人の世にかなかなの啼く淋しさよ

▣ 週のはじめに愚考する (第弐拾八)~ ただいまは午前五時。室温は29℃。昨夜から今朝方にかけて、当地は強烈な雷雨に見舞われました。あるいは停電するかもと、早めにパソコンの電源を切っておいたが、過ぎてみればこともなく、でした。何とか停電ばかりは免れていました。それにしても強烈な雷鳴が一処にとどまって、ここを先途と轟きわたった。猫たちは、おそらく初めての経験だったろう、右往左往の怖がりようだった。外に逃げ出そうにも豪雨が降りしきっているので、どうにもらない。これほどのすごみのある雷鳴は、ぼくもかみさんも初めてだったかも知れない。梅雨明けの「洗礼」というのも癪な天候で、それこそ世にままならぬものの最たるものと、「地震雷火事親父」に入るのはうなづけますね。末端に坐す「親父」は遠くに霞んでしまっているけれど。

 梅雨が明ければ本格的な夏の到来と、順番はそうですが、とっくに夏は始まっている。猛暑が六月からで、その上に多湿のおまけまで付いて、老人の体力消耗は著しい。三日前の「いばらき春秋」に「カナカナ」が出ていました。記者氏が聴いたのは十五日(海の日)とか。ぼくもほぼ同時に、隣県の人間として「蜩(ひぐらし)」の哀調を耳にしました。それも早朝、家の隣の林からの「一声」でした。えっ、いまは七月半ば過ぎだよと、一瞬は驚いた。ぼくの経験・知識では夏の終わり、そう八月の中から末に聞くものと合点していたからでした。蜩(ひぐらし)は、季語としては「秋(旧暦)」だ。今はもう秋、誰もいない海 ♪、その「秋」。海の中も山の中も、すべての季節の巡りが狂っているのでしょう。四季ではなく、二季、それも夏と冬だけの寒暖差著しい季節に支配されたのが、この極東の小島です。

 ところが、「蜩」は六月ころから鳴いているそうで、ただ、ぼくたちは耳にその声を聞き止めていないだけのことのようです。都合よく利用しているのは人間の方で、蜩は「秋」だというのはその典型。「六月のカナカナ」では俳句にはならぬとでもいいたげですね。俳句が先ではなく、季節に誘われているのが俳句だと、当たり前を忘れたくないね。

【いばらき春秋】海の日の3連休は梅雨空に戻り過ごしやすかった。夕方、草刈りを終え、ビールを片手にすがすがしい庭を眺めていると、「カナカナ」と哀愁を帯びたヒグラシの鳴き声が聞こえてきた▼漢字で「蜩(ひぐらし)」と書き、俳句では秋の季語である。小学生の頃、夏休みの終わりを告げるかのような物悲しい響きに、たまった宿題をどうしようかと憂鬱(ゆううつ)になった思い出がある。1年を72に区切った七十二候(しちじゅうにこう)だと、「寒蝉鳴(ひぐらしなく)」は8月12~17日ごろ▼日本人は古くから涼しげな虫の声を好んだ。NHK大河ドラマ「光る君へ」に登場する清少納言は、枕草子で「虫(で趣があるの)は、鈴虫、ひぐらし、蝶、松虫、こおろぎ、きりぎりす、われから、かげろう、蛍」(現代語訳)と書いた▼先週、大子町で38.1度、筑西市で38.2度を観測する厳しい暑さが続いた。猛暑の一服にヒグラシも秋と間違えて鳴いたのか▼散歩の途中、すっくと伸びたタチアオイが白紫色の花を咲かせ、隣で数輪のコスモスの花が風に揺れているのを見た。夏と秋が同居する不思議な光景である▼そういえば「ミーンミンミンミーン」とやかましい鳴き声をまだ聞いていなかった。「蝉(せみ)」は夏の季語。間もなく梅雨が明けて本当の盛夏が始まる。(山)(茨城新聞・2024/07/18)

● ヒグラシ(ひぐらし / 蜩)[学] Tanna japonensis = 昆虫綱半翅目(はんしもく)同翅亜目セミ科Cicadidaeの昆虫。体長は雄32~39ミリメートル、雌23~28ミリメートル。体は黒色で、茶色や緑色の斑紋(はんもん)がある。雄の腹部は大きく、空洞で、発達した共鳴室となる。雌の産卵管は腹端を越えない。はねは透明で、脈上に多くの暗色紋がある。雄の腹部第3、第4腹板上には各1対の小さないぼ状突起があり、これがヒグラシ属の大きな特徴である。北海道、本州、四国、九州、琉球諸島(りゅうきゅうしょとう)、朝鮮半島、中国大陸に分布する。7~9月に出現し、平地から山地にかけての薄暗い林中にすみ、明け方や夕方に独特なキキキ……という高い声で鳴く。聞きようによっては、カナカナ……とも表現され、カナカナの俗名もある。/ 琉球諸島にはヒグラシによく似たイシガキヒグラシT. j. ishigakianaのほか、近縁の属に大形のタイワンヒグラシPomponia linearisが知られる。(日本大百科全書ニッポンニカ)

 「いばらき春秋」を読んでいて思いました。隣県とは距離にしてどれくらいか。大したものではないにもかかわらず、「散歩の途中、すっくと伸びたタチアオイが白紫色の花を咲かせ、隣で数輪のコスモスの花が風に揺れているのを見た。夏と秋が同居する不思議な光景である」とありました。わが拙庭の「立葵」はとっくに盛りを過ぎて、花は朽ち、幹はすっかり枯れている。「夕方、草刈りを終え、ビールを片手にすがすがしい庭を眺めていると、『カナカナ』と哀愁を帯びたヒグラシの鳴き声が聞こえてきた」と。でも、当地ではそうならない。草刈りを終えても『ビール片手』はないし、「すがすがしい庭」など見たくてもみられない、とまあ、よしなしごと(御託)をいくつ並べても仕方がありません。

 「蜩」は「それだけで「セミ」とも読ませますから、たくさんの蝉類の代表だったかも知れないし、この蝉の異称の多さは群を抜いているのも不思議です。「」「茅蜩」「秋蜩」「日暮」「晩蝉」などなど呼び名の多彩さを愚考しようとしているのですが、いささか寝不足の気味もあって、面倒くさいのでここではしません。「強烈な雷鳴」に怖気付いた猫が家の中で泣き出しているし、外は大雨。その恐怖心を宥(なだ)めるのに、側につきっきりだったからです。おそらく二時間は続いたと思うほどに、間近で轟いた。幸いに落雷はなかったし、停電もなかったから、少々の寝不足は「お駄賃」みたいなものかも知れません。

