かぼちゃのつるが はい上がり

【明窓】かぼちゃのつるが 実家の縁側の向こうでゴーヤーのグリーンカーテンが風に揺れている。今年は酷暑のせいか育ちが悪い。とはいえ少しずつでも伸びるつるに、思い出す詩がある▼植物の成長がつづられた『かぼちゃのつるが』(原田直友作)。小学校の国語で習った。<かぼちゃのつるが はい上がりはい上がり 葉をひろげ葉をひろげ…>。言葉の反復が印象的で主語が「かぼちゃのつる」から<細い先は竹をしっかりにぎって><小さなその先たんはいっせいに 赤子のような手を開いて ああ今空をつかもうとしている>とズームアップされるのも、より力強さを感じさせる▼習った当時はそこまでの印象がなかったが、進級の際に担任が文集で引用し、「はい上がり葉を広げる姿は今の君たち。つらい時はじっと耐え、大きく伸びて、大きな人間になってほしい」としたためた一文を、学生時代は座右に置いた。無限大の可能性を信じてくれる存在が支えになった▼島根県内の小中学校は早いところできのう、2学期が始まった。厚生労働省の調査によると、4月や8、9月は自ら命を絶つ10代が多くなる。学校再開に関連があることは明らかで、命を守る対策に全力を注ぎたい▼専門家によると、自分の主張を押し付けて子どもたちを変えようとせず、不安な気持ちに寄り添うことが大事だという。何かをつかもうとしている子どもの手を引っ込めさせてはならない。(衣)(山陰中央新報・2024/08/27)

 昨日、八年ぶりくらいで卒業生と会いました。前日メールを寄越し、「明後日で夏休みが終わる、できれば明日(26日)にも訪ねていいですか」とあった。昨年も来てくれることになっていたが、当方の都合が悪く延期してもらっていた。今夏も、あまりにも暑く、どこにも行かず仕舞い。数日前に韓国に行ったきりなので、「短時間でも、そちらにぜひ伺いたい」と言ってこられた。いつも暇を持て余している人間ですから、「どうぞ。ただし、かみさんが夏バテ気味なので、できれば、最寄りの駅で落ち合いましょう」と当方は、JR外房線の土気駅まで出かけた。お昼前だった。酷暑というほどでもなかったが、あちこち出歩くには厳しいので、駅前のカフェで、しばし休憩した。

 彼女は、小生が担当していた演習(ゼミ)の卒業生。その当時は、民間企業に務めるようなふうだったが、卒業後、数年して「教師になりたい」と一念発起。小学校の免許を取って三年がかりかで「小学校教諭」になった。現在は世田谷区の公立小学校勤務。そこはもう五年目だという。いろいろな話をしたが、彼女の気質というか、あるいは美点と言ってもいいが、そんなものをいくつも教えられた。在学中には全く気づかなかった。本人もそうだったという。まさか小学校の教師になるということは想いもよらなかった、と。さらに「いつも保護者とぶつかっています。校長たちも頭をかかえている」「なにか悪いことをしてるのではないので、滅多に頭を下げることはない」と、とても頑固な性格を曲げないで、そのまま十分に素性を発揮していて、意外に思ったところ、「親とはぶつかるが、私は子どもが大好き、子どもも私が好きなんです」と、いともあっさり言ってのける。この感覚・感受性は「天性」のものでしょう。

 彼女にこんな大事な一面があると気が付いて、ぼくは感心したり嬉しくなったり。現在は小学校三年生を担当しているという。ぼくの持論ですが、教師としてもっとも面白いのは小学校、こんな印象をいつしか持つようになりました。小学校教員の経験はない。でも小学生といろいろな場面で長く付き合ってきましたから、これはぼくの実感でもあり、多くの先輩教師の経験談でもありました。教育というより、養育、あるいは介護とでもいうべき場面が必ず出てきます。教師が、いい意味でも、より多く子どもに関わる必要があるということでしょう。当節の家庭事情から、さまざまな「子どもたち」が教室にいます。ある人が言っていたことです。幼稚園に入る前の「家庭段階」の親子関係が決定的に重要だと。子どもを育てているのか、壊しているのかわからない親たちもいるでしょう。教師は親代わりでもあるだろうし、子どもに曲がっている所があれば、直してやりたくもなろう。そこに「教育」があるからです。

 かぼちゃのつるが  原田直友

 かぼちゃのつるが
 はい上がり
 はい上がり
 葉をひろげ
 葉をひろげ
 はい上がり
 葉をひろげ
 細い先は
 竹をしっかりにぎって
 屋根の上に
 はい上がり
 短くなった竹の上に
 はい上がり
 小さなその先たんは
 いっせいに
 赤子のような手を開いて
 ああ 今
 空をつかもうとしている

 今でも「かぼちゃのつるが」は教材となっているのでしょうか。昨日、卒業生に会うために駅に向かっていたら、小学生や中学生が下校するところに出くわしました。横断歩道を渡る子どもたちを、道路を挟んだ両側(信号機の下で)で、四人も五人もの教師たちが見守っていました。相変わらず、大変な勤務ぶりだなと感心もしたのでした。長い休み明けの登下校だから、事故に合わないようにと注意深く見守る必要があったのでしょう。小学校中学校だからと、取り立てていうことはない。高校や大学の教師だって、全く別の意味では、なかなか困難な場面に遭遇することもあります。要するに、いつのときでも教師は付き合うべき子どもたち(児童・生徒・学生)と誠実に交わるべきであろうということに変わりはないのです。今から思えば、とても気恥ずかしくなります。「学校時代(教室)だけで教育は終わらない。卒業した後も続くであろう交わり(関係)の中に教育は生み出されるのではないですか」と、いつも自他にいい続けていました。

 「習った当時はそこまでの印象がなかったが、進級の際に担任が文集で引用し、『はい上がり葉を広げる姿は今の君たち。つらい時はじっと耐え、大きく伸びて、大きな人間になってほしい』としたためた一文を、学生時代は座右に置いた。無限大の可能性を信じてくれる存在が支えになった」(コラム「明窓」氏)小学校4年生に、このような「餞(はなむけ)の言葉」を送ってくれる教師、素敵ですね。それを真正面から受け止める子ども(だった)も、なかなか素晴らしいですね。教室の外で、有形無形のつながりのうちに教育は続いているといいたい。

 Kさんは、「かぼちゃのつるが」をご存知だろうか。また「戦闘再開」ですね。ぼく自身も、常に「教育」という、得体のしれない人間関係(付き合いの中からしか正体らしいものはでてきません)の渦中にあって、文字通りに「悪戦苦闘」していたことを今でもありありと思い出している。

 「教育はいつだって悪戦苦闘なんだ」と、わかったようなことを言ったら、彼女も大いに頷いた。「大過なく学期が終わるときは、ホッとする」こともあるという。「でも、それだけでは何も経験として残らないんですね」と言われた。「なんか問題があったほうが…」、彼女は、なんの衒(てら)いもなく、「私、折れたことがないんです」と呟いた。それを聴いて、ぼくはほとほと感心もしたし、「凄いなあ」と、彼女の真価を見た思いがしました。時々は、息抜きになるでしょうから「少しは折れかかる」ことがあってもいいでしょ。

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永田町内会長選挙の顛末や如何?

