この制度は「節税」、場合によっては脱税にもつながる、抜け穴「寄付制度」だと思う。「ふるさと納税」に全面的に反対するのではなく、その趣旨を活かすなら、もっと別の税制・寄付制度の工夫があってもいいし、それは可能だと思うからです。今日、制度創設から十五年を過ぎると、制度そのものが骨抜きになり、「当初の目的」は消えてしまったと取られかねない事態になっている。詳細は省きますけれど、本来なら居住地への納税金が、「ふるさと」という、耳あたりのいい修飾語で飾られることで、他自治体に「寄付」という仮面を被った「税金」として逃げているのが現状です。「納税して返礼品」とは極めて悪辣な冗談だと言えるでしょう。まさに「エビタイ」か。他国では〈To throw a sprat to catch a herring.〉とある。どこにもいるんですね、このような手合が。
◉ 週のはじめに愚考する (第弐拾五)~ 「強気を挫き、弱気を助ける(suppress the strong and help the weak)」が、官憲(the authorities)の生命線(存在根拠)だったという昔話を聴いたことがる。誰からだったか、残念ながら記憶にない。あるいは「大岡越前」や「長谷川平蔵(鬼平)」らの捕物や裁きに魅せられていた、若い日のぼくの錯覚だったかもしれない。大岡越前や長谷川某が活躍する社会や時代には「普遍性」がある。それほどいつの時代でも「悪が蔓延(はびこ)る」こと夥(おびただ)しかったから、作り物であれなんであれ、「勧善懲悪」を為政者は看板として掲げておく必要を感じていたのだ。その「看板」を庶人に見せたかったのかもしれぬ。肝腎なのは「看板」そのもの、でも、やがては「看板倒れ」になってゆく。いずれにおいても、その実「勧善懲悪」ならぬ「勧悪懲善」というのが実相だったのは否定できないのだが、腐っても「看板」、朽ち果てても「暖簾(のれん)」なのだ。(ヘッダー写真は「腐っても検察庁」の腐った看板。内部の回路は巡り巡って内閣府に通じているらしい)