 それにしても、今は季節でいうと何時になるのでしょうか。冬や春でないことは確か。夏かと思えば夏、いや秋かと思えば秋かもなあと、至って頼りないのです。日本近海の魚の群れにも異変が生じているそうです。北海道や東北の漁港では、穫れるはずもない魚が大量に穫れ、お目当てのものはまったくの不漁だとか。これだけ海水温が高ければ、さもありなんと思う。魚の餌になるプランクトンからして、その異常高温に絶えきれないで死滅するのでしょうから、それを栄養源としていた魚群がいなくなるのは当然だし、仮にプランクトンがいたとしても量的に減少するのは不可避ですから、畢竟、魚の成長は止まるという始末になります。

 海中も陸上も季節の巡りは異変続出です。熱波やハリケーンの来襲はところ選ばず、猛烈を極めています。世界各地では山火事が異常に発生。北極や南極の氷塊も溶解著しいものがある。かかる「災害」や「災厄」の直接間接の原因の多くは知られているにもかかわらず、あまりにも規模が大きくて、人智では施すすべもないと言ったところでしょうか。温暖化の防止策を取り入れたとして、この先、何百年を要するのか。その前に地球環境は大半の生物の存在を許さない事態を迎えているかも知れません。

 フィリピン沖に「台風発生」かと天気予報。今年はたくさん劣島に来そうです。今から用心するに越したことはなさそうでうすな。

七十二候のうちの)
31.小暑初候/温風至 7/7〜7/12頃
32.小暑次候/蓮始開 7/13〜7/17頃
33.小暑末候/鷹乃学習 7/18〜7/22頃
34.大暑初候/桐始結花 7/23〜7/27頃
35.大暑次候/土潤溽暑 7/28〜8/1頃
36.大暑末候/大雨時行 8/2〜8/7頃

 「カナカナ」「蜩」の句をいくつか。膨大な数がありそうです。ぼくには読み(数え)きれません。この「対象」、誰もが詠みたくなる「魅力「魔力」があるということでしょうか。あるいは「散る桜」に重ねられているのかも知れません。以下、ランダムに出してみましたが、その詠みようはさまざまであり、尋常一様ではないところ、俳句の奥の深さでしょうか。(家の猫達は、連日のように蝉を加えては帰ってくる。よく見ると「カナカナ」も。「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」どころの話ではない。「地中何年、地上何日」、その数奇な生涯を生きる「セミ」を弄んでいるのです)

・蜩は寂しと幼な心にも(上野泰)
・人の世にかなかなの啼く淋しさよ(後藤比奈夫)
・かなかなや故郷は風の沙汰なりし(細谷てる子)
・朝蜩ふつとみな熄(や)む一つ鳴く(川崎展宏)
・ひぐらしが啼く奥能登のゆきどまり(山口誓子)
・一夜寝て暁ひぐらしを枕もと(橋本多佳子)    
                                              

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露悪趣味(X)の時代、真っ盛り

 ぼくはスマホも携帯も持っていませんし、SNSに関してはまったく興味なし。今なお、固定(加入)電話で事足りている。いずれ、近い将来、NTTは固定電話を廃止するだろうが、そうなれば、いよいよぼくは窮するというのではない。そうなればなったで、なんとか糸電話を作って、それで用の済む範囲で生活するだけです。それにしても、時代も社会も軽薄が主流に、虚偽が底流に、そんな風潮がいよいよ深まりました。洋の東西を問わず、SNSを愛用・多用・誤用している人はどれくらいいるのか。天文学的数字に上るだろうし、そのすべての情報を根っこでガッチリと把握している存在があることを知らないのではない。歩けば防カメ、座ればX。なんとも、SFの世界じみてきましたね。(昨日は世界中でネットワーク障害が多発しました。テロでないことだけは判明し、一安心でしょうが、飛んでいる飛行機が接続障害で墜落なんて、悪い冗談が過ぎます)

 それにしても、人間にはよほどの「露悪趣味」の傾向があるのだろうか。どうして自ら率先して「私はこういう人間です」と誰彼構わず言いふらしたいのでしょうか。まるで自分の「裸体」を見せびらかしているようで、とても不愉快な気分に襲われます。YouTubeなども、その典型。どうして、なんでもかんでも(ではないけれど、そう言いたくなるほどの悪趣味)見せたがるんだろうか。その「露悪趣味」に付き合うもの(フォロワー)が何万何十万であることを誇りにしている向きがほとんどか。ぼくはSNS参加を卒業生から誘われたが、「なんでそんな無駄なことをしなければならぬか」と断った。その「X」に関わっては言いたいことはほとんどないが、ネットを開ければ、嫌でも目に入るので、ほとほと困る。「あいつは馬鹿だ」と根拠もなく公言するのは犯罪だろうし、それを見て見ぬふりをするのも共犯に近いと思う。短文(言葉足らず)で、しかも「刺さる表現」を工夫するとなると、勢い舌足らず、知恵足らず、思い遣り足らずの、「三足らず」。刺激臭の徒(いたずら)に強い「非難」や「罵詈雑言」になるのは避けられない。そんなものが「バズって」何なんですかいな。

 今や老いも若きも、この「X」に狂っているというほかない。なにが楽しいのだろうか。何が悲しいのだろうか。いい歳をした「大人」が「あれはどうか」「これはいかが」と、一言(ツィート・エックス)する、その趣味が理解できませんね。おせっかいではなく、露悪と覗きの趣味の合体かもしれぬ。ある人の行動を「一刀両断」したつもりだったのに、実はその刀は「竹光(たけみつ)」だったという漫画以下の醜さが横行しているようです。ある人たちは、この現象をして「自己承認欲求」の行為だという。そうかも知れないが、それでその人の何が「承認」されるのだろうか、ぼくには大いに疑問、いや、わからんね。

 今の段階では「X」は一次関数だから、問題の弊害は単純です。真偽、虚実はたちまちのうちに明らかになるからです。しかし、次には2次関数になるのは避けられず、問題(虚偽情報)は込み入ってくる(陰謀論?)。真偽定かでない情報(X)をそのまま見捨てれば問題はそれほどでもないが、それを、真偽を弁えてか、弁えないでか、拡散したくなる欲求もまた根強いものがある。「疑わざる、これ病なり」とは臨済禅の至言だというが、誰だってその真意は理解している。どんなものでも関心を持ち、疑いを持たなければ、問題として自分のところにはやってこないのだ。

