われらの弱きを 知りて憐(あわれ)む

【春秋】「空の水道」は気まぐれ 頼り過ぎずに節水を 40日40夜の雨による洪水から人や動物が箱舟で逃れる「ノアの箱舟」。英国では昨年末から40日以上雨が続き、旧約聖書の物語のようだとニュースが伝えていた▼降らないのも困りものだ。日本各地では水不足が深刻化している。昨秋から続く記録的少雨でダムは蓄えを減らした。筑後川流域の降水量は1975年以降で最少に。福岡県朝倉市の江川ダムでは、かつて水没した集落の痕跡が姿を現した▼先週末の発表によれば、筑後川水系主要6ダムの貯水率は15%に低下。蛇口から出る水量を減らす減圧給水や川からの取水制限を強めているが、まとまった雨がなければ夜間断水の可能性もある▼列島の上空には「空の水道」が集中している、と気象エッセイスト倉嶋厚さんは書いている。台風や梅雨前線、温帯低気圧、冬の雪雲など四季を通じて水をもたらす気象現象を「空の水道」と呼んだ。ただ狭い国土ゆえ、その「配管」は実に不安定でずれることが多い▼地下の水道管や下水道といったインフラの老朽化が近年は深刻だが、空の配管に手は入れられない。倉嶋さんは、気まぐれな水道に頼り過ぎず、大雨の日こそ水不足を、日照りの日こそ水害対策を考える必要があると提案した▼あすは二十四節気の雨水(うすい)。暦の上では雪が雨へ変わる頃。向こう1カ月の予報では、雨には期待できないようだ。水道を5秒止めれば1リットルの節水になる。日々の心がけを。(西日本新聞・2026/02/18)

 各地で水不足が言われています。それでいて、いたるところで今冬は何年ぶりかの豪雪に襲われ、各地で雪害の犠牲者も多く出ています。また、真冬であるにもかかわらず、これまた方々で熊出没情報が飛び交いました。天変地異とは大げさなといわれそうですが、何百年かの後に、「あの時代」は、地球・人類・生物たちの分かれ道だったといわれそうな、そんな大きな地殻・地上変動は自然界(人間界もその一部です)は地球上のいたるところで生じているのではないでしょうか。古今亭志ん生さんの「まくら」に「後悔を先に立たせて後から見れば、杖を突いたり転んだり」というのがありました。うまいことをいうものだと、ぼくは感心した。その通りで、いかに「慧眼(けいがん)」の持ち主でも十年先はおろか、一年先も見通すことはできません。

 (ヘッダー写真は「現在の「イエスの方舟」の聖書勉強会=映画「方舟にのって~イエスの方舟45年目の真実~」より )(*「慈しみ深き」森山良子・歌:https://www.youtube.com/watch?v=491lIVCYwF8&list=RD491lIVCYwF8&start_radio=1

 コラム「春秋」氏が触れておられるとおり、明日は「二十四節季」でいう「雨水(うすい)」(2月19日〜3月4日頃)です。これまでの降雪が降雨に変わる境目といいます。また、この期間を「七十二候」では「初候(2月19日〜2月23日頃)土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)冷たい雪が暖かい春の雨に代わり、大地に潤いをあたえる頃。寒さもゆるみ、眠っていた動物も目覚めます」、ついで「次候(2月24日〜2月28日頃)霞始靆(かすみはじめてたなびく)霧やもやのため、遠くの山や景色がほのかに現れては消え、山野の情景に趣が加わる頃。春に出る霧を霞(かすみ)と呼び、夜の霞は朧(おぼろ)と呼ばれます」、そして「末候(2月29日〜3月4日頃)草木萠動(そうもくめばえいずる)足もとや庭木の先にほんのりと薄緑に色づく芽が見られる頃。やわらかい春の日差しの中、草木が芽吹き、新しい命が生まれます」(「暦生活」)と、往時の人々の季節の迎え方を示しています。

 何事もなければ、月日はそのように進みゆくでしょうが、まるで「地獄の沙汰」「阿修羅のごとく」のような娑婆でありますから、自然も何も、元通りの秩序を維持することができなくなっているのが、悲しいけれど、ぼくたちの現実です。極端な表現を使うとすれば、「木の葉が沈んで、石ころが浮かぶ」かのような時代社会の荒廃の限りです。コラムに誘われて、ぼくは、久しぶりに「ノアの箱(方)舟」ならぬ、「イエスの方舟」の記憶を呼び覚まされました。あの社会的騒動から、もう半世紀近くが経過したことになります。「イエスの方舟」騒動。昔の出来事ではありましたが、それはただ今、現実の深刻な問題でもあるのでしょう。曰く「信仰の自由」「信教の自由」という問題です。

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 「イエスの方舟とは、主宰者の千石剛賢(せんごく たけよし、1923年7月12日 – 2001年12月11日)が開催していた聖書勉強会が母体となった集団である。千石は、1923年(大正12年)に兵庫県加西市の富裕な農家に生まれ、1943年(昭和18年)、20歳で海軍に入隊。終戦後は自営業である刃物工場の経営に失敗し、てきや、レストラン支配人など職を転々としながら教会に通い始める。常に何かに飢え、何かに怒っていた。20代は喧嘩に明け暮れる毎日だった。自分自身の気の短い性格に、いつかは傷害事件を起こしたりして最後は死刑になるのではないかとおびえていた。夫人と再婚後[2]の1952年、大阪で聖書研究会に参加する。1960年にはその研究会会員10名とで東京都国分寺市に移動して「極東キリスト集会」を主宰し共同生活に入る。これが「イエスの方舟」の起源である(略)」

 「イエスの方舟に対するマスコミ報道は、『婦人公論』がバッシングの口火を切り、産経新聞が「邪教」キャンペーンを繰り広げ、それに対して『サンデー毎日』が「魔女狩り」として反論した構図である。山口昌男は、マスコミ報道が「聖なる怪物」型の神話に則っており、「奇異なるものを見て、自らの存在感を内から外から脅かす力が何であるかを知り、あわよくば、この怪物が退治されるのを見ることによって安堵の胸を撫で下ろしたいという見世物に対する読者の期待を満たした」と分析している。/なお、イエスの方舟に対する異常なバッシングとその反省から、マスコミはオウム真理教が問題を起こした際に批判を躊躇するようになり、結果として被害を拡大させるに至ったとも言われる。反対にサンデー毎日は、元信者の発言を掲載するなど、オウム真理教に関しては当初から批判的報道を行った。」(Wikipedia)

 当時、ぼくはこの事件をまじかで知り、かなり熱心にその「軌跡」を調べたことがありました。結論から言うなら、マスコミの無責任な過剰報道がもたらした社会的騒擾(大山鳴動、鼠一匹も出ず)だったと思う。記事の内容が売れればいい、騒がれればいいという無責任報道姿勢は、事実を哉医局して好き放題にでっち上げ報道をする。この性癖・悪習はメディアに頑強に根付いて、「習い性」になっています。

 マスコミというか、マスメディアの多くは(新聞も含めて)、「売らんかな主義」に毒されている。売れればいいという無責任で短絡的な報道は報道の名に値しないのは言うまでもありません。この姿勢は体質となってマスメディアを毒してきたし、今やその毒は身体や精神までも犯し始めています。まさに「病膏肓(やまいこうこう)に入(い)る」状況にあるでしょう。過去には、新聞は「満州事変」等の戦争報道で販路を拡張し、売り上げを伸ばしました。社会的事件を必要以上に、いわば「針小棒大に」報じるという「癖」は已みがたい習癖になってしまいました。選挙報道もしかりで、ひたすら「大騒ぎ」を演出するだけで、事実は二の次、それで事足れりとしているのでしょう。その「イエスの方舟」が一昨年に映画として公開されました。以下がその関連記事です。

 〈「イエスの方舟」騒ぎは何だったのか かつて消えた女性たちにカメラが迫る◆映画「方舟にのって」公開 1980年冬、東京・国分寺市で暮らしていた若い女性たちが2年にわたり失踪していると報じられた。女性たちが集まっていたのは聖書研究会「イエスの方舟」。中心人物の千石剛賢氏に「娘を返せ」と迫る家族の声を受け、報道は過熱。しかし、女性たちがメディアと対峙(たいじ)し、「ハーレム」と非難された千石氏が出頭後、不起訴となって、騒ぎは沈静化した。

