He is desperately seeking relief.

 彼は、自分自身にも他人にも、自分の(実際には備わっていない)「凄さ(greatness)」「異能(extraordinary ability)」を誇示するためなら何でもするだろう。詰まりは「軽薄な男(a frivolous man)」なのです。彼は世界情勢やアラブ諸国間の複雑な地政学にはほとんど関心がなく、基本的な知識すら欠いていると思う。もちろん、イランへの空爆は(ベネズエラ爆撃と同様)、彼自身の判断ではなく、「狡知は、自分自身にも他人にも、自分の(実際には備わっていない)「凄さ(greatness)」「異能(extraordinary ability)」を誇示するためなら何でもするだろう。詰まりは「軽薄な男(a frivolous man)」なのです。彼は世界情勢やアラブ諸国間の複雑な地政学にはほとんど関心がなく、基本的な知識すら欠いていると思う。もちろん、イランへの空爆は(ベネズエラ爆撃と同様)、彼自身の判断ではなく、「取り巻き」が使嗾(しそう)・扇動したものだと私は確信している。(ヘッダー写真「米国がイラン攻撃に踏み切った直後の3月5日、ホワイトハウスにキリスト教福音派の牧師ら20人が集まった。神妙な表情のトランプ大統領に牧師は手をかざして「米軍に神の恵みがありますように」とイラン攻撃の成功を祈った」日本経済新聞・2026/03/30)

 しかし、言われるがままに攻撃を開始してしまった後で、彼は「侵略(戦争)」をいつ終わらせるかという「青写真」(出口戦略)を持っていなかったことに気づいた。時が経つにつれ、ガソリンをはじめとしたアメリカ国内の物価は高騰し、ドルは下落し、市場は彼の無知と無謀さを嘲笑うかのように、彼の意に反して(激しく)動いた。彼は依然として「ビジネスマン」であり、何よりも、市場に自分の「偽りの姿」を見抜かれることを恐れている。

 彼は常に自分を「力強い存在(王様)だ」と広言したがる。実際のところ、この「虚言」は、紛れもなく、彼自身の「臆病さ」を示している。これが、彼の発言が矛盾し、絶えず変化する大きな理由です。彼の著しい欠陥は、他者の命への「顧慮(consideration)」のなさであって、同時に、こんな人物が大統領であることを公認している米国市民の道徳的頽廃もまた看過できないほどのものがあります。

 そして今、彼は本当に自分が「救世主イエス」だと信じたがっているのでしょう。彼には冗談を言う余地・余裕などなく、「溺れる者は藁にもすがる」という状況に喘(あえ)いでいたのです。彼が自らを「イエス・トランプ」と宣言した瞬間、彼の底なしの愚行に対して四方八方から、(福音派からでさえ)矢と弾が降り注ぎ、彼は一瞬たじろいだように見えました。そして、いつものように虚勢を隠し、脅迫と恐喝に訴えました。いつでも使いたがる<We won.>という言い草には、彼の人生観が滲(にじ)んでいます。勝ち負けでしか、人間のの能力を測れないとは、いかにも獣的ではないでしょうか。彼の内なる葛藤はしばらく続くでしょう。彼が健全な判断を下せるようにならない限り(もはや無理だと思う)、大統領の座にとどまることは不可能だと、ぼくは考えています。世界(彼自身は元より)は彼の揺れ動く「衝動(impulse)」(on schizophrenia)によって翻弄されているのです。(だれもが油断していると、彼は「核のボタン」を押す「現代のイエス」になりかねない。「時代」はそれほどの危殆に瀕している)

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《トランプ米大統領は自身をイエス・キリストのように描いた画像をソーシャルメディアに投稿し、その後削除した。支持者も反発するなど、批判の声が上がっていた。/問題のt投稿は、米国旗を背景にローブ姿のトランプ氏が病人に手を触れている様子を描いたもの。米国とイスラエルによる対イラン戦争を非難したローマ教皇レオ14世をトランプ氏が批判した後に投稿された。/「神はいかなる紛争も祝福しない」と米政権の主張に異議を唱えたローマ教皇について、トランプ氏は「犯罪に対して弱腰だ」と批判していた。/トランプ氏は13日、問題の画像を投稿したことを認め、自身を医師として描いたものだったと釈明した。/「私はそれを投稿したし、医者として描かれ、赤十字に関係しているものだと考えていた」と発言。その上で「医師として人々を癒やす姿を描いたもので、私は実際に人々を癒やしている」と述べた》(Bloomberg・2026年4月14日 at 6:21)

 《トランプ氏のイエス・キリストのようなイメージとローマ法王との確執が、いかに反発を招いているか/ドナルド・トランプ大統領は、自身をイエス・キリストのような人物として描いた画像をTruth Socialに投稿したことで、ますます強い反発に直面している。/現在削除されているこのAI生成画像は、トランプ氏が病院のベッドで病人を癒しているように見える様子を描いていた。この画像が投稿されたのは、大統領がローマ教皇レオ14世を批判する長文のメッセージを投稿した数時間後のことだった。/大統領はその後、その画像は自分を医者として描いたものだと思ったと述べている。/BBCのサラ・スミス記者が、大統領とローマ教皇の間の確執、そして大統領の最も熱心な支持者たちの反応について解説する》(BBC・2026/04/14)(https://www.bbc.com/news/videos/c624dy3pgg2o

初の米国出身のローマ教皇と米国大統領は、中東戦争に関して全く異なる見解を表明した。
4月5日: 教皇レオ1世は、初めての復活祭の祝福の中で、「戦争を引き起こす力を持つ者たち」に「平和を選ぶ」よう強く促した。
4月7日:トランプ氏はTruth Socialに、イランがホルムズ海峡を開放しなければ「今夜、一つの文明が滅び​​るだろう」と書き込んだ。その後、教皇レオ1世は記者団に対し、「今日、イラン国民全体に対するこのような脅威があったが、これは到底容認できない」と述べた。
4月11日:イランとアメリカの交渉担当者が戦争終結に向けた協議のために集まる中、レオ教皇は国際社会に対し「戦争という狂気」を終わらせるよう強く訴えた。
4月12日:トランプ氏はローマ教皇を批判し、「政治家ではなく、偉大な教皇であることに専念すべきだ」と述べた。同氏は教皇が「犯罪に弱腰」で「過激左派に迎合している」と非難した。トランプ氏はソーシャルメディアへの長文投稿で、レオ教皇は「感謝すべきだ」と述べ、「私がホワイトハウスにいなければ、レオはバチカンにいなかっただろう」と付け加えた。
4月13日:レオ教皇は記者団に対し、「トランプ政権を恐れていないし、福音のメッセージについて声高に語ることも恐れていない」と述べた。(BBC・2026/04/13)(「教皇に逆らう者は滅びる(chi mangia papa crepa)」)
トランプ氏、イラン問題でローマ教皇レオ1世を攻撃 ドナルド・トランプ氏は、ローマ・カトリック教会初の米国人指導者であるレオ14世が、トランプ氏によるイランへの脅迫を非難したことを受け、ソーシャルメディア上でレオ14世を強く批判している。
米大統領はTruth Socialに長文の投稿をし、ローマ教皇は「外交政策にとって最悪だ」と書いている。
「イランが核兵器を保有することを容認するような教皇は望まない」とトランプ氏は述べている。
トランプ氏は、教皇レオに対する他の多くの不満を列挙し、教皇レオは「犯罪に弱く、核兵器にも弱い」と書いている。
先週、レオ1世は、イランが戦争終結のための合意に至らなければ「今夜、一つの文明が滅び​​るだろう」というトランプ大統領の脅迫を批判した。/彼はそれを「到底容認できない」と述べ、さらに「確かに国際法上の問題もあるが、それ以上に、これは道徳的な問題だ」と付け加えた。(BBC・2026/04/13)
大統領は、削除された投稿は自分を「キリストのような人物ではなく、医者として描いたもの」だと述べている。
トランプ氏は、本日未明にTruth Socialで共有した、自身をキリストのような人物として描いた物議を醸す画像から話を始めた。この画像はその後削除されている。/彼は、その画像は自分をイエスのような人物としてではなく、「人々を癒す」医師として描いたものだと述べている。/彼は、メディアがその物語を「でっち上げた」と非難している。(BBC・2026/04/13)

(右写真・「イスラエルのテルアビブで、福音派団体が設置した看板の前。トランプ米大統領の写真とともに「神とトランプ氏に感謝」という文字がある。3月12日撮影。REUTERS/Nir Elias」Reuters・2026/04/09)

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◎ キリスト 教福音派(Evangelical)=キリスト教のプロテスタントから派生し、聖書の文言を原理主義的に解釈する。英語では「エバンジェリカル」。神はアダムをつくり、妻イブをアダムの肋骨ろっこつからつくった―とする創世記の創造論を信じ、ダーウィンの進化論を否定する。ピュー・リサーチ・センターの2014年の世論調査によると、米国では成人の25・4%を占める。キリスト教の最大勢力で、プロテスタント主流派の14・7%、カトリックの20・8%をしのぐ。(カルマン共同)キリスト教のプロテスタントから派生し、聖書の文言を原理主義的に解釈する。英語では「エバンジェリカル」。神はアダムをつくり、妻イブをアダムの肋骨ろっこつからつくった―とする創世記の創造論を信じ、ダーウィンの進化論を否定する。ピュー・リサーチ・センターの2014年の世論調査によると、米国では成人の25・4%を占める。キリスト教の最大勢力で、プロテスタント主流派の14・7%、カトリックの20・8%をしのぐ。(カルマン共同)(共同通信ニュース用語解説)

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水と油を「乳化」させるには

 朝から快晴で、まさしく薫風の候というのでしょう。まだまだ花粉が飛散していますので、油断はできませんけれど、少しは外に出かけてみたい気もします。地球の内外、さまざまに吉凶交々という、いつに変わらぬ、chaos(カオス)とcosmos(コスモス)の糾(あざな)える縄状態であります。月から地球を見た映像が送られてきました。月への使者が地球に贈ったプレゼントだったのでしょう。地球の住民よ、争いやいがみ合いは止めたらどうだと、離れてみれば、まるでボール玉のような、可憐な地球の姿に、ある種の感慨を催してきます。(ヘッダー写真:オリオンから撮影した「地球の入り」=NASA提供)(読売新聞・2026/04/11)

