名利に使はれて、静かなる暇無く、…

 名利に使はれて、静かなる暇無く、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。 

 財(たから)多ければ身を守るに貧(まど)し。害を買い、累(わずらい)を招く媒(なかだち)なり。身の後には、金(こがね)をして北斗を拄(ささ)ふとも、人の為にぞ煩(わづら)はるべき。愚かなる人の、目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉(きんぎょく)の飾りも、心有らん人は、うたて、愚かなりとぞ見るべき。金(こがね)は山に捨て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。

 埋もれぬ名を、長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ。位高く、やんごとなきをしも、勝れたる人とやは言ふべき。愚かに拙(つた)なき人も、家に生まれ、時に遇(あ)へば、高き位に昇り、奢(おご)りを極むるも有り。いみじかりし賢人・聖人、自ら賤しき位に居り、時に遇はずして止みぬる、又多し。偏(ひとへ)に、高き官(つかさ)・位(くらい)を望むも、次に愚かなり。(「徒然草 第三十八段」)(参考文献、島内既出)

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 台風に伴う、大量の積乱雲の発生で、当地も、朝から雨が間断なく降り続いています。隣町村あたりでは「大雨警報」などが出されていますので、油断大敵です。このあたりは少しの風でも停電騒ぎになります。木々が多いので、その木の枝に電線が接触して断線するのでしょう。今の状況ですと、風はそれほどでもありませんが、小なりとはいえ、「台風」ですから、用心が欠かせません。「備えあれば憂いなし」とは世間知のようですが、ぼくの方は「備えあれども憂いあり」ですから、注意の上に注意をという姿勢でいます。自然災害とは言いますが、人間の存在しない環境で、どれだけ地震や台風が大暴れしても「自然災害」とは言わない。いつでも起こる、単なる「自然現象」ということに尽きるのです。その自然環境に人間が関わると、途端に「自然災害」という。なんだか変だという気もします。そんな「埓のないこと」を言っても始まりません。今、我々の眼前で生じているのは「自然・人為災害」と称すべき現象ではないでしょうか。

HHHHHHHHHH

 久しぶりに「徒然草」を引き出してきました。時々目を通したり、飛ばし読みしたりしているのですが、ここしばらくは「人為災害」の目眩ましや猛襲を受けて辟易としながら、飛び来る火の粉は払わねばと、誰に頼まれたわけでもないのに、そんなヤクザな振る舞いに時間を取られていました。なんともバカバカしい仕儀にいたっていたというほかありません。とは言え、兼好さんの時代であっても、同じような「生々しい」「馬鹿ばかしい」「白々しい」ことが相次いで起こっていたことに変わりはありません。見たところ、着るものや食べるものの変化はあろうけれども、人間の「愚かしさ」「図々しさ」「意地悪さ」などにおいては、いささかの進歩も退歩もしていないのです。二足歩行のホモ・サピエンス(Homo sapiens)と、誰が言ったのでしょうか。このホモ・サピエンスは、他の動物に比して「賢い人」「知性人」というのですから、「マジかよ」と、驚きを通り越して仰天します。人間よりも遥かに「賢い犬」や「知性鳥」は枚挙に遑(暇・いとま)がないからです。

 同じように、他の生き物と区別(差別)し、人間の勝れているらしいところを明示・自慢するために「ホモ‐ファベルHomo faber)」などといいます。「道具をつくる人」というらしい。だけれども、(言葉)ではなんとでも言えるんだということも事実です。いろいろなものを作るのが人間の特性かもしれませんが、核爆弾や各弾道ミサイルなとどいう「大量破壊兵器」という物騒なものを作る動物は人間以外にはいません。作っただけでは足りなくて、それを敵とみなす者たちに使ってみたくなるのですから、始末にも手にも負えないですな。「賢い人」「知性人」とはその程度の、度し難い存在でもあることを忘れたくありません。

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 さて兼好さん。この「三十八段」はぼくの大変に好きな箇所です。本日は、その前半部分について駄弁ります。と言っても、文章を繰り返し読めばそれでいいだけのことで、無駄な解説も解釈もいらないでしょう。繰り返して味読するだけです。「名利(みょうり)」とは、「名誉と利益。また、それを求めようとする気持ち。めいり」(デジタル大辞泉)です。「財多ければ身を守るに貧(まど)し」とはどういうことか。「金」を沢山所有すると、セコムをしなければならないし、なにかと心配の種が尽きない、どんなに守ろうとしても十分じゃないというのです。「貧し」とは、気疲れというか、どこまで防御しても気が休まらないというもので、まるで「防衛力」の際限なさの愚かしさを言うのです。二重窓にしたり、あちこちに監視カメラをつける、それでも安心できないという、そうなんでしょうか。貧者には、金持ちの心がわかりません。ブロック塀の上に「ガラス破片」や「鉄条網」を突き立てる心境は、浅ましい限り。死んでも、ぼくにはわからないな。

 「身の後には、金(こがね)をして北斗を拄(ささ)ふとも、人の為にぞ煩(わづら)はるべき」死んだ後に「北斗星」を支えるほどの財産を残しても、相続人には迷惑な話、だそうです。いまは容疑の段階ですが、元五輪理事とされる T という御仁は、一体どれだけの「財産」を築こうとしたのか。一億二億は「はした金」と思ったのか、「利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり」としか言いようがない。この手の「濡れ手に粟組」が「大学出」、ですよ。そういう輩は、それを自覚してするんですから、じつに「(手に負えない愚か者の)ホモ・サピエンス)ですな。

 後世に名を残すと言えば、いかにも「よき人生」の証拠と言えそうで、「あらまほしけれ」、もっとも至極だと。そのように、一応頷いてみますが、じつは、なかなかそうではないんです、と兼好さんは指摘する。「位高く、やんごとなきをしも、勝れたる人とやは言ふべき」とまるで、兼好さんは今に生きていて、現実の状況を見ているような言い草です。「位人臣を極めた」ものを、「立派な人というべきか」。決してそんなことはない。これまた、浅ましい限りの「貧寒たる手合」と言ったらどうでしょう。

 「愚かに拙(つた)なき人も、家に生まれ、時に遇(あ)へば高き位に昇り、奢(おご)りを極むるも有り」という見事な実例があるではないか。莫迦で浅慮の輩でも、「名門?」に生まれ、「時宜に叶う」と総理の椅子に上り詰め、「奢りを恣にする輩もいるのだ」という。「偏(ひとへ)に、高き官(つかさ)・位(くらい)をのぞむも、次に愚かなり」高位・高官に就きたいなどと望むものは、「名利を求めるもの」の次に愚かなんだよ。とするなら、偏差値競争を勝ち抜いて、「名門」だとかいう大学に入りたがる、有名企業に就職したがるのは、やはり「愚痴無知」なんだと、兼好さんに成り代わって言っておきたいね。

