「先国後民」イデオロギーの羅列

 昨日は「昭和の日」だったそうです。昔もそうでしたが、ぼくには休日も週日もなかった。土曜・日曜日ではなく、所謂「休日」「祭日」を確かめないで学校に出かけたことが何度かある。勤め人時代がそうでしたから、隠退生活に入ってからは、それでも、曜日や日時の感覚はまだありますが、いわば「毎日が日曜日」のようでもありますから、今日やらねばならない仕事などあるはずもなく、それこそ、日常の明け暮れは「日の出から日没まで」という単位で回転しているようなものです。

 今は「大型連休」の最中だという。ぼくにはかかわりのないこと、いつも通りに早朝(午前2時、3時)に起きて、日がな一日、猫と戯れるだけとは言わないが、ようやく息をしているだけ、そんな生活を重ねているのです。昨日も、夕方にネットを見て、「本日は昭和の日」と気が付いたほどで、「昭和100年記念式典」なる、陳腐・旧套というほかないような「儀式」をネットで見てしまいました。見る(聞く)のも苦痛でしたが、それこそ我慢して首相の「式辞」を見聞しました。想像を絶する酷さで、まるで災害級だった、ぼくには。内容浅薄などといっていられないほどの空無だったと思う。(全文は官邸のHPに出ています》もともと、彼女は「歴史音痴」というのか、歴史嫌いというべきか、自身の過去からすらも学んでこなかったと思われるような、まれにみる人物です。これもどこかで駄弁ったが、この人は、きっと「日米戦争」があったなどとは思いもよらないで生きてきた、「迂闊の人」なのでしょう。観念上で「政治」をしたつもりになっているんですね。こんな手合いが「権力」を持つと、実に乱暴に行使するに決まっている。包丁を持つと振り回すような。

 「私は、日本と日本人の底力を信じてやみません。日本の誇るべき国柄を、未来を担う次の世代へとしっかりと引き継いでいく」と空々しく・白々しく語る(騙る)。「昭和は、戦争、終戦、復興、高度経済成長といった、未曽有(みぞう)の変革を経験した時代でした」というのが、彼女の「昭和100年」観でした。満州事変以来の「十五年戦争」で、国内外に二千数百万人の犠牲者が出たことには一語も触れません。(それにしても、あの「気味の悪い微笑(媚笑)」、とても背筋が寒くなった。醜悪だと思う)近隣諸国がこの「式辞」を知れば、どう思うでしょうか。この人は歴史を観念として、あるいは「物語(作り話)」としてしか理解できない稀有な人物なのだと思う。これが日本(二ホン)の総理大臣だというのですから、この国は「ちんけ」な、つまらぬ国とみられても致し方ないでしょう。

 はっきり言って、時代が時代ならば、生身の「天皇」を前にしては、きっと「不敬罪」に当たる振る舞いと非難されたはずです。(「不敬罪」とは「天皇および皇族・神宮・皇陵に対して不敬の行為をする罪。昭和22年(1947)刑法改正で廃止」・デジタル大辞泉) (「親米右翼」でありつつ、「天皇」に対する不敬行為を働くとは、どういうことだろうか)そんな人物が「国旗損壊罪」を云々するんですから、首相が総裁をしている政党もまた、政党の体をなしていないんじゃないでしょうか。

 「ちんけ」とは「[名・形動]《さいころばくちで「ちん」が一を意味するところから》劣っていること。最低であること。また、そのさま。「―なやつ」》(デジタル大辞泉)もちろん「式典」ですから、内容はいりませんとはいかない、ひたすら「厳粛」であればいいというものでもないでしょう。でも、昨日は「厳粛」の雰囲気など、どこに吹く風か、というほどの不始末・不首尾な「式典」でした。まさに「首相主催の昭和カラオケ大会」だった。恥ずかしいという感覚も観念も持ち合わせていない御仁だと、改めて確認した次第。この連中に付き合わされた天皇ご夫妻の「ご感想」を賜りたいものですね。「最高」と言われるか、「最低」と言われるか。「別に~」とスルーされるか。

 「国あって、民なし」という、まるで「戦時」みたいな「国柄」そのものでしたね、首相の「式辞」は。                                                  *「国柄=国家の成り立ち。国の状態。(デジタル大辞泉)

 「式辞」を含めて、式典を台無しにした「衆・参議長」と「首相」たちの能天気ぶり、「昭和100年」が泣くというもので、まさに聞きしに勝る「劣悪さ」だったし、不真面目極まるものだったことは、琉球新報の「社説」が適切かつ的を外さない批判で指摘されている通りだと思う。「日本国(にっぽんこく)」は何よりも強くなければならぬ、そのためには「日本人(にほんじん)」はまるで眼中にないと思わせるような主張で、首相には「観念のお化け」が憑依しているようでもありましたね。(*「憑依=霊などがのりうつること」(デジタル大辞泉)(右写真は四万十川の風景)

 (ヘッダー写真:「広島市民奉迎式場で市民の歓迎に帽子を振って応える昭和天皇。右奥に「原爆ドーム」が見える=1947年12月7日」論座・https://webronza.asahi.com/culture/articles/2019021800006.html

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 どうしてもここでぼくが触れたかったのは、「式典」の不首尾などではありません。高知新聞の「小社会」というコラムの記事にある「千代さん」のことでした。文字通りに、「ここに人(人生)あり」「ここに歴史あり」というほかないものだったと、ぼくは、このコラムを読めたことを感謝しているのです。極めてまれではあっても、このような「コラム」に出逢うと、うれしくなって、また読もうという気になりますね。余計なことは言わないでおく、繰り返し読まれることをお勧めしたい。

 いかなる人の「人生」も、そのほとんどは「栄耀栄華」に溢れるものでもなければ、絢爛かつ名誉に恵まれるものでないのは、どなたも承知の通りです。他者に知られるところ少なく、あるいは苦しいことばかりと嘆きたくなることも多い、驚くほど地味な生活のくり返し、そんなものでしょう。だからこそ、ささやかな仕合わせや喜びに恵まれて、また、元気に生きていこうかという「ハリ」も出るのでしょう。

 ぼくには、人が日々を額に汗して生きる「人生」というものが「千代さん」のように、偶然を必然にしてしまう、いかなる状況をも肯定する、そんな生き方に表れるのだなあ、と深く心を動かされました。派手でもなく、他人からちやほやされるのでもなく、しかし、どこにいても兄弟姉妹5人で暮らしていくことができる「世間」「地域」「人情」が、きっとあったということ、それは大変な巡りあわせだったでしょう。おそらく、人生を嘆き、あるいは否定したくなることもあったかもしれません。しかし「渡る世間は鬼ばかり」ではないと思えばこそ、「幸せやったよ」と口にすることができたのだと思います。

【小社会】メダルの輝き 昭和前期生まれの半生を聞いてみたい。近しい人でも案外知らないものだ。筆者もお一人訪ねた。幡多地方に暮らす千代さん。生まれは高知市。親の名も顔も知らずに育つ、なぞだらけの人生。◆昭和27年の本紙に「千代ちゃん」の記事がある。当時4歳。当時の介良村で、きょうだい5人だけで暮らしていた。戦地帰りの父は肺病で他界、重病の母も家の床で死ぬ。中学生の兄らが新聞配達で稼ぎ、雑炊でしのぐ。写真も目を引く報道は反響を呼び、きょうだいは高知市の親戚の元へ。ただ千代ちゃんだけは、県西部にもらわれた。◆続報に「千代ちゃんに春の喜び」とある。が、実はそうでもなかった。引き取り手の家を転々とした。桶(おけ)に閉じ込められた記憶もある。◆名字は4回変わった。4番目の家で、優しい育ての両親と出会う。山岳信仰の寺のご住職だった。「千代が15歳になったら捜しちゃる、兄ちゃんたちを」と約束した父は、本当に自力で捜し当てた。人里離れた山房で、兄、姉と再会を果たす。「私は、わんわん泣いた」。◆高知市に出て働き、姉と暮らし、幡多に戻って結婚。子供3人に恵まれた。「幸せやったよ」と千代さん。「でも20歳の次男を、交通事故で亡くした」。語ると涙をこぼす。◆生涯を捧(ささ)げたのは、美容師の仕事。働きづめで、過疎地の暮らしも支えた。きょうは「昭和の日」。昭和から今も使うはさみは研磨を重ね、メダルのような輝きだ。(高知新聞・2026/04/29)

 このコラムは最近読んだ中でも、少し言いすぎ、誉めすぎですが、「秀逸」だったと思う。記者の筆力という以上に「千代さん」の人生に対する思いの深さ・真摯さが、読む人間を捉えてはなさない、そんな牽引(けんいん)力があったと、ぼくは読んでいて、実感したのです。繰り返し読んでは、そのたびに、頭が深く下がってしまう。おそらく、まだご健在なのでしょう。ぼくより三~四歳ほどお若い人でしょう。こんな人生をこそ、ぼくは求めていたのだ、とつくずく思い当たっている。

 人はいかなる人生を歩むのか、あらかじめわかるものではないでしょう。 「千代さん」は「名字は4回変わった」とあります。4番目の家では、おそらく「地獄に仏」だったでしょうか。引き取られたのはお寺の住職の家だったという。「捨てる神あれば拾う神あり」とも言いますが、そこまで生きながらえて、けっして「人生を投げなかった」、彼女の強さはどこから生まれるのでしょうか。「千代が15歳になったら捜しちゃる、兄ちゃんたちを」といった住職。そして実際に別離の淵にあった兄たちとの再会がが果たせたというのです。ここに、ぼくは人が人に出逢う、その典型的な一例を見る思いがします。「千代さん」のことを指すのではないと断ったうえで、ぼくは「名もなく、貧しく、美しく」という「生き方の流儀」に、いまさらのように教えられ、かつは憧れてもいるのです。

