
【明窓】かぼちゃのつるが 実家の縁側の向こうでゴーヤーのグリーンカーテンが風に揺れている。今年は酷暑のせいか育ちが悪い。とはいえ少しずつでも伸びるつるに、思い出す詩がある▼植物の成長がつづられた『かぼちゃのつるが』(原田直友作)。小学校の国語で習った。<かぼちゃのつるが はい上がりはい上がり 葉をひろげ葉をひろげ…>。言葉の反復が印象的で主語が「かぼちゃのつる」から<細い先は竹をしっかりにぎって><小さなその先たんはいっせいに 赤子のような手を開いて ああ今空をつかもうとしている>とズームアップされるのも、より力強さを感じさせる▼習った当時はそこまでの印象がなかったが、進級の際に担任が文集で引用し、「はい上がり葉を広げる姿は今の君たち。つらい時はじっと耐え、大きく伸びて、大きな人間になってほしい」としたためた一文を、学生時代は座右に置いた。無限大の可能性を信じてくれる存在が支えになった▼島根県内の小中学校は早いところできのう、2学期が始まった。厚生労働省の調査によると、4月や8、9月は自ら命を絶つ10代が多くなる。学校再開に関連があることは明らかで、命を守る対策に全力を注ぎたい▼専門家によると、自分の主張を押し付けて子どもたちを変えようとせず、不安な気持ちに寄り添うことが大事だという。何かをつかもうとしている子どもの手を引っ込めさせてはならない。(衣)(山陰中央新報・2024/08/27)

昨日、八年ぶりくらいで卒業生と会いました。前日メールを寄越し、「明後日で夏休みが終わる、できれば明日(26日)にも訪ねていいですか」とあった。昨年も来てくれることになっていたが、当方の都合が悪く延期してもらっていた。今夏も、あまりにも暑く、どこにも行かず仕舞い。数日前に韓国に行ったきりなので、「短時間でも、そちらにぜひ伺いたい」と言ってこられた。いつも暇を持て余している人間ですから、「どうぞ。ただし、かみさんが夏バテ気味なので、できれば、最寄りの駅で落ち合いましょう」と当方は、JR外房線の土気駅まで出かけた。お昼前だった。酷暑というほどでもなかったが、あちこち出歩くには厳しいので、駅前のカフェで、しばし休憩した。
彼女は、小生が担当していた演習(ゼミ)の卒業生。その当時は、民間企業に務めるようなふうだったが、卒業後、数年して「教師になりたい」と一念発起。小学校の免許を取って三年がかりかで「小学校教諭」になった。現在は世田谷区の公立小学校勤務。そこはもう五年目だという。いろいろな話をしたが、彼女の気質というか、あるいは美点と言ってもいいが、そんなものをいくつも教えられた。在学中には全く気づかなかった。本人もそうだったという。まさか小学校の教師になるということは想いもよらなかった、と。さらに「いつも保護者とぶつかっています。校長たちも頭をかかえている」「なにか悪いことをしてるのではないので、滅多に頭を下げることはない」と、とても頑固な性格を曲げないで、そのまま十分に素性を発揮していて、意外に思ったところ、「親とはぶつかるが、私は子どもが大好き、子どもも私が好きなんです」と、いともあっさり言ってのける。この感覚・感受性は「天性」のものでしょう。

彼女にこんな大事な一面があると気が付いて、ぼくは感心したり嬉しくなったり。現在は小学校三年生を担当しているという。ぼくの持論ですが、教師としてもっとも面白いのは小学校、こんな印象をいつしか持つようになりました。小学校教員の経験はない。でも小学生といろいろな場面で長く付き合ってきましたから、これはぼくの実感でもあり、多くの先輩教師の経験談でもありました。教育というより、養育、あるいは介護とでもいうべき場面が必ず出てきます。教師が、いい意味でも、より多く子どもに関わる必要があるということでしょう。当節の家庭事情から、さまざまな「子どもたち」が教室にいます。ある人が言っていたことです。幼稚園に入る前の「家庭段階」の親子関係が決定的に重要だと。子どもを育てているのか、壊しているのかわからない親たちもいるでしょう。教師は親代わりでもあるだろうし、子どもに曲がっている所があれば、直してやりたくもなろう。そこに「教育」があるからです。

かぼちゃのつるが 原田直友
かぼちゃのつるが
はい上がり
はい上がり
葉をひろげ
葉をひろげ
はい上がり
葉をひろげ
細い先は
竹をしっかりにぎって
屋根の上に
はい上がり
短くなった竹の上に
はい上がり
小さなその先たんは
いっせいに
赤子のような手を開いて
ああ 今
空をつかもうとしている
今でも「かぼちゃのつるが」は教材となっているのでしょうか。昨日、卒業生に会うために駅に向かっていたら、小学生や中学生が下校するところに出くわしました。横断歩道を渡る子どもたちを、道路を挟んだ両側(信号機の下で)で、四人も五人もの教師たちが見守っていました。相変わらず、大変な勤務ぶりだなと感心もしたのでした。長い休み明けの登下校だから、事故に合わないようにと注意深く見守る必要があったのでしょう。小学校中学校だからと、取り立てていうことはない。高校や大学の教師だって、全く別の意味では、なかなか困難な場面に遭遇することもあります。要するに、いつのときでも教師は付き合うべき子どもたち(児童・生徒・学生)と誠実に交わるべきであろうということに変わりはないのです。今から思えば、とても気恥ずかしくなります。「学校時代(教室)だけで教育は終わらない。卒業した後も続くであろう交わり(関係)の中に教育は生み出されるのではないですか」と、いつも自他にいい続けていました。

「習った当時はそこまでの印象がなかったが、進級の際に担任が文集で引用し、『はい上がり葉を広げる姿は今の君たち。つらい時はじっと耐え、大きく伸びて、大きな人間になってほしい』としたためた一文を、学生時代は座右に置いた。無限大の可能性を信じてくれる存在が支えになった」(コラム「明窓」氏)小学校4年生に、このような「餞(はなむけ)の言葉」を送ってくれる教師、素敵ですね。それを真正面から受け止める子ども(だった)も、なかなか素晴らしいですね。教室の外で、有形無形のつながりのうちに教育は続いているといいたい。
Kさんは、「かぼちゃのつるが」をご存知だろうか。また「戦闘再開」ですね。ぼく自身も、常に「教育」という、得体のしれない人間関係(付き合いの中からしか正体らしいものはでてきません)の渦中にあって、文字通りに「悪戦苦闘」していたことを今でもありありと思い出している。
「教育はいつだって悪戦苦闘なんだ」と、わかったようなことを言ったら、彼女も大いに頷いた。「大過なく学期が終わるときは、ホッとする」こともあるという。「でも、それだけでは何も経験として残らないんですね」と言われた。「なんか問題があったほうが…」、彼女は、なんの衒(てら)いもなく、「私、折れたことがないんです」と呟いた。それを聴いて、ぼくはほとほと感心もしたし、「凄いなあ」と、彼女の真価を見た思いがしました。時々は、息抜きになるでしょうから「少しは折れかかる」ことがあってもいいでしょ。
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