予想が外れることを、大いに期待している

 【有明抄】「大地の呼吸」に耳を澄まして〈秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる〉。平安時代の歌人、藤原敏行が立秋の頃に詠んだ歌とされる。残暑の中、秋の気配を感じさせた一陣の風は、もしかしたら台風の予兆だったかもしれない◆1年前の小欄でも触れたが、きのう9月17日は「台風襲来の特異日」だった。1945年9月のこの日、「枕崎台風」が鹿児島県に上陸し、終戦直後の日本に打撃を与えた。二重の苦境をはね返した先人たちに感謝する◆目に見えない空気の動きをどう感じるか。微風は肌を使っていると思う。優しい空気の流れが触感として伝わる。強風、暴風は音でとらえる。日本の季節の変わり目はシベリア気団や小笠原気団など、四つの気団の勢力争いでもあるという。8、9月に台風襲来が多いのはそれも理由の一つではと、素人ながらに考えたりする◆風は「大地の呼吸」、台風は「くしゃみ」のようなものと思う。大地の呼吸は季節の移ろいを感じさせるが、その息遣いは時に加減がきかず、容赦ない◆台風14号が九州に近づいている。秋の学校行事にも影響を与えただろう。コロナ下で控えていた3年ぶりのイベントが台風で中止になっては悲しいが、主催者は安全優先で判断してほしい。防災準備も怠りなく。どんなに文明が発達しようと、人間が自然を超えることは難しい。(義)(佐賀新聞・2022/09/18)

 

 18日(日)午前5時現在、大型で非常に強い台風14号は、屋久島の南南東を1時間におよそ20キロの速さで北北西へ進んでいます。種子島・屋久島地方が暴風域に入りました。(気象庁)

 ただ今は、九月十八日の午前八時です。五時前に起床、猫に食事を与えて、一休みするまもなく、何やかやしていると、少し風が出てきました。雨も降っています。すでに台風十四号は沖縄・九州方面に大きな影響を与えて、さらに北上を続けています。九州方面に上陸し、そこから劣島を縦断する格好で、更に東に進むそうです。「台風」にはいろいろな記憶が、脳中にこびりついています。今どきは、のべつに台風に襲われており、忘れる暇もないほどです。台風にまつわる記憶はずいぶんと古くからあります。台風がもたらした「豪雨」で「大きな川」が氾濫、街中の家屋が浸水した記憶がもっとも古く、石川県時代の、まだ五歳くらいだったか。後年、そのあたりを歩いて、「大きな川」は、実はそれほどでもなかった(大きめの溝のようでした)のは、「記憶の過誤」だったということがわかりました。幼児期に記憶された物・事は、成長すると同時に「その記憶」は残るのですが、それを実見するに及んで、記憶の誤りが訂正され、身の丈にあった大きさ(寸法)に修正される。アリが人間を見ると怪物のごとく映るのでしょうが(人間を見ているかどうか、わかりません)、その「アリ」が人間大に成長すると、自分との比較で、大きかったもも(人間)は小さく見えるという理屈です。「ガリヴァーの世界」のようですね。

 もっとも強烈な印象となって残っているのは「伊勢湾台風(左写真)」(1959.9)でした。これもすでにどこかで触れていますので、繰り返しません。恐怖の体験は、静かな記憶(「風化」というのかもしれない)となって刻印されているものです。三年前には台風十九号の直撃を受け、停電や断水、さらには道路の寸断と、なにかと生活上の影響を受けました。でも、この年齢になると怖さも鈍るのか、あるいは「どうとでもなれ」という気持ちが起こってくるのか、なるようにしかならないさ、そんな気になって「泰然」というか「恐怖心の鈍麻」なのか、少しも騒がなくなりました。これは「地震」にあっても同じです。かみさんには悪癖がいくつもあります(もちろんぼくにも)が、その中でも特筆すべきは、地震の揺れが来ると、何よりも先に、戸や窓を開けるという性癖です。平屋だからいいものの、マンションの上層階だったらどうするつもりだろうと、いつも感心、いや呆れてしまう。「開けて、どうする」というのでもなさそうで、ただ開けるだけという反射神経の誤謬だったりします。恐らく家が押し潰されて、建物の下敷きになるという恐怖心があるのだと推察しています。(それには、ぼくが関係しているのかしら)

 五時過ぎから「天気予報」を見ています。近年の「予報」の精度はなかなかのもので、「全方位外交」ならぬ「全方位観測」を果たすための複数の衛星を駆使しているからです。その昔、気象庁の同好の士が「ソフトボール大会を予定、それが雨で延期になった」という逸話が残っています。それにしても劣島の沿岸部の海水温の高さは不気味ですね。多くの近海域では三十度かそれに近い水温です。台風の勢力が衰えないのも道理だといえます。この十四号は、予想通りの進路を辿ると「劣島を串刺し」にして東北方面に抜けそうです。そうならないことを願うばかり。

● ラニーニャ現象(らにーにゃげんしょう)La Niña Event=エルニーニョ現象反対語。エルニーニョ現象とは対照的に、日付変更線より東の太平洋赤道海域で平均海水温度が、ふつう6か月ほど連続して0.5℃くらい低くなる現象。エルニーニョ現象は19世紀末から漁業関係者によって取り上げられてきたが、ラニーニャ現象は1984年秋から85年春、さらに88年春から89年春にかけておきたときから注目されるようになった。89年冬には珍しく太平洋日付変更線付近は高気圧帯となり、冬の特徴であるアリューシャン低気圧は平年より弱くなって、89年1、2月の日本は平年より地上気温が2.5℃くらい高い暖冬となった。ただしラニーニャ現象の場合、夏、冬の中緯度地域の気候変動への影響はエルニーニョ現象に比べて小さく、今後の研究課題の一つになっている。90年代になるとラニーニャ現象はほとんど観測されなくなっていた。しかし98年後半から99年2月ころに久し振りにラニーニャ現象がみられた。ただし、99年夏の異常気象すなわち北日本、東日本の猛暑、西日本の多雨との関連性に関しては、インドのモンスーンの影響なども考えられ、これも今後の研究課題である。(ニッポニカ)

● 「1959年(昭和34年)9月26日18時頃、後に「伊勢湾台風」と呼ばれる台風15号が和歌山県潮岬の西に上陸した。上陸後もあまり勢力が衰えず、早い速度で本州を縦断したため広い範囲で暴風が吹き、名古屋市では最大瞬間風速45.7m/sを観測した。/ 台風の進行方向東側に当たった伊勢湾岸では高潮により広範囲が浸水、深夜の台風通過で犠牲者が増え、全国で死者4,697人、行方不明者401人、住家全壊40,838棟、被災家屋は500,000棟以上に達し、戦後最悪の台風災害となった。/ この台風を契機として、1961年(昭和36年)に災害対策基本法が制定された。(「災害カレンダー:https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/109/)

 (上同記事より)「伊勢湾台風が知らしめた風台風が起こす高潮の脅威 和歌山県・潮岬への上陸時の最低気圧が929.5hPa、平均最大風速が33.5mという、非常に大型の台風でした。こうした風が強い台風では、海水が風に吹き寄せられて潮位が上がる高潮が脅威に。そして、伊勢湾の西側を沿うようにコースをとったことで、その脅威がより高まりました。また、名古屋港近くの貯木場では、保管されていた海外からの輸入原木が、人が住むエリアへ流される二次被害も起きました。建物を破壊したり避難民を巻き込んだりと、その破壊力は凄まじく、これも高潮と高波によって発生したのです。/ また、国レベルで見ると、災害に対する法整備が今ほどなされていなかったことが、大きな被害となった要因と言えます。伊勢湾台風を受けて、国は1961年に災害対策基本法を公布。防災に関する責務の明確化や組織の設立などを規定し、以降の防災に役立てています。/ 現代では、港湾地区には大量のコンテナなどが集積されているため、その近辺で生きる人は、高潮への危機意識を持つべきでしょう。ただその一方で、一つの災害に固執するのも危険です。『海が近いから高潮に気をつけよう』と意識すると、地震などほかの災害を忘れがちになります。ですので、日頃からいろんな危険を意識する必要があります。/ 最後に、命を守ることが最も大切ですが、高潮や洪水などの水災害に対しては、その後の生活を考えると、財産を守ることも無視できません。電化製品といった、濡れると困るものを上階へ移動させるなど、未来を生きるための対策をしておけば、『次は自分が避難する番だ』という気持ちを持ちやすいかもしれません」(井口 隆さん)