 「泪より少し冷たきヒヤシンス」~ どこかで触れた「疾走する悲しみ」(モーツアルトの音楽を評した音楽学者・アインシュタインの言葉)を、ぼくは想起しながらこの部分を書いています。悲しみという情念は、しかし、いつだって疾走しているようで、泣いて溜まるか、泣いてばかりいて溜まるかと言わぬばかりに、人を振るい立たせてもくれるのでしょう。「千代さん」の生き方の流儀を思いつつ、理由もなく、ヒヤシンスの清楚を感じてしまいました。(夏井いつきさんの句は、思いのほか大きな力深い影響力を持ったんですね。作者冥利に尽きるのではないかと思うよ同時に、それほどの句の力を引き出される読者がいることの幸運を思うべきですね)

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 《両陛下、昭和100年式典に出席 東京 天皇、皇后両陛下は29日、東京都千代田区の日本武道館で行われた政府主催の昭和100年記念式典に出席された。 式では高市早苗首相ら三権の長があいさつ。続いて海上自衛隊東京音楽隊が「上を向いて歩こう」「なごり雪」「Get Wild」など昭和の名曲計6曲を演奏・歌唱し、両陛下は笑顔で拍手を送った。  1968年10月の明治100年記念式典も日本武道館で開催され、昭和天皇と香淳皇后が出席。昭和天皇は「わが国が近代国家として目覚ましい発展を遂げ、本日の記念式典を迎えたことは、誠に喜びに堪えません」などと述べた。  今回の式典で天皇陛下の「お言葉」がなかったことについて、宮内庁は「政府の考え方に基づいた」(黒田武一郎長官)としている。》(右写真《「昭和100年記念式典」で海上自衛隊東京音楽隊による演奏と歌唱が終わり、拍手される天皇、皇后両陛下=29日午後、東京都千代田区の日本武道館(代表撮影)》(時事通信・2026/04/29)

(参考資料)
<社説>昭和100年式典 過去学ばねば未来描けぬ 政府は昭和改元100年にあわせて「昭和100年記念式典」を開催した。高市早苗首相は「激動の昭和」を乗り越えてきた先人に学び、挑戦によって未来を切り開く姿勢を国民に求めた。
 物価高や不安定な世界情勢の中で希望を見いだそうと鼓舞する意図が伝わるが、激動の起因となった昭和前半の「戦争の20年」に対する政府の見解はうかがえない。国民を戦禍に導き、アジア太平洋の国々に苦難を強いたことへの反省が欠落しているのだ。何のための式典だったのか。過去に学ぶ姿勢がなければ未来を描くこともできないことを知るべきである
 なぜ「昭和100年」なのか。1926年12月、天皇の代替わりに伴い、元号が昭和に改まった。昭和天皇の誕生日に天皇皇后両陛下を招いて式典を開き、昭和の歌謡曲を流して歴史を回顧した。首相あいさつも含め、式典は皇室の存在と分かち難い内容となった。昭和史と天皇制の関わりも改めて問われよう。
 昭和は64年で平成に改元した。前半3分の1は戦争の年月だった。1931年の満州事変に始まり、37年の盧溝橋事件を機に中国戦線が拡大、41年の対米英開戦で太平洋戦争へと突き進んでいった。
 高市氏はあいさつで、昭和を「戦争、終戦、復興、高度経済成長といった未(み)曾(ぞ)有(う)の変革を経験した時代」と振り返った。その上で「先の大戦の後、昭和天皇は全国各地を巡幸され、戦没者、戦争犠牲者のご遺族をいたわり、戦後復興にいそしむ国民を励ました」と述べた。
 これらの発言からは軍の暴走を許し、国を挙げて戦争にのめり込んだことの歴史的認識は希薄だ。過去の過ちを忘却し、歴史を肯定的に印象づける姿勢に固執するならば、再び国を誤った方向に導きかねない。
 過去の栄光を言い並べ、「誇り」と「挑戦」を強調し、ある種の「強さ」への憧(どう)憬(けい)を国民に促すような態度は、武力に象徴される「強さ」への依存に結びつく。それが安保関連3文書の改定や殺傷武器輸出の解禁、憲法改正につながっていないか。
 高市氏は「世界から頼りにされる日本」であることを希求した。ならば、アジア太平洋諸国に対する加害の歴史を直視すべきだ。そうでなければ他国の信頼は得られまい。
 昭和27年に当たる1952年のサンフランシスコ講和条約発効で日本は独立を回復した。政府は2013年に「主権回復」を祝う式典を挙行したが、同条約で切り離され米統治下に置かれた沖縄や奄美、小笠原への視点がないと沖縄から強い反発が起きた。
 今回の記念式典でも沖縄を米統治に委ねたことへの言及がない。分断の歴史を強いることで高度経済成長を成し遂げてきた「昭和」の歴史の裏面から目を背けてよいのか。歴史を見つめ、真摯に学ぶ姿勢を強く求めたい。(琉球新報・2026/04/30)                                                                      
(参考資料) 
令和8年4月29日、天皇皇后両陛下御臨席の下、高市総理は、都内で開催された昭和100年記念式典に出席しました。
 総理は、式辞で次のように述べました。
「本日、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、各界多数の方々の御参列を得て、『昭和100年記念式典』を挙行いたしますことは、誠に喜びにたえません。本日の式典に、御協力をいただいた関係者の皆様、御参加をくださいました皆様に、心より御礼を申し上げます。
 私は、日本と日本人の底力を信じてやみません。日本の誇るべき国柄を、未来を担う次の世代へとしっかりと引き継いでいく。私たちには、その大きな責任があります。今日この日を、昭和の時代を顧み、我が国の伝統や歴史の重みを噛みしめながら、将来に思いを致す機会としたいと思います。
 昭和は、戦争、終戦、復興、高度経済成長といった、未曽有(みぞう)の変革を経験した時代でした。先の大戦の後、昭和天皇は、全国各地を巡幸され、戦没者・戦争犠牲者の御遺族をいたわり、戦後復興に勤しむ国民の皆様を励まされました。
 日本人は歯を食いしばって働きました。『もはや戦後ではない』、1956年。先人たちは、終戦から僅か10年で、日本経済を再び立ち上がらせました。その後、果敢な挑戦により、我が国の経済規模は世界2位にまで駆け上がっていきます。
 『霧は晴れ 国連の塔は 輝きて 高くかかげし 日の丸の旗』、同じ年、日本は国連に加盟します。重光葵(まもる)外務大臣は、ニューヨークで高らかに詠い上げています。国際社会への復帰は、日本の悲願でした。その年、イタリア・コルティナで、スキーの猪谷(いがや)千春選手が、冬季五輪で日本人初のメダルを獲得します。日本人がいない米国の大学に留学し、スキーと勉学の両立に励んだ上での快挙でした。日本中が歓喜に沸きました。
 今日より明日はよくなる。70年前の昭和の日本には、希望が、確かにありました。
 令和の現在、日本と世界は大きな変化を迎えています。日本においては、静かな有事とも言うべき少子化・人口減少の進行、長期にわたるデフレから一転しての物価高、潜在成長率の低迷、戦後最も厳しく複雑な安全保障環境。そして、世界を見渡せば、国家間の競争が激化・複雑化・常態化し、私たちが慣れ親しんできた自由で開かれた安定的な国際秩序は大きく揺らぎ、政治・経済の不確実性が高まっています。  
今こそ、激動の昭和を生き、先の大戦や幾多の災害を乗り越え、希望を紡ぎ出した先人たちに学び、私たちも果敢に挑戦していく必要があるのではないでしょうか。
 全国各地で、昭和100年関連行事が実施されています。昭和の躍動や体験を発掘し、次世代に伝承していく取組や、昭和の挑戦を振り返り、未来を切り拓(ひら)いていくための企画展示などが展開されています。これらが、特に、若い世代の方々に先人たちの叡智(えいち)や努力を知り、これからの挑戦のきっかけとなることを願っています。挑戦しない国に未来はありません。守るだけの政治に「希望」は生まれません。
 本日の式典には、ボーイスカウトやガールスカウトで活動している青少年、世界青年の船や東南アジア青年の船に参加した青年など、次代を担う若者たちが参列しています。今年初めて投票してくださった18歳の若者も、生まれたばかりの赤ちゃんも、その多くが、22世紀を迎えることができるでしょう。その時に、日本が安全で豊かであるように。『インド太平洋の輝く灯台』として、自由と民主主義の国として、世界から頼りにされる日本であるように。若者たちが、日本に生まれたことに誇りを感じ、『未来は明るい』と自信を持って言える。そうした国を創り上げていく。『日本列島を、強く豊かに。』日本に希望を生み出していくことを、改めてここに決意いたします。」

令和8年4月29日
内閣総理大臣 高市 早苗  (https://www.kantei.go.jp/jp/105/actions/202604/29showa100shikiten.html)

 (首相は「日本(にっぽん)」を連呼されていた。まるで選挙演説のように。それを聞きながら(見ながら)、この人の意識の中には、少なくとも八十年を過ぎた、敗戦後の「日本(にほん)」は存在していないことをぼくは確信しました。「大日本帝国(ダイニッポンテイコク)」こそが、彼女の「幻想の故郷」であって、それは紛れもなく「観念の化け物」なのだと。ぼくは、少なくとも「物語(造られた歴史)」の中の「大日本臣民(国民」」でありたくないと、とても強く実感したのです)

* だいにっぽん‐ていこく【大日本帝国】旧憲法での日本の正式な国号。だいにほんていこく。[初出の実例]「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」(出典:大日本帝国憲法(明治二二年)(1889)一条))(精選版日本国語大辞典)