【日報抄】「息子がタンスの下に挟まって動けません 私の力では動きません」。ことし1月の能登半島地震の際、X(旧ツイッター)にこんな投稿があった。能登地方の住所も書いてあった▼目にした人が地元警察に通報した。警察が駆けつけると住民は無事だった。「こんな情報は流していない」とも語った。元々の投稿は削除されたが、それを貼り付けた投稿はその後も確認され、拡散された状態になっていたという▼能登半島地震についての調査では、交流サイト(SNS)利用者の42・7%が真偽不明な情報を見たと回答した。うち25・5%はその情報を拡散したという。総務省が2024年版の情報通信白書で報告している▼現代人は日々、大量の偽情報に囲まれている。それをうのみにしたばかりに損をしたり、周囲を傷つけたりすることもある。有益な情報を教えてあげたいとの善意に基づく場合も、もとの情報が誤りなら拡散に手を貸したことになる。トランプ前米国大統領の暗殺未遂事件を巡っても大量の偽情報が拡散された▼「疑わざる、これ病なり」。臨済宗の開祖、臨済禅師の言葉という。禅僧の有馬賴底(らいてい)さんが著書「真贋(しんがん)力」で紹介している。まずは一度疑ってみる。その情報の真贋について自問自答してみる。そんな姿勢が偽情報にだまされないための第一歩なのだろう▼総務省の有識者会議は、恒久的な対策の制度化に向けた案をまとめた。関連法の整備などを進める。そういう時代を生きていると自覚せざるを得ない。(新潟日報・2024/07/20)

 「オレオレ詐欺」は今なお勢いを衰えさせてはいない。よほど、人間は騙されやすくできているのか、いとも簡単に信じやすいのか。「明日の朝、大きな地震が来るから、今のうちに避難しておけ」と告げられても誰もはそれを疑うか、真に受けようとはしない。しかし、SNSやXで多用されている情報の相当な部分が「虚偽」だと知りつつ、それがどうしたと受け入れてしまう。そんな安気な他者判断や情報拡散が、他人を傷つけ、名誉や人格を毀損していることを意に介さないという、悪しき風潮に上を下への大童。こんなバカバカしい「ゲーム」「不真面目な遊び」が、時代や社会に、それなりに嵌められていた箍(たが)(歯止め)を著しく破壊していることは間違いない。傷つきながら、傷つけられながら「生きていく」のは辛いこと。たった百字の「愚論」に即刻反応するのも愚だというしかない。タイパだコスパだと「短慮」の極を撒き散らしていては、身も世もないと思うが、どうだろうか。

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 《つくづく日本人は劣化している。たかがタバコで何を騒いでいるのか。麻薬じゃないんだぞ!!︎ 規則尽くめの杓子定規が日本をダメにしてきたのだ。こんな些細なことで19歳の夢を潰すつもりか!》(自分では「日本人」ではないらしい元都知事猪瀬某のXより)(違法・脱法のすすめですか。維新議員さん。劣化の右代表だと思うね)

①《ザ蓮舫さん、という感じですね。支持してもしなくても評論するのは自由でしょう、しかも共産べったりなんて事実じゃん。 確かに連合の組合組織率は下がっているけど、それは蓮舫さん支持しなかったかではないでしょう。自分を支持しない、批判したから衰退しているって、自分中心主義か本当に恐ろしい》②《うん!? 恣意的!? 現代の社会規範ではそれが難しいから先進国の少子化に抜本的な対策はない、ということの例示に使っているだけだと、この記事読むと書いてあるけど、だそうです、じゃねーだろう。読解力ないのか?》③《これまでの私の投稿に不適切な表現がありました。ご指摘を受け止めて猛省するとともに、関係する皆様に深くお詫び致します。》(いずれも今野某・朝日新聞政治部記者)(けちくさい「自己顕示欲」の発露なんでしょうか。猫も杓子も「自分は偉いぞ」「私は凄い」と売り込んでいるんですかあ)

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 たまたま目についたので、醜悪な「X」の一事例として出しておきます。これは「つぶやき」「言葉の飛礫(つぶて)」だというが、その石ころは狂気になることもある。「言葉は人を殺す武器」だから、あくどい、醜悪な言葉を選ぶのか、それとも人間が軽薄だから、考えなしに「凶器となる言葉」を使うのか。こんな有り様では「●×に刃物」というほかないじゃないか。単純素朴に「書くべきことを書く」「言うべきことを言う」という初心に戻ることでしょうね。それがわかれば苦労はいらぬが、ですか。 

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捨てる紙あれば拾う紙あり

【日報抄】新聞は情報を伝えるメディアだが、読み終えても使い道がある。野菜を保存する際に包んだり、窓を拭くぞうきんの代わりに使ったり。細かくちぎって、絵の材料にする人もいる▼奈良県の木村セツさんは夫を亡くした直後、90歳で新聞ちぎり絵を始めた。野菜や果物、料理など身の回りにあるものを、ちぎった新聞紙で描く。新聞に携わる者としてうれしくなり、新潟市北区で開かれている原画展に足を運んだ▼素朴で優しい風合いの作品が並んでいた。ころんとした里芋は皮のけば立ちまで伝わってくる。皮に見立てたのは、紙面に載ったマツタケの写真。その軸の部分を使った。そう言われてもすぐにはピンとこないほど、皮のごわつきが見事に表現されていた▼材料にするのはカラー印刷の写真や広告が多い。作品のイメージに合わせてちぎり、のりで貼り付ける。アップルパイの作品は皮の照り感がおいしそう。光沢に見えたのは白い文字列だった。「サイトもチェック」。広告の文句のようだ。言葉を伝える文字が貼り絵になると模様に変わる。くすりとさせられる▼作品を孫がツイッター(現X)に投稿すると人気に火がついた。それまで趣味もなく、家業と家族の世話に尽くしてきた女性が手慰みとして始めたものが輝きを放つようになった。作品集の出版を手がけた里山社(福岡市)の清田麻衣子さんは「多くの人の希望や励ましになると感じた」と話す▼木村さんは、ことし95歳になった。元気に創作を続けているという。(新潟日報・2024/07/18)(左上写真は毎日新聞による)