 かと思えば、衝動に駆られて始めた「イラン戦争」、たくさんの死傷者を生んでなお、停戦に至る道筋さえも見いだせないという愚かさに、ぼくは別種の感慨を抱きます。よく水と油といいます。「水と油が互いに溶け合わないように、性質が合わず、しっくり調和しないこと。油と水。油に水」(デジタル大辞泉)その水と油の混合水に「界面活性剤(例えば石鹸など)」を注入すると、どうなるか。犬猿の仲同士が、対面してもうまく交渉は進まないのは道理で、「水と油」ですから。それをうまく対話・交渉に乗せる(「乳化」させる・Emulsifying)「仲介人(界面活性剤)」が求められます。今回はパキスタン。果たして、その展開は。この「界面活性剤」が十分に機能しなったのか、あるいは、交渉両国が必要以上に汚染・汚濁水であったせいでしょうか。いずれにしても、「予想通りの物別れ」、そして互いの「水分の汚染・汚濁度」を罵(ののし)りあっているのかもしれません。多くの人が考えている以上に「泥沼」は続くとぼくは心配している。

 本日は、二つのコラムを引用しておくだけ。まずは「明窓」から。「物は考えよう」とは言いますが、いろいろな人がいろいろなことを言います。「水平思考」だの「垂直思考」だの。お好きにどうぞ、というばかりです。文中に出てくる「個性」という表現。これもまたずいぶんと好き放題に使われてきた言葉でしょう。第一は「個性的」という意味での、「ある人に特有の」ということのようです。そして次にはその固有性を尊重するという意味で「個性重視」。「個性蔑視」は言うもはばかられる忌み語ですから、ひたすら「個性尊重」の一点張り。~だけというのは、実に危ういですね。

 こんなに長い間、広く叫ばれながら、いまだに「教育は個性を尊重することです」といわれているのは、個性が尊重されてこなかったし、今も尊重されていないからでしょう。もっと言えば、「個性」とは尊重されるものなんですか、されないものかもしれないと、ぼくなどは考えてしまいます。犬や猫と人間は「種」が違う。それを、それぞれの「固有性(種)」、つまりは「個(性)」といっているに過ぎない。犬は犬、猫は猫、人は人というだけのこと。とすれば、「自分らしく」と、ことさらに「個性」「個別性」を主張しなければいけないものかどうか、ぼくには怪しく思われてきます。Aさんと B さんは別人、それをして「個」「個性」といっているだけのことでしょう。それをどのようにして「尊重」するのでしょうか。もっと別の視点と姿勢が求められていませんか。「個性は尊重」「規則で縛る」という、この垂直思考なんですか、出鱈目無思考が幅を利かせる学校という環境を、激しく問い直したいですね。

 詳しく話すと駄文が長くなるので、それはしない。「間違いじゃない。それでいい」と、縦書きの常識を覆す、それが「水平思考」なんです、というコラム氏の指摘。いかにも馬鹿らしいけれど、「個性は尊重されなければ」ということらしいですね。。

【明窓】「間違いじゃない。それでいい。」 水平思考のススメ 先週末に足を運んだ横浜市で奇妙な広告板を見つけ、思わず二度見してしまった。「間違いじゃない。それでいい。」-。白地のスペースは横長なのに文字は縦書き。まるで布団に寝そべっているかのように、2行にわたり書かれていた。◆地元の学校法人のPRで、右隣に法人名が普通に横書きで記されており、その上に「『自分らしく』を応援します」という文字があった。別の場所では「間違いじゃない。それでいい。」の縦書き文字が上下逆転した縦型の広告板も見かけた。違和感が募るが、決して“間違いじゃない”ようだ。◆「文字は正しく配置すべきだ」という世間の常識をあえて逸脱することで、人目を引くのが狙いだろう。個性を尊重する校風のアピールにも見事に成功している。広告媒体として秀逸だ。◆この違和感は水平思考にも通じる。問題を解決するため固定観念にとらわれず、物事を多角的に考察する手法のこと。対する垂直思考は、一つのアイデアや問題を深く追求する考えを指す。情報のスピードが速く先行きの予測が難しい現代では、型にはまった考え方より、常識を逸脱するような水平思考が必要だ。◆新年度が始まって間もなく2週間。研修を終えた新社会人の職場配置もそろそろか。自由にアイデアを出してほしい。同時に上司の側も頭ごなしに否定するのではなく、「間違いじゃない」と温かく見守る度量を持っていたい。(健)(山陰中央新報・2026/04/12)(ヘッダー写真;「間違いじゃない。それでいい。」と縦書きで書かれた広告板=5日、横浜市神奈川区

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【春秋】色を消して、顔を上げて 4月から何か新たに始めたいことはあるだろうか。各種調査によれば、定番はウオーキングや食生活改善といった健康もの、節約や投資のマネー関連が上位に入る。一方で改善したいことを問うと、浪費や不規則な生活、との回答が多い。人の願いは表裏一体だ▼先日、知人が「きょうから始めたよ」とスマホの画面を見せてくれた。色がない。白黒だ。いわく、スマホを見ている時間が1日平均4時間、計算すると1年間で60日分に相当すると知り、ショックを受けたらしい▼スマホには使用時間を表示する機能があるので、一度確かめてみてほしい。2時間でも年730時間、30日分になる▼時間を減らしたいならば、画面の色を消すことが一つの方法だ。スマホの設定を変えるだけで、簡単に白黒に切り替えられる。同じ文字や画像なのに、色が消えた途端、魔法が解けたように見続ける意欲が落ちる。台湾の元デジタル担当相オードリー・タン氏も白黒画面を実践していると公言していた▼鮮やかな色彩は脳を興奮させて、「もっと見たい」という快楽物質のドーパミンを分泌させるそうだ。画面は極彩色のショーウインドーのように視覚を刺激している▼情報を欲していたのではなく、色という刺激に惑わされていた時間の方が長いのかもしれない。季節は、花咲く春から新緑の初夏へ。世界は鮮やかな色に満ちてゆく。さあ、顔を上げていきましょう。(西日本新聞・2026/04/12)

 「色を消して、顔を上げて」という、コラム「春秋」の意見。ぼくはスマホを持たないから、語る資格はありません。でも、「色を消して」といっているのは間違いでしょう。「黒」は色ですからね。「先日、知人が『きょうから始めたよ』とスマホの画面を見せてくれた。色がない。白黒だ」と。コラム氏はびっくりすることをいう。「白黒」を色でないといわれる。本当ですか。どこまで行っても「色がない画面」と書かれる。おかしいですねと、ぼくは目を凝らして、コラムを読む。「同じ文字や画像なのに、色が消えた途端、魔法が解けたように見続ける意欲が落ちる」、指摘されることはわかります。でも無色の画面がスマホに出せるんですかと、問いつづけたいですね。

 「鮮やかな色彩は脳を興奮させて、『もっと見たい』という快楽物質のドーパミンを分泌させるそうだ。画面は極彩色のショーウインドーのように視覚を刺激している」と書かれている。「そんなの当たり前じゃん(That’s obvious.)」といいたくなりますね。「水平思考」と「垂直思考」の「まやかし(deception)」を、そうは捉えられていないもどかしさ、まあ、一種の「あやかし」に遭遇しているんでしょうね。

 この 「あやかし」という語にぼくは惹かれてきました。「1 船が難破する時に海上に現れるという化け物。2 不思議なこと。また、そのもの。妖怪(ようかい)。3 コバンザメの別名。4 (「怪士」と書く)能面の一。男の怨霊(おんりょう)を表す面。5 愚か者」(デジタル大辞泉)と、豊かなものです。

 「常識にとらわれない、水平的思考」などといわれると、ぼくは間違いなく逃げ出します。一つの漢字を「音で読む」か、「訓で読む」か、その程度の違いだろうと思う。それは大変な違いですけれど、その違いを調べると、どこかで収まりがつくものです。ぼくはコラム氏に直言したいですね。「色を消して、顔を上げて」ではなく、「スマホを消して、顔を上げて」と、ね。このところの各紙の「コラム」、(生意気を言わせていただくと)なんというか、停滞前線の中に巻き込まれている気がします。水平でも垂直でもいい、色を消しても消さなくてもいい、「書くべきこと」(「書きたいこと」ではありません)を、全体重をかけるほどのどっしりさで、しっかりと書く。もちろん、これは自らへの自戒(self-admonition)であり、注意喚起(call for attention)でもありますよ。

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「徒然に日乗」(1060~1066)

◎2026年04月12日(日)終日好天が続く。報道によれば、真夏日になった地点も出たという。▼午前中、少しばかり裏庭の除草をした。焼け付くような暑さではなかったので、ほんの少しだったが、除草作業をし、溜まっていた「燃やせるゴミ」の償却も。▼昨日送っておいた娘二人への「筍(タケノコ)」が届いたという電話が午後、前後して入った。一人は横浜市、もう一人は草加市在。ともに元気の様子。▼夕方になって、イスラマバードで行われていたイラン・米による「和平交渉」が物別れに終わったというニュース。どう考えてもまとまるはずもない交渉だから、ぼくの想定通りで驚きはしないけれど、この状態(泥沼)が続く限り、日本への石油の輸出は一層困難になるだろう。2月28日の、アメリカ・イスラエルによるイラン侵攻以来、一隻のタンカーもペルシャ湾経由のものは日本の港に入ってきていないのだ。この先、「備蓄」はどれだけ持つのか。半年は絶えられないとすると、いずれは強烈な「オイルショック」が劣島を収集するのは確実。▼《高市首相、憲法改正「時は来た」「発議に目処立った状態で来年の党大会迎えたい」…自民党大会で意欲 高市首相(自民党総裁)は12日、東京都内で開かれた党大会で憲法改正について、「立党から70年、時は来た。改正の発議について何とか目処が立ったと言える状態で来年の党大会を迎えたい」と語り、早期の国会発議に意欲を示した。(中略)/今国会では衆院憲法審査会で9日、実質審議が始まっており、緊急事態条項の改正条文案の作成に入れるかが焦点となっている。首相は「どのような国を作り上げたいか、理想の姿を物語るものが憲法だ」と強調し、「国民に堂々と問おうではないか」と訴えた》(読売新聞・2026/04/12)▼「憲法改正」が党是だというのは事実だが、今何をすべきか、おそらく政権担当者たちの眼中にはないのだろう。無知無能であってみれば、残念だけれども「現状把握」もできないのだから、国と国民は「地獄を見るぞ」と言っておく。▼現職自衛官が自民党大会で「君が代斉唱」が憲法等に違反しないのか。子の門田については改めて。(1066)