 恐らく、兼好の生きた時代(1283ころ~1352ころ)(鎌倉時代末期から南北朝期にかけて)は「身分社会」だったでしょうから、今よりも遥かに家柄が物(モノ・もの)を言っていたはず。「名門」「勢家」ならざる家柄だったため、兼好自身がそれで苦心した。それだけ一層、名利や地位を求めることの浅ましさに、「止んぬるかな」という気概・気分は湧いていたでしょう。今どきの政治家で言えば、二代目三代目などは、その典型と言えるのかもしれません。金が貯まればもっとほしい、名を挙げることに人生を賭ける(まるで博打打ちのような生き方ですよ)、そんな心持は、人間性の深いところで、いつも変わらない(不易)部分なんでしょう。落語に「こんなに金が貯まった」と、二階で一人、小判を出して並べて喜色満面、まだあるまだあると、後退(あとずさ)りし、二階の窓から落ちた「金の亡者」が揶揄されているのがありました。この駄文には、例によって結論はありません。この部分はもう一回分、後に続きます。(雨台風の行方が気になる)

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「親切」や「思いやり」は不言実行に限るね

 本日は「秋分の日」、つまりは「彼岸の中日」に当たります。春秋二回の「彼岸の日」は、いつどのように広がり、慣習化されてきたのか。やかましいことを言えば切りがありませんが、仏教の民間への伝播と普及が時間をかけて続けられてきたからでしょう(最後部の辞書を参照)。もちろん、今日では「お墓参りの日」だという認識の人が大半です。お墓(参り)に興味のないもの、墓そのものを持たないものには、数ある「国民の休日」の一日にすぎないのでしょう。「暑さ寒さも彼岸まで」という表現は人口に膾炙(かいしゃ)した言い習わしで、今でも使われることがあります。ときに今頃の「天気予報」の枕詞のように。

 正岡子規の母親は、いつも話していたそうです。「毎年、彼岸の入りは寒いね」と。それを受け取って、子規は「毎年よ彼岸の入りにさむいのは」と詠んだ。「これが俳句か」と問われれば、「俳句とはこんなものです」とも言えそうです。いずれにしても、酷暑だ猛暑だと恨んだり嘆いたりしていた今年の夏も、秋冷の候になったと言えば、そぞろ身にしみる「寒さ」の到来間近という時候でもあります。季節は変わるというのが自然現象ですが、その自然現象に人間社会が大いに悪影響を与え続けてきた結果、自然の歩みにいささかの狂いが生じ、それが年々大きな狂いとなって定着しそうになる、そんな異常気象が「正常状態」化するところまで来てしまった感があります。地球温暖化と騒いでも、それにはいろいろな理屈がついていて、場合によっては温暖化などは問題ではないとまで言う人々も出てくる始末です。

 ここで「温暖化」問題を掘り下げようとは思いませんが、化石燃料を取り尽くそうとし、またそれを燃料(エネルギー)として消尽しようとしてきたのですから、いかに自然環境といえども、あちこちで「音を上げる」のは当然であるともいえます。温暖化の仇敵として名指しされたのが「CO2」でした。持続可能なエネルギーなどと、まるでおためごかしのように「原発再稼働」「原発新設」を政治家が音頭を取ってぶち上げています(言わされているのですが)。原発と縁切りしたはずのフランスやドイツなどでも、ロシアからの燃料途絶で、いとも簡単に「政治公約」を破り捨てる始末です。挙句の果ては、そのロシアが、ウクライナの原子力発電所に対してミサイル攻撃を行って、(これは「テロ攻撃」にほかなりません)原発が戦争の手段や道具に使われている。ここまでくれば、地球温暖化など、どこかに消し飛んでしまう事態にあると言わねばなりません。

 この「持続可能な開発目標」というのは、口を開いて「いー」と発音するような、あるいは二本の足を縛っておいて、マラソンするような、土台無理な話、不可能なものを可能に思わせる、そんな「偽装」時代であり、一見もっともらしい意見を述べて、実は何もしようとしていないことを白状しているようなものです。一歩進んで、二歩下がるみたいでしょうね。「だれひとり取り残さない」(No one will be left behind.)と、本気で考えているなどとは信じられない状況でも、敢えてそれを言うことに政治的価値を置くという、まことに不埒な時代・社会の現状ではないでしょうか。スローガンとかお題目というのは、「掲げる」「唱える」、そのことに意義があるのだというのでしょう。言うだけ野暮ではなく、言わなければ野暮と。

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● SDGs(えすでぃーじーず)=世界が2016年から2030年までに達成すべき17の環境や開発に関する国際目標。Sustainable Development Goalsの略称で、日本では「持続可能な開発目標」と訳される。2015年9月の国連持続可能な開発サミットで世界193か国が合意し、2015年に達成期限を迎えたミレニアム開発目標MDGs:Millennium Development Goals)の後継として採択された。地球環境や気候変動に配慮しながら、持続可能な暮らしや社会を営むための、世界各国の政府や自治体、非政府組織、非営利団体だけでなく、民間企業や個人などにも共通した目標である。発効は2016年1月。「だれひとり取り残さない」(No one will be left behind.)をスローガンに、「貧困や飢餓の根絶」「質の高い教育の実現」「女性の社会進出の促進」「再生可能エネルギーの利用」「経済成長と、生産的で働きがいのある雇用の確保」「強靭(きょうじん)なインフラ構築と持続可能な産業化・技術革新の促進」「不平等の是正」「気候変動への対策」「海洋資源の保全」「陸域生態系、森林資源の保全」など17の目標と、各目標を実現するための169のターゲットからなる。MDGsが途上国の貧困・飢餓の撲滅や教育の確保に主眼を置いていたのに対し、SDGsはすべての国・地域を対象とし、MDGsの目標に加えて経済危機、気候変動、伝染病、難民や紛争などへの対処に力点を置いている。目標には法的拘束力はなく、達成状況を測る方法も各国に任されている。/ 日本は2016年(平成28)5月に首相安倍晋三(あべしんぞう)を本部長とするSDGs推進本部を設置し、民間企業や各種団体、消費者とも連携した実施方針を打ち出した。ドイツのベルテルスマン財団がまとめた世界149か国のSDGs達成ランキング(2016年7月時点)によると、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーなどの北欧諸国が上位を占め、日本は18位、アメリカは25位、中国は76位であった。(ニッポニカ)

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 面倒なことを言い出したのも、実は本日付けの南日本新聞のコラム「南風録」(下掲)を読んだからでした。そこに書かれていることは、もっともで、何ら異議を唱えるところがありません。ただ、すこしばかり違和感を持ったのは、こんなことがいまごろやられ出し、しかもそれがニュースになるというところに、「だれひとり取り残さない」(No one will be left behind.)というスローガンが、現実には空虚・空無であったことを示しているのではありませんか、ぼくにはそうみえてしまったのです。コンビニの批判をするのではなく、またこの「小さな親切」にいちゃもんを付ける気もありません。この程度のことを、さも「大きな思いやり」のように持て囃す、その風潮に、ぼくは嫌な感じを持つのです。「そんなことは黙ってやれよ」、そう言いたいんですね。