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 秋から冬にかけて吹く風を「野分」と呼び習わしました。二百十日や二百二十日ころには、特にそのように言われる風が吹くものでした。今では「台風」そのものも、「野分」と言われるようになりました。野分という語は、いかにも長閑(のどか)と言うほどではないにしても、それなりの風情があるもののように使ったり、聞いたりしてきましたが、今では恐ろしい「暴風」のイメージが備わっているんですね。不用意には使えない「語」になりました。「野分」の句をいくつか。

・あかつきのやねに矢のたつ野分哉 (蕪村)  ・うつくしや野分の後のとうがらし( 蕪村)  ・山は虹いまだに湖水は野分哉(一茶)  ・我声の吹戻さるゝ野分かな (内藤鳴雪)  ・この夕野分に向いてわかれけり (漱石)  

 (ここまで綴って来て、「停電」発生です。「駄文を書くのは、もう止めなさい」という合図かもしれない。この調子では繰り返し停電に見舞われそうなので、自然のシグナルに従って、駄文は、途中ですけれども、ここで中断。落ち着いたら再開します、しないかも)(午前九時半過ぎ)

 (十時半に再開)「どんなに文明が発達しようと、人間が自然を超えることは難しい」というのはコラム氏です。その言は間違いではないでしょう。しかし、根っこにある「人間が自然を超える」という発想自体が、諸悪の根源だともいえます。自然と共生するのは「文化」です。荒れ地を耕し(耕作)、そこから収穫を得る(栽培)ことで、人間は生きてきました。この「文化」という生存の土台を手放し、空を自由に飛ぶという「科学技術」の開発によって、人間には相当なことができるのだという「錯覚」を持ってしまったのも事実です。(空中の「交通事故」は発生しないんでしょうか。一方通行や追い越しなど、地上以上に面倒なことが起こりそうで、人間という存在は、自ら問題を生み出していくものなんだね) 

 「台風」は自然現象だと説明できますし、それを克服する「技術」の獲得を人間は求めているのでしょうが、どこまで行けば、「満足」を得られるのか、人間もまた、紛れもなく「自然」の産物ですから、その摩訶不思議な生命体の不思議を解明する方向を求めるのは「冒険精神」ではありますが、その冒険は常に実利・実害が伴うという意味では、どこまで、どこで、という「限界設定」は人間のような「欲求の塊」ではとても困難なのではないでしょうか。「自然(人間という存在)」が「自然(環境及び、そこに生じる現象)」を克服するとは、どういうことを言うのでしょうか。

 (この瞬間に、ばかみたいな「疑問」が出てきました。「台風は百害あって、一利なしだろうか」と言うものです。恐らく人間のスケールからは考えられない視野というか視点が必要でしょうね。どこかでゆっくりと考えてみたい)

 (またまた、雲行きも怪しくなり、風も強まってきました。それを幸いに、本日はここまでにします(十時五十分)。この「寝言」のような駄文の続きは後日に)

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一瞬の泡沫「勝てば官軍」に、旗を振るな

 <あのころ>日本が満州国を承認 日の丸手に祝う 1932(昭和7)年9月15日、靖国神社で日の丸を手に集まるのは、満州国を国家として認める「日満議定書」調印祝賀に駆り出された女学生。国際世論は、国際連盟からリットン調査団を派遣するなど「満州国はかいらい国家」との見方が多く、機先を制して既成事実化する狙いがあった。(日本電報通信社撮影)(共同通信社・2022/09/15)

 この写真は今から百年前の「満洲国建国」記念の祝賀行事でした。駆り出されたのは「学徒」で、いつだって「学徒動員」に応じさせられてきたのが学校でした。有無を言わせない強制で、強権発動は「国家」のお得意芸でした。国家を名乗る連中はこれを「使いたがる」んだな。最近では「緊急事態宣言」だった。この後、この満州国はどんな運命を辿ったかは言うまでもありません。「旗を振って行進しなさい」と、教師に言われたから、こどもたちは歩いただけ、教師は「上から命じられたから、生徒たちを駆り出したまで」という。まるで「木偶の坊」ですね。「上」とは「お上」だったか。お上は自身の判断を持っていたとは思われません。したがって、強引な侵略国家「満州帝国」偽造・捏造は諸々の勢力が合致してでっち上げられたという次第。いわば「捏造国家」だった。その蛮行・非道で、どれだけの人民が死の苦しみを負わされ、その後の人生に消すことのできない深い陰影を刻み込まれたことだったか。「泡沫国家=満州帝国」は、歴史の検証に耐えられず、十年と維持できなかった。それが地上から全て消えたのは十三年後の、昭和二十年八月だった。一瞬が永遠であり、永遠は一瞬だったんですね。「永遠は時の鏡」だといえます。

 今、ウクライナで、ロシアの「狂人」が侵略を果たしており、いつ果てるともしれない戦争の影で、無数の人民が枯れ葉のごとくに消されていっているのです。正当性も大義もない戦争、それを影になり日向なり「支持させられる人民」もまた、この戦争の犠牲者だったと言わなければなりません。(右は「クリミヤ侵略」時、2014年のもの)独裁者がひとりで何でもできるのではなく、そこにはこの「狂気の人」を有形無形に支える、つかの間の「偽愛国者」が数多いたことになります。自らに被害が及ばない限り、人民も「戦争協力者」であることになるでしょう。戦中は言うまでもなく、戦後の後遺症も癒えることのない深手であることは疑えないのです。ヒロシマ・ナガサキに代表される「戦争被害」「戦争の傷跡」は、歴史が続く限り消え去ることはない。

 「靖国神社で日の丸を手に集まるのは、駆り出された女学生」という写真に関心が湧いたのは、これを報道した通信社が「日本電報通信社」だったからです。今で言う「天下の電通」の前身でした。満州事変を期に、この会社は大きくなるのですが、それ以前は小さな「電報通信会社」でした。今や、この島社会の屋台骨を支える幹事会社ともいうべき、天下無双・無敵の利益貪(むさぼり)り企業軍となり仰せているのです。(社歴は下の事典参照)(左は創業者・光永星朗)

 昭和七(1932)年、ぼくはまだ生まれていませんでした。ある学校に就職した時、所属した学科の先輩たちの殆どが昭和七、八年生まれでした。ぼくと一回(十二年)りほどの違いでした。満州事変や日米戦争「開戦時の子ども」だったと想うと、なにかしらの感慨が湧いてくるのでした。「征」「昭」などという名前をひどく嫌っていた先輩もいました(誇らしげだったのもいた)。国民(人民)が挙って「戦争に参加する」というのは、ぼくからすれば「嘘」です。今も昔も、「戦争」を始めるのは、それに利害が絡んでいる人々(一山派)であって、金儲けや自己欲求(自己肥大)の手段にしたにすぎないのです。しかし、その被害たるや想像を絶するものがある。上の写真を見て、百年前の「女学生」は何を知り、何を思って「旗を振る」のか、いつでもぼくはそのことを考えてしまう。

