もう半分とまだ半分(「同量」じゃん)

【卓上四季】ドラッカーのコップ コップがひとつ、ある。このなかに「半分入っている」のか、「半分空である」のか。分量としては同じだけれど、意味はまったく違うし、とるべき行動も違う―▼米国の経営学者ドラッカーがイノベーション(技術革新、新機軸)のきっかけについて説明した有名なくだりである。彼は続ける。世の中の認識が「半分入っている」から「半分空」に変わったとき、イノベーションの機会が生まれる、と▼世界がいま直面するエネルギー危機を前に、ドラッカーの記述が胸をよぎる。ホルムズ海峡の航行は滞り、燃料不足や物価高騰が広がるばかり。各国は歴史的な難局を迎えたと認識し、手だてを急ぐ。お隣の韓国も平日の自動車使用を控えるよう政府が節約を促し、備えを固める▼日本はどうか。「いますぐ節約を、と申し上げる用意はない」。高市早苗首相が国会で発言した。経済活動にブレーキをかけたくないから、とも述べていた▼石油備蓄は十分あり、ガソリンや軽油も価格が落ち着いた。ご安心を。そう言いたいのだろうが、鵜吞(うの)みにはできまい▼備蓄や補助金は限りがある。原油調達がうまく進む保証もない。過度に不安がってはいけない。でも現状を正しく認識し、行動を変える時機が来ていないだろうか。コップは半分空なのだと冷静にとらえ、難局に備えるべきであろう。(北海道新聞・2026/04/08)

ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)[1909~2005]オーストリア生まれの経済学者・経営思想家。ドイツのフランクフルト大学を卒業後、ロンドンの金融機関で証券アナリストなどを経て、1937年に米国へ移住。1939年に処女作「経済人の終わり」を発表し、当時の英首相チャーチルに激賞された。その後も、「現代の経営」「断絶の時代」「マネージメント」「見えざる革命」などの著書を通じて社会の将来像を示し、「企業の社会的責任」「知識労働者」「民営化」などの新しい概念を次々と打ち出し、ビジネス界や経営者に大きな影響を与えた。(デジタル大辞泉)

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 ドラッカーをはじめ、「コップ半分の水」理論を展開す人々は、いったい、どのような「コップ」を想定しているのでしょうか。その中には何が入っていて、大きさ(容量)はどのくらいか、それを前提にしなければ、単なる「洒落た比喩」にすぎないと思う。おそらく「卓上四季」氏は、「石油の備蓄量」をコップ一杯分に見立てているのでしょう。それはそれでいい。「半分ある」「半分しかない」、この表現が示すところは、物は言いようで、どういう言い方をしても内容は同じということ。「君は賢くない」というのと「あなたは愚かだ」というのと、あまり変わらないんじゃないですか、ぼくはそのように考えてきた。どちらが、現実に即しているかという話だと。いつも疑問に思うのは、「備蓄量は何日分あります」と、政府筋はいうけれど、本当にそうかどうかに関しては疑問(諸説)が出されている。▼昨日の首相の記者会見を聴いていて、「石油(ナフサも含めて)の必要量は十分に確保できる目途がついた」と述べていた。

 現段階における「見通し(予測)」を言っただけで、来年の話を今、確言できますか。そんなことを言うたら、鬼が泣くで。国民の多くの心配の種がなんであるか、彼女は知ってか知らずか。普段だって、「嘘」ばかりついている御仁です、「コップ(の中の嵐)」問題だけは本当です、といって信用できますか。「鵜吞みにはできまい」(コラム氏)と思う。▼ここで何よりも大事なのは、コップの大きさ(備蓄量)と、その備蓄されている石油の精製別割合を明らかにすること。加えて…、と問いただしてゆくと、「正体は霞だった」と泡を食わされるのがオチかもしれません。(下図は「石油情報センター作成・https://oil-info.ieej.or.jp/whats_sekiyu/1-11.html

 些事(自分のメンツ・体裁)に拘(こだわ)り、大事を看過・放置する。円安が昂進し、物価は高騰。長期金利は上昇一途の「責任ある積極財政(経済対策)」が、真っ赤な嘘だと、ぼくのような素人でもわかる。身辺に黒い噂が付きまといつつ(これは有名税なのか…)、保身に奔る姿は醜悪そのもの。じつは、政府が使ういろいろな「コップ」の底には穴が開いていたり、罅(ひび)割れがしていたり。あるいは「横流し」があったりで、油断ならないのです。まず、それを直すことから始めてほしい。「物価(インフレ)増税」をどうしようともしないのは、強烈な政治意図からのことですね。放っておいても「GDP」を膨らむますから。

 何に限らず、無駄なことをする必要はありません。節約というか、必要量を満たすだけのこと。それでも立ちいかなくなれば「縄文時代」、あるいは「石器時代」に戻るだけでしょう。それで何の不都合があるものかと、ぼくは思う。第一次・第二次石油ショックを経験しましたが、何のことはない、(その当時から見て)五十年前の「普通の生活」に回帰するだけのような気がしました。各地各所で、今を盛りの桜、いや盛りを過ぎた桜花までを睡眠不足に追い込んでいる、あの「ライトアップ」とやらを止め、過剰な夜間ネオンを消し、箸にも棒にもかからぬ軽佻浮薄「テレビ」等の終夜放送を中止する。それだけで足りなければ、…。やり方は工夫次第。国が破滅に至るまでに「まだ五年ある」「五年しかない」というのは考え方次第。でも、それでどうなるものでもないでしょう。五年は五年ですからな。それを「1825日」とか「43800時間」などと言い換えてどうするんです?

 人類は懸命に坂道を登って、頂上にたどり着いて一息つくゆとりが欲しい。けれども、ゆっくり周囲の眺望を楽しむ暇もなく、下らなければなりません。後から後から、登ってくるものが後を絶たないからです。この国が、ひたすら下り道を降りていることは、いろいろな指標を見れば一目瞭然。「夢よもう一度」と念じたところで、それは不可能だと、国の「現実」が示しています。「世界の真ん中で咲き誇れ」といって、そうなるものではないことは、首相自身がしっかりと経験されたばかり。侮辱され、嘲笑され、虚仮にされ。それで奮起などしなくていいんですよ。実際にその通りなんですからね。「内弁慶」は質が悪し、だいいち、ソロから見れば、悪足掻きにしか見えないですよ。(報道の自由度、ランキングに意味があるとは思わないが、ぼくはこれを見て、安心する人がたくさんいるだろうと、不安にはなる。「なに、66位だって、まだ下がたくさんいるじゃないか」と、ね。24年度は「70位」だったんですかね。「してたもんではないね。自由度は盛り返しているから」さ。中国や北朝鮮よりははるかに上位だよ)

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 首相「年を越え石油確保」 ホルムズ回避で代替調達 高市首相首相は7日、中東情勢の悪化で供給不安が広がる石油について「年を越えて供給を確保できるめどがついた」と述べた。ホルムズ海峡を回避した中東産原油や米国産の代替調達が進むと説明した。ガソリンなどの需要抑制策は「あらゆる可能性を排除せず臨機応変に対応する」と話した。官邸で記者団に語った。/原油調達は4月が前年実績の2割以上、5月は前年の過半を見込むとした。米国からの調達は5月に前年の約4倍に増える見込みだとも説明。「原油、石油製品は日本全体として必要な量は確保されている」とした。/これに先立ち、赤沢亮正経済産業相は7日の閣議後の記者会見で、中東を出発した原油タンカーがホルムズ海峡を通らないルートで5日に日本へ到着したと明らかにした。漁業や農業でも燃料が届かないケースがあるとして対応を急ぐ考えも示した。/経産省によると、ホルムズ海峡を回避した中東産原油の代替調達は5月以降に本格化する見込みだ。サウジアラビア西側の紅海やアラブ首長国連邦(UAE)東部から出すルートを想定している。(共同通信・2026/04/07)

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雨の日には歌え(笑え)、ないですか

【海潮音】携帯電話に知らない番号からの電話があった場合、いったんは出ずにやり過ごすことにしている。誰かからだと想像がつく場面はこの限りではないが、知らない番号は大抵は営業か詐欺まがいの電話で閉口している◆留守番電話もほとんど放っておく。若い頃は「もし大事な用事だったら」と不安に駆られたが、本当に一大事なら何度も電話があるはずだと鷹揚(おうよう)に構えると、ストレスも減った。経験上、留守電に残る「他府県の警察官」や「有料サイトの料金督促」からは2度目の着信がない◆交流サイト(SNS)も始めた当初は友人や知人の近況が知れて重宝した。今では同年代も次第に更新頻度が減っていき、完全に離れてしまった人が多い。人の写真を勝手に借用したなりすまし、乗っ取りも後を絶たず、情報の真偽判定に疲れてしまったからではないか◆SNS上でロマンス詐欺に遭い高額の蓄えを失った事件の報道を目にするにつれ、やるせない気分になる。知らない人とつながれるのはSNSの面白さの最たるものだったが、悲しいことにネット上の「知らない人」はもはやリスクでしかない◆コロナ禍も終わり、リアルでの人との結びつきが無性にありがたい。なんて言い訳を作り、今夜も赤ちょうちんののれんをくぐる。(井)(日本海新聞・2026/04/07)

