多数派と多様性と

【北斗星】AとB。2本の鉛筆で、どちらが長いかを問う。明らかにAが長いのだが、最初に問われた人はBと言う▼2番目の人もB、さらに3番目の人もB…と同じ答えが続く。その間、最後の10番目に回答する人は「えっ、なぜBなの」というふうに首をかしげる動作をして周囲に同意を求める▼だが自分に問いが回った時、その人はそれまでの9人と同じようにBと答えてしまう。これはあるテレビ番組で実験として行われたこと。9人はあらかじめ間違った答えをするように言い含められている。作家の梨木香歩さんが著書「ほんとうのリーダーのみつけかた」(岩波現代文庫)で同調圧力の一例として紹介していた▼黒いものも白と言え。そう強制しているわけではないが、暗に同じ反応をするように仕向けている点が何だか怖い。このところ官民を問わず相次いでいる不祥事の背景には、このように疑問を差し挟むことを封じる同調圧力や忖度(そんたく)が潜む例もあるのではないかと思った▼先の実験で10番目の人は、周囲の異様な空気を感じ取ったのだろう。正しい答えを言うよりも、多数派につく方を選択したのだ。日本はその場の空気で物事が決まることが多いといわれるが、議論が交わされないまま一つの方向になだれ込んでしまうのは危険だ▼近年重視されていることの一つに多様性がある。やっぱりおかしいよ、これ。そんなふうに誰もが率直に疑問点を指摘し合える雰囲気が、自由で開かれた社会には欠かせない。(秋田魁新報・2024/07/24)

 よく使われる「錯覚」の事例に、左図と右下図に見られる図形があります。どちらが大きいか、どちらが長いか、と問うのですが、答えは明白で、どちらも同じ大きさ、長さ。これをいろいろな方面に用いると、人間の思考力とか観察力が案外に頼りないことが分かる。これは図形の問題として理解する限りでは、どうということはなさそうです。コラム氏が出されているような事例はどうでしょう。明らかに長短がはっきりしている二本の鉛筆があって、短い方を多くの人が長いと主張すると、ついにはみんなが「短いほうが長い」と答えるという。実にバカバカしい「同調圧力の一例」だとされる。そうですか、という他ありません。これを世間では「八百長」というのだ。

 これは目の錯覚ではなく、言葉のトリックでしょう。「短いほうが長い」と多くの人がいうのだから、結局は自分も「短い方が長い」と答えるという。いかにもありそうは話ですが、もし自分の指の長さを測り(目盛り)にすれば、それこそ一目瞭然。親指と人差し指を使って測るなら、誰が計っても長短は明らかです。目の錯覚に加えて言葉の錯覚に騙されるのは、人の常かどうか、ぼくにはよくわかりません。「黒いものも白と言え。そう強制しているわけではないが、暗に同じ反応をするように仕向けている点が何だか怖い」とコラム氏は書く。いわば「同調圧力」をかけられているのが怖いというらしい。物事には絶対はなく、すべて相対的だというのは経験の教えるところです。背の高い人はどんな場合も高いことはなく、それ以上に高い人と比べれば「低い」ことになります。

 アメリカの大統領候補者について、八十一歳は七十八歳に、ことあるごとに罵倒されて、結局は「老兵」は消え去った。文字通り「辞退圧力」だったとされる。その詳細はわからない、「自分から辞退したかったが、大義や名分がなかった」「引きずる降ろされるにはプライドが許さなかった」というのは真相じゃないですか。つまり援護や演出に手間取ったが、とにかく舞台から老人は降りた。その途端に七十八歳は五十九歳と並べられて、ブーメランの悲哀を味わっているかに思われます。生活哲学とも言われる立場に「プラグマティズム」があります。アメリカ起源だとされますが、堅実な生活感覚があるところ(人間)ではどこ(だれ)にでも認める態度でしょう。何かを表す時それは大きいか小さいかと、想像でいうのではなく、「私の握り拳くらいの大きさ」といえば、自他にそのおおよその形状はわかります。二人(あるいはそれ以上の人)が物事を判断する時の大きな支えになります。一メートルは百センチ、一時間は60分、一分は60秒というようなものです。観念で、大きい小さい、長い短いを問われればいくらでも錯覚の余地はある。

 このような事例をして「同調圧力」というのはどうでしょうか。適切ですか。アランというフランスの哲学者がよく言っていた。健康に問題のない人を、会う人が、その都度「顔色が悪い」とか「どこか加減がよくないのですか」と言い続けると、たちまちのうちにその人は「病人」のようになる、と。その反対もありますね。勉強が振るわない子に対して、親でも教師でも「君にはいいところがあるよ」、「君はもっとできる人だ」と騙し続ければ、その子は才能を発揮するのだ。プラセボ効果というらしい。ギリシャのソクラテスもしばしば、青年たちに言っていた、「君はそんなところで立ち止まる(つまづく)ような人間ではないよ」「それは君の答えではないね」と。

●プラセボ効果【placebo effect】「偽薬効果」ともいう.効果のないはずの成分でつくられた薬剤(偽薬)によってもたらされる効果.これの効果が存在しないことは患者には知らされないが,医師にはまたとない情報源として役立つ.偽薬は治療に用いられる化合物の客観的な治療効果に対立するものとして,投薬の心理学的効果の評価に用いられている.だが「最も有効なプラセボは,患者から全幅の信頼を受けている医師である!」と喝破した大権威もおられる.(法則の辞典)

 「日本はその場の空気で物事が決まることが多いといわれるが、議論が交わされないまま一つの方向になだれ込んでしまうのは危険だ」というのはたしかにそうだが、これははっきりとした意図・目論見があってのことではないでしょうか。ぼくは実際に経験したことですが、ある目的を持って作られた会議では、会議が開かれる段階では「結論(目的)」はすでに出されています。この社会で多用されている、いわば「アリバイ証明」の常套手段です。多用な意見は聴きましたよ、と骨抜きの議論を正当化する政治の劣化現象の一つです。

 いわゆる「多様性」なるものの実態は均質・均一の言い換えに過ぎないことがほとんどです。「近年重視されていることの一つに多様性がある。やっぱりおかしいよ、これ。そんなふうに誰もが率直に疑問点を指摘し合える雰囲気が、自由で開かれた社会には欠かせない」のはそのとおりでしょう。ぼくには異論はありません。それでは「自由で開かれた社会」はどのようにして実現するのでしょうか。それもこれも、面倒を厭わないで「異論(おかしいという感覚)」を吐き続けることによって、初めて「開かれた社会」への一歩を踏み出すことになる。始めから与えられているものではありません。

