この繰り返しが、政治なんだよね

 本日は荒天なり、風雨、やや穏やかなれども、台風の襲来を伺わせる。当初の報道にあった房総半島直撃は避けられましたが、なお、その風雨の程度は警戒を要すると言う。五年前の九月、台風19号の直撃を受け、当地も大変な影響を受けました。まずは度々の停電、そして断水に及び、生活に支障をきたす。繁華街(といってもたかが知れていますが)への道路が二方向で寸断(がけ崩れ)され、危うく孤立化を免れました。普段から「孤立」しているような生活をしているので、なんとも痛痒を感じなかったが、房総半島の被害は大変なものがありました。

 これを経験しているがゆえに、劣島各地の被害には敏感にならざるを得ないし、いつでも被害の多からぬことを願うばかりです。今回の台風7号の当地への本格的影響は本日夕刻からのようで、まだ安心もできませんが、なんとか、これまで通りの「プチ孤立」状態で済むことを願うのです。午前九時現在の室温28,5℃、湿度86%。実に湿っぽい気候で、この駄文を書いたら、直ちにシャワーに。それまで停電がありませんように。

+++++++++++++

 昨日は七十九年目の「敗戦記念日」。各地でしめやかに戦争犠牲者の「慰霊」の一日、ひたすら犠牲者の霊の安らかなることを祈るのみでありました。何年経とうと、戦争によって命を奪われた人々の霊は、どうあっても安息の時を過ごすことはできないのです。「再びの過ち」を断じて犯さぬという誓いによってしか、犠牲者の霊が浮かばれることはないのでしょう。政府主催の「戦没者慰霊の日」はいつまで続けるつもりでしょうか。「国」がある限り、その必要はあると思うのです。もちろん、「あらたな戦闘」を始めるなど金輪際許されないことです。「慰霊の儀式は、いよいよ偽装だと白状するようなもの。

 その前日(14日)、国民の大半が首を長くして待ち望んでいた「首相退陣」の一報が飛び出し、なぜだか、五輪の金メダル獲得よろしく、各地で「号外」が配られた。「花火」が上がったという報道はなかったと想いますが、どうだったか。次を狙う議員さんの地元では打ち上げられたかも知れない。ぼくにとっても「号外の喜び」であり、ある意味では「号外ホームラン」(とは、大袈裟ですけれど)級の念願の一報だった。自らの才能に対する自覚が著しく欠如している人間が政治(にかぎらず)のリーダーになると、国民がどれほど迷惑を被り、挙げ句には数多の苦しみを味わうことを余儀なくされるか。この三十年、あるいは半世紀に及ぶ能天気政治家の出現がこの国の屋台骨を破損してしまったことを見てもわかります。この国は「回復不能」の事態に喘(あえ)いでいると、ぼくには見えてしまう。

 本日のコラムは退陣首相の選挙区の地方紙でもある中國新聞の「天風録」です。無能ではあっても、権力欲ばかりが旺盛な総理大臣に「天誅(てんちゅう)を」加えてくれるかと期待していたが、天誅とまでは行かずとも、「天罰覿面(てんばつてきめん)と言った風情で退陣劇を揶揄していました。「(責任を)痛感ではなく、責任は取るもの」と「政治のイロハ」の諭しです。繰り返された自党や内閣諸大臣の不祥事に「任命責任を痛感」と、ゴム印を推すがごとくの陳腐な言い訳でやり過ごしてきたものの、ここへ来て、自分がどれほどひどい品質の政治家であるかを思い知らされたのか、神妙にも「党の派閥による政治資金パーティー裏金事件の引責だと言い切った」と、表向きは取り繕っているが、誰もそんな虚言を認めもしないでしょう。盗人猛々しいとは、このこと。

 つまりは、8月14日は、K総理大臣の自壊辞職の日であり、「裸の王様」にようやく気が付いた、無知蒙昧の姿を自ら葬らざるを得なくった「敗戦記念」の日となったのでした。断言できることです、この国では総理大臣の椅子を巡る「権力争い」(コップの中の「戯れ騒乱」)こそが、政治そのものになっているんですね、そのための「合従連衡」とか、「昨日の友は今日の敵」という茶番劇に人生を賭ける老若男女の離合集散劇場の、ぼくたちは観客に過ぎないと心底わかれば、もう少し我が身の処し方が違ってこようというもの。

 ハト派と目されてきた首相には、戦後日本が掲げた平和主義に基づく外交や、国民の幅広い合意形成というリーダーシップが期待された。/ところが防衛力の強化や武器輸出基準の緩和、原発活用などを国会での議論抜きに進めた。基本政策の大転換を閣議決定で済ませてしまう。そんなあしき政治手法を安倍政権から引き継いだのは、自民1強のおごりともいえよう。/政権発足時に掲げた「聞く力」は影を潜め、物価高などに伴う生活不安を拭えなかった。会見で見せた実績への自負を、国民はどう受け止めただろう。最後まで世論との溝を埋められなかったのが残念でならない。(一部抜粋)(中國新聞「社説」・2024/08/15)

 要は四面楚歌というか、自らを神輿に担ぐ人間(朋友)がほとんどいなかったというお粗末に、遅まきながら気付かされただけ。あの人も、この議員も、誰も自分にいい顔・返事をしてくれないというのは、普段から、いい悪いは脇において、彼自身が全く、仲間にすべく数多の議員の面倒を見ようとはしなかった報いだったろう。前任者の首相もそうだった。自分では死んでも辞めたくなかったが、誰も応援をしてくれない、見向きもしないと気がついたときはもう手遅れ。そんなことなら、もっとうまく手懐けてておくべきだったと悔いてみても始まらない。いよいよ、ここで「腹切」という段に追い込まれて、ようやく放った言葉が「党を変えるには自分が辞めることだ」と、首相になる時に気がついているべきだった言葉を最後に持ってきたのは、嘘も方便、そういうことでもあったでしょう。最後の最後まで、「自分を可愛がる」のは愛嬌と言うよりは、児戯に等しい思い切りの悪さだといいたい。69歳にして「老害」というのかも知れない。

 彼の残した「功罪」と問われれば、「功なくして、罪ばかり」で、もっともやりきれないのは「国会を無視」「議論を空洞化」したことでしょう。この「罪」は、現下の国の将来に致命的な損害を与えたのです。次々に総理の首がすげ替えられるという茶番政治劇が続いているが、盤石の足腰を持たない政治家が望むのは強大国の傘下に囲われることでしかないのです。この数代の首相の「米国一辺倒」はそれを示しています。この後に続く、代わり映えのしない「総理」も、当代よりもさらに格下が来ることは必死で、またまた大国の影に身を潜めることしかできない政治が続くと考えると卒倒しそうです。無償で「傘」に匿ってもらえるのではないのは、先刻承知。政治破綻は経済の弱体化をもたらすのは、どうしても避けられないのです。

 (勇気も無ければ知恵もない、凡庸でもない半端な連中の「椅子獲りゲーム」。まるで三年B組の「学級委員長」選挙の様相を帯びていると言えば、褒めすぎですか。あるいは永田町の「町内会長選挙」か。戸別訪問、誘拐脅迫、買収饗応、何でもありの、実にフシダラな選挙になるのは誰の目にも明らか)