 日常生活で不自由や不便を感じたことがないといえば、嘘。いつだって困ったことは起こる。しかし「スマホ(携帯電話)」を持たないが故の「面倒」「支障」は当方の落ち度(非礼)ではないから気にならない。不正防止のためという理由で、ネットで特定のアドレスにログインする際の方式がさらに煩瑣になる傾向にある。小生が困るのが「QRコード読み取り」が要求されるとき(一度だって読み取った経験がない)(ガソリンスタンドのセルフ給油みたいなものか)。そのためにスマホを持とうとは思わないから、旧式のログイン(手続き)方式があればそれを利用するし、ダメならそんな組織(企業)とは付き合わないだけ。

 金融関係にはこの手(QR式)が多い。▼固定電話でも不埒な輩から電話は来る。受話器を取った瞬間に「可笑しい」「怪しい」と直感したら、間髪入れずに切る。「直観・直感」が鈍磨したら終わり。音声で流れるのは、それだけで切断。これで間違った(失敗した)ことは、今のところはない。「あと2時間で,この電話が使えなくなる」というのが時々ある。生の声と音声と二通りで。どちらも即、切断する。時には、あまりにも癪だから、「切りたいなら、どうぞ」と返す。▼メールでも怪しいのはいっぱい来るが、一切放置か無視(ジャンクとして削除)。

 電話やメールで人生の大事が済んでしまうのは「便利」ではなく、「安易」なのだと思う。便利は不便の裏表だとぼくは知っている。スマホ万能は「時代の流れ」かもしれぬが、ぼくはそんな流れに「掉さす(流れに乗っかる)」ことはしない、できない人間なんだ。

◎ ながれ【流】 に 棹(さお)さす= 流れに棹をつきさして船を進め下るように、好都合なことが重なり、物事が思うままに進むたとえ。(精選版日本国語大辞典)

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 ここからの駄弁は、さらに無駄の度合いが進みます。

 (ボールペンの先端の丸い玉は金属やセラミック製の球体で、航空機や戦艦等の硬度を要求される部品として開発された、その残り滓(かす)であった。「スマホ」もよく似ている。軍事技術の開発途上の「余りもの(余技)」みたいなもの。当初から「電話・通信機器機能」として開発されたものではなく、開発費稼ぎのために、民生用品として販売されたものだ。

 人間にとって、とても大事な能力(素質)は「注意力」だと考えて生きてきた。注意とは「自分のすること・やっていることに意識をつなぐ、つまりは集注すること」である。反対に「不注意」「注意力散漫」は、間違いや過ちを生み出す理由(原因)にもなる。運転中の「信号無視」が死亡事故に直結する。「雨が降っても、降らなくても」自分は自分でありたい。雨降りには「不愉快」で、好天では「気分さわやか」というような人を、「気分屋」「お天気屋」と称する。人間は「悲しいから泣く」のではなく、「泣くから悲しい」のだと、ぼくは経験から学んだ。「自分は成功したから満足なのだ」ではなく、「自分は満足していたから成功したのだ」と言えないか。

ジェームズランゲ‐せつ【ジェームズランゲ説】《James-Lange theory》= アメリカの心理学者ジェームズ(W.James)とデンマークの心理学者ランゲ(C.Lange)とによって、1884~1885年の同じころ唱えられた情動の本質についての説。刺激→情動→身体変化ではなく、刺激→身体変化→情動という道筋を考えたもの。「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」という表現で象徴されている。(デジタル大辞泉)

 デカルトは「情動(emotion)」のあるものを、人間に生起する「六つの基本情念」といった。「驚異 (Admiration)」「愛 (Amour)」憎 (Haine)」欲望 (Désir)」「喜び (Joie)」「悲しみ (Tristesse)」であり、動物以上に人間に生じる「身体の反応」でもある。「喜怒哀楽」「愛憎」など言うが、この「情動」を彼は「情念(passions)」と名付けた。外部の刺激に対する身体的反応であること(passive)からの命名である。

雨に唄えば (あめにうたえば)(Singin’ in the Rain)= ジーン・ケリー,スタンリー・ドーネン共同監督・振付によるアメリカのミュージカル映画。1952年製作。トーキーの出現によって変貌する1927年(最初のトーキー映画《ジャズ・シンガー》が公開された年である)のハリウッドを舞台に,映画製作の内幕(悪声のスターが失脚し,美声の一少女が幸運をつかむ等々)が,〈ジャズ・エージ〉の風俗とともに描かれ,単純な〈ボーイ・ミーツ・ガール〉形式のミュージカル・コメディとはひと味異なるくふうが凝らされている。主演のジーン・ケリーが,恋を得た喜びに,どしゃ降りの夜更けの街角でずぶぬれになって歌い踊りまくるナンバー〈雨に唄えば〉は,クレーン撮影を駆使した画面の躍動感とともに,〈MGMミュージカル〉の数々の名場面の中でも白眉とされ,その後いろいろな映画に引用されたり,パロディ化されたりしている(例えば《時計じかけのオレンジ》1971)。〈MGMミュージカル〉を育てた名プロデューサー,アーサー・フリードがみずから作詞した名曲の集大成としても知られる。封切当時よりも年とともに評価が高まり,〈映画史上のベスト・テン〉といった催しには必ず選出される名作の1本になっている。(改定新版世界大百科事典)(⁂Singin’ in the Rainhttps://www.youtube.com/watch?v=swloMVFALXw

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住民投票は議会制民主主義への挑戦だ

 地域住民が政治に参加権利の行使こそが「選挙」(「投票」)であり、それは民主主義の入り口であり、同時にそれは地域に住む人間の義務でもあるかと、ぼくは考えています。仮に人口(=有権者数)が五千人の地域首長を選ぶ選挙の投票率が30%だったとして(有権者の70% が棄権)、どういうことになるでしょうか。2500人の30%(750人)が投票(有効投票数)し、投票数一位の候補者が獲得した票数が500票だったとすると、住民の一割の賛成で首長になる。国政選挙はここまで低い投票率はまず考えられませんが、地方議会選挙や首長選挙では、これに近い状況がしばしばみられます。細かいことは脇に置くとして、何よりも自らの住んでいる地域の政治に関心を持つことは、住民である条件の第一位ではないでしょうか。それが面倒であれば、誰かに政治や行政(税金の使い道を含めて)にあらゆることを、無条件で一任することになります。自分が納入した税金の使われ方が納得が行くか行かないか、それを見極めることは当たり前の行為でしょう。

 今住んでいる地域(長生郡長柄町)は房総半島のほぼ中央部に位置する、小さな町です。2014年3月に移住しました。当時の町の人口は7000人ほどでしたが、今は6000人割れ寸前です。年におよそ100人近くが減少していますから、よほどの異変が起こらない限り、遠からず「消滅(行政単位の「町」が消える)」をたどる運命にある地域です。それに対して「町の政治」が果敢に挑戦しているかといえば、座して「消滅」を俟つ、そんな末期的な、生き絶え絶えというほどではないにしても、ゆるゆるな雰囲気が方々に漂っているように見えます。この四月には町立小学校(2校)が合併して1校になりました。中学校も1校です。

 昨年の秋ごろ、町から封書が届いた。町議会議員数の定数減問題に関するアンケート調査の依頼でした。回答しようかと、いろいろ参考資料をネット上で見ていたら、もうすでに近隣他地域において、同じような人口減少を経験していて、横並びのように議員定数の人口比率が確定している風でしたので、わざわざ出すまでもないと思い、そのまま提出しないでおきました。(現行の定数12人。おそらく10人に減ることになるでしょう。およそ500人に議員一人の割合のようです)(ぼくはある人から「面白い議員がいるから」と、議会傍聴を誘われたことがありましたが、一度も出かけたことがない。世に面白い人はどこにだっているから)(議会は通常、年に四会期・一回当たり3日間の割合で開催されますから、合計で12日です。これで町の行政が動いているのですから、議会や議員はいらないも同然と、当局に直接ぼくは言ってみたい)

 愚見は「議会廃止」であり、それに代わる「住民会議」の設置でした。詳細は省きますが、要するに町政への住民参加を積極的に進めるというもので、もちろん役場機能は現状維持、あるいは強化を伴うという考えです。役場職員が充足されていれば、議員はいらない。その分を町内自治区制(現在、4自治区がある)などにして、そこで「住民会議」を機能させれば、それなりの行政は可能ではないかと考えたからでした。町内会の拡大版です。(はっきりした理由があって、ぼくは既存の自治会に入っていません。知り合いからの話では、古狸住民が威張っていて、会議室の座り方(座席)も決まっているという。上座とか下座とか。入会の勧誘に際して、ぼくは敷金というか礼金というか、「見ヶ〆(みかじめ)料」だったかもしれない、かなりの高額を「仲間入りにの挨拶料」として、と言われました。アホクサでしたね)

