「スナフキン」になりたかった

 いまでも読まれているのかどうか、詳しくは知りません。一時期、ぼくはアニメの「ムーミン」をテレビでよく観ました。折に触れて絵本や漫画も見たように記憶しています。でも、その多くの記憶はテレビ放送と結びついているのです。これは後になって知ったことですが、トーベ・ヤンソンはフィンランド生まれの画家であり、多彩な創作活動を展開した芸術家でした。まず、ぼくは、「ムーミン」という不思議な存在に惹かれたのと同時に、その登場人物の一人だった「スナフキン」に魅了された。彼もまた「人間離れ」をした存在でしたが、いろいろな場面や機会に、驚くほどの知恵と才覚を示していたことに、ぼくはある種の憧れを抱いたほどでした。彼のように、冷静沈着で、パイプは咥くわ)えないで、ゆっくりと自分の言葉を話す、大人か青年か定かではありませんでしたけれども、そんな人になりたいとしみじみ考えたのでした。

 その当時は、すでに学部を卒業し、何をするでもなく、一種の遊民のような状態で、宙ぶらりんの生活を続けていた。漠然と、物を書いたり、音楽に関わることをしてみたいと夢遊病のような根のない生活を送っていたのを、今でも恥ずかしさを伴って想い出します。一日の大半をレコードに耳を傾け、手当たり次第に本を読みふけっていた。いろいろな作家や作曲家に手を伸ばし、それで「収拾」がつかなくなるということもなかった。どんなきっかけであったか、ぼくはシベリウスという作曲家の、ある種の暗さというか雲に覆われた空に鳴り渡る音色や音質が好きになっていた。それが北欧というものかなどと、分かった風なことを愚考していた。いろいろなジャンルの音楽を聴いたが、なかでも「フィンランディア」は熱中して聴いたものでした。それがどういう動機で作られたのだったか、一応の知識はあったと思いますが、意に介していなかった。その暗さ、暗鬱さと、第二楽章の解放された真剣みにひかれていたのでした。(ヘッダー写真は右のURLからの借用:https://www.travelbook.co.jp/tour-overseas/lp-finland-7622/)

 (*Sibelius: Finlandia (Prom 75)「Music by Sibelius marks the 100th anniversary of Finnish Independence. Performed by the BBC Singers, BBC Symphony Chorus and the BBC Symphony Orchestra, conducted by Sakari Oramo.」:https://www.youtube.com/watch?v=fE0RbPsC9uE)(蛇足 この演奏は是非とも聞かれることを勧めます。「祖国」を踏みにじられたくないという素朴な感情が、濁りのない音になって響いています。「わが帝国は強大である、あそこの土地も奪ってしまえ」という「侵略」「暴力」のすゝめではないのです。これはウクライナの「現実」にも妥当します)

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◉ フィンランディア(ふぃんらんでぃあ)Finlandia=シベリウス交響詩(作品26)。帝政ロシア支配下にあったフィンランドで、愛国独立運動の一環として1899年に上演された民族史劇につけた音楽がその原型となっている。この劇音楽からおもな部分を編出し、翌1900年にまとめられたのが『フィンランディア』で、同年パリの万国博で初演された。侵略に苦しむ民衆が闘争を通じて勝利を手にするまでを描いたこの作品は、不穏当であるとして当時のロシア官憲がその演奏を禁止するほど国民の愛国心に強く訴えた。シベリウスの作品のなかでももっともポピュラーなもので、中間部に置かれた平和を象徴する賛歌は合唱曲としても広く親しまれている。(ニッポニカ)

HHHHHHHHHHHHH

 やがて、スメタナの「わが祖国」に出会い、欧州における、ある国の音楽家の仕事の成り立ちを改めて考える機会になったのです。(スメタナについては、このブログでは「モルダウ」に触れて書いています)「フィンランディア」は、いわくつきの楽曲であったことを、ある時期に知り、シベリウスを再評価したというか、再確認したのでした。「フィンランディア」については、別稿で書こうとしています。(「北欧・東欧」諸国の苦悩の源泉である「ロシア帝国」の野心という観点で。どうしても「領土」を一ミリでも広くしたいという、その欲望はどういう性質なのか。所有欲?領土愛?自己顕示? いずれもとるに足りない、ごみのようなものであっても、そのために民衆から収奪し、挙句に「殺戮」するのですから、「度し難きは、『ある種の人間』である」と言いたいですね)