 「おっちゃん」と慕われた千石氏は2001年に死去したが「イエスの方舟」は今も福岡県で健在。女性たちがクラブ「シオンの娘」を経営しながら共同生活を送る。騒ぎは何だったのか。現在の姿をカメラで捉え、過去を振り返るドキュメンタリー映画「方舟にのって~イエスの方舟45年目の真実~」が6日公開された。佐井大紀監督に制作の経緯を聞いた。(時事通信社 松尾圭介)(以下略)(時事通信社・2024/07/10)https://www.jiji.com/jc/v8?id=202407hakobune)〉

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 もう何年前になるでしょうか。ある時、誘われて福岡の中州にあった「イエスの方舟 シオンの娘」というクラブに行ったことがありました。世にいう「飲み屋」でした。そこには「おっちゃん(千石イエスさん)」亡き後」もなお、固い信仰に生きる多くの信者たちがおられた。事件報道から何年ぶりかで、ぼくは彼女たちの信仰の一面を見た思いがしました。やがて、その店は閉鎖され(2019年)、今でも同じ福岡古賀市で、それまでと同じように営業と信仰生活を営んでおられるという。なかなかに見極めは困難ですが、ぼくたちの側に「真贋」に対する感受性と深い考察がなければ、再び三度、「イエスの方舟」問題は、いつでも興味の対象、商売のネタにされるでしょう。ために「方舟」は、広大無辺の海の中で難破することを繰り返すでしょう。現下の政治問題でもある「(旧)統一教会」の帰趨はどうなるのでしょうか。「カルト教団」であろうが暴力団であろうが、選挙に資するなら、つるんじゃえというという、空恐ろしい「宗教政治」がまかり通っています。「信教の自由」を悪用した政治に手を染めて、この国はどこへ向かっていくのでしょうか。

慈しみ深(ふか)き 友なるイエスは
罪 咎(とが) 憂(うれ)いを 取り去り給(たも)う
心の嘆きを包まず述べて
などかは降(おろ)さぬ 負(お)える重荷を

慈しみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐(あわれ)む
悩み悲しみに 沈める時も
祈りに応(こた)えて 慰め給わん

慈しみ深き 友なるイエスは
変わらぬ愛もて 導き給う
世の友われらを 棄(す)て去る時も
祈りに応えて 労(いたわ)り給わん(讃美歌312)

(讃美歌312番 「いつくしみ深き」秋本悠希・歌)(https://www.youtube.com/watch?v=Cvixv0uYn1k&list=RDCvixv0uYn1k&start_radio=1&t=66s)
日本国憲法第20条
第1項 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
第2項 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
第3項 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

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春は名のみの風の寒さや

【小社会】春の使者 山に餌がたっぷりあるのだろうか。例年なら、庭に来て野菜を食い散らかすヒヨドリが、ことしは姿を見せない。年によっては早々になくなるナンテンの実でさえ、手つかずだ。◆いつもとの違いは気になるが、春の足音は次第に大きくなっている。あちこちで梅が満開になり、菜の花もちらほら咲き始めた。気温が高かった一昨日の夜は、自宅近く水路から「キュルル、キュルル」との声が。ヤマアカガエルも繁殖のため目覚めたらしい。◆本格的な春が待ち遠しいが、ことしはその前に水不足を解消したいものだ。高知市の給水制限も続いている。昔から「春に三日の晴れなし」といわれる。早くそんな天候になってほしい。◆気がかりといえばもう一つ。花粉症の季節が到来した。既に目のかゆみや鼻水と格闘中の方も多いだろう。こちらは来ない年はなく、毎年、大襲来するからかなわない。◆本紙でも恒例の「花粉予報」の掲載が始まった。飛散量はまだ少ないが、日本気象協会の予測では四国のスギ花粉の飛散ピークは3月上旬~中旬。ことしは「西日本では広い範囲で(前年より)減少する」というが、量はあくまで「平年並み」なので対策を怠らないように。◆〈大男杉の花粉に泣きながら〉藤原わかな。いまや国民病でもある花粉症。それこそ雨が「三日の晴れ」なく降れば一石二鳥だろうか。いや、雨の後は大量飛散するとも聞く。悩ましい春の使者である。(高知新聞・2026/02/17)

 昨夜来の小雨が続いている。夜明けとともに、気温はうんと低く、雨が雪に変わりそうな気配がします(午前7時過ぎ)。少し前にも当地では5センチほども積もるような降雪があったばかり。いつものことながら、山間の辺鄙(へんぴ)な場所に住んでいるので、少しの天候異変で、車がつかえなくなることがあります。最短のコンビニまで約3.5キロ。車が行き交う狭い県道を、それも急坂を歩くとなると「命がけ」です。決して大げさではありません。劣島各地では、今どきに「渇水状態」が続くと心配されている方々もいる。あれだけ大雪が降ったにもかかわらず、水不足に見舞われそうだと、多くの人々が気をもんでいます。いろいろな意味で、「気候変動」が影響を各方面に及ぼしていると見たくなります。まだ学生のころカーソンという海洋生物学者の書いた「沈黙の春」という本を読んで衝撃を受けた。それは「農薬(DDT)」による薬害がもたらす災厄でしたが、今日も、かかる事態はいささかも変わらないままであることに、大いなる不安を抱きます。

 そして、本日は隣国中国に見られる年中行事、「春節」の初日。いわば「旧暦」による新年第一日(元旦)に当たります。「春節」は来月3月3日まで続く。この社会では、今ではすっかり廃(すた)れてしまいましたが、「春節」に合わせた行事は近年まで残されていました。ぼくがまだ小さかった頃、いくつかの行事に参加したり、眺めたりした記憶が残っています。劣島各所に存在する「中華街」などは、今もこの「春節」に派手な行事を催しているところがあります。ということですが、もう如月(きさらぎ)も半分を過ぎました。日々之新也というように、あっという間の光陰の進み行きではあります。時間が過ぎるのか、自分の心身が時を刻んでいるのか、ぼくにはよくわかりませんけれど、年を重ねること、それ自体もまた「日々之新也」であります。

 本日の高知新聞「小社会」は「春の使者」と題して、この季節のさまざまな現象の行き交いを書かれています。やはり高知方面でも「給水制限は続いている」とありまる。当方はほんの一日か二日の「断水」の経験を思い出してはウンザリしています。当地では2019年だったか、台風の直撃を受けて「停電・断水」を味わったことを鮮明に覚えている。わずか二日ほどだったか、原始生活に引き戻されたようで、変な気分になりもしました。コラムはさらに、「気がかりといえばもう一つ」と「花粉の飛散」を挙げておられる。拙宅は、周囲を杉と檜の人工林で囲まれています。今では家の屋根に覆いかぶさるようにそれらの木々の枝葉が伸びている。早くから枝落としをと思いつつ、ついに、それもしないままでたっぷりの檜と杉の花粉の洗礼を受ける羽目になっている。

 その昔は、「花粉症」などには無関係だったが、四十過ぎてから、人並みに、毎年のように眼鼻の異常な症状に悩まされてきました。どうしてという気もしますが、ある時期までは、ぼくにも杉や檜の「花粉」に対する免疫(immunity)があったものと思われます。それが時間の経過とともにすっかり免疫力も消えてしまい(都会生活も長くなり)、それこそ、人並み以上に苦しめられる有様です。耳鼻科にかかったところで、対処療法、いずれはそれも有効でなくなるのも目に見えています。「いまや国民病でもある花粉症。それこそ雨が『三日の晴れ』なく降れば一石二鳥だろうか」、この記事を読んでいて、やがて来る「春一番」を思ってみる。昔から「灯台下暗し」といいますから、杉や檜の真下に住んでいる身で、よもや「花粉」も直下には落ちてくるまいと思いたいけれど、家の周りだけではなく、周囲にある小高い森や林は「花粉大量製造工場」のようで、それこそ、どこまでも風に吹かれて飛んでくるのですから、やり切れません。当地では花粉の飛散は始まっています。つまらない駄文を書くばかりに目の疲労が進み、加えて花粉症のために数少ない目が痛む、対処療法ではあるのですが、仕方なく目薬を何種類か使い分けています。(右はウェザーニュース・2026/02/15)(https://weathernews.jp/news/202602/150196/

 「花粉飛散量は、前年と比べると東日本と北日本で上回る地域が多い一方、西日本では前年並か、前年を下回る地域が多くなる予想です。/飛散量が少なかった甲信や北陸、東北北部、北海道では、前年比で2倍以上の地域が多く、秋田県では6倍を超える見込みです。/一方、西日本では飛散量が前年並か前年を下回る地域が多くなり、2025年に記録的な大量飛散となった九州北部では、半分程度に減少する地域もあるとみています。/全国平均では、前年比で1.18倍の飛散量となる予想です」(ウェザーニュース・同前)