 「節電」などの囃子詞(はやしことば)も同様です。第二次大戦中の都会で「節電々々で夜の暗いこと、まあ防空演習のお姉さんみたいですわ」(「古川ロッパ日記‐昭和一五年(1940)三月四日」)とある。最近の都会の(反)節電効果は凄まじいもので、まったく昼と見間違えるほどです。多くの心ある人たちは、東日本大震災後の「節電」が骨身に応えたのかもしれませんね。「都会の夜景」というけれど、昼間より明るいじゃん、そんな減らず口を叩きたくなる景色を見せつけられています。何ごとも「おため(御為)ごかし」なんだな。別の表現では、おなじことを「じょうず(上手)ごかし」ともいう。要するに金儲けなんだ。「表面は人のためにするように見せかけて、実は自分の利益を図ること」(デジタル大辞泉)なんだとね。

 ものみな値上げの横並び。そんな時節に(買い物に出かけなくても)「庶民の音が上がる」と言いたいですね。雨の降る日は天気が悪いとばかり、ロシアの狼藉で、物の値段(物価)があがると、まるで自然現象のように言い捨てて、後は野となれ山となれ、そんな政治の風潮に、(昔からですが)開いた口が塞がりません。大規模金融緩和だと「一端の金融政策」を装っているが、故元総理との共犯の日銀総裁。為す術がないだけの無能ぶりです。円安の続伸は、金融当局の無能無策ぶりを見透かされているだけ。二進も三進も行かない、進むことも引くこともできない、文字通りに当局は放心状態です。これについても言いたいことは山ほどあるのですが、「莫迦につける薬はない」とだけ言っておきます。やがて「金融破綻(債務超過)」に、この劣島社会は陥るはずです。預金も何も、なけなしの財産は紙屑同然、だれひとり取り残さない、つまりは全員を道連れにという魂胆でしょうか。「権力亡者」が、揃いも揃って「無知無能」と来ているのですから、目も当てられない惨状にあるのです。

 そんなときに「ビッグなニュース」があり「指さしシート」導入の「小さな親切」のバカウケ。誤魔化されてはいけませんと言っても、「オレオレ詐欺」が増加の一途を辿る国柄、国民性ですよ。地面が崩落するかという瀬戸際に、「小さな親切」もないでしょうに、そんなこんなで、ぼくの虫の居所はよくないんですな。そう、「虫酸が走る」というやつです。もっというなら、「大の虫を生かして小の虫を殺す」という政治がまかり通っているのです。それをときたま「小さな親切」が始まると、目を奪われるというのです。それこそが「だれひとり取り残さない(全員、道連れにする)」(No one will be left behind.)という政治スローガンの表現する真意なんですね。

 【南風録】耳が不自由な種子田千博さんにとっては「ビッグなニュース」だった。コンビニのローソンが、全国の店のレジカウンターに「指さしシート」を導入したという。▼霧島市に住む種子田さんは早速、近所の店に出掛けた。「レジ袋購入します」「スプーンください」といった文言とイラストが記されたシートを指して意思表示する。それまでは店員の声が聞き取れず、やり過ごしてきたが指一本で通じた。店の配慮がうれしかったそうだ。▼ローソンが導入した背景には新型コロナ感染を防ぐマスク着用がある。聴覚障害者は相手の表情や口の動きから意図を読み取ったり判断したりする。マスクで店員の口元が覆われ、困っている客を見た聴覚障害のある社員が提案した。▼カウンターに張りつけられたシートを見ると、取り入れるのはそれほど難しくなさそうだ。他店やスーパーに広がれば、聴力の低下した高齢者らも気後れせず、買い物を楽しめるだろう。▼聴覚障害者は外見からは理解されにくい。手話や筆談などによって意思を伝える環境が十分に整わない中、不安や不便を抱えながら暮らしている。コロナ禍がこれに追い打ちをかける。▼種子田さんは「障害の程度によって必要な支援はさまざまだ。こんな時だからこそ、実情に目を向けてほしい」と訴える。少数者の声に耳を傾けることは、誰もが生きやすい社会にきっとつながる。(南日本新聞・2022/09/23)

 もう少し駄弁るつもりでした。しかし、昨日避妊手術のために連れて行った猫を迎えに行く必要があるのと、その後の世話では、目が話せないこともあり、中途半端ですが、ここまでにします。言いたいことは、「指さしシート」などというたぐいのものは、何も大騒ぎすることではなく、黙ってやるのが当たり前だと。その昔、東大の総長を務めたKさんという方が「小さな親切運動」団体の代表をされていました。それを見て、「小さな親切」という運動会を全国的に推進するのもどうかと思ったということです。「親切」という語を見聞きすると、この団体運動を思い出します。今でもあるでしょうか、学校などでの「アオイソラ」運動なるものが。もう一度たしかめて、「御為ごかし」という言葉が示す内容を捉え損なわないようにしたい。

 「指差しシート」にしても「小さな親切運動」にしても、するべきこと、したほうがいいと考えられる事柄は、黙ってやればいい。それが言いたいだけです。有言実行もいいけれど、不言実行はもっといいな、そんな風にぼくは考えてきたし、自分のできる範囲で、黙ってやろうとしてきた、それこそ「小さな思いやり」がいくつかあります。それは口にするもんではないでしょう、「ハシタナイ・ミットモナイ」って自分でも思いますから。

● ひ‐がん【彼岸】〘名〙=① (pāramitā 波羅蜜多を漢語として意訳した「到彼岸」の) 仏語。絶対の、完全な境地、悟りの境界に至る修行。また、その悟りの境地。生きているこの世を此岸(しがん)として、目標となる境界をかなたに置いたもの。〔勝鬘経義疏(611)〕 〔大智度論‐一二〕              ② 春秋二季の彼岸会(ひがんえ)。また、その法要の七日間。俳諧では、秋の彼岸を「後の彼岸」「秋の彼岸」という。《季・春》                                                       ③ 向こう側の岸。転じて、(こちら側の)人間的な世界に対して、それを超越した世界をいう。⇔此岸(しがん)。                                                        ④ 植物「ひがんざくら(彼岸桜)」の略。(精選版日本国語大辞典)

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世界がぜんたい幸福にならないうちは… 

 河北春秋:哲学者の谷川徹三(1895~1989年)… 哲学者の谷川徹三(1895~1989年)は27日が命日である。岩手県東山町(現一関市東山町)のヤマユリのユリ根を好んだという。縁を結んだのは、谷川が深く傾倒した宮沢賢治(1896~1933年)▼東山町の新山公園に高さ2・5メートル、谷川揮毫(きごう)の賢治の詩碑が立つ。「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」。谷川が自ら選んだ『農民芸術概論綱要』の一節を刻む▼賢治は31年、東山の東北砕石工場に技師として招かれ、石灰肥料の品質向上や販売に奔走した。同年の9月、東京出張で倒れる。郷里の花巻の病床で11月、谷川が「最高の詩」と称賛した『雨ニモマケズ』を書き留める▼詩碑建立は、敗戦で虚脱した青年たちが生きる指標にと発案し、賢治の弟清六氏の紹介で谷川に揮毫を頼んだ。1年をかけて書き上げた谷川は、48年12月の除幕で落涙しながら「まづもろともに」の精神を説いたという▼賢治は世界全体の幸福を念願し、生涯をささげた。童話『烏の北斗七星』で、敵を討った烏は星に祈る。「どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません」。9月21日、賢治忌である。(河北新報・2022/09/21)