◎2026年04月11日(土)おそらく今年最も暑い日となっただろう。25度は超えていたのではないか。午前中に裏庭の除草をしようと準備はしたが、日差しが強く、とてもこの暑さでは無理だと、何もしないで止めてしまった。まったく暑さに体力が慣れていないのだから、無理をする手はないのだ。徐々に慣れてゆくしかないと思う。その後、茂原まで買い物に出る。日曜日で好天だったから、人出はそれなりにあった。▼《ワシントン(AP)-メラニア・トランプ大統領夫人が木曜日に突然発表した、不名誉な性的人身売買犯ジェフリー・エプスタインとの関係を否定する声明は、金曜日になっても、この事件が世間の注目から遠ざかっていた時期に、なぜこのような声明が出されたのかと人々を困惑させた。/メラニア・トランプ夫人は木曜日、ホワイトハウスで用意された声明文を読み上げ、故金融家との関係について、自身と弁護士らが「根拠のない嘘」と戦っていると述べた。故金融家は有罪判決を受けた性犯罪者で、富裕層、権力者、有名人との繋がりを利用して被害者を勧誘し、犯罪を隠蔽していた。/「私をあの恥ずべきジェフリー・エプスタインと結びつける嘘は、今日で終わりにしなければならない」と彼女は述べた。「私について嘘をついている者たちは、倫理観も謙虚さも敬意も持ち合わせていない。彼らの無知を非難するつもりはないが、私の名誉を傷つけようとする彼らの悪意に満ちた企みを断固として拒否する。」(AP・2024/04/11)大統領も知らなかったという、突然(と思われる)会見。この時期に予告もなく開く、いったいそこにどういう意味(意図)があるのか、各紙も探りかねている。(1065)

◎2026年04月10日(金)曇りのち雨の天気だった。雨の合間を利用して買い物に茂原まで。帰宅後は自宅に。▼明日からのイラン・アメリカの停戦協議を前にして、すでに「停戦協議」が破綻しているような激しい動きがいろいろなところで見えている。理由もなく爆撃が始められたのだから、理由もなく停戦するのも道理だが、当事者と目される人たちには物事を合理的に考える習慣がないだろうから、簡単に「停戦」や「和平」に至るとは思われない。詰まり「泥沼状態」に陥ってしまったという感想を持つ。この国においても石油消費に大きな危機が始まったのだが、これがいつ終わるとも知れないで、長く続くだろう。最大の問題は「ホルムズ海峡を、どこ(だれ)が実効支配するか」というのだから、簡単には終わる問題ではないのだ。アメリカの「軽率」な爆撃は、文字通りの「藪蛇」だったと思う。(1064)

◎2026年04月09日(木)終日快晴。本日も長南町の街道筋を走る。房総半島の南部になるが、信号もほとんどなく、道路は整っているし、交通量も多くはなく、適度なドライブ派には格好の環境だと思う。その後、茂原市内に戻り、買い物をして帰宅。▼アメリカとイランの2週間の「停戦合意」。だという。まだ不安は残るが、アメリカはこれ以上の侵攻・爆撃は無理だろうし、まして地上軍の派遣は不可能とみる。加えて、ホルムズ海峡のイラク軍の実効支配が認められたとするなら、今後の日本への石油調達が可能になったと見るべきか、疑わしい。「ホルムズ海峡」の支配(航行)権は国際協調によっていたが、イラン軍管理となった分だけ、イランの権益が増強することになろう。*「アラブ首長国連邦ドバイ(AP)-イラン内戦における暫定的な停戦は、イスラエルによるベイルートへの爆撃、テヘランによるホルムズ海峡の継続的な封鎖、そして土曜日に予定されている協議で共通の立場を見出せるかどうかの不確実性といった重圧の下、木曜日に揺らぎ始めた。/火曜夜の停戦発表後、勝利を宣言したイランと米国は、圧力をかけているように見えた。イランの準国営通信社は、石油輸送の要衝であり、封鎖がテヘランにとって最大の戦略的優位性となっているホルムズ海峡に、米軍が機雷を敷設したと報じた。一方、ドナルド・トランプ大統領は、イランが合意を履行しなければ、米軍はこれまで以上に厳しい攻撃を行うと警告した。/また、停戦合意にイスラエルとヒズボラ間の戦闘の一時停止が含まれるかどうかについても意見の相違があった。イスラエルは水曜日にベイルートを空爆し、2月28日に戦争が始まって以来、レバノンで最も多くの死者を出した日となった。/また、緊張の中心となっているイランの濃縮ウラン備蓄がどうなるのか、海峡を通る通常の航行がどのように、いつ再開されるのか、そしてイランが将来ミサイル攻撃を行い、地域の武装勢力を支援する能力はどうなるのかといった点についても、依然として疑問が残っている。(以下略)」停戦協定に入ることができるかどうか。暗雲が垂れ込めてきた。(AP・2026/04/09:午後9時50分)(1063)

◎2026年04月08日(水)昨日とは一転した好天の一日。午前中に自動車のタイヤのボルト締め(弛み)の確認と、オイル交換のためにいつもの自動車工場へ。タイヤ交換、車検後、およそ100キロ走行をめどにタイヤボルトの弛みを直し、かなり長くオイル交換をしなかったので、交換(約5㍑)。車検時にどうしてしなかったのか、理由は不明。エレメントと間違えたかもしれない。気のせいか、新しいオイルに入れ替えたので、踏み出しや走行がかなりスムースになったと感じられた。(1062)

◎2026年04月07日(火)終日小雨が降り続く。気温も肌寒さを感じさせるほどのものだった。▼イラン戦争(アアメリカの侵略)の帰趨は、たぶん米大統領にも分かっていないのだ。彼はある種の動物だから、自分に不利になるものは避け、少しでも有利と思えば、無我夢中で追いかける。現段階では、彼の本能はマヒしかかっており、本能らしさも混濁しているのだろう。単なる暴力でしかない戦争をだれが支持するのか、米国社会も大統領の感覚を疑っているだろうし、この東洋の小国の首相でさえ、今頃になって、訪米中の振る舞いの醜悪さに気が付きかけているのかもしれぬし、いやそれは無理だという話かもしれぬが、ずれにしても「任にあらず」というほかない。(1061 )

◎2026年04月06日(月)快適な一日。午前中に茂原まで買い物。帰宅後は自宅内に。午後、一枚のはがきが。高校時代の「同窓会の案内」昭和38(1963)年3月卒だから、63年が経過したことになる。ぼくは一度も参加したことがない。先日T君が「最後かもしれないから、ぜひ参加してくれないか」と電話をかけてきた。6月だから、まだ時間はある。場所は嵐山の料理屋だという。当時は、毎日のように友人と遊んでいた曽遊の地。▼イラン情勢はますます混沌としてきた。米国大統領は常軌を逸しているのは前からだが、さらに進行しているようで、いうことが支離滅裂。万難を排して排除しなければならない時期にあるように思う。いつ何時「核のボタン」に手を掛けるかもしれぬ。属国としても「とんずら」はできないだろう。自他の「政道」をただすべく行動に出るだけの勇気と正義感はあるまいな、この劣島の政治家には。「正常な感覚」の持ち主にはあり得ないは減の嵐だ。<He said: “Tuesday will be Power Plant Day, and Bridge Day, all wrapped up in one, in Iran. There will be nothing like it!!! Open the Fuckin’ Strait, you crazy bastards, or you’ll be living in Hell – JUST WATCH! Praise be to Allah. President DONALD J. TRUMP”/Afterwards, he told Fox News there was a “good chance” a deal would be reached on Monday, but he was considering “blowing everything up and taking over the oil” if a deal to end the war was not reached quickly.>(BBC・2026/04/06)(1060)

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無理なんだ、もっと真摯な「政治」は

【国原譜】演説とはなかなか面白いものだと、改めて思った。最近のでは、イラン攻撃についてのトランプ米大統領の国民向け演説が一番だ。▼中でも、イランを「石器時代に戻す」という発言には抱腹絶倒した。比喩として上等かどうかは別として、こんなことを口にできる“才能”は認めていいかもしれない。▼だが面白がってばかりはいられない。米国とイスラエルが始めたイランへの攻撃が、私たちにも実害を及ぼしているからだ。トランプ氏は一体何をしたいのか。▼演説からうかがえるのは、攻撃の目的はイランの核武装阻止。イランに対する昨年6月の「真夜中の鉄槌作戦」にも触れているから、その続きということか。▼核兵器廃絶を願う日本の庶民としては評価したい。ただし、米国自らが保有する大量の核兵器はどうなるのだ。ロシアや中国など諸国の核兵器はどうなるのだ。▼演説での「米国から石油を購入してほしい」という海外に向けた一節にも笑った。安価で良質なら、日本も買えばいいのでは。だがしかし、世界が「力による平和」を乗り越えるのは、もっと先になりそうだ。(北)(奈良新聞・2026/04/12)

⁂ 週初に愚考する(114)~ 米国大統領の、狂気に発する「一国文明撲滅」演説を聴いて(読んで)「抱腹絶倒した」というコラム氏の無神経に虫唾が走りましたね。奈良新聞とは、やはりこんなに愚かしい記者が生息している会社なんだと、いらぬ「いちゃもん」を付けたくなったほどでした。「イランを地上から抹殺する」という狂人の狂言を「こんなことを口にできる“才能”は認めていいかもしれない」と言ってのける。(驚くのは、こんな「ゲテモノコラム」が、そのまま新聞に掲載されるというで無神経さ、です)「デリカシー」もなければ、「惻隠の情」も持ち合わせていないとは、なんと気の毒な、可哀想なと思うと同時に、ぼくは情けなくなる。この新聞社が「初めての女性宰相」誕生を祝して書かれた「奈良の女」連載を読んでいて、大丈夫だろうかと気を揉んだとおりに、首相としてはおそらく、歴代最低レベルの、人間としては水準以下の「女性宰相」に対して、応援団新聞は「贔屓の引き倒し」寸前の「ほめ殺し(over-praising)」だった。(ヘッダー写真は「商店に置かれたテレビでニュースを見るパキスタンの市民)4月11日、ハイデラバードで撮影(2026年 ロイター/Yasir Rajput)