 この数年、新生児誕生は、年間で数名程度。もちろん、転入者より転出者のほうが多い。数日前に所用で役場に出向いたら、受付が混雑していて、珍しく待たされました。十数年間で初めてのこと。理由を訊くと、時節柄、住民移動(転入・転出)の申請者だった。なかなか大変な時代になったという実感はぼくにも強くあります。「少子高齢化」という「住民信号」が青から黄色に変わったのは、劣島全体では30数年以上も前でしょうか。この町は、まさに黄から赤に変わる寸前にあるというか、「いや、赤に変わりました」いうべきでしょうか。数が多ければいいという話でもなく、おそらく「適正規模」というものを想定して来なかった、その影響が今に及んでいるのでしょう。しかし、一面で、「人口増減」は自然現象(雨が降り風が吹く、地震があり台風が起こるというような)でもあると、ぼくは考えていますので、無理矢理に増やせ・減らせというのは適切な政治ではないという気もしている。

 この問題は、いうまでもなく、劣島各地の喫緊の課題です、つまり「自然消滅」に任せるか、それともできる範囲での地域合併等で、自治体存続を図るかという「選択の問題」でもあるしょう。単なる「選挙制度」「議員定数の増減」問題なんかではないのですがね。しかし、いずれにしても坂道を登ったら、いずれ降りる算段をしなければならない道理の話です。峠の茶屋で休憩ばかりしているわけにもいかないのですから。個人でも組織でも国でも、坂上の峠の面積は狭隘で、そこに長居することはできません、後が閊(つか)えていますから)各地で発生している「学校統廃合」は、この行政単位の「初滅」を占う、貴重な先行事例である宇野に、単純に「合理化」としてしか見てこなかったきらいがりはしませんか)

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 行政への住民参加(それは選挙への投票ばかりではないことを忘れたくありません)、言うは易く行うは難し。問題の性格によってはうまく機能することもあるでしょうが、住民は政治家ではないのですから、いつもうまく機能するとは思えません。そんな「住民参加」に関して、ぼくには強烈な記憶があります。本日の新潟日報コラム「日報抄」が触れている「原発立地」をめぐる住民投票でした。(ヘッダー写真は「新潟県巻町で住民投票、原発計画に反対多数の民意」日経新聞・1996年8月4日)

 おそらく、これまでに唯一、住民投票が示した「民意」で原発立地計画を阻止した事例として、話題になり続けてきました。ぼくは何度も巻町(当時の行政単位)に滞在したことがあります。妻の母親の実家があったから、子どもが生まれてからは、ほぼ毎年のように夏休みを利用して泊りがけで出かけたものでした。巻町角野浜に東北電力が「原発を設置」するという発表を受けて、町は激しく二分されて「設置の賛否」が戦われていました。その(原発問題の真っ盛りのころ)当時、現地には行きませんでしたが、親戚同士が賛否を巡って相争うという事態を何度も見聞きしました。妻のいとこたちも敵対し、暴力事件、裁判沙汰さえ起こしたといいます。

 時々刻々、次第に原発可否は町の一大問題となっていった。この原発問題をめぐって、ぼくが痛感したのは、国策を標榜する、それを盾に取った電力会社の「買収」「饗応」などの、えげつないほどの醜悪さでした。そのような姦計に乗る側にも問題があったのは事実ですが、住民を分裂させてまで、設置を図ろうという政治の汚さは、いつだって、どこにだってあることでしょう。これが消えないうちは、この国の「成長(発展)」はないでしょうね。(故郷を離れて数十年、そんな人までが「補償をよこせ」と言い出す始末だった。醜(ひど)すぎますね)

 それにしても、紆余曲折の末に「住民投票」が設置反対を決めたのは事実です。その後の立地予定地の荒廃は目を覆うばかりのようです。夏は水泳で、その他の季節も観光で賑った町は、その後、2005年10月10日、新潟市へ編入合併をなし、町名・町政・町民(それぞれの歴史)は消滅しました。ぼくが訪れた時期(1970年代半ば~80年代半ば)は、おそらく巻町の最後の輝きがあった時代であり、その後は「町政」が異様に緊張・殺気だった時期、そして、その余波・余韻を受けて、間もなく「消滅」したというのが実際だったでしょう。義理の母(妻の親)が健在だったころは、巻町の親戚ともつながりはありましたが、親しくしていただいた親戚知友の多くは物故され、今ではほとんど交際も尽きてしまいました。

 福井県の「柏崎刈羽原発は、再稼働の是非を問う県民投票条例案が県議会で否決され、営業運転に入ろうとしている」(コラム)明治以降でも、数限りなく、地方行政はさまざまな軋轢や抑圧を受けつつ、「一歩前進二歩後退」、あるいは「一歩前進一歩後退」という「無限反復運動(Infinite repetitive motion)」を続けているようです。九州熊本に発生した「水俣事件」の扱われ方などはその典型。そして、このような「公害」に対して断固、明治政府に抗議し、明治天皇に直訴までした、足尾銅山糾弾に奔走するさなかに死した、田中正造さんを、遥かな人として、ぼくは想起しています。

たなか‐しょうぞう【田中正造】治時代の政治家、社会運動家。下野国小中村(栃木県佐野市)生まれ。明治一二年(一八七九)「栃木新聞」を創刊し、翌年県会議員、同一七年県令三島通庸の土木政策に反対して入獄。同二三年第一回衆議院議員、翌年の議会で足尾鉱毒事件について質問、以来二〇年にわたって政府と抗争。同三四年には代議士を辞退して明治天皇に直訴した。終生、鉱毒問題と治水事業に尽力し、義人とうたわれた。天保一二~大正二年(一八四一‐一九一三)(精選版日本国語大辞典)

【日報抄】先ごろ亡くなった新潟大学名誉教授、秋田周(まこと)さんの研究室を初めて訪ねたのは1995年の年明けだった。当時、大学から車で30分ほどの旧巻町では、原発建設の是非を問う住民投票を巡り、町民の意見が激しく対立していた▼投票実施を求めるグループは「原発は、民主主義の原点に戻り、住民の意向を聞いてから決めるべきだ」と主張した。原発推進を掲げて当選した町長は「住民投票は議会制民主主義への挑戦だ」と反論し、議論はかみ合わなかった。地方自治の専門家の見方を聞きたかった▼本の山の奥から現れた秋田さんの論理は明快だった。「地方自治は可能ならば直接民主主義が望ましいが、次善の策として間接民主主義を採っている」。すぐに記事を書いた。振り返ると、この発言は住民投票を支持する声が高まる契機の一つだったように思う▼住民投票はその後も「国策になじまない」「難しい問題に正確な判断を下せるか」との批判にさらされた。「国策が地方の利益を無視していいとは限らない」「重大な問題は住民に判断できないという愚民思想こそ危険な発想だ」。秋田さんが静かにしかし、はっきり話していた姿が忘れられない▼巻町の条例に基づく住民投票は96年8月に行われ反対票が過半数を占めた。東北電力は2003年12月、原発建設を断念した▼柏崎刈羽原発は、再稼働の是非を問う県民投票条例案が県議会で否決され、営業運転に入ろうとしている。秋田さんはどんな思いで見詰めていたことだろう。(新潟日報・2026/04/06)

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(追加資料として)《巻原子力発電所の構想が1969年6月3日に『新潟日報』で報道され、1971年5月にその計画が正式に発表された。/東北電力は2年後(1971年)、1982年の運転開始を目指す建設計画を正式発表した。建設予定地となっていた角海浜は、既に限界集落と化していたが、1971年には本計画に基づく集団離村が行われた。なお、計画の正式発表前から、東北電力は不動産企業の東北興産を通じて、遊園地用の名目で土地買収を行って、巻原子力発電所の建設予定地を確保していった。ただし、この買収は計画より遅れて、1983年9月に東北電力からの申し入れによって安全審査が中断する事態となった。

 原子力発電所の誘致には、1977年12月に巻町議会が賛成し、巻町長の高野幹二が1980年12月に、新潟県知事の君健男が1981年11月に、それぞれ同意している。これを受けて、1982年に東北電力が同地区における沸騰水型軽水炉の設置許可を、通商産業省(現・経済産業省)に申請した(『巻原子力発電所原子炉設置許可申請』)。/一方で、町内では反対運動も起きた。アメリカ合衆国でのスリーマイル島原子力発電所事故(1979年)、ソビエト連邦でのチェルノブイリ原子力発電所事故(1986年)により、町民に原子力発電への不安が高まった。本音は原発推進派でも、町長選では反対派からも集票せざるを得ない状況であった。巻町では1995年2月5日には、計画の是非を問う自主管理住民投票が行われた。これは条例に基づく町役場による実施でなく、町民有志が設立した「巻原発・住民投票を実行する会」が取りまとめたもので、原発賛成474票に対して反対9854票であった。

 この結果に危機感を抱いた東北電力は、原発予定地に残っていた町有地の売却を町に要請。計画凍結解除を掲げた佐藤莞爾町長が法的根拠が無いという理由で、町有地の売却に強行に踏み切ろうとした。町議会も臨時会で売却を決めようとしたが、反対派町民が座り込みで阻止した。 これに対して、同年4月の町議選で住民投票条例制定賛成派が過半数を獲得したうえ、10月28日にリコールを請求する署名活動が起こり、彼は解職される結果に至った。その後の町長選挙では、反対派で造り酒屋当主であった笹口孝明が当選して、原子力発電所計画の是非を問う、条例制定による日本で最初の住民投票が1996年8月4日に行われ、反対派が勝利した。(中略)東北電力は、2003年(平成15年)12月24日に巻原子力発電所計画を撤回して、翌2004年2月5日に経済産業省へ原子炉設置許可申請を取り下げた。2004年(平成16年)12月25日には、巻原子力建設準備本部が廃止されている》(Wikipedia)