 こういう九十五歳がいると、人生(人間)は限りもないなあ、とほとほと感心します。「それまで趣味もなく、家業と家族の世話に尽くしてきた女性が手慰みとして始めたものが輝きを放つようになった」と評されています。ぼくがいつも感じたり、感心したりするのは、このような「木村セツさん」は、至るところにいるのではないですか、そういうことです。「人知れず」、あるいは「人に知られないで」という「生き方の流儀」といえば大げさですが、そんな生活に明け暮れしている人はたくさんいると思う。先程(前のブログで)、毎日新聞は「窮地に追い込まれている」のではないかという駄文を綴ったばかりですが、こんな新聞紙の使われ方があるというのですから、諦めないで、と言いたくなる。

 たまたま木村さんは、いくつかの要因が重なって、世に知られるところとなった。でもそうではない人のほうが圧倒的です。知られれば嬉しいということもあろう。でも、「人知れず」ではあっても、基本を粗末にしない生き方を重ねておられる人もいるのです。余り好きな言葉ではありませんが、「淮南子(えなんじ)」(全漢時代の哲学書みたい)に「「陰徳有れば陽報有り」という一節があります。別の表現では「善因善果」でしょうか。問題は「陰徳」を積むこと、すなわち、人知れず隠れた善行を生活の基本に据えることです。やれる範囲で、間違いは犯さない。過ちは改める。人の助けになるなら、それを拒否しない、それだけの行いが、仮に十年、二十年続けば、それ自体が「陽報」であり「善果」と言えるのではないでしょうか。

 ぼくが知っているお年寄りで、それこそ、ひとり黙々と道路脇の草を刈り取っている人がいます。誰に頼まれたわけでもなく、交通の妨げになるから、あるいはむさ苦しいからというので無償奉仕をされている。もう何年も続いているのだ。また車からゴミ袋を放り捨てる輩が後を絶たないが、回収袋を手に持って、それこそ、汗をかきながらゴミを拾い続ける人もいます。ぼくは、いつだって「この人を見習いたい」と自らに言い聞かせているのです。とてもぼくにはできない「活動」だと想いつつ、ぼくには何ができるかと思案しながら生きている。「人に知られないで」というところが「功徳」にもなるのでしょう。

 木村セツさん、九十歳からの才能の開花です。人に知られるのは「偶然」でもあり、「結果」でもあるでしょう。肝腎なのは、孤独を託(かこ)つのではなく、自らを慰めるための作業だったこと。それだけで十分に木村さんの孤独は癒やされたのかも知れません。しかし、「多くの人の希望や励ましになると感じた」という出版社の目論見は図星であった。こんなことができる、こんなことをしている九十五歳がいると、それこそ多くの人は惹きつけられ励まされたのでしょう。それもまた一つの運命みたいなもの。この影響で、新聞を購読してみようという人が増えないとも限らない。

 結論はない。あえて言うなら「捨てる神あれば、拾う神あり」、いや「捨てる紙あれば、拾う紙あり」で、どんな新聞紙でも十分に役に立っていますよと、新聞紙があることを生きがいにしている購読者もいるのだと、M新聞にメーッセージを送りたかっただけ。

 「てるあればあり=自分に愛想をつかして相手にしてくれない人もいる反面、親切に助けてくれる人もいるものだ。困ったことがあっても、くよくよするなということ。捨てる神あれば助ける神あり」(デジタル大辞泉)         〈When one door shuts, another opens.〉

(左新聞は東京新聞・2019/09/22)

(参考までに)「知人から以前、いわき市の作家、吉野せいの短編集「洟(はな)をたらした神」を薦められた。しかし当時は、女性の一代記的な触れ込みに古くさい印象を受け、読むことはなかった。その後、偶然に彼女の文章に触れ、先入観が崩れた。少し硬質な文章が、潔く新しく感じられたのだ。/そして最近、別の知人からも「洟をたらした神」を薦められた。今度は映画版だった。再挑戦するつもりで映画を見、原作を読み、その舞台を訪ねた。

 吉野せいは、1899(明治32)年に現在のいわき市小名浜で生まれ、同市好間町で農業を営み、晩年に家族との農村での生活を描いた短編などを残した作家だ。「洟をたらした神」は、その一編の題名で、彼女が75歳の年、1974(昭和49)年に刊行された短編集のタイトルにもなった。短編集は、せいが、開拓農民で詩人でもある吉野義也(筆名・三野混沌(みのこんとん))と結婚した少し後の22(大正11)年から、同書出版直前の74(昭和49)年まで、半世紀の出来事とその折々の心情をつづった16編が、時系列順に並ぶ。(後略)(福島民友:https://www.minyu-net.com/news/detail/2021051712054

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「背に腹は代えられぬ」と?

 次はどこになる予定ですか。「背に腹は代えられない」というが、毎日新聞社はこれまでもいくつもの「背」を犠牲にしてきました。印刷は公明新聞のものを借りているとか、本社ビルは賃貸であるとか(これは事実かどうかわからない)、ともかく新聞社の体裁をなしていないで、ここまで続けてきたのですから、いわば涙ぐましい精進だったというべきか。何人かの知人や友人が記者として勤務していたこともあるし、このぼくが三十年ほど前に、二度ばかり寄稿を求められ、一つは「エコノミスト」誌に、他は「英字新聞」に掲載されたこともあった。依頼してきた記者は教育問題ではなかなかの見識を持っていた方でした。

  毎日新聞、富山での配送9月末まで 全国47都道府県で初の休止 毎日新聞社は富山県内に配送した17日付の北陸版で、同県内での新聞配送を9月末で休止すると発表した。/同社社長室広報担当によると、同社が全国の都道府県で配送を休止するのは初めて。同県内での発行部数の減少傾向や、印刷や輸送コストの増大で、「配送体制を維持することが難しくなりました」としている。/10月以降も富山支局は残し、取材体制は維持するという。(以下略)(朝日新聞・2024/07/17)

 富山への配送休止というニュースを聴いて、最も驚いたのが、現在配送部数が富山全体で「840部」というものだった。「桁違い」の少なさに腰が砕けたのでした。印刷や配送を含め、大枚の人件費を費消して「840部」、まさに社会奉仕事業だったのかという気もして、泣けてきました。富山だけがダントツで「毎日嫌い」「毎日不人気」なのか、いやそれは右代表で、似たような県はいくつもあるのか。実態は知っていますが、ここでは述べません。