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● 日満議定書(にちまんぎていしょ)=1932年(昭和7)9月15日、日本の「満州国」承認に際して両国間に締結された協定前文で「満州国」が独立国であることを確認し、本文では〔1〕「満州国」は日本が従来から有するいっさいの権利利益を確認尊重すること、〔2〕日満両国の共同防衛のため所要の日本軍が「満州国」内に駐屯すること、を協定した。また協定に付属する秘密の往復文書によって、「満州国」が、国防・治安維持や、鉄道・港湾・水路・航空路などの敷設・管理を日本に委託すること、また「満州国」政府要職に日本人官僚を任用し、その任免権を関東軍司令官にゆだねることなど、同年3月の司令官宛(あて)執政書簡その他先行協定による従来の権利の有効性が確認された。調印の直接的動機は、国際連盟派遣のリットン調査団による報告書公表(10月2日)前に既成事実をつくりあげることにあった。これに対し中国国民政府は満州の保護国化であると抗議し、ヨーロッパ諸国は国際連盟の無視であると批判した。(ニッポニカ)

● 電通(でんつう)Dentsu Inc.=広告会社(→広告代理業)。1901年光永星郎の創立した日本広告が前身。光永は 4ヵ月後に電報通信社を創立し,1906年日本電報通信社と改組改名(略称が電通),翌 1907年日本電報通信社に日本広告を合併した。その後,新聞聯合社と通信界を二分して競争を続けながら発展。1932年政府は言論統制や国際宣伝強化などの見地から通信社の一本化方針を決定,1935年新聞聯合社を母体に同盟通信社を発足させた。1936年,日本電報通信社は通信部門を同盟通信社に委譲し,代わりに同盟通信社の広告部門を吸収,広告代理業専門の会社として新発足した。第2次世界大戦後は吉田秀雄のもとで日本経済の復興と高度成長の波に乗り,驚異的発展を遂げた。1955年,社名を現名称に改称。日本のみならず,1970年代以来世界の広告会社のトップの座を確保している。本社所在地は東京都港区。(ブリタニカ国際大百科事典)

(右上は里見甫(はじめ)「里見 甫(さとみ はじめ、1896年明治29年)1月22日 – 1965年昭和40年)3月21日)は、ジャーナリスト実業家三井物産のもとで関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた」Wikipedia)(里見甫に関しては、あるところで、すでに触れています)

 「国際世論は、国際連盟からリットン調査団を派遣するなど『満州国はかいらい国家』との見方が多く、機先を制して既成事実化する狙いがあった」(コラム「あのころ」)と言うのは、いつに変わらぬ、権力行使の常套手段でしょう。「傀儡(かいらい)」とは、「あやつり人形)のことであり、「くぐつ」ともいわれます。また、一種の音頭のような響きで、「勝てば官軍」と囃(はや)す。「負ければ賊軍」と続きます。「戊辰戦争の際の薩長軍と幕府軍の戦いから生じたことばで、西郷隆盛の持論であったともいわれます。その後、西南戦争では、薩軍の兵士が「勝てば官軍負くれば賊よ」と歌っていたといいます」(ことわざを知る事典)

 英語圏では「Might is right.」というらしい。ふざけていますが、「朕は国家なり」と同様に、断じて認めてはならない傍若無人の風ではないでしょうか。「暴力が正義だ」というんですか。「勝てば官軍」とは、「暴力団とは「正義団のこと」だという、じつに荒唐無稽のポンチ絵に通じますね。

 しかし、「勝つ」も「負ける」も一時・一瞬のもの、だとするなら、「官」も「賊」も、一時のもの(架空)だということになります。ぼくにとって何がいいといって、人に誇ることなく、人に引け目を感じることなく、己の生き方をまっとうする、まっとうしようという心がけではないでしょうか。嘘をつき通し、「位人臣を極めて」、それでどうだというのかしら。他国に土足で押し込み(強盗です)、無辜の民を無数に殺戮し(殺人鬼)、それでどうしたいというのかしら(墓穴をほっていることに気が付かないんだ)。(同一業種一社というスポンサー契約に対して、出版界だけは「二社でどうだ」と高橋某が提案したら、同席していた元総理が「K談社は絶対に入れない」と言ったとか。音声記録が残されていた)

 それらの所業は、ぼくの理解を超え、まったくの「ハレンチ(破廉恥)」だとしか見えない。五輪開催を好機と見て「会社を大きくしたい」「億の金をポケットに入れたい」、そうして、どうするつもりだったか。高級車に乗りたい、大きな家に住みたい、うまいものを腹いっぱい食いたい、いろいろとやってみて「あいつはすごいやつだった」と言われて死んでみたかったのでしょうか。そんな醜悪な姿を見せないでよと言いたいね。まさに「犯罪」ではないですか。

 「歴史は繰り返す」のではない、「人間が同じ轍を踏む」のです。

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病者には秋分もなし臥(ね)るばかり (源義)

 【斜面】出版人の五輪汚職 敗戦から3カ月後。角川源義(げんよし)(1917~75年)は自宅を事務所に角川書店を創業する。49年5月に創刊したのが角川文庫だ。第1回の配本はドストエフスキーの「罪と罰」。翌年には現在のサイズに改装し、文庫ブームに火を付けた◆今も刊行が続く文庫の巻末には源義の発刊の辞がある。敗戦を〈自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗してきた〉と総括。〈出版人の責任〉を顧み、文庫を〈学芸と教養との殿堂として大成せん〉と誓っている◆子どものころから文学に親しみ、親の反対を押し切って大学の国文学科に進んだ。戦争が始まると繰り上げ卒業になり、2度召集された。発刊の辞には文化によって国の礎を築き直すとの熱い思いがほとばしる。その源義の次男歴彦(つぐひこ)氏は東京五輪にどんな価値を見ようとしたのか◆スポンサー選定を巡る汚職事件の贈賄容疑で逮捕された。新時代のコンテンツを開拓し、業績を飛躍させたKADOKAWA会長である。受注した公式ガイドブックに文化的な価値があるとは思えない。五輪利権に群がる人々の列に加わっただけなのか◆源義は秀句を多く詠んだ。〈くらがりへ人の消えゆく冬隣〉。本紙「けさの一句」で土肥あき子さんは解説している。「くらがり」は不気味な口を開いている冬の象徴。避けようもなく吸い込まれていく人の背をなすすべなく見送っている、と。次男の背を源義はさぞ不安げに見ていよう。(信濃毎日新聞・2022/09/16)

 角川源義さんに抱いた印象は「いかにも文人だなあ」でした。それが書店の創業者でもあったのですが、いつまでもぼくの中では、「角川のカラー」は地味だった気がします。俳句・和歌の出版には定評があったし、それなりの著者(文学者・俳人など)が揃っていたようにも思います。ぼくは柳田國男さんの角川文庫版はすべてもっていましたし、その他の人のものでも同様に、文庫本では揃えてみようという邪念が起こったんですね。若気の至りでした。店主の源義さんのものもよく見、よく読みました。彼の師匠は折口信夫(釈迢空)さんで、あるいは、師から受けた薫陶は思わないところで匂いだしていたことでしょう。また、源義さんは飯田蛇笏をこよなく尊敬していたということを知り、ぼくはまるで自分のように嬉しくなったことを覚えています。俳句がまるで「真剣」のような営為な切れ味を期待していたのでしょうか。「寸鉄人を刺す」という具合に「俳句」を捉えていたのかもしれません。

 二代目(春樹さん)、三代目(歴彦さん)に関してはほとんど知るところはありません。二代目は俳句をよくしていた方だということは早くから知っていたし、それらのいくつかを、ぼくは好んでいました。人物に寄せられた世評とは大きな裂け目がある句作品の雰囲気だった。しかしそれが一点、本業の「商売」となると驚くばかりの「やり手」だったという印象があります。映画に思い切り突破口を開いた方だった。出版というものに対して、父親の描いた軌跡とはまったく方向が違っていたようです。

