人はただ、無常の、身に迫りぬる事を、…

 老い、来りて、初めて道を行ぜんと、待つ事勿れ。古き墳(つか)、多くは、これ少年の人なり。図らざるに病を受けて、忽(たちま)ちにこの世を去らんとする時にこそ、初めて過ぎぬる方の誤れる事は知らるなれ。誤りと言ふは、他の事にあらず。速(すみや)かにすべき事を緩(ゆる)くし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の、悔(くや)しきなり。その時、悔ゆとも、甲斐(かひ)有らんや。

 人はただ、無常の、身に迫りぬる事を、心に、ひしと懸けて、束の間も忘るまじきなり。然(さ)らば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心も、まめやかならざらん。昔ありける聖(ひじり)は、人来りて自他の要事(ようじ)を言ふ時、答へて云はく、「今、火急の事有りて、既に朝夕(ちょうせき)に迫れり」とて、耳を塞(ふた)ぎて念仏して、遂に往生を遂げけりと、禅林の十因に侍り。心戒(しんかい)といひける聖は、余りにこの世の仮初(かりそめ)なる事を思ひて、静かに突い居ける事だに無く、常は蹲(うずくま)りてのみぞ有りける。(「徒然草:第四十九段」)

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 前回に続いて、兼好さんの「生き方の流儀」の真髄と思われるものを。兼好自身が「このように生きられた」というのではありません。自分は「自分流の人生」を生きようとしたが、ついには「初めて過ぎぬる方の誤れる事は知らるなれ」、これまでの人生の「誤り」であったことを知ったというのです。その「誤り」とは「速(すみや)かにすべき事を緩(ゆる)くし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の、悔(くや)しきなり」だから、これは兼好の人生訓(悔悟)と言って構わないものです。ぼくがいつも利用している「徒然草」(ちくま学芸文庫版)の帯には「人生の達人による 今日、明日を生きる道しるべ」と宣伝されています。人生の達人とは、どういう生き方をした人のことか。この帯を素直に眺めれば、兼好さんが「人生の達人」ということになります。そうですかね。問題は「達人」というものの内容をどう把握するか、受け止めるかでしょう。 

 「人生の達人」を文字通りに理解すれば、「成功した人生」を送った人ということになりますが、ここでもまた、なにが「成功した」ということになるのか。名利(名誉や利得)をさして言うのなら、それは少し前に触れたように、「名利に使はれて、静かなる暇無く、一生を苦しむること、愚かなれ」(「第三十八段」)と、けっして「成功した」人生の名には値しないのです。「名を残すこと」もまた、「偏(ひとえ)に、高き官(つかさ)・位を望むも、次に愚かなり」と兼好は断言します。浮世(世間)の評価をえるものは、ことごとく「愚かなり」というのです。それならば、「人生の達人」とは、かかる浮世に名声や地位を得る生き方から離れて生きた人、そういう人生にこそ兼好さんは軍配を上げるのですが、果たし、そんな人がいるのかどうか。「名もなく貧しく美しく」という生き方の流儀は、世間受けはしないし、だからこそ人には知られないからです。そんな人生を生きた人を、いかにして知るのか。

 「人はただ、無常の、身に迫りぬる事を、心に、ひしと懸けて、束の間も忘るまじきなり。然らば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心も、まめやかならざらん」いつでも、人生は「無常」だという思いを片時も忘れない、そうすれば、世間に染まる度合いも少なくなり、仏道に生きる道もしっかりと出てくることであろう、と言います。これは、兼好という粋人が実践した「生き方」ではなく、こう生きれば願わしいのだという「生き方の流儀」を示したものです。ぼくはそのように理解し、兼好の書を読んでできました。「こうすれば、金が儲かる」「こういうようにすれば、他者に評価される」などという「 how to」など で人生の核心部は成り立っていません。だから、それを他人に伝えることも教えることもできないのでしょう。鉋(かんな)の研ぎ方・削り方を教えることはできない。それは身をもって、自分自身で獲得する外ないものです。歩く、息をする、こんな簡単そうな動作も、「自分流」(の方法)で身につけるものです。

 「昔ありける聖」とか「心戒」という坊さんの例がありますが、彼らは「こんな生き方」「あんな精進」をしましたということはできますが、そのような、彼ら自身の心思を慮(おもんぱか)ることは、他人にはできないでしょう。つまり、生き方の「真髄」(そういうものがあるとして)は、人に伝えられないし、教えられない。なぜなら、それは「自分流」でしかないからとも言えるからです。実感とか体感、あるいは体得・自得する以外に身につけることはできませんでしょう。

 ここで、一つだけ言えることは、「人生(この世にあること)は束の間」であり、「無常」であるということを、夢忘れないということです。どうしてか、それは語ることはできそうにありません。そのような「無常」に付き添われて生きるのが「人生」だと、御本人が考えている、感受しているからだとしか言えないのではないでしょうか。「人生の晩年」になって、抹香臭いことに乗り出すのは、どうですか、と兼好は言います。いつだって、時には「絶頂」という盛りにあっても、一瞬の後に「無常」が身に迫っていることを忘れなければ、有頂天にはならないだろうし、他人に見せびらかさんばかりの振る舞いは醜くもあり、恥ずかしくもあると知るに至るでしょう。おそらく兼好法師が言いたかったことの真意はそこにあるように、ぼくは「ぼく流の生き方」から実感するのです。これは、他人に教えたり勧めたりする性質のものではありません。

 昨日触れた「砂川事件」の原告は生涯の大半を「国家の犯罪」に真っ向から対峙して生きてこられています(もちろん、志半ばで物故された方もおられます。でもその生き方は変わるものではなかったでしょう)。それもまた、その人自身の「生き方の流儀」であり、誰にでも推賞できるものではない。自分はこれを外にして「生きる甲斐」があるかと問う時、そこにおのずから、自分勝手ではない、他者と交わりつつ生きるためには、他者にも少なからぬ影響(生きる示唆・方向といってもいい)を与えられるかもしれない、そんな生き方があるのです。もちろん、それを初めから想定(狙って)するのではないでしょう。結果として、そういうことはありえるということです。「一回限りの人生」「限りある命」だからこそ、という実感から、ぼくたちはなにを願い、またをなにを得ようとしているのでしょうか。

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「司法は国家権力の砦だ」と証明した長官

(共同通信・2019/0319)

 【金口木舌】ゆがみはいつただされる 砂川裁判の国家賠償訴訟の原告、土屋源太郎さん(88)が振り返る。「こんなに長く闘えるとは思わなかった」。1957年に米軍立川基地へ抗議で立ち入った土屋さんは刑事特別法違反で起訴された▼一審の東京地裁(伊達秋雄裁判長)は米軍の駐留は憲法違反で無罪としたが、最高裁が59年に覆して有罪となった。ところが2008年以降、この判決に疑義が生じる。米国で開示された資料がきっかけだ▼資料には違憲判決に慌てる米大使館が当時、政府、最高裁の田中耕太郎長官と判決の変更をもくろむ様子が記されていたから驚く。判決の見通しや裁判官の考えなど評議の内容を田中長官が米大使へ伝達していた▼公平な裁判の放棄に加え、司法権の独立をもゆがめる。評議の秘密を規定する裁判所法からも問題視されておかしくない▼事件発生から65年。公正な裁判を受けられたとは到底思えない。国家賠償を求める訴訟は佳境に入る。土屋さんが言う。「いくつまで生きてりゃいいんだろ」。司法がゆがみをただすのにはあまりに長い年月が経過し過ぎだ。(琉球新報DIGITAL・2022/09/29)