▣ 週のはじめに愚考する (第參拾參)~ 昨日、卒業生からメールがあり、「短時間でもいいから、お会いしたい。明日でもいいですか」とあった。早速返信し、かみさんが体調不良なので、それこそ「最寄り駅で会うのでよければ、どうぞ」と返信。昨年も来てくれることになっていたのですが、当方の都合で中止。彼女は勤めていた大学での小生担当のゼミ生でもあった人。今は、都下の小学校の教師。少し回り道をして、今ではもう十年近くのキャリアだとか。もう少し精進すれば、きっと素晴らしい教師になれると、いつでも同じことを彼女に言う。「学校の教師の仕事は、子どもをだし(人質)に、親たちを再教育することにある」と昔から言い続けている。彼女は「いつも親と喧嘩している」と正直だ。だから、その素質は十分にありそう。そして「まだ折れたことはない」とも。頼もしいというか、それこそ子どもと徹底して向き合う、そんな教師になれるといいなあと、つくづく願っている。気が強くて、なかなかの頑固者。教師の「優しさ」の底には欠かせない、必要な資質だと思っている。

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 政権与党である自民党の「総裁選挙」だという。今のところ10人を越える候補者が名乗りを上げているらしい。興味はまったくない。いずれ劣らぬ「タヌキとキツネ」ではないが、政治家に何かを期待すること自体、この社会では「政治タブー」になっていると、ぼく確信している。言葉が適切ではないが、町内会の会長選挙、つまりは永田町という政治街の魑魅魍魎の末裔たちによる「椅子取りゲーム」。この町内(「兵(つわもの)どもの夢の跡」)は、親子・親戚、朋友・同朋、同衾・同類、とにかくその結びつきは本人たちもわからないほどに密かつ緊のようです、だから、文字通りに「家の子郎党」、すべてが親類縁者だと言えるような血縁・地縁で結ばれている特異な利益集団です。

 その町内会が七十年も続いてきたのですから、そこで働く「力学」は言わずと知れ(痴れ)ています。当然、世代交代はあるでしょうが、一世・二世・三世・四世と、その遺伝子は間違いなしに、連綿として、濃淡それぞれに続いているのです。(古今亭志ん生さんはよく「まくら」で振っていました。「夫婦は一世、親子は二世、主従は三世、間男はよせ(四世)」と、ね。さしずめ、今回あたりは「四世時代」でしょう)

 誰が総裁になっても(今のところ、その「総裁」が自動的ではなく、奇怪的」)、その御仁が「首相」になる仕組みが続いています。議員数の多寡による。どんな人間が総裁になろうと、代わり映えはしないし、遺伝子の劣化はすすんでいるのです。よりひどいのがでてくるのは必然かつ不可避。たくさんの金を使って、票を稼ぐという仕組みを上手に使えるものが勝つ。今どきの「町内会長」選挙も金がかかるんですな。より一層無能・軽薄な人間(会員)が必ず選ばれる。とするなら、言わずと知れ(痴れ)たもの。最年少の「あんちゃん」(異性誑し)か。無能もここまでくれば、恥も外聞も自覚できないのですから、手に負えないですね。(蛇足 かなり前、ぼくは頼まれて、この議員の在籍した大学の授業を、一夏だけ担当したことがあります。六浦という土地にあった)「総選挙」用の人寄せパンダと目されているが、今のままなら、きっと勝つ。

 「目を覚ませと、呼ばるる声あり(Wachet auf, ruft uns die Stimme)」(バッハ、カンタータ・140番)(「バッハ:目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ / アンドレ, パイヤール 1968」:https://www.youtube.com/watch?v=O-MtepjY29A)(このトランペット奏者、ぼくはもっとも好きだったモーリス・アンドレさん。日本公演でも彼の演奏を堪能したことでした。一時期、サーカスの団員でもあった方。パイヤールという指揮者の演奏は、ぼくがクラシックを聴き始めた頃の格好の「水先案内人(pilot)」だった。この指揮者の演奏で初めて聞いたのがパッヘルベルの「カノン」、もう半世紀以上も前のことになります)

 「お祭り(祭礼)」が来れば、それまでの悪事悪行はすべて「水に流す」のが永田町流、水に漂う浮草の、いずれ脛(すね)に傷ある仲間じゃないか。「戦い済んで、日が暮れて」となるのは目に見えている。かくして、この国の「暮方」は差し迫っている。

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【天風録】マッチかマッチポンプか 歴代の勝者たちがモノクロ写真でずらりとあしらわれている。中央に赤い字で「ザ・マッチ」と銘打つポスターは、格闘技の興行の宣伝かと見まがう。自民党が来月の総裁選に向けて作成した▲いずれも首相や総裁として時代をつくった26人。男だらけで、じっくり眺めていると、何人かの顔に「政治とカネ」問題が透けて見える。ロッキード事件にリクルート事件、佐川急便事件、モリカケ問題、そして元法相夫妻による大規模買収事件…▲ポスターからは政治不信を招いた裏金事件を恥じる気持ちが感じられない。作成には人工知能(AI)も用いたという。〈裏金〉だけでなく〈旧統一教会〉や〈ジェンダー平等〉といった要素を省く仕掛けでもあるのだろうか▲総裁選に立候補を目指す議員は10人以上もいる。その誰もが「自民党は生まれ変わる」と口をそろえる。そのフレーズはポスターの面々が過去の総裁選で繰り返してきたものではないか▲総裁選を、対決や調和を意味する本来の「マッチ」とするには、金のかからない政治をいかに実現するか、中身のある論戦が欠かせまい。刷新感を演出するための舞台とするなら、自作自演の「マッチポンプ」である。(中國新聞・2024/08/26)(ヘッダー写真は神奈川新聞・ 2024年8月22日)