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である(「農民芸術論綱要・序論」)
「校本宮澤賢治全集 第十三巻(上)覚書・手帳 本文篇」1997(平成9)年刊。
曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ(同上全集)

● 谷川徹三(たにかわてつぞう)(1895―1989)=哲学者。明治28年5月26日愛知県に生まれる。1922年(大正11)京都帝国大学哲学科を卒業。1928年(昭和3)法政大学文学部哲学科教授。1951年(昭和26)理事、1963年総長(1965年辞任)を歴任。法政大学名誉教授。地中海学会会長、愛知県文化懇談会議長その他多くの要職につく。その活動は幅広く、世界連邦政府運動、憲法問題研究会、科学者京都会議に加わる。1975年芸術院会員。ゲーテの人間性と思想に深く共鳴し、美の深さと高さを探究している。宗教的立場は、ゲーテのいっさいのものに神をみる汎神(はんしん)論で、宮沢賢治(みやざわけんじ)への傾倒もそこに由来する。「生涯一書生」をモットーとする。書に『感傷と反省』(1925)、『享受と批評』(1930)、『生の哲学』(1947)、『宮沢賢治』(1951)、『人間であること』(1971)などがある。1987年文化功労者に選ばれた。(ニッポニカ)

 谷川さんという方は、戦後の思想界、というよりは知識人社会の旗頭という趣のあった人で、さまざまな分野において活躍の足跡を残した。ぼくは、谷川さんの書かれたものをよく読んだ方だと思う。その影響は、「これこれ、こういうところに」と指し示すことはできません。それほど、いわば「道理の哲学」を披瀝されていたからだと思う。彼の出発はドイツ観念論でした。やがて「生の哲学」に行く、京都派でもありました。谷川さんに深く動かされたとはいえませんが、ぼくにとっては、物事を深く徹底して考え抜く時間を持つ生活に憧れを持った、その方面への方向指示器のような役割があったと思います。と言っておきながら、つまらないことを言います。

 谷川さんの逸話でもっとも印象に残っているのは、九十前後の頃でも「地下鉄の階段を二段飛ばしで上る」という他愛のないものでした。これは誰だったかが書いておられたことで、ご自身は階段を一歩ずつ登っていると、その横を、浴衣がけの下駄履きで、颯爽(さっそう)と二段飛ばしで登っていく人がいた。「誰だと思ったら、谷川さんだった」というものでした。それを知って以来、そこ(階段の上り下り)に、谷川流の「自立」「自足」の哲学があると思ったし、自分も地下鉄の階段を上り下りするとき、いつもこの「二段飛ばし」が浮かんだものでした。そこのろ流行りだした「エスカレーター」などは利用しなかったものです。

 本日は宮澤賢治について駄文を綴ろうかと、前もって考えていました(正確に言うと、昨日の予定でした)九月二十一日は賢治さんの忌日だったから。誰かの誕生日でもありました。「死に往くあり生まれ来るあり彼岸花」(無骨)。ところが、今朝は九時前に動物病院に出かけた、避妊手術を予定していた猫を連れて。この子を入れると、どれだけの猫を病院に連れて行ったことだろう。今いる猫たちは、すべては近所の雑木林などで出産して、やがて家の近くに連れてきたものです。そうこうするうちに、当方で食事を出すようになって、さらに家の中で寝るようになった。しかし中には、家で宿泊しないで、食事だけ食べに来るものもいて、付き合いはなかなか大変。まるで「猫食堂」という雰囲気です。病院に行ったのは、今年の三月に生まれた子で、来週は同じ時期に生まれた二つの雄猫の「虚勢の手術」が予定されています。(ごくは手術なしでも、とっくの昔に「虚勢済み」です)手術前夜からは絶食させるのですが、これがなかなかの大仕事で、他の仲間は食事をしているのに、その子だけは「お預け」もできません。みんないっしょに「絶食」(朝九時前まで)です。本日も、大騒動をしながら、朝の三時から病院行きの子の横について、機嫌を取っていました。相当に怒っていたようです。

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 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない / 自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである / われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」

 世界の中に「犬」や「猫」や「鳥」や、その他の生き物が入らないはずはありません。もう何十年も前のこと、一人の女性作家から「世界がぜんたい幸福にならないうちは」という言葉を聞いて、頭を打ち付けられるような震えを覚えました。もちろん、それが賢治のものだと知っていましたが、ぼくよりも二十歳以上も年上の人から、この言葉が発せられたことに衝撃を受けたのでした。谷川さんは、その作家(随筆家)よりも三十歳以上も年上でしたから、「ああ、賢治は、こんな先輩たちによって読みつがれてきたのだ」と直感・直観したのでした。宮沢賢治は「読書の対象」「研究の対象」などではなく、彼らにとっては「生への導き」「人生の磁石」のような存在だったのだとはっきりと悟りました。

 昨日は中野重治さん、本日は谷川さんを通して宮澤賢治に再会した気がします。道義も倫理も廃れきった「暴力社会」に生きる身にとって、はるか往時に生き死にした「先達」に、もう一度見(まみ)えることが求められているような気がしきりにします。お彼岸だから、ですかねえ。「われらは各々感じ 各別各異に生きてゐる」というところに、宮沢賢治という人間の新面目を見ませんか。

まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
ここは銀河の空間の太陽日本 陸中国の野原である
青い松並 萱の花 古いみちのくの断片を保て
『つめくさ灯ともす宵のひろば たがひのラルゴをうたひかはし
雲をもどよもし夜風にわすれて とりいれまぢかに歳よ熟れぬ』
詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画
われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす
おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう(同上)

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鰯雲人に告ぐべきことならず(楸邨)

 【談話室】▼▽「逆波の稲にもありて最上川」。俳壇の第一人者鷹羽狩行(たかは・しゅぎょう)さんの句である。斎藤茂吉の名歌「最上川逆白波(さかしらなみ)のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」を下敷きに、飄風(ひょうふう)が川面だけでなく稲をも揺らすさまを捉えた。▼▽茂吉へのあいさつ句といった趣向だろう。ただしそれにとどまらず、新庄市出身の鷹羽さんにとって本県の景観は創作意欲を刺激するものだった。「稲穂波よりもしづかに最上川」とちょうど今頃を詠んだ句もある。豊穣(ほうじょう)の季節感は多くの県民の共感するところに違いない。▼▽そんな折、東北地方を横断しそうなのが台風14号である。当初、気象庁は大きな爪痕を残した「伊勢湾台風に匹敵する」と警戒を促した。九州を縦断し、西日本を暴風域に巻き込みながら北東に進む。犠牲になった方が出たほか、水に漬かった農地のニュース映像も流れた。▼▽県内でも農家が対策に追われた。リンゴ産地の朝日町では収穫を前倒ししたり、酒田市では特産の刈屋梨の畑で棚を補強したり。どうか秋の実りへの影響が少なくなりますように。そして、豊かな大地を最上川が穏やかに流れ下りますように。そのことを祈るばかりである。(山形新聞・2022/09/20)

