
【北斗星】AとB。2本の鉛筆で、どちらが長いかを問う。明らかにAが長いのだが、最初に問われた人はBと言う▼2番目の人もB、さらに3番目の人もB…と同じ答えが続く。その間、最後の10番目に回答する人は「えっ、なぜBなの」というふうに首をかしげる動作をして周囲に同意を求める▼だが自分に問いが回った時、その人はそれまでの9人と同じようにBと答えてしまう。これはあるテレビ番組で実験として行われたこと。9人はあらかじめ間違った答えをするように言い含められている。作家の梨木香歩さんが著書「ほんとうのリーダーのみつけかた」(岩波現代文庫)で同調圧力の一例として紹介していた▼黒いものも白と言え。そう強制しているわけではないが、暗に同じ反応をするように仕向けている点が何だか怖い。このところ官民を問わず相次いでいる不祥事の背景には、このように疑問を差し挟むことを封じる同調圧力や忖度(そんたく)が潜む例もあるのではないかと思った▼先の実験で10番目の人は、周囲の異様な空気を感じ取ったのだろう。正しい答えを言うよりも、多数派につく方を選択したのだ。日本はその場の空気で物事が決まることが多いといわれるが、議論が交わされないまま一つの方向になだれ込んでしまうのは危険だ▼近年重視されていることの一つに多様性がある。やっぱりおかしいよ、これ。そんなふうに誰もが率直に疑問点を指摘し合える雰囲気が、自由で開かれた社会には欠かせない。(秋田魁新報・2024/07/24)

よく使われる「錯覚」の事例に、左図と右下図に見られる図形があります。どちらが大きいか、どちらが長いか、と問うのですが、答えは明白で、どちらも同じ大きさ、長さ。これをいろいろな方面に用いると、人間の思考力とか観察力が案外に頼りないことが分かる。これは図形の問題として理解する限りでは、どうということはなさそうです。コラム氏が出されているような事例はどうでしょう。明らかに長短がはっきりしている二本の鉛筆があって、短い方を多くの人が長いと主張すると、ついにはみんなが「短いほうが長い」と答えるという。実にバカバカしい「同調圧力の一例」だとされる。そうですか、という他ありません。これを世間では「八百長」というのだ。

これは目の錯覚ではなく、言葉のトリックでしょう。「短いほうが長い」と多くの人がいうのだから、結局は自分も「短い方が長い」と答えるという。いかにもありそうは話ですが、もし自分の指の長さを測り(目盛り)にすれば、それこそ一目瞭然。親指と人差し指を使って測るなら、誰が計っても長短は明らかです。目の錯覚に加えて言葉の錯覚に騙されるのは、人の常かどうか、ぼくにはよくわかりません。「黒いものも白と言え。そう強制しているわけではないが、暗に同じ反応をするように仕向けている点が何だか怖い」とコラム氏は書く。いわば「同調圧力」をかけられているのが怖いというらしい。物事には絶対はなく、すべて相対的だというのは経験の教えるところです。背の高い人はどんな場合も高いことはなく、それ以上に高い人と比べれば「低い」ことになります。