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「徒然に日乗」(484~490)

◯2024/08/25(日)只今夜9時半過ぎ。室温28,8℃、湿度77%。とにかく、とても暑い一日。終日自宅内に。数日間続いた庭作業も中止。夕方の水遣りもしなかった。台風10号が今週の水曜日辺りに直撃しそうな勢いと報道されていたが、かなり進路は西にそれて、今のところ、関東直撃はなさそう。その代わり、四国あたりに上陸するかも知れない。日本近海は30℃ほどの海水温があるので、台風の進路には好都合ということか。▶卒業生(都下の小学校教員)から連絡(メール)があり、明日(月曜)少時間でも訪ねたいがどうかとのこと。先ほど(夜九時過ぎ)、電話があり、土気駅で落ち合うことにした。昨年も、当方の事情があって会えなかったので、今年はなんとか会いたいものと考えていた。もう夏休みは終わりだとか。▶かみさんは、少々夏バテ気味。あるいは熱中症の症状かも知れない。(490)

◯2024/08/24(土)只今午後11時半過ぎ。室温28.6℃、湿度79%。このところ、一時よりは高温ではなくなったが、それでも35℃近くもある。日中は殆ど外で作業ができないほどだ。▶当地に越してきた当座に揃えた家電製品のうち、掃除機がかなり古くなり、部品を変える必要が出てきた。もう十年を過ぎたので、あるいは買い替え時かと思いながら家電店に出かけた。結局は新製品を購入することに。毎日一度二度と酷使してきたもの。猫がたくさんいるのだから尚更、掃除は欠かせないので、この先も掃除機を愛用することを考えて、別のメーカーのものに買い替えた。それ以外には、充電式(ダイソン)のものもあるが、これはこれで重宝している。▶午後3時過ぎから昨日の続きの庭作業。背丈が30センチほども伸びた、草が密生している部分がある。これだけになるまで放置していたのもおそらく初めて。日当たりを避けつつ除草を進めた。まだ、裏庭には半分も手が付けられていない。この間、イノシシが地面を掘り返して穴だらけにしている。人気のないことをいいことに荒らしているのだ。この始末も付けなければなるまい。(489)

◯2024/08/23(金)昨日に続いて、やや凌ぎやすい一日となる。午後には庭作業を2時間ばかり続けた。日陰を探しての除草。まだまだ、作業は続くはず。▶ただいま夜11時過ぎ。室温27,3℃、湿度82%。数値の割には凌ぎやすい。(488)

◯2024/08/22(木)珍しく酷暑の一休みといった天気だった。陽射しが、時折時射しはしたが、涼風も吹き、凌ぎやすい一日。日本近海には熱帯低気圧がいくつもあり、それなりに冷たい空気が流れる条件はあった。そう思っていると、グアム島付近で台風10号が発生。来襲水曜日あたりに本土直撃かとある。▶午後、暑さの一休みを利用して庭作業。表通りの槇(まき)の垣根の手入れ。かなり伸びているので、思い切り背を低くしたい。垣根の下草も除草する。まだまだ残されている部分は多い。これまでのような灼熱の照り付けが緩やかになってくれれば、それなりに作業も進むのだが。敷地西側の杉や檜の枝おろしも、大変な作業だが、なんとか終わらせたい。車庫や書斎裏側に、竹が進出している。これも取り除きたい。(487)

◯2024/08/21(水)朝6時ごろにビン・カン回収のため、廃品を回収場まで持参する。月に一度、第3水曜日が回収日。圧倒的に多くの空き缶と空きペットボトルを毎回持参する。ビン・カン回収、当初は自宅近辺に集積所がなく、極めて不便だったが、一定の量を貯めてはゴミ処理場まで持っていっていた。もちろん有料だった。その不便さを近所のTさんが町役場と折衝して自宅の駐車場に設置してもらった。以来、毎月、そこに持ち寄ることで、これまでの不便を解消。Tさんに「感謝」である。▶昼ころに買い物。蒸し暑い日だったが、茂原付近では雨雲が発生し、にわか雨。なかなかの高温多湿の一日だったが、夕方以降は肌寒いくらいの気温になった。どうやら、また台風が発生し、来週あたりは劣島を直撃しそうな様子である。今年は台風の当たり年だという予感を持っているが、こればかりは的中してほしくはないのだ。(486)

◯2024/08/20(火)ただいま午後10時40分。室温29.5℃、湿度76%。いささかの減退化も見せない暑さが終日続いた。▶午前中に猫缶買い出し。このところ、ほとんど週に一度の割で買い出しが続く。幸いというか、なかなか食欲が落ちないのである。家に帰らないままで、ほぼ一ヶ月が過ぎた子がいる。事故にあったか、ケンカなどで致命傷を受けたのだろうか。仲間同士で折り合いが悪かったのは事実だから、今後も、それには十分に気をつけて見る必要はある。今でも、ヒョッころ帰ってくる気もするし、もちろんそれを願っているが。(485)

◯2024/08/19(月)蒸し暑い一日になるだろうことを、早朝から予想させる。酷暑が日についで凄くなる気配だ。毎日が最高気温を更新しているのではないかと思ってしまうほどの異常さ。▶午前中に薬屋といつものスーパーへ。薬局は虫除けスプレーを買うため。これなしでは一瞬と言えども外の作業でできないほどに、蚊が多い。周りが木々や竹林だから、湿気の多いときなどは特にひどい。蚊取り線香ではとても太刀打ちできないほどの藪蚊の襲来だ。▶午後4時過ぎに庭に出ようとしたが、地面の熱気が半端ではなく、とても作業に入れる状況ではなかった。それなりに庭の手入れも進んでいるが、ここで無理をすることはない。焦らず、ゆっくりと。となれば、数日前に除草したところからもう、青々とした草たちが伸びだしている。高温と降雨の交互作用が草には絶好の成長剤なのだ。(484)