 三代目になると、なぜだか、あらぬ方向に走ったという気がしないでもありません。二代目が(麻薬」で捕まった直後に登場した際、じつに地味に写ったものでしたが。実際は、二代目よりも遥かに「やり手」だったということでした。出版業は先細りだから「角川」という看板は古い、だから「KADOKAWA」と名称変更(看板の架替)が行われたのでしょう。看板が変わっただけではなく、中味も一変したかもしれません。その途中での出来事が「五輪疑惑」だったのでしょうか。まだ「容疑」の段階ですから確かなことは言えません。しかし、生き馬の目を抜くような他業種と伍して「五輪スポンサー」に名乗りを上げるほどでしたから、それだけ、出版界の現状を打破したいという「覚悟」はあったのでしょう。文学や文化もいいけれど、とにかく「勝負」には勝たねばならぬと言う気性がいつしか芽生えていたのでしょうね。

 ぼくは商売っ気はまったくない人間ですからから、売上第一、盛業一途に走る企業家の信条がわかりません。会社の売上げを二倍、三倍にしたいというのは、どんな商売人でも持つ野心なのかもしれないし、それは当たり前の「経営哲学」に基づくのでしょう。あるいは同業他社との生存競争に勝つためには、異業種への転身をも図らなければならぬということだったかもしれない。出版業の行末を見据えたら、この際は、従来の慣行やしきたりに縛られてはならないということだったのかも。ニコニコ動画との共同事業の話を早い段階で聞いた時(ニコ動の内部の人から伺った)、「よくやるね」と思った。でも、どんな理由があるにせよ、「羽目を外す」というのは論外ですね。現段階で、事件の顛末は不分明のことばかりですから、いずれ事態が明らかになった暁には、話したくなることがあれば、なにがしかを駄弁るつもりです。「売家と唐様で書く三代目」だったか。(右下写真)

 東京五輪の当初の予算は七千億円余でした。決算が公開されていない(そもそも、五輪関係の金の出入りは一切明らかにされていないのは「組織委員会」が「財団法人」だからだと言う、理不尽な。(巨額すぎる税が投入されていたのですよ)巷間言われている説では、五輪関係の資金は「3兆円超」だとも。好き放題に税金投入を要求し、済んでしまえば、後の祭りと言うらしい。この後はまた、大阪万博であり、札幌冬季五輪が来る予定というから、よほど金になるイベントらしいし、それを招き寄せる「招き猫」が由緒ある「取り仕切り屋」だったんですな。それに巻き込まれる業界人も後を絶たないし、魑魅魍魎を右往左往させる「DEN✖✖」は、さらに、ますます健在だと言う。この島国の行末も五里霧中といえばいいのか。昔「陸軍」、今「DEN✖✖」というようだ。(今に判明したのですが、実は「東京五輪」は「神宮外苑」という不動産のお宝、言うなれば、東京都以外の他者には手の出しようのない「金城湯池」だった、最後の大規模再開発計画の、その序の口・突破口だった。今は亡き都知事は早い段階から、再開発の青写真ならぬ、黒写真を描いていたのです。これも全貌が明らかになるときには、もうすっかり時効というか、「噂」の賞味期限が切れているのです。今外苑のイチョウだったかなんだかを「千本切る」という、その騒動に惑わされませんように)

 広告会社を看板にしてきたこの会社は「吸血鬼」の如く、満州事変以来、この劣島の「生き血」を吸い続けています。国も地方も、そのために「重度の貧血症」に罹患しているのですが、病膏肓に入(い)るという言葉通り、手のうちようがないほどの弄ばれ方です。故元総理の「国葬」も、この会社案件でしたな。満洲事変時は電報会社でしたが、政界の人脈作りに執心した結果、ついにはシロアリのごとくに「国家」の土台ごと食いつぶしてきたのです。マスコミ(新聞テレビなど)は言うに及ばず、今では防衛省の武器調達でもすさまじい増殖力を見せている。コロナ禍も「千載一遇の好機」と見た。あらゆる領域で根を張るという点では、雑草なんでしょうが、この雑草は他の草種を完膚なきまでに枯らしてしまうという、まるで有毒性除草剤「ラウンドアップ」も顔負けと言うべきだろうね。

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 源義さんの句を少しばかり。

・灯ともせば雨音渡る茂りかな 

・秋風のかがやきを云ひ見舞客 

・鳥影や遠き明治の冬館 

何求(と)めて冬帽行くや切通し 

篁(たかむら)に一水まぎる秋燕

 それにしても「角川」が「KADOKAWA」に変わったのは、転生でもあったろうし、変容(変身)でもあったのでしょうが、脱皮が思わぬ「醜悪な姿」を生んでしまったのか、「角川」の一読者としては、残念というほかない。「文庫発刊の辞」がいまさらに思い出されてきます。初心と言うか、初念というか、そこへ戻ることはできないんですか。 

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● 角川源義(かどかわげんよし)(1917―1975)=角川書店の創立者であり国文学者。大正6年10月9日富山県生まれ。1937年(昭和12)、当時国学院大学教授であった折口信夫(おりくちしのぶ)の学風にひかれ入学、1941年卒業。角川がたまたま手にした河合(かわい)栄治郎の著書の欄外に「目がつぶれるほど本が読みたい」という書き込みがあるのに感動し、1945年(昭和20)11月に角川書店を創業したといわれる。1949年角川文庫を発刊。第二次世界大戦後の第一次文庫ブームの端緒になる。1952年『昭和文学全集』全60巻を発刊、爆発的売れ行きで全集ブームの契機をつくる。角川の学問への情熱は厚く、1961年『語り物文芸の発生』で文学博士の学位を受ける。1964年以降、国学院大学文学部講師を務める。句集ロダンの首』などがある。昭和50年10月27日死去。(ニッポニカ)

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「病気ではなかった。ただ疲れ果てていた」 

 【天風録】ゴダールさんの選択 きのう本紙を開き、訃報の思わぬくだりに目がくぎ付けとなった読者がいるかもしれない。フランス映画界に革命をもたらした監督ジャンリュック・ゴダールさんの最期を伝える一文である▲フランス紙によれば、スイスの自宅でお医者さんから処方されていた薬を自ら使い、覚悟の上で、この世に別れを告げた。周りも了とし、みとっていたのだろう。家族が出した声明に「穏やかに亡くなった」とあった▲「横紙破り」の気性を自他共に認めていた。1960年公開の出世作「勝手にしやがれ」でカメラを街角に持ち出し、主流だったスタジオ撮影に異を唱える。カンヌ国際映画祭の権威を嫌い、中止に追い込んだことも。映画ファンの注目をさらい続けてきた風雲児だった▲まさかタイミングを計ったとは思わないが、折しもマクロン大統領が「終活」問題をまな板に載せている。一生を終えるときに本人の意思を反映させる法律を用意するか否か―と。議論の行方から目を離せそうにない▲「勝手にしやがれ」は実は邦題で、原題は「息も絶(た)え絶(だ)え」だった。「型破り」の巨匠らしい最期とも映るし、九十一の春秋を重ねてきた人の決心と思えば、胸にこたえる。(中国新聞デジタル・2022/09/15)

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 ゴダール監督、スイスで認められた「自殺幇助」で亡くなる 仏紙報道13日に死去したフランスの映画監督ジャンリュック・ゴダールさんについて、仏紙リベラシオンは同日午後、ゴダールさんはスイスで認められている「自殺幇助(ほうじょ)」により亡くなったと報じた。家族の一人は同紙に「(ゴダールさんは)病気ではなかった。ただ疲れ果てていた」と話している。 AFP通信は関係者の話として、ゴダールさんは日常生活に支障をきたす病気を患っていたことから、自殺幇助による死を選んだと伝えている。スイスでは、自殺幇助で亡くなる人が増加傾向にあり、2003年の187人から15年には965人に増えているという。(パリ=宋光祐)(朝日新聞・2022/09/13)