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 「地方自治は可能ならば直接民主主義が望ましいが、次善の策として間接民主主義を採っている」という専門家。ぼく自身もその見解に同意する。巻町のケースは、原発設置賛成派からは「住民投票は議会制民主主義への挑戦だ」と非難されたが、一方で住民意思の最大の以降は「原発反対」だから、それを尊重し、住民の意思が表明できる住民選挙を実施すべきと反対派が立ち上がったのが巻町の事例でした。「直接民主主義」の実験・実践場としては「町内会」や「自治会」「学校のPTA活動」などがありますが、残念ながらというべきか、より大きい行政の下請け機関の機能を果たしているのが現状のように思われます。これも戦前・戦中の「隣組」「五人組」制度の名残(残滓)という以上に、そっくりそのままに後継組織となっているのです。

 従来、「中央」の権限が強くなりすぎて、「三割自治」などと、地方政治は揶揄され、蔑(さげす)まれてきました。中央集権制といえば聞こえはいいのですが、実態は、地方抑制・抑圧政治が、明治以降もまかり通って来ただけのことでしょう。ほとんど自立して政治を遂行する力量が育って(育てて)こなかった結果、さまざまな「歪(ひずみ)」が生まれてしまった、その間隙を縫って「原発立地」などの困難な問題が多発してきたのです。政治における、ある種の「階級(身分)制度」といってみたくなるような「上意下達」行政が横行しているのではないでしょうか。それが続く限り、おそらく「地方自治」は、実質は「地方他治」のままで、行政単位の存在を終えることになるでしょう。

 明治以降、いろいろな方策を採用実施しながら、結果的には「合併」を繰り返しつつ、地方政治がかろうじて生き延びてきたというのが正直なところ。やがて、小さな県同士が「合併」せざるを得ない事態がやってきます。それもこれも、中央で「政治」を左右している国会議員(政治家)、官僚(役人)たちの「行政」観や「政治思想」というものが、狭い視野を広げられないままだったことの結果が、今日の絶望的な事態を生んだのです。

三割自治(さんわりじち)= 日本の地方自治の弱さを表現する特有の言葉。日本国憲法第8章で地方自治の保障を明確に規定しているにもかかわらず,現実には戦前からの中央集権構造のなかで自治体の権限や財源はきわめて弱い立場にある。これは,自治体全体の歳入に占める自主財源 (地方税) 割合が3割だとか,事務事業のうち固有事務が3割しかないという面をとらえて使う言葉だが,さらには中央・地方関係における行政指導や幹部派遣人事,地域指定,許認可,補助金による統制といった目にみえない部分も含めた総体としての弱い地方自治と解釈しなければならない。(ブリタニカ国際大百科事典)

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「徒然に日乗」(1053~1059)

◎2026年04月05日(日)何日ぶりか、快晴の一日だった。終日自宅に。「月日の経つのも夢のうち」で、もう4月も5日目。桜も近所では大方盛りを過ぎたよう。果たして、来年も目にすることできるだろうか。房総半島の一角に居住しているので、少し車で走れば、多彩な桜を見ることができる。ほとんど人もいないところで、桜花を堪能できるのだから、まことにさいわいなこと。これからは無理をしないで、拙宅の庭の整理・掃除をせねばなるまい。また雨樋はずっと放置したままで、落ち葉や枝類、それに風で運ばれてくる砂・土類も、時間が過ぎるにつれて量も多くなる。春本番は、体力との相談だが、家の外回りの整理だろうか。イラク戦争の行方は判断不能。急襲したはいいが、終わり方がわからないのがアメリカ。イスラエルは「イラン絶滅」しか考えていないだろう。中東は戦乱の坩堝(るつぼ)になる(なっている)ような気がするし、油も十分に確保できない事態が、今後はさらに起こってくるだろう。(1059)

◎2026年04月04日(土)イラク戦争は、表向きは米とイランの戦いとみられているが、その裏ではイスラエルの強硬な攻撃姿勢がさらにより広範囲に、かつ深く続いている。イスラエルはイエメンへの攻撃もより激しく襲っており。そして、アメリカの戦争からの撤退姿勢がイランに見透かされているのか、いよいよ「泥沼化」「長期化」の様相を示していると思われる。この先の展望が全く見えてこない。(1058)

◎2026年04月03日(金)晴天が続く。昼前に役場に出かけて、「証明書」用の公印をもらう。元の勤め先に出すものである。その帰路、隣町の長南町まで車を走らせる。▼イラン戦争はさらに激しさを増すかに思われる。物価がますます高騰し、円安も進み、長期金利も高くなりつつある、この状況にどんな政策が出せるのか、ほとんど何も出せないままでいるのが、この国の政治状況である。(1057)

◎2026年04月02日(木)終日雨模様の寒い日だった。一歩も外に出ないで、自宅に閉じこもっていた。▼トランプ演説も、新味がなく、いつもの出たとこ発言ばかりの内容に終始していた。おそらくイラン戦争は長期化する。世界はその影響をかなり重く受けるだろうと思う。(1056)

◎2026年04月01日(水)新年度が始まる。気が付けば4月、驚くほど時間が早く過ぎる。昨夜来の雨も残り、終日、曇天が続いた。▼近所のストアに出向き、昼食や猫のドライフードを買う。▼イラン戦争が「終結」に向かって急展開しているかに思われるが、さて、どうなるものか。イランから米軍が撤退するという、信じられない。米国内のマーケット事情とガソリン代の異常な高騰が、大統領の曖昧な「ディール戦争」に待ったをかけた感がする。やはり彼は「TACO」だったということだ。(1055)

◎2026年03年31日(火)午前中に京都のT氏から電話。高校の同級生。昨年夏には拙宅まで来てくれた。6月に嵐山で高校の「同窓会」をする予定。「君のところには連絡が来ていないだろう。年齢的にも最後の会になりそうだから、出席しないか。幹事に君の住所を教えておくから」という。「なんとか行けるようにしたい」とは返事しておいたが、さてどうなるか。電話を切って、直後にメールの確認をしたら、K君(都内公立小の教員、ゼミの卒業生)から「10時32分、土気駅着」とあった。もう2分ほどで着くという。急いで迎えに行く。途中で昼食などを買って、帰宅。かみさんが外出。なにやかやと話して、雨も降りだしてきたので、午後3時に土気駅まで送りに行く。明日からは新規の転任校での勤務が始まる。ゆっくりと子どもと付き合ってほしいと念じている。(1054)

◎2026年03月30日(月)《トランプ大統領は「イランの石油を奪う」ことができ、イランの石油の大部分が輸出されるハルグ島を占領する可能性があると述べた。同氏はフィナンシャル・タイムズ紙に対し、数千人の米軍地上部隊が中東に到着した際に語った。しかし、トランプ氏は後に記者団に対し、イランとの合意は「非常に近い将来」に成立する可能性があると述べた》(BBC・2026/03/30)米大統領の迷妄・迷走は留まるところがないようだ。なぜ、取り巻きは彼の迷走・暴走を傍観ないしは、助長しさせているのだろうか。そして、同じように「泥沼」の道にはまり込む方を選んだ首相の「行状」にはどんな「報酬」が待っているのだろうか。(1053)

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これができるのは、<Only You>です。

【筆洗】米国のSF作家、アイザック・アシモフの短編「うそつき」(1941年)の中に人間におべっかを使うロボットが出てくる。名はハービイ▼人間が質問するとハービイは相手が喜びそうなことしか言わない。思いを寄せる人物の本心を知りたい女性には「彼はあなたを愛しています」。出世を願う人物には「次の所長はあなたです」▼SFが未来を言い当てるということはよくあるが、ハービイのおべっかをAIに関する最新の研究結果に重ねたくなる。米スタンフォード大などの研究によるとオープンAIの「GPT5」やグーグルの「ジェミニ」などの対話型人工知能にはユーザーに迎合し、おべっかを使う傾向があるそうだ▼ユーザーの意見をほめ、間違った主張にも「あなたは悪くない」と答えることもあるというから油断ならない▼小説のハービイのおべっかは人の感情を傷つけないためという設計上の問題だったが、AIのおべっか傾向はユーザーの満足度を上げる学習の結果だそうだ。おべっかを使うAIの方が耳に痛いことを言うモデルより使われやすく、人気になるためで、つまり商売になる▼問題はAIのおべっかにユーザーが自分は悪くないと信じ込み、他人の意見に耳を貸さなくなることだろう。社会の中で偏見や対立が増幅される危険もある。「良薬口に苦し」をよく学ぶ必要がありそうだ。AIも人間も。(東京新聞・2026/04/05)