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 六十五年前の出来事です。ぼくは後年になって「砂川事件」について知ることになりましたが、その原判決(原告無罪)を最高裁の田中耕太朗長官が司法の正当性を歪めるような方途で介在を果たし、あろうことか「最高裁判決」の決定に米国が関与する余地を認めていたことが判明したという、いわくつきの最高裁判決に至る策謀でした。ここでは、田中氏に関して、ぼくの関心を述べるにとどめておきます。戦後の二代目の文部大臣を務めた法律家で、彼の著書「教育基本法の理論」は、大学に入って熟読したものでした。教育と政治に関して、じつに明確に一線を画し、政治の不当な支配を廃するという一貫した法理論に、ぼくは教えられるところ大でした。戦後しばらくしてから、「逆コース」なる状況が生まれた段階でも、一貫して教育の政治的中立を訴え、当時の文部行政を完膚なきまでに批判していた(とぼくには思われた)。時勢は「人間」を、手もなく変えるのでしょうね。

 ところが、ある時期から(もちろん、彼の素地には「体制受容」があったのは事実でしょう)、田中さんは大いに偏向していったと見えました。もっともわかりやすかったのは「松川事件」の判決だった。(詳細は省きます)これがあの田中さんなのかと、それまでの姿勢を大いに疑わしくさせたからでした。「歪められた最高裁判決」は、そのような時期に生じた、この社会に存在する司法権の自殺行為でした。驚愕すべきは、それを、最高裁長官、その人がしたということだった(もちろん、大きな政治圧力があって、最高裁長官が使嗾(しそう)(脅迫)されたのだと思われる)。このような「そそのかし」「おどし」ができる人物はきわめて限られているのはわかりやすいことでした。日米合作の「不法行為」だったのです。この後も繰り返し、類似の違法行為は繰り返されてきました。この田中長官の「裏切り判決」は、翌年(1960)の「安保改訂」に深く関係づけられていたことは否定できません。歴史を歪め、国民(人民)を誑(たぶら)かすような政治や司法が、延々と続いていることがここでも判明します。

 当の土屋源太郎さんは、一審裁判当時、二十三歳。一審無罪の判決が出たが、最高裁は異常な行動に出て、結果的には原判決を破棄し、原告に「有罪」の判決を課した。いま、二十三歳の青年は八十八歳の高齢者に。更に裁判は続く。土屋さんいわく「いつまで生きればいいのか。これからまだ最高裁まで行くんだから」と。ある種の「冤罪」というべき裁判で、この失われた(裁判がなければ生きられたであろう)六十七年を「国家」は賠償はしないのです。裁判が、人生を途方もない方向に歪めてしまう事例に事は欠かないのが、この社会の歪(いびつ)な司法であることも否定できないと、ぼくたちは銘記しておかなければならないでしょう。田中長官のような存在こそが、「司法は国家権力の橋頭堡であり、砦だ」という姿を明かしているのです。悍(おぞ)ましいこと限りなし、です。(右上の写真:当時の状況を「現地(立川基地跡)」で説明する土屋源太郎さん。毎日新聞・2019/05/04)

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 ◎ 一昨日行われた「口頭弁論)後の「砂川事件裁判国家賠償請求訴訟:第9回口頭弁論」後の集会の模様です。(https://www.youtube.com/watch?v=BxdNgmqBdsg

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● すながわじけん【砂川事件】=日米安保条約および米駐留軍の合憲性が争われた事件。1957年7月8日,東京調達局は,米駐留軍が使用する東京都下砂川町の基地拡張のために測量を強行したが,これを阻止しようとする基地拡張反対派のデモ隊の一部が米軍基地内に立ち入り,刑事特別法条違反で起訴された。この訴訟で,被告人らは,安保条約およびそれに基づく米国軍隊の駐留が憲法前文および9条に違反すると主張したので,一大憲法訴訟となった。第一審の東京地方裁判所は,59年3月30日,安保条約は違憲で,被告人らを無罪とするという判決を下した(いわゆる伊達判決)。(世界大百科事典第2版)

● 伊達判決(だてはんけつ)=砂川事件に対する第1審,東京地方裁判所の判決。 1957年7月東京都下砂川町で米軍立川基地の立入禁止区域に入った基地拡張反対闘争の7人が,刑事特別法第2条違反で起訴された。この事件について 59年3月,第1審裁判長伊達秋雄は,「日米安全保障条約に基づく駐留米軍の存在は,憲法前文と第9条の戦力保持禁止に違反し違憲である」として無罪判決を下した。この伊達判決は,同時期の安保改定問題に大きな波紋を投げた。衝撃を受けた検察側はただちに最高裁判所に飛躍上告。同年 12月,最高裁は,「駐留米軍は憲法にいう日本の戦力には該当しない。また安保条約のような高度の政治性を帯びた問題は司法審査権になじまない」としていわゆる統治行為論により,原判決を破棄した。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 「日米関係」といいますが、内実は宗主国(アメリカ)と属国(日本)の不即不離の関係(絆)を言うのでしょう。アメリカから離れる(自立する)ことは、今の政治状況が続く限りは、ありえないことです。しばしば「日本はアメリカの51番目の州」などと、揶揄の意味もこめて、いまれましたが、「州の一つ」などでは断じてなく、使い走りか、アメリカのATMなのだと言われます、そちらが中(あた)っているかもしれない。このような、憲法の精神そのものに関係する裁判がいくつか争われています。「戦後」と一語でいっても、すでに七十七年が経過しています。この間にいろいろと大小様々な政治問題が生じてきましたが、基本路線は「日米主従関係」の維持強化でした。日本のアメリカへの隷属の根深さを思えば、「旧統一教会」と政権党の「絆」も、アメリカ抜きには考えられないことでした。

 今日のニュースの的になっている「旧統一教会」が政権党の議員を呪縛していた、そのままの原型が「日米安保」条約問題にまで遡ります。ぼくは決して「左翼思想」の持ち主ではなく、まして「共産主義のシンパ」(いわんや「パルタイ」)でもありません。徒党を組むことがなによりも嫌いな、一平凡人でしかありません。それでもなお、政治的にアメリカの手先のように振る舞うことに違和を感じないままで、この七十七年一貫して『属国」の位置に甘んじてきた、その政治勢力の「権勢」に、まるで「蟷螂の斧」のごとく、敢然と立ち向かっておられる人々に対して、ぼくは満腔の賛意を表するものです。民意を蔑ろにし、人民の意向を踏みつけて、それでもなお国家が成り立つ、成り立たせるという政治状況に、ぼくは身を寄せることはしてきませんでしたし、その姿勢をこれからも続けていくことに変わりはない。