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● ゴダール(Godard, Jean-Luc)=[生]1930.12.3. パリ フランスの映画監督。フランスで生まれたが,兵役を逃れるためにスイス国籍をとりスイスで育った。パリ大学中退後,『カイエ・デュ・シネマ』誌などに映画批評を書きながら短編映画をつくっていたが,1959年に長編第1作『勝手にしやがれ』À Bout de Souffleを発表。その即興的な演出と大胆な編集,コラージュのような構成は世界に衝撃を与え,一躍ヌーベルバーグの寵児となった。続く 1960年代も『気狂いピエロ』Pierrot le Fou(1965)など先鋭的な作品を次々と生み出し世界的な名声を不動のものとする。しかし 1968年の五月革命前後から『イタリアにおける階級闘争』Lotte in Italia(1970)など政治色の強い作品に傾倒し,『万事快調』Tout va bien(1972)を最後に商業映画から離脱。「ソニマージュ工房」Sonimageを設立し実験的小品を制作する。また政治色の濃い作品をテレビを通じて発表。1979年『勝手に逃げろ/人生』Sauve qui peut (La Vie)で再び商業映画に復帰。以後『ゴダールのマリア』Je vous salue,Marie(1984),『ゴダールのリア王』Jean-Luc Godard’s King Lear(1987),『ゴダールの決別』Helas pour moi(1993)などを監督。映画の概念を根底から変革した作家と評される。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 ヌーヴェルバーグは、恐らく一世を風靡したと評価されているのでしょう。この社会でも、ゴダールの後塵を拝すると言っては語弊がありますが、映画界の「新しい波」が津波のように欧州からやってきた。吉田喜重や大島渚、篠田正浩たちを旗手にして、古い体質の映画界を掻き回す「波動」くらいにはなったと思う。ぼくは、何度も言ってきたように、映画はまったく不勉強で、このゴダールさんの映画についても何も喋れません。今頃になって後悔するものばかりですが、中でも「映画に無知」は、ぼくには致命的な欠点となったと言っていい。

 小さい頃、近所に映画会社に務めていた知り合いが多かった。小学生の頃、ぼくや弟は学校から帰ると、そのおじさんたちに連れられて撮影所に出かけた。いわゆる「エキストラ」の子役(その他大勢)として、何十本もの映画に出たのだ。主として「東映」と「大映」だった。その関係で、その会社の映画はフリーパスで、どれだけ観たことか。チャンバラやヤクザもの、あるいは「夜の蝶」「赤線地帯」などといういかがわしいものがほとんどだった。ぼくの中の「映画」はそれらで出来上がっていた。つまりは「新しい波」はぼくには起こらなかったのです。日本映画界の鬼才たちも「小津天皇」などに反旗を翻したのはよかったが、いささかの物議を醸した程度で、新しい波は消えていったのではなかったか。映画に無知な人間のこと、この観察はまちがっているだろう。しかし「勝手にしやがれ」にしたところで、観たことは観たが、ぼくには何が革命的であったか理解できなかったのも事実です。映画が理解できない人間の言うことですから、まるで寝言そのものだということです。

 ゴダールは「映画界のピカソ」の異名を与えられていたそうです。これもよくわからない評価で、果たして何がピカソ的だったか、いまもって判然としないままです。「勝手にしやがれ(原題は『 À bout de souffle (1960)』(「息せき切って」とか「息も絶え絶えに」という意味か)」は二十八歳の作品、ベルモントは二十六歳、ジーン・セバーグは二十歳でしたから、「若者の反抗」、あるいは「若いだけの出鱈目」という意味では大いに受けたのかもしれません。もちろん、映画製作や映画技法の革新性は言うまでもないことですが、ぼくには理解できない世界の話です。

 この駄文で考えたいのは「映画論」ではなく、「ゴダール論」でもなく、「安楽死」についてです。九十歳を超えた、かつての映画界のピカソも、老齢如何ともし難く、「自殺幇助」という手法で、自らの人生に幕を下ろした、なんとも意外だという感がします。この問題も「答えのない問い」に属するでしょうから、その是非を論じても、大した意味はなさそうです。だから、敢えて言うなら、「自分は安楽死を選ぶか?」という問いを、自分の中で立てる必要があります。スイスは合法的に安楽死を認めている数少ない国の一つ。ゴダールはパリ生まれでしたが、一度は「兵役逃れ」のためにスイスに移住したとされます。その後もパリで映画に関わる仕事をしたのですが、後年はスイスに再移住。そして最後の審判を、「安楽死」で迎えたのでした。

 皮肉でもなんでもなく言うのですが、映画界の古い慣習を破壊した鬼才も、よる年波(老衰・老齢)には抗するべくもなく、「勝手にしやがれ」とはいかなかった、と想う。ここに「人生の残酷さ」があると言えば、どのように受け止められるでしょうか。日本でも、大島渚氏などは映画のみならず、各方面で八面六臂の活躍をしたとも言える映画人でしたが、最晩年は「認知症」を長く生きた(患ったと言うべきか)とされます。生まれるときも死ぬときも、その「直後」、あるいは「直前」までは、自らの置かれた状態を知ることは可能ですが、生まれる瞬間や死の瞬間は、すでに別世界へのとば口でもあったんですね。(右写真は(松竹の「新しい波」を名乗ったとされた監督たち。どうだっていいのですが、この三人の颯爽派たちは、いずれも自らの監督作品で「主演」を張った女優さんと結婚した。まさに「vieille vague(「旧い波」)」、日本映画界の旧い麗しい伝統を踏まえたんですかね)

 時を同じくして、有名人として、イギリスでは「女王」が、日本では「元総理」が、そしてスイスでは「映画監督」が亡くなられた。それぞれが自らの人生にふさわしい最後であったかどうか、ぼくには判断が付きませんが、「死ねば、人みな同じ」ということだけは確かです。生と死は、相対立するものではなく、死があって初めて「生が完結する」故に、生にとって死は不可欠のプロセスだとぼくは考えます。だとすれば、死から遡って、それぞれの人生の軌跡を辿ることもありうるのではないでしょうか。現段階では、「安楽死」は十分に、世人に周知された事柄ではない。ある国では、いくつかの条件をつけて安楽死を容認し、別の国では、よほどのことがない限り「安楽死」はそれに関わった人は、あるいは殺人罪に、あるいは自殺幇助の罪を問われることになります。安楽死問題の根拠をたった一つの「正解」に収斂させることは暴力政治には可能でしょうが、当たり前に生きている人々の理解を超えた問題として残り続けるのではないでしょうか。(これに関して、誰もが納得するような「結論」は得られそうにないという意味です)

 メメント・モリ(memento mori)(「死あることを忘れるなかれ」)、古代ローマ以来、この「箴言」が語り伝えられてきました。

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● 蟹瀬誠一「間もなくやってくる「多死社会」を前に」(https://diamond.jp/articles/-/293060)                                   ● 宮下洋一「『海外での安楽死』は200万円で十分可能」(https://president.jp/articles/-/24274?page=1) 

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● 安楽死(あんらくし)=オイタナジー Euthanasiaの訳語。古くから用いられて来たことばであり,多様な意味をもつ。(1) 積極的安楽死,(2) 間接的安楽死,(3) 消極的安楽死,の三つに分類されることもあり,(1)は苦痛を除く手段がない患者の命を薬剤投与などで意図的・積極的に縮める行為,(2)は苦痛緩和療法で麻薬などを与えた結果として死期を早める行為,(3)は苦痛を長引かせないよう医療行為を控えたり延命治療を中止したりして死期を早める行為,とされている。(3)は尊厳死と同義とする見解もある。国内外で社会的に問題となるのは,ほとんどが (1)の事例である。自殺幇助(→自殺関与罪)あるいは殺人(→殺人罪)との区別が難しい。自殺幇助を許容しているスイスなど (1)を違法としない国もあるが,日本国内で適法とされた例はなく,安楽死事件として取り上げられる場合が多い。1962年に名古屋高等裁判所(山内判決)が,1995年に横浜地方裁判所(東海大学安楽死判決)が (1)を適法とする要件を示した。よく引用されるのは後者で,要件として (a) 耐えがたい肉体的苦痛の存在,(b) 死期の切迫,(c) 患者の明確な意思表示の存在,(d) 苦痛除去・緩和の手段がない,の四つがあげられる。ただし,患者の苦痛を除去・緩和する技術の向上によって,これらの要件はすでに役割を終えたとの指摘もある。(ブリタニカ国際大百科事典)