 初の訪米時における数々の下品な(vulgar)「振る舞い」で「属国宰相」ぶりをいかんなく発揮したのも、頷けるとは言うまい。出身地奈良からすれば、彼女は「故郷の誉れ」かもしれぬが、一人の国民にとっては、まぎれもない「卑屈な媚態」「恥辱」と映りました。いかにも「国辱」の名に恥じぬ「軽薄・軽率」な日本の首脳の「能天気」は、より一層米国の『手下(minions)(flatterer)」になり下がった印象を世界中に広めた、首相の、その「功績」は認める。(悲しいかな、この国が世界でどのように評価されているかはほとんど知られていない。「知らぬが仏」ですね。今では「貧乏な、お人よしの国」と評されている。それだからと、どうというつもりなないのです、実態ですから)

 繰り返し言うようですが、「イランを『石器時代に戻す』」という発言に対して、コラム氏は腹を抱えて卒倒したそうだが、「君は馬鹿か」といいたいくらいです。もちろんこの「石器時代に戻す」という思いあがった発言の出どころは、ヴェトナム戦争の「北爆」を指揮したカーチス・ルメイ将軍の発したもの。彼は典型的な米国軍人で、東京大空襲の指揮を執ったことでも知られる。一人の「英雄」として日米両国のある部分からは高く評価されているのだ。(「トランプ氏、イランを今後2〜3週間『極めて激しく』攻撃 『石器時代に戻す』」BBC・2026/04/02)《https://www.cnn.co.jp/usa/35245959.html)(ぼくは奈良新聞のコラム「国原譜」掲載について、読者としての感想をと電話をかけ、担当者がいなかったけれど、批判の趣旨を担当記者に伝えてくれと、電話を受けてくださった方にお願いしました。日曜のお昼前でした)

カーチス・エマーソン・ルメイ(英語: Curtis Emerson LeMay、カーティス・ルメイまたはカーチス・E・ルメイ、1906年11月15日 – 1990年10月1日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人、空軍軍人。最終階級は空軍大将。/第二次世界大戦中は第20空軍隷下の第21爆撃集団司令官に赴任し、東京大空襲を指揮。1957年7月から1965年2月まで第5代空軍参謀総長を務め、在任中はキューバ危機の間にキューバのミサイルサイトの爆撃を呼びかけ、ベトナム戦争の間に持続的な北ベトナム爆撃キャンペーンを求めた。(中略)「鉄のロバ」(頑固者)と呼ばれ、訓練が実戦で生死を分けると信じており、作戦と作戦の間に部下を徹底的にしごき、寡黙で鬼のように厳しかったが、部下からは絶大な信頼を寄せられていた。(中略)戦後のルメイは「我々は東京を焼いたとき、たくさんの女・子供を殺していることを知っていた。やらなければならなかったのだ。我々の所業の道徳性について憂慮することは(中略)ふざけるな」と語った。(Wikipedia)

 トランプ米大統領の「イランを地上から消してしまう」という魂胆はどこから出てくるのか。ルメイ元将軍が、当時(1960年代)のヴェトナム人に対して抱いていた「侮蔑感情」が、現大統領に伝染した挙句の言葉だったでしょう。後年のルメイ元将軍の述懐です、(ルメイは日本爆撃に道徳的な考慮は影響したかと問われ)「当時日本人を殺すことについて大して悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことに我々は勝者になった」(同上)「人間を殺したのではなく、虫けらを殺したのだ」という発想です。「轢き逃げ」した当人は「何かを轢いたかもしれないが、人間だとは思わなかった」と、嘯(うそぶ)くのが「決まり文句」のようになっています。

 その将軍に対して。日本政府は「勲一等旭日大綬章」を与えます。佐藤栄作首相の時でした。授賞理由は「航空自衛隊育成の功績」とされていた。その「屈辱姿勢」は一貫して日本政府の米国追従・追随の伝統となったでしょう。奈良出身の女性首相の「恥辱外交」はそのお手本(先例)に忠実だったというほかありません。(左の2枚の写真、20年の隔たりがあったのに、その間に、日本の卑屈な対米姿勢はかえって強くなったと思う)

 「イランを石器時代に戻す、そこが彼らの居場所にふさわしい」と米大統領は言った。すべてを破壊しつくして「石器時代(stone age)に」というのは、一言でいうなら「核爆弾で片づける」ということだったでしょう。コラム氏は、この大統領の狂言を「褒め」もし、「笑い」もした。「悪い冗談」だと確信していたのなら、そう書くべきだったと思う。即座に、すべてを否定しなかったという態度は、この国のメディアの、一部で認められる「頽廃」と「無思慮」の「右代表」という点では、痛憤の極みですね。「『米国から石油を購入してほしい』という海外に向けた一節にも笑った。安価で良質なら、日本も買えばいいのでは」という、このタガが外れた時代感覚、人命を蹂躙する行為に対して、いささかの怒りも糾弾もない。この空恐ろしい姿勢は、大なり小なり新聞全体の、現下の傾向なのかもしれませんが、ここまで堕ちてもなお「新聞記者」であるという、この虚妄さが、房総半島の一老人を激しく苦しめる。

 一国文明を「跡形もなく滅ぼす、一夜にして」という、そのどこがおもしろいのか、抱腹絶倒すべきはコラム氏の「底抜けの無知(無恥)」の方でしょう。歴史から学ばないと、手に負えない愚かさに襲われる一例証でしょうか。奈良の女性首相は訪米中、前アメリカ大統領の肖像の代わりに掲げられていた「自動署名機」(現大統領の、心ない仕打ち、児戯以下の悪意よる)の前で、嘲(あざけ)りの笑いを隠さなかった。それの映像を「ホワイトハウス」側は公式の記録として世界に発信していた、その狙いは何だったか。あるいは「朝貢外交使節」の、たとえようもない愚かさ、滑稽さを嘲笑したかったのだ。この、両国の政治家たちの「政治感覚」のなさ(nonsense)に、ぼくは卒倒します。

 日本の首相はこれほどに「デリカシーのない人間」と、世界に向かって吹聴したのであり、日本を今なお強烈に蔑視する態度が透けて見えていた。なさけないことに、多くの日本のメディアは「侮辱されたという感覚」がなかったと見えて、いまもなお、「日米同盟体制」と、びっくりするような「夢想」を隠さない。まさしく白昼の「夢見」心地にあるのです。その「愚かしさ」は奈良新聞のコラム氏の「知能水準」と寸分も変わらない。再び三たび、この国は米国の踏み台にされ、足蹴にされるのを好き好んで求めているように、ぼくには見える。今でも「ノーベル平和賞」に、狂人大統領を推薦する気でいるんでしょうね、この首相は。そして、きっと「自衛隊をホルムズ海峡に派遣」するとぼくは思っています。理由は、すでに大統領に「約束した」のだから。これを日本では「密約(Secret Agreement)」といい、米国では「公約(public commitment)」という。(「日米首脳」の退任は近いとぼくは直感していますし、期待もしている。世界のため、日本のためになりませんから、一日も早い辞職(解任)を念じている)

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「考える」とは「疑う」「迷う」こと

【国原譜】高校の入学式に向かう親子連れの姿に出会うと、その晴れ晴れとした顔にこちらまで元気をもらい、「さあやるぞぅ」という気分になる。▼街中には、そうした新入学の生徒ばかりではなく、一目で新入社員と分かる若者たちもいて、全体が華やいでいる。希望に満ちたその姿は誰もが経験してきたはずだ。▼現実の社会は思い通りにいかないし、厳しいものであることをいずれ経験する。毎日のように報じられる高齢者をだます詐欺事件や、身近な殺人事件がある。▼世界に目を転じれば、大国による戦争状態が続いている。これでは若者たちに、未来を語り夢を持てとは言えない。便利さをもたらす科学技術の進歩もそうだ。▼デジタル教科書のことが論議されているが、本を読むということと、文字を見る行為が同じではない。「考える葦(あし)」という言葉を思い出したい。▼か弱い葦のような人間だが、思考する力を持つことで宇宙より偉大な存在である、というフランスの哲学者パスカルの名言を、今こそ蘇(よみがえ)らせたい。希望は若者たちに最も似合う言葉だ。(治)(奈良新聞・2026/04/10)

 このコラムに刺激されたわけでもありませんが、自分の高校入学式の一場面を思い出しました。学校の入学式の一部始終は全く覚えていません。どこかで折に触れて書いていますけれど、ぼくは「式」というものは実に苦手で、そのせいか、入学式や卒業式の景色(場面)の記憶は全くないのです。高校の入学式当日(たぶん昭和35年4月)、朝の小一時間ほどの風景は鮮明に覚えている。自宅から学校まで、自転車で10分か15分ほどだったと思う。どうしてだったか、ぼくが頼んだわけではないと思うが、おふくろが入学式にいっしょに行くといって、二人で自転車を漕いで登校したのだけは鮮明に覚えています。黒いコートだったか、式服だったかを着て、自転車に乗っている姿が実にさわやかな印象を与えていたと思う。当時おふくろは何歳だったろうか。四十歳を出たころだったと思う。家から学校までの十分ほどの自転車走行、それだけが今もなお、ぼくの目に焼き付いている。そんなことは一度限りだったでしょう。(昨日、この駄文は書きかけていたものです、悪しからず)

 両親は学校のこと・成績のことには一切口出しをしませんでした。第一、高校に行けなどさえ言わなかった。立派な教育方針があったからというより、むしろ関心などなかったのかもしれません。それはぼくには最高の「家庭教育」だったと思う。学校は好きではなかったし、成績なんかどうでもいいと思っていたものでした。もちろん「その気になれば」という気位(きぐらい)のようなものはあったと思う。「自分の品位を誇り、それを保とうとする心の持ち方」(デジタル大辞泉)と「気位」は解説されていますから、果たして十五歳のぼくに、そんなたいそうな自己認識があったとは思われませんから、要するに「勉強は好きではない」という「なまけの哲学・習慣」があったのだと思う。それがぼくの「気位(エゴ)」だったか。それから三年、落ちこぼれもせず、落第もしないで、なんとなく高校を卒業し、その勢いでぼくは東京に出ることにした。もちろんぼくの独断だったと思うが、親は何も言わなかったどころか、母は出発の夜、京都駅まで見送りに来てくれた。そこには同級生のN君もいた。なぜ上京することになったのか、詳しい事情は忘れたが、東京の学校に入るつもりだったと思う。それが昭和38年3月のある夜のことでした。以来、60数年、ぼくは東京と千葉でその日暮らしを続けてきたことになります。