* ばんせい‐いっけい【万世一系】=〘 名詞 〙 天子の血統が永遠にわたって、かわらず続くこと。(同上)

てんのう‐せいテンワウ【天皇制】=〘 名詞 〙 天皇が君主となっている統治体制。特に大日本帝国憲法下の政治体制をいう。また、現憲法下における国の象徴としての天皇の制度を天皇制と呼ぶこともある。(同上)

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安息・Rest in peace・Ruhe in Frieden

 【夕歩道】
 米従軍カメラマンだったジョー・オダネルさんに「焼き場に立つ少年」というすさまじい一枚がある。81年前、被爆後の死体が焼かれている長崎。10歳ぐらいの子の口を固く結んだ直立不動の姿。
 「小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた」(「トランクの中の日本」)。弟は眠るような姿で死んでいた。
 核兵器廃絶を願った前ローマ教皇は9年前、「戦争がもたらすもの」として少年の写真を世界に広めるよう指示した。オダネルさんも広島・長崎の放射線の後遺症に苦しんだ。もう核兵器やめろ。(中日新聞・2026/04/28)

 ぼくはこの「焼き場に立つ少年」の写真をいつどこで見たか、悲しいかな記憶が曖昧になっています。今では教科書で見たという人もたくさんいますが、ぼくの小・中学校時代、この写真は公表されていません。いずれ新聞か写真集で見たのだと思う。それはともかく、見た瞬間から、この映像がぼくの眼底にというか、脳裏にというか、焼き付いてしまいました。戦争に関する記録写真でも同じように記憶に焼き付いてしまった写真は、それほどたくさんありません。だから、この少年の写真は、ぼくにとっては、まさに生涯にわたって影響され続けるものとなったのでしょう。近寄りがたい、神々しいとさえいうべき雰囲気(不謹慎な表現を許されたい)が、ありありと写真の中に漂っていました。ぼくは言葉を失っていました。今も変わらない。慄然とするのです。

 (ヘッダー写真はNHK番組放送から)

 ぼくは戦争を無条件で憎むし、戦死者を深く悼むものです。いかなる理由があろうと、戦争を仕掛ける、他国を侵略するなどという蛮行・暴力にはそれを容認する余地は一ミリもない。にもかかわらず、「大儀「聖戦」などといって戦争を始める。少なくともこの国は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」(日本国憲法前文)と世界に宣言(約束)したのです。「時代が変わった」からという一言で、戦争準備に躍起になる政府をだれが選んだかと問われれば、「我々です」というほかないような、恥ずべき事態にぼくたちは直面している。時の総理大臣一人が、どれだけの権限を持っていようとも、国そのものが戦争に加担する、戦争を招き寄せる、ましてや、どこかの国と戦争を始めることなどありえないでしょう。不埒な、かつ不逞な野望や野心を持った権力者を支える多数の「愚民」「暴民」がいればこそです。だからこそ、戦争の道を歩き出そうという気配に対して、ぼくたちは無神経ではいられない。「世界への裏切り」を働くことがないように、ぼくたちは自らにも「約束」したのではないでしょうか。これは「他国の戦争」に向けても同じことでしょう。アメリカが理不尽にも他国に攻撃を加え、他国を侵略する、その戦闘行為は「断じて認められない」と、この国の首脳・要人は、はっきりと批判・忠告すべきではないでしょうか。

 今なお、いたるところで「戦火」は上り、「戦禍」が重ねられている。いかなる理由をもってしても、「暴力」「殺戮」が許されるはずもありません。いささかでも「戦争に身を寄せる」気質の人には、決定的に「歴史」に対する無知があるとぼくは、思い続けてきました。たった一枚の写真、たった一行の詩文が、ぼくたちに「戦争」のなんであるかを間違いなく教えてくれるのです。ぼくには、そのたった一枚が「焼き場に立つ少年」だったといってもいい。あるいは「にんげんをかえせ」と叫んだ峠三吉さん(1917~1953)の詩だった。あるいは「産ましめんかな 己が命捨つとも」と呻吟した栗原貞子さん(1913~2005)の詩だった。ぼくはよく学んだ人間ではなく、それどころか、無知の上にも怠惰な、過ち多い人生を歩き続けてきた、不真面目に近い人間、しかも今では、一介の不良年寄りでしかありません。それでも、「戦争は断じて認められない」という「非常線(cordon)」はいつだって張っているのです。

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またぞろ「戦争準備報国会」「大政翼賛会」もどきの「国策捏造会議」が!

(心ならずも人生を斫断(しゃくだん)された無辜・無量の犠牲者への謀反ではないだろうか、有識者諸君よ)

*令和8年4月27日、高市総理は、総理大臣官邸で第1回総合的な国力から安全保障を考える有識者会議を開催しました。会議では、我が国を取り巻く安全保障環境の変化と「総合的な国力」の重要性について議論が行われました。 総理は、本日の議論を踏まえ、次のように述べました。/「ありがとうございます。第1回の総合的な国力から安全保障を考える有識者会議を開催いたしましたところ、全ての構成員の皆様に御出席をいただき、多様な視点からの御意見を多々、賜りました。心から感謝を申し上げます。
 私たちは、今やこれまでとは全く違う国際情勢の真っただ中にあると考えております。冷戦後の比較的安定した国際秩序はもう過去のものとなりました。地政学的な国家間競争が激化しています。インド太平洋では、中国・北朝鮮の軍事力の増強、中国・ロシア、そして、ロシア・北朝鮮の連携強化がみられます。また、ウクライナや中東での紛争は長期化し世界中に影響を与えています。また、AI(人工知能)や量子技術など、技術の革新的進歩が安全保障の決定的要因となっています。
 こうした中で、我が国の平和と独立を守り抜いていくためには、防衛力の抜本的強化を主体的に進めていかなければなりません。そして、外交力と防衛力を、経済力、技術力、情報力、人材力と有機的に連携させて、日本の総合的な国力を徹底的に強くしていくことが大事だと考えております。(中略)/ 世界が激動の時代を迎え、日本が多くの困難な課題に直面する中でのこの度の三文書の改定は、国家の命運を左右する重要な取組でございます。(後略)」(官邸・https://www.kantei.go.jp/jp/105/actions/202604/27sougouanzenhosyou.html

 上に引用した首相の「挨拶」の中で「我が国の平和と独立を守り抜いていくためには」という、しらじらしい表現があります。我が国は「独立している」のか、アメリカに対して、イエスやノーが言えるんですか。言ってきたんですか。属国根性丸出しの「恥ずかしい対米追従」外交をしていて、開いた口が塞がりませんね。弱い人間ほど「力」を誇示したがるという、まさしく、あなたはその「典型」ではないですか、この権力者は。アメリカの「イラン攻撃」に、たった一言でも、「米国は間違いを犯している。力による現状変更は絶認められない」と、言ったらどうですか。天に向かって言うばかり(空砲を撃つのは誰だってできる)では何の突っ張りにもならない。

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(参考資料)「焼き場に立つ少年」血にじむ唇 米写真家の被爆地記録 原爆投下後の長崎で、亡くなった幼子を背負う「焼き場に立つ少年」。撮影した米国の従軍カメラマン、故ジョー・オダネルさんの妻が夫の生涯をたどり、長崎原爆の日の9日に著書が出版された。「投下した側」でありながら、投下は過ちと訴え続けた足跡を写真と共に追っている。/オダネルさんは被爆後の広島、長崎などで、私用カメラを使って約300枚を撮影。フィルムは封印していたが、1989年に反核の思いが込められた彫刻像を見たのを機に、「核戦争を繰り返さないことにつながるなら」と写真展を開いた。原爆正当化論が根強い米国で批判に耐え、2007年、8月9日に85歳で亡くなるまで各地で写真展を開き、戦争反対を訴えた。(左写真「焼き場に立つ少年。幼子の亡きがらを火葬にする順番を、歯を食いしばって待つ様子をとらえた」(1945年、長崎、ジョー・オダネルさん撮影、坂井貴美子さん提供))

 本は「神様のファインダー 元米従軍カメラマンの遺産」。掲載されている被爆地の写真で、著名な「焼き場に立つ少年」について、幼子を火葬にする少年の様子をオダネルさんはこう記す。/「炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいる」「少年があまりきつくかみ締めているため、血は流れることもなくただ少年の下唇に赤くにじんでいました」 /妻で米在住の坂井貴美子さん(56)が2年ほど前に出版社の打診を受け、オダネルさんの遺志を尊重して、応じた。坂井さんは取材に対し、「人間の存在の原点を、占領者としてではなく同じ人間としてカメラに収めている」と表現。そして核廃絶へのメッセージとして、こう語った。「ただ『忘れない』ということが大切と思う」。/A5判192ページ。いのちのことば社(03・5341・6920)刊。(宮崎園子)(朝日新聞・2017年8月9日 18時37)(左と右上の写真はいずれも朝日新聞・2017年8月9日に掲載)

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⁂ ジョーオダネル(Joseph Roger O’Donnell)(1922~2007)= オダネルは1922年、米国ペンシルベニア州ジョンズタウンに生まれた。高校卒業後はアメリカ海兵隊に入隊し、そこで従軍カメラマンとしての教育を受けたが、 前線に送られることなく第二次世界大戦の終結を迎えた 。/教育課程を終えると、まず太平洋戦争による日本の空爆被害を記録する任務に就き、1945年8月に長崎市から10マイル(16キロメートル)ほどの地点に入った。当時、マッカーサー陸軍元帥やワシントンの首脳部は、原爆投下によって壊滅していた広島や長崎への報道機関のアクセスを制限しており、許可なく日本の民間人を写すことや、軍の業務用カメラ以外を使用することも禁じられていた。(↷)