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 上掲コラム中の「飄風(飆風)」とは「急に激しく吹く風。つむじかぜ。はやて」(デジタル大辞泉)という。「飄」は「ただよう」(動詞)とも、「つむじかぜ」(名詞)とも読ませる。さらには「はやい」「ひるがえる」などとも読ませます。今回の台風十四号は、さしずめ「逆波の稲」とばかりに揺り動かされたところが多かったのではないでしょうか。刈り入れ直前の稲穂が大風と大雨でなぎ倒され、水に浸されたさまを思い浮かべます。今年は台風の数は少ないというが、しかし少ないながらも大きな被害をもたらすのが、この先も襲撃してくるのではないかと安心できないでいます。

 鷹羽狩行さんの俳句に関して、ぼくは一ファンでしかありませんが、軽さと知的な雰囲気がとても好ましいと思ってきました。山形県は新庄市の出身だと言われますから、ぼくの勝手な思い込みで言うと、まるで、作家の藤沢周平さんのような存在感(佇まい)がある俳人です。藤沢さんは鶴岡の出だったかと思う。この他に、何人か山形出身の人を知っていますが、個々の違いを越えた類似性が認められるようにも思われて、はっきりとした根拠があるわけではないのですが、ぼくには懐かしさを感じさせられてしまうほどです。その鷹羽さん、もう三十年ほどにもなりますか、ラジオでしばらく俳句入門のような指導をされていたのを聴いたことがあります。番組担当者(女性)が、与えられた「季語」を仕立てて一句を作る、それを師匠格の鷹羽さんが添削するというもので、その的確な指摘と表現に、ぼくはほとほと感心したのをよく覚えています。

 素人が作る作品に手を加えるというのではなく、この言葉が、なぜここに来るのかという問題提示を、ものの見事に適正な言葉と適切な位置を与えるという、ただそれだけのことでしたが、十七文字の姿形が、驚くほどの精彩を得て蘇ってくるのをまざまざと、ぼく自身が体験したように思われたのでした。今から考えれば、その添削指導ぶりの痕跡を記録に残しておかなかったことを残念に思う次第です。俳句はリズムだと言うし、写生だともいう。何であれ、一瞬の景観(景色・気色)を切り取る、そのふるまいに作者の個性が出るものでしょう。ひるがえって、このぼくは、まるで「駄句」の集積のような、なさけないジレッタント流儀をどれくらい続けてきたことか。

 コラム氏が触れている二句。この「逆波の稲にもありて最上川」という句は「稲穂波よりもしづかに最上川」に並び重なって、鷹羽俳句の醍醐味があるのでしょう。最初の句が先にできたのかどうか詳細は調べていませんが、最上川という「最上の句題」に、鷹羽さんは「地の利」を如何なく発揮されたことだけは確かでしょう。その鷹羽さんのものを二、三句。いずれの句も、大きな自然にあって、人間は一個の点景になっているという風情が漂っています。森羅万象、渾然一体という「整然」を思わせてくれないでしょうか。この端正な落ち着きもまた、鷹羽さんの本領だったでしょうか。山口誓子と秋元不死男に師事。飯田蛇笏に深く傾倒しているとも言われます。

・ひぐらしやどこからとなく星にじみ   ・道あるがごとくにしぐれ去りにけり   ・いわし雲旅は一人の時に満ち   ・露の夜や星を結べば鳥けもの

● 鷹羽狩行 (たかは-しゅぎょう)1930- =昭和後期-平成時代の俳人。昭和5年10月5日生まれ。山口誓子師事。「天狼」「氷海同人をへて,昭和53年「」を創刊,主宰。この間の40年「誕生」で俳人協会賞,50年「平遠」で芸術選奨新人賞。平成14年俳人協会会長。20年「十五峯」で詩歌文学館賞,蛇笏(だこつ)賞。現代感覚と知的な構成に特徴がある。27年長年にわたる俳人としての業績で芸術院賞。山形県出身。中央大卒。本名は高橋行雄。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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 ついでに、と言っては言葉が足りません。しかし時節柄、「鰯(いわし)雲」(「鱗(うろこ)雲」「鯖(さば)雲」などとも)を詠み込んだ句をいくつか。詠み人の存在が消えてしまうというのがいいですね。

・いわし雲大いなる瀬をさかのぼる (飯田蛇笏)  ・なにゆゑのなみだか知らず鰯雲 (久保田万太郎)  ・天覆ふ鰯雲あり放心す (山口誓子)  ・鰯雲こころの波の末消えて (水原秋櫻子 )  ・残る生のおほよそ見ゆる鰯雲 (斎藤玄)

● いわし雲(いわしぐも)=上層雲の一種で氷晶からなる。一般には巻積雲の俗称であるが,の類の名称と厳密に対応するわけではなく,高積雲をさす場合もある(→雲形)。秋によく見られ,そのときイワシ漁があることからこの名がある。まだらの形がサバの皮膚の模様に似ているため,さば雲またはうろこ雲とも呼ぶ。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 秋分の日も間近です。昨日が、秋の彼岸の入り。「中日」は 23日 ですね。どうでもいいこと、本日が馬齢重ねて七十八歳です。誰かに言われて、そうだったか、と驚いたのです。先日、京都の姉に用事があって電話したら、「あんた、いくつになるんや?」と尋ねられた。姉さんとは三つ違いだからというと、「そうやったなあ」と。ぼくは五人(兄姉姉僕弟)組で、今のところ、ひとりも欠けていないのも、どういうことでしょうか。兄貴は、ぼくより七歳上です。弟は三、四歳下。それぞれが歳をとったという感慨が深い。両親はもういない。兄弟姉妹、仲良くとはいかなかったのは、いろいろな理由もあったが、結局は兄弟姉妹もまた、親子同様に「他人の始まり」ということだったからかもしれません。ぼくは、ぼく以外の四人の誕生日を知らないし、知りたくもないままで、ここまで付き合ってきました。(誕生年は覚えています)

 烟雲過眼(えんうんかがん)、このような境地には、青息吐息をついている限りは達し得ないことはわかりきっています。しかし、雲も煙(烟)も掴むことができない以上は、ただ黙って、眼前を通り過ぎるのをやり過ごすばかりですね。何事も、そのように頓着・執着しないで、生きていけるなら、気楽になるのですかね、あるいは物狂おしくなるのでしょうか。生きている限り、ぼくたちは何事かに「拘(こだわ)り」「固執し」、どこまで言っても「狂気の部分」を捨てられないんでしょうね。台風、彼岸、鰯雲、親子兄弟姉妹についてなど、常日頃、まともに考えてみようともしない、考えても埓の開かない事事に取り憑かれるのも、台風一過がもたらした、秋冷の気がなせる仕打ちか、ほんの一瞬の間の愚考でした。

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わが心やさしくなりぬ赤のまま(青邨)