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  ◯ 参考までに 西部邁さんの死、橋田寿賀子さんの思い 安楽死を考える   渡る世間と安楽死:4

 「安楽死、まだあきらめていません」と話す脚本家橋田寿賀子さん(92)のインタビュー4回目のテーマは「西部邁さんの自死」について、そして「家族のみとり、医師のみとり」についてです。ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』の医師に託した思いとは。オランダの安楽死事情に詳しい太田啓之記者(53)が聞きます。

 記者 老年心理学の専門家によると、バリバリ仕事をされたり活躍されていた人ほど、老いることが苦痛になり、耐えがたいそうです。

 橋田 いい時代があると、歳を取った時に落差が出てくる。西部邁さんが自殺されたのも、やっぱりそうなんでしょうね。

 記者 西部さんの死については、どう考えますか。

 橋田 自分でちゃんと老いを清算されたんだと思いますね。これから生きていても、今まで生きてきた以上の自分にはなれないし、もしかしたらマイナスになるかもしれない。その時点でやっぱり、ご自分で清算されたんだと思います。

 私もそういう気持ちがありますもの。今死んだら汚点はない。これからぐしゃぐしゃになっても生きていたら、「橋田寿賀子はよいよいになって死んじゃった」と言われかねない。それはイヤだな、と思いますね。

 記者 だけど、現役時代とのギャップに苦しむ時期を乗り越えて80歳代、90歳代になると、老いを受容できる「老年的超越」と呼ばれる段階に至るそうです。

 橋田 私は老いはもう受け入れていますし、いつ死んでもいいと思っています。生きている間は遊びたいと思っていますが、お酒も飲まないし……。つまらないから、船に乗るぐらいしかない。

 記者 オランダで取材した時に感じたのですが、オランダの人びとは、「一人ひとりが自立している」と言われる一方で、1人で死ぬのはすごく嫌がっていました。

 橋田 なるほどね。誰かにみとってもらって、家族の中で死にたいんですね。

 記者 オランダの人たちに言わせると、自殺と安楽死はまったく違うそうです。自殺は誰にも言わずに孤独に、突然死んでしまって、周囲がすごく衝撃を受けるけれど、安楽死は事前に家族や親しい人びとに告げて、みんなにさよならを言えて、見送られる。それがいいところだと。(以下略)(朝日新聞・2018/03/08)(https://www.asahi.com/articles/ASL2S4GV5L2SUEHF002.html

 (左上の動画:https://www.bbc.com/japanese/44078519

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極東に不安のつづいている限りを…

【地軸】4度目の反対 米軍統治下の沖縄には大量の核兵器が配備された。核弾頭を搭載できるミサイル「オネストジョン」もあった。沖縄出身の詩人山之口貘(やまのくちばく)が「島」で時代の空気を伝える。▼「おねすとじょんだの/みさいるだのが/そこに寄って/宙に口を向けているのだ/極東に不安のつづいている限りを/そうしているのだ/とその飼い主は云うのだが/島はそれでどこもかしこも/金網の塀で区切られているのだ」。死去の翌1964年刊行の詩集に収められている。▼そのころ沖縄の最高権力者はキャラウェイ高等弁務官。自治権拡大の求めに「沖縄住民による自治は神話だ」と言い放った。怒りは受け継がれる。半世紀後の2015年、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を「粛々と進める」と繰り返す当時の菅義偉官房長官に、翁長雄志知事は神話発言を重ね「問答無用に感じられる」と批判した。▼復帰後も核再持ち込みの密約があった沖縄である。長大な金網の塀も残る。移設の是非を正面から問うたおとといの知事選で、県民は14、18年に続いて反対の意思表示をした。19年の県民投票を含めれば4度目となる。▼この間、政府は誠実に向き合ってきたか。振興予算の削減は、地域の未来を自ら決める権利をゆがめるものではなかったか。なお「辺野古移設が唯一の解決策」の一点張りで打開の展望はあるのか。▼沖縄の民主主義は神話、というつもりはあるまい。耳を傾けねばならない。(愛媛新聞・2022/09/13)

(米軍に保護された座間味の住民)(沖縄県公文書館所蔵)

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 「沖縄住民による自治は神話だ」といったのは、アメリカの沖縄出先機関の長だったが、それが手を変え品を変え、少しも変わらない「沖縄統治」の基本姿勢となってきました。その姿勢に変化はあるはずがないのは、ロシアや中国の極東での存在感がいや増しに増している、煽られている今だからこそ、ぼくたちはこれみよがしに示されてもいるのだ。出先機関はアメリカ政府そのものだし、そこにおける日本政府は「使い走り」か「小間使」程度の役割しか与えられていないのです。属国と言い隷属というのは、この日本政府の立場を指しているでしょう。沖縄基地問題に「四の五の」言うやつはただではおかないと、痛めつけられた政治家の事例には事欠きません。「普天間基地の移転」で、「最低でも県外」といって「鰾膠(にべ)もしゃしゃりもない」面当てを食らったのが旧民主党政権だった。(右上は普天間飛行場)

 (学生時代、自民党代議士だった松村謙三さんの講演を聞いた。彼は中国との窓口の役割を担い、中国当局からも尊敬されていた人でした。じつに気骨のある政治家でしたね。「アメリカの国務長官(当時)だったダレスと顔を合わせることがあったが、ダレスは洟も引っ掛けなかった(まったく無視した)。無礼な奴だった」といった時の松村さんの表情を今でも覚えています。悔しさがにじみ出ていたように思えたのです。子ども心に、アメリカ(政府要人)というのは、日本(という国と国民)に微塵も尊敬心を持っていないということを教えられた気がしました。六十年近く前の出来事でした)

 今でも沖縄基地は、アメリカにとっては「聖地(治外法権)」であり、指一本触れることすら日本政府には許されていないのです。先般の沖縄知事選で再戦されたのは「辺野古移転反対」派でした。それでも属国の政府は「辺野古移転が最善」というほか、一言もないのです。辺野古が「唯一」と、誰が決めたのか、どうしてそうなのか、それを誰か検証したのか。アメリカ軍が言うから、それ以外に出どころはないし、それに対する態度は「無条件降伏」しかないんですな。すでに戦後すぐに、アメリカは辺野古に飛行場設置を計画していた。諸般の事情で、普天間になったが、それは一時的だったのです。アメリカの事情ではありますが、それは「極東政治情勢」がアメリカを動かしていたからです。今もその事情は変わらない。だから「辺野古」なんだ。「沖縄返還」がならない限り、日本の戦後は終わらないと「啖呵を切った」、時の総理大臣は後にノーベル平和賞を掠め取った。更にその後、沖縄返還に際して、米国との間に「核持ち込み」の密約があったことが判明した。「密約させられた」というのが事実だったでしょう。

 沖縄の米軍基地に対して「思いやり予算」という税金投入の手法を編み出したのは政権党の重鎮で、今問題になっている統一教会とは昵懇の仲だったK元副総裁(故人)でした。アメリカの政治的意向に沿うように「沖縄」=沖縄県民」を好き放題に扱ってきたのが、歴代の日本政府でした。明治以降からそうでしたね。「琉球処分」という取り扱いも酷いものでしたが、今はそれをアメリカが、日本国家・国民に対して行っているという具合で、要するに「日本処分」です。それに対して、一言の申立もできないように「属国」ぶりは徹底しています。何度、知事選で「民意は辺野古移転反対」であろうが、一切顧慮しない。民意は、そこではあってなきが如しなんですね。沖縄県民に対して、日本政府は言うべきです。「民意(選挙結果)を尊重したいのは山々だが、アメリカの意向に背くと、私の政権がこわれるのです。だからなんとかこれまで通りに我慢して下さい。その代わり、何がしかの『復興予算』をつけますので」というのが精一杯なんです。