しかしオダネルは軍命に背き、持参していたプライベートカメラで被爆者たちの姿を撮影したのである。 こうして遺されたのが、後に大きな反響を呼ぶ「焼き場に立つ少年」をはじめとした写真群であった。このあとオダネルは広島にも立ち寄った。日本の侵略を批判しつつも、被爆者を写すうちに日本人への憎しみは哀れみに変わっていったという。原爆被害の記録を続けたが、これらの写真の存在が軍部に知られた場合、いつ破棄させられてもおかしくなかったため、オダネルは被爆地でのことを一切口外せず、7カ月の任務を終えて未現像のネガ300枚ほどを密かにアメリカに持ち帰った。/オダネルは戦後ワシントン州に移り、写真スタジオを経営した時期もあったが、まもなく中央情報局に採用され、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソンの4代のアメリカ大統領に仕えた。この期間にオダネルは、朝鮮戦争をめぐるトルーマンとマッカーサーとの会談や、ケネディ政権下でのピッグス湾事件など、数多くの歴史的瞬間に立ち会っている。(以下略)(Wikipedia)(左上写真はオダネル氏の妻、坂井貴美子さん。上記に引用の朝日新聞より)

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ゴミ袋不足は「炭鉱のカナリア」だ。

【北から南から】店頭から消えた指定ごみ袋 空いた棚の向こう側に中東情勢
 記事が出れば、明日には売り切れると分かっていた。記者とて生活者だ。迷いがなかったと言えば、うそになる。それでも手は伸ばさなかった。指定ごみ袋を前に、小さな記者倫理は守れたのかもしれない。
 宮城県大崎市などで、自治体が指定するごみ袋が手に入りにくくなっている。中東情勢の緊迫化に伴うナフサ価格の上昇や供給不安が背景にある。大崎地域広域行政事務組合は、市販の透明・半透明袋でも出せると決めた。
 本紙もルール緩和を伝えたが、売り場の動きは発表直後、変わらなかった。「なくなる」はすぐに広がっても、「代替案」が伝わるには時間がかかる。
 2年前、指定ごみ袋の値上げを機に買いだめが広がったという。棚から消えた記憶が、呼び覚まされたのだろう。売り場では、指定袋が真っ先になくなった。冷静に考えれば、より安い選択肢はあるのだが…。
 加美町の女性(88)は売り切れと聞き、大崎市古川まで来た。燃やせるごみ用は棚になく、帰ろうとしていた。透明袋でも出せると伝え、売り場に案内した。
 慣れ親しんだ習慣を変えるのは、そう簡単ではない。ごみ袋の棚を確かめる癖が付いた。いつもの場所に、いつもの袋があるかどうか。すっぽりと空いた棚の向こうに、中東がある。
(大崎総局・山崎敦)(河北新報・2026/04/27)

(ヘッダー写真「ナフサ不足でごみ袋を指定外もOKに 行政によぎる2年前のトラウマ 大崎市内のスーパーでは指定ごみ袋の棚が空になっていた=2026年4月19日午後4時52分、宮城県大崎市、手代木慶撮影」朝日新聞・2026/04/18)

 * たんこう‐の‐カナリア〔タンクワウ‐〕【炭鉱のカナリア】=《canary in a coal mine》= 危険の前兆を示すもののたとえ。金融市場で、株価急落の前兆となる現象など。[補説]かつて、有毒ガスの存在を確かめるために、炭鉱の坑道にカナリアの入ったかごを持ち込んだ習慣に由来する。カナリアは人間よりも早く有毒ガスの影響を受けるので、それを見て避難することができた。(デジタル大辞泉)

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 いよいよやってきたかというのが実感です。日本列島全体が、ついに危険な「酸欠状態」に立ち至ったという先ぶれであろうと思われます。各地方自治体指定のゴミ袋が品薄状態だという。幾つかの自治体では品薄どころか品物が売り切れ状態で、このままでは大変と、従来の指定されているものでなくても、中身が確認できる袋なら「大丈夫」という通知を出しているところもあります。小生が住んでいる地域でも、店によっては売り切れ状態のところが出ているようです。当初から、こういうことになるだろうという予測を持っているので、ぼくはいささかも慌てないでいます。「痩せ我慢」でもある。少しばかり「買い溜め」しても、石油輸入問題が長引けばどういうことになるか。腐るほど「トイレットペーパーを買い溜め」して天井裏にしまっておいて、天井が抜けたという話もあったほど。第一次・二次のオイルショック時、ぼくは各種品不足騒ぎをゆくりなく経験したものですから、いざとなれば、なんとでもする・しなければならぬという気分で、少しも騒がなかったことだけは覚えています。

 もう何十年も前、民俗学の柳田国男さんの本を読んでいて、感心したことがある。柳田さんに、ではなく、名もない庶民の言動に柳田さんがいたく感心していたのを読んで、ぼくは感心したのです。神奈川県下での出来事で、多くの人がにわか雨にあって、それぞれが慌てて走り去って行く中を、悠々と騒ぎもしないで歩いている人がいる。もちろん雨に濡れながら、です。「なぜ、急がないのですか」と誰かが訊いたら、「先も降っとる」と言って、悠然と立ち去って行ったという。濡れると大変とばかりに奔ったところで、帰路は長く、雨は降り続くというのだ。柳田さんがなぜ「大したものだ、この知恵は」と感心したのか、読んだ際にはよくわからなかったが、その後、「なるほど、そういうことだったか」と、ほとほと感心したことでした。今回は、「どれくらい先まで降っているか」、ですね。一年、いや二年?

 もう一つ、柳田さんが感心した話。これも神奈川県下のある地域の出来事。海岸近くの栗林では、近くの住民が、他人の土地に無断で入ってきて、落ちている栗の実を拾っていたそうです。「無断でとってはダメでしょう」と誰かが注意したら、一人の女性は平然と「生では食べられんから」と答えたそうです。なっている栗(実)をもいでとるならいざ知らず、熟して墜ちたんだから、それを取るのは問題ないし、誰だって生は嫌でしょう、という「頓智」だったんでしょうか。

 今次の物価高騰問題において、いくら高くても、指定された袋を使わないで、家庭ごみを出すのは憚られる。その指定回収袋に品不足が生じているとなると、我先にと焦るのは当たり前にも思われますが、買い占め・買い溜めに奔るというのもどうですかね、ぼくなどはそんな風に考えている。自分さえよければ、という「利己主義」など、普段は隠されていても、こういう緊急時には、各自の「根性」がむき出しになるのでしょう。致し方なしという部分も、当然にありますけど。ある自治体では市販のもので、透明ないし半透明なら使用可としたとあります。こうなると、自治体の指定袋をたくさん買った人はきっと文句を言うはずです。買い溜めた分を「元の値段で買い取れ」と、ね。また、市販の品でも構わないというなら、どうして「指定」しているんですかかという疑問も出てきますね。要するに、ルールを守れない人が多すぎるということがまずありそうですね。

 これは今回起こったことではなく、以前から疑問に感じていたことですが、各自治体で「指定袋」の値段がまちまちなことです。たぶん、拙宅のある地域で指定されているごみ袋は、県下で最も高価な部類に入ると、常々思っていたところでした。ざっと調べると、それこそ全国まちまち、無料から有料、有料でもピンからキリまで。それだけの差が出る理由(背景)があるのでしょうけれど、今回のナフサ不足を期に、少しは考えてもらいたいところです。

 拙宅は夫婦と猫二十人ほどの家族。生ごみ(燃やせるゴミ)の量はそれほどでもありません。回収日は週に3回ありますが、おそらく、ゴミ出しは週に1~2回がほとんど。30㍑用のゴミ袋は10枚で500円。一枚当たり50円。ごく当たり前のナイロン製のごみ袋。とても高いと思いつつ、仕方なく使っている。月にすれば5~6枚使うから、大体300円前後です。大家族となるとなかなか大変。不燃ゴミにビンカン類用もあります。それにしても、当地のゴミ袋の値段、千葉県内でも最も高いし、全国的に見比べてもダントツという印象を持ちます。それ以外に、ぼくは時には、直接ゴミ焼却場に持ち込む(キロ単位で有料)ことがあります。

 昨年はコメ不足が起こったということでしたが、何のことはない、流通業者が「出し惜しみ(秘匿)」をしていただけのこと。5㌔2000円台で買えたものが5千円、6千円もするという悪辣な商売人たちのずるい商売だったようです。今頃になって、倉庫に保管(隠匿?)しておいたものを出さざるを得ない羽目に。そして消費者は、「これだけ安くなると嬉しい」と、一年ほど前のもとの値段の倍で買わされても「喜ぶ」のですから、あまりにも賢くないですね。もちろん、いろいろなところに行政・政府が介在・介入しているのですから、こんな状況が生み出されるのも、必要適切な政治の「不在(absence)・不作為(inaction)」ということにもなります。

 今騒がれているのは、有料ゴミ袋問題ではなく、あらゆる製品・商品が「石油」抜きでは考えられないような生産・流通・販売の仕組みになっていることと、石油無産出という非産油国の悲哀という問題です。石油は100%輸入に依存しています。ホルムズ海峡問題が落ち着かなければ、日本経済は立ち上がれないほどの打撃を受けるでしょう。これに対して政府は何をしているか、してきたか。一方で「大丈夫だあ!」と放言しつつ、もう一方では、ひたすら「国力増強」「軍事国家化」にシャカリキです。勇ましいことを言って、「腹が減っては戦ができぬ」というのは、戦国時代の話ではないんですのに。「強い国家」にというキャッチフレーズ、何とかならなんでしょうか。