 【日報抄】秋の日はつるべ落としだ。きのうの日の入りは17時46分。1カ月前より50分ほど早まった。今の時季は毎日1~2分ずつ早くなる。6月の夏至の頃はほとんど変わらない日が続くから、たそがれ時が早くなると感じるのも当然だ▼手元の辞書によると「たそがれ」は「誰(た)そ彼(かれ)」が語源だという。今の言葉なら「あれは誰」という感じか。薄暗くなって、人を見分けるのが難しくなる夕暮れ時を意味するようになったようだ▼万葉集には、こんな和歌が収められている。〈誰そ彼と我(われ)をな問ひそ九月(ながつき)の露(つゆ)に濡(ぬ)れつつ君待つ我を〉。「あれは誰かと、私のことを尋ねないでください。九月の露に濡れながら、あなたを待つ私なのに」(岩波文庫「万葉集」)という切ない心情を詠んだ▼闇の世界が迫り人や物が見分けにくくなる夕暮れ時を、人は古くから怪異と出合いやすい時間帯と考えた。「逢魔(おうま)が時(とき)」である。あながち迷信の類いとはいえない。現代では交通事故が多発する時間帯として知られている▼現代の逢魔が時を示す新たなデータが明らかになった。警察庁が2017年から5年間に全国で発生した交通事故を分析したところ、日没後1時間以内に道路を横断中の歩行者が死亡した事故は7~9月に比べて10~12月は2・1倍に増えていた▼自転車に乗った人が車と衝突した死亡・重傷事故も1・8倍だった。ドライバーの視覚を鈍らせる、魔の時間帯であるのは間違いない。気を引き締め、早めのヘッドライト点灯で魔よけとしたい。(新潟日報デジタルプラス・2022/09/20)

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 毎朝起きがけに、お茶をいっぱい。日本茶に限ります。日の出を見ながらというのが習慣になっています。しかし日の出が見られないときでも、お茶は欠かさない。今の時刻で言うと、四時か五時、昔風に言うと「明け六つ前」というところでしょうか。昔の「一刻(ひととき・いっとき)」は今の約二時間です。ほとんど毎日、四時か五時には起床していますから、世間の習慣からすれば早いのかもしれません。しかし、その時刻にはもう畑に出ている方もおられますから、「朝飯前」の野良仕事は当たり前にされているんですね。ぼくの「朝飯前」は猫の食事準備と、その後片付けです。だいたい一時間ほどかかります。

 八月十日ころに生まれた子猫(家の隣のハヤシの中で出産したようです)が、そろそろ離乳食を始めるので、これまでよりは時間がかかりますが、まあ、六時前にはパソコンに向かってニュースを見たり、BGMを流しながら、なにやらかにやらをしています。この「無駄な時間」が、ぼくにはとても大事というか、ある点では「命の洗濯」の時間になっています。尤(もっと)も、一日中が「命の洗濯」だという方が正しいのですが。かみさんはまだ、爆睡中。八時過ぎに朝食、かみさんといっしょ。

 朝日(🌅)に挨拶はしますが、夕日(🌇)は、残念ながら雑木林の影になって見えづらいので、ついつい見逃してしまいます。時々、びっくりするような日没に遭遇し、まるで洗濯した命が「乾ききった」というか、今日も無事でしたな、という殊勝な気分になることがあります。夕日よりも朝日が、どちらかというと好みにあっているようで、これまでに「日の出」を拝むためにあちこち出かけましたが、「日没」を見るための旅行はしたことがないんです。まあ、数時間すれば、また「朝陽(あさひ)」が見られるからという思いからでしょうか。「日の出」も「日の入り」も人間界の都合で作った表現で、太陽は「出入り」などはしない。自然現象としてはひたすら「太陽」の周りを地球が回っていることに変わりがない。(本日の「日の出」は5時25分、「日の入り」は17時40分です)(千葉地方)。

 コラム氏の指摘のように、「逢魔が時(刻)」とか「黄昏(たそがれ)時」に交通事故が多いというのはよくわかります。免許を取得してほぼ半世紀。運転は上手か下手か、自分ではわかりませんが、もう何十年も「無事故・無違反」を続けています。その期間は、恐らく四十年くらいではないか。違反切符は、若い頃にはよく切られたし、「反則金」もそれなりに取られたので、これ以上は取られたくないという気が起こったのでしょう。運転は時と場合によって、丁寧でもあり、乱暴でもあるのは、今も昔も変わりません。

 ある時期から、ぼくは日没後と降雨時は運転しないと決めました。もちろん原則ですから、時には緊急事態で運転することはあります。でも大抵は、この二つの、自分で作った規則は、かなり厳守している方だと思う。おどろくほど出鱈目な運転をする人が増えてきたことも「規則」を守ろうという態度を取らせていると考えています。十年ほど前、雪の降るなかをタクシーに乗りました。ちょっとした上り坂にかかって、運転手はこわなくなって「運転してくれないか」と、客であるぼくに懇願した。(ぼくがどうしたかは、ここでは言えません)若い頃から雪道に馴れていました。スキーに出かけた経験からです。(これがプロ(=金を取る)だというのです。「どこそこへ」と行き先を告げたら、「今日、乗ったばかり」「初めてのお客さんです」という運転手に何度か出会った)

 つい最近(今年の二月頃か)も、雪の上り坂で自動車が渋滞していました。よく見ると、懸命にアクセルを踏んで(スリップして)いるものや、手回しよくレッカー車を呼ぶものもいましたが、ぼくはノーマルタイヤで当たり前に坂道を登りました、「お先に失礼」と。つまり、運転の上手下手は、何事でも同じでしょうが、それまでの経験が生きているかどうか、経験がなければ論外です。それにオートマ車が大半の自動車時代ですから、車の知識がゼロでも乗れるという、まことに危険に満ちた自動車社会を生きているのです。

 暗くなったら乗らない。雨が強いときは運転しない。当たり前のルールです。いつも思いますが、「今やらなければ、どうにもしようがない」ということは、日常的にはまず起こらないんですね。そこから「今日やれることは、明日でもやれる」という格率をぼくは守ってきました。一例でいうと、ぼくには「締め切り」というのがなかったと言ってもいい。これまでも原稿を頼まれたことがあり、大抵は締切がありました。締切に間に合うように書こうとしますが、書く気が起こらなければ、提出は止めたし、締切が過ぎても受け付けるというときには、それに間に合うように書きました。でも「間に合わせるために、徹夜して」ということは一度もありません。原稿だけではなく、もろもろのことがらにも、「締切」があるのが世の習いです。でもぼくはその「世の習い」には習わないことのほうが多かった。

● 逢魔が時(刻)「…たとえば,神の間,納戸(なんど),便所,軒,門,神社,寺,辻,橋,峠,村境などは,そうした境界の主要なものであり,これらの境界は物理的・社会的境界のみならず,神や妖怪のすむ他界との境界とも考えられていたので,こうした境界領域に妖怪たちが出没する傾向が強く認められる。また出没の時についても同様で,〈逢魔が刻(とき)〉と呼ばれた昼と夜の境の夕方と明け方に,妖怪はこの世界に出入りするとされている。妖怪たちのおのおのの姿形や性格は多様性に富んでいるが,一般的には妖怪たちの姿形は,現実に存在する人間や動物,器物を異様な形に変形したり,これらの事物を合成しつつ変形したり,既存の妖怪たちの姿形を利用しながらつくり出されているといえるであろう。…」(世界大百科事典)