 何が正しいか、いわば正しさの感覚はぼくたちの心身に備わっていると、ぼくは経験から知りました。あの人の発言はおかしいなあと直感することができる。それを口に出して言えるかどうか、それだけが問題でしょう。そして、このことに関しては、今日の学校教育の殆どで盲目的に信仰されている「出された問題に対して、正しい答えは一つ」という迷信に冷水を浴びせることでしょう。いささかの勇気みたいなものが求められますね。それも嫌だったら、「みんな一緒」に潜り込んでいいるしかない。「多数派」があって初めて、「多様性」への糸口が見つかるんですよ。ぼくは日本人、圧倒的な多数派でしょう、この社会では。でも、この「多数派」の一人から出発して、ぼくは「多様性」の一分子であり得るのではないでしょうか。(左の問題は、問題そのものが問題だ)

 しばしば、自分で自分に問いかけてきました。つまりは自問(自答)です。ぼくは日本人だ、でも「日本人」というかたまりの一部ではなく、「一人の日本人」でありたいものだ、と。さらに言えば、ぼく自身は名もなき「大衆」に浸かっているが、その「大衆」の一人ではなく、「一人の大衆」である、そこがぼくの立ち位置であり、あえて言うなら「橋頭堡(bridgehead)」です。小さな勇気と少しばかりの正義の感覚、そしてささやかな親切心、この三つばかりを失わないで、自分の足で歩いて行きたいと願ってきました。

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見えない「根」の尊さを思う

【雷鳴抄】見えない根 書家で詩人の相田(あいだ)みつをは1991年、67歳で亡くなるまで、足利で暮らした。生きていればことしで100歳。故郷の足利市美術館で9月1日まで「相田みつを展」が開かれている▼初の作品集「にんげんだもの」が出版されたのは60歳。それまで、ほぼ無名の存在だった。作品が売れなければ収入もないような、長く厳しい生活を支えたのは、周りの人々だった▼戦後間もなく開業した近所の旅館「なか川」の初代女将(おかみ)、中川光子(なかがわみつこ)はその1人だった。62年1月、光子の葬儀で相田が読んだ弔辞を、会場で読んだ▼相田は光子を「おばあちゃん」と呼び慕っていた。まだ誰にも相手にされていなかった相田の作品を買い取り、旅館の看板やのれんのデザインを依頼し、米を分けることもあった▼周囲に対し「いつも誠実で、温かく、非常に謙虚な態度で接していた」という光子を、相田は「ほんとうにえらい人」と、たたえている。「公的な肩書等は、一つもありませんが、人間的に非常に立派な人だった」と▼ふと、ある作品に目が止まった。〈花を支える枝 枝を支える幹 幹を支える根 根は見えねんだなあ〉。光子のような存在を指すのだろう。つらい時、苦しい時、悲しい時、そっと寄り添う相田の言葉は、足利の人々との関わりから生まれた。見えない「根」の尊さを思う。(下野新聞・2024/07/25)

 書家・相田みつをぼくは早くから好きになっていました。もちろん、60歳で出版された「にんげんだもの」が初めてのものでしたから、かれこれ四十年、間断なく、彼の書や詩のようなものを観続けてきました。もちろん、「なか川」の女将さんとのエピソードもよく知っていました。作品評価は、ぼくにはできない。書かれる文章(詩文)の素朴、率直一徹が、生み出された書体に、見事に符合しているのが不思議でした。達筆でも能書でもなかったのが、ぼくには安心して見ることができる第一の要素でした。栃木は早くからしばしば出かけては土地勘もあったし、足利へはなにかの折に「講演」のマネごとをするために出かけたこともあった。おふくろの妹(ぼくには叔母に当たる)が小山に住んでいたり、高校の同級生が野木にいたり(彼女は先年亡くなった)、あるいは担当ゼミの学生の親が旅館をしていたりと、とにかく、探せば色々なつながりが出てくる中で、なおさら相田みつをさんに関心を持つようになったのでした。(つまりは「痘痕も靨(あばたもえくぼ)」とかいう根拠のない惚れよう)ぼくにも相田さんについていくつか逸話のようなものがありますけれど、本日版「雷鳴抄」の内容に感心しているので、余計なことは書かないことに。(右上写真中川光子さん)

 本年一月に閉館になったと記憶している「相田みつを美術館」(東京駅)で一人さんにお会したこともある。何度足を運んだか。花・枝・幹を支える根。「根は見えねんだなあ」だれもが、よく粘るとか粘り強いといいます。その「粘り」のもとは「根張り」(「根を張る」)から来ているんではないかと考えてきました。(京都の桜守に伺った話が思い出されます)人間が大きく成長するのも、樹木などと同様に、根を張ることによって、木全体の支えになっているからです。その逆に「頭でっかち」というのは根が張りきっていないというか、根張りが弱いことを指すのではないでしょうか。本当に大切なものは「見えない根」ですね。

 相田さんが「ほんとうにえらい人」と旅館の女将をたたえていたのは象徴的ですね。自らが名もない一介の書家だったことが、そこに重ねられていると思う。ぼくは今でも「名を出す」「名を売る」「名を上げる」「有名になる」というのは、言ってみれば交通事故に遭うようなもの、自分から進んで「事故に遭う」ことなんてあるものかと、自分にも他人にも言ってきました。相田さんも、晩年に至って「事故に遭遇」したんでしょうね。お気の毒でした。歴史に名の出る気遣いのない「無辜の民」が、連綿と歴史・生活を紡いできたのは、今も昔も変わらない真理ではないですか。

  わがまちの変遷 足利・相田みつを 筆一本で生きた「いのちの詩人」 「にんげんだもの」をはじめ、人々の心に染み入る言葉を独自の書体でしたため続けた書家・詩人相田(あいだ)みつをは、1924年、足利に生まれた。/旧制足利中を卒業後、歌人山下陸奥(やましたむつ)に師事。生涯の師匠と仰ぐ高福寺の先代住職武井哲応(たけいてつおう)老師に出会い、道元禅師の教えも学んだ。また書家を志し、書家岩沢渓石(いわさわけいせき)にも師事した。/96年に開館した「相田みつを美術館」(東京都千代田区)館長で、みつをの長男一人(かずひと)さん(68)は、父を「筆一本で生きた人間。書いている時の集中力はすさまじかった。命懸けで書いていた」と回想する。
 「旅館なか川」(現・めん割烹(かっぽう) なか川)の初代女将(おかみ)は、みつをの作品を数多く購入した。4代目中川知彦(なかがわともひこ)さん(50)は「一生懸命自分の作品について語った先生に感じるものがあったのでは」と推察する。/初めての個展は市内で54年に開催。また市内和菓子店の包装紙のデザインなども手がけた。84年に出版した書籍「にんげんだもの」で存在が世に広まり、91年、67歳で生涯に幕を閉じた。/戦争で2人の兄を失ったみつをは「いのちの詩人」とも呼ばれる。来年生誕100年を迎えるに当たり、一人さんは「もし生きていたら、今の世界情勢を嘆いただろう。命の尊さを伝えるものとして(作品を)改めて多くの人に見てもらいたい」と語る。(下野新聞・2023/11/16)