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 以下の報道なども旧聞に属しますが、貴重な証拠記事だと思われますので、引用しておきます。

写真・図版

 砂川事件、判決原案を批判する「調査官メモ」見つかる 極めて政治性の高い国家行為は、裁判所が是非を論じる対象にならない――。この「統治行為論」を採用した先例と言われる砂川事件の最高裁判決で、言い渡しの直前に、裁判官たちを補佐する調査官名で判決の原案を批判するメモが書かれていたことがわかった。メモは「相対立する意見を無理に包容させたものとしか考えられない」とし、統治行為論が最高裁の「多数意見」と言えるのかと疑問を呈している。/ 統治行為論はその後、政治判断を丸のみするよう裁判所に求める理屈として国側が使ってきたが、その正当性が問い直されそうだ。/ メモの日付は1959年12月5日。判決言い渡しの11日前にあたる。B5判8枚。冒頭に「砂川事件の判決の構成について 足立調査官」と記されており、同事件の担当調査官として重要な役割を担った足立勝義氏がまとめたとみられる。判決にかかわった河村又介判事の親族宅で、朝日新聞記者が遺品の中から見つけた。/ 砂川事件では日米安全保障条約が違憲かどうかが争われ、最高裁全体の意見とみなされる多数意見は、判事15人中12人で構成された。安保条約に合憲違憲の審査はなじまないと「統治行為論」を述べる一方で、日本への米軍駐留は「憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ」と事実上合憲の判断を示している。多数意見に加わらなかった判事のうち2人が「論理の一貫性を欠く」と判決の個別意見で指摘していることは知られていた。(以下略)(編集委員・豊秀一:2020年6月13日 5時00分)

 HHHHHHHHHHHHHHH

 【春秋】今ではとても考えられないが、駐留米軍を憲法違反だと断じた判決があった。1959年3月30日東京地裁。裁判長は伊達秋雄。世に「伊達判決」と呼ばれる。その後、裁判は高裁をとばして最高裁に直接上告され、同じ年の12月16日、全員一致で覆されることになる。▼翌60年は日米安保条約改定の年である。微妙な時期、ふたつの判決の間に何があったのか。日米で公開された政治外交文書で、日本側と在日米大使館の折衝のあれこれが分かってきている。それらの文書に解説を加えて最近出た「砂川事件と田中最高裁長官」(布川玲子ら編著)を読んで、あらためて気づくことがあった。▼伊達判決の2日後、藤山愛一郎外相はマッカーサー駐日大使とひそかに会った。大使館が本国の国務省に発したマル秘電報と、外務省が残した極秘の会談録がぴたり符合している。ところが、当時の田中耕太郎最高裁長官が裁判の見通しなどを米側にもらしたという記録は、米公文書館にあるだけで日本ではみつからない。▼最高裁長官の振る舞いは日本の司法の独立にかかわる。公用車の運転手の日報ならば、などとあの手この手で最高裁に開示を求めても、空振りだという。これまでも、米国の資料でしかこの国の重大事が知れぬもどかしさを何度も味わった。このもどかしさ、理不尽。特定秘密保護法ができれば、なお募ることになるのか。(日経新聞・2013/11/18)

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 OOOOOOOOO

 なりふりかまわず (こういうことは誰にでも起こることです) 国が「国民の人権・権利」を踏み躙ってまで、守ろうとした「国益」とはなんだったでしょう。その国益に資するために「政治家」や「裁判官」はなにを目的に、かかる蛮行かつ卑劣な行為をするのでしょうか。ぼくは、人民を抑圧するための暴力機関である「国・国家」はいらないという考えを、一貫して維持してきました。「君はアナーキーだ」と一再ならず、他者から言われた。「そのとおり」、と弁解などしたことはなかった。「無政府主義」と言う日本語は間違いです。「政府(行政機構)」という機関・組織は、どんな集団にも不可欠です。行政も司法も立法も、すべて、それぞれが一つの「機関・機構」または「制度・組織」です。それを運用するのは人間(政治家・裁判官・官僚)ですから、そこに大きな「錯誤」「誤用」が生じる危険性はつねに存在しています。「朕は国家なり」というような。それを放置するところに政治的暴力や堕落が始まり、強まり、傍若部員の振る舞いに。その段階に至ると、敵対する勢力は「国賊」であり「非国民」とされるのでしょう。(右写真は田中耕太郎氏)

 「歴史」は繰り返すのではなく、間断なく、陰陽となく、権力維持のために「暗闘」が続くのです。一国家内において、他国との関係において。この島社会は、アメリカとの「絆(腐れ縁)」を断ち切ることは不可能でしょう。いま、政治権力のなす「暴力」の典型を「ロシアの権力者」において、ぼくたちは見ています。それとそっくりの「暴力」行使や「傀儡」づくりはアメリカ権力者によって、いつだって見せつけられてきました。今回の「砂川国家賠償」裁判は、そのもっともあからさまな事例の検証作業でもあるのでしょう。

 (蛇足として 白を黒と言いくるめる「屁理屈」が国会で罷り通り、司法においては法定外の、しかも国外の政治圧力が判決を覆すような、驚くべき暴挙が戦後も絶え間なく続いていたという点では、この「国賠裁判」は、司法の村立を問う重要な機会ともなっているのです。「自立」し「自律」するのは、一個人においては困難を極めますが、国家においては、さらに困難の度は増すのでしょうか。国民不在の国家論が大手を振っています)

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たいそうな葬式すんで秋高し(仙田洋子)

 【天風録】たいそうな葬式 コロナ禍で集まりにくさもあるためか。小さな斎場でコンパクトに営む葬儀が広まる。これまで葬式と言えば、葬儀社との打ち合わせや弔問客への対応などで慌ただしかった。悲しみに暮れる間もなく、時が過ぎた▲たいそうな葬式すんで秋高し(仙田洋子)。式を終えた後の寂しさや、ある種のすがすがしさが伝わる一句である。「国葬」が済んだ今はどうか。死を弔う儀式なのに、ごたごたの末に営まれた。どこか空虚さが漂う▲国内外4千人以上が参列、警備に約2万人、総費用は16億円以上―。たいそうな葬式である。在任期間が歴代最長の安倍晋三元首相の死を受け、早々と閣議決定された国葬。しかし国会で審議することもなく、法的手続きを疑問視する声は多い▲世論調査でも反対が半数を超えた。モリ・カケ・サクラの疑惑に元首相の説明は不十分と感じる国民は少なくない。非業の死だったが、霊感商法など問題のあった旧統一教会との関係が指摘されるや、風向きが変わる▲素直に悼むことができない人もいたはず。「国葬」が分断を招いたのではないか。民主主義と離れたところで営まれた感がある。たいそうな葬式を巡るもやもやを忘れずにいよう。(中国新聞デジタル・2022/09/28)