 「花粉飛来・飛散」以上に、今、東海の小島を直撃しそうなのが、「海外マーケット(市場)」の厳しい寒風です。まさに、要路にある人々には、一瞬の油断も手抜かりも許されない「舵取り」ですが、はた目にも、要人たちのふるまいはいかにも怪しくも危なげです。ぼくには何の資産もなく、金融マーケットの反応に一喜一憂する理由もないはずですが、この国が極端に世界の注目を浴びている今、ちょっとした判断ミス、間違ったサインが国家及び国民にとって「致命的過誤」となるのは避けられないから、必要以上に「円安・長期金利上昇・物価高」という指標に関心が向いてしまうのです。今、米国のドルが落ち目傾向にありますから、あまり「円安」は目立たないだけで、実際のところは、さてどうでしょうか。

 明日から国会が始まり、次年度122兆円超の新年度予算審議が始まります。この時期にふさわしくない、放漫財政(前内閣からの引き継ぎ)であるというほかありません。加えて、首相の訪米時には米から軍事費の過大な支出要求を突き付けられ、しっぽを振って飲むはずです。その額、単年度最大で「30兆円超」です。この大半を赤字国債発行か、増税(消費税)によるものとすれば、たちどころに金融危機は勃発するでしょうし、国家財政は破綻する、そんな心配を老いぼれの身で心配してみても始まりませんが、そうならないことを祈りつつ、そうなるだろうという「予見」を否定できない、モドカシサを始末できないでいます。まさに「春は名のみの 風の寒さや」ですね。

(場違いですか ➡)(*「『早春賦 』作詞:吉丸一昌/作曲:中田 章:1913(大正2年)」(https://www.youtube.com/watch?v=aUjhaEdmZFg&list=RDaUjhaEdmZFg&start_radio=1

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 「日本市場、国内景気低迷で円・株安、債券高-超長期債は財政出動警戒 17日の日本市場では、昨日発表された実質国内総生産(GDP)速報値が予想を下回り今後の経済政策に注目が集まる中、円は売られやすい展開となりそうだ。景気先行きに対する警戒感から株価は下落、債券は中短期債を中心に買われやすい一方、超長期債には拡張財政への不安感が重しとなりそうだ。/16日は米国やアジアの一部の市場が休場で手掛かりが乏しく、GDPを受けた高市政権の経済政策に注目が集まりやすい。日本銀行の植田和男総裁は昨日との高市早苗首相との会談について、一般的な意見交換と述べるにとどまった。金融市場での利上げの織り込みは若干低下し、4月までの利上げ確率は現在67%程度となっている。/これを受けて外為市場市場では円が軟調で、きょうもその流れが続きそうだ。また株式市場でも先週までの大幅な上昇の反動もあり、上値の重い展開が想定される。(↷)

(↻)債券市場でも、中短期債から10年債を中心に買いが優勢となりそうだ。きょうは5年債入札への注目が集まる。GDPが弱めだったことで高市首相が拡張的な財政政策を強化する可能性が意識されており、超長期債は上値が抑えられやすい。きょうはシンガポールや香港などアジアの主要市場が休場で、値動きが乏しくなる可能性もありそうだ。/(注:表中の終値は米国時間終値。円相場は対米ドル、前営業日比は円の対ドル変化率。米10年金利の前営業日比は変化幅(単位:%ポイント)。日経平均の前営業日比はシカゴ・マーカンタイル取引所清算値と大阪取引所清算値との比較。シカゴ取引所が休場の場合は大阪取引所の前日清算値と最終取引値の比較。金は1トロイオンス当たりのドル建て価格)(Bloomberg・2026年2月17日)(https://www.bloomberg.com/jp/news/articles/2026-02-16/TADF7TKJH6V400?srnd=jp-homepage

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「一人の日本人」と「日本人の一人」と

【日報抄】紙面を読んでいると、どきりとする言葉に出合うことがある。「ニュースは、人間を数字にするから」。俳優でモデルの長井短(みじか)さんが書評の中で記していた▼社会の中で起きた出来事を報じるとき、その規模や信ぴょう性を裏付ける意味でデータは不可欠だ。しかしデータはあくまで数字に過ぎない。例えば「事故で○○人が死亡した」と報道されたとする。命を落とした一人一人にはそれぞれの人生があったはずだが、数字だけでは命の重みが十分には伝わらない▼長井さんが紹介していたのは「〈ガザ〉を生きる」という本だった。絶えず外部からの攻撃にさらされてきた人々による手記が収められている。文面からは「天井のない監獄」と呼ばれるガザの惨状や、かの地で暮らす人々の息遣いが伝わってくる▼ある女性は落ち込んだときの慰めにと、クマのぬいぐるみをたくさんベッドに置いていた。けれど、その家は破壊され、友人を何人も亡くした。人間の存在が切り刻まれていると訴え、叫ぶように記した。「私はただの数字じゃない。夢も感情もある人間だ」▼ガザ当局によると、2023年の戦闘開始以来の死者はことし1月時点で7万人を超えた。ロシアのウクライナ侵攻では、米国の研究所が両軍の死傷者の合計を最大180万人と推計した▼途方もない数字の裏には同じ数の人格と生きざまがある。だが日々のニュースではなかなか伝えきれない。もう一度、前述の女性の言葉をかみしめる。「私はただの数字じゃない」(新潟日報・2026/02/16)

 「人間を数字で語るな」というなら、川崎洋さんの「存在」がよく知られています。それを引用した長崎新聞のコラム「水や空」には、こうありました。「名前の一つ一つに存在の重みが宿る」と。そうも言えるし、もっと軽妙に考えてもいいのではないかと、ぼくなどは考えたりしています。名前があろうがなかろうが、「自分は自分」という心持をいかにしたら持てるか、そういう問題のような気がします。面倒なことは言いません。「名こそ惜しけれ」といわれてきました。「命を惜しむな」という前口上があっての言いぐさです。それは鎌倉武士の「覚悟」だったかもしれませんが、今風に言うなら、「嘘はつくな」「己の名を辱めるな」ということでしょう。「名」とは自分を表す「象徴」です。だから、「自分の心に恥ずかしいことはするなよ」という、自己(への)啓示ですよ。

 なかなか面倒なことで、「名実ともに」とか「名より実を」などともいいますから、要は自分自身の身の丈に合った覚悟を問われて生きているということ。「虚名」を上げると伊野は論外のことであり、ぼくたちは名は体を表し、精神を表すという具合に生きていたいんですよ。何をしたから値打ちがあり、何をしなかったから価値が下がるというものでもないでしょう。「名は体を表す」とは「名はそのもの実体を表している。名と実は相応ずる」(デジタル大辞泉)のです。

 しばらく前に、ぼくはある中学校の入試問題に出された「詩」について疑問を感じるという趣旨の愚見を書きました。その要点は「わたしはばんごうになりたくない」というこどもの発言を土足で踏みにじっている気がしたということでした。(ヘッダー写真:「がれきが散乱する中、わずかな食料を口にする2歳のアルマちゃん(パレスチナ、2025年3月22日撮影)」(UNICEF)

 世間の大方は、なかなかやるではないか、「さすがだな」、この学校はというものだった。そうだろうかという大きな反発心がぼくに生じたから、「それはおかしいではないか」という疑問の提示でした。いのちを消される恐怖に怯えながら発した「肺腑の言(あしに おなまえかいて、ママ)」を出汁(だし)にして「成績」「点数」を競わせる、まるでガザの日常の真反対にいて、その現実を愚弄しているように思われた。子どもの感受性や受け止める力を「試す」という大人のこころない仕業でしょ。「ガザの地獄」を知るのは「入試問題」のおかげだというのは、驚くべき退廃だし、それに異を唱えない「(学校・教育)道徳」の敗北ではないでしょうか。学校優等生とは、いかにも残酷な試練を超えてきたんだと思うね。

 (参考資料として:毎日新聞(2026/02/16)= https://mainichi.jp/articles/20260216/ddm/041/100/062000c

【水や空」名前の重み 詩人の川崎洋さんに「存在」という一編がある。〈「魚」と言うな/シビレエイと言えブリと言え/…「花」と言うな/すずらんと言え鬼ゆりと言え〉。名前の一つ一つに存在の重みが宿る。「魚」「花」と、ひとくくりにはできない。そんな意味だと察する▲詩はこう結ばれる。〈「二人死亡」と言うな/太郎と花子が死んだ と言え〉。名前の、存在の重みを忘るるなかれ。「二人」と束ねることなかれ。詩人の願いだろう▲思い当たることがある。東日本大震災が起きたあと、死亡が判明した人の数多くの氏名が連日、紙面を埋めた。一つ一つの名前に詰まった何年、何十年かの歳月を思って、心が痛んだのを覚えている▲では、公表する側はどうかといえば、多分に迷いがあるらしい。災害時に亡くなった人の氏名の公表について、まとまった方針を国が示すように多くの自治体が求めていることが、共同通信の調査で分かった▲本県を含む多くが「遺族の同意を得て公表」だが、非公表とした県もある。「遺族」とはどの範囲なのかもあいまいで、自治体の一存による公表をためらう向きが強い▲7月はとりわけ豪雨被害が案じられる。太郎に花子と、まずはその名を公表する事態にならないよう、用心に用心を重ねる時季でもある。名前の重みを確かめたい。(徹)(長崎新聞・2023/02/04)