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「勝てば官軍」、それでいいのか

 未成年で喫煙飲酒を咎められた体操選手のパリ五輪「出場辞退」誘導問題。この件については、私見を述べた。結果的には「出場停止」という処分を協会(大人たち)が下したと見ているが、漏れ聞こえてくるところによれば、「たった一回」の過ちではなく、彼女の喫煙・飲酒行為は周囲では知っている人がいたし、協会の幹部も知っていたという。それがどうして、帰国させてまでの「辞退」劇演出になったのか。大人どもの汚さが眼につきます。ことの経過はいずれ明らかになるでしょう。問題は、「しでかした失敗の重さと、五輪の舞台に立つ機会が奪われることの重さがつり合いを欠いているように思われてならない」というコラム氏の抱く疑問。それは多くの人も抱いていると思う。同じ違法行為を犯しても、それを裁く側にはさまざまな「斟酌」「忖度」が働くから、一律に論じられないもどかしさや曖昧さが残るのでしょう。同じ違法行為を見つけられても他の競技団体では「厳重注意」「咎めなし」とかで済んでいる、ともいう。(ヘッダー写真はBBC NEWS JAPAN・2023年11月7日)

 これと同列の問題として扱うわけには行かないが、同じような違和感が残るのは政治家の違法行為と選挙における当選の関係です。つい先日終わった都知事選、学歴詐称で訴えられ、選挙期間中の公選法違反でも訴えられている都知事。流石に「女帝」という仰々しい悪名が似合う御仁なのでしょうか。選挙戦直前の「バラマキ政策」の乱発、「公務出張」も違法行為に入ると思うが、当選すればすべてが消えると、当人も選挙民も見ているフシがある。「勝てば官軍」というのかな。「官軍」ってなんなのさ。とにかく勝てばいいのだという風潮・風土。おそらく、ここは乾坤一擲(というほど大げさではなく)、検察出動で「知事失職」という運びになるのではないでしょうか。そうなることを期待している。人間として信用できず、ひたすら己のためだけに「政治」を曲げ、「地位」を利用する手合に一矢を報わなければ、民主主義の側に立つ、一人の人間として立つ瀬がないだろうと、ぼくは考えている。

 同じような問題が生じているのがアメリカ大統領選挙です。現大統領が候補辞退で、新たに現副大統領が登場する段取りになっています。結果は余談を許さず、当てずっぽうで当落を判断すべきではないことは承知していながら、地位を利用して自らの幾多の「犯罪事実」を帳消しにするために手段を選ばない人間が、大きな顔で世間を睥睨できるのでしょうか。洋の古今・東西を問わず、政治家はおしなべて「大嘘つき」が信条になっている感がある。嘘やハッタリで戦争を仕掛け、自らの地位や名誉を維持するために人民を虫けらのように扱う、しかも数多くの犯罪を重ねてなお、一国の大統領に返り咲こうという野心を隠さない暴力・無法者政治家。新たに対立候補として登場しかけている副大統領は元検事です。「重罪犯対元検察官」という一面も有している大統領選挙の行方は見逃せない。まして、この東海の小島は「米国」の元ATM、今は宗主国の廃棄物処理場(時代遅れの「武器」購入庫)であり、米軍の極東軍担当の第3軍でもあるのです。小島の住民として等閑視することができるでしょうか。

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【水や空】出場辞退 じゃあ、もし五輪の直前に選手の駐車違反が発覚したら?「それぐらいは大丈夫ですかね」。スピード違反は?「超過速度によるかもしれませんね」。無免許運転や飲酒運転なら?「あ、それは他者に危害を与える可能性が」▲八つ当たり気味の質問に苦笑いしながら答えてくれた同僚には改めてこの場で感謝したいが、それにしても「19歳の喫煙と飲酒」の罪の重さはどれほどなのだろうか、とモヤモヤが消えない▲パリ五輪にチームの主将として臨むはずだった19歳の体操選手が飲酒と喫煙を理由に出場の道を絶たれてしまった。内部通報で情報が寄せられたという。選手自身が出場辞退を申し出たのか、周囲が辞退を促したのかは明らかにされていない▲言うまでもなく、ルールは破るためではなく守るためにある。飲酒も喫煙も反復性の強い行為だ。「一度だけ」という説明を額面通りに受け取っていいものかどうか、疑問も残る▲だから迷い迷い書くのだが、それでも今回の事態では、しでかした失敗の重さと、五輪の舞台に立つ機会が奪われることの重さがつり合いを欠いているように思われてならない▲硬直したルール運用を戒める「杓子(しゃくし)定規」という言葉がある。その悪い見本を見せられている気分が拭えないまま、夢の舞台は開幕が近づいている。(長崎新聞・2024/07/23)

【米大統領選2024】 ハリス米副大統領が演説、「団結させ勝利する」 トランプ前大統領については「どういうタイプか知っている」(BBC NEWS JAPAN・2024年7月23日)(https://www.bbc.com/japanese/articles/cxe23g2l4j5o

(余話として 勝つか負けるかは、時の運もあるでしょう。だから、その予測はしない。ある候補には勝ってほしいとは思っているが、それは別の問題。米国が偉そうに、世界の警察官を自認していたのは迷妄のなせることだったと思う。あらゆる紛争の種を撒いては「世界のリーダー」を演じていたこの(好戦的)対岸国の現状は、驚くほど綻(ほころ)びが大きくなっています。その大きくなった綻びの一端に、この島国もがんじがらめに囚われているのですから、他国とはいえ、その大統領選挙戦の帰趨に目を伏せることはできない相談でしょう)

● 勝てば官軍、負ければ賊軍=争いごとでは、結局は勝った方が正しく、負けた方は間違っていたとされてしまう、ということ。[由来]明治新の際の薩長軍と幕府軍の戦いから生じたことば。「官軍」とは、政府の正規の軍隊で、「賊軍」とは、反乱軍のこと。のちの一八七七(明治一〇)年、政治家の大江卓が西南戦争での官軍の勝利を聞いて詠んだ漢詩に、「勝てばち官軍、敗るれば則ち賊(勝てば官軍として迎えられ、負ければ賊軍とされる)」とあります。(故事成語を知る辞典)

 「官」も「賊」もあるものか、勝とうが負けようが、嘘つきは嘘つき、泥棒は泥棒。詐欺はやはり詐欺です。鶴でも鴨でもない。犯罪は糾されなければならないし、裁かれる必要があります。小さな悪は小さく、大きな悪は大きく裁ばかれるための法廷に立たされるべきだと思う。十九歳の「喫煙・飲酒」と都知事の数々の疑惑問題と、元米国大統領の34の犯罪とを同じレベルで論じることはできません。さて、こちらの始末はどうなるのでしょうか。