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 「やんごとなき人」と言われたかった御仁の「国葬」だか「国葬儀」だかが終わったようです。この件について駄文をいくつか重ねましたから、いまさら言うべきことはない。「国葬」反対と主張する人々の意向や姿勢に、ぼくは反対しないどころか、大賛成であります。勝手に「法律」を超えるような越権行為を行政府(内閣)がしたのは、その越権行為の「一人舞台」を踏んだ「故人」にふさわしい法違反行為ではあったでしょうが、国民には(「国」主宰の葬儀に「賛成」「反対」を問わず)許してはいけない暴挙だったからです。「国会」は不要というのも、故人の独壇場でしたな。

 弔われる人に関しては、ぼくはなにも言わないつもりです。「無知」「無恥」を二枚看板にした素人政治家でしたが、時の勢いは恐ろしいもの、いつしか知らぬ間に神輿に担がれ、自分でも「自己評価」を誤ってしまった。この人が「不世出」の虚言癖・弁解魔だったことは周知の事実。国家の姿をボロボロにしたのは、自分一個の「誉」のためだったのですが、そんな人間に「よいしょ」するのですから、政治家連中は、押し並べて「同じ穴の貉(ムジナ)」である証明だということになります。国を葬った感のある「不世出の政治家」にふさわしい「偽式」だったでしょう。(この島社会を、元総理は「イスラム国」「アフガン」のような、カルト国家にしたかったのか、あるいは気がついたが抜け出せなかったのか。「国を売った男」として、(ぼくを含めた)少なくない方々の記憶に刻まれることでしょう。言うまでもなく、「偉大な指導者」「稀有な政治家」という(束の間の)記憶を残す人々もいます)

 国滅びて、借金(赤字国債)あり。家並み乱れて、人心腐敗す、です。「鯖の生き腐れ」といいますね、それがこの島の現実だと思う。もちろん、ぼくも「生き腐れ」の感染を免れていないことを隠しません。なににかぎらず、「儀」「式」は大嫌いだったし、今でもそうです。お葬式は「哀悼の気持ち」を表明する場、時だとしますと、今回の「国葬儀」はすべてが、魑魅魍魎に略取されて、亡き人への悼みがかき消されたのではなかったか。故人は喜んだか、弄(もてあそ)ばれたのか。寂しくも悲しいことだという思いがしきりにします。

 弔いになったかどうか、ぼくは「銃撃」された段階で、「故人の無念の思い」を斟酌し、一本の蝋燭(ろうそく)と線香を手向けました。ぼくひとりだけの、亡き人への気持ちの表し方でしたから。やがては「百ヶ日」を迎える。はたして、もろもろの故人たちへの懇(ねんご)ろな追悼・哀悼になるかどうか、この時期に見合ったような俳句のいくつかを、ご霊前に。

IIIIIIIII

 ・がちやがちやに何弔ふや鉦叩(森澄雄)  ・忘却も供養の一つ秋彼岸(森白象) 

・日章旗しづかに垂れて弔旗なり(日野草城) ・この世ともあの世とも曼珠沙華の中(中村苑子)

・ちゝはゝの俄かに恋し曼珠沙華(川端茅舎)  ・今生の闇凛々と曼珠沙華(飯島晴子)

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せんせ、せんせ、それはせんせーい

 【日報抄】「先生と呼ばれるほどのばかでなし」などと言うことがある。ここで言う先生とは学校の教諭というよりも、先生とおだてられて得意げになっている人を指すのだろう▼本来は敬意を込めた呼称のはずなのだが、時には小ばかにしたニュアンスが漂う。気の置けない仲間内で「先生、しっかりしてよ」と言えば、からかいの色がにじむ。時と場合によって色彩や重みが変わってくる言葉である▼自分が偉くなったと勘違いしないよう戒めようというのか。大阪府議会の議長が、議員を「先生」ではなく「さん」付けで呼ぶことを提案した。国会議員を代表例として、政界には議員を先生と呼ぶ慣習が広く存在している▼確かに便利な呼称ではあるのだろう。先生と呼んでおけば取りあえず失礼には当たらない。この呼称を嫌がる議員は「さん」なり「議員」とすればいい。ただ、先生と呼ばれているうちに、自らを大物と錯覚するご仁もいるようだ▼「先生」は元々、読んで字のごとく「先に生まれた人」を意味した。それが先達や、知識・技能に優れた人を指すようになったらしい。今や先述のように意味合いはさらに広がり、呼称と実体との落差が大きいことが往々にしてある▼呼ぶ側がおのずと敬意を払いたくなるような人が先生と呼ばれるのは自然なことだ。問われるのは、当の人物がその呼称にふさわしいかどうか。呼ばれる側はよくよく自分の中身を見つめた方がいい。自らに向けられた呼称に嘲笑(ちょうしょう)やからかいの色はないだろうか。(新潟日報デジタルプラス・2022/09/27)

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 「先生」があるのですから、当然、「後生」もあります。これは「こうせい」と読む。(「ごしょう」という時もありますが、それは別の意味になります)「後生畏るべし」、「論語」の中にある。後から生まれた人間でも、きっと「先生(先に生まれたもの)」を超えてゆくものがあるから、「恐れなければならぬ」というのです。「後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや」(「後生可畏、焉知来者之不一レ今也」)「論語 子罕(しかん)」)。先に生まれた人と後から生まれた人。それでなんの不足もないのですが、「先に生まれたのが偉い」と、誰かが言ったのか、あるいは本人が言い触らしたのか。とにかく、この島では「先生」呼称が大流行しました。流行(はや)れば廃(すた)るのが世の習いですから、「先生と言われるほどの莫迦じゃなし」ということになりました。それでも「先生」と呼ばれたい輩(うから・やから)が後を断たないのは、どうした感染症(病気)なのでしょうか。

 先生ではなく先輩。後生ではなく後輩。それで十分じゃないですか。「輩」は「ともがら・やから」と読み、「並び」、「順序」、あるいは「並べる・連ねる」と動詞にも使います。どうして「先生」が好んで使われるようになったのか、あるいは「自称」「他称」としても好まれたのか、理由を話せばキリがないので書きません。明治以降の学校制度の開始以来(1872年以降)、「先生」が流通しだし、やがて巷間に溢れるようになり、今は末期症状として、「先生」と呼ばれたら、「俺はそんなに莫迦に見えるか」と怒り出す者も出てくる始末です。その挙げ句に、大阪府議会での「先生呼称」廃止提案でした。それもまた、税金で生活する議員さんが議論して多数決で決めるのでしょうから、民主主義も大変な事態なんだという気もしてきます。たかが「呼称」じゃないか。

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 森昌子さんの「せんせい」には驚嘆しました。これを歌った時が十五歳だったとか。その歌詞は阿久悠氏のものでしたから、ぼくは驚かなかったが、これを十五歳の中学生に歌わせるという大人社会の「頽廃」「堕落」の事態(時代)到来に、肝を潰(つぶ)したんですね。昭和四十七年七月、森昌子のシングル発売。キャッチフレーズは「あなたのクラスメート 森昌子」でした。それより十年前に舟木一夫さんで「高校三年生」が、ぼくたちの高校生時代に重なっていたので、ぼくはよく歌ったし、同級生もフォークダンスで女子高生の手を握っては照れていました。この十年の後に、中三が教師と恋をしたという、「高校三年生」との落差に、ぼくはやはり肝を潰したのでした。暇があったら、二つの歌の歌詞を比べられるといい。この違いは、歌手舟木一夫と森昌子との違いではなく、作詞家の阿久悠と丘灯至夫との違いです。

