
❑「日本の社会」像の半世紀後の変貌 今朝の三時台の「ラジオ深夜便」(NHKラジオ)で、題名に「東京」が付されている曲が何曲かかかっていました。今朝も三時起きしたのは、猫に煽られて。その一曲に「東京砂漠」という曲がありました。1976年5月に発表。クールファイブというグループが歌った(ソロは前川清さん)。ぼくは熱唱とか絶唱・絶叫は好きではないので、この歌を聴くのも好きではありませんでした。猫に食餌を出しながら、それとなしに聞いていた。(東京砂漠・作詞:吉田旺/作曲:内山田洋/編曲:森岡賢一郎)その前(71年だったか)にはいしだあゆみさんの「砂漠のような東京で」という曲があった。「砂漠」は一つの暗喩・隠喩(メタファ)でしょうか。まるで味気ないことを「砂を噛む」という。「あじわいやおもしろみが、まったくないたとえ」(デジタル大辞泉)人とのつながりも人の気持も徐々に砂に塗(まみ)れて、ついには「肩を寄せ合えるあなた」がいなくなると、文字通りの砂を噛む生活に苦しむのでしょうか。情緒などというと、笑われるかも知れないけれど、そんな人同士の「間」のない付き合いは、付き合いとは言わないのでしょう。

ぼくが上京したのが1963年3月。まだ東京は「砂漠」ではなかったが、薄汚れた泥と砂の街だった。直近に迫っていた「東京五輪(1964・10)」のために「表面化粧」に躍起になっていた時代。銀座にも新宿にも渋谷にも出かけたが、まったくなじまず、急いで帰宅するのが常だった。泥と砂の街の殺風景を消してくれたのが、当時ようやく聴き始めたクラッシクだった。案内人になったのが吉田秀和さん。彼にはたくさんのことを教えられた。グレン・グールドが天才であることをいち早く断言したのが吉田さんだった。彼の書く評論、ラジオ番組の語りも、機会を逃さずき読み、聴くようになっていた。同時に、音楽雑誌も背伸びをしながら読もうとしていた。「レコード芸術」「音楽芸術」などで、吉田さんの書かれるものを眼にしては、ぼくとしては熱心に読んだと思う。以下に引用した「音楽芸術」(82年11号)はよく覚えているし、一冊の本になった「物には決まったよさはなく」も、すぐに手に入れてむさぼり読んだことが懐かしい。
音楽評論では大きな仕事をされてきた吉田さんのエッセイからも、当時の人々のつながりの軟(やわ)さ、危なさが感じとれます。いわば、それはめずらしい日本人論であり、日本社会論でもあった。彼は今日の日本人の薄情さ、あるいは何事にも無関心をもって遣り過す精神(心もち)のありようを嘆いていたのでしょうか。(評論などの分野だけではなく、吉田さんは、この国の西洋音楽普及とその進展に、計り知れない貢献をされたと思っている)

「こんなに、お互いがよく似ていて、しかもこんなにお互い同士が、離れ離れの国もないのではないか。とすると、この国ではみんな、何を信頼し、どういう内面のつながりをたよりに、一つの社会をなして、平然と、平穏にその日その日を生きているのだろうか?」
はたして、この社会に生きている大多数の人びとは個人主義という意匠をもっているのでしょうか。そうではなさそうです。個人主義をどのようなものと解するか、そこから面倒な議論になりそうですが、問題はそこにはない。
「こんな話をしたら、日本人は、世の中が平穏だから、エゴイストの塊のように思えるかも知れないが、これでいざ国難来るとなったら、つまり日本の安泰が危機に立つとなったら、『一致団結、みんなのために戦いますよ』と元気よく受けあってくれた人がいた。そうなるというのも、また、それで私の心配のもとなのである」(『音楽芸術』82年11号)
「私は、この国の人たちは、急速に、一人一人が離れ離れ、何を軸としているのかも知らないが、人とのつながりにおいては、心が虚ろなまま、生きているような気がしてならない」という、吉田さんの指摘には、その中のひとりでもあるという意識を持ちつつ、頷いてしまいます。しっかりと個人主義に立脚しているのならまだしも、そうじゃなさそうだから、吉田さんは困惑しているのです。
まるで現地・現場に住み続けながらの「浦島太郎」のように、ぼくは実感している。上京して60年。その間、東京や都会が好きになったことは一度もない。「あなたがいれば辛くはないさ」という気分にはなれないのです。「あなたがいれば歩いていける」、それは無理というもの。ぼくは京都の「濃密(狭隘)な人間関係」に嫌気が差して、十八の時にそこを飛び出した人間ですが、東京にもぼくの休まる土地はなかったというべきでしょう。つまりは、東京ばかりが砂漠なのではなく、多くの都市が「東京のような砂漠」になったのではなかったでしょうか。「殺伐(さつばつ)」という言葉を見るだけで聞くだけで、怖気が襲ってくるように思う。「克伐怨欲(こつばつえんよく)」という四つの「悪徳」が、多くの都会の住人に巣食っているのはどうしてだろうか。「勝ち気、自慢、恨み、貪欲」の一つでも持ち合わせない人は幸いなるかな。