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「お手本に」と、勝手に決めないで

 大暑の砌(みぎり)、いやが上にも暑苦しい話題です。

 いきなりの「閑話」。ここに出した「砌」という字、どういうわけか、ぼくはかなり好きで、これまでもよく使ってきました。昔は手紙の脇付(わきづけ)に「砌下(せいか・ぜいか)」と記し、「お手元へ」「お側に」の敬意を表したものです。その脇付も、「侍史」「机下」「足下」「膝下」「御元」等々、それこそ無数にあるというくらいに、手紙一本でも宛先(相手)に対する敬意の表し方を工夫したものです。これがすっかりなくなったのは、やはり時代ですね。今日はネット時代の恩物(Gabe)である「メール」「SNS」で、実にお手軽。敬称略は当たり前で、内容浅薄意味不明の「X」なども横行・紊乱の最中です。それにつれて「人情」もいやはや紙風船以下の安物に成り下がってしまいました。あらゆる「価値」や「価値観」が音を立てて崩れ落ちてゆくさまを思う。

 さらに「閑話」は続く。「砌」とは、元来が「水限(みぎり)」で、雨垂れの落ちるところ、水際という意味で使われていました。上に出した「砌下」も屋根から落ちる雨滴を受ける石畳・砂利敷きを指していた。日本家屋などにも盛んに用いられていたものです。鎖樋の下部にはきっと小石や砂利が敷き詰められていたものです。それなりに風情のあるものだった。今どきの「豪雨」では物の役にも立たなくなりましたが。ともかく、砌はいくつもの意味を持った言葉として、ぼくはよく使ってきました。折り、節、時節などと。あるいは「砌」という語で庭全体(場所)を表すこともありました。他には、一定の場や「水溜り」を示したりしたものです。

 (閑話休題なるか)昨日は、多方面から「兵糧攻め」に遭っていたアメリカ現大統領がついに観念した「砌(場所)」がSNSだったというから、世はいかにも小さなサークル隆盛の時代というべきかも知れない。仲間内だけを大事にすると言うか、仲間内しか頼れないという淋しい時代でもあります。一国や世界にとっての大きな決断でもある、その報告をまずは仲間内にというのは段取りとしては当たり前かもしれぬが、この現職大統領の候補者からの引きずり下ろしは、いかにも醜悪でした。二階の手すりに手をかけていた本人の足を引っ張る、まるで嫌がる人間を羽交い締めしたうえで、断念させるというものでしたから、これもまた「一つの猿芝居」だったかも知れない。(近々、この東海の小島でも同じような醜態が見られそう)自分は絶対に「辞退しない」と言い続けた大統領の発言のたびに、後ろから「近い内に大統領は決断する」と重ね続けた元下院議長・Pさん(84歳)。三億以上の人口を擁する大国アメリカを動かしているのは「後期高齢者」ばかりというのですから、その衰退(decline)は推して知るべし。老人もまた、人生の坂道を下っている(descend)のですから、さもありなん、ですね。

 その話題は脇においておくとして、以下二つのコラムを読んでください。「五輪関連、二つの衰退」です。これについて、何かを言う気持ちはありません。人生訓として何かを得るものがあるとも思わない。ぼく個人としては「五輪は時代遅れ」であり、どこの国にとってもむしり取られる「公共事業」の一つに過ぎないということだと、ほとんど政治、政治経済問題でしかなくなったと思っています。「百害あって一利なし」と言うと言いすぎかも知れないから、「(選手や観衆には)百害あって、無理」と言い直します。もう止めたらどうか、あらゆるものが勿体ないではないか。「国威発揚」もその汚れた動機の一つなら、「時の政権浮揚狙い」もまた五輪招致の不純な動機になっている。有象無象が集(たか)りに集(たか)る「砂糖の山」と化しているのです。そこに「高邁なスポーツの精神」どもがつるむというのですから、笑止千万、滑稽無惨です。

 ぼくが五輪を(テレビで)見たのは、大学入学の年に行われた「東京五輪(1964)」、それ以来、回を追うごとに興味は薄れ、記憶も薄れきっていきました。さて、二つのコラムは何を扱っているか。一つは19歳の女性体操代表の参加辞退問題であり、他は元五輪メダリスト・政治家の公選法違反問題(おそらく逮捕されるでしょう)。おまけは痴呆議員の「議場でスマホゲーム」を見学の小学生に見咎められた一件です。どちらに対しても私見はあるが、つまらないので語りません。「問うに落ちず、語るに落ちた」話だからね。「ある日、突然、事件や事故が起こった」と言うなら、話は別。事ここに至るまでに、事態(悪行)は連綿と続いていたはず。だからそれに関わったり情報を持っている人はいたはず。それが「バレなかった」「露見しなかった」のは、不幸なことに、当の面々に人徳がなかったか、あるいは、周囲からやっかみを受けていたか、あるいは両方かも。

 違法行為があったなら、法と証拠に基づいて裁くべき。そこに至るまでもないものなら、関係者が「適切に捌(さば)く」だけだったでしょう。ところが、問題なのは、同様の容疑があるにもかかわらず、一方は見逃され、他は厳罰に処されるという「不公平」「不公正」で、いかにも理不尽。強きを挫(くじ)き、弱気を助けるならいざ知らず、その反対(生贄)となれば、まるで太陽が西から昇るようなもので、見捨ててはおけないということでしょう。果たして、この社会の現実は「陽は東から出ているか」という事実の見定めが出来ているか否かに関わってきます。「一罰百戒」と言う「見せしめ」は、本来の法の趣旨には合わない気もするのです。

 ここで愚論を終わります。「(未成年でも、)タバコや酒ぐらいで、はないでしょう」という人は多いが、その「タバコや酒ぐらい」という競技にうまく着地できなかったら、合格点はつかないでしょう。スケート元五輪メダリストはどうか。「たかが公選法違反(買収)」、あるいは「ちょっと滑っただけだろ」、それぐらい見逃してやれよという声があるのかどうか。それよりも「やるなら、もっとうまくやれ」ということかも知れない。「メダル剥奪」はIOCかJOCのやることだろうが、当の団体にも脛に傷持つ人品の怪しいのはごまんといるのですから、やれば「藪蛇」ですな。最後は、そんなのを議員に選ぶ側に問題あり、といういつもの「砌・水限」に落ち着くのでしょう。そして「議会開会中、スマホゲームに夢中議員(元議長)」の件です。居眠りがよくて、ゲームが悪いと誰が決められるか。指摘された側は、それもこれも「権利の侵害」だと裁判を起こすべし。

 これが偽りのない、ぼくたちの社会の現実・実態です。「モグラ叩き」も遊びなら、時には運動にもなるが、真剣にやればモグラが死ぬか、叩く側が壊れるか。だから程々にというのではありません。五輪選手も地方議員も国会議員も「エリート」であり「選良」であると誰が決めたか、言い出したか。そんなことあるものか、誰だってなれる、そんじょそこらのお姉さんやお兄ちゃん、あるいはおじいさんだからなれるという代物。「先生のくせに」とは言うまい。「先生だから、仕方ないじゃん」「先生も、あれで人間なんだってさ」ということだろうし、「今どきの五輪選手だよ、それくらいの悪さはあっても当然さ」というところかも。いずれにしても「見つかるのがよくない」という教訓だけは残るかも。