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冷奴と湯豆腐と

【余録】日常の食卓に欠かせぬ豆腐は奈良、平安期ごろに大陸から伝わったとされる。平安末期の1183年、奈良・春日大社の文書に「唐符」と記された食物は豆腐を指すとみられる▲江戸期に庶民に広がり、料理を紹介する書物「豆腐百珍」ができるまでになった。その豆腐を巡る情報である。調査会社・帝国データバンクによると、豆腐製造業者の倒産が今年相次ぎ、過去最悪ペースで推移している。負債1000万円以上の倒産や廃業は7月までに36件にのぼり、年間最多だった前年同期を上回った▲安価で栄養豊富というのが豆腐のイメージだ。だが、原材料である大豆の価格高止まりに、容器代、物流費などコスト増や小売りでの激しい安売り競争が重なり、業者の経営を圧迫している▲業界団体の全国豆腐連合会(全豆連)によると、大手メーカーや「街の豆腐店」など全国に2022年度で約4600の製造許可を受けた事業者がある。1960年時点に比べ10分の1以下の規模だが、近年は零細業者も含めると年間350くらいが減っており、中堅業者の苦戦が目立つという▲一方で前向きな動きもある。全豆連によると品質でブランドイメージを高めたり、昔ながらのラッパを使った移動販売などでファンを広げたりしている店も増えている▲動物性食品を避ける人たちに海外でも注目されるなど、発展性を秘める豆腐である。暑い日、器に盛られた冷ややっこは見た目にも涼しげだ。ただし、取り巻く環境はあわただしく揺れ動いている。(毎日新聞・2024/08/25)

 大山詣水に研がれし冷奴 (田中俊尾) もう何年前になるか、ある夏の日に、友人たちと大山詣りをしました。もちろん、篤い信仰心があってのことではなく、阿夫利神社参りは口実で、参詣前に「冷奴でも戴こうではないか」という不埒なものでした。弁護士とジャーリスト(作家)と大学教員、それに小生。確か四人だった。そのうちの一人、ぼくの先輩でもあった大学教員のKさんは早くに物故された。まだ70歳前だったと思う。社会学者としても多彩な活動をされていた。ぼくは殊の外お世話になった。Kさんのことを思うと、きっと「大山詣り」の場面がでてきます。食事時、気のおけない仲間だったこともあって、弁護士がつい漏らした一言「世の中がうるさくなった。人権だヘチマだと、面倒な時代になったものだ」と言った瞬間、Kさんは「えっ、今なんて言った」と噛みついたのでした。両者は長い付き合いのある友人だったし、いっしょに仕事もされていた仲だったが、それでも「今の言い方はないだろう」と気色ばって言い寄った。

 もちろん、大事には至ることもなかったが、人権派の弁護士として看板を立てているNさんにして「この言あり」と、ぼくはいささか驚きもした。その「冷奴」、もちろん大山の名物で、食事は予約しなければならないような繁盛ぶりでした。今ではすっかりその味は忘れました。やたらに品数がでたことと、もちろんそこでは酒を嗜んだけれど、どれほど美味かったかも記憶には残っていません。大山→「冷奴」→「人権だ糸瓜(へちま)だ)と、まるで「三題噺」のように、ぼくの中では小話が出来上がっている。もうひとりのジャーナリストはぼくの後輩でもあり、大学を出てブラジルに渡り、現地の邦字新聞の記者をされた。そこで知り合ったのでしょう、ブラジル人の女性と結婚し、帰国された。

 何故この仲間で伊勢原の大山詣りをしたか、おそらくブラジル人の奥さんが大病をされ、危うく一命を取り留めたのがこの近くにあった大学病院による手術だったので、その「お礼参りに」ということだったと思う。その大学病院の経営母体の大学に勤めていたのがKさんだった。ジャーナリストのTさんは、今もなお小説なども書かれて活動を続けておられます。ぼくはあまり外に出向いて何かをするという人間ではなく、一人で好きなように何事かを密かにすることを好んでいましたから、当然のように、誰彼との交際も、勤め人を辞めたときから、疎遠になりがちで、人づてに知人の訃報を聞くことも多くなった。大山に遊んだ、ぼく以外の三人はとても旺盛な仕事人間だったと思う。K先生以外は、今なお現役として活躍を続けられている。そういう付き合いだったから、わざわざ遠出をしてまで大山に登り、名物の冷奴を食べたことが大切な思い出となっているとも言えるでしょう。(大山に関しては、もう少し駄弁りたいが本日は止めておきます)

● 大山阿夫利神社【おおやまあふりじんじゃ】= 神奈川県伊勢原市大山に鎮座する。旧県社。大山祇(おおやまづみ)命をまつる。相模の名山大山の崇拝に起こる。大山石尊(せきそん)権現ともいわれ,石尊参り,大山参りは,江戸時代にはことに盛行した。延喜式内の小社。山頂に本社,中腹に下社がある。例祭は7月27日。ほかに春季祭などがある。農神,水神として信者が多い。(マイペディア)

 その「豆腐」について。いろいろなことが思い出されます。つまらぬ話で恐縮するが。

 以前、ぼくは酒飲みでしたから、家での晩酌も欠かさなかった。毎日同じ豆腐屋さんの豆腐をつまみに酒を飲んでいた。それもおよそ三十年も。この豆腐屋は同じ町内にあった店で(越後の六日町出身だった)、週のうち何度かは軽トラで行商もしていました。毎日豆腐を求めるので、豆腐屋の主人が驚いて、「そんなに毎日で、飽きませんか」といったものだった。どういうわけだか、その店のものが口に合っていたのです。一丁百円かそこら、それこそよく営業が成り立つものだと思ったら、学校などの大きな注文を受けていたということでした。当地に越して来て、まず口に合う豆腐が見つからなくなったこともあって、引っ越し直後には酒を止めた。大病をしたのでも体調を崩したのでもなく、美味しいと思う豆腐が手に入らなくなったことが一因でした。うまい豆腐がなくて、「よかった」ということになりますか。

 酒を飲んでいた頃、自宅では毎日豆腐でした。夏は冷奴、冬季は「湯豆腐」。いくら食べても飽きることがなかった。ところが、「原材料である大豆の価格高止まりに、容器代、物流費などコスト増や小売りでの激しい安売り競争が重なり、業者の経営を圧迫している」という背景もあり、小売の豆腐店が急激に減っている。小麦と大豆について、どうして農家はそれを作らないのか、ぼくにはとても不思議に思えるのです。ぼくの記憶では、かなり前まではどこの農家も自宅の味噌や醤油のために大豆を作っていたし、どの田んぼの畦道にも大豆は植えられていたものでした。また、これも少年時代の記憶ですが、ぼくは田舎(能登半島)時代、冬場には「麦踏み」をさせられていたことを忘れません。そんな「小品」「少品」をちまちま作るより、米一本に絞り、その他は「輸入で」というのが農業政策の基本になって以来、外国産品の輸入障壁(関税)問題が生じるたびに、消費者は高値を無理に強いられてきました。農業人口も急激に萎(しぼ)んでいる現在、農家や政治家は、活路をどこに見出そうとしているのでしょうか。