【天風録】痛感でなく、責任は取るもの 永田町ではご無沙汰だった言葉を、やっと聞けた気がする。「責任を取る」。岸田文雄首相が次の自民党総裁選に出ないと決め、党の派閥による政治資金パーティー裏金事件の引責だと言い切った▲1強をよいことに憲政史上最長の7年8カ月に及んだ第2次安倍政権以降、中ぶらりんの扱いを強いられ続けたのが「責任」である。閣僚が不祥事で辞任しようが、「任命責任を痛感する」止まりで説明責任も果たされない。肩身が狭かっただろう▲引責退陣への話がしかし、きれいごとで進んだとは思えない。権謀術数が渦巻く政界である。麻生太郎副総裁、茂木敏充幹事長の支える「三頭政治」が崩れたのも水面下では、あれやこれやがあったはず▲何より「政治とカネ」問題に、けりがつくわけではない。35年前の伊東正義元外相の言を思い出す。未公開株の贈収賄で政官界を揺るがしたリクルート事件で退陣に追い込まれた首相の後継に目されながら、そのいすを蹴る。「表紙だけ変えても、中身を変えなければ駄目だ」と▲組織の長が責任を取ったのだから、裏金事件に絡んだ中央、地方の当事者たちにも身の処し方があるだろう。1票を握る国民はじっと見ている。(中國新分・2024/08/15)

広島選出の岸田総理が、来月行われる自民党総裁選への不出馬を表明しました。地元でも驚きの声が上がっています。/岸田総理は午前の記者会見で、来月の自民党総裁選に出馬しないことを表明しました。
岸田総理・「自民党が変わることを示す最も分かりやすい最初の一歩は、私が身を引くことであります。私は来る総裁選には出馬いたしません」/岸田総理は派閥の裏金事件が起きる中、「組織の長として責任を取ることにいささかの躊躇もない。私が身を引くことでけじめをつけ、総裁選に向かっていきたい」などと、理由を説明しました。(以下略)(RCCテレビ・2024年8月14日)

 余話ながら 昨日は、横浜から娘親子がやってきて、千葉市内にあるかみさんの母親(ぼくには義母)の墓にお参りをしていった。ぼくは猫たちのお守りのために留守番。明けて、本日はお盆の最終日。「送り火」の日です。各地でいろいろな伝統や習わしに彩られた「霊送り」行事が行われることでしょう。あいにく、房総半島は台風接近の影響で風雨ともに強くなってきました(朝9時半)。ゆっくりと「送り火」を焚くゆとりもない日になりましたが、心の内で、先祖の霊への感謝とお礼を密かに唱えようと思っています。

_____________________

「戦後」は「戦前」の仮初の姿だ

 終戦の日はいつか。「敗戦」と言わないで、どうして「終戦」と言葉を変えるのか。今なお、いくつもの疑問や問題が、「8月15日」を巡って持ち出されています。もちろん、公式に「歴史を同定する」のは誰の仕事でもないわけで、開戦があったから終戦に帰着するのは当然という受け止め方もあります。しかし、勝つために始めた戦争も、様々な要因で初期の目的を達成できなかったのだから、つまりは「敗戦」だというのも当たり前の理屈です。戦後のある時期、「無条件降伏」論がやかましく論議されたことがある。いやそれは「有条件降伏」だとか、いかにも歴史理解に直接関わりそうな様相を見せてはいたが、結局は何のことはなかった、「無謀な戦争を始めて、日本は負けたのだ」という当然の結論に落ち着いた(かどうか、未だに怪しいが)。その挙げ句に生まれたのが「大東亜戦争肯定」論だったように思う。過ぐる「戦争」は聖戦だったというのです。表現は自由だが、歴史の改ざんや捏造は許されないことではないか。同じ「事実」を巡って、関係する側にそれぞれの「歴史」があるのは避けられないのです。最終的には「歴史の客観性」は、言葉においてのみ存在します。(右図は日本経済新聞・2020/08/14)

 またある時期には「敗戦後」論という議論も賑やかに起こった。ある人にとっては「戦後」だという認識も、他者にとっては「敗戦後」と言いなおさなければならない必然性があったという次第だ。ある国のある時期の歴史は「敗戦」の後の歴史であるというのは、否定できないでしょう。無謀な戦争を仕掛け、彼我の戦力の差から言えば「竜頭蛇尾」至らないままで負け戦を続けた結果、あたら死ななくていい生命が、自国他国合わせて、数千万人も失われたのだということを思えば、とにかく、いかなる手段や方法をとっても、戦争だけはしては駄目(非戦・反戦)だという、誰もが認めるところに落ち着くと思うのだが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の類で、いつの間にか、理由はともかく、大義もなにもない「戦端」を開き、「戦局」を指揮したくなるのは、どういう神経の仕業だろうかという、深い疑念を抱くのです。

【斜面】きょうが「終戦」でなく 読者投稿の写真を手がかりに、子ども時代の戦争の記憶を語ってもらう。戦後70年の節目に始めた本紙連載で取材を重ねて実感したことがある。昭和天皇の「玉音放送」が流れた79年前の8月15日正午に、戦争が終わったわけじゃない◆佐久市の女性の叔父の命日は「昭和二十年八月十五日」。満州(現中国東北部)の国境警備に就いていて、終戦の命令が届かぬまま、ソ連軍との銃撃戦で亡くなった。「(終戦まで)生きていたのに、悔しい」と嘆き悲しんでいた祖母の姿を覚えている◆満州東部・東安省に渡り関東軍の軍属となった上田市の女性。ソ連軍の侵攻を受け鉄路伝いに吉林省まで逃げてきたところで玉音放送を聞いた。「これで主人のところへ帰れる」と喜ぶ人に高齢の男性がかけた言葉が忘れられない。「奥さん、おれたちの戦争はこれからですよ」◆そもそもポツダム宣言の受諾は8月14日、降伏文書調印は9月2日、沖縄で日本軍が降伏したのは9月7日。なのに、なぜ私たちは8月15日を終戦記念日とするのか―。上智大教授の佐藤卓己さんは、本紙評論で「本土中心的な歴史意識」を問いかける◆満州事変から始まる15年戦争と、その後11年に及んだシベリア抑留。日本の引き起こした戦禍で命を奪われた人は広大な地域に散らばっている。お盆のさなかのきょうは、犠牲者を心から悼みたい。そして視野と時間軸を広げてあの戦争を掘り下げていく。なによりメディアの責務である。(信濃毎日新聞・2024/08/15)

 ぼくは昭和十九年九月生まれです。事実として、戦時中・戦時下に生まれたことになります。物心はそれより遥かに後年、中学生になってからだという気もしますから、「身は戦時中」でも、「心は戦後」という、中途半端なことになるのは、生まれた時期が悪いのでしょうか。学校時代、それこそいろいろな教師に接しましたが、軍隊・軍人上がりのような教師はいなかったと思う。しかし、授業はほとんどが日露戦争の誉れ話という、日露オタク(小学校時代の)担任もいました。旅順や日本海海戦の件(くだり)を、それこそ黒板をいっぱいに使って、実に詳細な日本軍の実践図を展開されていた。もちろん、そんな教師ばかりではなかったでしょうが、おしなべて、政治や国防の話はタブーという教師が多かったように思います。共産党とか共産主義という言葉さえ耳にしたことはありませんでした。それをして、未熟児「民主主義」の芽生えであったと言っていいかどうか、今でもぼくにはわからない。