 そして、今次の「ウクライナ侵略」でロシア軍が遂行した悪逆無比に重ねて、このシベリウスの「抵抗と気概」の音楽を取り出してみようとしていました。それとの関連で、「ムーミン」が懐かしさを伴って、フィンランドであったからこそ生まれた「作品」であると勝手な解釈を施して、このところ、古い映像を引っ張り出しては「ムーミントロールの世界」を再発見したように思われたのでした。おそらく劇中には「戦争」問題があからさまに出てこないのでしょう。しかしトーベの人生を少しでも学ぶなら、彼女自身の生が「旧習・旧慣との闘い」であったとも考えられるのですから、そのような見方ができるように想い、だからこそ、ぼくは「ムーミン谷の変わり者」であり「旅人」でもある「スナフキン」に激しくひきつけられていくのです。(ある記事によると、「スナフキン」はトーベ・ヤンソンの恋人の姿が投影されていると出ていました。そうなんだろうなと、証拠もなしに納得しています。加えてと言うべきか、とーべはその後に、ある女性と激しく惹かれ合うのでした。父親との葛藤から始まって、観衆に縛られない「自由」というか「解放」を求めていた人だったともいえます。その一つの姿(投影)が「ムーミン谷」ではなかったか)

 独りの人間が、いかなる時代、いかなる社会で生きて来たかは、簡単に、はかり知ることは容易ではありません。しかし、時代や社会の「産物」でもあるのが人間です。もっと言うなら、時代や社会が生み出す「歴史」を超えて人は生きることが出来ないというのです。その意味でも、トーベ・ヤンソン生きた時代状況に、ぼくは強い関心を呼び覚まされています。「歴史」を超えられないからこそ、葛藤があるのであり、それが「何か」に収斂(しゅうれん)すると、そこから「ある人の生きたかたち」が生み出されるのでしょう。

HHHHHHHHHHHHHH

◉ ヤンソン(やんそん)Tove Jansson(1914―2001)=フィンランドの女性画家、児童文学作家。スウェーデン系の出で、作品もスウェーデン語で書く。スウェーデンやフランスで絵画を学ぶかたわら、1930年代より政治誌『ガルム』に表紙絵を寄稿する。その後、表紙絵に自らのサインのかわりに描いていたムーミントロールを主人公にした『小さなトロールと大洪水』(1945)を著して挿絵画家および作家としてデビュー。以後、『ムーミン谷の彗星(すいせい)』(1947)をはじめ、幻想的な「ムーミン物語」を8冊発表。70年に発表した『ムーミン谷の11月』が、シリーズ最後の作品となった。フィンランドの海辺を舞台に、孤独、愛情、理解、慰めをやさしく語り、広く世界に真価を認められる。フィンランドのルドルフ・コイブ賞、スウェーデンのニールス・ホルゲルソン賞とエルサ・ベスコフ賞を、66年には国際アンデルセン賞を受賞。ムーミン・シリーズは30以上の言語に翻訳され、日本では発行部数1000万部を超えたといわれた。また、69年以来三度テレビアニメ化され、90~91年のアニメは本国フィンランドでもブームを巻き起こしたという。ほかに絵本『それからどうなるの?』(1952)、少女小説『ソフィアの夏』(1971)、自伝的小説『彫刻家の娘』(1968)、短編小説集『聴く女』(1972)などがある。(ニッポニカ)

◉ ムーミン=トーベ・ヤンソンによる新聞連載マンガ及び童話の主人公。正式にはムーミントロール。1914年8月9日、フィンランドの首都ヘルシンキで生まれたトーベは、グラフィックアーティストの母と彫刻家の父を持ち、芸術一家の中で育った。両親の姿は、童話の中のムーミンママムーミンパパに重なり、一家が夏を過ごした島のサマーハウスでの記憶が、童話に反映されているとされる。トーベは、商業デザインや美術、フレスコ画を始めとする伝統画法などを学び、画家、イラストレーター、商業デザイナー、風刺画家、児童文学作家、絵本作家、作詞家、舞台美術家、小説家として活躍した。ムーミンにつながる最初のイラストは、彼女が10代の頃、トイレに落書きした大きな鼻の生きもので、「スノーク」と書き添えられていた。34年、水彩画「黒いムーミントロール」を描く。鼻や体型はムーミンそのものだが、赤い目をした恐ろしい生き物として描かれた。トロールとは、北欧の神話に登場する醜い妖精である。第2次大戦中、トーベは風刺画を量産し、その中にムーミントロールを登場させている。45年、童話の第1作『小さなトロールと大きな洪水』を出版。50年に発表した第3作『たのしいムーミン一家』が英訳されて英国で評判を得たことをきっかけに、54年からロンドンの夕刊紙「イブニングニュース」で週6日の連載マンガ「ムーミントロール」がスタートした。マンガは最盛期には40カ国、120紙に転載された。マンガの人気によって童話のムーミンも評判を呼び、44言語に翻訳されるまでになった。59年以降、連載は弟のラルス・ヤンソンに引き継がれ、60年から15年間、ラルスの作品として続いた。66年「国際アンデルセン賞」受賞。(㊦に続く)