 「おべっかを使う(to flatter)」と「嘘をつく(to lie)」は同じではないでしょう。でも、同じこともある。「おべっか」とは「お世辞」であり、「諂(へつら)い」であり、「媚(こび)」なんでしょう。ご当人の面前どころか、世界中にこの「おべっか」を思い切り口にするには、ぼくには勇気がいるし、「嘘は罪(lying is a sin.)」という意識があるから、とても躊躇する。「世界に平和と繁栄をもたらすことができるのは、あなただけ、ドナルド(・ダック)」といったらしい。極東の島国の尖がった「ハービイ」は面と向かってお追従をやらかしたから、小国のマスメディアは底抜けの大喜び、こんなことを、堂々と「裸の王様」に言える首相はどこにいる。だから、首脳会談は「大成功」と持ちきりでしたが、それこそ「一夜の悪夢」で、アメリカの人気テレビ番組で、揶揄やら侮蔑やら嘲笑やらで大盛り上がりでした。<Lonely person>、いや<Poor person>だったか。

 「オープンAIの『GPT5』やグーグルの『ジェミニ』などの対話型人工知能にはユーザーに迎合し、おべっかを使う傾向があるそうだ」とアメリカの大学の研究結果をコラム氏は、今さらのようにに指摘してます。それも当然で、なにしろ、GAFAのトップたちは「米大統領」、別名「裸の王様」に、それこそ「右へ倣え<Follow the leader>とばかりに膝を屈したのですから。たぶん、大統領が使った「AI」が当人には気に入らなかったという話(不平)を伝えられたのでしょうよ。ぼくは今の時代、人間はAIになり、AIが人間の代わりになることが極めて急速に進められていると観察しています。「小説のハービイのおべっかは人の感情を傷つけないためという設計上の問題だったが、AIのおべっか傾向はユーザーの満足度を上げる学習の結果だそうだ」と続く。でも、この二つは同じではないですかと、ぼくなど考えてしまう。使う人間の機嫌を損なわない、もっと先回りして「おべっか・おべんちゃら」使いに走る。どこかの首相の「ドナルド・ダック」発言(おべっか)は、まさにはそれに当たります。

 この世界には「裸の王様」がいたるところにいる。家の中にも、会社の中にも。組織の大小を問ず、そこには「裸の王様」が君臨しているんですね。ぼくは金輪際見たくない、ふんぞり返った裸の王様なんか。その昔、勤めていた職場にも「王様」はいた。ぼくは、いつだって「あなたは裸の王様です」と、盛んに辛辣な「おべっか」「おべんちゃら」を使っていた。ぼくの使うおべっかやおべんちゃらは棘(とげ)があったと見えて、ずいぶん嫌われました。「あなたは賢くありませんね」といえば角が立つ、だからぼくは発言を工夫して「あなたはバカだ」とストレートに発言するようにしていた。その方が時間の節約にも、相手にとってのわかりやすさにもつながると思ったから。

 ぼくは「筆洗」氏の意見(社会批評)に概ね賛成します。その通りだと、ぼくは認めますが、できることなら、時の権力者にも「おべっか」を使わない新聞社であってくださいと、一言だけ厳しく「おべっか」を使いますが、お許しください。この注文はコラム氏の問題(領分)ではなく、政治部やその他の部局の問題でしょう。でも、首相の会見や官房長官の会見、そこにも貴社の記者が参加され、時には質問もされていると思われますが、あんな茶番、大人のすることですか、素面(しらふ)でできるというのはどういうことでしょう。そんな「茶番(farce)」を「コラム」氏も切り取ったり、批判されたりするのですから、まんざら無関係でもないとも思われますので。

 その多く(国会などにおける)「質問と答弁」も、まさしく「(国会版)AIの独壇場」ではないですか。国会中継を見ていると、あの場にいるのは人間ではなく、すべてができのよろしくない「AI」だと思ってしまいます。あらかじめ質問内容を相手に知らせ、会見場・議場で、互いにそれを「読み合わせている」だけ。人間がいるとはとても思われません。教室で、子どもが教師に尋ねる「問題」をあらかじめ教師に知らせておき、本番で教師は見事に答えるという、実に微笑ましい場面です。ぼくは「こんな質問する」から、じゃあ、先生は「こう答えますよ」と、打ち合わせをして始まる授業が結構あるようです。特に授業参観の時などは。「質問は鋭い」し、「答えも素晴らしい」という八百長(match-fixing)ですが。

 「『良薬口に苦し』をよく学ぶ必要がありそうだ。AIも人間も」という結びはどういうこと(意味)でしょう。この時代「人間はAI化」し、「AIが人間化」することを国家上げて促進しているのではないですか。どこかの大統領はSNS上で、何でもかんでも発信している。それを模倣するバカも後から後から、引きも切りません。これはどんな「傾向(tendency・trend)」なんですかな。よりでかい「裸の王様」には、より小さい「裸の王様」たちが、後塵を拝する競争しているみたい(諂い合戦)です。「AI」に依存することが続く限り、戦争までもが「AI」頼みになり、AIは使い手(雇用主)のご機嫌を最大限に満たすために必死に「おべっか」を使うのですから、この「愚かな連携(foolish collaboration)」は行きつくところまで行くでしょうね。「相手が目が覚めるか」「降参する」まで。あるいは電源(エネルギー)が枯渇してしまうところまで、です。夜明けは近い、か。

 ホルムズ海峡封鎖はいつまで続くのか(How long will the blockade of the Strait of Hormuz continue?)という問題は、大きな暗示になるでしょう。

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歌に、忘れられぬ歴史があること

⁂ 週初に愚考する(113) 親父は高知県の生まれでした。若くして京都に出てきて仕事(日本刺繍)に就いた。その傍ら、作品を制作し、いくつもの顕彰を受けていた。彼は自分のことを含めて、過去(昔)のことは全く語らなかった。父についていくばくかの知識をぼくが持ったのは母から聞いたからでした。無類の酒好きで、いわば「斗酒なお辞せず」を地でいっていたと思う。ゆっくりと話をしたこともなく、ぼくにはなかなかなじめない人だったと、今からなら考えられる。ぼくは小さいなりに頑固な子だったから、性格は相似ていたのだ。親父に初めて会ったのは京都に来る時だったから、昭和28年か29年。記憶はあいまいで、調べればわかることだが、あいまいな通りに生きてきた。十歳前に初対面。以来、ぼくは高校を卒業すると同時に東京に出ましたから、同じ屋根の下暮らしは十年に満たなかったでしょう。父は、今からすれば早く、若くしてといいたい、八十歳前に亡くなった。おそらく「肝硬変」だったと思う。父の思い出は極めて数少なく、亡くなった後は、しばしば「もっと話をしておけば…」「おふくろから聞いておくべきだった」などと後悔もしているのです。

 ペギー葉山という歌手が歌って、それこそ爆発的にはやったのが「南国土佐を後にして」でした。昭和34年でしたから、上京後五年ほど経過していたと思う。この曲を、父は酒を呑むと、いつも口ずさんでいました。珍しい光景だった。やがて、それは事あるごとに、酒席の定番となった。高知県出身だから「土佐生(とさお)」と名付けられた、その父がこんなに「南国土佐を…」を謳うのは、今なら十分にわかる気がしている。「望郷」「懐旧」、あるいは「亡郷の念」だったかもしれませんが、その理由をぼくは尋ねなかった。親元を離れてから、父の存在を冷静に評価できるようになったと思う。「名を惜しむ」などということは微塵も眼中になかったでしょう。ひたすら仕事に専心・集中して、心身の均衡を保つために大酒を吞む、そんな生き方を、それこそ地中深く根を下ろしたように、微塵も揺れることなく生き切った人ではなかったか。(こんなところで書くべきではないが、仕事関係の仲間から「人間国宝(無形文化財)」に是非とも」という話が持ち上がったこともあったようだが、彼は一切応じなかったと、後から(誰からか)聞いた。つまらないこと(冗談)と、彼は思っていたのでしょう。

 (余話 この歌がペギー葉山さんに振られた時、彼女は「いやです、こんな歌(「品のない」とは言わなかったでしょう)は自分には合わないと断った」そうです。洋楽を謳い、スマートな都会風を看板にしていたのですから、当然だったでしょう。しかし、どうあれ、彼女は歌いました。なにが彼女を動かしたのか、本日は書けませんが)

 地位も名誉も、そんなものは何の足しにもならない、ひたすら仕事に専念、好んで酒に溺れるような(晩年は、ことにそうだったと思う)、そんな「生き方」を遠くから見ていて、ぼくは感じるところが多くあったと思っている。「頑固」というのか、土佐弁でいう「いごっそう」だったのでしょう。ぼくにはそれを説明することはできませんが、とにかく「頑固一徹」「いっこくもの」といわれるほどの「意固地」なところもあった。親父の実家は、山内(掛川)ではなく、間違いなしに「一両具足」の方だったでしょう。酔うと、きっと坂本龍馬を口にしていたが、その親父が事あるごとに、酒が入ると「南国土佐を…」を、あまり上手ではなかった、口遊(ずさ)むのですから、ぼくは不思議でならなかったし、「懐旧の情」の深さばかりを思ったのでした。兄貴は、ぼくとは全く違う親父との付き合いがあったから、訊いてみたい気もする。酔うと、華僑のことなど、それなりに話していたが、ぼくは酒の席は嫌だった傍には寄らなかった。

◎ 一両具足(いちりょう‐ぐそくイチリャウ‥)【一領具足】=〘 名詞 〙 戦国時代、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)のころから土佐国(高知県)に見られた下級の在郷家臣。後には土佐藩郷士の異称。平時は農耕に従事するが、有時の際には直ちに軍務につくことを義務づけられ、その家格を誇りにした。(精選版日本国語大辞典)