 ぼくが中学一年になったのは、昭和三十年過ぎのことですから、まだ「敗戦後十年」かそこらしか経過していませんでした。青空教室というものも経験した。勤労奉仕という授業も課されました。この時代、それでもわが記憶に残っているものは、ほとんどが近くの山野や神社仏閣の渉猟ばかりでした。そこには「戦争の傷跡」は殆ど残っていませんでした。京都という土地柄だったからです。「戦争」も「戦後」も、まるで無頓着に遊び呆ける少年には関心外だったと、今にして気が付きます。

 今年は「敗戦後七十九年」だと言います。ぼくの年齢に丸かぶりです。「戦後何年」という数え方が、ぼくの年齢に重なるのですから、否でも応でも、「戦後」を学ぶ意味があったと、大学に入ってから自覚したという呑気さでした。それでも、ぼくは靖国にも、千鳥ヶ淵にもあえて行こうとはしなかった。行く理由がなかったからでした。未だにその傾向は続いています。「困った時の神頼み」とかいう、怪しい神仏信心は、ぼくにはまったくないのです。慰霊の情がないとは想いませんが、それは何も神社に出かけて手をあわせることだとかぎらないわけですし、ただひとり、黙って目礼・黙祷することでも構わないと考えています。それにしても、神社というのは理由がわからない、無着苦茶なところではないかと思う。出征兵士の「武運長久」を祈祷し、戦没した兵士の「慰霊」を引き受けるのですから。

 上に掲げた何枚かの写真の中で、宮城(皇居)前で地に頭を付して慟哭している人々を見るたびに、何が人々をそのような行為に駆り立てるのか、ぼくには怪訝の念以外の何物も湧かないことに、ぼくはしばしば驚くのです。(右上写真:「玉音放送」で敗戦を知った国民)(1945年8月15日、靖国神社で)(読売新聞・2023/08/15)

 一人ひとりの気持ちが「敗戦の報」に昂じて、靖国や皇居の域内で、自然に頭を垂れ、「陛下に相すまない」という後悔の念に苛まれて泣いたのか、ぼくにはどうしても理解できない。これもまた「日本国民」が相応じた「付和雷同」だと言えば、非難されるでしょうか。「日本が負けたら、皇居前で切腹する人間がごまんとでる」と年長者から聞かされたことがありました。尽忠・報国の心が足りなかったとでも言うように、身を滅するが如く、上御一人に謝罪すると、そういう人がいなかったとは言えないが、この「土下座」の姿は、いつまで経っても、ぼくの理解を越えたままでいるのです。

 「戦後七十九年」といえば、人の一生に当たる月日ですし、戦後生れが圧倒的多数を占める時代です。いつまでも「戦後」でいいのかという議論があります。ぼくは、それはそれで構わない、いつまでも「戦後」が続くことを願ってさえいます。それがどんなきっかけで、新たな「戦前」に交代しないとも限らない政治状況が続いているからなおのこと、どこまで続く「敗戦後」を強烈に支持したいのです。まるで笑い話のようでいて、背中が凍るような小話があります。若い人に「日本とアメリカが戦争したんだ」と聞かせたら、「ウッソー」と。「どっちが勝ったか」も知らないという。「アメリカが勝ったんだ」と教えると、「それはいつですか」と、逆に問われて困ったということだった。これは半分が事実(日米戦争)で、残り半分は事実ではない(日本が負けた)のでしょう。つまり「(戦争のない)平和」が熟してくると、ここ(没歴史主義)まで来てしまうんでしょうね。

 「戦後」は「戦前」の仮初(かりそ)めの姿です。その逆もまた「真」ではないでしょうか。だから、あえて言うのですが、「今はもう、戦前」なんじゃないですかと。憲法(九条)改正を煽り、心にもない「核抑止力」行使を言いふらして政権維持を図ってきた能天気総理が再選を断念したと言う。その後釜に座りたがる無知無能な政治家は、間違いなく前総理以下の経綸の才志の持ち主です。そのために、誰がなろうが、いまは「戦前」、さらに「戦中」であることが、一層明らかになるのではないかと、老人は歯噛みしている。骨粗鬆症気味の「老骨」に、さらに鞭を当てねばなるまい。

__________________________

墓ばかりを残して、どうするのか

 俗に「ぼん」「おぼん」などと言っています。「盆」という字を当てる。正確には「盂蘭盆(会)(え)」というのでしょうが、それは「梵語」の「 ullambana 」の音訳です。京都にいた頃は、迎え火や送り火のお盆行事に何度か参加した記憶があり、八月十六日には京都の「五山の送り火」を、これまた数回見たことがります。自宅の北側には「鳥居」の山焼きがあり、誰彼となく知り合いの男衆が行事の中心にいたのを覚えている。今は、まるで観光行事の目玉のようにして、仏教に関わりがあるとも思わせないで華やかに行われているのかも知れません。

(ヘッダー写真は「ボンマルシェ」:8月16日午後8時20分に点灯される「鳥居形」。ふもとの広沢池では灯籠流し)(https://www.asahi.com/ads/clients/bonmarche/travel/travel20220812.html

 本日の「天風録」氏は、この時期にお墓参りをされたそうで、ご苦労さまというほかありません。世間では春と秋の「お彼岸」にお参りするのが一般で、この「おぼん」は新盆とか三回忌とかの忌日を記憶する人の方が多いのではないでしょうか。勤め人時代、授業よりも熱心に通い詰めた「呑み屋」の主人が昨年七月末に亡くなったという報を受け驚嘆したことでしたが、今年は、とにかくおぼんが近づいたので、「仏前」への供花(くげ)として、お盆直前に「生花」を送ったことでした。こんな無宗教の人間でも世間の付き合いにはぞんざいになれないもので、積年の交情へのお礼を示したばかりでした。

 今ではすっかり薄れてしまったが、死者との付き合い方のいくばくかは、仏教臭を放ちながら、かろうじて残存しているということかも知れません。コラム氏は「少墓」化の現象に触れておられました。「先祖代々」とか「◯❑家の墓」などと仰々しく刻されたお墓を見ると、ぼくはなんだか恥ずかしい気分に襲われる。それを笑うべきだとは言わないけれど、ぼくは、そんなところに、たとえ「骨」とは言え、放り込まれるのは「御免被る」という感情が強い。いつから、こんなにこの社会の人々が「お墓好き」になったのか、おそらくはお寺さんの執拗なる陰謀の結果・果てだろうと、昔から見ています。世に「葬式仏教」と揶揄されているように、お寺さんは「葬式仏教」という商売を営んでおられるのだ。それも石屋さんと結託して。