 「腹(本丸)」を守るためには、出先は切り続けるという、その端緒だと想います。あるいは「トカゲの尻尾切り」かな。次はどこが候補地になっているんですか。それにしても「新聞の凋落」は釣瓶落としの勢い。宅配新聞制度は風前の灯ですな。でもなくなりはしないでしょう。三日遅れの便りでも、届けば嬉しい人もいよう。まるで都はるみさんの「涙の連絡船」並の健気さでした。包み紙に重宝している人もいるのだし。

 これも四十年以上も前の話。ぼくは町内会の新聞を隔週ごとに出していたことがある。部数は約200部。たった一人で取材や編集をして配達していました。町内会長のボランティア活動でした。若かったし、暇もあったので、そんな余技を楽しんだのかも知れない。何を書いたか、すっかり忘れたが、きっと「バカ話」は欠かさなかったと思う。おかげさまで住民とは仲良くなったが、仲違したこともあった。町内会はマンションの住民で構成されていた。犬や猫などの動物は禁止だったが、それでも自宅内で飼う人が多かった。ぼくのところも、子どもが保護猫を連れてきて、それが近所に知られることになった。「会長が猫を飼うなんて困るじゃないか。それなら、俺はベランダでライオンを飼う」「鶏を百羽、飼うぞ」と凄(すご)まれた。正直に「飼えるものなら、どうぞお飼いください」と言ったから、大変なことに。

 幸不か幸か、ぼくは大きな病気をしたので、田舎へ転居することになった。佐倉市は、その当時は鹿なども森にはいた時代だったが、今では、その森はすっかり開発され、見渡す限りの住宅地に(ユーカリが丘という名称)。それはともかく、全国紙だの大手五紙だのと、勝手な看板を掲げてはいましたが、いまはもう「黄昏時(たそがれどき)」です。時代の流れですね。拡販競争が懐かしいとは思わないが、強面の兄さんたちを使ってまで販拡競争をしていた「付け」が回ってきたとも言えます。この先、いくつもの新聞社は雪崩をうつように、同じような事態に追い込まれるでしょう。でも、必ず新聞紙は残る。それがなくなれば、物を包む紙に不自由する人がいるからです。新聞で切り抜きをする人も相当にいるのです。

 全国にいくつの新聞社があるのかわかりませんが、その大半は立派な「社屋」を構えているのはどうしたことか。これこそが新聞社の「腹」であって、購読者などは、あまたある「背」の一つに過ぎないとでも考えているのでしょうか。これまでにたくさんの新聞記者諸氏諸先輩と交流を持つことができました。もちろん、極めて少数とは言え、尊敬おく能わざる人士もおられた。その面影を偲ぶと涙が出てくる。でも、そうでない御仁が圧倒的だった。理由は簡単。新聞記者は、可哀想にも「自分はエリート」だと錯覚していたからです。本来のエリートなら、錯覚なんかしない。謙虚を絵に書いたような、でも腹には「一物」、口に「一家言」、そんな人を思ってみます。

 「腐っても鯛」「冠旧けれど沓に履かず」「沓新しけれど冠にあげず」、いずれも「背に腹は代えられず」でしょう。腐ったら鰯になることはない、腐っても鯛は鯛、それだけです。「腐っても鰯」は、当たり前だから誰も言わない。新聞は鯛か鰯か。読者によって「鯛」にも「鰯」にもなると言っておきましょう。ネット時代の到来で、新聞は鰯、すぐ腐る(旧聞)と判じる人が増加中です。それだから、寄らば大樹の影、その姿勢が見え透いているから、そんな根性のない姿勢や態度を毛嫌いする人、憎悪する人が増える。ならばもっと「大樹の影」に、となるのかも知れない。もう破滅寸前。ぼくの実感では、これはこの国の実情に瓜二つ。国も破滅寸前です。

 全国紙は、やがて合同・合併するんじゃないですか。まるで銀行などと同じ軌跡をたどっている気がします。まず「讀賣朝日新聞」に。次いで日経毎日新聞。最後には「讀賣朝日日経毎日新聞」に。略して「YANM新聞」とでもなるのかしら。敗戦時に再出発したと言えるなら、新聞の命数なんて高々八十年。(産經新聞、あれは、正しい意味で「新聞」でしょうか)(左上の調査数は1年半前。現在はさらに凄いことになっています)

 でも「再生紙」というくらいですから、「死して後已む」ですよ。「仁政」はとてつもなく困難な政治です。だから、それを願って願って、一途に精進すること。死んで初めて終わる、そんな遠大な仕事なのだ」ということでしょう。新聞にもその気概があってほしいと、ないものをねだってしまう。購読者に背中を向けた報いだと言えば、怒られるでしょうか。ぼくにとって「余録」が読めなくなるのはさみしいと、一応は言っておきましょうか。

 「論語-泰伯」の「曾子曰、士不以不弘毅。任重而道遠。仁以為己任。不亦重乎。死而後已。不亦遠乎」によることば ) 命のある限り努力し続ける。(精選版日本国語大辞典)

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「世界で一番の都市東京の確立」

 まえがき 昨日の続き(「東京砂漠」)のような駄文になります。「砂を噛むような」味気ない日々の中で、個々人は精神の貧困を病んでゆく。今回の都知事選に限らず、これまでの多くの都知事は「東京を世界一の都市に」と、まるで風船玉か気球を飛ばすように、方々で叫んできた。町内一の金持ち、学校で成績一番、東京で一番地価の高いマンション、アジアで一番アホが揃っている国、そして、挙げ句に「世界一に、とにかくなりたがる病気に罹患している知事や官僚が多い都市」と、もう手に負えない「一番病」の激しい症状はどこから来るのか。その病原(病因)はどこにあるのか。はっきり言えることは、第一に、精神の貧しさ(がそうさせているのだ)ということ。

 これまでに、ぼくの周りにもたくさんの「一番病患者」がいました。それに対して腹の底から「可哀想な愚か者」という感想がぼくの胸中から消えることはありませんでした。ぼくは「一番」になる気力も才能もなかったから、その病気を羨むことはなかった。「一番」という尺度に、どんな、なんの根拠があるんですかという疑念がつきまとったのです。「親切」「勇気」「正直」、この人間の品性においてこそ、欠けることのないように、それがぼくの「生き方の流儀」を作ってきた。(右は鶴見良行さんの「バナナと日本人」で、1982年刊。一読、大変な衝撃を受けました。「脱亜入欧」という偽りの「欧米化」をこんな形で実践している日本人企業は、儲かるなら何でもする禿鷹(死の商人)のようでもあります。実態は、この四十年で、どれほど変わったのか、変わらなかったのか。「世界一」の程度がこの悪行ではお里が知れますね)