 「おさない私が 胸こがし  慕いつづけた ひとの名は」「誰にも言えない 悲しみに  胸をいためた ひとの名は」「恋する心の しあわせを  そっと教えた ひとの名は」という、この何とも言えない、叶わぬ仲の「悲恋物語」を十五歳の森さんが歌っていた姿を正視(あるいは、制止)できませんでした。「恋する心の しあわせを  そっと教えた ひとの名は」、それは「せんせい」だった。「せんせい、一体何を教えていたんですか」いまなら、どういうことになっていたか。格好のスキャンダルだったか。そんな程度では誰も驚かない時代になっているのでしょうか。

森昌子「せんせい」:https://www.youtube.com/watch?v=EYnuZLPbTsE

作詞:阿久悠 作曲:遠藤実

淡い初恋 消えた日は
  雨がしとしと 降っていた
傘にかくれて 桟橋で
  ひとり見つめて 泣いていた
おさない私が 胸こがし
 慕いつづけた ひとの名は
せんせい せんせい それはせんせい

声を限りに 叫んでも
  遠くはなれる 連絡船
白い灯台 絵のように
  雨にうたれて 浮んでた
誰にも言えない 悲しみに
 胸をいためた ひとの名は
せんせい せんせい それはせんせい
  

恋する心の しあわせを
  そっと教えた ひとの名は
せんせい せんせい それはせんせい

 「せんせい(先生)」問題を語る際に避けて通れなかったので、森さんに触れました。今だって「胸を焦がしている」人(教師の方が断然多いという気がします)がいて、悶々としているんでしょうね。「盗撮なんか、だめだよ、せんせい」と、言わなければならぬ時代でもありますね。。

 その「先生」という呼称について、この駄文集録のどこかで触れました。ぼくも「先生」の溜まり場みたいな職場の末席にいたことがありますから、教師同士が互いに「先生」と呼び合っているのにゾッとした経験があります。ある会議を主宰(司会)していた際、ぼくは「今後、固有名(名前)を呼ぶことにします。どうしても『先生』と呼べと言われる方は、事前に知らせください」と言って、大変に顰蹙(ひんしゅく)を買ったことがあった。馴れ合いが嫌だったからでしたが、ぼくはそれを通した。学生にも「呼称は付けないで。名前を呼んででほしい」と前もって言っていました。大半は好きな呼び方で通してくれた。ファーストネームで呼びつける者もいました。

 先生、それは「愛称」みたいなもので、あるいは「蔑称」かもしれませんでしたから、ぼくは使わなかったし、使ってほしくはなかったが、慣習は一気に、あるいは、たった一人では変えることは不可能です。かくして、どこまで続く「せんせいぞ」でしたね。それが学校の外にも広がりだし、あらゆる場面で「先生」が飛び交ってしまった。ぼくが困ったのは「弁護士」相手でしたね。何かと弱み(?)を握られていたから、「尊称」使用で、少しは割引を計算していたかもしれませんが、何人かの弁護士には、世間の慣習に従ったこともありました。政治家の友人や知人はほとんどいなかったので「先生、それは先生」と呼ぶ機会はありませんでした。(こんなの、大した問題じゃないですよね)

 小話で、地方の飲み屋での出来事、「入口を開けて『社長!』と声をかければ、全員が振り向いた」というのがありました。飲み屋でもどこでも客を気分よくさせるために「社長」と呼ぶ。客も呼ばれたいのかな。これは営業上の基本らしい。「先生」もそうなんだと思えば、わざわざ、議会が廃止宣言のための議論をするまでもないではないかという気もします。今や、どこの世界(業界)でも「先生」流行りです。学校や病院ならともかく、落語会やお笑い界でも「先生、お一つどうぞ」ときます。大工などの職人の世界でも。それが駄目なんではなく、「先生」というのは便利な「符牒だ」と思えば、何の問題もないともいえます。「お前」とか「てめえ)などと言われるよりは、事が荒立たないんですから。

 ぼくは、他者に向かって、一貫して、氏名を呼ぶことで通しましたが、それが痛く気に障る人が、じつに多くいたのには驚きでした。地位や身分を名乗って、自分を名乗らないのは可笑しいじゃん、そんなことを考えていたからでした。その人のことを「社長と呼べ」とか、「先生と言いなさい」とよく言われましたが、違和感があったな。「地位や身分で、私を呼んでほしい」と言われれば、そうしたでしょうけれどもね。

 最後に、これは教師に限りませんで、自分で自分のことを「地位」「身分」で呼ぶという慣習でしょうか、ありますね。教師が子どもたちに「せんせいは、こんな本を読みました」というような場合など、これは媚態かな。気持ちはあるいですな。もともとは「親」から始まったんでしょうね。自分の子どもに対して「お父さんは、こうした」とか「ママはね、とっても忙しいの」などと、じつに気味の悪い習慣や慣習にハマっているのです。いかがですか。地位や身分で自分を表すことは間違いではありません。でもその前に「一人の人間」であって、という感受性がなければ、その点では、生徒や我が子と同じ(同輩・同胞)だというセンス(感覚)を育てないんじゃないですか。「教師と生徒」ではなく、「わたしとあなた」ですね、大事な関係は。

 組織や集団は、いろいろなやり方で「個」を抑圧します。ぼくのモットーの一つに「教育の世界(学校)に、人間性を取り戻す」というものがありました。「児童」や「生徒」に強制的に仕立て上げられることに抵抗してきました。また教職に就いたときからは「先生」になることを徹底して廃してきました。ぼくは「せんせい」ではなく「ひとりのにんげん」なんだと。家でも同様で「お父さんは、…」などとは言わなかったし、言いたくなかった。「一人称」をどこでも通そうとしてきたんですね。(ぼく・おれ・わたしなどなど)

 「地位と地位」(の関係の全体)が社会(集団)を作ります。この点に関しては、どこかで、まずいながらも書いておいたと思われます。まず「地位」や「身分」で自分を誤魔化さないこと、自分を隠さないことから始めたいですね。

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真の人は、智も無く、徳も無く

 智慧と心とこそ、世に勝れたる誉れも残さまほしきを、つらつら思へば、誉れを愛するは人の聞(きき)を喜ぶなり。誉(ほ)むる人・譏(そし)る人、共に世に留まらず。伝へ聞かん人、またまた速やかに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉れは、また譏りの本(もと)なり。身の後の名、残りて更に益(やく)無し。これを願ふも、次に愚かなり。 