 ぼくの家にも「お墓」がある。おふくろが生前に無理をして購入したもので、京都嵯峨の広沢の池のそばにある。経営は真言宗遍照寺というやたらに古いお寺です。つい最近も、ぼくのところに「墓管理料」や「盆灯籠」(広沢の池に浮かべる)の費用の納入を求めてきました。兄弟姉妹もそれなりに高齢になり、お寺さんとの交渉はぼくが引き受けている。いずれ、お墓を引き払うことになると思っているが、さてどうなるか、時には愚考しているのです。ぼく自身は「墓はいらない」と思い続けている人間。骨などもどこかに捨ててくれればいいとさえ考えている。これも、ぼくがどうこうできるものではないので、残されたものがどうするか、「遺言」に背かないでほしいと念じてはいます。(右写真は広沢の池・灯籠流し)

 「先祖の敬い方、亡き人の偲(しの)び方は人それぞれに違いない」たしかに、弔い方やお墓との付き合い方に定法や法律があるわけでもありません。まさにそれぞれであってしかるべきでしょう。一体、これまでにこの劣島ではどれくらいの人間が亡くなっているのか。数えきれないほどの「お骨」が各所に散乱し、あるいは埋葬されているでしょう。「掘れば人骨」の土地柄ではあります。でも、たいていそこにはいかなる「墓碑銘」も残されてはいないのです。それでいいではないでしょうか。高々、五十年、百年、三百年程度の「先祖代々」「累代」というのも奇妙なものだと思うばかりで、もとを辿れば、みんな関係があったんでうね。さて、それではお墓をどうするという妙案は浮かんではこないので、困ってしまう、犬のお巡(まわ)りさんです。(左写真は北嵯峨・化野念仏寺無縁墓群。小学生時代に迷い込んだ初めての「異界」でした。今は観光地だってさ)

【天風録】少墓化 日が落ちてから墓参りに出かける。暑くはないが、蚊に悩まされながら熱を帯びた墓石を拭き、花を供えた。7年ほど前に墓を建てた広島市内の墓地。昭和二十年八月六日没と刻まれた墓石が幾つも。明治のほか文化、安政など江戸時代の年号も見える▲カラフルな盆灯籠が並ぶ中、ことしは初盆に立てる白い灯籠が目立った。高齢化で「多死社会」を迎えたことが感じられる。もう一つ、目立ったのはポツポツと空いた区画である。春の彼岸にあった墓石が消えていた▲納骨堂も整備されているから、墓じまいをして移されたのだろう。核家族化が進んだ社会で墓を維持、管理できるか―。子どもらに負担をかけまいと共同墓や永代供養型の霊園を望む人が増えているという。少子化ならぬ「少墓化」の流れがあるようだ▲家族葬向けの小規模な斎場や納骨堂、樹木葬の霊園…。コマーシャルでよく目にするようになった。葬送や埋葬のかたち、習慣が変わってきている。親類と疎遠になるばかりか寺社や地域との縁も薄れるのではないか▲先祖の敬い方、亡き人の偲(しの)び方は人それぞれに違いない。10年後、お盆はどう様変わりしているだろう。墓の前で問いかけてみる。(中國新聞・2024/08/14)

● 諸行無常(しょぎょうむじょう)= 仏教の命題。「諸法無我(むが)」「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」とともに仏教教理の基本的特徴を示す三法印の一つ。とくに原始仏教経典にしばしば記されている。諸行の「行」とは「つくられたもの」の意であるから、全体で「一切(いっさい)のつくられたものは時間の推移によって生滅(しょうめつ)変化し、常なることはない」という意味になる。この命題を真に理解すれば、たとえば人の死にあっても悲しむことはないといわれる。後の部派仏教(小乗仏教)はこの命題に関して「つくられたもの」と「つくられないもの」とを峻別(しゅんべつ)し、また無常の構造をより精緻(せいち)に理論的に考察して独特の体系をつくりあげていった。諸行無常は日本文学でも好んで扱われてきたテーマであるが、インド仏教の論理的考究と異なり、時間が過ぎゆくにつれて消滅する過去への詠嘆としてのみとらえる傾向が強く、日本人の仏教観をやるせなく力弱く暗いものにしてきたことは否定できない。(日本百科全書ニッポニカ)
●しょぎょうむじょう‐げ〔シヨギヤウムジヤウ‐〕【諸行無常×偈】涅槃経(ねはんきょう)にある4句の偈(げ)。諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅慰楽のこと。釈迦が過去世に雪山(せつせん)童子として修行中、羅刹に姿を変えた帝釈天からこの偈の前半を聞いて感動し、後半を聞くために我が身を捨てたという。いろは歌はこの偈の意を詠んだものという。雪山偈。(デジタル大辞泉) 
● うらぼん【盂蘭盆】=〘 名詞 〙 ( [梵語] ullambana 「倒懸」の音訳 ) 陰暦七月一五日を中心に行なわれる仏事。祖先の霊を自宅にむかえて供物をそなえ、経をあげる。現在では、一三日夜に迎え火をたいて霊を迎えいれ、一六日夜に送り火で霊を送る。もともと「盂蘭盆経」の記事にもとづくもので、日本で公に行なわれたのは、推古天皇一四年(六〇六)といわれ、聖武天皇天平五年(七三三)からは宮中恒例の仏事となった。一方、民間の盆行事の中には仏教要素以外のものも多く、正月に対応する祖霊祭の要素が強い。盂蘭盆祭(うらぼんさい)。盂蘭盆会(うらぼんえ)。魂祭(たままつり)。精霊会(しょうりょうえ)。歓喜会(かんぎえ)。盂蘭盆供(うらぼんぐ)。盂蘭盆供会(うらぼんぐえ)。うらんぼん。おぼん。ぼん。《 季語・秋 》(精選版日本国語大辞典)

____________________________

人間にはしてはいけないことがある

 「一枚のものがたり」(東京新聞)という連載があります。ほぼ二年前から、月一回(第2土曜日)あてのもの。「一枚の写真の背後には、時に思いもかけないドラマや、忘れることのできない思い出が隠れています。一線で活躍する写真家から名もなき市井の人々まで、さまざまな人が印画紙に刻んだ『一枚のものがたり』をひもといていきます」(東京新聞の「文化」欄の白眉と言いたいほどのもので、ぼくには他のどんな記事にも増して「秀逸」と思われるもの。たった一度だけ、この連載からの紹介をしています。鋤田正義さんが撮られた「母親」の一枚です。

 今回は、浦沢尚さん。東京府中市の小学校の教師。撮った写真家も撮られ教師も、共に物故されている。教師を被写体にした教室の中の一瞬間、何気ない一枚に、ぼくは思わず引き込まれてしまいます。ぼくには未知の教師でしたが、「さぞかし、素晴らしい教師だったのだろう」と、ぼく自身が教室(児童として)にいるような錯覚に囚われてしまいます。小学生に向かって「人間にはしてはいけないことがある」と言い切れる教師がいたからこそ、それを生涯忘れないで生きる決意をした児童がいたのでしょう。