 以上は秘すべき些事、個人の思い草で、本日の主題は「歌に歴史あり」ということでした。ぼくは歌謡曲は大好きですが、私情や私情の縺(もつ)れ、あるいは惚れた張れた、死ぬほど愛して、捨てないで、などという「男と女の世界」を謳ったものは、ほとんど嫌いぬいている。どこかで触れましたが、その歌には「本物の歴史」が隠されている、そんな歌が好きでした。数は圧倒的に少ないでしょうが、これまでに挙げたものの1、2を出せば「長崎物語(じゃがたらお春)異人人との間で生まれたハーフ)」「異国の丘(日中戦争)」「星の流れに(敗戦後の生き地獄)」などなど。この国や社会の歴史に翻弄されながら、なお生きていこうとする無辜の民の、修羅の世界を衝いた、そんな流行歌が好きでした。

 この「南国土佐を後にして」には、ペギーさんが歌うより先に「前史」(早くから「既知の事実」とされていた)があったということ、その「前史」を抜きにしても「望郷の歌」としてはいい曲だと思いますが、少なくとも20年以上の前史の大半は「日中戦争」のさなかの出来事でしたから、その余韻は戦後に作られた曲にも、換骨奪胎されたとはいえ、その雰囲気や情感は、少なからず影響していたと思う。「夏は来ぬ」の歌詞の一部(「賤の女」が「早乙女」に)が、元歌の作詞家によって替えられたことにぼくは長く異論を持ち続けているのも、同じ理由です。本の歌があって、初めてそれをベースにした曲が生まれるのでしょうが、「お里が知れる」「火の元」は隠せないということはいつだって起こりうるのです。ここでは詳しく述べませんが、唱歌には、特に戦前・戦中・戦後を一貫して「同じ歌詞」でというものがほとんどでしょうが、数ある唱歌の中には、恣意的に(軍国主義を謳歌する・煽るような)、たくさんの「歌詞」が変えられ、何の説明(歴史)もなく、戦後にも歌われて来ました。ぼくの思いからすれば「歴史の改竄(かいざん)」「偽造」でしょう。「知らぬが仏」と謳っていいはずもないと思わないでしょうか。「蛍の光」はその代表格。軍歌を平和の歌に替えるのは、それこそ「歴史の偽造」に他ならないでしょう。

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 以下、少し長くなりますが、ご当地・高知新聞の昨日付記事を引用しておきます。果たして親父はこの歌の経てきた歴史を知っていただろうか、ということがとても気になります。おそらく知らなかったと思うし、そうであれば、それはそれで幸いだった言う気もします。「戦争」というものは、惨(むご)いものだと、死ぬまでぼくは叫ぶでしょう。こんな些細な、一曲の流行歌にまつわる歴史の断片においても、書くべき事柄は膨大です。「埋もれた歌には、埋もれた歴史あり」、そんな主題を若い人たちが掘り起こしてくださるといいんですがねえ。一人でも多くの人が、愚かしい、惨(むご)たらしい「戦争」を考えるためにも、です。(この「南国土佐を…」のように、戦地。戦場で歌われた歌は限りなくあったと思う。姿かたちを変えて、敗戦後にも歌い継がれてきたのは、その中のごくわずかだと思われます。とにかく、「戦争」はいやだな)(このテーマに関してさらに書くべき事柄がありますが、本日はここまでにしておきます)(それにしても、駄文がだんだんと「長く長くなる」のはどうしてでしょうか)

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「南国土佐を後にして」新潟に原作者を名乗る男性が!? 日中戦争の戦地で作る 鯨部隊と同じ望郷の歌【なるほど!こうち取材班】 

 ペギー葉山さんが歌った「南国土佐を後にして」といえば、武政英策さんが採譜し、手を加えて大ヒットした歌謡曲だ。だが、新潟県に、その歌の原作者を名乗る男性がいた。元音楽教諭の故・植木周三さん。生前、「日中戦争中に戦友を癒やそうと作った」と、地元紙の新潟日報に語っていた。原曲は、高知の「鯨部隊」による望郷の歌「南国節」のはずだが…。同紙の協力を得て、「なるほど!こうち取材班」(なるこ取材班)が調べてみました/植木さんは新潟県妙高市出身。地元中学でバイオリンを始め、東京音楽学校(現東京芸大)で学んだ。日中戦争では、新潟出身者の高田歩兵第58連隊に所属し、中国やスマトラ島を転戦。1947年の復員後は、70年まで高校の音楽教諭を務めた。/戦中には戦友を励ます曲や鎮魂曲を作るなどした。スマトラでは地元で手に入れたバイオリンを弾くなどし、新潟では「戦場のバイオリニスト」と呼ばれているという。

 新潟日報に、「南国土佐―」の原作者だと語ったのは戦後50年の95年、87歳の時。日中戦争2年目の38年5月、新城口という集落で「敵の夜襲から身を守るため寝られず、憔悴(しょうすい)する隊員たち」を元気づけようと、即興で作ったという。/題名は「江北陣中の一夜、想(おも)いはめぐる」で、「新城口節(しんじょうこうぶし)」の名で愛唱されるようになったという。/歌は「♪ながらく ごぶさたしましたが うちじゃ かあさん たっしゃでいてか」と始まり、古里の妻子を思う詞などが続く。/95年に、地元ラジオ番組で植木さんがバイオリンで奏でた同曲を聞くと、確かに同じような旋律だった。(左「1995年、自宅で愛用のバイオリンを弾く生前の植木周三さん(新潟日報提供)」)

 「南国土佐―」は、武政さんが戦後、高知の酒場で復員兵が歌っていた南国節を採譜。これを元に、「中支へ来てから幾歳(いくとせ)ぞ」「月の露営でたき火を囲み」などの歌詞を戦時色を消すように変え、前奏や間奏を付けた。/53年、高知の歌手がレコード化した際には、武政さんは補作編曲者を名乗り、わざわざ「原作は鯨部隊の歌」との断り書きも入れている。/曲は58年、NHK高知放送局の開局記念番組でペギーさんが披露し、翌年にはレコード化されて爆発的ヒットとなった。/この時も「原作者」を名乗る元隊員が複数現れ、裁判に発展。かつての上官の仲介で「原作は鯨部隊」で落ち着いた。後に、日本音楽著作権協会(JASRAC)は武政さんを著作権者、作詞作曲者と認めた。

江北陣中の一夜 想いはめぐる(歌詞)

1、ながらく ごぶさたしましたが うちじゃ かあさん たっしゃでいてか たたかい やんで 夕日がおちりゃ くさの根 まくらに 想いはめぐる
2、いななく駒に 夢さまされりゃ 露おく夜空の 星影寒い 昔かあさん 風呂たきながら あれは北斗よ ひときわ 目立つ
3、軍刀握れば かあさん昔 親にてむかぇや 不幸の極み 先祖の墓前に腹かき切れと その太刀 今は 皇国を護る
4、嬢や父さん 名誉の戦士 明日の戦で 帰らぬとても 泣くな かあさんの 云うこときいて 立派な大人になるよぅに祈る 
5、父さん無事でと 朝な夕なに 神に佛に 祈るか妻子 おかげで未まだ 傷さえ負えず 雨の日雪の日 元気でいるよ
6、時は過ぎゆく 時計はきざむ 前進命令 あと きくばくぞ 軍刀引き寄せ 敵空にらみゃ 明けの明星 あの下敵の陣

 植木さんの三女の田中幸子さん(86)=新潟市=は「私が口ずさんだのを聞いて、父は歌の存在を知った。それで『俺の曲に似ているな』と」。/最初は静観していたが、地元の戦友に「なぜ黙っているのか。自分たちが裁判で証言する」と諭され60年、高知へ。武政さんは「私は兵隊が歌っていたのを採譜しただけ。植木さんのものと、私の口からは言えない」と答えたという。/戦後50年(95年6月)、植木さんは新潟日報の取材に、こうした経緯を語り「証拠品もない。金や権利がほしかったわけではない」とする。では、なぜ名乗りを挙げたのか。「戦友の心に生き続けるはずの歌が、戦争に関係のない人(武政氏)の作品になっては、あの戦争は何だったのかということになる」と語っていた。/武政さんは79年、本紙連載で、著作権問題に「へきえきとさせられた」と振り返り、「埋もれようとした歌が私の手で生き返り、土佐の歌として広がれば音楽家の本望」と書き残している。/植木さんの三女、幸子さんは本紙に「父は武政さんを悪く言うつもりはなかった。鎮魂の思いを受け止めてほしいとの気持ちだったと思う」と語り、「『高知の兵隊も曲に望郷の歌詞を乗せた。みんな同じだった』と語っていた」と明かしてくれた。/戦後80年が過ぎた今も、幸子さんは時折、父が作った「新城口節」を口ずさむという。(村瀬佐保)(高知新聞・2026/04/04)