私は、日本の社会をなしているものが、まるで、膨大な砂の集団であるかのような錯覚をもつ。外からみると、それは大きく、重く積み重なって、いかにも手ごたえがありそうだ。それに、その巨大な塊(かたまり)は、どこをとっても同じものから出来ており、地質性、均等性において、問題ない集塊であるようにみえる。日本は、輿論としては、比較的よくまとまっており、― もっともその時々の情緒に強く引きずられ動くのは事実だが ― たとえば平和憲法には大多数賛成し、それでもせめて専守防衛の軍隊が必要ではないかという話が出れば、それを支持する人が過半数になる。少数の反体制派がいないわけではないが、一般には治安は世界でもまれにみるほど良好で、「大都市で夜、女が危険を感ぜず歩けるところなど、日本のほかは少なくなった」と人々はいうではないか。こんなに平穏無事によく治まっている文明国はない、というのは事実だろう。
だが、そのよくまとまった、平穏な社会の一人一人の成員をみていると、まるで、砂の塊を手ですくいあげた時のように、ぽろぽろと指の間からこぼれていってしまって、何も残らない。砂の粒一つ一つの間をつなぐものが一つもないからである。(吉田秀和『物には決まったよさはなく・・・』読売新聞社刊。1999年)
このような、吉田さんの指摘からすでに四半世紀が経過しましたが、事態はさらに急速に悪化の坂道を転げ落ちているようです。こんな社会にだれがした。もちろん、学校教育のせいだというのは簡単だけれど、はたしてそういって済ませられるかどうか。少なくとも、他者に対してそれなりの礼儀をもって関心を示すという態度はまったくといっていいほど、希薄になってしまいました。赤の他人はいうまでもなく、ついには親子、兄弟姉妹に対してまで、実に薄情になったものです、もちろんぼくを含めての現実をぼくは拱手傍観するばかりです。「人を人と思わない」という、悪魔のトリルが、いつでも奏でられているのが、かつての砂漠だった東京、「人工の街」なのでしょう。

●吉田秀和【よしだひでかず(1913~2012)】批評家。日本の音楽評論を批評の域に高める優れた批評的エッセイを残した。東京日本橋生まれ。外科医の父が小樽の病院長に就任したため,少年期を小樽で過ごす。小樽市中学で伊藤整に英語を習う。旧制成城高等学校をへて1936年東京帝国大学文学部フランス文学科卒業。成城高校時代に,中原中也からフランス語の個人教授を受けた。小林秀雄,大岡昇平らとも交遊関係があった。1946年,《音楽芸術》に《モーツアルト》を連載,本格的な批評を始める。1948年,斎藤秀雄らと〈子供のための音楽教室〉を開設,初代室長となる。〈子供のための音楽教室〉は後の桐朋学園音楽部となり,小澤征爾ら多くの優れた音楽家を輩出した。1957年,柴田南雄らと20世紀音楽研究所を設立,所長となる。1988年水戸芸術館館長に就任,1990年,すぐれた芸術評論に贈られる〈吉田秀和賞〉(吉田秀和芸術振興基金主催)を創設した。その間,音楽のみならず,和洋の文学,美術についての該博(がいはく)な知見を踏まえて,芸術全般にわたって精力的に批評活動を続けた。独,仏,英語に通じ,翻訳も数多い。《吉田秀和全集》第1期,第2期(全24巻,1975年―2004年,白水社)が刊行されている。文化功労者(1996年),文化勲章受章(2006年)。(百科事典マイペディア)
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