 「(児童の)村田が覚えているのは、給食がない頃、昼休みに背広のポケットをぱんぱんに膨らませた浦沢の姿だ。『(弁当がなくて)教室を出て行く子がいたんです。先生はポケットのおにぎりを、その子たちにそっと渡していました』。被写体の一人、村野喜代江(74)は、放課後にいったん帰宅し、幼い妹を背負って学校に戻った。『先生が妹を負ぶってくれて、私が遊ぶんです』。帰りも浦沢が妹をおんぶし、手をつないで駅まで送ってくれたという。自らも教職の道に進んだ村野は『方向付けをしてくれたのは先生です』と話す」(以下に引用した東京新聞より)

 昭和の先生、戦争を経験した先生。教師という職業の真骨頂は、教師の振り絞った言葉(肺腑の言)を、自らの生の中で生きる縁(よすが)にする子ども(児童・生徒)が存在するということではないかと強く思ってきました。浦沢さんの写真を見ていると、ぼくには何人もの「教師たち」の面影が、順不同に思い出されてきました。その多くが小学校時代の教師たちだったのは、当たり前のようで、ぼくには意想外のことでした。もう、七十年以上も前の「触れ合い(出会い)」ではありましたが。その顔つき口ぶりまで、ぼくは忘れていません。この「一枚の写真」に残されるような教師は、きっと至るところに、どんな児童の前にも存在したでしょうね。「忘れがたき教師の面影」ではあります。

 それにしても、小学生に向かって「人間にはしてはいけないことがある」と言うのが口癖だった教師がいた時代、そんな教師を受け入れた児童がいた時代を(もちろん受け入れたくなかった児童もいたことを忘れない)、遥かなこととして想像してみる。 

 1963年春、東京都府中市立府中第四小学校。6年5組の社会科の最終授業で、担任・浦沢尚(ひさし)が教壇に仁王立ちし、グラフ雑誌を開いて見せた。「人間が人間にこういうことをしたことを、あなたたちは忘れないでほしい」/「原爆被害の初公開」と銘打たれた「アサヒグラフ」52年8月6日号。「広島 原爆犠牲都市第一号」と見出しのついたページには、顔や体をひどく焼かれ、ゴザに寝かされた少女の姿があった。「その時の浦沢先生の目と、写真が忘れられません」。村田未知子(73)は、この日をきっかけに被爆者に関心を持ちはじめた。高校生になると、友人と広島、長崎を訪問。31歳で東京の被爆者団体「東友会」の相談員になり、今も理事として会を支える。「浦沢先生の一言がなかったら、私はここにいない。人生の師です」/口癖のように「人間にはしてはいけないことがある」と語っていた浦沢。原爆投下は、究極の「してはいけないこと」だった。/1958~59年、四小の浦沢学級に通い詰めた若いカメラマンがいた。東京写真短大(現東京工芸大)の学生だった中村太郎(40~2023年)。自身も府中一小で教え子だった。中村は7カ月間に約2100枚を撮影。しかし発表することはなく、いつしか記憶の奥にしまいこんだ。それを思い出すのは、40年以上後の2002年、1996年に71歳で没した浦沢の七回忌の場だった。浦沢の妻から「あなたが持っていた方がいい」と、箱に入った密着焼き(コンタクトプリント)を渡された。中村はネガを探してプリント。2009年春、東京のフォトサロンで開いた作品展「浦沢先生と多磨の子供たち」で89枚を展示した。図録の表紙は、浦沢が唯一、カメラ目線で写った一枚にした。(以下略)(東京新聞・2024/08/10)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/346658?rct=photostory
 JCIIフォトサロンでは、来る2009年3月31日(火)から4月26日(日)まで、中村太郎作品展「-東京都府中第四小学校 1958~59-浦沢先生と多磨の子供たち」を開催いたします。/中村太郎氏は、毎日新聞社写真部に在籍し37年間にわたり報道写真の分野で活躍されていました。1997年に退社された後はフリーランスとして写真を撮り続けています。中村氏独特の、撮影する環境に溶け込み、自然の流れの中でそっと撮るというカメラワークは被写体の警戒心を取り払い、あるがままの表情を写しだします。/中村氏は東京写真短大(現東京工芸大学)に進んだ半年後、自身が小学校時代多大なる影響を受けた恩師、浦沢尚先生を訪ね、当時の勤務先であった東京都府中第四小学校の教室を撮影しました。/そこに写されている小学生の日々の風景は、驚くほど自然で中村氏がどれほど教室に溶け込んでいたかを伺い知ることができます。またカメラが意識されていないことにより、その先にある先生と生徒の信頼関係や子どもたちのいたずら心など、繊細な情景までも見事に描写されています。/これらの作品は、撮影からちょうど半世紀が過ぎた今、1950年代の日本の小学校を詳細に撮影した貴重な記録です。お弁当の様子や校庭でのダンス、遠足や身体検査など、その後の高度成長期を支え、現在の日本を担う団塊の世代の幼き日々を見てとることができます。/本展示では、50年前の当時の文化や小学生の活き活きとした表情を記録した作品群、約80点(すべてモノクロ)をご覧いただきます。(日本カメラ博物館:https://www.jcii-cameramuseum.jp/photosalon/2009/03/31/9030/)

_________________________

日日是好日(にちにちこれこうにち)

 一週間を区切って、7日間の、それぞれの日々を眺め直すと、何かと大事や心配事が続く一週間というものがあるのでは、そんなことを考えてみたくなります。長い時間の経過のうちの一週間を取り分けて、何かを言うことは褒められたものではないでしょうが、八月の初旬は、それこそ、歴史的にもいろいろな試練が続いたことは事実ではあるでしょう。「歴史から学ぶ」というのは、記憶のひだに歴史の事実を留めることをさして言う。

 よく「持続(継続)は力なり」と言って、何事によらず長続きさせることは大変でもあり、だから貴重でもあるということでしょうか。ぼくは性格からすると「飽き性」で、長続きしないことばかりが目立ちます。学校の教師はしばしば「勉強する習慣をつけなさい」というが、習慣化できるのは、例えば喫煙とか飲酒のような場合、あるいは薬物摂取など、余りいい面では言われないのではないでしょうか。それを続けるのが癖になる、あるいは「中毒」になるような時に習慣化できたと言えるのでしょう。つまりは、脳細胞がしっかりと味も効用も記憶してしまうということです。

 果たして「勉強」することが「中毒」になるなどあり得るのでしょうか。ぼくには「勉強」が習慣化した例(ためし)は一度もない。しばしば「三日坊主」などと、物事が長続きしない時に非難される言葉として使われてきたようです。ぼくも、この「三日坊主」に最もよく当てはまる人間ではないかと自認さえしています。これまでの長い人生で「日記」を書き続けたことは一度もない。いろいろな人の日記を読む機会がありましたが、よくぞ、これほど続けられるものだと言う感想しか持てなかった。メモ程度でもいいから、毎日書くとなると、まるで「苦行」そのもので、ぼくにはとてもできない相談でした。しかし、たとえメモであれ、書き進めていくと分かるのですが、毎日が同じような出来事の繰り返しかと思えば、どうしてどうして、決してそんなことはないのがはっきりと分かる。どの一日もなければならない、命にとってもかけがえのない一日なんですね。