(㊤からの続き)童話の主な登場人物は、主人公のムーミントロールとその両親のムーミンパパ、ムーミンママ、ガールフレンドのフローレン、玉ねぎのような髪型と毒舌が特徴のリトルミイ、旅人のスナフキンなど。舞台となるムーミン谷に住む彼らの日常と冒険が物語となっている。69年、ムーミンは日本で初めてアニメ化され、65話がテレビ放映される。72年には52話、90年から92年にかけては104話が、日本で改めてアニメ化され放送された。90年からの最新のリメイク版では、トーベとラルスの監修によりオリジナルストーリーも多く作られ、フィンランドを始め約100カ国で放映されて、ムーミンブームを再燃させた。またポーランドでは、78年から82年にかけて全78話のパペット版アニメーションが制作され、日本語吹き替え版もDVDとBSテレビ放送で親しまれている。70年、ムーミン童話の最終巻、第9作『ムーミン谷の11月』出版。2001年6月27日、トーベ死去。享年86。14年はトーベの生誕100周年に当たり、日本国内でも多くの記念行事が行われる。(知恵蔵)

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 ムーミン谷に住んでいる「ひとびと」は人間ではないということ、それではどんな動物かと聞かれても、トーベさんは明確には答えなかったそうです。「人間ではない存在」とだけ言っていた。どういうことでしょうか。これもいろいろな解答や解釈があり、それぞれのとらえ方でいいのだと、ぼくは言っておきます。身の毛もよだつというか、これが人間の仕業かという事態が白日の下に曝されている「ウクライナの地獄」を見てしまうと、「ムーミン谷」には人間だけは住まわせたくなかったのだという、そんな作者の現実にある「狂気の世界」の、その「先の世界」(つまりは、人類滅亡後の世界)を生みだしたかったという動機が、そろそろ分かる時が来ているのでしょうか。同じような事情をぼくは「ゲド戦記」に認めようとするのです。(それについては、別の機会に)

 「スナフキンのおことば」(:https://www.youtube.com/watch?v=lT8YATFfEi8) 相当に古いもので、いかにも時代の後進性を知らされる画像(解像度)ですが、ここで語られるスナフキンの「箴言」は、いささか説教調のところがないわけでもありませんが、なんとも世上に齷齪している衆生にとっては「的を射た」(「正鵠を射た」)言辞だと、恐らく三十歳前の、若いぼくは感心して見ていたのでした。この時期に重なっていたか、テレビドラマで「木枯し紋次郎」という時代劇がありました。原作は笹沢左保さん、主演は中村敦夫さんだったと記憶しています。「あっしには、かかわりのねえことでござんす」といいおいて次の旅に出る、まるでスナフキンの日本版のようでした。スナちゃんは「渡り鳥」であり、寒い冬だけを温かいところで過ごすために、ムーミン谷を出ますが、春にはきっと戻ってくる。

 木枯らしの吹くころにやってきて、また風と共に去ってゆくのが紋ちゃんでした。彼は「風来坊」だったのです。風のまにまにというのは「風狂」であり、これは、ぼくの最も願い続けて久しい「歩き方」でしたから、スナフキンや紋次郎に焦がれたのでしょう。「こころざしをはたして いつのひにかかえらん」という「気概」も「主義」もぼくにはなかった。何とかして、誰かのお荷物にならないように(自分の足で歩いて)、可能であれば、少しばかりでも「人の役に立ちたい」そんな、ささやかな姿勢をよろよろしながら身にまとって生きていたいというのが、せいぜいの「身過ぎ世過ぎ」の寄る辺でもあったのです。今もそのささやかな歩き方は、少し速度が落ちましたけれど、まず変化はないと、自分では思っている。