 (この国はただいま、倫理・道徳の正道(坂道)をまっしぐらに降下中。中途半端なところで手を出したら、後が厄介。傾いたビルを直すのは無理に決まっているさ。堕ちるところまで堕ちる、どこまで?「底ま」ですよ。ことは、「そこ・底」から始めるべしですね)

【水や空】出場辞退 じゃあ、もし五輪の直前に選手の駐車違反が発覚したら?「それぐらいは大丈夫ですかね」。スピード違反は?「超過速度によるかもしれませんね」。無免許運転や飲酒運転なら?「あ、それは他者に危害を与える可能性が」▲八つ当たり気味の質問に苦笑いしながら答えてくれた同僚には改めてこの場で感謝したいが、それにしても「19歳の喫煙と飲酒」の罪の重さはどれほどなのだろうか、とモヤモヤが消えない▲パリ五輪にチームの主将として臨むはずだった19歳の体操選手が飲酒と喫煙を理由に出場の道を絶たれてしまった。内部通報で情報が寄せられたという。選手自身が出場辞退を申し出たのか、周囲が辞退を促したのかは明らかにされていない▲言うまでもなく、ルールは破るためではなく守るためにある。飲酒も喫煙も反復性の強い行為だ。「一度だけ」という説明を額面通りに受け取っていいものかどうか、疑問も残る▲だから迷い迷い書くのだが、それでも今回の事態では、しでかした失敗の重さと、五輪の舞台に立つ機会が奪われることの重さがつり合いを欠いているように思われてならない▲硬直したルール運用を戒める「杓子(しゃくし)定規」という言葉がある。その悪い見本を見せられている気分が拭えないまま、夢の舞台は開幕が近づいている。(長崎新聞・2024/07/23)
【明窓】先生のくせに 「先生」という言葉の定義は幅広い。学校の教師が一般的だが、習い事の師匠や医師、議員など政治家に使う場合もある。要は指導的立場にある人への敬称といったところ。だとすれば「先生のくせに」と子どもたちから非難を浴びそうだ▼宮城県大河原町で、男性町議(73)が議場でスマートフォンゲームをしているのを、社会科の授業で一般質問を見学していた地元の小学6年生が目撃。感想文に「(ゲームの)ツムツムをしている人がいた」「議員で働く人としていいのか」などと書いていたことが分かった▼町議は議長経験もある5期目のベテラン。「議場でゲームをしたのは事実だが、本会議中にした記憶はない」「電卓を開こうとしてついゲームを触ったと思う」と言い訳しているが、さすがに無理がある。傍聴席に誰がいようとお構いなしで、緊張感なく触っていたのではと疑いたくなる▼国政に目を向ければ、選挙区内の複数の有権者に対し違法に香典を渡した疑いが強まったとして、東京地検特捜部が公選法違反容疑で自民党の堀井学衆院議員の関係先を家宅捜索した。離党に追い込まれた堀井氏は事務所内で違法性を複数回指摘されたが「慣例としてやってきた。いきなりやめることはできない」と話していたという。こちらも緊張感がない▼「先生のくせに決められたルールも守れないの」。議員の失態に子どもの批判が聞こえてきそうだ。(健)(山陰中央新報デジタル・2024/07/22)

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当節、あれこれ「ぬけがら」考

 「梢よりあだに落ちけり蝉の殻」芭蕉、三十四歳の作。風が吹いてか、あるいは無風の中で落ちてきたか。「あだに」とはどういうことでしょう。愛知地方の方言「あだに」があり、それは「思いの外」「思ってもみないのに」というらしい。伊賀の人、芭蕉はそれを使ったか。「蝉」は言うまでもなく、蝉の「抜け殻」にもたくさんの句が残されています。俳人たるもの、挙って、あるいは競って作る。その理由は、ぼくにはわからない。抜け殻を「空蝉(うつせみ)」とも言うから、そこに生の儚さを感知しているのだろうか。あるいは、それとも…。幼い頃は「ぬけがら」蒐集に夢中になったことがあります。これも理由はわかりません(忘れた)。多分、生身の蝉よりも容易に獲りやすかったことと、抜け殻がまさに蝉そのものに見立てられたからかも知れません。

 「抜け殻」とは中身のないものであり、形だけの見せかけでもあります。これを人間に引きつけて考えると、「心ここにあらず」であり、放心状態の実物を見る思いがあります。生身の人間でも、まるで「抜け殻」になったか、「心はどこに行ったやら」という状態に陥ることはしばしばでしょう。いや、ぼくたちは毎日毎日、「何時間かの放心状態」に身をあづけているのかも知れないのです。睡眠そのものが、本体はしばしの「抜け殻」になっているわけです。まるで「着脱自在」のカツラや入れ歯のように、人間の「心」もまた、時には、いつでもどこかを彷徨(さまよ)うことがあるのでしょう。本人は意識があると思いこんでいるにもかかわらず、その言動をみていると、まさしく放心状態にあると言いたくなる場面にいつだって出会う。「国会」を筆頭に、あらゆる痴呆議会には「放心」「抜け殻」ばかりが居並んでいるのも奇怪ですね。学校の授業なども「放心」「空蝉」のマーケットのようなものです。

 余談的。「新聞」としての産經新聞をぼくは好みませんが、時としては、このコラム「産経抄」に引かれることがあるのです。本日はいかがでしょうか。「空蝉」は「この世」だというのもそのとおりで、実は本来の生は別乾坤(天地)にあるというらしい。「この世に現に生きている人。転じて、この世。うつしみ」(デジタル大辞泉)もちろん仏教の教えるところ。だから、この世に執着し、いたずらに心を奪われてはならないというのでしょう。体はこの世、心はあの世。そういうことらしい。

 最近はまったく電車にも乗らないから、様子がわかりませんが、以前だと、朝であろうが昼であろうが、夜であればさらに、必ず車内で「空蝉」「放心」状態の人をたくさん見ました。この人は今、どこをどう彷徨っているのかと、勝手に想像することさえありました。そういう本人もまた、飲めば「空蝉」、乗れば「抜け殻」を何十年も繰り返していたのです。終点で引きずり降ろされ、「我に返った」こともしばしば(まだ「空蝉」状態だったかも知れない)。そんな空蝉人間にも忘れられない豪放かつ観察禁断の「空蝉」「放心」に隣り合わせたことを今も忘れない。常に利用していた地下鉄で、かなり空いている朝の車両内に豪快そのものという大音声(鼾・いびき)が響き渡っていた。

 ぼくはその男性の斜め前にいたから、「抜け殻」の一部始終を見ていました。腕組みをして今にも座席からずり落ちそうになって鼾(いびき)をかいている。まるで相撲取りを思わせる体格だった。一瞥、彼が「開高健(1930~1989)」さんだとわかりました。徹夜で飲んでいたか、あるいは徹夜の原稿書きで自宅に帰る朝の電車内の爆睡だったか。誰の眼にもその人は疲労困憊(こんぱい)の極にあることが分かるほどでした。こんなにどでかい鼾を聴いたのは、それが初めて(最後かも)でもあった。朝の通勤電車内の「空蝉」の人の死が伝えられたのはその数日後でした。なんだか、かの作家に、懐かしさと愛おしさを覚えたことを忘れません。