 本日、最初に引用した神島二郎さん(1918~1998)。政治学者・政治思想家であり、たくさんの「日本社会」論、「日本人」論も書かれた。「日本人の発想」もその一つです。「公私の別」とか「本音と建前」という日本人の社会的習性・習俗に大きな示唆を与えたものでした。改めて、現在の地点でこの「日本人の発想」を読んでみると、当時とは別個の感想が湧きます。社会や集団の規模が大きくなれば、それだけ、その構成員の、言う事とすることが重なりにくくなる。あるいは思ったとおりに行動すれば、集団内で軋轢を起こす。その一例です、「内部告発」を実践すると、多くは他者から顰蹙を買い、告発者は潰されるでしょう。「内部の恥を外にさらすなんて」とか。集団をよくしようという気持ちがストレートに出ると、大変に迷惑を被る人間が出てくるからです。現在進行形の「兵庫県知事告発」問題などは「本音と建前」の別を突き抜けているから、告発者は死に至らざるをえなかったのかも知れません。問題は「集団・社会の規模」にあることは自明です。「大きいことはいいことではない」のです。

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公私の別―タテマエとホンネ どこの国でも、人間の社会には、その社会を運営するためになんらかの制度があり、なんらかの制度がある以上、制度にあてはまらぬことがあるのも当然である。そこで、それを制度に組み込むための制度的な論理を用意して持っているのが普通である。よく「規則があれば例外がある」というが、それも組み込みのための一つの論理である。しかし、それ以上に、もっと安全な組み込みの論理を用意していることが望ましく、また、そうしているのが普通である。制度と運用とか、理論と現実とか、しばしば対にして使われることがあるが、そこには、制度はイメージの上での制作物であってかならずしも現実にそのままあてはまらぬことが、暗黙の内に示されている。

 個人の側からこうした制度を見ていくとき、制度が約束事である以上、それはタテマエであり、タテマエ化された制度の背後には、ホンネが動いている。タテマエは公的に認められたものだが、ホンネは「じつは」という形で出てくるもので、私的な動機がはたらいている場合が多い。だからといって、まったくそれは私的なものといいきるのは誤りで、タテマエにそぐわない公的な動機がはたらいていることもある。もっとも公私混同や公権濫用があるのはホンネがタテマエをくずした場合で、公私の別は厳正であるべきだということ自体がじつはタテマエで、そこにも、厳正でありえぬホンネがまつわりついている。(神島二郎『日本人の発想』講談社学術文庫版。1989年)

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 制度はタテマエ(「政治に金がかかる」)なら、人情はホンネ(「裏金があるのは当たり前じゃん」)にもとづく。罪を憎んで人を憎まず。これもまた、ホンネとタテマエの関係のなにがしかを語っています。犯罪は法によって裁かれるべきだけれど、その一方で、処罰は人情において忍びがたいという判断(情状酌量)は世間にはいくらでもある。義理が廃(すた)ればこの世は闇だというのはどうでしょう。義理と人情の男の世界とは、その昔のある映画会社のモチーフでもありました。「義理と人情」という場合、義理はタテマエ(嘘)で、もちろん人情はホンネ(実)です。そして「義理と人情の板ばさみ」とは、たがいが相対立し葛藤する状況をさしているでしょう。個人の尊厳だとか、人間性の尊重だというのは、タテマエとして語られます。しかし、その実態は、あらゆる空間での「いじめ」というホンネが陰湿に横行しているのです。

 さて、ここまできて、日本の学校教育は「ホンネとタテマエ」のいずれを価値ありとしてきたでしょうか。言いたいことはっきりと言いなさいと勧めてきたかどうか。「あんまりほんまのこというたらあかんで」と教えてきたか。それとも…。ある意味では当然のようですが、タテマエの強調はホンネの抑制となります。言いたいことも我慢して、それが男の子だろ、とか、あまり余計なことはしゃべらないのが、女の子のたしなみです、このように言われて怯(ひる)んでしまった人もたくさんいるんじゃないでしょうか。かくして、陰口が堂々と蔓延(はびこ)る社会になったのですね。

 タテマエはいつでもタテマエであり、ホンネはけっしてタテマエにならないかどうか。これもよく考えてみれば一様でないことがわかります。江戸のタテマエは長崎のホンネで、ところ変われば品も変わります。価値の顛倒(てんとう)はいつでも生じるのですから、おちおちしていられない。一つの価値観(主義や信条)にしがみついてはいられないことになります。

● タテマエとホンネ(たてまえとほんね)= 建前(家の棟上げ、表向きの方針、原則)と本音(本当の音色(ねいろ)、本心)。理念的な文化と制度的な文化、規範的な行動と現実的な行動との対照をさしている。社会学者者作田啓一(さくたけいいち)(1922―2016)によれば、普通、社会体系の外側にある理念的文化(あらゆる状況を通じて意味の一貫性を保持しようとする文化)が、タテマエとして尊重されるが、それは、社会体系内の状況からの要請を入れて現実と妥協し、制度的文化となる。生活上の実際の行動を動機づけるのは、ホンネとしての制度的文化のほうである。日本のような後者が相対的に優位を占める社会では、タテマエ・ホンネ間の相互浸透や両者の使い分けが顕著であるという。文化人類学者我妻洋(わがつまひろし)(1927―1985)に従えば、内面的な一貫性に価値を置くアメリカ人も、実際にはアド・ホックな(その場限りでの)解決法をみつけようとするし、また二重基準を設けて現実のタテマエ化を図っている。しかし英語にタテマエ・ホンネにあたる語はない。(日本百科全書ニッポニカ)

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 小池百合子氏の第一声…「世界で一番の都市に」 時代は毎日変化をつづけており、立ち止まる余裕はない。東京は常に良くならなければならない。大目標は世界で一番の都市東京の確立だ。命を守る、暮らしを守る、経済を守るだけではなく、発展させる。(読売新聞・2024/06/20 )