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 つまらないことを書き連ねていますが、新入学などの晴れがましい季節になると、ぼくは世間の気分に背中を向けたくなるのです。「高校の入学式に向かう親子連れの姿に出会うと、その晴れ晴れとした顔にこちらまで元気をもらい、『さあやるぞぅ』という気分になる」というコラム氏の筆致に唆(そそのか)された次第です。ぼくは、残念ながら、そんな気には一切なれませんでした。近年では、入学式ばかりか、入社式まで「保護者(親など)同伴」という。世も末とは言うまい。学校の教師紛(まが)い時代に嫌というほど経験したことでした、それこそ、入学式や卒業式に参加される保護者(親たち)の数は大変なもので、会場に入りきれないで(今はどうか知りませんが)、学校全体で同じ「式」を三回か四回に分けてやっていたほど。それを横から見ていて、この国の人たちは「式」がよほど好きなんだと思うようになりました。入学式、卒業式、入社式、結婚式、お葬式等々、どれもこれもぼくの嫌いなものばかりで社会の節目は塞(ふさ)がれているのですね。(右はパスカルの「パンセ」原著)

 そして、たとえば大学在学は四年間が相場。内容は問わず、入学と卒業の二つの儀式が大事にされるという、そんな空虚な就学時間を何とか過ごせれば「大学卒」という証明がなされる、この社会、国は、今あるような軽薄かつ付和雷同型の人々で満たされるようになったのも「宜(むべ・うべ)なるかな」と、胸に手を置いてみるのです。「もっともであるなあ」「その通りであるなあ」と深く首肯(しゅこう)する。ある人は「卒業(証書)偽造」をしながら「市長」にまで上りつめる(選挙で選んでしまう)、どういうことでしょうか。これもまた、「学歴(空虚)社会」の一面なんですか。(本日はここまでで終わり。以下はおまけみたいなもの)

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 奈良新聞のコラム氏は、新入生や新入社員たちの姿を見て、自分までもが気分が新たになると書きつつ、国の内外には、いいこともあれば、腰を抜かし、目が飛び出るような凶事も起こっていると書く。そして、どういう流れからか、「デジタル教科書」の話題に触れつつ、コラム氏は「本を読むこと」に関して、それは「字を見ること」と同じではないといわれる。本当はこのことが書きたかったことがわかります。ならば、「見ると読む」では大違いとか、「百聞は一見に如かず」といっておけばよかったのに、いきなり「『考える葦(あし)』という言葉を思い出したい」とあります。もっと書きたかったのは、この「考える葦」だったことがわかります。ぼくの駄文と同じとは言うまい、草稿(ドラフト)がおざなりだなあと思われますが。 

 「パンセ(Pensées)」の言葉が出ていたので、書く予定のなかった駄文を、追加で書くことにします。「か弱い葦のような人間だが、思考する力を持つことで宇宙より偉大な存在である」とパスカルは言ったのだと、コラム氏も解説されます。このさわりの部分、ぼくには実に懐かしい。学生時代、フランス語を齧っていて、もちろん「パンセ」も読み、この部分にも赤線を引いた覚えがあります。

 <L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature, mais c’est un roseau pensant.>

 「人間は一本の葦にすぎない。自然界における最も弱い葦でしかない、しかしそれは考える葦である」「人間を滅ぼすのに、宇宙は全身で武装する必要はない。人間を潰すのに一滴の水があれば足りる。でも人間は、自分を滅ぼすものよりも高貴な存在である。なぜなら、人間は自分が死ぬことを知っているからだ。宇宙はそうではない」とパスカルは続ける。彼は「意識」の有無を語ります、それは人間の「思考力」の別名でもあります。「壊れかかっている小屋は悲惨ではない。なぜなら、自分が壊れるということを知らないから」ともパスカルは書く。わかったような、わからないような論理ですがね。

 コラム氏が「宇宙と人間を比較する」のもぼくにはよくわからないが、「偉大と卑小」ということを指摘したかったのでしょうか。その砂粒のような人間の方が宇宙よりも貴重(尊いもの)だというのは、人間には「考える働き」があるからだというのです。人間である根拠(条件)は、どこにあるか。「我々の尊厳のすべては『考えること』にあるのだ<Toute notre dignité consiste donc en la pensée.>」。「われ思う、故にわれあり(Cogito, ergo sum)」とデカルトに倣ってパスカルは言う。「だから、精一杯、考えるようにしようではないか。そこにこそ道徳(人間性の原理)があるのだから」と結びます。

 L'homme n'est qu'un roseau, le plus faible de la nature, mais c'est un roseau pensant. Il ne faut pas que l'univers entier s'arme pour l'écraser ; une vapeur, une goutte d'eau suffit pour le tuer. Mais quand l'univers l'écraserait, l'homme serait encore plus noble que ce qui le tue puisqu'il sait qu'il meurt et l'avantage que l'univers a sur lui, l'univers n'en sait rien.
 Toute notre dignité consiste donc en la pensée. C'est de là qu'il faut nous relever et non de l'espace et de la durée, que nous ne saurions remplir.
  Travaillons donc à bien penser ; voilà le principe de la morale.(’Pensées’

 最初の部分では「人間は弱い」「(水辺に生えている)葦のように弱い」「けれども、考える力を持っている」、だから「人間は考える葦なのだ」という、ここがこの部分の要石(keystone)ですね。「考える葦」というのは、どこまで行っても弱い葦、その葦のように考えるということです。「か弱い葦のような人間だが、思考する力を持つことで宇宙より偉大な存在である」とコラム氏は書かれている。「吸いう風に理解するのは間違いだ」とパスカルは断言しています。あるいは、それは間違った理解であるとも。「考えていくうちに、人間は人間を超えることにある」とコラム氏は言っているようですけれど、それはどういうことですかと、ぼくは尋ねたいですな。「宇宙より偉大な存在」というのはどういう意味ですか、と尋ねたい。ぼくにはこれがわからない。考えは立派だけれど、とんでもない悪事を働く、そんな人間はごまんといるのはなぜですかと、逆に質問したくなります。考える働きがあるから、徐々に人間は優れた存在になるかもしれませんが、その同じ人間が他者を傷つけるのはどうしてでしょう。詰まりは「人間の弱さ」、「情念の強さ」に、ぼくたちは足元を掬(すく)われるというのではないですか。

 2に2を足せば4になると理解するのは、「考える」働きのおかげかもしれないが、「人生の価値は何だろう」という難問を前にして思い悩むのとはいささか異なる思考法でしょう。だから、考えるというのは「二通りある」と捉えたらどうでしょう。2+2=4というのは誰もが考えるように考える、一つの思考方法です。これを科学的思考といっても構わない。しかし、そればかりが「考える」という働きではなく、自他にとって同じ問題を自分流に、あるいは他人とは別角度から考えるという方法もあるでしょう。それを、仮に哲学的思考方法と言ったらどうか。「ものを考える」とは、要するに「疑う」ということです。「疑問を抱く」ということ。「おかしいなあ」と首をかしげるとき、問題は自分の中に入ってくるでしょう。パスカルはこのことを言おうとしたのではなかったか。

 そして大事なのは次のことです。パスカルの考えた通りかどうか、ぼくには断言はできませんが、不完全な(弱い)人間である自分が、自分流に考え(る働き)を深めれば、人間(自分)は強くなれると、パスカルは言ったとは思われないんですね。どこまで行っても「弱い存在の葦のように、人間は考える働きがあっても弱い存在であることを超えられない」といいたかったのではないですか。欠点だらけの弱い存在が、どれだけ深く考えたところで「宇宙以上になる」ことはあり得ない。弱い葦が考えても、葦でなく、樫(かし)になることはあり得ない、それと同じように、弱い人間はどこまで行っても弱いままだと。

 だったら、考えても意味がないではないかといいたくなるほど、人間は弱いんですね。つまり「人間の弱さは完全である(La faiblesse humaine est parfaite.)」と、デカルトもパスカルも言っているでしょう。神や仏のようになれない、というのは人間の弱さですが、それこそが人間の証明なんですね。少しでも、自分の弱さを克服するところに、人間の道徳性の価値が存在します。どこまで行っても、人間は間違える、でもそれを少しでも少なくすることは可能です。(考える働きの意味はここにあると思う。(時に、人間の限界を超える「人」が出るという、それが「超越者」、つまりは宗教の領域に入ります、信仰の問題ですね)

 「希望は若者たちに最も似合う言葉だ」とコラム氏はいう。でも「希望と絶望」は紙一重であるとぼくは思っている。微(かす)かな望みと望みが絶えるのとは同じではないけれど、ぼくにはほとんど同じで、それ(対象)をどう見るかという、見方(考え方)の差だといいたいのです。 <hope><wish>と<despair><hopelessness> それを同じようなものと、君は言うのかと叱られそうですが、同じ事態に対して「悲観(pessimism)」に襲われるか、「楽観(optimism)」を維持できるかの違いだといいたいんですよ。一人の哲学者・モラリストに倣って、ぼくは「雨の日には笑え(嫌な天気にはいい顔を)」と、自他に向かって語ってきました。雨は誰に対しても同じように降る。ある人は「いやな雨だ、憂鬱になってしまう」というかもしれないし、別の人は「久しぶりにいい雨だ。山の木々も喜んでいるだろう」といってみて、憂鬱の虫を退治する。

 ぼくたちの経験する「不幸(嫌な感情に支配される)」の99%は「悲観」という情念に襲われるからではないでしょうか。それを、ぼくはあえて「不注意の仕業」と言い換えてみたい。雨の日は憂鬱で、好天には気分爽(さわ)やか、この違いが同じ人間の体内を通って意識のレベルで起こる理由は何でしょう。外部の刺激に身体が反応し、そして生まれる感情(情念)に動かされるということでしょう。二日前に「コップ半分の水」について駄弁りました。入っている分量は同じでも、それを「まだ~ある」と見るか、「もう~ない」と見るか。少し冷静になれば、誰だってわかることですが、ぼくたちの最強の敵は「不注意」という「情念」です。先ごろ、新名神高速道で重大な自動車事故が発生し、一家5人を含む6人が死亡したという報道がありました。