 (朝三時前に「速報」がラジオから流れた。米国現大統領が次期大統領候補者を辞退し、現副大統領を候補者に推薦するというのだ。これはわかりきっていたこと。ここまで引きずったのは「老残」「老醜」といえば、言葉が過ぎるだろうか。どこかの寒村の村長選びではないのだという自覚があるからか、ないからか。選挙戦に絡んで、予想外のことがこの先に起こる「予感」がしている。野蛮国家、アメリカの一面が、です。A.M.5:30)

【産経抄】明け方の空に耳を澄ますと、蟬(せみ)の独唱が聞こえることがある。しばらくすれば仲間の声が和すため、1匹の声が鳴き始めから鳴き終わりまで聞けるのは貴重な〝風景〟と言えなくもない。夕空の一番星ならぬ、明けの「一番蟬」である。▼にぎやかな夏の使者は、相手を求めて木という木を声に変える。子孫を残す以外、小さな体にプログラムされた使命はないと聞く。「空蟬(うつせみ)」は蟬の抜け殻を指すほかに、「この世」を意味する。はかない定めを背負わされた生き物に、先人が世の無常を重ねたからだろう。▼先週は関東甲信や東海地方、きのうは近畿や中国地方で梅雨が明け、各地は猛暑に見舞われた。盛夏の訪れに、地中から慌てて飛び出した蟬の諸君は多いかもしれない。9月までの3カ月間は平年より暑くなる見込みだと、気象庁の予報にもある。▼昨年は「史上最も暑い夏」だった。強い高気圧に加え、日本周辺の海面水温が上がったことによる「海洋熱波」が影響したとか。蟬の中には昔より生息域が北上した種類もあるらしい。土と空を住まいとする彼らも無関心ではいられぬ変化だろう。▼地上での短い夏を終えると、蟬はあおむけになって力尽きるという。背中側についた目が最後に見るのは、空ではなく地面だと『生き物の死にざま』(稲垣栄洋著、草思社)に教わった。<彼らにとっては、その地面こそが幼少期を過ごしたなつかしい場所でもある>と。▼この夏も、全力で駆け抜けた多くの亡骸(なきがら)が土に返ってゆくことだろう。<増殖しおそれをしらぬ蟬どもは地上一尺のところにも啼(な)く>小池光。課されたミッションを思うと、遠慮のない大音量がどこか切なく聞こえる。かの「一番蟬」も、お相手に巡り合えるといい。(産經新聞・2024/07/22)
● ぬけ‐がら【抜殻・脱殻・蛻】[ 1 ] 〘 名詞 〙① 昆虫や甲殻類などが成長に伴って脱皮する際に残した古い体皮。昆虫が羽化して空(から)になった蛹(さなぎ)、蛇が皮膚を更新するために脱ぎすてた皮などをいう。[初出の実例]「ぬけからは木のもとごとにぬぎすてて知らず顔なる蝉の声々〈藤原俊成〉」(出典:丹後守為忠百首(1134頃か)夏)② 中身のなくなったあとのもの。また、形式ばかりで内容のないもの。[初出の実例]「ぬけからも三国一の水たまり」(出典:雑俳・柳多留‐三五(1806))「寝床はぬけ殻であった」(出典:湯葉(1960)〈芝木好子〉)③ 心が他に奪われてうつろな状態であること。正気を失ってぼんやりしている人。[初出の実例]「汝等が魂は皆東国にこそあるらんに、ぬけから斗(ばかり)西国へめしぐすべき様なし」(出典:平家物語(13C前)七)④ =ぬけ(抜)⑥[初出の実例]「先づ当世の嫌ひ物は、打著(うちきせ)連歌、噂付、一句のぬけから、遠輪廻(とをりんゑ)」(出典:仮名草子・竹斎(1621‐23)上)[ 2 ] ( 抜殻 ) 狂言。各流。使いの途中道ばたに酔いつぶれた太郎冠者に、主人が懲らしめのため鬼の面をかぶせる。目をさました太郎冠者は、水に映った自分の姿に驚き、ついには自殺しようとするが、そのはずみで面が脱げ主人の仕業と気づき、鬼の抜殻といってその面を主人に見せる。「天正狂言本」で「鬼のぬけがら」。和泉流では「ぬけから」と書いて「ぬけがら」と読む。(精選版日本国語大辞典)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

「徒然に日乗」(628~634)

◯2024/07/21(日)昨夜以来の猛烈な雷雨。朝方にはすっかり晴れ間が出ている。ものすごい雷鳴と豪雨がどれくらい続いたか。午前中は、降雨の影響もあって涼しく感じたが、午後からは連日の猛暑並みに超高温超多湿で、誠にひどいことになっている。終日、自宅内に留まる。この猛暑は更に一週間は続くそうだし、台風もいくつか、南の海上に発生している。あるいは今年は台風の当たり年になるかも知れぬと、今から危惧している始末。▶アメリカ大統領選挙の足取りがこの国にとっても余談を許さない事態に入りつつある。11月の本選挙まで何があるか、余談は許さないけれど、それ以上にアメリカでは銃撃から蘇った「ゴッド」のごとくに、Tの神格化が急激にすすんでいる。英雄ではなく「ゴッド」が降臨し、かつ君臨するという荒唐無稽が演じられており、この東海の小島は、その神格化劇の舞台装置の一部として、いともたやすく利用されるに違いない。その危惧を持っている政治家がどれほどいるだろうか。手に負えないは犯罪者(脱税王でもある)である人間が、時の勢いで神にまで祭り上げられるのだ。▶旧友のT氏からメール。8月初旬に房総半島に遊ぶので、その帰りに寄ってもいいかとの問い合わせ。昨年も同時期に、大原だったかに来られ、その帰路、茂原で食事をしたこと。真摯な宗教学、宗教研究者だ。(634)

◯2024/07/20(土)お昼すぎに買い物。本日も極めて暑くて湿度の多い一日になりそう。猛暑日であることは確実。天気予報ではなく、自らの測定で確かめている。▶本日も夕方の四時ころに庭への散水を。一時間ほど。まったくの雨の気配がないので少しは多めに撒いておいた。▶帰ってこない猫、もう十日は過ぎたろうか。事故か、それとも…。探しようがないほどに広い森や林が続いているし、草叢も凄い。気にはなっているが、どうしようもないのだ。猛烈な暑さの中、どうしているのか。一どういう事があるかわからない、そのために猫たちには十分すぎる食事を与えている。大変な大食漢揃いになっている。(633)