 ただし、強ひて智をもとめ、賢を願ふ人の為に言はば、知恵出でては偽(いつわ)り有り、才能は、煩悩(ぼんのう)の増長(ぞうぢょう)せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、真(まこと)の智にあらず。いかなるをか、智と言ふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか、善と言ふ。真(まこと)の人は、智も無く、徳も無く、功も無く、名も無し。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より賢愚・得失の境に居(お)らざればなり。

 迷いの心を以(もち)て、名利(みやうり)の要(よう)を求むるに、かくの如し。万事は皆、非なり。言ふに足らず、願ふに足らず。(「徒然草・第三十八段」承前)

 (承前)名誉や利得に煩わされ、一生を、心静かに過ごすことなく終えるのは、なんとも愚かしいことではないか。金を儲ける(貯める)と、それはそれで心配の種。死後に名を残すというのも、当人にはどんな意味があるのか。じつに愚かなことではないかと、そのように、三十八段の前半に述べて、兼好は、すべて「愚かなり」と片付けた気がしたのです。本当にそうだったのか、ぼくには判断が付きませんが、兼好自身は、「愚かなれ」「愚かなり」と、世間(の名ある人)を批判しています。その批判の矢は、恐らく兼好その人に向けられていたとも考えられるでしょう。

 さらに世の「識者」に向けて矢は放たれます。智者(知者)と言われる、(今で言う「知識人・有識者」のことか)それになにか意味があるのだろうか。世間の評判が高いという、その意味は「人聞き」、つまりは評判を気にした結果であって、他者の評価を気にかける人はもちろん、その人を褒める人も譏る人も「共に世に留まらず」です。その名声を伝え聞くものもまた、速やかに世を去る。「誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん」、いったい、誰に誉められ、誰に恥じるのを願っているのか。死んだ後に名が残るなんて、「更に益無し」だ。これもまた愚かなことと言うべきでしょう、と。 

 智を求め、賢明であろうと願う人の身になれば、そこには一理はある。でも「知恵出でては偽(いつわ)り有り、才能は、煩悩(ぼんのう)の増長(ぞうぢょう)せるなり」とも言う。知恵がつくということは「偽り」が芽を吹くことであり、才能を高めたいというのは「煩悩」の衝動によるのだともいう。それでは、一体何をもって「真の智」というのか。何を「真の善」というのか。真実に生きる人は「無知」「非徳」「功(手柄・はたらき)無し」で、一体そんな人のことを誰が知り、誰が伝えらるのか。「真実に生きている人」は、世間とは別乾坤、別個の境地に生きており、むしろ「賢愚・得失」から離れて生きている。(果たして、そんな人物がこの世にいるのかしら?)

 他者(世間)に認められたい、勲章・褒章が欲しいなどと「迷妄の中」でもがいているのは、すべて「愚かしいことなのだ」と兼好は断じる。「万事は皆、非なり。言ふに足らず、願ふに足らず」という結語の部分は、どういうことを言っているのでしょうか。「(人生の)すべては、取るに足りない、つまらないことばかりです。論じることも願求することも無意味・無価値なのだから」とは?どこかのお坊さんならいいそうですが、兼好法師が、これをいうかという気もしているのです。答えが見つからない問いですね、これこそ。

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 「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」

 この「徒然草」冒頭の執筆の動機と胸の思いを、ここに持ち出してくるのも、あながち間違いではないでしょう。きっと、この「三十八段」を書いていて、兼好さんは「あやしうこそものぐるほしけれ」という、ある種の危機に陥っていたかもしれない。なんでもないことをなんとなく書き続けていると、「人生とはすべて、意味のない所業の積み重ね」に思えてくるのを、彼は否定できなくなった、呑気に構えておられなくなったのです。

 ここでいう「無意味(非なり)」というのは、世間で生きる際の「意味」であり「価値」を指して言う。ひとかどの人物になるという願いは、世間の尺度に照らして言われること、だから、その世間の尺度にかなわない家柄や能力であれば、いくらもがいても出世もできなければ、評判を得ることもかなわない。そのような「辛酸」を、じつは兼好その人が舐め尽くしたのでした。名門の出ではないが、それなりの神職の家に生まれ、その職において身を立てようと謀ったが、うまくいかなかった。和歌の力量もそれなりの高さを保っていても、それを乗り越えるだけの「武器」がなかった。おそらく「立身」「出世」するためにせざるを得なかった悪戦苦闘を、晩年に思い返していたのかもしれません。その思いが「徒然草」を書く動機だったかもしれません。

 名利を得ようとしたり、知識を得て賢者になるというのも、きっと他人の目や評判を気にしていてのことだというところに兼好さんは思い至ったのです。彼自身は、「自分が生きたい」と願った人生を外れてしまった。その理由は、世間の目がなかった、自分を評価するだけの人物がいなかったというのではない。いくら自分を誉めてくれても、誉められた自分も、自分を誉めてくれた世人も、遅かれ早かれ、死ぬではないか。死んだ後に、何がどうなろうと「遅かりし」だし、人間は必ず死ぬのだから、死の前においては「一切が無、すべては非」となるではないか。だから、名誉も地位も、智者・賢者でありたいと念ずるのも、すべてが世間の評判を求めていることであり、若かった頃の「立身出世」を懇望していた自らを「鞭打つという自覚」があったかもしれません。

 「真(まこと)の人は、智も無く、徳も無く、功も無く、名も無し。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より賢愚・得失の境に居(お)らざればなり」といってみて、はて、それでは人生の甲斐(生き甲斐・意味・価値)とはなんだろうと、思わぬところで陥穽にはまったのです。身動きの取れないところに来て、はたと気がついてみれば、「万事は皆、非なり。言ふに足らず、願ふに足らず」としか言えなかったというのが本当ではなかったか。(左図:吉田兼好肖像 伝狩野探幽画:県立金沢文庫蔵

 この先は、別次元の話になるという自覚は兼好師にはあったでしょう。彼は「世捨て人」ではなかったし、世間から離れて「無我の境地」を開くような、抹香趣味は持ち合わせてはいなかった。生き馬の目を抜くような、熾烈な闘争社会に生きていくほかなかった「世間人」だった。だから「心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」ということまで書く羽目になったのです。

 「徒然草」は、今で言う随筆でしょうが、思いつくままに書いていくと、心が晴れるというものではなかった。生きる執心というものが兼好を呪縛していたと言ったらどうでしょう。自意識が過剰であったことは事実ですが、兼好が、現代人と同じよう(同質)な「人生観」を先取りしていたというのは正しくないようです。兼好でなくても、「心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」と言わざるをえなくなるのでしょう。それは「人生からの問い」だったからです。「生きていても仕方がないではないか」「生きる意味とはなんですか」などと「人生に問う」のではなく、「あなたはどのように生きているのか」と「人生から問われる」、その問いに答えることが、日々の生活であり、人生の軌跡でもあるのであって、問いに対する答えを、生きる中で、ぼくたちは日々重ねているのです。兼好法師の、この「三十八段」が突きつける難題は、兼好さんを通じて、ぼくたちのところまで届いているのです。

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あ そいうことか鰯雲(いわしぐも)