● たそ‐がれ【黄昏】=〘名〙 (古くは「たそかれ」。「誰(た)そ彼(かれ)は」と、人のさまの見分け難い時の意)夕方の薄暗い時。夕暮れ。暮れ方。たそがれどき。また、比喩的に用いて、盛りの時期がすぎて衰えの見えだしたころをもいう。→かわたれ。(以下略)(精選版日本国語大辞典)             ● こう‐こん クヮウ‥【黄昏】〘名〙① (形動タリ) 日の暮れかかること。夕やみのせまること。また、そのさま。夕暮。たそがれ。② 戌(いぬ)の刻のこと。(同前)

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 「秋の日は釣瓶落とし」といいます。「日が落ちるのが早い」ことの例え。「釣瓶」を知らない人がいるでしょ。関西人の「鶴瓶さん」とは違います。釣瓶とは「《「瓮(へ)」の意》井戸水をくむために、縄や竿(さお)などの先につけておろす」(デジタル大辞泉)で、ぼくは小学生の頃までは毎日使っていました。水道ではなく、井戸水が「生活用水」だったからです。夏は冷たく、冬は暖かく感じるようなもの(水温)だった。スイカなどは井戸水で冷やしていました。現役の俳人で、ぼくの好きな鷹羽狩行さんの句に「つるべなど見ぬ世の釣瓶落しかな」があります。「いろいろなものを見ぬ世」になったのは、文明の進歩のお陰らしいが、すべてが「歴史」になるということは、一面においては「暗記」や「学習」の対象になり果せることでもあるのでしょう。「釣瓶」は知らないが、「鶴瓶」はよく知っていて、「家族で完敗(変換ミスではない)」などとは困ったことでもあるでしょうね。

 秋の日は釣瓶落としのように「早い」ということには無関係で、この季節にも、あちこちで、地味な輝きを見せている草花の「あかのまま」(別名、イヌタデ。谷崎潤一郎の小説に「蓼喰ふ虫」がありました)その草花が、どういうわけか、秋の頃に似合うものとしてぼくは記憶しているのです。「あかのまんま」ともいう。中野重治さんの「歌」という詩にも「赤まゝの花」がありました。青春の息吹(意気込み)というか、あるいはまた暗い時代を映す鏡のような詩でしたね。

  歌              中野重治

お前は歌ふな
お前は赤まゝの花やとんぼの羽根を歌ふな
風のさゝやきや女の髪の毛の匂ひを歌ふな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべての物憂げなものを撥(はじ)き去れ
すべての風情を擯斥(ひんせき)せよ
もつぱら正直のところを
腹の足しになるところを
胸先を突き上げて来るぎりぎりのところを歌へ
たゝかれることによつて弾ねかへる歌を
恥辱の底から勇気をくみ来る歌を
それらの歌々を
咽喉(のど)をふくらまして厳しい韻律に歌ひ上げよ
それらの歌々を
行く行く人々の胸廓にたゝきこめ

 「もつぱら正直のところを/ 腹の足しになるところを/ 胸先を突き上げて来るぎりぎりのところを歌へ」と歌った中野さんは二十四歳だったと言う。学生でした。なかなかに困難な道を歩こうとしていたとも伺えます。前途は多難、そんな世の中に青年は闘いを挑むような、「叙情」ではない「激情」を歌おうとしたのです。その後の人生の難行を、若い詩人は予想していたでしょうか。いや、その予想を遥かに超えて、凄惨な時代を生きたのではなかったか。ある一時期、この詩人もまた、いまでいう「カルト」に誘引されたのでした。それは、彼自身の苦悩を癒やすためというよりは、「世のため、人のため」という「大義」によってだったでしょう。中野さんにとって「モルヒネ」は却って、痛みや苦悩を深めたものだったかもしれない。ぼくが彼に惹かれたのは、その「理由」のつかない「カルト」への惑溺とそれとの決死の戦い、および国家権力との軋轢、それらの二重三重の葛藤に苦しんだのではなかったかということにありました。

 「たゝかれることによつて弾ねかへる歌を/ 恥辱の底から勇気をくみ来る歌を/ それらの歌々を /咽喉(のど)をふくらまして厳しい韻律に歌ひ上げよ /それらの歌々を/ 行く行く人々の胸廓にたゝきこめ」

 その中野さんには比べるべくもなく、ぼくの青年時代は「軟弱」「惰弱」「怯懦」「懦愚」そのものだったということを、中野さんを熟読することで嫌になるほど見せつけられたのでした。

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● 中野重治【なかのしげはる】=詩人,小説家,評論家。福井県生れ。東大独文科卒。金沢の四高で窪川鶴次郎らと知り合い,短歌や詩,小説の習作を発表するようになる。またこの時期に室生犀星を知る。東大入学後,1926年には窪川,堀辰雄らと《驢馬》を創刊する一方,新人会に入会,マルクス主義,プロレタリア文学運動に向かう。日本プロレタリア芸術連盟,〈ナップ〉,〈コップ〉の結成に参加。運動の方針をめぐる議論のなかで多くの評論,詩,小説を発表。《中野重治詩集》に収められた詩はほとんどこの時期までに書かれた。1931年日本共産党に入党,1932年検挙,投獄され,1934年〈転向〉し,執行猶予の判決で出所。再び筆をとり,《村の家》《歌のわかれ》《空想家とシナリオ》《斎藤茂吉ノオト》などを1940年代初頭にかけて書きつぐ。敗戦後,間もなく日本共産党に再入党。また中心メンバーとして《新日本文学》を創刊,平野謙らとの〈政治と文学論争〉は戦後文学の開始を告げるものとなった。1947年―1950年参議院議員。《むらぎも》《梨の花》,共産党〈徐名〉後の《甲乙丙丁》など,評論も含めての旺盛な文学活動を死の間際まで続けた。(1902―1979)(マイペディア)

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 台風十四号の余波ではなく、その本体の影響がまだまだ続いています。空は暗く、風は時に強く、油断のならない日ではあります。台風の被害者として、何人かの方が亡くなられたと報道がありました。異国では「やんごとなき方の国葬」とやら。内国では「正直ではなかった方の国葬」反対で、一万を超える人々が台風のさなかに行進したとも。異国にも「王室制度」があります。ぼくは、どこの国であれ、これには異論があります。誰であれ、亡くなられたということには、当たり前の感情として、悼む気持ちがあります。その「皇室」「王室」制度という政治の道具は「時代の遺物」。だから残すべきなのか、いや廃れるに任せるのがいいのか。いずれ、これについては駄文を綴るかもしれません。

 中野さんの全集(確か筑摩書房版だったと記憶している)が書庫に眠っているような有様です。この機会に再読三読に及びたいですね。数奇な、あるいは波乱万丈の人生を送られた人という印象がぼくには強いし、学生時代から、特に気になる作家(文学者)でもありました。いろいろな意味で、時代の奔流に弄ばれながら生きた人ではなかったでしょうか。また、柳田國男さんとの交友にも興味を持ったことでした。戦後に復活した雑誌「展望」にはよく中野さんの文章が出ていて、この雑誌もぼくには背伸びしながらの「愛読誌」とはなったのでした。二十代末までの時期、ぼくはとびきり背伸びをしていたなあと、今でも思います。それがよかったとは言いませんが、背伸びするから見えるものがあったという意味では、必要な経験ではあったでしょう。それ以降は、一切背伸びをしなくなり、等身大の我が儘を通してきたことになります。