 当てもない旅の途次、ふと前方を見ると、これもまた「風来坊」「フーテン」が、後先ないような(目的のない)歩行でこちらに向かってくる。すれ違いざまに、ちらっと顔を見ようとして、それが、あの人だと分かった、「種ちゃん」だった。この御仁もまた、人に語れない「つらさ」を抱きつつ、人の世の情愛(切り捨てられない「絆」)に救われていたのだと、ぼくは、ある時期を境に、感じていました。

 うしろすがたのしぐれてゆくか

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 (お断り どうしても「フィンランディア」について触れたかったので、話が雑多になりました。「ムーミン」については、さらに別稿で扱ってみます。「ムーミン」は簡単な童話(漫画)などではないことはわかりますが、その思想はとなると、なかなか把握するのが困難であるかもしれません。それに少しでも挑戦してみたいという気がしています。昨日来の「ウクライナの地獄図」の映像に魘(うな)されています。ムーミンたちが「人間」でないことの意味をぼくは、改めて教えられている。脈絡のない「雑文の建付け」を許してください)

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戦争に勝ち負けはない。あるのは滅びだけ

【水や空】被爆医師・永井隆博士が私財を投じて植えた「永井千本桜」を見に長崎市の浦上天主堂を訪ねた▲博士は原爆で原子野と化した浦上地区を再び花咲く丘にしようと、1948年にソメイヨシノの苗木1200本を教会や学校などに贈った。今では残りわずかで、枝から育てた「2世」が広がっている▲天主堂に残る老木は力を振り絞り懸命に花を咲かせているように見えた。見詰めていると「(永久平和が)原子荒野から叫ばれる時、それはことに強く人々の胸を打つのではあるまいか?」という博士の言葉が胸をよぎった▲ロシアが核兵器使用をちらつかせて欧米を脅し、ウクライナに侵攻して命を踏みにじる。日本でも「核兵器を持たないと国を守れない」という声が上がる。そんな考えは世界中に核を広げ、破滅を呼び寄せるというのに。気が沈む春だ▲それでも-。英国の歴史家E・H・カーは、歴史の歩みは決して一直線ではなく、進歩もあれば退歩もある、とした。平和と核廃絶への道もそうだろう。人類は行きつ戻りつ、あるべき方向に進んでいると信じたい▲「戦争に勝ちも負けもない。あるのは滅びだけである!」(永井博士)。あの原子雲の下で身をもって知ったことを伝えるために、被爆地は声を上げ続けなければ。今も、そして、これからも。(潤)(長崎新聞・2022/04/03)

◉ 永井隆( ながいたかし)=1908-1951 昭和時代の医学者。明治41年2月3日生まれ。母校長崎医大の物療科部長のとき放射線障害をおう。さらに昭和20年8月9日の原爆で被爆するが,負傷者を救護。21年教授。カトリック教徒として原爆廃止をいのり,病床で「長崎の鐘」「この子を残して」などを口述した。昭和26年5月1日死去。43歳。島根県出身。【格言など】白ばらの花より香り立つごとくこの身をはなれ昇りゆくらん(辞世)(デジタル版日本人名大辞典+PLUS)(ヘッダー写真は浦上天主堂:https://tanoshi-nagasaki.jp/urakami-cathedral-sakura)

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  いつものように、ある新聞のコラムに書かれていることを「呼び水」のようにして、あれこれの「よしなしごと」を書こうとしているのですが、本日は、普段のようにはいかなくなっています。「由無こと」ですから、なにか立派な理由や必要性があって書くのではなく、無駄話(ぼくの場合は雑談であり、駄文が相場です)、あるいは取りとめもないお喋りになる決まりです。それでさえも書くのがつらい気分に襲われているのです。

 兼好さんは「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」と書き出していますが、なかなかどうして、とりとめもないことがないわけでもありませんが、浮世の薄情さや世間で生きる悲しさ煩わしさを、それこそ彼流の迷いのない筆さばきで書いているのです。筆を持つ姿勢(覚悟)が「決まって」いるのです。はっきりと書く「志(こころざし)」が、その文中に見えています。当方の、掛け値なしの「心にうつりゆくよしなし事」とは訳もちがうし、当たり前ですが、文章の深さや鋭さが半端ではないのです。「とりとめもないこと」を書いていると、やがて「あやしうこそものぐるほしけれ」となるというのですから、内面のはげしさを鎮められない、そんな気風、いや狂風が感じられてきます。ぼくの駄文の無意味さを語るためにであれ、兼好さんを持ちだしてくるなどというのは、身の程知らずというべきでしょう。