 「ニュースは、人間を数字にするから」(長井短)、「『魚』というな/シビレエイと言えぶりと言え…」(川崎洋)。そして、「人間というな」という語が続きそうな勢いですね。「あなた」と言え、「君と呼べ」と。それが「名前」「固有性」「独自・個別」というものでしょう。ぼくはかなり以前から「日本人の一人」ではなく、「一人の日本人」という表現をあえてしてきました。その意味は「日本人という固まり(塊)」の一部ではなく、いろいろな個々人がいて、初めて「日本人」という集合が成り立つという気分が強くあったからです。「いろいろ(多彩)な日本人」、それが本当のところではないですか、と。ぼくは固まりの一部ではないといったところで、結局は「日本人」という集合(抽象)の中に閉じ込められるのかもしれません。でも、「日本人はこうあるべし」というような「型枠日本人」を体現してたまるかという、気分というか気概だけは失いたくなかった。(右は川崎さんの作)

 「私はただの数字じゃない。夢も感情もある人間だ」という叫びは誰彼にもあるでしょう。一時、「社会の歯車になりたくない」というようなことが盛んに言われたこともありました。あえて「集団の中に自分を閉じ込める」必要もありません。それで思い出すのは、「らしく」というへんてこな言葉に、ぼくは長い間悩まされていたという事実です。小学校の5年生の担任(男性教師)が教室の黒板の上の壁に「らしく」と墨書した額をかざしていた。その三文字の意味が理解できなくて、それこそ相当に時間がたってから教師が何を言いたかったかがわかった気がしたのでした。今でいうなら「ジェンダー」ですね。「男らしく」「女らしく」「子どもらしく」「京都人らしく」「茨城県人らしく」「日本人らしく」…、気がついてみれば、まるで狂気に侵された物言いのように思われたのでした。個々人を固まりに閉じ込めるような強制力が働くでしょう。そんなものは蹴飛ばせ、という反発心だけが早くから芽生えたといってもいい。要するに「らしく」の強制力の中で、「自分」は溶解していくばかりだということに抗っていたというのでしょう。

 「「二人死亡」と言うな/太郎と花子が死んだ と言え」ぼくが一貫して学校の「習性」(「強制性」)を嫌いぬいたのは、「人間(ひとり)」を固有性で捉えない、捉えたくない「文法(約束)」に一矢報いたかったからです。個人でも固有性でもなく「数字」「番号」「点数」「成績」でしか表そうとはしない、その暴力に抗い続けていた。もちろん、そのような「不良」は学校に「自分」の居場所はなかったろうが、それでもぼくは、黙ってそこに居続けて(影や空気になっていたのではない)、いくつかの学校を終わった。ぼくの得た知恵(といえるかどうか』というものは、「そこにいて、そこにいない(ような)(心、そこにあらず)」存在になるということでした。その逆また真です。「そこにいなくて、そこにいる(ような)」存在に憧れていましたし、今でもその気持ちはいささかも変わらない。まあ、ありていに言うなら「学校の餌食になる(Become a victim of school)」ことは断じて認められなかったんですね。「目立たぬように はしゃがぬように」「似合わぬことは無理をせず」「ねたまぬように あせらぬように」「飾った世界に流されず」(河島英五・「時代おくれ」)というようなものでしたでしょうね。「そういう男に」ではなく「そういうおれに おれはなりたい」と、ね。

 「自分らしく」がわかれば、ぼくは苦労しません。そんなことではなく、当たり前に生きること、できるだけ嘘をつかない、困っている人がいれば、なんとか力になりたいという、それこそ、そんな細(ささ)やかな想いを失わないで生きていきたいと切願しているのです。 

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「徒然に日乗」(1004~1010)

◎2026年2月15日(日)終日自宅に。気温は低くなないが、日がかげると肌寒さを感じるのは、今どきの気候だからだろうか。(1010)

◎2026年2月14日(土)朝から日差しは強く、気温も上がっていたが、午後からは一転曇り空。気温はそれなりに高いので、雪の心配はなさそうだが、降雨があるかもしれない。そんな陽気の中を買い物のために茂原まで出向く。毎度のことだが、自分で買い物をしていながら、支払金額が高いのに、我ながら驚く。「インフレ増税」がすっかり定着してしまった。いずれその「つけ」が必ず回ってくるだろう。(1009)

◎2026年2月13日(金)終日自宅に。かみさんは知人の葬儀のために佐倉まで出かけた。午後、「中道」の党首選挙の報道を見る。予想通りにO氏が当選。「君はどうして総理大臣になれないのか」というドキュメントでも知られるように、早くからのホープだった人。しかるに、彼の履歴を一瞥すると、いかにも落ち着きがないと感じてしまう。挙措といい発言といい、常に落ち着きがないのだ。いわば「無定見」とぼくは見る。人によっては「機敏」と取るかもしれないが、とにかく、軽挙妄動に映るのはどうしたことか。「弱小政党所属」だからだろうか。一時的にしろ、政権の座にあったのに。それはともかく、まったく肌合いの異なる、成り立ちの異なる二つの政党が一党になることは、一人一人の「党員」の内面の問題に根差すことになるから、想定をはるかに超えて困難な作業だと思う。彼(新代表)にそんな力量があるとは思えない。つまりは、早晩この「中道」は分裂するだろうと、今から予見しておく。もちろん、国政の現状に鑑みて、そうならないことを強く願うが、果たしてどうか。(1008)

◎2026年2月12日(木)一時の寒波が収まって、ようやくに春の兆しが見えてきた。珍しく雨がぱらつき、異様に低かった湿度もなんとか、30%などという値が現れるようになった。(拙宅の湿度表示は、20%を切ると数値が消える仕掛け)。それでもなお、各地に住宅火災や山火事が頻発しているのが気になる。▶市原のホームセンターまで猫の「おやつ」を買いに出かける。いつも買うものだが、やや安いと思われるので、すこし遠出になるが、ここまでやってくる。同じ敷地にあるスーパーはいつも混雑しているのは、値段が安く、量が多く、加えて品数がそろっているからだろうか。自宅からは、片道10数キロはある。▶帰宅後、「中道」の代表選の中継を見た。異なる政党が一緒になるのだから、なかなかに大変で、はたして一つの政党としてまとまるのだろうかと、大いに気になる。そうはいっても「野党第一党」だから、それなりの存在感を示さなければ、この国はますますあらぬ方向に引っ張られてしまう恐れがある。健闘を期待している。小さな塊ではなく、さらに正体が大きくなることが求められていると思う。「一党多弱」などと、権力の側から揶揄されている場合ではないはず。▶株価は58000円超を付けた。率直に指摘すれば、「アベノミクス」の二番煎じでしかない、放漫財政による株高操作だといっていい、円安は一時的な上下(変動)はあるだろうが、いずれ、近いうちに株の大暴落、円安のさらなら亢進、長期金利の上昇という、大変なクラッシュが来るに違いない。つまりは、極端な「日本売り」だ。(1007)

◎2026年2月11日(水)「建国記念の日」だという。これを祝う政治的集会がどこでどれほど行われたのか知るところがないが、変われば変わるというか、あるいは驚異的な「選挙大勝」、あるいは「大敗」に肝をつぶしているのだろうか。「国の誕生」などという神話に浸るムードはなくなったように思われる。それにしても、国民一人一人に焦点を当てるのではなく、国、国家という抽象概念に驚くほど重点を置く政治がこれからも進められようとしている。果たして、そんな時期であるのかどうか、それこそが問われるべきだと思う。▶この国の運命を決するような契機になるはずもない選挙結果だったが、果たして米国一辺倒の追従政治でいいかどうか、それこそが問いただされる必要があろう。それがなければ、この国の将来は真っ暗だと、ぼくには思われる。(1006)

◎2026年2月10日(火)十数年ぶりの降雪もようやく溶けて、車で出かけることができるようになった。昼前に茂原まで買い物。相も変わらず物価は高いまま。いよいよ「インフレ増税」の政府方針が明らかになったと思われる。円安・インフレ・金利上昇という三要素はいよいよ収まる気配を見せていない。政治がまるで空中分解している気分に襲われている。(1005)