 第二次世界大戦に至った一番の理由は「石油不足」でした。化石燃料を自給・自足できない国情・国勢を打開するために、敵国に石油の輸出を頼りながらの「開戦」という、考えられない愚かな「日米戦争」でした。事、化石燃料に関しては当時といささかも事情に変化がないにもかかわらず、現政権党は「戦闘準備」に躍起になっています。燃料がなければ、何事も始まらないというのに、いったい、大量の武器をそろえ、軍事国家を急造して、いったいどこの国と戦う準備をしているんですか。リュウマチ病みだとかいうアマゾネス首相、誰に向かって「私は強いのだ」というところを見せようというのか。文字通り、松根油と竹槍をもって、正体不明(もちろん、はっきりと決めているのだが、「中国だ」とは公言しないだけ。はっきりといえばいいじゃないですか)の敵国と戦うというのらしい。悲しくなるほどに愚・愚・愚ですね。

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 安保3文書改定、高市首相「国家の命運を左右する」…有識者会議の初会合で防衛産業強化など呼びかけ 政府は27日、国家安全保障戦略など安保3文書の年内改定に向け、取るべき方向性を検討する「総合的な国力から安全保障を考える有識者会議」の初会合を首相官邸で開いた。高市首相は、日本の平和を守るために「総合的な国力を徹底的に強くしていくことが大事だ」と訴え、「新しい戦い方」への備えや先端技術の活用、防衛産業の基盤強化などの議論を呼びかけた。有識者からは総力を結集する重要性を指摘する意見が相次いだ。

 首相は「総合的な国力」について「外交力と防衛力を、経済力、技術力、情報力、人材力と有機的に連携させる」ものだと説明した。2022年以来となる3文書改定は「国家の命運を左右する」と語った。

 3文書は、安保政策の指針となる国家安保戦略、自衛隊の能力などに関する国家防衛戦略、整備する防衛体制や必要な金額を示す防衛力整備計画からなる。国家安保戦略はおおむね10年間の指針とする想定だが、政府は国際情勢の激変を受け、前倒しでの改定を決めた。有識者会議は秋頃をめどに報告書をまとめる。政府は有識者会議と与党での議論を反映し、年末までに新たな文書を策定する。(以下略)(読売新聞・2026/04/27)

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 (蛇足です。エルビスが歌ったこの曲を聴いていて、なんだか「日本の首相」が必死に「Can’t Help Falling in Love」と叫び倒している景色が見えてきます。たとえ誰が反対しようが、「私は戦争(暴力)を好きにならずにはいられない(I can’t help but love war (violence).)」と。彼女はロックだろうから、この「バラード」も、とにかくロック調でやっているのだ。騒々しいよ。(* ❶Elvis Presley – Can’t Help Falling In Love (Official Audio):https://www.youtube.com/watch?v=vGJTaP6anOU&list=RDvGJTaP6anOU&start_radio=1)(* ❷Can’t Help Falling in Love – Lucy Thomas – (Official Music Video):https://www.youtube.com/watch?v=0siyVtIxu4M&list=RD0siyVtIxu4M&start_radio=1

・・・
Take my hand 
Take my whole life, too 
For I can’t help Falling in love with you 
For I can’t help Falling in love with you

(どいうきっかけだったか、ぼくはこの曲が使われた映画「ブルーハワイ」を京都で見ています。1961年公開。中三だったか、高一だったか。映画の中身はほとんどわからなかったね。もちろん、ハワイに憧れることもなかった)

 (蛇足の蛇足です。「だ‐そく【蛇足】読み方:だそく《昔、中国の楚(そ)の国で、蛇の絵をはやく描く競争をした時、最初に描き上げた者がつい足まで描いてしまったために負けたという「戦国策」斉策上の故事から》付け加える必要のないもの。無用の長物」デジタル大辞泉)(’an unnecessary addition‘ in English)

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夕暮は著莪の花のみ美しく(高木晴子) 

(承前)本日は「哲学の日」ですと、茨城新聞(「いばらき春秋」)は書かれていました。なぜそうなのかといえば、「無知の知」で知られる哲学者のアリストテレスが死んだ日でもあるからだ、と。それを目にして、ぼくは新聞社の営業開始を待って、問い合わせの電話をしました。つい先ほど、新聞社の方と話をし、ぶしつけに電話をした理由を述べ終わったところです(午前9時15分頃)。「無知の知」を話題にされるコラム氏が「ソクラテスとアリストテレス」を間違えるという、まるで上出来の「ジョーク」を読ませてもらったようなコラムの記事に、実は新聞社でもだれも気が付かなかった、ネット掲載から5時間も経って。ということは、ぼく以外は真面目に読んでいないということですかな。間違いに気づいていても、誰もそれを指摘しないということなのですか。どれほどの読者がいるのか。およそ考えられないミステークだと思うのですが、当該機者以外は、誰も編集・掲載に加わらなかったということなんですね。庵ビリーバブル、です。

 直接、担当者(当人)に間違いを指摘するのは控えました。当たり前でしょう。ぼくにはいかなる心算(しんさん・つもり)もありません。多くが認めている事実(といっていいでしょう)を間違えていたのなら、それを訂正すべき。人名を間違えていただけというなら、それまでです、しかし、新聞のコラムニストが、その程度の認識では読者が泣くでしょうと、お伝えしました。電話を受けてもらった方は、丁寧にぼくの問い合わせの趣旨を汲んでくださったと思う。「無知の知をいったアリス…。」とぼくが「コラム」を読みかけると、即座に理解されました。「ソクラテスでしたね」と。担当記者の、とても恥ずかしい間違いが何時間も訂正されないで、新聞社の間違いのままであったとなれば、もっと問題が大きくなるでしょう。訂正で済むのか、あるいは工夫をされて記事(コラム)を修正してくださるといいですね、と電話を切りました。言うまでもないことで、人間には間違いというか、不注意というものがだれにもあります。実の子の名前を忘れたりすることは少なくないのです。間違いに気づいたら(指摘されたる)、直ちに直せばいいだけのこと。(以上は、今朝の駄文の「追記」でした)

 (表題句の作者、高木晴子さん(「たかぎ はるこ、1915年1月9日[1] – 2000年10月22日)は、神奈川県出身の俳人。高浜虚子の五女で、高浜年尾、星野立子らの妹」(Wikipedia)

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 今は、家の周囲では「シャガ(著莪)」が静かに咲いています。雨に濡れる風情がいいですね。この時期は「ボタン(牡丹)」の盛りでもありますが、ぼくは、断然「シャガ」派です。近所に「牡丹園」があり、数年前にでかけたことがありますが、もういい、十分だ、という気になりました。もちろん、これは好みの問題で、つべこべ言うこともないのです。清楚な「シャガ」と、きらびやかな「ボタン」と。どう考えても、「ぼくはこれ」と、いうばかりです。拙宅の庭にもひっそりと咲いている。「射干 著莪 胡蝶花 Iris japonica」と、さまざまな呼び名があります。中でも「胡蝶花」など、まさに花の姿によく似せていますね。以下、5句ばかり。いかにもシャガの句に合う佇(たたず)まいではないでしょうか。

・著莪咲けば姉の忌日の来りけり(阿部みどり)
・音もなき雨にぬれゐる著莪の花(堀内茂葉)
・著莪の花生野の山に雨ふりて(山口青邨)

・姫著莪の花に墨する朝かな(杉田久女)
藪蔭の五月はじめや著莪の花(野村喜舟)
ヘッダー写真 シャガは、春に白や薄紫色の花を咲かせるアヤメ科の常緑多年草。アヤメの仲間の中では一番早く春から初夏に開花します。雑木林の木陰など、明るい日陰の湿り気のある場所を好み、沖縄、北海道を除く日本各地に自生しています。日陰の下草やグランドカバーにも適していますが、あまり暗すぎると花付きが悪くなります。葉はやや厚く光沢があり、草丈は30~70cmほどです。(LOVE GREEN:https://lovegreen.net/languageofflower/p263432/)

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「徒然に日乗」(1074~1080)

◎2026年04月26日(日)世間では昨日から「大型連休入り」、無職の小生には関係のない日常である。終日好天に恵まれた。▼午前中に茂原まで買い物。いつものスーパーの店内は閑散としていた。▼帰宅後、先日ネットで購入しておいた「刈払い機」の組み立てをする。思った以上に軽量・小型で、果たしてこの近辺の強靭な雑草を刈り取ることができるか、やや心もとない。この1週間ほどで、降雨と晴天の順繰りだから、周囲の草が驚くほど繁茂した。さぞや刈り応えがあるだろう。▼米国初の物騒なニュース。「(CNN) 米ホワイトハウス記者協会の夕食会で発生した発砲事件で、身柄を拘束された武装した男はカリフォルニア州在住のコール・トマス・アレン容疑者(31)と特定された」(CNN・2026/04/26)大統領を含めて、被害者は出ていない模様。よそ事ではないが、アメリカは分裂国家状態になっている。(1080)

◎2026年04月25日(土)終日晴天に恵まれた。午前中に茂原まで買い物に。相変わらずの物価高で、いささかも衰える様子が見えないのは、どうしたものか。すべてが石油の枯渇というわけでもなかろうが、それを理由に(大義名分に)ものみな上げるのだから、この先が本当に思いやられる。▼22日に発生した岩手県の山火事は4日目に入っても鎮火の兆しは見えていない。多くの避難者は火災を避けながら転々と避難所を移っているのだ。明日も雨は望めないらしい上に、強い風が予想されている。とにかく鎮火の早からんことを祈るのみ。(1079)

◎2026年04月24日(金)本日も午前中に少し足を延ばして長南町の先あたりをドライブ。走行していて思うのは、市原市がとても面積が広いということ。木更津や勝浦までも、ものの小一時間もかからないで走れる。信号もなく、道路は混雑していないので、きわめて走りやすい。およそ50㌔は走ったろうか。その後、茂原に戻り、買い物をして帰宅。▼アメリカとイランの交渉が暗礁に乗り上げているのだろうか。その行方は混沌としている。(1078)