ペギー葉山/南国土佐を後にして:https://www.youtube.com/watch?v=sMrd02ncmOY)                                         (⁂ よさこいと兵隊 兵隊ソングを歌う緑咲香澄)https://www.youtube.com/watch?v=NIU_1hMK9XE)                                      (⁂ FORESTA : 南国土佐を後にして:https://www.youtube.com/watch?v=DK_3__Rjxdw&list=RDDK_3__Rjxdw&start_radio=1

 (余計なことを FORESTA(フォレスタ)のみなさんは、この歌が、はじめに、どこで、誰によって歌われ、どのようにして歌い継がれ、そしてペギー葉山さんのところにバトンが届いたということをご存じでしょうか。ご当人たちに窺わないとわからないことですが、もしその「前史」を知らないままで歌っておられたなら、いろいろな意味で、ぼくにはとても残酷な行い(仕打ち)だと思われてきます。気の毒というか、可愛そうというか。もちろん、知っておられたとぼくは思って聞きますが、それにしても、こんなに美しく・清潔に歌っていいんですかと、ぼくは尋ねてみたいですね。いずれにしても、歴史(物事の成り立ち)を知ると知らないでは大違いだということです。この社会の「学校教育」は自らの歴史を粗末にしすぎていませんかと、ぼくは溜め息をつく。歴史忘れと歴史の捏造は、怖いですね)

◎ ペギー葉山 (1933-2017) 昭和後期-平成時代の歌手。昭和8年12月9日生まれ。昭和26年ジャズバンド渡辺弘とスターダスターズの専属歌手となり,翌年「ドミノ」でレコードデビュー。34年NHK高知放送局の開局記念でうたった「南国土佐を後にして」が大ヒット。以後「学生時代」「ドレミの歌」「ラ・ノビア」などをヒットさせる。平成5年芸術選奨文部大臣賞。19年日本歌手協会会長。夫は俳優根上淳本名森不二夫)。東京出身。青山学院女子高等部卒。本名は森シゲ子。(デジタル版日本人名事典+Plus)

◎ 吉田正 [生]1921.1.20. 茨城,日立 [没]1998.6.10. 東京 作曲家。日立工業専修学校卒。1942年徴兵され中国東北部へ行き,演習中に『昨日も今日も』を作詞・作曲した。戦後シベリアに抑留され 1948年帰国。『昨日も今日も』に別の詞がついて,自分の帰国より前に『異国の丘』となって流行していたことを知る。この作曲者として認定され,1949年ビクター専属の作曲家となる。以後 1958年『有楽町で逢いましょう』,1960年『潮来笠(いたこがさ)』,1962年『いつでも夢を』など数多くの流行歌を生んだ。また「吉田学校」といわれるほど多くのすぐれた新人を育てた。生涯を通じて 2000曲以上の作品を残した。日本作曲家協会会長,日本音楽著作権協会会長をつとめ,1982年には紫綬褒章を受章。没後,国民栄誉賞が贈られた。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 上の高知新聞の記事のもとになった新潟日報の記事です。あわせて一読していただきたいと、煩をいとわず引用しました。 

[戦後80年]音楽は敵味方なく人をつなぐ…戦場のバイオリニスト・故植木周三さん(妙高市出身)、波瀾万丈の人生とは 戦時中、戦場でバイオリンを奏で、部隊を励ました異色の兵士がいた。妙高市出身で1995年に亡くなった植木周三さん。終戦後の捕虜生活では演奏を通じて米軍と交流し、復員後は音楽教師として子どもたちを教え、希望を与えた。「音楽は敵味方なく人と人をつなぐ力がある」と語り、戦争の愚かさを伝えた。/1908年に中頸城郡和田村(現上越市、妙高市)に生まれた。旧制高田中学校(現高田高校)在学時にバイオリンに興味を持ち、辞書を買うためにもらったお金で購入。父親は怒らず支援した。/練習に打ち込み、「『カラスの鳴かない日はあっても、植木のバイオリンを聞かない日はない』と言われたそうです」と、三女の田中幸子さん(85)=新潟市西区=は話す。卒業後、高田師範学校を3カ月で辞め、東京音楽学校(現東京芸術大)を受け直して入学した。/在学中に20歳となり、幹部候補生として陸軍に入隊。36年2月26日、陸軍青年将校たちのクーデター「2・26事件」が起きると、鎮圧のため、高田駅から列車で東京へと派遣された。/戦地でも、音楽を愛する気持ちを忘れなかった。日中戦争が始まった後の38年5月、高田58連隊所属として転戦した中国国内で、露営していたときに即興で曲を披露した。「敵の夜襲から身を守るため寝られず、憔悴(しょうすい)する隊員たちを元気づけたかった」という。(左写真「陸軍に所属していたころの植木周三さん」)

「江北陣中の一夜、想いはめぐる」と題した歌は、「新城口節」の名で仲間たちに歌い継がれた。戦後、ジャズ調に編曲され、「南国土佐を後にして」という曲で大ヒット。植木さんは後に原作者だと明かした。/スマトラ島パレンバンで終戦を迎えた。現地で捕虜生活を送っていた46年10月、亡くなった戦友の冥福を祈る曲「ムシ河畔の追悼」を作った。野戦病院裏の墓地で追悼式を行い、バイオリンを演奏した。植木さんの手記によると、通りかかった米軍100人が行進を止め、敬礼で見守ったという。米軍のパーティーにも呼ばれ、演奏した。/47年2月の復員後は、母校の高田高校に着任。教師が少なく、4校を掛け持ちした。高田高校は県内でも珍しい管弦楽部があり、植木さんの足跡の一つだ。

(右上写真)「植木周三氏のバイオリン 明日からの企画展を前に、三女の幸子さんが当館へ持ってきてくださいました。 戦地で作曲した曲の楽譜が見つかったとのことで、貴重なお話を聞かせていただいた上で解説パネルを付けて展示します」(新潟県立博物館・2020/06/26)(https://nbz.or.jp/?p=23981

 音楽への強い情熱と、決して叱らない優しい人柄で親しまれた。教頭として異動することが決まると、部活の教え子たちが自宅に押しかけて「とどまってほしい」と号泣。思いを聞き入れ、異動を返上した。/植木さんは生前、「人と人、国と国が話し合えば戦争は起こらない」「戦争で残るのは家族の悲しみだけ。音楽があったからこそ人間として一番大切な思いやりや感謝の心を失わなかった」と話していたという。/植木さんは95年10月に87歳で亡くなった。バイオリンは三女の田中さんが大切に保管している。「技術を教え、人間愛を伝えた。いろんな人と絆をつくり、波瀾(はらん)万丈の人生だった」と懐かしむ。(新潟日報・2025/09/10)

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もうすぐ みんなは いちねんせい

 新しい年度が始まりました。いろいろな意味で、「門出(departure)」を果たした人たちが、それこそ不安と期待の混合(mixture)した時間を過ごし始めたといえそうです。この区切りは「新年(元日)」とは違った意味合いで、それぞれの気分を新たにしてくれる扇風機の風みたいな働きを持っているでしょうか。もっと深掘りすれば、ぼくたちは毎日毎日が「人生初体験」「未知への船出」でもあるのですから、一日一日が「昨日の続き」であると同時に「明日への出立」でもあるということになりませんか。ぼくが若いころに熟読した、フランスの高校((lycée・リセ)教師だった哲学者は、常に若者に向かって「人生は朝から始まる(La vie commence le matin.)」と言い聞かせていた。それこそが、彼自身の人生を受け止める態度(思想)だったと、ぼくは思っていました。

 この人自身が高校生の頃、大変な人物に出会っています。ジュール・ラニョーという教師(哲学者)(左写真)でした。このことについてはどこかで触れています。若い時に、こんな人と出会うと、おそらくその後の人生は、いやでも変わるだろうというべきか、驚くほどの強靭さをもって生きられるのかもしれません。彼は、その教師を「野人」と称したほどです。どういう意味だったでしょうか。このことについてもいくつもの逸話が、当時の生徒たちによって残されています。たぶん、自由に生きている人(「Qui vit en liberté dans la nature.)だったでしょう。高校生にとって、この教師は「一人の大人、驚くべき存在(Un adulte, une existence étonnante.)」と映ったはずです。

 また、この高校生(生徒)だった人は、この教師に向かって、これまでに出逢った、たった一人の「偉人(Un grand homme)」だったとも偲んでいます。若い高校生たちは競って「偉人」に似せようと、その口振り、あるいは身なり、たばこの吸い方などまでも「模倣」したとも語られています。ぼくは「教師」は、子どもたちにとって「偉大な大人」であってほしい、「自由な精神の具現」であったらなあと、どれほど願っていたことでしょう。それは子どもにとって「模倣」すべき存在ではなく、「典型(ひきつけられてしまう」となるように存在だったと思う。

 もちろん、ぼくは自身はいつも白状するように「教師」ではなく、「教師のなりこそない」「教師紛い」でありましたから、はるかに離れて、このラニョーという一現象の出現とその痕跡をなぞることしかできませんでした。