 豆腐にまつわる話ならいくらでもありますが、そんなものを喋っても仕方がありません。何故豆腐の小売が成り立たなくなっているのか、それを考えると、ついには日本の農業政策の現状そのものに疑問が及びます。もちろん、それは農業に限りません。半導体や先端技術産業問題も同様に、世界の中では大きく遅れを取っています。その昔、この国は「加工貿易」で生きる道を開いたと言われました。原材料を輸入し、加工製品として輸出するというものでした。しかし、今ではその貿易のあり方には、昔日の観る影もなくなりました。要するに面倒なものは輸入に頼る、「他人の何とかで相撲を取る」という、いかにも他人任せの無責任体制に慣れきってしまっています。この状態にあっては、いかなる展望も見いだせないでしょう。身の丈に合わせた「自給経済」を回復する時が来ているように思われます。(左写真は久保田万太郎氏)

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 さしもの「酷暑」も、やがて収まるのでしょうか。そこに至るにはいくつもの台風の洗礼・襲来を覚悟しなければならないでしょう。熱中症の後は風水害による打撃を受けるのかも知れません。そのような修羅場を越えて、ようやく秋冷の候となるのか。時節到来となれば、今は想像でしか味わえなくなった感がありますが、いよいよ「湯豆腐」です。これについてはただ一句。自らの死も予感する、真に迫る「湯豆腐」の白さが際立ちます。この句作の10日後に、久保田万太郎さんの寿命は尽きました。

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり(万太郎)

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どこへどのようにして行くつもりか

【天風録】遠のく廃炉のゴール 今も東京電力福島第1原発からは、日に日に汚染水が生じ続けている。1日あたり80トンほどだという。あらかたの放射性物質をこし取り、「処理水」として海に流し始めて、きょうで1年になる▲溶けた核燃料のデブリを取り出すか、原子炉建屋に流れ込む地下水をせき止めぬ限り、汚染水は増え続ける。肝心のデブリ取り出し作業が初日からつまずいた。再開のめども立たない。もはやゴールまでの道のりを誰も知らぬマラソンに見えてくる▲廃炉のゴールを「2051年までに完了」と東電はうたう。事故の状況もよく分からない段階で立てた計画を、誰がいまだに信じていよう。使用済み核燃料の取り出しは炉によっては10年以上遅れ、デブリの取り出しも約3年遅れだったというのに▲地に落ちている威信の底も溶けかねぬ失態のはずだが、東電側は「初歩的なミス」と事もなげである。弘法(こうぼう)にも筆の誤り―とでも思っているのだろうか。福島の人々の胸中をお察しする▲「処理水」の放出は何年続くのか。放射性物質をこし取ったフィルターも毒には代わりあるまい。保管や処分を一体どこで続けるのだろう。私たちの疑念のマラソンにもゴールが見えてこない。(中國新聞・2024/08/24)(ヘッダー写真:「ありえないミス」手順間違え作業中断 燃料デブリ試験的取り出し 再開は未定《東京電力・福島第一原発》(FTV・2024/08/22)

【編集日記】厄介者 海を漂流し続けるプラスチックや、長期間分解されずに環境中に残る有機フッ素化合物ー。手に負えないのは温室効果ガスに限らない。全ては人が便利で快適な生活を追い求め、その恩恵を享受し続けてきたことで生み出してしまった厄介者だ▼調和が取れていたはずの地球はバランスを崩し、もう後戻りできないところに追い込まれている。人ごとではないはずなのに、その取り組みは少々心もとない。何世代も後までツケを回すことになりかねない▼誰も望んでいないのに発生してしまった厄介者は、いつまで居座り続けることになるのだろうか。東京電力福島第1原発に残る溶け落ちた核燃料(デブリ)は、1~3号機合わせて推計で約880トンに上る▼2号機の試験的取り出し作業は、出だしからつまずいてしまった。過酷な環境下の作業が困難を極めることは容易に想像がつく。安全を最優先しなければならないのも分かる。それにしてもだ。入念に準備して臨んだだろうに、なぜーの疑問が拭えない▼廃炉に至るまでの長い道のりも、毎日の積み重ねがあってこそ。一日たりとも無為に過ぎることがあってはならない。そんな当たり前のことを、つい口走りたくなってしまった。(福島民友新聞・2024/08/24)

 放射性物質で汚染された地下水を「ひとまず、できる範囲で処理した」という(アルプス)処理水の海洋投棄からまる一年。タンクに貯められているものを海洋に流出させるだけで、所要予定期間は30年。予定はいつだって狂う。その間に「汚染された地下水」は貯まる一方で、いったい「30年」を何度繰り返せば、「処理水」は処理され尽くすのか。それを誰も言わない、言えないのだろうか。「天風録」氏は書く。「肝心のデブリ取り出し作業が初日からつまずいた。再開のめども立たない。もはやゴールまでの道のりを誰も知らぬマラソンに見えてくる」と。果てしのない「トライアスロン」のようで、ぼくたちもまた競技に強制的に参加させられている。「東電」という企業(国策会社)は事故発生直後に倒産させるべきだったと思う。まるで「ゾンビ(zombie)」のように、死に体でありながら、実際に存在しているのですから、実に奇々怪々で、、利益まで挙げてまともな企業活動をしている風を装っている。デブリの取り出しは「2051年」に終わるはずだと、この「ゾンビ」がいう。「2」ではなく「3」ではないんですか。

 当地の福島民友新聞の「編集日記」は「腫れ物に触る」がごとく、恐る恐る語ります、「東京電力福島第1原発に残る溶け落ちた核燃料(デブリ)は、1~3号機合わせて推計で約880トンに上る」「2号機の試験的取り出し作業は、出だしからつまずいてしまった。過酷な環境下の作業が困難を極めることは容易に想像がつく。安全を最優先しなければならないのも分かる。それにしてもだ。入念に準備して臨んだだろうに、なぜーの疑問が拭えない」と。本当にそのように今回の「出だしのつまずき」を捉えているのですか、とぼくは尋ねたい。そんなことは出来もしないことだとどうして言わないのでしょうか。福島第2は、現段階の「人智」ではとてもではないけれど、太刀打ちできない相手だと、ぼくのような素人でも分かる。一回宛、一㌘や五㌘を取り出していて、880トン(推定量)を取り出すのにどれだけの時間を要するのか。天文学の世界ですな。