 「徒然に日乗」と題して「日記(日乗)」を書き始めたのは、2022年9月14日とあります。間もなく三年目に入ります。いかなる魂胆から始めたか、すっかり忘れました。しかし、これもまたその日暮らしの、その日だけの記憶を、つまりは「暮らしの記憶を」、その日だけのものとしてでも留めておきたいということだったかも知れません。朝起きてから夜寝るまでの「終日(ひねもす)」の一コマ一コマが、記憶のスクリーンに映し出されないままで、時間ばかりが経過することへの薄寒さというか、あるいはいささかの恐怖を感じたからだったでしょうか。

 その日一日を惰性で過ごすのは、ぼくには避けられない生き方の流儀です。その「惰性」の中にも、意識の有無には無関係に「日々是好日」という感触を求めていたのは確かでしょう。「日乗」書初めの日の、駄文が残っています。

 「日々是好日」とは「碧巌録」(禅の公案集)中の雲門文偃(うんもんぶんえん)の言葉。いいことも悪いことも、生きていれば、尽きないものです。毎日の生活、あるいは出来事に「一喜一憂」するのは禁物、いや愚かなことで、「毎日がいい日でありますように」「生きていることに感謝する」というような、禅問答中の雲門師の「答え」だったとされています。いいことも悪いことも、メモリ(尺度)を大きく取れば、同じじゃないかということのようですね。つまりは「五十歩百歩」「似たりよったり」「大同小異」、そんなことに齷齪(あくせく)しても、得るところはないしなあ、とやり過ごせるといいね。(2022/09/14)

 そんなことで、ぼくは飽き性の特権として「三日坊主」を続けています。「三日」続けて一日の中休み。これを飽きもしないでと言うと語弊がありますが、飽きながら、呆れながら続けています。「いいこと」も「よくないこと」も、大きな目盛りを当てると、人間のすること、ほとんど誤差の範囲という塩梅で、あまり細部や最小部に拘らないで、まあ「朝飯」を食べるように、日々、ぼくは「記憶の再録・再生」を試みているのです。

 (山岡鉄舟の書に「晴れてよし、曇りてもよし富士の山、元の姿は変わらざりけり」とある。「富士に変わりはあるじゃなし」ですね)*雲門文偃(864~949)(右上画)「擧。雲門垂語云。十五日已前不問汝、十五日已後道󠄁將一句來。自代云。日日是好日。」(「碧巌録」第六則)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

「徒然に日乗」(469~475)

◯2024/08/11(日)極めて蒸し暑い一日だった。何もしなくても体が疲れる。▶昼前に買い物。地震の際の必需品を補充する。カセットガスボンベなど。仮に停電や断水があったら、困るのは風呂とトイレ。こればかりは大いに工夫のしどころが残されている。そうなったらなったときのことで、今からどうのこうの騒いでも仕方がないだろう。「南海トラフ大地震」の確率は極めて高いが、いつ来るかは未定。ということは、これまでと変わらないのだ。その前に、目前の台風に気を配るべきだろう。5号と6号が前後して発生したようで、風の被害より雨(線状降水帯)のほうが心配されるのが、今日風。5号は岩手や宮城を直撃しそうだ。(夜10時過ぎ。室温30.4℃、湿度75%)(475)

◯2024/08/10(土)毎朝、四時過ぎに約一時間、決まったように蜩(ひぐらし)の一斉合唱が始まる。一時間ばかり過ぎると、方々で鳴いていたのがほぼ同時に止む。これは夕方も同じ。それこそ、ぼくの耳に届く範囲でいうと、およそ一キロ四方の範囲で、互いに声を届けあって鳴き出し、そして徐々に鳴き止む。実に不思議に思える現象。正確に毎朝、薄明かりの中で鳴き出すのだ。夕方も同じ。もう少し丁寧に調べてみたい。▶蒸し暑い、やや曇り空の天候。昼過ぎに自宅前の空き地の草を刈り出した。背丈は約2メートルもあろうか、なかなかに手間がかかり、ほとんど刈り進めることができなかった。加えて、刈払機の羽が摩滅していて、十分な切れ味がなかった。次回は必ず新しい刃に変える必要があろう。およそ一時間で、かなり疲れたので、止むなく中断。先が思いやられる。▶現在、夜八時半過ぎ。室温29,8℃、湿度72%。全くの熱帯夜。幸いに、周囲の木々が風を作り出してくれるので、暑くて寝られない事はまずない。(474)

◯2024/08/09(金)七十九回目の「長崎原爆記念日」に、戦争中のイスラエルを招待しなかったために、G7の各国駐日大使は参加を拒否した。つまらないというべきか、極めて不可解な理由で、「核兵器反対」を表明しないのだから、広島ともども、被爆国の訴えは世界に、世界の指導者に響いていないことになるだろう。▶夜八時直前、神奈川県直下を震源とする震度5弱の地震。南海トラフの地震注意情報が出されているさなかの発生。西の宮崎から東の神奈川へ、まさしく南海トラフの震源域に収まる不穏な地震だった。大過ないことを願うばかり。(473)

◯2024/08/08(木)終日自宅。お湿り程度の量が何度か降った。酷暑はいくらか和らいだが、それでも気温三十℃、湿度80%というのだから、体には堪える気象だ。本日は、庭作業は中止。体の疲れがとれないままで数日過ごしている。▶先週金曜日以来の株の乱高下はまだ落ち着かないまま。世界同時安という展開もあって、なかなか国内だけで(が)安定することはないのは当然。日銀と政府の根本政策がどうなっているのか、先を見据えているとはとても思えない「場当たり」状態が見られるのは、いかにも不安。▶午後4時過ぎ頃、宮崎・高知あたりで大きな地震が発生、震度5弱、マグニチュード7.1。南海トラフ地震の恐れなしとしないと気象庁。(472)

◯2024/08/07(水)終日自宅。これまでのような猛暑日ではなく、曇り空の天気。午後には一雨あった。なにかと疲れが残っているようで、二時間ほど昼寝をした。三時頃に庭の草取りを初めたところで、また一雨。途中までで中断。裏庭と表庭を合わせて、除草作業の三分の一程度は終わったか。裏の斜面と道路を挟んだ前の空き地の草がこれまでにないほど伸びている。作業終了までに、一体どれくらいの時間がかかるのだろうか。▶株価の高騰が止まらない。急激な円安も一休みか。一気に千円超の高騰があった。今日と昨日の2日間で、今回の歴史的暴落を取り戻した気配があるが、日本株式のこの先はどうなるか、見通せない。いろいろと、専門家らしい人々が理屈を並べているが、結局は「投機筋」の恣意的な株式売買に加えて、これまでの経験や教訓が生きていない「ネット投機」勢力が、世界規模で、今回の高騰暴落を演じた気もする。人間が判断して売買する時代ではなく、膨大なデータを背景にした「コンピュータ投機の時代」の、想像もつかない投機形状が、今までに見られなかった株売買の乱高下をこれからも演出するだろう。(471)