◎2026/02/09(月)作夜来の降雪もようやくおさまったが、およそ15㌢の積雪量だった。午前中は日差しも出たので、あるいは車が動かせるかと、やや時間をおいてお昼ごろに付近を走行してみた。日陰では凍っていた部分もあったが、ほぼ滞りなく走行できた。▶昨夜は選挙報道を一切見ないで就寝。もちろん、例の「ラジオ深夜便」も選挙速報に乗っ取られていたし。全体の結果を知ったのは朝の四時だった。驚くべき選挙結果だったが、ぼくの従来の想定で見るなら、共産党が政権を取ったのではないから、まあ、これまで通りのものに、やや微調整を加える程度かとも言えそうで、もちろん「憲法改正」や「スパイ防止法」などの国家の権力の強化を求めるような政策変更は大いに論議して決めてほしいと願うばかり。そして、ここでもう一度、二大政党制をとるなら、つまりは「小選挙区制」を維持するなら、選挙方法のいくつかの変更(改正)を議論しなければならないだろう。それはともかく、もう少し、政治に対する信義や道義というものを政治家自身に堅持してもらわねば話にならぬ。無理は承知の上で。▶想像するに、この国は新しい「茨の道」を進み始めたことがだれの目にも明らかになる選挙結果だった、「ネオナチズム」(新ファシズム)という邪道、滅びの道を、である。(1004)

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春一番来し顔なればまとまらず

【小社会】春一番 「春一番」と聞くと、50代としてはキャンディーズのヒット曲が思い浮かぶ。〈♪もうすぐ春ですね〉。春の使者という語感さえあるが、語源をたどるとそんな生易しい風ではないようだ。◆幕末の早春。いまの長崎県壱岐の漁船群が五島列島沖で猛烈な南風を受け沈没した。命を失った漁師は53人。地元ではこの風を春一番と呼び、死者の供養と教訓を語り伝えた(倉嶋厚監修「風と雲のことば辞典」)。◆きょう15日は1963年、新聞が初めてこの言葉を使った「春一番名付けの日」だそうだ。四国地方では立春から春分までに日本海で低気圧が発達し、初めて南寄りの強風(秒速10メートル以上)が吹いて気温が高くなる現象とされる。〈春一番大地ひと皮剥(む)いてゆく〉内山照久。◆暦の上では立春の時候に行われた衆院選は、「高市旋風」が春一番のように吹き荒れた。吹き飛ばされた中道改革連合。多くのベテランも期待の若手も失い、更地のようになった新党の代表に小川淳也氏が選ばれた。◆タカ派色が強い高市政権に対し、穏健な勢力の結集を掲げた狙いは間違いとは思わない。ただ、有権者はそっぽを向いた。更地からじっくり理念や政策を練り直す必要もあるのだろう。健全な民主主義を考えれば巨大与党のチェック機能、対抗軸の再生には重い責任がある。◆〈♪風が吹いて暖かさを 運んで来ました〉。野党第1党がひと皮剥け、芽吹くことはあるのかどうか。(高知新聞・2026/02/15)(「春一番の意外なルーツ」(月刊SORA」:https://weathernews.jp/soramagazine/201703/05/)

⁂「週のはじめに愚考する」(壱百陸)~ 表題句は伊藤白湖作。当地でもまだ『春一番』は吹きませんが、その気配は感じている。表題に掲げた「春一番来し顔なれば」はどんな句か。これを面白く解説された方(俳人)がいます。それを借用。〈…句の「まとまらず」は卓抜な表現だ。思わず、膝を打った。「ひどい風ですねえ」と入ってきた人。強い風のなかを歩いてきたので、髪は大いに乱れ、しかめっ面にして吐く息もいささか荒い。コンタクトを使っている人だったら、おまけに涙さえ流しているだろう。そんな人の顔つきを一瞬のうちに「まとまらず」と活写して、句が見事に「まとまっ」た。なるほど、人間の顔は時にまとまっていたり、まとまっていなかったりする。江戸っ子風に言うと「うめえもんだ」の一語に尽きる。こういう句に突き当たることがあるから、俳句読みは止められない。『今はじめる人のための俳句歳時記・春』(1997・角川mini文庫)所載。 (「増殖する俳句歳時記」清水哲夫)

 俳句とはいかにも融通無碍(ゆうづうむげ)な芸であるか、この一句でも納得するのですよ、ぼくは。どんな場面や景色でも詠むことができなければ、そんなのは俳句ではないという気もします。俳諧とか排風とは「こっけい・おかしさ・戯れ」と辞書にある通り、まじめな俳諧というのは語義矛盾していると思います。「排風(蕉門)」もしかり。滑稽や可笑しさを含まないものを「俳句」とは言わない。川柳は、だから俳句の異母兄弟姉妹でもあるでしょう。「春一番に打たれた顔」は、なんだか「まとまっていない」というのも、取り方は色々ですが、「可笑しいね」と言っておきます。いつだって「春一番」に遭ったような顔つきの人もいますしね。

 今年の「立春」は2月4日、「春分の日」は3月20日ですから、一か月半という、それなりに長い期間、各地で各人はそれぞれの洗礼を受けることでしょう。各地・各所で、いろいろな「春一番」が吹き荒れる季節到来です。(時には「春二番」春三番」ということもあります)今冬、最も早くかつ激しく吹いた「風狂」、それが「春一番」だったかどうか怪しいが、都内千代田区永田町から始まって、劣島を狂風・暴風に巻き込んだ、季節外れの「冬一番」がありました。瞬間風速はどれくらいあったか、それがために中小政党は木っ端微塵に蹴散らされた。むろん、公職選挙法も、それこそどこ吹く風で、清き一票を行使できない人もたくさん出ました。また「公選法違反」すれすれを、時の首相たちが率先して実践するという呆れたボーイズやガールズたちも出る始末でした。その後始末もできないうちに、つぎの「大嵐」がやってきそうです(2月18日国会開会)。(この狂った解散劇を生み出し演出したのが、「D通」でした。この会社は満州事変以来、この国に巣くって、梁や根太を食い荒らしてきたことはよく知られている。金になるなら何でもする。国などそうなっても構わないという、恐ろしげな会社です)

 自分で勝手に一人決めしている「国論を二分する」大問題、第一に「憲法改正」です。開会の冒頭で、「憲法改正宣告」をするかもしれません。議席の3分の2あれば、何んでもできるという、国会は実(げ)に恐ろしいところ。この「早苗風」という爆風(スランプ)は前後の見境がないのですから、各党、準備もなかなか大変だと思われます。「日本国憲法」は死滅する寸前です。それもまた国運ですから、死ぬならどうぞ、という気分です。第9条の改正(改変)、自衛隊は「立派な軍隊」、国家危急存亡の暁には「国軍」として敵退治に乗り出す、その準備(憲法に自衛隊の存在を明記)だけはしておこうというのですから、「反対する輩」がいるはずもなかろうという気構えでしょうか。それについて、防衛費は今のままではとても駄目、GDPの5%とアメリカの「言い値」になるのは目に見えています。「名目GDPは630兆円(24年度)」ですから、優に30兆円を超える防衛費で、いったいどこと一線を交えるつもりでしょうか。まさか、中国が相手にするとでも考えているんですかと、ぼくは野暮な質問をしたいね。そして「核保有」の国策導入。核実験はどこでするんですか。原発立地の地域は腐るほどあるとでもいうのか。その昔「日本劣島不沈空母」と言ってのけた総理がいましたが、奈良の宰相は「核兵器」で劣島を覆いつくすとでもいうのかしら。

 それに加えて、「狂乱物価の嵐の後」の予兆が強まっています。つまりは「インフレ増税」という、何もしない(不作為)で税収が増える旨味を逃すものかという、醜悪な暴政による「暴風」です。円安・国債暴落・長期金利上昇という三悪(日本売り)。その他、永田町を震源とする暴風雨、あるいは地震(地殻変動)は、未曽有の国難をもたらす虞(おそれ)なしとはしないのです。(ここで、疑問を一つ。『春一番』の写真は、なぜか女性ばかりです。どうして? 男の髪が「乱れに乱れる」ことが、まずないからでしょうか。)

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 「春一番(仲春)【解説】壱岐で春に入り最初に吹く南風をいう。この風の吹き通らぬ間は、漁夫たちは海上を恐れる。(宮本常一)」