 それ以上に深刻なのは、原発稼働で必ず生じる「放射性廃棄物」、その最終処分所である六ケ所村の「再処理工場」は完成時期を見通すことが不可能な事態であるにも関わらず、何度か延期すれば、そのうちに完成するというありもしない「霞」を食っているような塩梅です。原発政策は国家事業でしたから、国家の責任において、事故の処理を含め、現に稼働しているもの、運転停止中のもの、さらには廃止が決まっているもの、それらのそれぞれの廃炉完成までの工程表を明確に明らかにすべきです。原子力発電所設置初期には「原発の運転期間は最長で三十年」、それがやがて「四十年まで」、そして今では最長で「六十年まで」と延期に延期、もとい、延命に延命を重ねてきました。いつの日かには「壊れるまで」になるに違いない(もう、そうなっているに等しいが)。人間でいうなら、満身創痍の体に延命装置をつけられるだけつけられて、かろうじて活(生)かしている(それも人工呼吸器で)、それが現在の劣島の「原子力」発電所問題の所在地です。

再処理工場の完成延期/日本原燃表明 日本原燃は23日午前、青森県六ケ所村に立地する使用済み核燃料再処理工場を巡り、目標に掲げてきた9月末までの工場完成を延期すると表明した。1993年に着工した再処理工場の完成延期は27回目。(WEB東奥・2024/08/23)

 嘘に嘘を重ね、誤魔化しに誤魔化しを積んできたのです。これを、この国では「政治」というのです。この先も「嘘と誤魔化し」を積み重ねるのでしょうが、それがいつの日か限界点を突破する。まるで「南海トラフ」と同じで、その突破(地震発生)は、今日かも知れないし五十年先かもしれない。何よりも、日本劣島そのものが、大陸プレートとフィリピンプレートの衝突による「歪(ひずみ)」で出来上がった島でなんです。本年1月の能登半島地震の発生状況を見れば、それがどんなに危険な事態であるかがわかろうというもの。それを嘘と誤魔化しで、この先も「原発」維持政策を続け、さらには新増設もだ、というのは「狂気の沙汰」というほかない。

 いったい、この「正体不明物質」の処理不能施設を、どのようにして、どこまで持ちきたせば安心で安全が確保できたと言えるのでしょうか。この未曾有の大難題に、少なくとも政治家も官僚も何一つ責任ある発言(回答)を持ち合わせていない。既存の原発をどこまで使うのか、その後の廃炉はどうするのか、誰も何も言えないのなら、はっきりとその通りに言うべきでしょう。さまざまな難問や課題を先送りするばかりで、その日暮らしの「政治」を謳歌、いや糊塗しているだけるなら、政治家も官僚もいらないね。まして、「国家機構」などはいささかの必要性も認められないのではないですか。

 上下前後左右から解決を迫られている課題に取り囲まれながら、ひたすら「刹那主義」「一夜の逢瀬」に耽溺しているだけでは、いずれ目も当てられない惨状に見舞われるに違いありません。浮遊、漂流、放浪、まるで住所不定の浮浪人のごとく、この島社会は危険が満ち溢れている大海を、ひたすら漂うばかりだと、ぼくには思われます。もちろん、ぼくも「漂流民」ではあります。

 「明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」「上は大聖世尊より始めて、下は悪逆の提婆に至るまで、逃れ難きは無常なり」「一切有為はみなこれ無常なり」(いずれも、親鸞さんの文言)

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(⏫️ The Page:2022/03/21)

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コラムは新聞の床柱ですよ

 コラム ~~ 本来は〈縦の欄〉を指す語という。原型は、おそらくギリシア建築の「円柱」に求められる、それを紙面のなかで示したのが始まりだと思われます。コラム式とされる建築様式の円柱が、その形状から「縦の欄」として新聞に用いられた。以降、あらゆる「欄」をコラムと称し、次第にその欄に書かれた内容をも指す用語に変化して今日に至っているのでしょう。ぼくはどこかに書きましたが、この「コラム」を読むことが大好きです。自分でもほんの短期間でしたが、いくつかの紙面などで「コラム」を書いていたことがある。もちろん「匿名」「偽名」を使っていた。よく用いたのが「万八(まんぱち)」、「千三(せんみつ)」どころではないという気分。あるいは「朝三暮四(ちょうさんぼし)」というのも。「短文」の醍醐味は「千字を八百字に」、「八百字を五百字」に、「五百字を三百字に」という「彫琢(cut & polish)」にある。この作業は、家の建築に欠かせない柱の太さ、高さの「中庸(水準)」を得るに似ていませんか。

 これまでにも、それこそ数多くの新聞コラムを読んできました。中でももっとも愉快に読んだのは東京(中日)新聞夕刊の「大波小波」、ほぼ半世紀以上も前から。近年(この二十年以上)はまず読んだことがない。内容が面白くなくなったから、加えて東京新聞(宅配)購読を止めたからです。もしそれなりの値打ちがあると判断したら、このコラム一編のためだけでも購読したいと思っていたし、今だってそう考えています。「天声人語」の良し悪しは筆者によるので、朝日の「天声人語」ならなんでも、誰でもということはありませんでした。第一、大学入試採用数が最も多いと新聞社が自ら宣伝するようでは、ね。

 最近のものでは、…。この駄文に引用する回数が多いものがそれだと言っておきます。それにしても、新聞の凋落は目を覆いたくなるほどで、それこそ、終わっていますね。書くべきことを書かない、新聞社(記者)が書きたいことばかりを書く、誰かに忖度して提灯記事を書き連ねる。読者のことが眼中にないというのは、まるで自殺行為。読者に対して書かねばならぬことがなんであるか、それすらがわからなくなっているんですから、話にならない。すべての新聞が地方・地域紙になる運命だと見ています。それが悪いわけではなく、そこが根城(根拠地)にならなければどうするんですといいたい。圧倒的多数に読まれるためには、誰にも気に入られるものを書く。それこそ「これは新聞ではない」という自己表明でもあるでしょう。「大部数の新聞」、この考え自体が間違っている。書くべきことを書く、その原点が忘れられ失われているようでは論外でしょう。