◯2024/08/06(火)午前の取引開始直後に日経平均は千円以上も高騰。前日の暴落のかなりの部分を取り戻す勢いで、最終的には3200円超の株高。このジェットコースターのような市況の様子はもうしばらく注意しなければ、確たることは言えそうにない。Fund wrapは、この週初2日間で250万超の損失が出ている。(7月下旬以来では500万ほどの損失が出ている。それをみても、世界経済は全体に悪化していることが分かる)▶午前中に買い物。茂原まで。▶一時前に土気駅へ。友人(元同僚・宗教学研究者)のT氏がくる。駅前のイタリア料理店で休憩。少しも変わらない彼。77歳になるということだった。家族と大原に休暇できた帰途に声をかけて、寄ってくれた。昨年も同じ時期に何年ぶりかで再会していた。数年前に膀胱癌に罹患したということだったが、回復著しく、大いに健康に自信を持っていた。二時間ほど話して、再会を約す。▶七十九回目の「広島原爆の日」。今なお、世界の至る所で「核」を弄んでいる者がいる時代。広島はいかにして「非核」「反核」を訴えることができているのか。足元の総理が「核の抑止力」を声高に騙っているという恥ずかしい現実。(470)

◯2024/08/05(月)先週金曜日の驚愕すべき株安が、予想した通りに、週明けになっても、一向に止まらない。寄り付き早々、千円超の下落。この間一貫して下がり続け、終値は4400円超の史上最大の下落。アメリカも下落で、世界同時下落の相場展開になった。理由はいくつかあるが、要するに、日本の「株」が世界の投機筋にいいように売られた結果といったところ。騰がる材料もないのに4万円超を付けること自体(事態)が、実体経済を反映していなかった、その反動で、日本市場がいいように荒らされたのだと思う。下落前の専門家の意見を聴いていると、バカバカしくなるほどに滑稽で、いかなる好材料もなく、ひたすら円安(ドル高)と物価騰貴による株高が生み出されてきただけであって、大会社の最高利益も、実態のない表面だけの見せかけだったことが分かる。この先、どうなるか、本日以降の相場展開をじっくりと見ておきたい。▶昼前に買い物。午後、日の翳るのを待っての庭作業。前庭の除草をやる。これで雨でも降ればまた一気に草類は伸びるだろう。湿気の多い中で、2時間ほども続けたろうか。まだまだやるべき作業は多い。(469)

_____________________________

偽りても賢を学ばんを賢と言ふべし

▣ 週のはじめに愚考する (第參拾壱)~ この「週初に愚考」という外題(げだい)だけを見ると、「週中や週末は賢明なる思考」に裏打ちされた「駄文」(言語矛盾)が出るかも知れぬと早とちりされる向きがあるかも知れません。筆者の真意は「週初以外は愚々考」を正直に示しているつもり。駄文をお読みいただければ、それはもう言わずもがな。駄文と称し、雑文と称して、よしなしごとを書きなぐっています。大小取り混ぜて、もはや二千にもなった「駄文のブーケ」といえば、厚かましいとお叱りを受けるでしょうか。

 駄文書きなぐりの本意は、まずは、衰弱著しい「記憶力」の減退をいささかなりとも下支えし、それに抵抗すること。「効果の程」は確認できていません。もう手遅れであることを承知で、「愚考」を重ねれば、あるいは記憶の落とし物に再会できるかも知れないというささやかな望みから、です。第二は、記憶が誤りでなければ、ぼくは十数年前まで、都下にある小さな学校の「教師まがい」を四十年以上続けてきたので、そんな拙劣な経験を包み隠さず言葉に載せれば、あるいは後学の誰彼に何らかの参考になるかも知れないという「お節介」「世話焼き」からの駄文の綴りでした。(もちろん、ぼくはこの駄文を一人でも多くの方に読んでもらいたいという考えはまず持っていない。今風のブロガーではないということ。ひたすら「文を書く」「駄文を綴る」ということが眼目で、そのために、貧しい我の脳内の辞書を枯渇させないための苦肉の策。そればかりが文を書く動機であり、目的です)

 閑話 ただいま、朝の五時直前。今朝も四時起床。しばらくすると「蜩(ひぐらし)」の合唱が始まりました。遥かに遠くから、かすかに聞こえた一声に、少しずつ輪唱の重なりと高まりが素晴らしい。毎朝のソプラノ・メゾソプラノ・アルトの三部合唱。(バリトンやテノールはいない、と思いたくなるが、鳴くのはメスではなく、オスばかり。それはなんと、ラブコールだそうで、ひときわ、見目ではなく、聞き耳麗しくナンパ(軟派)をしているのでしょう)この輪唱(合唱)はおよそ一時間ばかり続きます。日の出は今は五時ころですから、それよりやや早く歌いだし、空が明るくなりだすと、賑やかで重厚な合唱はわずかばかり時間をずらして、輪唱のスケールは小さくなり(デクレッシェンド)、次の奏者(別種の蝉や鶯など)にバトンを渡すようです。

 これが毎朝続けられる。おそらく近くにいるであろう鶯(うぐいす)たちも「蜩合唱団」の声量と清涼感溢れる輪唱に耳を澄ましていることでしょう。時々、カラスの「ダミ声」が入ることがある。ご愛嬌ですね。早起きの得(三文分)だと悦に入っている。たぶん、蜩は素人ではなく、立派な「セミプロ」でしょうか。「たちまちに蜩の声揃ふなり 」(中村汀女)

+++++++++++++++++

 閑話休題 「徒然草」を自由に読んでみるという試みも、この「駄文」書きなぐりの余得だったかも知れません。高校時代以来、思い出したように兼好さんに言及したり、読み直したりしてきましたが、この数年間、まったく自己流に読みほうけてきた。研究でもなんでもないし、他人様に「ご笑覧あれ」と差し出すものでもないので、それこそ勝手放題に読み散らしてきました。いろいろなことが言えそうですが、たった一つ、吉田兼好という人は、出世を願い、家業の神職も歌道にも精進したが、ついには受け入れられず、ある意味では挫折した人生を歩いたとも考えられます。今風に「挫折」と言っても、彼は生きることに失望なんかしないどころか、いよいよ「生への執着」が襲ってくるという塩梅だったでしょう。

 「徒然なるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆく由無し事を、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」(「序段」)暇にあかせて、思いつくことごとを言葉に置き換えてゆくと、まるでそれが書きたいことだったかのように、何かと感興が湧いてきて止まらないのだ、と兼好さんは書く。つまりは、胸中いっぱいに蟠(わだかま)りがあったのだと告白するのです。ぼくは老人になって、することもないから、寝っ転がって「徒然草」でも読んでみよう、そうすればいささかの感想が湧くかも知れぬと、至って呑気で不真面目は気分を維持してきました。でも書き続けていくと、時には狂うばかりに物思いが激しくなる、その勢いが分かるのです。

 以下の引用も、どこかで出しているはず。短いものですが、兼好という人の「思想」(つまりは、彼の生きる姿勢や態度というもの、「思想」は形のないものではなく、日常の振る舞いとして認められるもので、ぼくたちが「思想」と称するものは「言葉の集まり」「種々(くさぐさ)の文章」に過ぎない)が如実に顕現しているものと、ぼくは感心して読んできました。人間の心など、いつもまっすぐとは限らないから、時には偽り(間違い)もあろう。でも、中には真っ正直な人もいるものだが、自分が素直じゃないから、他人の「賢明さ」を見て、それを羨むのは世の常だと言う。まるで見透かされているようで、気恥ずかしい気もします。