 【天風録】そういうことか鰯雲 雲が流れ行く空を見上げ、秋のひとときを楽しむ人もいるだろう。縁あって旅した新潟で思わぬ話を耳に挟んだ。秋の夜空を詠んだ芭蕉(ばしょう)の<荒海(あらうみ)や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)>は、どうも絵空事だという▲詠んだ場所とおぼしい海岸では、方角からして佐渡島(さどがしま)の上空に天の川が拝めない。辺りの海も穏やからしい。おまけに付き従っていた門人、曾良(そら)の日記によれば、その日は雨降りだった。検証ばやりの昨今、泉下の俳聖も心騒いでいるかもしれない▲それでも名句の評価はいささかも揺るぎない。かつて朝敵として島に流された人々の内なる<荒海>に思いをはせ、天の川で清まれ、鎮まれと願う句にも映る。空模様に託した心模様といえようか▲澄んだ青空に、かえって心が曇る場合もある。身を震わせる台風が駆け抜けた静岡では、土砂崩れで尊い命が奪われた。きっと、天が恨めしかろう。学校や家庭であつれきに悩まされ、心の中で吹き荒れる台風を持て余している少年少女もいるはず▲<あ そうかそういうことか鰯雲(いわしぐも)>多田道太郎。何が「そういうこと」なのか、さっぱり要領を得ないのに引かれる余情がある。雲をつかむような句も、心のねじを緩めるにはいい。(中国新聞デジタル・2022/09/25)

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 多田さんの句、「あ そうかそういうことか鰯雲」について。誰かの句について、何かと解釈や解説はつきものですが、それはまあ、グリコの「おまけ」みたいなもので、肝心なのは「句」自体ですから、おまけの方に気を取られ過ぎるのもどうかと思います。一瞬、「おまけ」に惹かれることはあります(これを「惹句」という)。ぼくはこの「増殖する俳句歳時記」にもくまなく目を通すようにしていますので、「おまけ」の価値はわかるように思います。しかし、先に「おまけ」を見るのではなく、本体に心を向けることを忘れないように、繰り返し、そこ(句)に戻っていくのを常としています。それを言った上で、以下の「鰯雲」評を読んで見られるといいでしょう。(余談です 大学に入った頃から、ルソーやカントなど、西欧の思想家のものを読み出しました。後に、ぼくは修士論文に「ルッソオ論」を書きましたから、早い段階から、多田さんのものを学んでいました。また、彼は多彩の人で、そのような「一筋の道」にこだわらない生き方にも関心を植え付けられたのでした。多田さんのなされた「文化史」という分野にあたる仕事にも多くを教えられたものでした)

 俳句がどういうものであるか、それは、いろいろな角度から捉えられますが、「これこそ俳句だ」「俳句はこれでなければ」、そういう「紋切り型」ではない、融通無碍の風流があるのではないでしょうか。「季語」の用い方にもよりますが、この「鰯雲」などはその典型ではありませんか、ぼくはそう考えては、駄句の山を築いてきました。下に挙げた津田さん、依光さんの句なども、そういう読み方ができるのではないですかね。一種の拍子というか、気合(呼吸)というもの、あるいは気迫とか「一休み」のように見られませんでしょうか。

 「道太郎が、余白句会(1994年11月)に初めて四句投句したうちの一句である。翌年二月の余白句会に、道太郎ははるばる京都宇治から道を遠しとせずゲスト参加し、のちメンバーとなった。当時の俳号:人間ファックス(のち「道草」)。掲出句は句会で〈人〉を一つだけ得た。なぜか私も投じなかった。ご一同わかっちゃいなかった。その折、別の句「くしゃみしてではさようなら猫じゃらし」が〈天〉〈人〉を獲得した。私は今にして思えば、こちらの句より掲出句のほうに愛着があるし、奥行きがある。いきなりの「あ」にまず意表をつかれた。そして何が「そうか」なのか、第三者にはわからない。つづく「そういうことか」に到って、ますます理解に苦しむことになる。「そういうこと」って何? この京の都の粋人にすっかりはぐらかされたあげく、「鰯雲」ときた。この季語も「鯖雲」も同じだが、扱うのに容易なようでいてじつは厄介な季語である。うまくいけば決まるが、逆に決まりそうで決まらない季語である。道太郎は過不足なくぴたりと決めた。句意はいかようにも解釈可能に作られている。そこがしたたか。はぐらかされたような、あきらめきれない口惜しさ、拭いきれないあやしさ・・・・七十歳まで生きてくれば、京の都の粋人にもいろんなことがありましたでしょう。はっきりと何も言っていないのに、多くを語っているオトナの句。そんなことどもが秋空に広がる「鰯雲」に集約されている。「うふふふ すすき一本プレゼント」他の句をあげて、小沢信男が「この飄逸と余情。初心たちまち老獪と化するお手並み」(句集解説)と書く。老獪じつに老獪を解す! 信男の指摘は掲出句にもぴったしと見た。『多田道太郎句集』(2002)所収。」(八木忠栄)(「検索エンジン 増殖する俳句歳時記」)

● 多田道太郎(ただ-みちたろう)(1924-2007)=昭和後期-平成時代のフランス文学者,評論家。大正13年12月2日生まれ。昭和51年京大教授,63年明治学院大教授,平成2年武庫川女子大教授。11年「変身放火論」で伊藤整文学賞。日常の風俗雑事から日本文化をとらえる評論で知られた。平成19年12月2日死去。83歳。京都出身。京大卒。著作に「ルソー研究」(共同研究),「複製芸術論」「しぐさの日本文化」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

 先日、谷川徹三さんの「階段二段飛ばし」に触れたところです。津田さんも「そうだったのか」と思えば、わけもなく嬉しくなるんですよ。穴蔵に向かって駆け下りるのは好きではありませんでした。だから「二段飛ばし」は昇り専用。かなり長い間、ぼくは「二段飛ばし派」だった。やがて、階段の幅が半分に削られ、その分をエスカレーターにしてしまって以来、ぼくの二段飛ばしは終った。この「二段飛ばし」と「鰯雲」、作者はどういう勢いでくっつけたのか、ぼくはわからない。あるいは評者の清水さんの言われるとおりかもしれません。「秋の雲」であれ、「夕霞(ゆうがすみ)」であれ、あるいは子規の「根岸の里の侘住居」であれ、どんな上句にも中句にも寄り添い密着する、決め言葉というもの(下句)があるのでしょう。つまりは「語呂合わせ」という気味ですね。それが俳句・俳諧の「洒落」にもなるのでしょう。