コラム〘 名詞 〙 ( [英語] column )=① 古代ギリシア・ローマの建物の石の円柱。また一般に、西洋式建物の円柱。② 新聞、雑誌などで、時事問題、社会風俗などを解説、短評する囲みの欄。記者、評論家、文化人などが署名入り、または匿名で執筆し、筆者の個性や見識を持ち味とするものが多い。囲み記事。短評欄。〔新しき用語の泉(1921)〕(精選版日本国語大辞典)

 それにしても、どの新聞にもコラムがあるのが当たり前で(そうではない「新聞」もあるのには驚きます)、そのコラム記事にいろいろな読み方・関わり方をしている読者がいるのがいいですね。本日の奈良新聞「国原譜」には、その辺の事情が出ていました。「コラム」は砂金のごとし、と。その言やよし、ですね。砂礫に含まれる金は、まるで大河に一滴の水のよう。それこそ気の遠くなる作業から、ようやく極微量を獲れば幸い。それほどに貴重なものです。ほぼ毎日掲載される「コラム」にそれを期待することは夢幻ですが、ごくたまに「金」のようなものがあったりすると、一日嬉しくなるのも事実。

 「柱」は文字通りに、建物の支えです。新聞のコラムもそうではないでしょうか。柱のない建物は考えられない、とはいいません。箱の中に住むこともできるから。でも、やはり柱( pillar)があることが家の姿を証明してくれるのです。今、多くの新聞のどこあたりに「柱」が立っているのか、実に怪しいですね。あるにはあるが、それが腐っていることもありそうです。白蟻だかに食いつぶされているような惨状も、ぼくには見えます。(東京新聞も、一部地域では夕刊の配達中止だそうです。背に腹は変えられぬというが、どこが腹なんですかと尋ねたくなります)

 【国原譜】「新聞は翌日になれば単なる古紙や」。約40年前の奈良新聞入社当時、先輩記者から聞いた言葉は今でも印象に残っている。速報性が命だった時代の新聞人だ。
 違和感があった。「紙面の大半は読み捨てられるかも知れないが、スクラップブックで保存される記事もあるじゃないか」。流れる川から採れた砂金のように。
 今のネット社会においては一層、速報性で新聞に勝ち目はない。ニュースの深堀り、正確性、記録性で、金(価値ある記事)の含有量を増やさなければ。
 全国の新聞から、そのような金を掘り出してくれているユニークな会社がある。切り抜き情報誌(定期購読)を発行しているニホン・ミック(大阪市)で、あす24日に創業55周年。
 当欄を含め各地方紙の1面コラムを選抜した「コラム歳時記」は、普段なかなか接することのない文章を読むことができ、筆者にとって「面白過ぎる教科書」になっている。
 学生から90歳代まで購読者は幅広く、人生に寄り添い、共に歩むかのように長年購読するファンが多いとか。ダイヤモンドを見つけてくれる人たちもいる。(栄)(奈良新聞・2024/08/23)

 「コラム歳時記」を何度か手にしたことはあります。でも、やはり「砂金採り」のような面倒で辛気臭い長時間の作業の結果の「採金」という観点からすれば、やや食傷気味で、ぼくは購入は諦めています。「国原譜」氏のように「面白過ぎる教科書」と受け取る方がいるのは、商売柄でしょうか。その昔は、新聞の生命線は「生活面」に有りと思っていましたし、今だってその考えに変わりはない。でも、どの新聞もまるで右へ倣えをしたような「金太郎飴記事」がありすぎるのは、困ったことではないでしょうか。「コラム」欄にその弊害が目立つのは、柱が軒並み腐食している証拠だろうと思う。

 この背景にはいかんともしがたい「金太郎飴教育」があることは疑えない。ますます「金太郎」は時代・社会に席巻の度を強めているのは、この社会の将来のなさを暗示もし、明示もしている。どれだけ言っても止む気配がないのは、それしかできないという学校教育関係者の無能・無気力をも示しているのではないですか。それが「我が世の春(立身出世)」をもたらすと、幼児から死にものぐるいで覇を競ってきた人々が「勝ち組」だというのですから、「開いた口が塞がらない」し、「塞いだ口が開かない」のです。

 「無常迅速 やがて死ぬけしきは見えず蟬の聲」(芭蕉・元禄三年 夏)

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受け止める側の感受性がすべて

【北斗星】アナログレコードに魅了された小学生のカケルが、日本一のレコード屋を開く夢に向かって突き進む。羽後町出身の漫画家おおひなたごうさんが月刊誌「コミックビーム」(KADOKAWA)に連載中の「レコード大好き小学生カケル」は奇想天外なギャグを交えながらレコードの魅力を紹介する異色の漫画だ▼ことし4月に発売された単行本の第1巻には、学校で仲間たちとレコード部を立ち上げる姿が描かれている。「文字通りレコードには音が刻まれているのだ。そう考えると1枚1枚がとても愛(いと)おしい」とカケル。同級生は初めてレコードで音楽を聴いて「音の奥行きや広がりを感じる」と驚く。いずれも、作者自身の実感だろう▼一時は絶滅寸前だったレコードの人気回復が近年、話題になっている。往年の名アルバムが相次いで再発売され、若手のアーティストが新譜をレコード化する動きも活発化している▼日本レコード協会によると、国内の2023年の生産数は前年比56万枚増の269万枚と着実に伸びている。中古市場も活況のようだ▼音楽配信のサブスクリプション(定額利用)が全盛のいま、なぜなのだろうか。カケルは「手間をかけることでモノへの愛着が湧き、音楽としっかり向き合う気持ちが芽生える」と力説する▼時代が急速に変化していく中で、便利さと引き換えに失ったものの価値を意識する人が増えたということかもしれない。カケルのせりふにうなずく人は多いのではないか。(秋田魁新報・2024/08/21)

 都内に住んでいた頃、いつかは人里離れた山の中などで思い切り音量を上げてレコードをかけてみたいとずっと思っていました。都心を離れたのは結婚をすることになってからでしたが、それでもいきなり山の中というわけにも行かず、千葉県内の東京寄りに住んでいました。都内への通勤もあったので、ただちに願いは叶えられなかった。それでも、狭いながらも土地を購入し、小さな家を建てて「書斎」というのも気恥ずかしいような部屋を設けて、ついでにそこに音響装置を備え、ひとり好きな音楽鑑賞に興じていた。その期間は長かった。約三十年。やがて、レコ狂が昂じて、少し早めに仕事を辞め、かみさんを残して勝手に山の中に住みだした。今の家に転居し、一棟建ての書斎・書庫を構えて、そこで心ゆくまで音楽(レコード)鑑賞に浸る気になった。(実際に大工さンに入ってもらって準備は整えたが、やがてかみさんが同居しだし、ついでに沢山の猫も住みだして、「ゆっくり」という余裕は失われました)