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 「新名神6人死亡事故で運転手を起訴 スマホ画面に脇見、急制動も追突 今年3月、三重県亀山市の新名神高速道路で6人が死亡した多重事故で、津地検は9日、トラック運転手の水谷水都代容疑者(54)=広島県安芸高田市=を自動車運転死傷処罰法違反(過失運転致死)の罪で起訴し、発表した。地検は認否を明らかにしていない。/起訴状などによると、大型トラックを運転していた水谷容疑者は3月20日午前2時20分ごろ、新名神高速下り線のトンネル出口付近を、スマートフォンの画面に脇見をして時速約82キロで走行。渋滞のため停車していたミニバンに約9・4メートル手前で気づいて急ブレーキを踏んだが間に合わずに追突。ミニバンの前にいたSUVは玉突きで別の大型トレーラーにぶつかった。/この事故で、ミニバンに乗っていた静岡県袋井市の会社員男性(45)の一家5人と、SUVを運転していた埼玉県草加市の団体職員男性(56)の計6人を頭部の骨折や外傷性ショックなどで死亡させたとされる。(以下略)(朝日新聞・2026/04/09)

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 ぼくたちの経験する不幸のほとんどは「不注意」から生じるということ、それをこそ肝に銘じて(I will keep that in mind.)ほしいですね。学校の「勉強」も「注意深い人間」になるための訓練であって、級友と点数を競うなどという軽薄・軽率な作業(課題)ではないのです。「人間の尊厳は考える働きにある(による)」とする、パスカルの箴言の値打ちはここにあります。さらに述べるなら、考えるというのは「疑う」「迷う」「不安である」「悩む」などという、人間の寄る辺なきありかた(弱さ)に根差しています。犬や猫たちは、多分、人間のように考え・悩まないでしょう。それだけ彼ら彼女らの内部の「本能」が強いからです。神や仏も(ある・いるとして)、まず考えない、完全ですから。人間は本能を剥き出して生きていけないと思っているでしょうから、その野生・野蛮を矯(た)める、その暴力性を修正するために、疑う・悩む・考える働きが備えられているのでしょう。

 ある種の余計なものとして、です。パスカルは同じ「パンセ」の中で書き残している「私は腕を持たない人間は想像できるが、頭を持たない(思考しない)人間は想像できない」と。「人間は弱い」から、ぼくたちは苦しみ悩むのです。その弱さ(faiblesse)を、一時的にであれ、薄め弱めてくれるのも、人間を過ちから救ってくれるのも、それが同じ人間に備わる「考える」という働きです。算数の計算(勉強)は注意深い人間になるための練習です(Studying arithmetic is practice for becoming a careful person.)。ぼくには、まだまだ算数の計算問題を解く作業が足りていませんでしたね。

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「子どもを育てる」とは?(胸に手を)

【卓上四季】ピカピカの夢 とことこ、ぴかぴか、きょろきょろ、わくわく。どれもがぴったりの感じだった。朝のまちかどで見かけた小学1年生たち。ランドセルが歩いているみたいな様子がほほえましい▼<あっ!/てをはなした/スキップしてる/いしっころと くつ/ひかってる//あっ!/はしった/ランドセル かたかた/えんぴつと けしごむ/さわいでる>▼紋別生まれの詩人、大久保テイ子さんの「いちねんせい」の一節だ。やさしくそよぐ春風とともに子どもたちが学校へ向かう。弾むこころも伝わってくる▼ちいさな胸はいろんな思いでいっぱいだろう。勉強は難しそうだな。友だちはできるかな。ちょっぴりお兄さん、お姉さんになったという誇らしさもあるだろうか▼大人になったらなりたいものは? 化学メーカーのクラレが毎年まとめているアンケート。今春の新1年生の人気上位はケーキ屋・パン屋、警察官、スポーツ選手…と定番が並ぶ。芸能人やアニメキャラクターというのもある。時代の変化を映しつつ、幼いあこがれはそう大きく変わらないものという印象を受けた▼どの子も夢を大切にしながらすこやかに育ち、ゆっくりでいいから未来へ歩んでほしい。はるか昔に子どもだった大人のひとりとして強く思う。いまの子どもたちが夢をかなえられる世の中をつくる責任がある、と。(北海道新聞・2026/04/10)
【夕歩道】真新しいランドセルの小学生を見ると、「ピッカピカの~一年生♪」と歌いたくなる。昭和の方ならおなじみの学習雑誌「小学一年生」CM曲。1978(昭和53)年から十数年間、放送された。
 東京の地下鉄神保町駅は今年2月まで1年間、電車の到着時にこのメロディーを流した。同誌が昨年で100周年だったことにちなんだ。創刊の25年(大正14年)の雑誌名は「セウガク一年生」。
 戦前は片仮名を先に習った。平仮名、漢字、ローマ字…。これからたくさんの字に出会う1年生。焦らずいきましょう。作家C・W・ニコルさんは10歳まで本が読めず、名前も書けなかったのだ。(中日新聞・2026/04/09)
【あぶくま抄】ぼくの好きな先生 その美術教師は職員室を嫌い、いつも一人、部屋にこもっていた。たばこを吸いながら。忌野清志郎さんが率いたRCサクセションの「ぼくの好きな先生」だ。東京都多摩地区で教べんを執った実在の人物という▼作品が世に出たのは54年前。思い起こしてみれば、昭和の学校には個性的な先生がたくさんいた。時代はおおらかで、地域と一体だった。夜の会合の帰り、生徒宅で保護者と杯を傾ける。そんな場面もあったと記憶している。背広を脱いだ担任の意外な「顔」を知る、楽しい機会でもあった▼聖職を志し、せっかく選考試験を突破したのに教壇を離れる若者が後を絶たない。家庭からのさまざまな求めに、息がつけなくなるのだとか。県教委は控えてほしい振る舞いをまとめ、ポスターを作った。大声や暴言、時間外・長時間の相談など、4項目を挙げている。心の負担を軽くし、教え子と向き合う時間を増やすのが狙いだ▼先の美術教師は「引きこもり」と、周りから白い目で見られていたかもしれない。それでも、学校が好きになれなかった未来のロックスターに、安らぎの時間を与えてくれた。優しく見守って。あなたの愛し子が「好きな先生」を。(福島民報・2026/04/08)

 四月、新年度と新学期が同時に出発・進行しました。当然のことです、各紙が交々に「新一年生」への温かい心遣いを示している。同時に、もう一つの「新一年生」に対しては、華やかな「祝意」がないのはなぜなのか、ぼくは奇異に感じるのです。そう、「新米教師」、教師一年生です。ある地方自治体では採用された教員採用試験合格者の6割が辞退したというニュースがありました(同県では前年度は7割の辞退者がでた)。本物の「ピカピカの一年生」はまだ右も左もわからず、新しいランドセルを背中に乗せられて、何かいいことがありそうな、そんな希望(夢見心地)で、勇躍して(あるいは恐る恐るの子もいたでしょう)学校に足を踏み入れたことでしょう。でも、いくらもしないうちに、そこはとんでもない「素晴らしい」、いや「二度と通いたくない」ところだったと知ることになるかもわからない、「お化け屋敷」に変わるかも。

 本日は「新一年生」談義というか、「学校、どんなとこ」という話になりますか。陳腐な取り合わせですけれど、三日続きの「教育・学校リレーコラム」と芸のない仕儀に。実は「あぶくま抄」については、一昨日、少し駄文を書いてみたのですが、中途で止めてしまいました。理由は単純、「まだこんなことで悩んでいるんですか?」という疑問が湧いてきたからでした。所謂「モンスターペアレント(通称「モンペ」)」問題は、かなり前に一世を風靡(こんなところで使ってはいけないか)したもので、近年騒がなくなったと思っていたら、何のことはない、学校の陳腐な日常風景に、ピタリと収まってしまったからでした。つまりは学校の一部になっていたというわけ。

 「聖職を志し、せっかく選考試験を突破したのに教壇を離れる若者が後を絶たない。家庭からのさまざまな求めに、息がつけなくなるのだとか。県教委は控えてほしい振る舞いをまとめ、ポスターを作った。大声や暴言、時間外・長時間の相談など、4項目を挙げている。心の負担を軽くし、教え子と向き合う時間を増やすのが狙いだ」(「あぶくま抄」)(ええっ、教師は「聖職」なんですか?)

 ことは福島県だけの問題ではないところに、学校の絶望的状況が見て取れます。「合格しても、教師にはならない」若者が高知県では6割に上った。こんな事態はあちこちで起こっているのです。どうしてか、当人にも分からないのかもしれません。「肝試しで受けただけ」だったのかも。受かったけれど、教師にはならない、それほど忌避されている仕事が「教職」だというのですから、危機をはるかに超えていますね。にもかかわらず、「交通信号は守りましょう」というような、驚くほど呑気で無神経な対応しか、関係筋はしていないように、ぼくには見える。教師たちは子どもに対して「正義を曲げないで、堂々というべきことはいいなさい」と言っているんじゃないですか。乱暴な子には厳しく対応するのではないのでしょうか。人を見て対応が異なるというのは、どうしてですか?