 階段は二段飛ばしでいわし雲 (津田このみ)「天気晴朗、気分爽快、好日だ。だだっと階段を、二段飛ばしで駆け上がる。句には、その勢いが出ていて気持ちがよい。女性の二段飛ばしを見たことはないが、やっぱりやる人はやっているのか(笑)。駅の階段だろう。駆け上がっていったホームからは、見事な「いわし雲」が望めた。若さに溢れた佳句である。私も若いころは、しょっちゅう二段飛ばしだった。山の子だったので、勾配には慣れていた。しかし、今はもういけません。目的の電車が入ってくるアナウンスが聞こえても、えっちらおっちら状態。ゆっくり上っても、階段が長いと息が切れる。それこそ二段飛ばしで駆け上がる若者たちに追い抜かれながら、「一台遅らすか」なんてつぶやいている。追い抜かれる瞬間には、若者がまぶしく写る。嫉妬ではなく、若さと元気が羨ましくてまぶしいのだ。ところで、サラリーマン時代の同僚が、二段飛ばしで駆け降りた。仙台駅で東京に帰るための特急に乗ろうとして、時間がなかったらしい。慌てて駆け降りているうちに転倒して頭の骨を折り、即死だった。三十歳になっていただろうか。まだ十分に若かった。そして、若い奥さんと赤ん坊が残された。駆け上がりはまだしも、駆け下りは危険だ。ご用心。掲句を見つけたときに、ふっと彼の人なつこい笑顔を思い出したりもした。『月ひとしずく』(1999)所収。」(清水哲男)(「検索エンジン 増殖する俳句歳時記」)                           

 清水さんの評に「そこ(丸善)で作者は気に入ったノートを求め、表に出たところで空を見上げた。秋晴れの空には鰯雲。気に入った買い物をした後は、心に充実した余裕とでもいうべき状態が生まれ、ビルの谷間からでも空を見上げたくなったりする。都会生活のそんな一齣を、初々しいまなざしでスケッチした佳句である」とあります。そうかもしれないし、そうでないかもしれないというところ。ぼくもどれくらい丸善に通ったか。ビル街のわずかばかりの隙間から「鰯雲」が見上げられたのか、空を見上げるというのは、誰でも、いつでもできそうで、なかなかできないものです。ぼくなど、街中で「上を向いて歩こう」と言う記憶は絶無です。下を向いてばかりだったからかもしれない。

 丸善にノートを買つて鰯雲(依光陽子)第五十回(今年度)角川俳句章受賞作「朗朗」五十句のうちの一句。作者は三十四歳、東京在住。技巧のかった句ばかり読んでいると、逆にこういう素直な作品が心にしみる。日本橋の丸善といえば洋書専門店のイメージが強いが、文房具なども売っている。そこで作者は気に入ったノートを求め、表に出たところで空を見上げた。秋晴れの空には鰯雲。気に入った買い物をした後は、心に充実した余裕とでもいうべき状態が生まれ、ビルの谷間からでも空を見上げたくなったりする。都会生活のそんな一齣を、初々しいまなざしでスケッチした佳句である。鰯雲の句では、なんといっても加藤楸邨の「鰯雲ひとに告ぐべきことならず」が名高い。空の明るさと心の暗さを対比させた名句であり、この句があるために、後発の俳人はなかなか鰯雲を心理劇的には詠めなくなっている。で、最近の鰯雲作品は掲句のように、心の明るさを鰯雲で強調する傾向のものが多いようだ。いわば「一周遅れの明るさ」である。有季定型句では、ままこういうことが生じる。その意味でも、後発の俳人はけっこう大変なのである。「俳句」(1998年11月号)所載。(清水哲男)(「検索エンジン 増殖する俳句歳時記」)

 川柳と見紛うばかりの駄句を、飽きもしないで、ぼくは重ねてきました。人さまにお見せできるものではないので、未だ一度だって「これがが駄句だ。参ったか」と披瀝に及んだことはない。そのような勇気というよりは、厚顔さを持ち合わせていないのです。俳諧とは「俳優の諧謔、すなわち滑稽の意」とありますとおり、滑稽味がいのちのような、連歌からの余計者として生まれ、後に独立して「俳諧」となった。これにも短くない歴史があります。言葉遊びの域を出なかったものが、やがて明確に「文芸」の位置を獲得するにいたったのは、元禄以降の芭蕉(蕉風)によるところは大きかったでしょう。面倒は省いて。本日挙げてみた数句は「諧謔」「滑稽」「洒落」のいずれかにおいて著しいものがあると言っても、大きくは外れませんでしょう。現代風俳句は「文芸復興(ルネサンス)」を遂げているのかもしれません。

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 ● 俳諧(はいかい)=和歌連歌(れんが)、俳諧用語。誤って「誹諧」とも書いた。俳優の諧謔(かいぎゃく)、すなわち滑稽(こっけい)の意。『古今和歌集』巻第19に「誹諧歌」として収める58首の和歌は、ことごとく内容の滑稽な歌である。連歌の一体である「俳諧之連歌」は、滑稽な連歌の意で、連歌師の余技として言い捨てられていたが、純正連歌の従属的地位を脱し、文芸の一ジャンルとして独立するに伴い、「俳諧」とだけ略称されるに至った。最初の俳諧撰集(せんしゅう)は1499年(明応8)成立の『竹馬狂吟(ちくばきょうぎん)集』であるが、1524年(大永4)以後に山崎宗鑑(そうかん)編『誹諧連歌抄』(『犬筑波(いぬつくば)集』)が、1536~1540年(天文5~9)には荒木田守武(もりたけ)の『守武千句』が相次いで成り、俳諧独立の気運を高めた。17世紀に入ると、松永貞徳(ていとく)を盟主とする貞門(ていもん)の俳諧が全国的規模で行われた。俳風はことば遊びの滑稽を主としたが、見立(みたて)や付合(つけあい)がマンネリズムに陥り、より新鮮で、より強烈な滑稽感の表出をねらう、西山宗因(そういん)らの談林(だんりん)俳諧に圧倒された。談林は1660年代の中ごろ(寛文(かんぶん)中期)から1670年代(延宝(えんぽう)期)にかけてのわずか十数年間で燃焼し尽くし、1690年代(元禄(げんろく)期)以降は、芭蕉(ばしょう)らの蕉風俳諧にみられるような、優美で主情的な俳風が行われた。18世紀の初頭を軸として、連句中心から発句(ほっく)中心へと俳諧史は大きく転回するが、蕪村(ぶそん)も一茶(いっさ)も連句を捨てたわけではない。連句が否定され、発句が俳句へと変身を遂げたのは、近代に入ってからのことである。(ニッポニカ)

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 「澄んだ青空に、かえって心が曇る場合もある。身を震わせる台風が駆け抜けた静岡では、土砂崩れで尊い命が奪われた。きっと、天が恨めしかろう。学校や家庭であつれきに悩まされ、心の中で吹き荒れる台風を持て余している少年少女もいるはず」(コラム「天風録」)「澄んだ空」に「曇る心」、「台風一過」と行かない悩みや苦悩を抱えながらの明け暮れ、しかし、空には「鰯雲」だ。そんな時、「あ そうかそういうことか鰯雲」と、まるで鰯雲から声をかけられたような、鰯雲に呼びかけるような、見事な錯覚を持つといいね。「何だ、そうだったんだ。わかったよ、鰯雲さん」と。上を向いて歩くばかりではない。上を向くこと、そんな、気軽な体操ができれば、心の曇りも薄れるかもしれない、たとえ束の間であっても。雲は流れる、つまりは風が運ぶんですね。心胸に心地よい風が吹くといいなあ。

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