 ものを学ぶというのは、自分が賢くなるためだからであって、たくさんの知識を覚えること(学力を高める)なんかではないのは言うまでもありません。もっとも愚かな人は、賢明な人の振る舞いを見ても、これを悪しざまに憎む。「下愚の性」は、治る見込みは絶無だから、ものをまっすぐに学ぶことはできないのだ。「驥(き)」という名馬の振る舞いを学ぶなら、それは「驥」となり、名馬とされるのだ。「舜」という賢王の挙措を学ぶと、たしかにその人は「舜の仲間」となるだろう。「偽りであっても、賢人の素行を学ぶなら、きっとそれは「賢」そのものになるのだ。嘘だと思うなら、やってご覧なさい」、そのように兼好さんは自らの経験を語っているのです。

 「人の心、すなほならねば、偽り無きにしもあらず。然れども、自づから正直の人、などか無からん。己れ、素直ならねど、人の賢(けん)を見て羨むは、尋常(よのつね)なり。至りて愚かなる人は、偶々(たまたま)、賢なる人を見て、これを憎む。「大きなる利を得んが為に、少しきの利を受けず、偽り飾りて、名を立てんとす」と譏(そし)る。己れが心に違(たが)へるに因りて、この嘲(あざけ)りを成すにて知りぬ、この人は、下愚(かぐ)の性(せい)、移るべからず、偽りて、小利をも辞すべからず、仮(かり)にも賢を学ぶべからず。

 狂人の真似とて、大路(おほち)を走らば、則ち狂人なり。悪人の真似とて、人を殺さば、悪人なり。驥(き)を学ぶは驥のたぐひ、舜を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを賢と言ふべし」(「徒然草 第八十五段」)(「徒然草」島内裕子校訂・訳 ちくま学芸文庫版)

 最近、不穏なことが続きます。ぼくには興味はありますが、手元不如意で、指を加えて見ているだけの一観客に過ぎません。いつのころからか、「ネット資本主義(net capitalism)」という新分野が大きな勢力を占めているそうです。小さな資本から数年をヘズして大資本を蓄える「若い資産家」や「老練な財産家」が各地で名を挙げています。過日の「世界同時株安」と、その後の乱高下をもたらしたのは、実体経済ではなく、「むしろ、ネット資本主義の勢力が大きな存在を示したから」だといいます。ものを生産したり商売をするのではなく、目に見えない「資本(金融)」をコンピュータに任せて瞬時の高速取引を日々休むこと亡く繰り返していると言う。まるで機械仕掛けの「スロットマシン」で、瞬く間に大金を得たり失ったりするゲームのようです。部屋中にモニターを開いておいて、それぞれのマーケットの売り買いを、アルゴリズムを読むことで、AIが動かしている。一直線に株価が下落したり(売りが売りを呼ぶ)、その反対に高騰するのは、決して人間業ではないということを教えられている。

 すごい時代に、ぼくたちは生かされているのを実感します。やがて、我々の一挙手一投足もまた、あらゆるデータを仕込まれたコンピュータ(AI)が判断することになるのでしょう。もう、すでにそうなっているとも言えます。世界の終末もまた、AIの手の内にあるするなら、何をどうすれば、人間らしい賢さを失わないで生きられるのか、大いに愚考するばかりです。

 今の時代、「賢い」というのは、それまでとはまったく趣きも方向も異なるようで、まるで自動運転の車で自由にあちこちに移動できる生活を満喫する人がいかにも賢そうだという気がしてきます。しかし、些細な故障や事故がきっかけで、自動運転を支えていた構造(インフラストラクチャ)が壊れれば、たちどころに生活の基盤を壊されてしまう。現代人は、まるで無防備で絶壁の直前を目隠しされて動いているような状態に置かれています。半導体に主導権を握られている生活において、人間の賢さは、それでも意味を保てるのでしょうか。(「南海トラフ」の大型地震がいかにも急襲しそうな報道が出されているが、次の瞬間に来るか、あるいは百年後か、それとも、…。これもまた、アルゴリズムのシミュレーションが示す危機感であり、いかにも予報に似せて、ほとんど無知であることを示してもいる、そんな「曖昧」な危機・機器の時代が、今後の世界なのでしょうか。「備えあれど、憂いあり」ですね。

● アルゴリズム(algorithm)(algrism)算法ともいう。計算の方法,作図の手順,問題を解く手続きなど,一般に情報処理の具体的な方法,手順。例えば定規とコンパスで〈与えられた2点の中点を求める方法〉,計算の繰返しによって〈与えられた2数の最大公約数を求める方法〉(互除法)などがアルゴリズムの基本的な例である。/アルゴリズムの語は,アラビアの数学者フワーリズミーに由来する。12世紀に彼の著作がラテン語に訳されたとき,その書名にアル・フワーリズミーから採ったアルゴアリスミalghoarismiなどの語が冠せられた。その後algorismとつづり,アラビア数字,アラビア式記数法,算術などを意味したが,数を意味するギリシア語arithmosと結びついてalgorithmともつづるようになった。現在〈算法〉という意味ではこの後者がおもに用いられる。
アルゴリズムの意義
ギリシアの三大難問(たとえば〈与えられた任意の角を3等分する一般的な方法を示せ〉)や,代数方程式の解の公式を求める問題は,どれもアルゴリズムの問題と考えることができる。これらは(四次以下の方程式の解の公式を除き)否定的に解かれたが,数学の発展に大きな影響を及ぼした。1930年代に数学基礎論の一部で,論理の限界の研究に関連して,アルゴリズムの一般的な概念(計算可能性)とその限界が論じられた。40年代には,電子計算機の登場によって,アルゴリズムは実用的かつ緊急の意味をもつようになった。どんな仕事でも,電子計算機に実行させるには,そのためのアルゴリズムが必要不可欠だからである。この重要性は電子計算機の普及とともにますます一般化しつつ,現在に至っている。
アルゴリズムとプログラム
アルゴリズムは客観的に明確で,どのような場合に何をなすべきかがつねに具体的に指定されていなければならない。〈適当に〉とか〈主体的判断によって〉などということは許されないのである。そこでアルゴリズムを記述する際に,次の事がらをあらかじめはっきりさせておかなければならない。(1)どんな基本操作が許されるか。(2)適切な基本操作を選択するために,どんな条件の判定が可能か。(3)基本操作およびその実行順序を,どのように書き表すか。例えば作図アルゴリズムにおいては,2点を結ぶ直線をひくこと,ある点を中心にある半径の円を描くことなどが基本操作となる。また〈ある直線の上に,ある点Pが乗っているかどうか〉などはいつでも判定可能とみなされる。作図アルゴリズムはこれらの基本操作および条件判定の列という体裁をとる。複雑なアルゴリズムの記述のためには,実行順序にまぎれが生じないように,人工的な〈記述言語〉あるいは〈プログラミング言語〉を設定し,それに従ってアルゴリズムを記述する。その結果を〈プログラム〉という。(以下略)(改訂新版世界大百科事典)

_________________________