 それくらいに本日は調子が狂っていることを自覚している(ならば、いつもは無自覚か、といわれそう。「はい、その通り」といっておきます)。早朝四時に起きました。猫が起こしに来たのですが、昨日は三時過ぎでしたから、なかなか睡眠がままならないのは、猫のせいだとはいえます。とにかく、数が多くいますから、全員が静かに寝るということがない。きっとおなかをすかのやら、外に出たがるのがいて、それぞれが、わが寝室の前でデモをしますから、否応なしに起床する。朝食をやり終えて、後片づけをして、まだ五時前。それからネットで何かと探ります。内外のニュースをひとあたり見た後で、ワンパターンになった各地各紙の「コラム漁り」です。その獲物が本日は「水や空」で、各地の新聞コラムのなかで、ぼくが最もよく目を通し感心させられる読み物です。優れた書き手がそろっているのが伺える。本日は「永井隆博士」にちなむ「永井千本桜」と浦上天主堂。ここまでくれば、ウクライナが出ないはずはないとみて、その通りに「核」を弄ぶ輩に筆が及び、カーの歴史哲学を紹介しています。まさしく、常に思いなしていることを見事に描いてくださると、ぼくはお礼を言いたくなるのです。(いつだったか「読み応えのある『コラム』を読むことが出来て感謝します」とお礼の電話を担当者にかけました。同じようなことは、他社に対しても一、二度あります)

 「戦争に勝ちも負けもない。あるのは滅びだけである!」という永井先生の言葉が胸に響きます。戦争の「勝ち負け」は、人間の野蛮さ・残虐性の加減や程度の争いではないですか。そして、先ほど見た外国報道に「胸をえぐられる」気がして、憤りと悔しさが消えないで困っているのです。キーフの一地区でたくさんの住民が殺害されていた。中には「後ろ手に縛られ」射殺されている遺体の映像も見た。数百人の「無辜の民」が殺されて、遺体は放置されている。その映像をいくつも見ていたのです。「それが戦争だ」、「戦争というものはそういうものだ」という人がいるでしょう。馬鹿も休み休みしていってくれ。これはウクライナの「自作自演」だと、ロシアの政府広報官は言うが、だれがそれを受け入れるのか。生き残った老人が、仲間が殺されて、深い悲しみに暮れていた。よしんば、「それが戦争」であって、だから市民を銃殺してもいいことにはならない。「南京大虐殺」を持ちだせば、何の証拠もなしに、それは「でっち上げだ」と劣島の政治家を含めた、誰彼が言う。見ていたのか、それをどうして知ったのか。あろうことか「アウシュビッツはなかった」という記事まで出たことがありました。その記事をBという出版社の雑誌が掲載したことさえもあった。なにをか、況や。

 一日でも、ではなく、一瞬でも早く、世界の知恵を集めて「プーチンの戦争」を止める、その算段を付ける必要があります。「戦争犯罪」を命令し、そのための権力を行使した「戦犯」として、とにかく身柄を拘束すべきです。これを書いている今の今、ぼくは心が折れているようです。爆撃によって壊された「住居」、その「瓦礫(がれき)」と同じように、破壊された人体の「瓦礫」というべきではないでしょう。その前に、なぜ無防備の市民を「射殺」しなければならなかったのか。「瓦礫といわないでくれ」、それは「私たちの歴史・生きた証だから」と、大災害に遭遇した人々が、交々に叫んでいたのを忘れません。住まいは「生活の拠点」であり、人間は「かけがえのない歴史そのもの」、それを消し潰すのですから、「歴史の冒涜」「人間性の抹殺」以外の、いかなるものでもないのです。

