あるいは犬猫にも劣る「劣情」人間に、利権政治家に施すのと同様に、大枚の税金を手当する悲劇・喜劇をなんとするかというのです。虚飾を振りまこうが、虚言を言い募ろうが、詐欺・泥棒をしても捕まらない、一切お咎めなし、という「法の前の不平等」を見せつけられて、思い切り虚仮されている有権者の中に、この「破廉恥」選挙行動を、心から享楽する、応援さえする輩がいるという社会の現実。そして、虚飾と詐称と利権に彩られた「原色(現職)知事圧勝」と、天気予報ならぬ選挙予報がの早鐘が鳴らされている、この梅雨空の一日。

 いや、ぼくらの目に見えない領域では「黒風白雨」が猛り狂っているのではないでしょうか。やがて、それが海上(眼前)に姿を表した時には、もう手に負えない「狂悖暴戻(きょうはいぼうれい)」の邪鬼となり、その「恣暴」「横暴」の前に為すすべを失っているにちがいないのです。すべてはわが現実の社会から生み出されたものなんですが。

 (「産経抄」の記事を読んで。なかなか「秀逸」に近いものでした。余計なことですが、更に贅言みたいなものを)

 (「他力本願」のどこがいけないか。「阿弥陀様の慈悲に縋(すが)って」が本来の用法だとするなら、まちがいを生んだのは「本願寺」の関係者じゃなかったか。選挙は、もともと「他力」を頼む行為であって、質の悪い投票者であっても、投票してくださるなら、候補者にすれば、それこそ「ありがたきかな、阿弥陀様」です。だから、この国の政治家連の劣悪最低の現況を生み出したのは、「救いがたい阿弥陀様」に頼ることを旨とする候補者の側の問題であり、翻って、そんな軽薄・胡乱(うろん)(の候補者)を当てにして、「生りたがり」を押し出す有権者の「御慈悲」の救いがたい愚かさにあるでしょう。だから、ぼくは「末法の世」だというのです。しかし、です。「他力本願知事」という用法、一体どこにまちがいがあるんですか、とぼくは腑に落ちないのです。文句を言うなら、諸々の「辞書」に、でしょうね)

<産経抄>本質が透ける選挙ポスター、有権者は厳しい目で 江戸時代にはすでに絵ビラと呼ばれるポスターがあった。その歴史は古い。本質は広告でも選挙である以上、品性や知性が求められてしかるべきだろう。7月7日投開票の東京都知事選で選挙ポスターが物議を醸している。▼品位のない掲示手法は論外だが、九州では投票を呼び掛ける選挙啓発ポスターが話題になった。こちらも同日投開票の鹿児島県知事選である。問題視されたのは「他力本願知事・ほかだよりひこ」という表現だ。▼良くない知事の例として挙げたもので、鹿児島市の本願寺鹿児島別院などが「他力本願の使い方が本来と違う」として強く抗議。これを受けた県選管は「人まかせ知事」に修正した。おやと思われた人もいるだろうか。平成14年に企業の「他力本願から抜けだそう」という新聞広告が騒ぎになったことがある。▼元は仏教用語で阿弥陀仏が衆生を救いたいとする願い(本願)のことだが、転じて辞書に「他人の力をあてにすること」と列記されている。その意味しか知らず、日常的に使う人が多いのだ。当時も浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)などが抗議し、最終的に「不勉強だった」と謝罪した。▼当時、僧らが「大切な言葉だから何度でも声を上げ続けることが大切」と語ったのが印象的だった。実はそれ以前にも大臣や首相すら〝誤用〟した経緯があったからで、今回も鹿児島では「捨ておくわけにはいかない」と声が上がったという。結果的に本来の意味が社会に再認識されただろう。▼翻って都知事選のポスターである。何を訴え、何を語らず、誰が誰を応援するか。眺めるほどに本質が透けてみえよう。SNSもユーチューブも同じことだ。有権者の皆さん、見抜く力がなくて何とする。(産經新聞・2024/06/24)

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「徒然に日乗」(600~606)

◯2024/06/23(日)朝から、作夜来の雨が続いている。かなり大降りだ。昼過ぎには止むという予報だったが、なお降り続いていた。その雨の中、少し買い物をする必要があったので、茂原まで。午後三時頃だったろうか。帰宅して、ネット番組を見ていたら、久しぶりに京都の二番目の姉から電話。前回は「体(肺)に異変があるが、薬物療法で」と伝えられた。その後、はっきりと「肺癌」なのだと聞いた。高年齢でもあり、あるいは痛みなどの辛い症状もないので、このままで、経過観察のためにMRI撮影には行くが、特別の治療はしないと言う。本人は言わないが、姪っ子によれば、来年の正月が迎えられるかどうかだ、そんな具合の状態だとも言う。本人は至って元気そうには(電話では)感じられたが、実際はどうなのか。相変わらず「たばこ」は吸っていると言う。気をもんでも仕方がないが、急変しないままで小康を保ってくれるといいが。「また、電話する」と約束して話を終えた。次姉はぼくより三歳の年長だ。(606) 