 なにが悲しくて、学校現場は理不尽な親たちに、率直にものが言えないのでしょうか。直言は無理、だから、ポスターで用が足りる(誤魔化せる)と考えたのでしょうか。左上のポスターは長野県教委作成のものですが、各地似たり寄ったりで、要は「できれば、教師をいじめないでください、お願いします」というのでしょう。それを一枚のポスターで柔らかく表現するという姑息な手段で逃げているところ、教育委員会は無用な組織(盲腸だって、何かの役には立っている)になり成り下がっています。教員たちに対しては強く出るのに、親たちには腰が引けている、そんな教育員会の卑屈な態度が、実は方々に蔓延しているんでしょうね。「なに、モンスターが現れたと。拙者に任せなさい」と買って出る『正義漢』が、教育界のどこにもいないんですかね。なんなんですか、これって。(右は福島県教委作成のもの)

 「教職員に対する対する”行き過ぎた行為”はご遠慮ください」「教職員とのより良い関係づくりにご配慮ください」と、ひたすらお願い、まさに「平身低頭」、「腫れ物に触る」という卑屈さです。「いいなり(subservience)」ですね。「もし、行き過ぎた行為があれば、断じて認めない、許さないから、そのつもりで喋って下さい」とか、「見逃せないほどの行き過ぎた言動と判断すれば、直ちに110番します」とか言えないのか。やっていることに疚しさがなければ、もっと堂々としていればいいのに、そうではないということをみずから証明しているのでしょうか。その昔、教職に就いた卒業生に「もし学校でいじめられたら、ぼくに連絡してほしい」「ぼくが出ていきますから」とあらかじめ言っておいたものでした。「ぼくが行くと、少し面倒なことになるかもしれないが」と念押しした記憶があります。ほとんど声はかからなかったが(自分で始末をつけたんですな)。いったい、学校はどこを見て「教育」をしようとしているんですか。

 忌野清志郎さんの「ぼくの好きな先生」、曲自体はどうというものではない、と思います。たしかに、それぞれの子どもにとって、「好きな先生」「嫌いな先生」がいたはずです。謳われたのは半世紀も前のことになりますが、どんな学校にも「半端な先生」「型破りな教師」はいたもの。子どもたちは、そんな「先生らしくない先生」に会いたがっているのかもしれません。親と仲良くなりすぎて、変なことになる教師もいました。子どもと密接な関係を結ぶ不良教師、昔もいたし、もちろん今だっている。長い間学校という温室(greenhouse)で育てられた苗が、場所が変わるとはいえ(移植されるとはいえ)、学校という新たな「温室」に入るだけのことなら、いつまでたっても「未熟」「世間知らず」の人間のままで教師稼業についているということになりかねません。本当はここが教育委員会の「出番」なんだが、こちらはとんと役に立たないのですから、さてどうします。くだらない研修で教師を苦しめないでほしいね。(⁂ Boku No Sukina Sensei:https://www.youtube.com/watch?v=pdMxECE-OpU&list=RDpdMxECE-OpU&start_radio=1

 昨日付の「夕歩道」、語(騙)るに足りず、です。「問うに落ちず語るに落ちる」といいたいところ、そこまでのことでもない。「ピカピカの一年生」はいい、どうして「作家C・W・ニコルさんは10歳まで本が読めず、名前も書けなかったのだ」となるんですか。言いたいことはわかりそうですけれど、それがどうしたという話。つまらないばかりです。字など書けなくても生きていけます。必要があれば書けるようになる。それだけの事柄ではないでしょうか。

 「はるか昔に子どもだった大人のひとりとして強く思う。いまの子どもたちが夢をかなえられる世の中をつくる責任がある、と」そう書かれているコラム氏の「心情」は尊重されるべきだし、そういう社会をつくるための仕事をしたいと願われているのは好感が持てます。でも、と一言したいですね、新聞が果たすべき仕事が果たされているのですか、と。率直に言うなら、ぼくのような無力な無所属人間から見れば、時代は著しく「通俗の極み」に向かっており、「おかしいことが見過ごされ」るばかりの状況が続いています。「自己主張の権化」のようなわがまま親たちに対して背中を向ける、腰が引ける、膝を屈する学校・教師・教委。やりたい放題の金権政治に、まったく無力なメディア、中にはそんな政治のちょうちん持ちをしているのまである。こんな状況が続けば続くほど、いたるところで「人倫」「道徳」の綻(ほころ)びは目も当てられなくなるのは必須です。その場しのぎの「付け焼刃」や、ことなかれ主義の「弥縫策」が、問題をより悪化させることは誰も、新聞記者も、学校教師も知っているんですよ。

 「はるか昔に子どもだった大人のひとりとして強く思う。いまの子どもたちが夢をかなえられる世の中をつくる責任がある、と」(「卓上四季」)、それはそのとおりです。けれどその前に、この「昔に子どもだった大人のひとり」と簡単に「大人と子ども」を区別しています、それが問題でしょ、「あなたの中に子どもがいる」のではないんですか。だから、大切なのは「自分の中にも子どもの部分がある」ということを忘れないことです。「裸の王様」を指摘・糾弾した「子ども心」とは、つまりは「正直」「率直」という感情(それを「正義感」といってもいい)です。その感情に無頓着であっては困るし、眠っているなら、その感情をいつだって覚醒させておくのが、とても大事じゃないですか。多くのの場合、都合のいい健忘症を称して「大人になる」というのです。そんな大人にはなりたくないと、ぼくは言い続けてきました。「おかしいことはおかしい」「まちがいはまちい」と、誰に向かっても直言できる、誰彼にもある「自分の中の子ども」を眠らせてはいけない。

 子どもを育てるは、そういうことでしょう。

参考資料 《高知県教育委員会が今年実施した2026年度の小学校教員の採用試験で、合格を通知した260人のうち約6割が辞退した。採用は130人程度を予定しており、不足分を補うため、今月14日に追加で選考を行う。/県教委によると、1次試験は5月末に高知市と大阪府の会場で実施し、計468人が受験した。辞退者らを見込んで採用予定の2倍の260人を合格とし、9月に通知したが、12月3日までに61.5%にあたる160人が辞退したという。(中略)/ 県では昨年、25年度採用の合格者の約7割が辞退、12月の追加選考などを経て春採用の129人を確保した。24年度採用分でも約7割が辞退していた。/今城教育長は「教員サポートの取り組みや高知県で教職に就く魅力をしっかり発信することが辞退者を減らす有効な対策だと考えている」と述べ、採用候補者同士の交流会なども開く予定だとした。(高知新聞・2025/12/04)

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「蛞蝓にも角」「匹夫も志を奪うべからず」

【日報抄】出勤の途中、真新しいスーツの若者を見かけると、気になり目で追う。わが子と同世代だからだろうか。新社会人になった若者にあれこれ思ってしまう▼早く仕事を覚えて上司や先輩とうまくやれよ。言われたことをしっかりやらないとアウトだぞ。その一方、張り切り過ぎず一つ一つ覚えればいいからね。背伸びをして無理し過ぎないように、などと心の中でつぶやいていると…▼新潟日報デジタルで興味深いニュースを見つけた。「静かな退職」という働き方が注目されているという。仕事にやりがいを求めず、心は退職したように淡々とこなす働き方だ。就職情報のマイナビが2024年に全国3千人に行った調査では、44・5%が「静かな退職をしている」というから驚く▼記事に出てくる20代と30代の若者は、必死に働いた過程を経て「静かな退職」にたどりついた。理由は出世するタイプではないという見極めだったり、心身の不調だったり。給料は減っても、プライベートを重視した人生を送っている▼「最近の若者は…」と思いがちだが、よく考えると気付くことがある。そんな働き方の人は昔からいたよね、と。マイナビの調査では40~50代も4割以上が静かな退職中と答えた▼多様性を認める時代だが、静かな退職者が増えた会社の未来は不安になる。とはいえ出世の階段を駆け上る「課長島耕作」より、趣味が第一の平社員「釣りバカ日誌」のハマちゃんに憧れる。趣味が仕事に役立った! そんなドラマは望みすぎか。(新潟日報・2026/04/08)

【北斗星】仕事よりも、プライベートを大事にして生活を楽しむ。その傾向が若者の間で強まっているといわれてから久しい▼それでも毎日の生活に占める仕事の時間の割合は高い。何事も淡々と、というわけにはいかないだろう。日々成果が求められるから、重圧もそれなりにかかる。上昇志向や承認欲求もゼロではないはず。上司や部下との人間関係がうまくいくとの保証もない▼そんな職場という世界で周囲に流されずマイペースを貫く男性を主人公にした人気の漫画がある。週刊漫画誌に連載中の「路傍のフジイ」(鍋倉夫・作)。表情を変えず目の前の仕事に黙々と取り組む。職場を離れれば、絵画や陶芸などさまざまなことに挑戦して趣味の世界を広げる▼仕事に対して淡泊な人かと思いきや、そういうこともない。同僚が困っていれば率先して手助けするなど徐々に頼られ、慕われる存在になっていく。独身で40代ぐらいとの設定。慕われるのは、相手が誰であっても人格や個性を否定することがないから。読み進めるうち、主人公のそんな姿勢も見えてくる▼県内でこの春、多くの新入社員がスタートを切った。早く仕事を覚えようと躍起になる人がいる一方、プライベートを重視している人もいるだろう。バランスの取り方は人それぞれだ▼近年、社会で重視されていることの一つに多様性がある。一人一人の考え方、生き方を尊重することなくして、個性豊かな人材は育っていかない。漫画に教わることは多い。(秋田魁新報・2026/04/08)

(* ビッコミ「路傍のフジイ〜 偉大なる凡人からの便り〜」)(https://bigcomics.jp/series/01f466438167d

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 二つのコラムが、奇しくも同じような雰囲気の記事を書いていました。いずれも昨日付の【日報抄】と【北斗星】の2題です。書かれていることがまったく同じというわけではありません。そこには微妙なちがいがあって、それはまた、生き方の流儀としては極めて大切な「違い」でもあると思う。片や「もっといい生き方を求めて」という気もする人たち、此方(こなた)は「能ある鷹は爪を隠す」タイプではないかと、なんとなく思う。そして、どちらも、集団の中で自分を売り込むような「軽薄さ」「功名心」は持っていないように見えます。これを思うに、生きるというのは人それぞれであって、一筋縄(単一の価値観)ではいかないということを教えられます。

 「日報抄」は「静かな退職」という表現を用いて、従来の「働き方」とは異なる、組織化における働き方の、別の一面を展望されていた。「『静かな退職』という働き方が注目されているという。仕事にやりがいを求めず、心は退職したように淡々とこなす働き方だ。就職情報のマイナビが2024年に全国3千人に行った調査では、44・5%が『静かな退職をしている』というから驚く」とあります。静かな退職というのは、「私は明日会社を辞めます」と、自他に宣言するような「騒々しい退職」ではなく、いささかも「社畜(corporate slave)」になろうとする気もなく、かといって投げやりに仕事をこなす風でもなく、いろいろな寸法(距離)を測りながら「会社との付き合い方」、あるいは「会社員の流儀」というべき姿勢を崩さないのです。従来見られるような「会社のために」「会社第一」という「悲壮」「皮相」なものなどはなく、穏やかというか、まず無理をしないのだなあと、同僚たちにも映る、そんな会社への帰属・所属の仕方です。