◯2024/07/19(金)午前中から高温、多湿。▶昼前に買い物。コロナ感染症が再流行しているという。この地域では他地域よりマスクを付けている人が多い気もしていたが、このままだと、更に流行は広まるだろう。外国人観光客も増加の一途だという、再び大流行になり、またあの逼塞生活に戻るのかと思えばゾッとする。▶夕方四時ころ、久しぶりに庭の植木類に水遣り。前庭と後庭と、かなりの散水を施したので、小一時間は要したか。▶内外ともに政治の季節を迎えているのだろうが、肝腎の政治家の質の劣化は目を覆いたくなる。▶現状では米大統領選挙の帰趨は決まったも同然。しかしまだ4ヶ月先の話だから、何が起こるかはわからない。その前にこの劣島では首相になる人物を選ぶ「自民党総裁選」がある。大丈夫でないことは明白だが。▶パリ五輪直前、女性体操選手が飲酒・喫煙で出場辞退に追い込まれる。▶この国では「石が流れて、木の葉が沈む」というとんでもないことが方々で生じている。(632)(右写真:この議員さん、「抜け殻そのもの」ですね。都恥事、いや都痴事だったことが信じられん気もするし、似合っていたという気もする)

◯2024/07/18(木)本日は「梅雨明け」だそうで、しかし、実際にはほとんど梅雨らしい雰囲気・季節ではなかった。「晴れれば猛暑、降れば豪雨」というのが常態化した感じだ。それにしても朝から暑いし、それ以上に困るのが湿度の高さ。おそらく90%はあったろう。▶お昼ころに買い物。必要なものを買って即座に帰宅。今日も庭作業を続けようかと考えたが、しばし躊躇。結果的にはやらなかった。▶帰宅したら、福岡のOさんからメール。今月の二十日すぎ(23日?)に予定していた、ビナード氏との拙宅訪問を延期するという内容。相手は大変に忙しい詩人であり作家。時間に余裕がある時に、どこかで会えればいいと考えているので、その旨を返信しておいた。時間が合えば、秋冷の候などがいいかな、と。(631)

◯2024/07/17(水)朝の五時過ぎに「ビン・缶回収場」に出しに行く。近所の住民Tさん宅の駐車場だ。雨が振り出さないうちにと、少し早めに準備した。▶本日は目まぐるしく変わる天候で、降ったと思ったら止んで、また降って止んでの繰り返し。▶その合間を縫って、久しぶりに庭の草取りと植木の剪定。もちろん、日差しはなかったけれど、湿度が90%もあって、とても蒸し暑い。少し動くだけで汗も出てくる。蚊も襲ってくる。桜の木を四本、剪定。もう少しやりたかったが、体力が保たない気がしたので、一時間少しで中止。次回に回す。このペースで行くと、どれくらい時間を要するか。気が遠くなりそう。屋根や樋の掃除も控えている。まだまだ暑さは続く。体調だけには気を付けてと、すっかり怖気づいている自分がいるのだ。▶猫が一つ帰ってこない。もう一週間も経つ。仲間に相性のよくないのがいて、それに虐められたのかも知れないし、そのために他の猫にも警戒を解かないままで、しばらく過ごしていたが、帰らなくなった。あるいは事故に遭ったか。たくさんいるし、出入り自由にしているから、林の中で、あるいは路上で事故に遭ったか。前例として、今も元気でいる猫、それが十日ほども帰らなかったことがあったから、いまなお望みは持っているのだが。(630)

◯2024/07/16(火)昼前に猫缶購入のために土気まで。今にも降りそうな天候だが、なんとか保っている塩梅。帰宅後、膝の痛みを和らげるために湿布とサポーターを求めに、今度は茂原まで。一ヶ月程前の「熱中症」気味のとき以来、あちこちの不調が気にかかる。膝痛もその一つ。昨日から湿布薬を張っていたので、少しは痛みが和らいだと、気のせいかも知れぬが、自分では感じている。▶明日は「ビン・缶回収日」なので、その準備を夕食後にする。前回は二ヶ月分をまとめ大量になったので、今回は是非とも間に合わせたい。▶夜の八時過ぎからかなり大粒の雨が降り出し、雷鳴も始まった。これを書いているのは十時すぎだが、なおかなり激しい本降りが続いている。(629)

◯2024/07/15(月)終日自宅内に。にわかに降っては止む。二、三度も繰り返したか、湿度の高い日だった。夕方には風もでてきて、凌ぎやすくはなった。明日もまた雨の予報。梅雨はどこかに消えたかと思うと、これみよがしに降る。各地では線状降水帯の洗礼を受けて、被害に見舞われたという報道があった。海水温の高さが、今季の「台風襲来」の激しさを予想させる。(628)

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 人の世にかなかなの啼く淋しさよ

▣ 週のはじめに愚考する (第弐拾八)~ ただいまは午前五時。室温は29℃。昨夜から今朝方にかけて、当地は強烈な雷雨に見舞われました。あるいは停電するかもと、早めにパソコンの電源を切っておいたが、過ぎてみればこともなく、でした。何とか停電ばかりは免れていました。それにしても強烈な雷鳴が一処にとどまって、ここを先途と轟きわたった。猫たちは、おそらく初めての経験だったろう、右往左往の怖がりようだった。外に逃げ出そうにも豪雨が降りしきっているので、どうにもらない。これほどのすごみのある雷鳴は、ぼくもかみさんも初めてだったかも知れない。梅雨明けの「洗礼」というのも癪な天候で、それこそ世にままならぬものの最たるものと、「地震雷火事親父」に入るのはうなづけますね。末端に坐す「親父」は遠くに霞んでしまっているけれど。

 梅雨が明ければ本格的な夏の到来と、順番はそうですが、とっくに夏は始まっている。猛暑が六月からで、その上に多湿のおまけまで付いて、老人の体力消耗は著しい。三日前の「いばらき春秋」に「カナカナ」が出ていました。記者氏が聴いたのは十五日(海の日)とか。ぼくもほぼ同時に、隣県の人間として「蜩(ひぐらし)」の哀調を耳にしました。それも早朝、家の隣の林からの「一声」でした。えっ、いまは七月半ば過ぎだよと、一瞬は驚いた。ぼくの経験・知識では夏の終わり、そう八月の中から末に聞くものと合点していたからでした。蜩(ひぐらし)は、季語としては「秋(旧暦)」だ。今はもう秋、誰もいない海 ♪、その「秋」。海の中も山の中も、すべての季節の巡りが狂っているのでしょう。四季ではなく、二季、それも夏と冬だけの寒暖差著しい季節に支配されたのが、この極東の小島です。

 ところが、「蜩」は六月ころから鳴いているそうで、ただ、ぼくたちは耳にその声を聞き止めていないだけのことのようです。都合よく利用しているのは人間の方で、蜩は「秋」だというのはその典型。「六月のカナカナ」では俳句にはならぬとでもいいたげですね。俳句が先ではなく、季節に誘われているのが俳句だと、当たり前を忘れたくないね。