 このような、あからさまな「虚言」をなんの恥ずかしさもなく言える人間、何が一番の根拠か、そんなものはあるはずもないのに。政治家というのは、並外れて「無知」「無節操」な人間だということを繰り返し僕達は見せつけられて、それでもそれを知っていながら投票する。「世界で一番の都市」というような看板を掲げる為政者によって、存在を消される人々が無数に出ているのです。

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 歴代の都知事はだれかれなく「東京を世界一に」(その昔だったら、「東洋一」に)と絶叫する。ぼくにはよくわからない発想というか、貧想です。「女性として初」とか、「日本人として最初」とか、とにかく、一番になりたがり病が引きも切らないのが現代の都会でしょうね。「おら、そんな街いやだっ」その出処・影響は言うまでもなく「学校教育」で、そこでは点数という「借りもの」「仮もの」が何よりも幅を利かせる。五十点より九十店のほうが偉いと、疑いもしないで信じる。成績優等生という「レッテル」を学校で喜んで貼ってもらった「愚か者」が、好き放題に、どんなに悪いことをしている社会か、知らないんですかあ。このレッテルはとても見えやすく、自分で騙るのもいれば、「人を見下す」習癖(高慢ちき)があるから、誰だって気が付きます。

 また、今日の、この社会の諸悪の根源と言いたくなるのが「東京一極集中」という「一番病」です。狭い狭い東京で千四百万人が「難破」「漂流」していると言えば語弊があるでしょうが、落ち着く先もなしに、文字通り漂流している。ぼくもそのうちの一人でした。それをさらに、進めて「世界一」とは、気が狂っているとしか思えません。嘘をついてまで「一番病」になりたがる、「日本人女性で初の卒業生」と虚飾に身を委ねる。そんな「世界一」に住みたがる人の気が知れませんし、そこはぼくには異質な世界だな。「有力なものによりかかるより、一人ひとりバラバラな生き方を肯定する社会のほうが住みよい」、一人ひとり、テンデンコ、です。

 ぼくは鶴見良行さんの指摘を満腔(まんこう)の思いで受け入れます。「大きなものに憧れるという姿勢をどこかでこわしたいんです」ここに、都市化行き詰まりの転換の方向がはっきりと見えるでしょう。明治初期の「一番病」は「文明開化」「追いつけ追い越せ病」だった。漱石は「一等国」に憧れた当時の民衆を含めた日本人を苦々しく見ていました。「落ちろ、堕ちろ」と心の底で叫んでいたと思う。明治百五十年過ぎた辺りから、一気に「一番病」が国全体に拡散したかと思われる。村落共同体を潰し、市町村合併を繰り返しては「大きいことはいいことだ」とばかりに、なんの根拠もなしに大きいものへの憧れが誰彼の本能を刺激したのです。その煽(あお)りを受けて、「無縁」「不人情」「都会砂漠」の波紋・飛沫(しぶき)は路地の片隅、奥にまで行き渡りました。最も早く潰れる都市、それが東京だとぼくは恐怖心を持って見ているのです。

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● 鶴見良行(つるみ・よしゆき)1926年、アメリカ合州国カリフォルニア州ロスアンゼルス生まれ。外交官の父の仕事にともない、少年時代、ワシントン、ポートランド、ハルピンなどで在外生活経験を重ねる。水戸高校を経て東京大学法学部を卒業。55年より財団法人・国際文化会館に勤務(〜86年)、その傍ら「思想の科学」誌他への執筆活動を始める。65年「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)発足に関わり、前後して頻繁なアジア行、研究を深める。73年「アジア太平洋資料センター」(PARC)設立メンバーの一人となり、80年から81年にかけて『アジア人と日本人』『アジアを知るために』『マラッカ物語』の連続刊行を通し、独自なアプローチによるアジア探究者として、旺盛な研究活動を本格化させた。82年『バナナと日本人』、90年『ナマコの眼』などの代表作によって、世に〈稀有な旅人であり自由奔放な知識人〉としての「鶴見良行」スタイルを、鮮烈に刻み付けた。89年より龍谷大学経済学部教授。94年、『ココス島奇譚』執筆中に京都の自宅にて急逝。(みすず書房)

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砂粒の間をつなぐものが一つもない

「日本の社会」像の半世紀後の変貌 今朝の三時台の「ラジオ深夜便」(NHKラジオ)で、題名に「東京」が付されている曲が何曲かかかっていました。今朝も三時起きしたのは、猫に煽られて。その一曲に「東京砂漠」という曲がありました。1976年5月に発表。クールファイブというグループが歌った(ソロは前川清さん)。ぼくは熱唱とか絶唱・絶叫は好きではないので、この歌を聴くのも好きではありませんでした。猫に食餌を出しながら、それとなしに聞いていた。(東京砂漠・作詞:吉田旺/作曲:内山田洋/編曲:森岡賢一郎)その前(71年だったか)にはいしだあゆみさんの「砂漠のような東京で」という曲があった。「砂漠」は一つの暗喩・隠喩(メタファ)でしょうか。まるで味気ないことを「砂を噛む」という。「あじわいやおもしろみが、まったくないたとえ」(デジタル大辞泉)人とのつながりも人の気持も徐々に砂に塗(まみ)れて、ついには「肩を寄せ合えるあなた」がいなくなると、文字通りの砂を噛む生活に苦しむのでしょうか。情緒などというと、笑われるかも知れないけれど、そんな人同士の「間」のない付き合いは、付き合いとは言わないのでしょう。

 ぼくが上京したのが1963年3月。まだ東京は「砂漠」ではなかったが、薄汚れた泥と砂の街だった。直近に迫っていた「東京五輪(1964・10)」のために「表面化粧」に躍起になっていた時代。銀座にも新宿にも渋谷にも出かけたが、まったくなじまず、急いで帰宅するのが常だった。泥と砂の街の殺風景を消してくれたのが、当時ようやく聴き始めたクラッシクだった。案内人になったのが吉田秀和さん。彼にはたくさんのことを教えられた。グレン・グールドが天才であることをいち早く断言したのが吉田さんだった。彼の書く評論、ラジオ番組の語りも、機会を逃さずき読み、聴くようになっていた。同時に、音楽雑誌も背伸びをしながら読もうとしていた。「レコード芸術」「音楽芸術」などで、吉田さんの書かれるものを眼にしては、ぼくとしては熱心に読んだと思う。以下に引用した「音楽芸術」(82年11号)はよく覚えているし、一冊の本になった「物には決まったよさはなく」も、すぐに手に入れてむさぼり読んだことが懐かしい。