◯2024/06/22(土)昨夜は10時に就寝したのだが、起床は三時過ぎだった。猫の世話のため。それなりに睡眠時間が取れたつもりだったが、寝起きから「血圧」が異常に高いのが気になる。午前中に何度か測ったが、200を超える値が出ていた。昼休みを挟んで、外にもでないで、静かに挙措を謹んでいたので、夕方には180になり、夕食後には160台に戻った。まだまだ安心はできないので、今少し安静に過ごす必要があろうと自覚。▶本日はそれほどの高温ではなかったが、三十度近くに上昇し、湿度もかなり高い数値であった。よほど熱中症に対する注意も欠かせない。明日には本格的な雨になるそうだ。(605)

◯2024/06/21(金)本日は夏至。と同時に、どうやら関東地方も「梅雨入り」らしい。別に気象庁の宣言があったからではなく、その反対で「関東地方も梅雨入りしたらしい」という事後承認のような怪しい報道が通常。だから時には「予報」が狂うこともある。▶午前中に猫缶購入に土気に。HCに入ると、大雨の中、駐車場の工事中で、なかなか駐車場に入れなかった。にもかかわらず、平気な顔で商売をしているのが、気に入らなかった。溢れる利用車を誘導する人は地下駐車場には一人もいなかったので、空き場所を探すのに四苦八苦。▶買い物を済ませて帰宅する時には、かなり大降りの雨だった。この「梅雨入り」後の雨の降り具合が気になる。すでに各地で「線状降水帯」が発生し、多くの被害が出ている。▶夜9時半ころに、京都の次姉の娘(姪っ子)に電話。この間、なかなか姉とは繋がらなかったので、彼女(姪)に電話かけたわけ。姉が「肺癌」の病巣を抱えているが、その後どうなったかを聞くため。かなり病は重そうだが、年齢などのことを考えて手術もしなければ、新たな治療もしないということらしい。相変わらず「煙草(たばこ)」は吸っているという。痛みもあまりないとのことなので、このまま小康を保ち続けてくれればいいのだが。(604)

◯2024/06/20(木)終日自宅に。このところ頭痛が続いているので、「もしや」と血圧を測定してみたところ、相当に高い数値(初っ端は200を超えていた)が出た。数年ぶりの測定だったので、念入りに測ったが、それでも高い方は170~190程度が出る。低い方も100を越えている。原因は間食を好きなだけ摂取するという不摂生に尽きるだろうと思い当たる。二週間ほど前に、自宅前の空き地の草刈りをしたとき、初めてふらつきと頭痛が起こったことを覚えている。熱中症の初期症状かとも考えたが、そればかりではなく、「高血圧」状態だったのだ。以来、間断なく同じ状態が継続しているので、要注意の信号が出ていると判断している。(603)

◯2024/06/19(水)本日は好天。高温で湿度も高い。早朝に雨が止んでいるのを確認して、「ビン(ペットボトル)・缶」の回収作業を自宅敷地内で行う。回収袋を二枚(ビン・カン)取ってきて、それぞれに入れ、それを回収場所(近所のTさん宅の車庫脇)に持参。缶の方は一袋だけでは足りなかったので、もう一袋、これは回収時間の八時前に、入れる余裕があればと、送らせて持ち込む。7時半に確認すると、まだ余裕があったので、残りの空き缶を袋に入れる。ほぼ満杯になった、2ヶ月分だった。▶段ボールがずいぶん溜まっているので、これを償却する。あまりにも日差しが強くなったので、半分程度を残して後日に回す。それにしても、何かと要らないものばかりが増える生活ではある。(602)

◯2024/06/18(火)昨夜から、ほぼ終日降り続いている。外に出ることが出来ないほどの降雨で、朝の「生ゴミ出し」は瞬時で済ませたが、明日予定されている「ビン・缶回収」に合わせた事前持ち込みはまだ出来ていない。明日の早朝は雨も止むようなので、その時まで待機。前回の回収日にはうっかり時間を間違えて出せなかったから、今回はなんとか間に合わせたい。▶なかなか止むこともなく、夜の十時ころまで降り続いたか。「回収ビン・カン」の運び込みは、明朝早く(五時ころか)にすることにした。(601)

◯2024/06/17(月)午前中から段ボールなどを焼却。あわせて、今週の水曜日が「ビン・カン」の収集日なので、その準備。ラベル剥がしなど。前月は、一瞬の油断で時間が過ぎてしまったので、今回は2ヶ月分。相当な量になる。もちろん、猫缶がすべて。加えてノンアルビール缶など。また天然水の常用者なので、ペットボトルもかなりな量になる。で、廃物回収の量2ヶ月分。大量だな。▶そろそろ梅雨入り間近なので、本日は大屋根の裏庭側の樋を掃除した。とにかく土が樋に溜まり、そこに杉や雑草の種が堕ちて、芽が出ている。樋は詰まっていて、十分な水量を容れることが出来ないで、そのまま土の部分に落下している状態。まずは手始めに。この部分はほぼ清掃が済んだと思う。更に言うなら、樋に水を流してきれいに塵まで流し込みたいのだが。この作業は次回以降。▶珍しく、京都からY氏の電話。三ヶ月ぶりくらいだろうか。その意味は、なんとか夫婦は大過なく過ごしているということだったかもしれない。ほんの数分で終わったが、あるいは大事なことを言いたかった電話だったか。わざわざ、当方から聞くことでもないので、口出しはしなかった。なんとか無事であればと、願うばかり。(600)

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