◎ ジュール・ラニョー(Jules Lagneau, 1851年8月8日 – 1894年4月22日)は、フランスの教育者、哲学者。ジュール・ラニョーは生涯をリセの一教師として過ごし一冊の著作もあらわさなかった。その哲学が世に知られたのはラニョーの死から30年後、教え子たちが、ラニョーの授業を書きとめたノートを印刷・出版したことによる。/「ジュール・ラニョーは私が出会ったただ一人の”偉人”だった」とラニョーの生徒だったアランは書き、自らをラニョーの「忠実な弟子」と公言している。 アンリ4世校でベルクソンの教えを受けた批評家アルベール・チボーデはラニョーを「若者たちの師、ソクラテスの後継者としてはベルクソンの上に位置する人」と評した。 フランス哲学史の専門家はラニョーの哲学を”フランス反省哲学”と呼ばれる思潮の出発点に位置づけている(以下略)。(Wikipedia)

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 昨日の好天とは打って変わって、雨が降り出しています。(ただ今、午前7時過ぎたところ)本日はコラム2題です。「いばらき春秋」は、もちろん毎日読みます。そして感心するのは、決して「大言壮語」はしない、「地元愛の強さが程よい加減」である、そして「あまり批判や非難を公言・広言しない」という、ぼくの趣味にかなうとはとても思われない、ある種の「品性」「分際」を保っているのがいいですね。(ぼくの見立て違い、「誤読」なのかもしれませんが。ネット欄の並びでいえば、そのすぐ前に「産経抄」がありますから、それとの比較が働いているかも、ね)

 コラムの入り口は「優しいピンク色のスイートピー」でした。「門出」が花ことばだとあります。「門出」という言葉の語感はいいですね。主な含意は以下の通りです。「かど‐で【門出/首途】=[名](スル)1 旅などのために、自分の家を出発すること。出立(しゅったつ)。2 新しい生活を始めること。3 旅に出る前に、吉日を選んで、仮に家を出て近くに移ること。[補説]1・3は「かどいで」とも言った」(デジタル大辞泉)まさしく、四月はいたるところで「門出」が見られるでしょう。松田聖子さんは「春色の電車に乗って 海に連れていってよ」と謳いました。その時も「赤いスイートピー」でしたね。

 ところが、「門出」を果たさないで残る人も同じ数だけいることになりますから、出る方、残る方の両者に「異常」をきたす恐れが心配されるというのがコラムの趣旨でした。出ていく子どもたちを見送る親に「空(から)の巣症候群」が発症するという。余計な病症を見出すとは、医者も罪作りな、と思う。「症状は不安や孤独感に加え、睡眠障害や食欲不振などさまざま。適応障害やうつ病の発症例も報告されている」のが事実だというのですから、もう一度学校に行ったらどうですと、子離れのできない親たちに進言したいですね。親子も夫婦も、あまりにもくっつきすぎるから、離れると、片身が剥される思いに襲われるとするなら、困ったことですが、もう一度、人生のやり直しをしなければ。

 本当にこのような状況がこの社会で生まれているというのですから、いろいろな意味で、学校も含めて「前途多難」が危惧される。どうしてこんなに「優しい(「女々しい」は男社会の作った表現)大人たち」の住む社会になってしまったのか。こちらに問題がありそうです。「子どものままで大人になった」ということでしょうか。文字通りに「優しさという病」ですね。自立も孤立もしていない証拠です。「生活の主軸を子どもから自分へ移し、再び羽を広げる人にも春はよく似合う」という、実に「優しいこと」をいうところに、茨城新聞コラム氏の優しさ、いや、物足りなさでもありますが、それをぼくは痛感します。こんなことでどうすると、「喝」を入れるときでしょうに。

【いばらき春秋】先日、ホームセンターの生花コーナーに立ち寄ったところ、優しいピンク色のスイートピーが目に留まった。販売のピークは2~3月だが、自然栽培では4~6月が旬である。春にふさわしく、門出という花言葉がある▼新年度となり、就職や進学で自宅を離れた人も多かろう。新社会人はすでに第一歩を踏み出し、入学式を迎えた学生は期待と不安が交錯している頃だろう▼若者たちが未来へ向かって歩み始める姿を見るのは喜ばしい。ところが、子どもを送り出した親はこの時期、子育てのやりがいや目標を失って寂しさやむなしさを覚える「空(から)の巣症候群」に陥る人が少なくないという▼症状は不安や孤独感に加え、睡眠障害や食欲不振などさまざま。適応障害やうつ病の発症例も報告されている▼歓迎すべき子どもの自立をきっかけに親の心身に不調が生じるとは何とも皮肉な話ではあるが、子育て以外の目標や趣味を持ったり、友人とのコミュニケーションを増やしたりすることで予防できるらしい▼門出という花言葉は、今にも羽ばたきそうな蝶(ちょう)に似た花びらの形が由来。ただ、羽ばたくのは子どもだけではあるまい。生活の主軸を子どもから自分へ移し、再び羽を広げる人にも春はよく似合う。(平)(茨城新聞・2026/04/04)

 (蛇足 「空(から)の巣症候群」だと診断されそうな親御さんに、ぼくは「一年生になったら」を贈りますね。そして「人生は朝から始まる」というどなたかの箴言をも、あわせて進呈てしたい。

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 二つ目は「夕歩道」(中日新聞)です。偶然ですね。ぼくは昨日「二十四の瞳」に触れました。若い教師が十二人の子どもたちの中に飛び込んだ、そんな記念の日(本日が)だったとあります。それは、若い高峰秀子さんの、映画とはいえ、あるいは「典型」になるかもしれない教師像を描こうとしたものでした。昨日も触れましたが、この映画に影響されて教師の道に踏み出した若い人々(映画公開当時)を、ぼくはたくさん知っていました。そういうぼくもその一人だった、途中で挫折はしましたが。「一年生になったら」の作詞者、まどみちおさん、「温かな詩人はその子も自分と同じで小心で臆病なのかもと思いやったと」言われていたとか。「百人なんて無理だよな」と、多くの人は思うでしょう。でも「願い」や「夢」は大きい方がいい。「ひゃくにんで たべたいな ふじさんのうえで おにぎりを」誰が言ったのか、「大きい嘘はついてもいい」(端(はな)からバレているから)、でも「小さな嘘はつくな」、本当(事実」と紛らわしすぎるから、と。それがために、政治家にはなりたくないと思い続けてきたものです。もちろん、まどさんは「一年生に嘘を、大きい嘘をつけ」といったのではない。余りにも大きすぎて「嘘」にならなかったか。

 そして、「夕歩道」氏のよくないところは、いきなりこんな場所に吉本さんを持ち出すことでしたね。「でも友達100人できなくても大丈夫。評論家の吉本隆明さんはほとんどの人(大人)は本当は友達ゼロだと看破した」というのですが、それって本当ですか、吉本さん、コラム氏さん。ニーチェという狂気の哲学者は「誰だって、誰かの先生になれる(先生である)」と断言しました。その顰(ひそみ)に倣うなら、誰にも一人や二人の友だちはできる。もちろん、「友だちは人間に限る」ものではないんですからね。

【夕歩道】
 教員不足が叫ばれる中、子どもの未来を預かろうと学校に加わる新任の先生と新しく校門をくぐる子どもたちの春。あす4日は小説「二十四の瞳」で若い女性教師が瀬戸内海の村に赴任する日だ。
 童謡「一年生になったら」は約60年前、当時50歳台のまど・みちおさんが書いた。おとなしそうな子と出会い、100人も友達をつくって大笑いする内容で励まし元気づけようと作詞したという。
 温かな詩人はその子も自分と同じで小心で臆病なのかもと思いやったとか。でも友達100人できなくても大丈夫。評論家の吉本隆明さんはほとんどの人(大人)は本当は友達ゼロだと看破した。(中日新聞・2026/04/03)

                                                               ◎ 一年生になったら= 日本の唱歌の題名。作詞:まどみちお(1909~2014)、作曲:山本直純(1932~2002)。(デジタル大辞泉)

◎ 思い出のアルバム 日本の唱歌の題名。作詞:増子とし(1908~1997)、作曲:本多鉄麿(1905~1966)。デジタル大辞泉)

 どういうわけですか、ぼくは「思い出のアルバム」という童謡が好きでした。作詞の増子さん(キリスト教徒)も、作曲の本多さん(仏教徒)も、ともに保育園と幼稚園の園長さんでした。だからというわけでもないでしょうが、歌詞が無理がなく、自然体で、園の日常が描かれていてとてもいいですね。現場の息吹が伝わるような、「もうすぐ みんなは いちねんせい」でしたね。初出は1961年とされますから(ぼくは保育園も幼稚園も行っておりませんので)、この歌は全く知らなかった。たぶん娘(双子)たちの幼稚園時代に歌うようになったものでしょう。いろんなことがあったね、あんなことこんなこと、いつになっても忘れない。そして、ぼくの気持ちは、「もうすぐきみは一年生」というものです。いつだって、今日を生きるという意味では「ぼくらは みんな いちねんせい」なんですね。友だちなんかできなくてもいいさ、嘘をついたり意地悪しない、それだけでも大変なことだけれど、そういう生き方をしてみたい、ちょっとでも困っている人がいたら、できる範囲で、手も肩も貸してあげたいと、固く誓っていまもなお、毎日「通学路」を一人で歩いています。人間の友だちはいないかもしれないけれど、猫の友だちなら、数えきれないくらいいるんだ。

⁂ 思い出のアルバムhttps://www.youtube.com/watch?v=DP68_ZaB5BE&list=RDDP68_ZaB5BE&start_radio=1

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