 音楽評論では大きな仕事をされてきた吉田さんのエッセイからも、当時の人々のつながりの軟(やわ)さ、危なさが感じとれます。いわば、それはめずらしい日本人論であり、日本社会論でもあった。彼は今日の日本人の薄情さ、あるいは何事にも無関心をもって遣り過す精神(心もち)のありようを嘆いていたのでしょうか。(評論などの分野だけではなく、吉田さんは、この国の西洋音楽普及とその進展に、計り知れない貢献をされたと思っている)

 「こんなに、お互いがよく似ていて、しかもこんなにお互い同士が、離れ離れの国もないのではないか。とすると、この国ではみんな、何を信頼し、どういう内面のつながりをたよりに、一つの社会をなして、平然と、平穏にその日その日を生きているのだろうか?」

 はたして、この社会に生きている大多数の人びとは個人主義という意匠をもっているのでしょうか。そうではなさそうです。個人主義をどのようなものと解するか、そこから面倒な議論になりそうですが、問題はそこにはない。

 「こんな話をしたら、日本人は、世の中が平穏だから、エゴイストの塊のように思えるかも知れないが、これでいざ国難来るとなったら、つまり日本の安泰が危機に立つとなったら、『一致団結、みんなのために戦いますよ』と元気よく受けあってくれた人がいた。そうなるというのも、また、それで私の心配のもとなのである」(『音楽芸術』82年11号)

 「私は、この国の人たちは、急速に、一人一人が離れ離れ、何を軸としているのかも知らないが、人とのつながりにおいては、心が虚ろなまま、生きているような気がしてならない」という、吉田さんの指摘には、その中のひとりでもあるという意識を持ちつつ、頷いてしまいます。しっかりと個人主義に立脚しているのならまだしも、そうじゃなさそうだから、吉田さんは困惑しているのです。

 まるで現地・現場に住み続けながらの「浦島太郎」のように、ぼくは実感している。上京して60年。その間、東京や都会が好きになったことは一度もない。「あなたがいれば辛くはないさ」という気分にはなれないのです。「あなたがいれば歩いていける」、それは無理というもの。ぼくは京都の「濃密(狭隘)な人間関係」に嫌気が差して、十八の時にそこを飛び出した人間ですが、東京にもぼくの休まる土地はなかったというべきでしょう。つまりは、東京ばかりが砂漠なのではなく、多くの都市が「東京のような砂漠」になったのではなかったでしょうか。「殺伐(さつばつ)」という言葉を見るだけで聞くだけで、怖気が襲ってくるように思う。「克伐怨欲(こつばつえんよく)」という四つの「悪徳」が、多くの都会の住人に巣食っているのはどうしてだろうか。「勝ち気、自慢、恨み、貪欲」の一つでも持ち合わせない人は幸いなるかな。

 私は、日本の社会をなしているものが、まるで、膨大な砂の集団であるかのような錯覚をもつ。外からみると、それは大きく、重く積み重なって、いかにも手ごたえがありそうだ。それに、その巨大な塊(かたまり)は、どこをとっても同じものから出来ており、地質性、均等性において、問題ない集塊であるようにみえる。日本は、輿論としては、比較的よくまとまっており、― もっともその時々の情緒に強く引きずられ動くのは事実だが ― たとえば平和憲法には大多数賛成し、それでもせめて専守防衛の軍隊が必要ではないかという話が出れば、それを支持する人が過半数になる。少数の反体制派がいないわけではないが、一般には治安は世界でもまれにみるほど良好で、「大都市で夜、女が危険を感ぜず歩けるところなど、日本のほかは少なくなった」と人々はいうではないか。こんなに平穏無事によく治まっている文明国はない、というのは事実だろう。
 だが、そのよくまとまった、平穏な社会の一人一人の成員をみていると、まるで、砂の塊を手ですくいあげた時のように、ぽろぽろと指の間からこぼれていってしまって、何も残らない。砂の粒一つ一つの間をつなぐものが一つもないからである。(吉田秀和『物には決まったよさはなく・・・』読売新聞社刊。1999年)

 このような、吉田さんの指摘からすでに四半世紀が経過しましたが、事態はさらに急速に悪化の坂道を転げ落ちているようです。こんな社会にだれがした。もちろん、学校教育のせいだというのは簡単だけれど、はたしてそういって済ませられるかどうか。少なくとも、他者に対してそれなりの礼儀をもって関心を示すという態度はまったくといっていいほど、希薄になってしまいました。赤の他人はいうまでもなく、ついには親子、兄弟姉妹に対してまで、実に薄情になったものです、もちろんぼくを含めての現実をぼくは拱手傍観するばかりです。「人を人と思わない」という、悪魔のトリルが、いつでも奏でられているのが、かつての砂漠だった東京、「人工の街」なのでしょう。

●吉田秀和【よしだひでかず(1913~2012)】批評家。日本の音楽評論を批評の域に高める優れた批評的エッセイを残した。東京日本橋生まれ。外科医の父が小樽の病院長に就任したため,少年期を小樽で過ごす。小樽市中学で伊藤整に英語を習う。旧制成城高等学校をへて1936年東京帝国大学文学部フランス文学科卒業。成城高校時代に,中原中也からフランス語の個人教授を受けた。小林秀雄,大岡昇平らとも交遊関係があった。1946年,《音楽芸術》に《モーツアルト》を連載,本格的な批評を始める。1948年,斎藤秀雄らと〈子供のための音楽教室〉を開設,初代室長となる。〈子供のための音楽教室〉は後の桐朋学園音楽部となり,小澤征爾ら多くの優れた音楽家を輩出した。1957年,柴田南雄らと20世紀音楽研究所を設立,所長となる。1988年水戸芸術館館長に就任,1990年,すぐれた芸術評論に贈られる〈吉田秀和賞〉(吉田秀和芸術振興基金主催)を創設した。その間,音楽のみならず,和洋の文学,美術についての該博(がいはく)な知見を踏まえて,芸術全般にわたって精力的に批評活動を続けた。独,仏,英語に通じ,翻訳も数多い。《吉田秀和全集》第1期,第2期(全24巻,1975年―2004年,白水社)が刊行されている。文化功労者(1996年),文化勲章受章(2006年)。(百科事典マイペディア)

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