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 會話


お國は? と女が言つた
さて 僕の國はどこなんだか とにかく僕は煙草に火をつけるんだが 刺青と蛇皮線などの聯想を染めて 圖案のやうな風俗をしてゐるあの僕の國か!
ずつとむかう

ずつとむかうとは? と女が言つた
それはずつとむかう 日本列島の南端の一寸手前なんだが 頭上に豚をのせる女がゐるとか 素足で歩くとかいふやうな 憂欝な方角を習慣してゐるあの僕の國か!
南方

南方とは? と女が言つた
南方は南方 濃藍の海に住んでゐるあの常夏の地帶 龍舌蘭と梯梧と阿旦とパパイヤなどの植物達が 白い季節を被つて寄り添ふてゐるんだが あれは日本人ではないとか 日本語は通じるかなどと話し合ひながら 世間の既成概念達が寄留するあの僕の國か!
亞熱帶

アネツタイ! と女は言つた
亞熱帶なんだが 僕の女よ 眼の前に見える亞熱帶が見えないのか! この僕のやうに 日本語の通じる日本人が 即ち亞熱帶に生れた僕らなんだと僕はおもふんだが 酋長だの土人だの唐手だの泡盛だのの同義語でも眺めるかのやうに世間の偏見達が眺めるあの僕の國か!
赤道直下のあの近所(「山之口貘詩集」所収。 原書房刊。1958(昭和33)年7月15日初版)

● 山之口貘【やまのぐちばく】=詩人。本名山口重三郎。沖縄生れ。沖縄県立一中中退。1924年上京し,佐藤春夫の知遇を得,《改造》にはじめて詩2編が掲載されるが,以後も職業を転々とし,放浪と貧窮の中で詩作を続けた。金子光晴親交を結び,草野心平らの詩誌《歴程》に同人として参加。詩集《思弁の苑》《山之口貘詩集》《定本山之口貘詩集》の他数編の小説がある。遺稿詩集《鮪と鰯》。(1903-1963)(ニッポニカ)

 貘さんについては、これまでにも触れています。作品は極めて少なく、また「推敲魔」と言われるほどに、一編の詩に数十年をかけたとも言われた。この「會話」の「亞熱帶なんだが 僕の女よ 眼の前に見える亞熱帶が見えないのか! この僕のやうに 日本語の通じる日本人が 即ち亞熱帶に生れた僕らなんだと僕はおもふんだが 酋長だの土人だの唐手だの泡盛だのの同義語でも眺めるかのやうに世間の偏見達が眺めるあの僕の國か! 赤道直下のあの近所」という「偏見達」は、今日も一層盛んに、その「偏見の刃」を「沖縄」に向けているかのようです。表向きは「リゾート」の島、観光の島、それが「偏見達」にはこよなく、お気軽に感じられるのでしょう。目眩(くら)ましですね。

 「辺野古が唯一の解決策」と、壊れた時計のように繰り返すしか能がないをのもまた、紛れもない「偏見達」の一つです。「岸田文雄首相は12日昼、自民党の森山裕選対委員長と官邸で会談した。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設に反対する玉城デニー氏が再選した沖縄県知事選が話題になり、首相は「県民の理解をいただき進めているが、今後もその努力を行わなければならない」と語った。森山氏が会談後、記者団に明らかにした。/ 松野博一官房長官は記者会見で、移設方針を変更せず、一日も早く普天間の危険性を除去すると強調。住宅街にある飛行場を放置することは絶対に避けないといけないとし「これは地元の皆さまとの共通認識だと思う」と指摘した。「政府として振興策を推進していく」とも述べた」(共同通信・2022/09/12)

 「沖縄の民主主義は神話」というつもりは政府にはないでしょう。そもそも、沖縄が「県」であるという認識がないんですから。沖縄という「基地」、その認識しかないんですな。「沖縄住民による自治は神話だ」と聞けば、「えっ」と驚くでしょうか。戦前は愚か、戦後も一貫して「三割自治」などと実態を、それ(「三割)でも過大に評価してきたのが「(国を気取った)政府」でした。だから、有り体に言えば、何も沖縄を過小に評価しているのではなく、すべての県をそう見下していると言っていいんです。分け隔てなしの「地方観」だから、沖縄を特別扱いしていないというのかもしれぬ。そのものの言いようこそが、「沖縄蔑視」で塗り込められているのではないですか

 「島はそれでどこもかしこも/金網の塀で区切られているのだ」

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私は立法府の長だ(「朕は国家なり」考)

 【小社会】国葬をめぐり、岸田首相が窮している。十分に説明すれば国民の理解は広がると考えてきたようだが、そうではない。首相が語る国葬にする理由がおかしいから、多くの人は反対している。❏もっとも、一連の議論はとても大切なことを知らしめていて、その点ではいい機会かもしれない。「『政府』は『国』ではない」というシンプルな概念だ。❏よく「国と地方の関係」とか「県が国に対して―」とか言う。しかし丁寧に言うなら、この場合の「国」とは「政府」のことだ。私たちは日頃、ついこの二つを同じようなものとして言い換えるが、国の統治は三権に分かれていて、主権は国民にある。決して政府が国なのではなく、政府だけで国全体を仕切れる権能もない。❏亡くなった安倍晋三さんは国会の場で「私は立法府の長」と少なくとも2度言った。ただの言い間違えならことさらあげつらうつもりはないが、内閣法制局長官を交代させてまで憲法解釈を変え、あまたの大事を閣議決定で押し切る所作は、まるで「全権の長」のようだった。❏党で決めた。首相が決断した。閣議決定すればおしまい。私たちが国家であり、国なんだから―。長期政権の末に、統治についての政治家のまっとうな思考が壊れているなら、大変なことだ。❏国葬って何ですか。国とは何ですか―。多くの政治家より、よほど国民の方が良識ある統治概念と肌感覚を持っているのではないか。(高知新聞・2022/09/11)

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● 朕は国家なり(ちんはこっかなり)(L’État,c’est moi)=フランス国王ルイ 14世が宣言したといわれ,絶対主義王制を象徴する言葉として知られる。彼は最高国務会議,顧問会議を主宰し,国内のいかなる独立的権力も容認せず,行政統帥外交全権を掌握したが,さらに,高等法院の権威が王の権威に対立するものと考えられるかぎり,国家に悪影響を生ぜしめるとして,高等法院を自己の権威のもとに屈服させた。この言葉もそのときに発言されたものとして伝えられている。(ブリタニカ国際大百科事典)

 悲運の死を遂げた元総理は「朕は国家なり」と、仮初(かりそめ)にも自分(朕)はルイ王になる・なったと思っていたのか。彼は繰り返し「私は立法府の長です」と述べた。冗談でいったのではなく、本気(マジ)でそのように自分を位置づけ(自己評価し)ていたから、その表現が出た。そして表面的も実質的にも「司法」は完全に掌握していると自認したから、無理筋の検事総長人事にまで手を付けたのです。「私は三権の長である」と、無辜の民草には悲しいかな、自身はそう信じていた、盲信していたと思う。こういう存在が今日の時世に出現するのです。至るところでの彼の傍若無人なふるまい、言動の数々は、それ(盲信)を証明していると言えるのではないでしょうか。

 元総理と付き合いがあったわけではありませんから、勝手な評価(八つ当たり)の域を出ないことをお断りした上で、故人の大学卒業以来、さまざまな場面で故人の同僚や担当教師たちが漏らした「人物評」を踏まえると、元来、彼は政治家を思考していたかどうか怪しい。(父の死により衆議院選挙に出馬。彼は政治家の「三代目」だった。「売り家と唐様で書く三代目」)政治的な興味や関心があったとは思われなかったが、時の求めに応じて議員になり、さらに政権党の要職や内閣の一員になりながら、まだ政治家の本心(本懐)は生まれていなかった(最後まで、傾聴に値する「政治哲学」は生まれなかったといえます)。ぼくは何度も直感・直観したが「あの人は憲法を読んでいなかった」節があります。憲法という国の形を規定している根本法を理解していないというのは驚きを超えていました。ある議員が予算委員会だったか、憲法第何条(「九条」だったかどうか、忘れました)にはどう書いてありますかと質した。とたんに彼は激昂し、「馬鹿にするな」と言わぬばかりに顔をこわばらせ、結局は質問には答えなかった(答えられなかった)。そんな人の政治家台の第一は「現行憲法改正」だったというのですから、無知ほど怖いものはないという「教訓」にはなりますよね。