◎2026年04月23日(木)終日雨天だった。夜に入るとますます雨足が強くなる。▼《市原市で中東情勢への不安などから市指定ごみ袋の買いだめが起き、一部商品が品切れや品薄になっているとして市が21日、配信メールやホームページで市民に冷静な対応を呼びかけた。(後略)》(千葉日報・2026/04/22)こういう動きが方々で出て黒となると、「石油ショック」の再来となろう。▼通販で「刈払い機」を購入。現有のものはすでに十年以上も使用。簡単な補修もしながら、2台体制で作業効率を上げたい。▼「和平交渉」は混沌としているうえに、トランプの判断力が異常だとするなら、いっそう泥沼状態はひどくかつ長引くだろう。この国にとっては致命的な打撃となる。(1077)

◎2026年04月22日(水)陸自戦車4人死傷、砲弾破裂するまで通常通り射撃か…『普通では考えられない』と隊員ら衝撃「前代未聞だ」――。陸上自衛隊の日(ひ)出生(じゅう)台(だい)演習場(大分県)で21日、実弾射撃訓練中だった西部方面戦車隊の「10式戦車」の隊員4人が死傷した事故。戦車内で砲弾が破裂するという異例の事態に、現役隊員やOBの間に衝撃が広がった。陸自は砲弾の問題に加え、装置の不具合や人的ミスの可能性も含めて慎重に調べる。」(読売新聞・2026/04/22)昨日の自衛隊隊員の事故に関して、政府関係者がいかなるコメントを発したのか。最高指揮官である総理はどう語ったのか。中国大使館への侵入事件に際しても、首相は一切沈黙を守っている。なぜか。▼イラク戦争による石油の枯渇が現実の問題になっているにもかかわらず、一切、国民に対して「説明」がないのは、フザケすぎているというほかない。「泥沼化」は既定の筋だが、このままでは経済を含めて、社会には未曽有の「大混乱」が生じるのは不可避だと思う。現政権は間違いなしに、適切な行動がとれないほどに「内部崩壊」を来している。(1076)

◎2026年04月21日(火)朝、6時過ぎに「生ゴミ出し」、やや曇りがちの天気。昼前に買い物に茂原まで。後から少し庭の手入れをと考えたが、あまり気乗りもせず、本日は中止。刈払い機が、もう10年使ったので、少しオーヴァーホールをしなければと考えている。自分でもできなくはない作業だが、もう一台あれば仕事には便利と、別の「バッテリ電源」用を一台注文した。数日後から、作業にかかれると思う。併せて、鍬や鎌やスコップなどの作業用具も新調したい。前回の作業以降、相当に期間が空いたので、仕事のやり甲斐があるというもの。▼昨夕の青森方面の地震、一夜明けてみればそれなりの被害があったと報じられる。幸いに死者は出ていない模様。不安なことだが、今後さらに大きな地震の発生確率は高いという気象庁の報告。房総近辺でも頻繁に地震が発生している。十分に気を付けたい。▼イラン情勢は混とんとし続けている。無駄な殺生は止めた方がいいに決まっているのに、そうならないのが人間の「欲」というものの仕業だろう。愚かなうえに愚か、この「愚挙」に気が付かないのだから、人間の「愚かさ」も完璧だ。(1075)

◎2026年04月20日(月)拙宅前の煉瓦塀のモッコウバラ(黄色)が満開だ。横にあるシャクナゲに、山吹、レンギョウなどなど、それぞれの時を得て笑っている。躑躅(つつじ)も満開。手入れをすればもっと見事に咲いてくれるのだろうが、このところの猛暑に恐れをなして、一年を通して十分な世話(手入れ)ができていない。今年は、除草から肥料やりまでを、丁寧にやり遂げたい。刈払い機のメンテをしなければいけない時期で、十年使い放し(酷使)状態が続いていた。鍬や鎌などの道具類も新規に揃えておく必要があろう。今朝も「筍」を3本ほど掘った。このところ、新筍の煮物や炊き込みで季節を味わっている。▼イラン情勢はどうなるのだろうか。猫の目大統領とは真面目に付き合いきれないのだから、先の見通しが立たない。世界中が迷惑を蒙っている、なんとかしてほしい。▼「三陸沖でM7.5の地震 青森県で震度5強 4月20日(月)16時53分頃、青森県で最大震度5強を観測する地震がありました。震源地:三陸沖 マグニチュード:7.5 震源の深さ:約10km(後略)(ウェザーニュース・2026-04-20 17:26)午後7時段階の報道の限りでは、犠牲者は出ていない模様。これで収まるかどうかはわからないという。(1074)

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「無知の知」って何ですか。

 藤の紫色、境内染める 笠間稲荷神社 5月初めまで見頃 茨城  茨城県笠間市笠間の笠間稲荷神社で、甘い香りを漂わせた紫色の藤の花が境内の藤棚を染めている。ゴールデンウイーク(GW)期間(5月6日まで)の初日となった25日は、多くの参拝客でにぎわった。
 神社には花房が最長約1メートルに達する「大藤」と、花がブドウの実のように集合して咲き、県天然記念物に指定されている「八重の藤」の2株があり、ともに樹齢400年を超える。開花は例年より約1週間早く、5月の初めまで見頃が続く。
 家族3人で訪れた千葉県鎌ケ谷市、加藤愛海さん(26)は「花が目の高さまで来ていてきれいだった。神社の朱色と花の紫色の調和も良かった」と話した。(茨城新聞・2026/04/26)

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 藤(フジ)の季節になりました。とても好きな植物です。近所の雑木林や小高い丘のところどころに、遠くからでも見渡せるように、多くの藤の花が咲き出しています。左の写真も「茨城県の天然記念物」だという。近県でも、桜に劣らず「藤(フジ)の名所」がいくらもあります。ただし、ぼくは一度も行ったことはありません。花を見るのか、人を見るのか、区別のつかないようなことはしたくないからです。(ヘッダー写真と、左の写真は同じものです。切り取り方でずいぶん違う印象を受けますね。人の場合でも同じでしょうか、どこを見るか、どこを捨てるか)

 拙宅にも一本の「白藤」がありましたが、大幹が枯れてしまい、今は辛うじてヒコバエ程度の背丈のものが育ちだしています。花をつけるまでに、どれくらいかかるでしょうか。それまで、ぼくの「いのち」がもつかどうか、とても怪しいですね。

 藤とくれば葛、そうです、ぼくはいつだって「葛・藤」を連想しますね。どちらも蔓(つる)性植物。そこから生まれたのが「葛藤」という熟語です。「かっ‐とう【葛藤】読み方:かっとう[名](スル)《葛(かずら)や藤(ふじ)のこと。枝がもつれ絡むところから》 人と人が互いに譲らず対立し、いがみ合うこと。「親子の―」 心の中に相反する動機・欲求・感情などが存在し、そのいずれをとるか迷うこと。「義理と人情とのあいだで―する」 仏語。正道を妨げる煩悩のたとえ。禅宗では、文字言語にとらわれた説明、意味の解きがたい語句や公案、あるいは問答・工夫などの意にも用いる」(デジタル大辞泉)葛の蔓が藤の蔓に絡みついているのを見たことがあります。文字通りの「葛藤」だったですね。(右はツヅラフジ)

 同じ字を当てているものに「つづらふじ(葛ふじ)」があります。蔓性で、籠細工などの材料になってきました。石油由来でない、植物性の多くの品物がありました。もう一度、われわれの生活はそこに戻ることができるのでしょうか。戻ることがあるのでしょうか。この植物はまた、漢方薬にも古くから用いられています。

 「つづら‐ふじ〔‐ふぢ〕【▽葛藤】読み方:つづらふじ ツヅラフジ科の落葉性の蔓(つる)植物。山地にみられ、蔓で他に巻きつく。葉は広卵形または円形で柄が長く、互生。雌雄異株で、夏、淡緑色の花をつける。蔓はかごを編む材料となり、根や茎は漢方で漢防已(かんぼうい)といい浮腫(ふしゅ)やリウマチの薬にする。ツヅラフジ科の双子葉植物は約450種が暖帯から熱帯にかけて分布し、主に蔓性で、カミエビ・コウモリカズラなども含まれる。《季 夏》」(デジタル大辞泉)

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 茨城ついでに、といえばお叱りを受けそうです。コラム「いばらき春秋」です。ずっと地域新聞にふさわしい「コラム」を書かれてきました。本日は「哲学向き」で、とても珍しい趣向だと思いました。学生時代から、ぼくはプラトン(紀元前427年~ 紀元前347年)が書いた「ソクラテスの対話篇」に引き付けられてきました。ある時期は、向こう見ずにも「ギリシャ語」を始めたこともありました。もちろん「物になる」ことはなかったが。まずは、第一に田中美智太郎さんの仕事によって、ソクラテス(あるいはプラトン)を学び始めました。次いで、林竹二さんから、多くのことを、特に教育の面におけるソクラテスの方法(問答法・産婆術)といったようなことを。その林さんに、とても大胆かつ魅力的な一冊があります。題して「若く美しくなったソクラテス」(田畑書店、1983年刊)です。 ワクワクしながら読んだ記憶は残っています。