 「季節が冬から春へと変わる時期に、初めて吹く暖かい南よりの強い風のことを言います。具体的には、2月4日ごろの立春(りっしゅん)から3月21日ごろの春分(しゅんぶん)までの間に、日本海で低気圧が発達し、初めて南よりの毎秒8メートル以上の風が吹き、気温が上がる現象のことです。この強い南風は、竜巻などの突風(とっぷう)を伴うこともあり、注意が必要です」(気象庁「」はれるんライブラリー)

◎ 春一番(はるいちばん)= その年の立春から春分までの間に最初に吹く強い南寄りの風のこと。通常は日本海で低気圧が発達することによって生じる風であるため,海難事故,融雪洪水,なだれ,日本海側の地方ではフェーン現象で大火などを引き起こすことがある。気象庁の定義は,(1) 立春から春分までの間であること,(2) 日本海に低気圧があること,(3) 強い南寄りの風(風向は東南東から西南西まで,風速 8m/s以上)が吹くこと,(4) 気温が上昇すること,である。石川県能登地方や三重県志摩地方から西の各地で昔から使われている。長崎県郷ノ浦町では安政6(1859)年2月13日(新暦 3月17日)に長崎県五島沖に出漁した漁師 53人全員が,春の強い突風で遭難した。これ以後,郷ノ浦の元居地区では,春の初めの強い南風を「春一」または「春一番」と呼ぶようになったといわれている。一般に広く普及したのは 1960年代前半で,1963年からは一般新聞紙面の天気図欄に掲載されるようになった。(ブリタニカ国際大百科事典)(左上と右下の写真は、いずれも長崎郷ノ浦町にある「海難記念」のものです)

 今日の季語となっている「春一番」には、大きな悲劇が発端となっていたのは上に引いた事典の通りです。今から二百年近く前に起こった壱岐の漁師たちの海難事故でした。海での時化(しけ)による事件・事故には枚挙にいとまなしですが、この海難事故は規模といい、季節といい、未曽有の出来事として、長く記憶に留められてきたのでした。ヘッダー写真に掲げた所以(ゆえん)です。それから見れば、1963年以降に新聞で使われ出した「春一番」はおとなしいもの、そうはいっても油断大敵で、時には、山火事や住宅火災による大きな被害をもたらすことはありますが、それは『春一番』の季節に限らないこと。今日の「気候変動」の影響によって、従来通りに「春一番」がそれなりの範囲で発生するかどうか、発生しておとなしく終わるかどうか、ぼくにはわかりません。場合によっては「春二番」「春三番」と続くことがある。

 ぼくの実感では、千代田区永田町では、著しい「気候変動」の災厄が生じている気がします。嘘八百の首相が、圧倒的に有権者の支持を得、世界大で「名宰相」と持ち上げられている、この奇怪な現象は、禍々(まがまが)しい災難の予兆と、ぼくは見ています。政界では、しばしば「与野党」などと称して、いかにも対峙・対立しているかの幻想を抱かせますけれど、何のことはない、皆さん、きわめて近しい「友人・知人。いやひょとすると、兄弟姉妹かもしれないというほどに近しいのですよ。だから、ごく少数の政治家を除いて、その気心は知れています。それぞれの政治家の政治的・正統的軌跡を一目すれば、やっぱり、ということに頷かれるでしょう。「昨日の友は、今日の敵」であって、その逆またしかり。要するに「みんな仲間」なんだ。

・春一番過ぎし凪なり壱岐対馬(龍頭美紀子)
・月丸し春一番のあとに出て(阿波野青畝)
・雨雲を掃き朝翔けの春二番(佐藤鬼房)
・春二番一番よりも激しかり(牧野寥々)

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君はどうして総理大臣になりたいのか

 巧言令色(こうげんれいしょく)と巧偽拙誠(こうぎせっせい)と 

 我ながらウンザリしています。「今日もそれ(政治問題)か」、という呆れる思いがぼくにはある。つまり、「政治向きからは離れたらどうか」というささやき声がしきりにするのです。しかし、そこはそれ、コラムを「出汁(だし)」に、わが衰え著しい脳細胞を、無駄とは知りながら、刺激することを旨として雑文書きなぐりを始めた以上、各紙「コラム」の勢いに流されるのは、一面では仕方がない。加えて、「鼓腹撃壌」を決め込み、「帝力なんぞ我に有らんや」と、権力(政治)にソッポ(外方)を向けて、自分の日常に没頭(埋没)していたいのはやまやまだけれど、若い時の政治的無関心にぼくは痛く懲りたこともあって、それもできないので、否応なし(詮方なし)に、昨日も今日も、この国の衰弱著しい「政(まつりごと)」に悪態をつく羽目になっているのです。それも今少しの辛抱さ、と思いつつ、です。

 熟年結婚をしたが、誰も彼もが賛意を(祝意)を示さないままに、いきなり嵐(衆議院選挙)に襲われ、家もろともに吹き飛ばされ、一つになったと思っていた「家の子郎党」は雲散霧消し、結婚の当事者(共同代表)は表舞台から消えてしまいました。残された一方の郎党もまた、「兵(つわもの)どもの夢の跡」と、まさしくぺんぺん草も生えないような荒れ地に放置されたまま。そしてようやく、家屋敷の瓦解を避けようと、きわめて少数の奇特な家人(サバイバー)たちが「家再建」に乗り出そうとした。その顛末を房総半島の山中に「陸沈(滅亡寸前の身)」しつつ、おおよそのふるまいを見てきました。ありていに言うなら、まさに「四分五裂」の為体(ていたらく)、驚くべき醜態を晒(さら)してしまいました。「これが政党なのか」と、怨嗟や叱責、あるいは罵詈雑言がが、内からも外野からも飛び交っています。結果、昨日、わずか、残党「49人」で(赤穂浪士より2人も多いのを奇化とするか)、討ち入りならぬ「討ち死に」を避けるべく立ち上がろうとしたのです。ここまで落ちて、党や党員の「死に体」は明らかであるにも関わらず、それでもなお、 「死からの復活(Resurrection from the Dead)」を願う政治家たちの「覚悟やいかに」と、ぼくはそう思っている。選挙制度の仕業、圧倒的多数の「氏に票」を出したのだから、「小選挙区制」の弊を、自らの勝ち点にできなかったのは、理由があるにせよ、普段から、のうのうと油断していたということ。そう納得すれば、浮かぶ瀬もあるぜよ。

 そして敗残の兵(つわもの)たちの総大将に、香川の「パーマ屋の息子」が名乗りを上げました。O氏。1971年生まれ。彼が役所をやめ、議員になりたてのころから、ぼくはなぜだか(偶然にも)、彼の挙措をよく見ていました。とにかく、なかなかの自己顕示欲の達者な人物と見えたからでした。そして、「新代表」に決定・選出されたのを機に、改めてOさんの「軌跡」を振り返り見ることにしました。そして、ぼくは一驚を禁じえませんでした。詳細は避けますが、実に「変わり身の早い男」と記録されているではないですか。移り変わりが激しい、その解釈をぼく流に読むと、そうなるのです。それをよく受け止めれば、彼は「機敏(つまりは風見鶏)」でありもすれば、いやどっこい、皮肉にみるなら「右顧左眄(うこさべん)」「物干し竿(ものほしそう)」に映りましょう。率直に言うなら、どうやら彼には「筋金(die-hard)」というか「背骨(backbone)」がなさそうなのです。まるで「軟体動物」のごとく、です。だから、「奈良の女」と相似形だと思った次第でした。

 実にはっきりと物事はいうけれど、まさに、「朝令暮改」「言語明瞭、態度流行」を絵にかいたような御仁でしょう。ご本人は断じてそれを認めないのは、当然です。あくまでもぼく個人の偏った印象ですよ。原発問題しかり、「集団的自衛権」しかり、憲法改正問題しかり。つまり、大向こうを唸らせる結構な発言はするが、指摘されても撤回はしないで、訂正・修正は厭わない(弁解・言い訳の名人)という、ぼくはこれを「無定見(inconstancy)」と見たのです。それは時には「不誠実(inconstancy)」に重なると思う。要するに、人でも物でも、みる目がないという、大きな欠陥を隠し持っているというか。でも世間の人はそうは見ないで、彼の表層を見るだけ。だから、何度も当選を重ねる。政治家の典型です、ね。それ故に、いつだって「表層雪崩(ひょうそうなだれ)」が起きるのでしょう。