 もちろん、この流儀は今どきのものではなく「マイナビの調査では40~50代も4割以上が静かな退職中と答えた」と出ていますから、いつの時代でも働き方の形として存在していたのです。「私は定年(停年)までこの会社を辞めない」と、初心を貫き通す人は存外少ないのではないですか。つまらぬ逸話ですが、ぼくがある学校に就職したとき、線お会い教員が「どうかよろしく、停年までのお付き合いですから」と挨拶されたのには驚きました。ぼくはいつだって止める・辞める・病めるという気持ちが強くありましたから。そんな偉そうな気分でしたが、相当に長く勤務することになってしまいましたね。

 この「静かな退職」的勤務態度は、ことに「失われた何十年」といわれ出した時期と同時に、それとして無視できない存在になったのだと思う。「会社の都合で、人生を左右されたくない」と考えるのは誰だって同じでしょう。ぼく自身にも、身に覚えがある。組織の上層に上り詰め(たが)る人はたくさんいるが、ぼくはそんなとき、余計なことだが、該当者が親しい友人だったなら「組織のために『自分』を殺すのは馬鹿らしい。こんな職場、身体を賭けるほどの組織かよ」と、乱暴な口をきいては顰蹙を買っていました。もちろん、敵もさるもので、組織をよくしようという気分は若干でもあったでしょうけれど、結局は地位や名誉のほうがはるかに大きな要素だったことが、誰にだって、本人さえすぐにわかります。組織がおyくなることはまず至難のことですから。ぼくには、こんな生き方は滅相もないというばかり。どうしても「頼む」という場合に、「火中の栗を拾わされる」ことは何度かあったが。

 会社員はこうあるべき、そんな堅苦しい生き方ではなく、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」という極端にチャラいのでもなく、要は、自らの「プライバシー(私の時間)」を簡単に会社に売り渡さない、一面では自分本位の生活スタイルだとも言えます。これを「静かな退職」というなら、ぼく自身は早い段階から思い当っていましたね。小・中・高・大という長い就学期間のかなりの部分を「静かな退学(quiet withdrawal)」者として、学校や教師、友人たちと付き合ってきた、付き合ってこなかったと思う。いつも「学校に近づきすぎるな」「教師に不信の念を持て」と、自他に対して語り続けてきた。どんな時だって、「学校はぼくの全部ではない」「ぼくの生活の一部ですらない」、そんな付き合い方だったと思う。(右図は「ツギノジダイ」より)

 一方「北斗星」では「周囲に流されずマイペースを貫く男性を主人公にした人気の漫画がある」と「路傍のフジイ」(鍋倉夫作)が紹介されていました。もちろん、ぼくは未読。(ネット上で「無料で読める」サービスがあり、それを利用している)「仕事に対して淡泊な人かと思いきや、そういうこともない。同僚が困っていれば率先して手助けするなど徐々に頼られ、慕われる存在になっていく」という筋書きで、決して派手でもなければ我を通す人でもなく、しかし、ある人にはとても気になる存在として描かれている。そんな人物に、ぼくはある種の「憧れ」を抱いていました。見方を変えれば「自立した人」、「群れない方」あるいは「プライバシーを粗末に扱わない生き方」を選ぶ人といえばいいでしょうか。(* https://bigcomics.jp/series/01f466438167d

◎「路傍のフジイ」藤井 守(ふじい まもる)40代独身で非正規雇用の男性社員。無表情で存在感が薄く、同僚からはつまらない人間だと思われている。様々な趣味をもち、世間の価値観に囚われずマイペースに暮らしている。幼少期から誰に対しても敬語で接している。田中(たなか)藤井と同僚の若手男性社員。独身であり、将来に漠然とした不安を感じている。藤井のような人間にはなりたくないと思っていたが、藤井の内面を知ってからは藤井と友人になる。石川 綾(いしかわ あや)藤井と同僚の若手女性社員。美人だが、アニメが好きで他人にはあまり心を開かない。元風俗嬢で、パパ活をしている。常に自然体で過ごす藤井に興味を抱き、藤井と友人になる。(Wikipedia)

 今の時代、「会社あっての自分」とか、「仕事が命」と考える人がいないとは思いませんが、そして、それはそれ、生き方の流儀として人それぞれの選び方があるから、とやかく言うことはできないでしょう。しかし、ともすると、自己犠牲とか、会社第一という風儀は、いかにも「この社会の気風」のようにも思われてきたのは事実でしょう。「うちの会社」とか「私の学校」などという表現が頻繁に飛び出していた時代がありました。今だって、皆無ではありません。そんなとき、ぼくは「君は会社(学校)のオーナーか」と聞き返したものでした。組織と自分が一体化していることに違和感を持たない人や時代は、とっくに過ぎたんですよね。

 「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」とくれば、「親方日の丸」ならぬ「親方社旗」でしたが、いくつもの曲折を経て、今はそれが通じない時代になったのも確かでしょう。今後はさらに中途採用が一般的な働き方の姿になり(させられ)つつある時代、必死で会社にしがみつく生き方は好まれないのかもしれません。急峻な坂道を、汗水たらして「登りあがる時代」ではなく、「否応なく滑り落ちる時代」に、この社会は遭遇しているんですよ。

 ある新聞社系の雑誌が詳しく「静かな退職」について報告しています。ぼくにはかなりの皮肉に思われますが、新聞業界はある時期までは、多くの若者にとっては「高嶺の花」の企業でしたね。それが今日、斜陽産業のトップに踊り出ている状況です。世界的な発行部数を誇った業界でしたが、今では驚くほどの衰退を示すことになったのは、ぼくたちが知らないうちに新聞業界には、かなり長期間にわたって「静かな退職」が蔓延していたという事実の証明にもなるでしょう。そのような理由や背景は、どこにあるか。それもまたさまざまだとするなら、「静かな退職」の霧や雲は、間違いなくこの社会を低く暗く、覆っているともいえるでしょう。

 《「静かな退職」(Quiet Quitting)とは、労働者が必要最低限の仕事のみをおこなっている状態を指す言葉です。在職していながら退職が決まった人のように淡々と働くこの現象は、日本では『がんばりすぎない働き方』とも訳されます。TikTokで『あなたの価値は仕事で決まるわけではない』という言葉とともに紹介され、アメリカを中心にバズワードとなりました。/アメリカのとある民間調査では、世界の労働者の59%が『静かな退職』をしているとされ、労働者の態度として最も一般的だと指摘されています」》(「ツギノジダイ」・2023.12.11)(https://smbiz.asahi.com/article/15070954) 

 「殺伐(savage)」とした空気が都市(都会)を覆っていると感じながら、ぼくはだらだらと通勤していたと思う。「都会は砂漠」という以上に、「弱肉強食の世界」「1㍉、2㍉の誤差」みたいなものに鎬(しのぎ)を削る、陳腐この上ない時代だったかもしれません。今なおその気風は残存しているし、学校教育はこんな時代にあってもなお「過当点取り競争」を煽っている始末です。「不登校(登校拒否)(school refusal)」「引きこもり(social withdrawal)」が就学期の児童や生徒に多発してきた趨勢を放置していたか、見誤っていたことが、今になっても大きな禍根を残しているのかもしれません。

 発行部数世界一を誇っていた新聞が以下のような記事を書いていました。「じわり広がる「静かな退職」、辞めないが出世望まず最低限の仕事…企業の活力そぐ懸念も 静かな退職(Quiet Quitting)は、米国のキャリア指導の専門家が2022年、この言葉の意味を説明する短い動画をSNSに投稿し、世界に拡散した。/在宅勤務が普及したコロナ禍から社会経済活動が正常化に向かっていく頃で、「仕事が人生の最優先事項という価値観は劇的に変化した」「出世を目指さないというような人はペースを落とすのも一案」とし、仕事を辞める代わりに必要最低限に抑える働き方は「健全で前向きなことだ」と訴える投稿内容は、広く共感を集めたという(以下略)」(読売新聞・2026/04/07)(https://www.yomiuri.co.jp/pluralphoto/20260407-GYT1I00101/

 そして、「多様性を認める時代だが、静かな退職者が増えた会社の未来は不安になる」と「北斗星」氏はコメントを残されています。想像力が不足しているのかもしれないですよ。たしかに、「みなさん、こぞって静かな退職を」と勧奨する必要ないでしょうが、いざという時に企業が社員を守らないなら、「この企業に最後までいるぞ」という覚悟はつきにくいでしょう。「登校拒否」の児童や生徒に直面して、なによりも学校は「拒否反応」を示してきました。「学校に行かない、行けない子は悪い子だ」と、ね。そうだろうかと、ぼくは当時も思ったし、今だってそんなの可笑しいと考えている。「学校に合わせられない子」がいるなら、「子どもに合わせられない学校」もあると、なぜ考えないのかと、奇怪至極に思うばかりです。労働法の精神を毀損し、有期限雇用を無理にも導入した時期、ぼくは反対運動に参加していたことを覚えています。「好きな時に、好きなだけ」という「歯の浮くようなキャッチ」をバラまいて、雇用者を「景気の調整弁」にしてきたのは、誰だったか。

 ぼくは「静かな退職」という働き方の存在を否定はしない。そんな消極的社員が増えれば会社の存続が危ないと思う向きもあるでしょう。構わないんじゃないですか。企業の論理というか、会社の都合で個人の生活を左右してきたのも事実なら、生きていくのに必要なだけの裁量で企業と付き合う(務める)付き合い方があっても構わないと思う。GDPが世界で何番、そんな時代がどれほど人間の生活を味気ないものにし、個人の生活意識をザラツカセテきたことか。ともあれ、これまでに通用していた「理屈」「常識」が覆されようとしているのは、時代の必然でもあるように、ぼくには思われます。他人の倍も三倍も栄養を取る必要なはないのですよ。「三人前も食える人は偉いか?」

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参考 ★「蛞蝓(なめくじ)にも角(つの)」 ★「匹夫も志を奪うべからず」 ★「一寸の虫にも五分の魂」 ★「針は小さくても呑まれぬ」「山椒は小粒でもぴりりと辛い」「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」 ★「The best things come in small packages.」「六分の侠気、四分の熱」etc.

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