 詳細は別の機会にしますが、世の中で受け取られている「プラトンの著作」などは一冊もなく、それはすべて「ソクラテス」、それも「若く美しくなったソクラテス」のものだという、林さんの独創に近い、謎めいた卓見が述べられています。プラトンによる「対話篇」はすべてがソクラテス(紀元前469年頃~紀元前399年)のものであって、いわば、若い学徒だったプラトンに、彼の師だったソクラテスが乗り移って(憑依して)書かせたとでも言わぬばかりでした。中国における「論語」に比肩しうるように。それはすべて(孔子の言行録)がたくさんの弟子たちによって語られたもの、そんなアナロジーが成り立つようです。両者とも、一文字も書き残さなかったとされています。これにキリストを加えてもいいでしょうか。図抜けた異人(傑物)は、「文章」など書き残さなかったというのは、きわめて暗示的・象徴的ではないですか。(左上は林氏)

【いばらき春秋】歴史上知られる哲学者の似顔絵や言葉を印刷したTシャツ、カップ、スマートフォンケースといった商品が若者を中心に根強い人気という。哲学者トランプもあると知った▼哲学ブームが続いているとされる。社会不安の広がりや混迷が深まると、哲学への関心が高まるともいわれている。解説書をはじめ関連書籍が多く出版され、コーナーを設けている書店も少なくない▼「哲学」は「物事を根本原理から統一的に把握・理解しようとする学問」、あるいは「俗に、経験などから築き上げた人生観・世界観」(岩波書店・広辞苑)の表現で説明される▼きょうは「哲学の日」である。無知を自覚することが真の認識に至る道とする「無知の知」の概念で知られる、古代ギリシャの哲学者、アリストテレスが亡くなった日とされる。思想や言葉は連綿と受け継がれ、現在でもさまざまな場面で活用されている▼「賢者は苦痛なきを求め、快楽を求めず」「悪は、人々を一致させる」「徳とは、我々にとって中庸である行為を選択する態度である」「善良な私人が、善良な公人であるとは、限らない」といった多数の言葉が残る▼世界中を混乱させ、人々を不安に陥れている為政者たちに刺さる言葉があるといい。(斎)(茨城新聞・2026/04/27)

 林さんについて駄弁りたいのですけれど、これもまた別の機会にいたします。

 本日の茨城新聞のコラム「いばらき春秋」、とても面白いと思いながら、珍しいこと、こんなこともあるものかと読みました。「きょうは『哲学の日』である。無知を自覚することが真の認識に至る道とする『無知の知』の概念で知られる、古代ギリシャの哲学者、アリストテレスが亡くなった日とされる。思想や言葉は連綿と受け継がれ、現在でもさまざまな場面で活用されている」と、書かれています。なるほど、コラム氏もなかなかやりますね。「無知の知」を自覚することが真の認識に至る道」なのだと述べられています。そんな「無知の知」を後世(後生)にも教え伝えた「アリストテレスがなくなった日とされる」と書かれています。まさか、これは間違いではなく、入り組んだジョークを言おうとしているのだと錯覚しかけました。

 そうかもしれませんね。そうでないかもしれない。紀元前4世紀という、途方もない昔のことですから。「命日は特定できない」のが当然で、ソクラテスという、プラトンやアリストテレス(前384年~ 前322年)の師匠に当たる人が「アテナイ当局」から訴えられて裁判(陪審員制度による)になり、結局は死刑の判決を言い渡される。「毒杯を仰いで慫慂として死んだ」とされる、その日が本日(4月27日)だとされます。(根拠の有無は定かならず)もし「アリストテレス」の命日だというのであれば、新説の公表であり、従来通りソクラテスの命日とされている、その説をとるなら本日のコラムは「没」とならないでしょうか。

 (余計なことです。ユネスコは独自に「世界哲学の日」を「11月第三木曜日」と決めている。理由はどうにでもつくのでしょうが、「哲学の日」を設けて、どうしますか。「世界中で、一緒に哲学しよう」というのでしょうか)

 なお、同じ日(4月27日)に、誰が決めたのか知りませんが、ソクラテスの妻(クサンティッペ)はとても悪妻だったそうで、ソクラテスも形無しだったとされるほどの「猛者」であるといわれてきました。中島みゆきさん謳うところの「悪女」どころの話ではなさそうです。その「悪性の女」の廉で、本日は同時に、「悪妻の日」だとか。悪乗りが過ぎるし、あほくさいですな。モーツアルトとトルストイの妻が並び数えられ、これを「世界三大悪妻」というらしい。何んともあほくさいですね。「悪妻とは、夫にとって好ましくない妻」というらしい。その反対は「良妻」だって。「夫にとって」というところが、腑に落ちませんね。(左はプラトン像)

 世間ではソクラテスの「死んだ日」とされているので、本日は「哲学の日」という、これまた根拠も何も薄弱ですね。だから「アリストテレス」や「プラトンの」命日といっても差し支えないのかもしれません。しかし、彼らの末裔でもおられたらの話ですが。(この顛末について、ぼくには一つの「仮説」があります。日本人が「哲学の日=ソクラテスの命日」を生み出したんではないかというのですが、いずれどこかで「種明かし」をします)(右はアリストテレス像) 

 夜来の雨が強くなりだしてきました。ただ今、午前6時です。茨城新聞社の営業開始、受付は午前 9 時からですので、その段階で、「哲学の日」は「アリストテレスの亡くなった日」に合わせてではなく、ソクラテスの逝去した日とされてきたのに因(ちな)んで設けられたものだといわれていますが、そうではないのですか、とコラム氏に尋ねてみたい。その結果が判明した段階で、それに触れるように「追記」するつもりです。

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 「雨よ降れ。もっと降れ。大槌・小槌の山火事を消してくれ!」「福島の喜多方、新潟県魚沼の山火事も、だ

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 長くなりすぎましたので、「惰性・堕落日記(「徒然に日乗」のことです)」は別口で掲載します。「追記」があればそれに合わせて、本日のお昼頃までには掲載します。(ここまでは、「徒然に日乗」の前文です)

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「ここは元気な人が来る学校です」

⁂「週のはじめに愚考する」(116)~  若いころから「新聞切り抜き(newspaper clippings)」をしていた。一面トップになるようなニュースではなく、読んで教えられたり、気持ちがよかったり、素直になれたり。ある意味では平凡な記事を飽きもしないで切り抜いていました。その「切り抜き」記事をわら半紙の裏表に張り付け、保存にしていた。まあ、いうならば我流の「NIE(Newspaper In Education)」でした。そんなことをしてどうするんだという疑問には答えないままに、かなり長く続けていたと思う。やがて、パソコンが普及し、ひとなみにいろいろと品定めをしたり、OSを揃えるために秋葉原に出かけたり。それが教師紛いの「商売道具」になり、ぼくには欠かせなくなったのは、1990年ころからだった。勤め先の職場にもネット環境が整えられ、教室にもランの端末接続が可能になったからです。教職員には、無償でノート型PCが配布されました。

 これはぼくの新聞論、というと大げさになります。そんなことをいうのではありません。政治よりは生活、これがぼく自身の率直な心情であり、新聞に寄せる心持ちでもあります。よく一面トップといい、三面記事といいますが、それは誰が言い出したことか。おそらく「ブンヤさん」たちの言い習わしだったのではないでしょうか。今だってそうですね、「政治部は花形」で、生活・文化部は「脇役」などという受け取り方が横行しているようですが、新聞の衰退の大きな原因というか、背景になっていないでしょうか。ぼくは新聞の「生活面」がとても好きでした。あるいは三面が。そこには人間の生活が、いい悪いを抜きにして、いや含めてあったからでした。今日は、政治は大本営発表、三面もまた警察発表そのままです。新聞社、新聞記者独自の、足でネタを稼ぎ、手で書く記事が驚くほど少ないのは、毎日毎日、各地の新聞を斜め読みにしろ、三十数紙を、それも長年にわたって閲している人間から見れば、「当らずとも遠からず」だとぼくは考えています。新聞の衰退・衰亡、宣(むべ)なるかな、ではないですか。

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 それまでは、授業用の資料はすべてコピーして教室で配布していました。毎回の作業量は膨大で、(恥ずかしい話です、一週間のクラスの参加人数は、最大時で2500人もいたことがかなり続きました。担当授業時間数(コマ)は一週に10コマ。「これは学校(授業)なんかではない」と当局には強く抗議してみたけれど、「糠に釘」だったな)、いつだって辟易していましたから、ネット環境が整備された段階で、事前にすべての資料は簡単なホームページ上に掲載し、授業参加者はそれを印刷して教室に入ることに決めた(学生諸君に了解を求めました)のだった。

 たぶん、糊(のり)と鋏(はさみ)による、ぼくの「切り抜き帳」が途絶えたのはその時以来だったと思う。替わって登場したのがPC内での保存作業でした。ネット時代の変わり身の早さは、機器に関しても、ネット環境に関しても、それこそ日進月歩どころか、まるで「朝令暮改」のように、日々新たになり、直ちに「型落ち」「時代おくれ」になるという慌ただしさの中で、本当はパソコンなど好まなかったのですが、背に腹は代えられないという状況でしたね。

 以来、二十数年が経過し、ある期間を経て、ぼくは順次、OSを変えることを余儀なくされました。これまでに何台替えたことか。そのたびに保存してあるデータなどを削除したり、移転させたりと、思いのほか面倒な作業が続いて、ほとほとウンザリしていたものです。(ある時は、「ノート型」を利用し、電車内でも使っていたこともありました。よく考えると実にばかばかしい気がして、やがて、ノート型を使わなくなりました。もっぱら「デスクトップ」専一で、モニターは32インチのものを利用しています。

 (左上図と右下図は「総務省」:https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r07/html/nd111140.html