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【有明抄】君は総理大臣になれるのか コロナ禍の2020年に話題になった映画がある。題名は「なぜ君は総理大臣になれないのか」。主人公は官僚を辞め、衆院議員に挑戦する一人の青年。初出馬からの17年間を追ったドキュメンタリーだ◆総理大臣になるには政権与党の党首に就くのが王道。だが、この青年は2003年、野党の民主党から香川1区に初めて立候補。地盤、看板、かばんの「3バン」なしで奮闘したものの落選した。2度目の挑戦で比例復活で初当選。民主党が政権を奪取した09年の総選挙では初めて小選挙区で勝利した◆彼はその後も保守王国と呼ばれる香川で比例復活を含めて当選を続け、今回の衆院選で8選を果たした。そしてきのう、野党第1党である「中道」の新代表に選ばれた。小川淳也氏(54)である。自民党が記録的勝利を収める中、小選挙区で勝利した中道の候補7人のうちの1人だ◆健全な民主主義の実現には多様な声を国政に届ける野党の存在が欠かせない。ただ、民主党から中道に至るまでの野党の離合集散は複雑で主義、主張が分かりにくくなっている◆小川氏は初出馬から23年を経て、総理大臣になれる位置まで来た。ただし、中道が政権をとればの条件付き。政権交代はおろか、中道は再び離合集散を繰り返すのではと冷めた見方もある。まずは党再建へ新代表のお手並み拝見。(義)(佐賀新聞・2026/02/14)

【新生面】火中の栗 2017年秋の衆院選を前に希望の党をつくった小池百合子東京都知事の「排除」発言が忘れられない。当時、民進党からの移籍組を「全員受け入れる気はさらさらない」と突き放した▼民進党の前原誠司代表の側近だったのが、きのう中道改革連合の新代表に就いた小川淳也さん。彼を取り上げたドキュメンタリー映画は、逆風にさらされて自民党候補に敗れた香川1区の戦いを描写した▼対照的に、移籍を拒んだ枝野幸男代表率いる立憲民主党は躍進。映画の中で、今後の政治スタンスを聞かれた小川さんは支持者に「前原さんほど右ではない。枝野さんほど左ではない。保守派とリベラル左派の間、まさに『中道』のど真ん中を行きたい」と答えた▼8年余り前のやりとりだ。長く敵同士だった公明党と立憲民主党が中道という名の新党で今回、衆院選に臨むとは思ってもいなかったろう。まして議席数を49まで減らす惨敗を喫するとは▼党の立て直しが急務だ。高市早苗政権を監視する役割も求められる。小川さんは代表選後、国民生活の安定と将来見通しに全力を尽くすと決意を語った。ただ迫力がもう一つの印象だった。対峙[たいじ]しなければならないのは戦後最多の316議席に膨らんだ自民党である▼党首の知名度も分が悪い。相手は愛用品やファッションをまねる「サナ活」という言葉が生まれるほどの人気者。ドキュメンタリー映画のタイトルは『なぜ君は総理大臣になれないのか』だったが、存在感を示さなければ、道は開けてこないかも。(熊本日日新・2026/02/14)

 (言わなくてもいいことですが。映画の画面に「家族」が総出で父親・夫の応援をする風景が見られます。ぼくは、このような「微笑ましさ(を装ったかもしれない)」らしい姿勢には反吐が出る。もちろん、ぼく個人の意見ですが、子どもやかみさん(妻)は「別人格」ではないかと思う。家人が父や夫を応援したいといっても、このような風潮をぼくは忌み嫌いますね。要するに、「公・私」混同(取り違え)と受け取られるからです) 

 (「火中の栗を拾う」というに語には、いくつかの解釈があります。多くは「① 他人のために、自らの身・安全をいとわずに危険を侵す」と捉えられます。②は「《猿におだてられた猫が、いろりの中の栗を拾って大やけどをしたという、ラ‐フォンテーヌの寓話(ぐうわ)から》自分の利益にならないのに、他人のために危険を冒す(愚か者?)たとえ」デジタル大辞泉)(あえていうなら、ぼくは②のほうに身を置くもの)

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 代表選出後の記者会見で、ある記者から「アメリカの大きな政治的不祥事でもあるエプスタイン事件(文書)」について質問され、「なに、エプスタイン? 不勉強にして知りません」と言ってのけたことに、ぼくはゾッとした。そこにはいくつもの問題があると思ったからです。「善意の人」「正直な男」と受け取れば、どうということもないでしょうが、今アメリカ政界の、大統領を巻き込んだ不祥事(それも人身売買や人権侵害に該当する事件の当事者だった人間にかかわる)そんな深刻な問題を「知りません」と実にあっさりしたもの。この何年も、いや何十年も、米国で問題になり続けているのに、関心を示さないのはどういうことか。ぼくには解せないという以上に、彼には不感症の虞(おそれ)が多分にあると、大いにこころが痛むし寒々しい思いがします。(左写真は「(左から)2000年2月に一緒に撮影されたトランプ氏、この5年後に結婚したメラニア現大統領夫人、故エプスティーン元被告、マックスウェル受刑者」BBC・2025/07/22)

 「君はどうして総理大臣になれないのか」(大島新監督作品・2020年公開)、このようなドキュメントを作った監督の人間観察眼の鋭さを指摘すべきでしょうか。ぼくはそうは見なかった。見栄えはいいし、格好のいいことも口にする。それだけではないかというつもりはありませんけれど、「無定見」は拭(ぬぐ)い切れません。それは「しっかりした考え方や意見を持っていないこと。確固とした見識がないこと。また、そのさま」デジタル大辞泉)ということです。見栄えはいいし、耳当たりのいい言葉がポンポン出てくる。つまり「巧言令色」(口八丁)であり、そうではあってもなお、「巧偽ハ拙誠に如かず」ということであります。あくまでもぼくの印象。

 記者会見で、もう一つ奇異に感じたこの人の特質、それは聞かれた質問に答えるのではなく、自分の見識(内容空疎)をひけらかしたくなるということ。その態度によって、その人は「賢い」のではなく、「賢ぶっている」だけという印象を、ぼくは強く持ちます。「表向きの見栄えはいいけど、裏はゴミダメ」そんなことはまさか、あり得ないでしょうが、その疑いはある。にわか勉強家・学校優等生の一大特質。その臭気は「奈良の女」にも滲み出ています。「巧言令色」の「巧言」とは「心のこもらぬ飾り言葉」であり「令色」とは「表情を愛想よく飾る」ことです。「君子豹変 小人革面」(「易」)「小人は面を革(あらた)む。順にして以て君に從ふなり」、要するに、顔色を変えて従うふりをするということです。(作り笑いの得意な面々、政治家にはごまんといる)

 偉そうな批判をしていますが、彼(Oさん)がどんな「政治家の先輩たちに近づき、そして離れたか」、それを知るだけで、驚くはずです。まるで見境がないといってもいい。彼の感性はじゅぶんに鋭いか、ぼくはそれも疑っています。それはそれとして、二つの政党が「政略結婚」、それも「熟年結婚」を、表向きでは、しました。一方の党の前の相手は「我が世の春」を謳歌し出しているというのに、離縁された古女房(政党)は、結婚・離婚を繰り返した末に、たまたま似た者同士が集まりつくっだ「烏合の衆・政党」とマッチングアプリで出会ったが、それぞれの身の振り方を考えるいとまもなく、「出会いがしら婚」をしたような具合でした。それもつかの間、この無謀な、思い付き「結婚」は跡取り息子・娘たちたちに相続を委ねて、新しい段階に進んだというのでしょう。

 それぞれの「連れ子(義理の兄弟姉妹)」は多数であり、それぞれの親類縁者を入れれば、天文学的数字になります。うまくいくはずもないものを、無理にでも一緒にするということは土台、無茶で無理な話。1+1=マイナ100超。この難問に果たして「正解」はあるか。そして、その上に、願わくば「奈良の女」と「香川の男」が、よもや手を組むことはいでしょうね、とぼくはこの国の行く末を案じつつ、勝手次第にくっついたり離れたりしたら、残された一億の国民は路頭に迷うということを肝に銘じてほしい、と山中、密(ひそか)に念じるのみ、です。(左写真「老いらくの恋」ならぬ「末期の合体」は粉々に砕けてしましました)(折しも、本日は「聖バレンタインデー」だそうです)