 大学入学以来、見様見真似でレコードを漁り、好きなだけを収集し、ついには二千枚ほどになったところで、全てを売り払った。音楽鑑賞の楽しさや喜びが薄らいだと痛感したからでした。別に何枚所有していたか、一度だって数えたことはなかったが、売るときに業者(ソニーの子会社)が、査定した際に枚数を知ったのでした。十年で二千枚ほどだから、気が狂ったように、毎月の新譜レコードを買いためていたことになります。購入する店は決めていた。本郷三丁目地下鉄駅前のNという店でした(今はもなくなったらしい)。なかなか融通が利いていて、大いに便宜を図ってもらったものでした。

 どうして、そんなにレコード好きになったのか。理由は明らかでしょう。大学に入るまでは、まずレコード(クラシック)を聞いたことがなかったからでした。九歳年上の兄貴はもっぱらジャズで、それを幼いなりによく耳にしていました。中学生ころまで、それなりにジャズのスタンダードは一応は聴き知っていましたし、今でも懐かしく思い出すものもあります。演奏家の多くは、兄貴から教えてもらった人がほとんどで、自分で発掘?した人は意外に少ない。

 クラシックはよく聴きました。良き導き手がいたせいもあり、段々と深みにはまりました。もっぱらバッハ以前のバロック音楽が主だったジャンルだった。本郷三丁目にあった耳鼻科の医者だった人には、それこそ、手を取るようにして音楽鑑賞のイロハを教えてもらった。何度も彼の自宅に居座り、二人で夜通し聴き込んだものでした。ぼくが住んでいたところから、五分も離れていなかったから、なおのこと、通い詰めたものでした。やがて、都内から千葉に越すことになり、以前ほど頻繁にその人のところには行かなくなったが、それでも交際は絶えなかった。

 千葉に住みだした頃、隣家とは軒を接していたこともあり、自由にレコードを鑑賞することが憚られた。音を絞らなければならなかったのですから、まるで狭い暗室で密かに音楽を聞くという状態でした。それでも四六時中、音を鳴らし続けていた。ときには、隣家からクレームが付いたこともあったが、よくも長年聴き続けてきたものだと、我ながら感心します。

 人並みに、ぼくは録音テープやCDなどの進化に応じて、それらに触手を動かされたこともありましたが、それでもレコードは手放せなかった。誰もがいうように、アナログの肌触り(というのも変です。レコードと言えども「器械」で作るのですから)のようなものを実感するのは、CDやMDなどのように完全に器械化された音とは異なる、ある種の手作り感があるからでしょうか。音響装置にも人並みに心を動かされました。これまでにもそれなりに当時の評判を呼んだ製品を買ったりしたものでした。今でも所有しているスピーカーはもう半世紀前のものですが、当時は三十万円ほどもした、英国タンノイ製のものでした。スピーカーの大きさは30センチです。高価に感じたものでしたが、猫たちにすっかり痛められ続けて、今では可哀想なくらいに劣化してしまいました。それでも処分できないで、未だにほそぼそと聴き続けている。学生時代からずっと長く、秋葉原の音響機器店巡りをしていた頃がとても懐かしい。今どきの秋葉原のような下卑た街ではありませんでしたからね。

 自作のアンプらしいものを作ったり、いろいろと工夫を凝らす余地があるのは、愛好家のもっとも望むところでしょう。レコードも一枚一枚クリーナーで拭き、それこそ腫れ物に触るような丁寧さで扱うという、その感触はCDなどでは味わえない柔らかさではないでしょうか。ぼくは今ではすっかりCDもレコードもゆっくりと聞く時間を持たなくなった。猫たちが至るところで好き放題に遊んでいる家だからということもあるし、ネットでなんの苦労もなしに、さまざまなジャンルの音楽を楽しむことができるからです。ネット時代は、いろいろな方面における画期的な革新でしたから、これを抜きにしてはこの先を語ることは不可能でしょう。そこへ行くとレコードは、誰にも必要不可欠かというとそんなことはない。生涯レコード盤を手にすることがない人はいくらもいるでしょう。つまりはなくても暮らせる、過ごせる「遺物」のようなものです。でも、だからこそ、ある人にとってはかけがえのない「遺物」にもなるのです。CDが席巻しだした時代、レコード消滅論が大きく叫ばれましたが、ぼくはそうは考えなかった。それを求める人はいくらでも残るし、その「良さ」を知る新しい人たちも生まれると確信していたからです。どんなものでもそうで、新よく旧を征伐するかというと、決してそんなことはないのです。「文化」の強さでしょう。

 今日、レコード全盛時代に比べれば見る影もないかも知れないが、商売としても成り立つだけの生産が起こっています。前時代の遺物であるなどと邪魔者扱いされた品々は枚挙に遑(いとま)がないかも知れません。しかし、それは表向きだけであって、必要とされる人のところにはきっと「現役」としての有用性や利用価値を保っているのです。便利を追求し、丈夫を追い求めた結果、便利や丈夫だけが生活を豊かにしてくれるかと思いきや、むしろ、不便であり、軟弱な品物に愛着を抱く人々も必ず存在するのですね。「時代が急速に変化していく中で、便利さと引き換えに失ったものの価値を意識する人が増えたということかもしれない」という漫画の主人公の科白(せりふ)は、いつの時代にもだれかれなしに囁いていた「文化」というものの秘められた価値を示しているのではないでしょうか。カメラや車などがどんどん進化しても、その「物」に使用者が関与できる部分(使用技術も含めて)が残されているものこそが、愛用とか愛着の根源にもなるのです。

 音楽(レコード)鑑賞について一家言があるわけではない。ただただ、音楽を受け止める側の感受性の鋭敏・鈍感によって、音楽の良さが生まれもすれば、死にもするのでしょう、それをいいたいだけ。じょじょに「鈍感」になりつつある我が現在、そのことをしきりに感じているのです。日がな一日、レコードを聴き続けていた時代を思っている。バッハでもアルビノーニでも、ヘンデルやコレルリなどなど、とにかく「バロック」音楽を理由もわからず、無我夢中で聴いていた、その経験から今の自分が出来上がっていることを考えれば、なんとも言いようのない感傷に誘われもする。だから、いいたい気がします。演歌もいいけど、バッハも、ね。

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