【いばらき春秋】海の日の3連休は梅雨空に戻り過ごしやすかった。夕方、草刈りを終え、ビールを片手にすがすがしい庭を眺めていると、「カナカナ」と哀愁を帯びたヒグラシの鳴き声が聞こえてきた▼漢字で「蜩(ひぐらし)」と書き、俳句では秋の季語である。小学生の頃、夏休みの終わりを告げるかのような物悲しい響きに、たまった宿題をどうしようかと憂鬱(ゆううつ)になった思い出がある。1年を72に区切った七十二候(しちじゅうにこう)だと、「寒蝉鳴(ひぐらしなく)」は8月12~17日ごろ▼日本人は古くから涼しげな虫の声を好んだ。NHK大河ドラマ「光る君へ」に登場する清少納言は、枕草子で「虫(で趣があるの)は、鈴虫、ひぐらし、蝶、松虫、こおろぎ、きりぎりす、われから、かげろう、蛍」(現代語訳)と書いた▼先週、大子町で38.1度、筑西市で38.2度を観測する厳しい暑さが続いた。猛暑の一服にヒグラシも秋と間違えて鳴いたのか▼散歩の途中、すっくと伸びたタチアオイが白紫色の花を咲かせ、隣で数輪のコスモスの花が風に揺れているのを見た。夏と秋が同居する不思議な光景である▼そういえば「ミーンミンミンミーン」とやかましい鳴き声をまだ聞いていなかった。「蝉(せみ)」は夏の季語。間もなく梅雨が明けて本当の盛夏が始まる。(山)(茨城新聞・2024/07/18)

● ヒグラシ(ひぐらし / 蜩)[学] Tanna japonensis = 昆虫綱半翅目(はんしもく)同翅亜目セミ科Cicadidaeの昆虫。体長は雄32~39ミリメートル、雌23~28ミリメートル。体は黒色で、茶色や緑色の斑紋(はんもん)がある。雄の腹部は大きく、空洞で、発達した共鳴室となる。雌の産卵管は腹端を越えない。はねは透明で、脈上に多くの暗色紋がある。雄の腹部第3、第4腹板上には各1対の小さないぼ状突起があり、これがヒグラシ属の大きな特徴である。北海道、本州、四国、九州、琉球諸島(りゅうきゅうしょとう)、朝鮮半島、中国大陸に分布する。7~9月に出現し、平地から山地にかけての薄暗い林中にすみ、明け方や夕方に独特なキキキ……という高い声で鳴く。聞きようによっては、カナカナ……とも表現され、カナカナの俗名もある。/ 琉球諸島にはヒグラシによく似たイシガキヒグラシT. j. ishigakianaのほか、近縁の属に大形のタイワンヒグラシPomponia linearisが知られる。(日本大百科全書ニッポンニカ)

 「いばらき春秋」を読んでいて思いました。隣県とは距離にしてどれくらいか。大したものではないにもかかわらず、「散歩の途中、すっくと伸びたタチアオイが白紫色の花を咲かせ、隣で数輪のコスモスの花が風に揺れているのを見た。夏と秋が同居する不思議な光景である」とありました。わが拙庭の「立葵」はとっくに盛りを過ぎて、花は朽ち、幹はすっかり枯れている。「夕方、草刈りを終え、ビールを片手にすがすがしい庭を眺めていると、『カナカナ』と哀愁を帯びたヒグラシの鳴き声が聞こえてきた」と。でも、当地ではそうならない。草刈りを終えても『ビール片手』はないし、「すがすがしい庭」など見たくてもみられない、とまあ、よしなしごと(御託)をいくつ並べても仕方がありません。

 「蜩」は「それだけで「セミ」とも読ませますから、たくさんの蝉類の代表だったかも知れないし、この蝉の異称の多さは群を抜いているのも不思議です。「」「茅蜩」「秋蜩」「日暮」「晩蝉」などなど呼び名の多彩さを愚考しようとしているのですが、いささか寝不足の気味もあって、面倒くさいのでここではしません。「強烈な雷鳴」に怖気付いた猫が家の中で泣き出しているし、外は大雨。その恐怖心を宥(なだ)めるのに、側につきっきりだったからです。おそらく二時間は続いたと思うほどに、間近で轟いた。幸いに落雷はなかったし、停電もなかったから、少々の寝不足は「お駄賃」みたいなものかも知れません。

 それにしても、今は季節でいうと何時になるのでしょうか。冬や春でないことは確か。夏かと思えば夏、いや秋かと思えば秋かもなあと、至って頼りないのです。日本近海の魚の群れにも異変が生じているそうです。北海道や東北の漁港では、穫れるはずもない魚が大量に穫れ、お目当てのものはまったくの不漁だとか。これだけ海水温が高ければ、さもありなんと思う。魚の餌になるプランクトンからして、その異常高温に絶えきれないで死滅するのでしょうから、それを栄養源としていた魚群がいなくなるのは当然だし、仮にプランクトンがいたとしても量的に減少するのは不可避ですから、畢竟、魚の成長は止まるという始末になります。

 海中も陸上も季節の巡りは異変続出です。熱波やハリケーンの来襲はところ選ばず、猛烈を極めています。世界各地では山火事が異常に発生。北極や南極の氷塊も溶解著しいものがある。かかる「災害」や「災厄」の直接間接の原因の多くは知られているにもかかわらず、あまりにも規模が大きくて、人智では施すすべもないと言ったところでしょうか。温暖化の防止策を取り入れたとして、この先、何百年を要するのか。その前に地球環境は大半の生物の存在を許さない事態を迎えているかも知れません。

 フィリピン沖に「台風発生」かと天気予報。今年はたくさん劣島に来そうです。今から用心するに越したことはなさそうでうすな。

七十二候のうちの)
31.小暑初候/温風至 7/7〜7/12頃
32.小暑次候/蓮始開 7/13〜7/17頃
33.小暑末候/鷹乃学習 7/18〜7/22頃
34.大暑初候/桐始結花 7/23〜7/27頃
35.大暑次候/土潤溽暑 7/28〜8/1頃
36.大暑末候/大雨時行 8/2〜8/7頃

 「カナカナ」「蜩」の句をいくつか。膨大な数がありそうです。ぼくには読み(数え)きれません。この「対象」、誰もが詠みたくなる「魅力「魔力」があるということでしょうか。あるいは「散る桜」に重ねられているのかも知れません。以下、ランダムに出してみましたが、その詠みようはさまざまであり、尋常一様ではないところ、俳句の奥の深さでしょうか。(家の猫達は、連日のように蝉を加えては帰ってくる。よく見ると「カナカナ」も。「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」どころの話ではない。「地中何年、地上何日」、その数奇な生涯を生きる「セミ」を弄んでいるのです)

・蜩は寂しと幼な心にも(上野泰)
・人の世にかなかなの啼く淋しさよ(後藤比奈夫)
・かなかなや故郷は風の沙汰なりし(細谷てる子)
・朝蜩ふつとみな熄(や)む一つ鳴く(川崎展宏)
・ひぐらしが啼く奥能登のゆきどまり(山口誓子)
・一夜寝て暁ひぐらしを枕もと(橋本多佳子)    
                                              

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