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国が「正しさ」を強要する時代…

【産経抄】賢しらぶる「声」に惑うなかれ、高市首相は民意への答えを 何年か前、小紙ウェブサイト「産経ニュース」で音声によるインタビューの連載を担当した。▼取材相手の話を収録し、ネット上で届ける企画だった。簡単なようで、そうでもない。録(と)った音声を取材後に聞き直したところ、雑音だらけで慌てた覚えがある。周りにいる人の声から洗い場の水音まで、あらゆる物音が入っていた。音響の専門家によれば、マイクを置いた位置がよくなかったという。▼「話す人のそばに置かないと、周りの音も拾いますから。人の耳と一緒なんです」と。指摘の通りで、マイクは取材相手と当方の真ん中にあった。音の出どころが周りにいくつもあると、耳と同じくマイクも迷うものらしい。政治の中心に身を置く人も、これに似た境涯だろうか。現代は「危機の時代」といわれる。一国の指導者に迷っている時間はない。▼衆院選が終わり、空前の大勝を収めた高市早苗首相と自民党に対して百論が飛び交う。「数の力で異論を抑え込んではならぬ」との声もある。賛否を伴う政策を進めるにはしかし、議論した上で多数決で決めねばならない。それが民主主義である。圧倒的な「直近の民意」で政治的な力を得た政権が、賢(さか)しらぶる声の一々に足踏みしては選挙が意味を失う。▼「国論を二分」する政治課題を、背負って立つ資格が自分にあるか。高市首相は選挙でそう問いかけ、有権者は決めきれぬ政治との決別を選んだ。強靱(きょうじん)な安保政策を推し進め、インテリジェンス(情報収集)機能を高め、憲法改正を。なすべきことに形を与えるのが示された民意への最も誠実な答えに思える。▼一時期もてはやされた「聞く力」も、声という声をあまねく拾う耳だけでは前に進めない。高市氏の耳は、どうだろう。(産経新聞・2026/02/13)

  「現代は『危機の時代』といわれる」「圧倒的な『直近の民意』で政治的な力を得た政権が、賢(さか)しらぶる声の一々に足踏みしては選挙が意味を失う」「強靱(きょうじん)な安保政策を推し進め、インテリジェンス(情報収集)機能を高め、憲法改正を。なすべきことに形を与えるのが示された民意への最も誠実な答えに思える」(【産経抄】)ここでコラム氏がお得意の辛辣な表現を使っています。「賢(さか)しら」とは「利口そうに振る舞うこと。物知りぶること。また、そのさま。かしこだて。「—をする」「—に口を出す」(デジタル大辞泉)偉そうに批判する連中の「怒声」や「うめき声」などには一顧だにするなという応援団の力強い励ましです。しゅそゆにとっては「百人力」ですか。 

 「歴史的大勝の高市早苗首相は『国旗損壊罪』の制定を目指す▼40年ほど前、海邦国体の会場で日の丸が燃やされた時は刑法の器物損壊罪を適用した。政治への反論を表現の自由として尊重するならば、新たな法制化は必要だろうか」「国が過剰に『正しさ』を強要する時代は息苦しかろう。ここは『オールドメディア』たる新聞の踏ん張りどころ。『働いて働いて』の高市首相ではないが、沖縄戦という軸に立って書いて書いて書き続けるしかない」(【金口木舌】⇩)(左は赤瀬川源平さんの「偽札」の絵です)

 二つのコラムは、首相の「選挙に大勝」をめぐって、まるで方向(ベクトル)の違う意見を出しています。首相自身の評価をめぐって、いわば「国論は二分」されているともいえそうです。もちろん、ぼくは「沖縄派」であることを隠さない。

【金口目舌】現代美術家、照屋勇賢さんの作品「さかさまの日の丸」は、「正しいと正しくない」「常と常ならず」の感覚を静かに揺さぶる。正しさって何だっけ▼衆院選やミラノ・コルティナ冬季五輪で日の丸の旗を目にする機会が増えた。選挙戦では「正しい」という言葉も聞いた。歴史的大勝の高市早苗首相は「国旗損壊罪」の制定を目指す▼40年ほど前、海邦国体の会場で日の丸が燃やされた時は刑法の器物損壊罪を適用した。政治への反論を表現の自由として尊重するならば、新たな法制化は必要だろうか。何年も前から「保守層へのヨイショ」とも指摘される▼雪の五輪会場の日の丸を見ながら、作家の故赤瀬川原平さんなら今をどう料理するか考えた。約60年前、アートで作った「模型千円札」が罪に問われた。裁判も含め、本物と偽物の間で展開された芸術行為は「正しさ」「常識」を揺さぶり、挑発した▼国が過剰に「正しさ」を強要する時代は息苦しかろう。ここは「オールドメディア」たる新聞の踏ん張りどころ。「働いて働いて」の高市首相ではないが、沖縄戦という軸に立って書いて書いて書き続けるしかない。(琉球新報・2026/02/13)

 「国論」とはどういうものですか?「国民一般の論・意見。世論。『—を二分する』」(デジタル大辞泉)「国論が二分されている問題」にも果敢に挑戦して、前に進めると首相は「解散」の「大義」をかたっている。まるで「後出しじゃんけん」みたいなもので、これもやる、あれもやる、みんな国論が二分されているものだ、と。選挙の結果に関して、ぼくは何も言わない。それが多くの有権者の選択(判断)だったのですから、それをとやかく言うことはしません。しかし、有権者の多くの判断が「正しくない」「誤っていた」ということはいつだってありえるのだし、その圧倒的多数の判断が間違った方向に進む情勢(国情)を「ファシズム(fascism)」というのでしょう。それは否定できません。

 ただ今現在の、この国の政治的雰囲気は間違いなしに「ファシズム」であるとぼくは考えています。「極右の国家主義的、全体主義的政治形態。初めはイタリアのムッソリーニの政治運動の呼称であったが、広義にはドイツのナチズムやスペインその他の同様の政治運動をさす。自由主義・共産主義に反対し、独裁的な指導者や暴力による政治の謳歌などを特徴とする」(同前)少なくとも、この辞書に言うところの「自由主義・共産主義に反対し、独裁的な指導者や暴力による政治の謳歌などを特徴とする」という部分(政治的傾向)は、まさしくそうであるといえるでしょう。個々の有権者の資質や判断がどうであろうと、けいっか的に「圧倒的多数の民意」が一党に寄せられたのですから、それを「千載一遇」の好機と捉えない政治家はいないでしょう。(「ファシズム」についてものをいうとすれば、おそらくたくさんの言葉を尽くさなければ無理でしょう。しかし、ここは論文を書く場でもありませんので、辞書を引いて、役目済ましをしておきます。いずれ、否応なく、語るべき時が来るでしょうから、その時に譲ります)

 本日は、二つの新聞のコラムを引用しました。まさに「右」と「左」に分裂しているかのような印象を受けます。だから、「あなたはどちらの立場に立ちますか」と問われれば、「ぼくは【産経抄】にくみします」、「いいえ、私は金口木舌派です」と、国や権力者に対する「立場」は分かれますからあるもんだに関して両社の意見を聞けば、たぶん「文壇」されることは避けられないでしょうね。問題はその先です。みんながまとまっていれば、政治は簡単でしょうが、はっきりと意見が割れるとき、政治や政治家の出番があると思うのですが、この国も「多数決」が物事を決める手段となるのは、その通りでしょうが、問答無用で「多数決」となるなら、それこそがファシズムの特質がそこに見いだされることになるでしょう。

 ファシズムはどこからやってくるのでしょうか。あの山超えて野を超えて、いや海のかなたの異国から。そう思いたいのでしょうが、違います。「私の心の内」「あなたの胸の中」、そこからやってkるのですよ。だからよほどでない限り、ほとんどはそれと気が付かないのですね。もちろん、首相自身も。自分はファシストだとは夢にも思っていないでしょう。気が付いたら、手遅れというか、ファシズムは気分的には完成してしまっている。この国も現状はどのあたりですか。

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◎ ファシズム= 狭義にはイタリアでムッソリーニの指導下にあったファシスト党の,広義には20世紀の全体主義的・国家主義的独裁の運動理念,支配形態。イタリア語ではファシズモfascismo。語源は古代ローマの儀式用の束桿を意味するfasces,転じて〈結束〉〈団体〉の意。第1次世界大戦後の資本主義の一般的危機と,それから起きた社会的・経済的混乱や社会主義革命の危機の切迫感から,その存立基盤に不安を感じた中間層が,カリスマ的指導者に率いられて起こした大衆運動。議会政治や言論・出版・結社等の自由をすべて否定し,反革命運動を推進した。またすべての悪の根元は社会主義・共産主義・ユダヤ人等にあるとし,偏狭な民族主義や排外主義を唱え,しばしば対外侵略政策をとった。ドイツのナチズム(ナチス)や日本の天皇制ファシズムもその例である。ただし,ファシズムを最広義に,〈共同体〉(その大小,出自,体制の相違を問わない)統合の極限的な原理ないし手法と解すれば,これを歴史的事象として清算することはできず,再出現の可能性は常にあると考えなければならない。その政治的・経済的・社会的側面のみならず,思想や文化にわたる機制の解明が必要とされるゆえんである。(百科事典マイペディア)

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