アメリカの大統領候補者について、八十一歳は七十八歳に、ことあるごとに罵倒されて、結局は「老兵」は消え去った。文字通り「辞退圧力」だったとされる。その詳細はわからない、「自分から辞退したかったが、大義や名分がなかった」「引きずる降ろされるにはプライドが許さなかった」というのは真相じゃないですか。つまり援護や演出に手間取ったが、とにかく舞台から老人は降りた。その途端に七十八歳は五十九歳と並べられて、ブーメランの悲哀を味わっているかに思われます。生活哲学とも言われる立場に「プラグマティズム」があります。アメリカ起源だとされますが、堅実な生活感覚があるところ(人間)ではどこ(だれ)にでも認める態度でしょう。何かを表す時それは大きいか小さいかと、想像でいうのではなく、「私の握り拳くらいの大きさ」といえば、自他にそのおおよその形状はわかります。二人(あるいはそれ以上の人)が物事を判断する時の大きな支えになります。一メートルは百センチ、一時間は60分、一分は60秒というようなものです。観念で、大きい小さい、長い短いを問われればいくらでも錯覚の余地はある。
このような事例をして「同調圧力」というのはどうでしょうか。適切ですか。アランというフランスの哲学者がよく言っていた。健康に問題のない人を、会う人が、その都度「顔色が悪い」とか「どこか加減がよくないのですか」と言い続けると、たちまちのうちにその人は「病人」のようになる、と。その反対もありますね。勉強が振るわない子に対して、親でも教師でも「君にはいいところがあるよ」、「君はもっとできる人だ」と騙し続ければ、その子は才能を発揮するのだ。プラセボ効果というらしい。ギリシャのソクラテスもしばしば、青年たちに言っていた、「君はそんなところで立ち止まる(つまづく)ような人間ではないよ」「それは君の答えではないね」と。
●プラセボ効果【placebo effect】「偽薬効果」ともいう.効果のないはずの成分でつくられた薬剤(偽薬)によってもたらされる効果.これの効果が存在しないことは患者には知らされないが,医師にはまたとない情報源として役立つ.偽薬は治療に用いられる化合物の客観的な治療効果に対立するものとして,投薬の心理学的効果の評価に用いられている.だが「最も有効なプラセボは,患者から全幅の信頼を受けている医師である!」と喝破した大権威もおられる.(法則の辞典)

「日本はその場の空気で物事が決まることが多いといわれるが、議論が交わされないまま一つの方向になだれ込んでしまうのは危険だ」というのはたしかにそうだが、これははっきりとした意図・目論見があってのことではないでしょうか。ぼくは実際に経験したことですが、ある目的を持って作られた会議では、会議が開かれる段階では「結論(目的)」はすでに出されています。この社会で多用されている、いわば「アリバイ証明」の常套手段です。多用な意見は聴きましたよ、と骨抜きの議論を正当化する政治の劣化現象の一つです。
いわゆる「多様性」なるものの実態は均質・均一の言い換えに過ぎないことがほとんどです。「近年重視されていることの一つに多様性がある。やっぱりおかしいよ、これ。そんなふうに誰もが率直に疑問点を指摘し合える雰囲気が、自由で開かれた社会には欠かせない」のはそのとおりでしょう。ぼくには異論はありません。それでは「自由で開かれた社会」はどのようにして実現するのでしょうか。それもこれも、面倒を厭わないで「異論(おかしいという感覚)」を吐き続けることによって、初めて「開かれた社会」への一歩を踏み出すことになる。始めから与えられているものではありません。

何が正しいか、いわば正しさの感覚はぼくたちの心身に備わっていると、ぼくは経験から知りました。あの人の発言はおかしいなあと直感することができる。それを口に出して言えるかどうか、それだけが問題でしょう。そして、このことに関しては、今日の学校教育の殆どで盲目的に信仰されている「出された問題に対して、正しい答えは一つ」という迷信に冷水を浴びせることでしょう。いささかの勇気みたいなものが求められますね。それも嫌だったら、「みんな一緒」に潜り込んでいいるしかない。「多数派」があって初めて、「多様性」への糸口が見つかるんですよ。ぼくは日本人、圧倒的な多数派でしょう、この社会では。でも、この「多数派」の一人から出発して、ぼくは「多様性」の一分子であり得るのではないでしょうか。(左の問題は、問題そのものが問題だ)
しばしば、自分で自分に問いかけてきました。つまりは自問(自答)です。ぼくは日本人だ、でも「日本人」というかたまりの一部ではなく、「一人の日本人」でありたいものだ、と。さらに言えば、ぼく自身は名もなき「大衆」に浸かっているが、その「大衆」の一人ではなく、「一人の大衆」である、そこがぼくの立ち位置であり、あえて言うなら「橋頭堡(bridgehead)」です。小さな勇気と少しばかりの正義の感覚、そしてささやかな親切心、この三つばかりを失わないで、自分の足で歩いて行きたいと願ってきました。
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