 ぼくは定年前に退職し、一介の素浪人(無職者)になった途端、これまでパソコンに保存してあったデータを、新しい機器に交換する際に、ほとんど例外なく、あっさりと放棄(削除)しました。住所録やメールアドレス、写真類を含めて、個人的に大切だと思っていたものまで、アッサリ・バッサリと捨てました。もちろん、何十年間分の膨大な量の「授業用レジュメ」も削除しました。何冊かの著書や論文の「草稿」も。もちろん、それまでに保存しておいた、これまた膨大な分量の「新聞記事(切り抜き)」も、です。そうこうしているうちに、新聞紙面もネット時代を迎えるようになり、徐々に、ネットを通して新聞が読める環境が整ってきた。まだまだ、本格的ではなく、宅配購読の二番煎じの感はありますけれど、かなり以前に宅配による新聞購読も止めたものですから、不十分な点を我慢しつつネット配信の記事を読むことになりました。(毎日接していて感じるのは、すべてではないにしても、各紙のネット配信は、その姿勢においてはまだまだだという印象を持ちます。大半の新聞社は有料購読に移行していますが、失礼ながら、内容に比して高価だなあと痛感している)

 そうなった段階で、それまではあまり考えもしなったことですが、「新聞と旧聞」という問題がぼくのテーマになりだしたのです。面倒なことは避けたいのですけれど、似たような内容の記事(多くは配信記事)をいくつもの新聞で読む羽目になるし、何年も前にあった同じような問題(事件)が「再燃」「再発」しているのではないかと思うことがしばしばでした。もちろん、分野によって、一概には言えないでしょう。でも、三十年、五十年の時間幅で見るとき、ぼくには「学校教育」は、いまもなお「昔の名前」が通用しているのだなあと痛感するのです。「同じ学校」、「同じ教育」と名称は変わらない。しかし、その中身を担う教師や子どもたちは常に変わり続けるのです。どこかの学校の「校歌」にあったと記憶しますが、「集まり参じて人は変われど」「仰ぐは同じき理想の光」(?)と。

 いつだって、現場では「新規の出発」「新装開店」が繰り返されるのでしょう。そして、各種のデータが示しているのは、学校教育全体の「縮小」傾向であり(むろん、少子化の影響によります)、その結果は、従来の教育水準の「低下」現象が、ぼくの目にはつくのです。そこには「技術革新(イノベーション)もなければ、画期的な「発明」「発見」もない。当たり前の「人間の付き合い」が従前と同じように続いているのです。つまり、学校という場所で行われる多くの事柄は、それを新聞の記事で見る限り、「新聞は旧聞」であり、「旧聞は新聞」だということです。あえていうなら、「歴史は繰り返す」という格言の確からしさ、人間らしさを、新聞記事を介して確認する仕事が、ぼくの中で始まりました。いろいろな意味で、人間や人間たちの行いは「賽の河原の石積み(地蔵和讃)」に似ていますね。積んでは壊し、積んでは壊し、壊しては積んで、壊しては積んで。

 学校の教師の役割を、少なくとも今も昔も「人間」が担っていると思う・思いたい。それがある時代を期して「ロボット」になったらどうでしょう。もちろん、いつの時代でも「ロボットのような教師」はいました。だからいずれ「教師のようなロボット」が新規に登場となるのかどうか、それはぼくにはわかりませんが、「教育」という「人間交際・交流」の一面にかかわるところはまず変わりようがないと思います。機械化や合理化できる部分はあるでしょう。しかし、どこまでも人間同士の「出会いと別れ」に終始するものでしょうね。「学校で教えられるのは、大したものではない」「ろくでもないことばかりを教えている」などといえば、大方の叱責を受けそうですけれど、「生きることにとって大事なこと」は教えられないでしょう。それは何よりも、まず「自習」「自学」「独学」の領分であって、計算や漢字の書き取りのように、教えられるものではないでしょう。それだって、子どもが学ぶ意欲を持たなければ、「教えられない」でしょう。だから「いい教育」とは、子どもたちが自分の足で立ち、自分の頭で考える力を、子どもたちが自分の内部に育てることを助けること、邪魔しないこと、それに尽きると考えてきました。

 それが教育という名でできる最良の部分だろうと、昔も今も、ぼくは考えている。とするなら、多くの学校で、今日も「教育の名」において行われているのは「最良の部分(松)(上)」か、「当たり障りのない部分(竹)(中)」か、「最低の部分(梅)(下)」か、どのあたりでしょうか。もちろん学校段階・学校別にもより、地域差にもよりますし、担当の教師によっても「一律」ではありえないことでしょう。でも日本社会の「現状」「現実」を見ると、おおよその見当はつくのではないでしょうか。肝心なことは、教育における「変わるもの」と「変わらないもの」の違いを間違えないこと、です。

 以下、同じ日付の三つの「コラム」を出してみたくなりました。(パソコンに保存してある「切り抜き帳」から)解説は不要でしょう。ぼくは繰り返し、この記事(コラム)を読みます。世界中で同時進行状態で、多くの大事件が発生・展開しています。それらと比較することはできない相談であり、どちらが大事かということを咄嗟に判断するのは無意味でしょう。でも、ぼくには、以下の三つの場面もまた、「忘れがたい教育」問題の、それぞれがかけがえのない一景色(場面)だと思うのです。新聞に即していうなら、「新聞は新聞にあらず」「旧聞は旧聞にあらず」、人間の問題は「新聞は旧聞」「旧聞は新聞」であるといいたくなるような、そんなことを強く実感するのです。つまり、ぼくたちは日々「歴史に(から)学ぶ」ことを求められているという意味です。

【有明抄】フリースクール 佐賀市大和町にあるフリースクール「しいのもり」が創立10周年を迎え先日、記念イベントに足を運んだ。ミニコンサートやマルシェなど手づくりの企画に感心しながら、改めて「居場所」の大切さを感じた◆フリースクールは学校に行かない、行けない子どもたちの受け皿の一つ。楽しいはずの学校が苦痛に変わる一因は「普通」という概念に苦しめられるからだろう。普通とは多様性を認め合うことと思うが、「多数派」と混同されがちだ。大勢の考え、行動に合わせることが普通なのだと◆学校に限らず、そんな概念に生きづらさを感じる人がいる。社会の「レール」から外れても生き方は幾通りもあるのに、保護者は「学校に行きたくない」と子どもが言った時に不安を感じる◆でも、生き方に正解はない。子どもは学校以外でも育つことができる。フリースクールは「そのままのあなたでいい」と認められることで、子どもが再び立ち上がるためのエネルギーを蓄える場所。認知度も必要性も高まっている◆しいのもりは認定こども園「ひなた村自然塾」を運営する社会福祉法人緑光舎が開設した。10年間で延べ約100人の小中学生が通った。ただ、公的補助はないそうで、保護者は利用料を払っている。義務教育が無料であることを考えると行政が手を差し伸べるべきと思うのだが…。(義)(佐賀新聞・2026/03/14)
【春秋】AYA世代の誇りと幸せ 福岡県糸島市の坂本光優(みゆ)さんは7歳で白血病を発症した。治療を経て4年後に再発、さらに8カ月後に再々発した。「残された時間を家族と過ごすのも選択肢」と医師に告げられても移植手術や抗がん剤、放射線の治療に耐えてきた▼いま21歳。事務の正社員として働き始めて3年になる。「ここまで乗り越えてきたのは大きな誇り」と胸を張る▼何度も壁にぶつかった。中学時代に進路選択のため見学した高校は、階段に手すりがなかった。当時は車椅子生活を卒業したばかり。壁伝いに下りる姿に高校側は「ここは元気な人が来る学校です」とやんわり門戸を閉じた。設備の整った別の高校に進んだ▼アドレセント(思春期)、ヤング、アダルトの頭文字から「AYA」と呼ばれる15~39歳のがん患者たち。進学や就職、結婚、妊娠と治療が重なり、悩みや困難を抱える人が多いとされる。15日までの「AYA WEEK」は、そんなAYA世代のがんについて啓発する催しが全国である▼光優さんは7日、オンラインの交流会で自身の経験を語った。会社の上司に薬の後遺症や検査の必要性を説明したことで「病気だったことを知る人がいる安心感が生まれた」と全国の仲間に伝えた。「周りの人と同じように仕事ができることに幸せを感じる」と笑顔も見せた▼誰もが希望に胸を膨らませる春。病気と共に人生を懸命に生きる若者の一歩一歩を応援したい。(西日本新聞・2026/03/14)
【明窓】病乗り越え 旅立ちの春 昨年11月の本紙「こだま」欄に、一人の高校生の投稿が載った。中学1年の時、10万人に1人の確率で起こる脳出血を患ったこと。左半身まひとなり、つらいリハビリを重ねて学校に戻ったこと。支えてくれた人への感謝と恩返しの気持ちをつづった真っすぐな文章が心の片隅に残っていた。◆高校3年で大学を目指して勉強中とあった。卒業した今どんな思いでいるのだろう。益田市の斉木柊哉さん(18)を訪ねた。セブ島への短期留学、英語の弁論大会出場、小児がん支援の募金活動など、左半身の不自由さを感じさせないほど活発に動いた高校生活を笑顔で振り返ってくれた。◆やっとの思いで中学校に戻った当初、みんなと同じことができない現実に打ちひしがれた。「何で俺が…」。前を向かせてくれたのは、付きっきりで指導してくれた熱い先生であり、やりたい意思を尊重し常に見守ってくれた母だった。◆朝ドラのせりふにもなったやなせたかしさんの詩を思い出す。絶望の隣にそっと腰かけた希望-とは偶然ではなく、周りにいる人が引き合わせるのだと思えてならない。本人は希望を与える側になりたいと教育で起業する夢を追う。◆聞けば、志望大学から合格通知は届かなかった。諦めずに好きな英語を学べる専門学校に進学し、大学編入を目指すという。「病気のおかげで挑戦する癖がついちゃったんです」。夢膨らむ旅立ちの春が訪れている。(史)(山陰中央新法・2026/03/14)

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