 また「歴史の教養」に関しても、じつにお粗末だった場面に何度か遭遇した。「朕は国家なり」と宣(のたま)わったのは「ルイ十六世」だとも議会で口にした。(あるいは誰も知らなかったが、ルイ十六性はそういったのかもしれなが)そんなことは些末だという。些末だからどうでもいいことかもしれぬが、肝心なことがらを棚に上げているとするなら、どうか。アレヤコレヤ、とても「一国の宰相」の器たり得ない人物が、ついには「総理大臣」にまで上り詰める(それほど、特筆大書するほどのことでもありません)ことが可能だったのは、「時宜を得る」という幸運(と言っていいのか)に恵まれたからでした。「天の配剤」と言ってもいい。いうまでもなく、議会制民主主義を標榜している社会でもあったから。

● ルイ(16世)(Louis XVI)(1754〜93)=フランスの国王(在位1774〜92)ルイ15世の孫。妃はマリ=アントワネット。ブルボン朝の財政危機が深刻化するなか,財政再建とアンシャン−レジームの矛盾解決をめざしてテュルゴー・ネッケルらの改革論者を登用したが,貴族の抵抗で挫折。1789年三部会の召集を強いられたが,時代の推移を見通せず革命に発展し,91年国外逃亡を企てたが失敗した。翌年オーストリアと開戦したが,終始革命に敵対したため,8月10日事件で捕らえられ,1793年1月国民への反逆罪で処刑された。(旺文社世界史辞典三訂版) 

 国民の多数にとっては「天の配剤」を恨んだかもしれない。ぼくもそのひとりでした。この罪は誰にあるとはいえませんが、彼を要職に抜擢した小泉某の責任は小さくないと思います。あまりに才気煥発であれば、神輿の担ぎ手(兵隊)はついてこない。それにまったく恵まれないと、そもそも「一国の政治的な長」にはなれない。似たような才能や評価の存在が複数あったとしても、選ばれるのは、たった一人、だから「天の配剤」であり「時宜にかなった」ということでしょう。

 「総理の器」ということを言えば、彼はもっとも「器」ではない存在だったと、ぼくは思っています。器量がなかったと、ぼくは一貫して見ていました。それが、どうして「憲政史上最長政権」を維持し得たか。それもまた「時宜を得た」からだったと言いたいのです。その証拠に、その最長政権時代に「国民・国家のために何をなしたか」と記憶を辿ろうとすると、次々に「強権的政治手法」の披瀝に及んだことが浮かんできます。(もちろん、この宰相に悪知恵をつけた官僚(「影の総理」と称されていた)の存在を抜きにはできいない。(元総理は、戦々恐々として、総理の椅子に座っているうちに、次第に座り心地に快感を実感していき、ついには傍若無人な「三権の長」を気取るにいたったのです。その詳細は、これから続々と出てくると思われますから、ぼくはこれ以上は触れない)

 故人を云々するのではなく、「朕は国家なり」という意識が芽生えると同じように、彼をして「彼こそは国家(神輿)なり」という応援支援部隊が出来上がっていった、この時勢の力というものの勢いというものに考えが及ぶのです。比べるべくもありませんが、今になれば、一つの小話として言っておきます。H 総統とその忖度・取り巻き部隊(NZI)の成立を取り出したくなるのです。そうすると、「愚連隊政権」の「八幡の藪知らず」政治がどこを見ていたか、わかろうというもので、NAZIという神輿の有り様は、先例として、いささかの参考にはなるでしょう。彼が残した「業績」はいくつもあります。その中でも「国会軽視」あるいは「国会無視」は甚だしい(悪)業績だった。法律(制定=国会)を無視して「閣議決定」を多発したのも上位に数えられる(悪)業績でした。「法が終わるところ、暴政が始まる」とジョン・ロックというイギリスの思想家は言いました。元総理が彼の著作を読んだとは思えませんが、ロックが危惧した暴力政治を、彼とその一統が実際に見せてくれたのは、政治というものの持つ「刹那主義」と利権を漁る習性によるでしょう。

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 「党で決めた。首相が決断した。閣議決定すればおしまい。私たちが国家であり、国なんだから―。長期政権の末に、統治についての政治家のまっとうな思考が壊れているなら、大変なことだ」(コラム氏)等と呑気なことを言われては困ります。今も同じ事態が続いているのではないですか。「募る」と「募集」は違うと故人は恥ずかしげもなく言った、国会で。恐らく違うのは「使われている字が違う」ということだったろう。国語表現力の問題ではなく、自らの無知を糊塗するため、言い逃れて質問時間切れを狙うという、およそ不真面目さを絵に書いたような態度を一貫させていたのです。はじめは怖々(こわごわ)、最後は堂々と、国民を嬲(なぶ)り者にしたのです。国会議員を愚弄したかったのでしょうが、それは国民を愚弄することだと、わかっていたでしょうね。現総理はどうか、馬鹿臭くて話になりません。「国葬」という言葉が使えなかったから、「国葬儀」という表現を持ち出してきた。これは内閣法制局の悪漢官僚の悪知恵だったが、現総理は、都内の私立大学の法学部出身だといいますから、少しは「法律」に関しては在学中に耳にしたかもしれない。「国葬と国葬儀の違いは何か」と問われて、「表現が違う」と言いたかっただけかも。有名無名を問わず大学卒を名乗る政治家(だけではない)は、こんなレベルなんですか。

 「統治についての政治家のまっとうな思考が壊れているなら」大変だと、今気がついたようなことを言われているが、「それが本当だから大変なんだ」と、どうして書かないのかしら。「税金は自分のもの」だから、どう使おうが文句を言うなという、驚くべき「開き直った無知」を曝け出して、公私混同ではなく、公は私であり、私は公であると思いこんでいたのだ。要するに、今の世に蔓延(はびこ)っているのは、人民をとことんまで騙し通し、愚弄する、怖いものなしの政治家です。欺瞞政治花盛り時代に、ぼくたちは生きながらえている。今年度の予備費十兆円という。内閣の一存で、何にでも使える税金を、国会無視で予め決めている、これが民主政の国の政治・政治家のすることでしょうか。と書いていけば切りがありません。最後に一首、まだまだ青二才で、突っ張っていた時代の寺山修司さんは、青年そのままの短歌(啖呵)作った。

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

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 「国」というのは入れ物であり、機能する(役に立つ、利用価値のある)何かではあっても、それが口を利いたり、暴力を振るうということはない。しかし国を騙って乱暴狼藉を働く輩がいる限り、政治(家)は「入れ物(あるいは避難所)」を専有し、その人民に役立てる機能を暴力装置にしてしまうばかりです。自動車を考えてもいいでしょう。くるまはどうぐです。それを動かす人間が悪意を持っていれば、きっと悲劇が起こるのです。国家は一台の車でもあります。

 総理大臣は「最高権力者」だから、何でもできると錯覚(自身は本気)して、税金は使い放題、憲法も法律も自分を縛るものではないと、驚くべき破落戸(地廻り)も目をむくような行動様式を身に着けてしまったのが、故人になった元総理です。時代が、環境が、一種の政治的怪物(の偽物)を生み出したともいえます。国家運営などとは無縁の、怠惰な小心者が、時の勢いを借りて、国家を踏み台にして権力を握ると、何でもし放題という乱痴気人間になってしまうのでしょう。今まさに、国家そのものが危殆に瀕しています。だから「国葬(くにをほうむる)」なのかね。

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