 朝、ラジオを聴いていたら「悔いはあるけど、後悔なし」というプロ野球選手の言葉が耳に入りました。ぼくには「悔い」も「後悔」もあるけど(二つの語はいっしょじゃない?)、それもまた人生、とひばりさんのように謳いたいところ。「ああ、川の流れのように」です。

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敬老日水流れゆく大蛾あり (飯田龍太)

(S26年「老人の日」制定・神戸新聞)

 【南風録】政府が1985年に50〜60歳代の呼び名を公募した。まだ働ける世代ゆえ高齢者扱いしないで-。そんな趣旨だったようだ。選ばれたのは「実年(じつねん)」だった。◆応募が一番多かったのは「熟年」だったが、40歳代のイメージが強いという理由で選に漏れた。人生80年時代の当時はそうした認識が一般的だったのだろう。この頃100歳以上の高齢者は全国で千人台である。9万人を超えた現在、40代の男女を熟年カップルと呼ぶことは難しい。◆実年に決まったのは、「実り」などが中高年のイメージにぴったりと評されたためだ。これに合わせるように同じ年、鹿児島県はそれまで職員が主に50代で退職していたのを60歳定年に改めた。◆さらに県は、定年を来年度から段階的に引き上げて最終的には65歳とする方針だ。法改正に伴うもので、教育委員会や県警なども対象となる。役職を外れ給与は下がるとはいえ、ベテラン勢の雇用が延びるのは高齢化時代に沿う対応に違いない。◆企業に対しては昨年から、70歳までの希望者に就業機会を確保することが努力義務となっている。厚生労働省の調査では、4社に1社が何らかの形で70歳就業を導入し、特に人手不足に悩む中小企業が積極的に取り組んでいるという。◆65歳定年が普及すれば、次は70歳だろうか。現役の期間は長くなるばかりである。高齢者の定義も変わっていくのかもしれない。(南日本新聞・2022/09/19)(ヘッダーはTBS News Dig・2022年9月19日(月) 06:21)

● 【敬老の日】=〘名〙 国民の祝日の一つ。九月の第三月曜日。敬老の精神を養いそだてるため、従来の老人の日を祝日として、昭和四一年(一九六六)制定。(精選版日本国語大辞典) 

● 敬老の日は、1965年に「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」と法律で定められました。(日本文化いろは事典)

 「敬老の日」「老人の日」と詠む俳句のそれぞれ。恐らく、殆どが「敬老の日」の該当者(立派な老人)というか、「あれは老人なり」と言われる側の方々。でも、そのどれ一つとっても、ぼくには「やけくそ」とも、「何だよ、そんな日は」と言わぬばかりの、俳句らしからぬ、「反老人宣言」に似ていると思われますが、果たしてどうでしょうか。「ごちそう食べて、祝いましょう。祝われましょう」「おじいちゃん、おばあちゃん、もっと長生きしてネ」などと孫にでも言わせる日、「祝ってくれてありがとう」などというしおらしい気分は一切ないですね。「謀反老人」の俳句ともいえます。「子どもの日」「父の日」「母の日」と同じように、これを「休日(昔は「祝日」「旗日」とか「祭日」とか言わされました)」というのは、いかにも「見え透いた」「軽薄な仕業」に思えてきます。「老人を敬いましょう」と言われるから、そうなるんですか。いやいや、その反対でなんすか。

・老人の日といふ嫌な一日過ぐ(右城暮石) ・敬老の日といふまこと淋しき日(中村春逸) ・湯ざましのやうに過ぎけり敬老日(野崎宮子) ・反逆す敬老の日を出歩きて(大川俊江) ・敬老の日とて何祝ぐこともなし(石塚友二) ・敬老の日のコーヒーのアメリカン(村本畔秀) ・敬老の日の給食の鮪鮨(角川源義) ・老人の日なり子供の日の如く( 後藤比奈夫) ・老人の日喪服作らむと妻が言へり(草間時彦) ・年寄の日と関はらずわが昼寝(石塚友二) 敬老と聞く耳持たぬ世の仕打ち(飯野無骨)

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 ぼくは、あと数日で「七十八歳」になる、という世の習い。昔風に言えば、前後左右、どこから見ても、正真正銘の「老人(爺)」であり、「老人(敬老)の日」の対象者になるらしい。もちろん、今だって、世間の見方によると、ぼくは「老人」そのもの。それをことごとしく「祝日」「祭日」という、その魂胆はなんですか。世の中が「老人の日」であろうと、「敬老の日」であろうと、ぼくの「日常」には関係のないことというばかりです。休日はともかく、「祭日」といい「祝日」というのは、誰が誰に対して言うことなのでしょうか。「妻の日」や「夫の日」があってもいいし、「爺さんの日」「婆さんの日」もいいでしょう、作りたければ。

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 台風十四号のもたらす強風と豪雨は衰えを知らないように、劣島を縦走中です。大きな被害が起こりませんように。「敬老の日」だからといって、「台風」は祝ってくれません。あるいは呪っているのかもしれないと、減らず口をたたく「後期高齢者」ではあります。ぼくは小さい頃から、「祝日」や「祭日」というものが嫌いでした。理由は単純、日常のありのまま(茶飯事)が「偽装される」という直観を持っていたからです。一体誰が決めたのか、とは言いません。いずれ「選良」と揶揄される歴々が法案を作ったのでしょう。「敬老の日」と称して、「年寄を敬いなさい」などと、それは政府や官庁が「号令」をかけてまでしてやることだろうか。(空模様は薄黒い曇天です。これから、大雨が降りそうな気配です。昨日も、二度三度と停電がありました。数時間にわたり続きました。本日も、その「危険性(可能性)」が大いにありそうです。だから、駄文はここまで)

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 (追加です。上掲の神戸新聞記事につながります)【正平調】高齢者とは何歳からだろう。老齢年金や医療制度は65歳から、自治体が交通費を補助する敬老パスは70歳や75歳から。「人生100年時代」と言われ、ますます分からない◆国内の総人口に占める65歳以上の割合は約3割に達し、年金財政が厳しいやら、医療費の負担が重いやら、高齢者にとってはうれしくない話題ばかりだ◆きょう「敬老の日」を迎えた。祝日として制定されたのは1966年。それを19年さかのぼる47年、戦後の混乱が続くなか、兵庫県野間谷村(現・多可町八千代区)の村長、門脇政夫さんが村主催の敬老会を開いた◆農閑期の9月15日、村中のオート三輪車を集めて55歳以上の人を送迎し、ごちそうと余興でもてなしたそうだ。門脇さんはこの日を「としよりの日」と定め、村独自の祝日にしようと提唱した。それが「敬老の日」のルーツになったという◆門脇さんは生前、こう語っていた。「子どもたちを戦地に送った親たちは本当に精神的に疲れていたのです。少しでも報いてあげなければならない」◆「先立つ不孝を…」。戦時中、こう書き残して多くの若者が散った。今もウクライナ、ロシアの親が悲嘆のどん底にいることを忘れてはならない。きょうは親を悲しませない平和な世界を誓う日でもある。(神戸新聞NEXT・2022/09/19)

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