 平時であれば「殺人罪」が無条件に下されるのに、「人殺し」「略奪」など、あらゆる蛮行をしても、祖国に帰還すれば「英雄」となり「勲章」も授与されるというのが、戦争の示す、例えようのない退廃であり、堕落です。その人道に悖る「退廃」や「堕落」を唆(そそのか)して、なおかつ「大統領」でありつづける「殺人鬼」の支持率は九十%超という「出鱈目」「誤魔化し」「詐術」です。この「狂った茶番」をロシアの人間だけでなく、それ以外の国々の人間も、人間の名において、承認しないと態度を明らかにしなければならない。このあからさまな「人間の非人間化」「圧陸・虐殺」を目にして、人間であるとは何だろうか。「人間であることを恥じる」のではなく、「人間の名において」その恥辱を雪(すす)がなければならない、それはどなたにも迫られているんでしょうよ。

 いかに駄文とはいえ、これ以上書くのがつらくなりました。後は、終日、何時も愛聴している作曲家兼演奏家の音楽を聴くことにします。朝も暗いうちから雨が降っています。予報では翌朝まで止むことがなさそうです。十時間持続する「音楽」を聴いています。(やがて三時間が経過します。現在時刻は午前十時過ぎです)(タイトル: Beautiful Day  コンポーザー: Peder B. Helland  インデックス: ★137  アルバム: Rainy Days)(https://www.youtube.com/watch?v=EbnH3VHzhu8

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うわべばかりと つい知らず …

「私たちの戦争ではない」、「世界に憎まれてしまう」 戦争に反対するロシア人の声

 ロシア軍が24日に隣国ウクライナを侵攻し、ウラジーミル・プーチン大統領はロシアを妨げようとする者には「直ちに」、「歴史上経験したことのないような結果」をもたらすと警告した。国営メディアはこぞって、侵攻を支持した。/ 一方で、同日夜にはモスクワなど国内各地で反戦デモが相次いだ。今や数少ない独立系新聞の編集長でノーベル平和賞を受賞したドミートリ・ムラトフ氏は、「ロシアが第三次世界大戦を始めたと、ロシア人は世界から憎まれてしまう」と嘆いた。/「自分たちの戦争ではない」と言うロシアの人たちに、BBCのモスクワ特派員、スティーヴ・ローゼンバーグ記者が話を聞いた。(BBC・2022年2月25日)(https://www.bbc.com/japanese/video-60520150

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 ウクライナとの「戦争」と言わないロシア国営メディア 信じる国民と信じない国民

 ウクライナでの戦争についてロシアの国営メディアは、「戦争」や「侵攻」「侵略」という言葉を使わず、平和実現のための武力行使、「特別軍事作戦」だという、政府の公式見解を繰り返している。/ これを信じ、たとえ外国メディアでロシアがウクライナの都市を砲撃したと読んでも、「政府はそんなことはしないと約束したから、絶対にそんなことはしない」と言い切る人がいる。/ 一方で、国営テレビ以外の手段で情報を得て、ロシアの未来に絶望し、国を出ることにした人もいる。/ BBCモスクワ特派員のスティーヴ・ローゼンバーグ記者が取材した。(BBC・2022年3月3日)(https://www.bbc.com/japanese/video-60587579

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 外国報道機関(新聞・テレビ等)の報道を見る機会が多くなりました。現実に生じていることのすべてが、そこに「活写」されているというつもりはありません。しかし、「戦場」に入っての報道が相当にあるのは事実です。そのような、いくつもの「報道」を通して、最後には自らの判断というか、自らの見方を少しずつ確かめていくように、ぼくは努めて(ちょっと大袈裟ですが)きました。今次の「プーチンの戦争」勃発時、いったいロシア国民はどんな反応をを示したのか。上には、二つばかりBBCニュースを「日本版」から引用してみました。もっとも最初期(「侵略」の翌日の報道)のものと、それから十日ほどたったとき(三月三日)の、BBCの同じ記者のインタビューなどを含めた映像が記録されています。報道規制がされているとか、国営放送しか見ない人が圧倒的だという「報道」もまた、いろいろな思惑が込められて知らされてきました。この時代、政府広報、国営放送しか見ないで、それを無条件に信じる人ばかりがロシア社会を作っているのだというのは、まるで「お伽の国の物語」で、断じてありえないことです。

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 当たり前に「戦争はよくない」「人を殺すことは、どんな理由があっても認められない」(といえば、「死刑」制度はどうなるんですか。私人の「殺人は許されない」のに、国家が「合法的殺人」を堂々と実行しているという「矛盾」には目をつむるのですね)ぼくはロシアの人であれ、ウクライナの人であれ、「戦争」は認めるから、「殺人」も認める(「戦争は、つまるところ、人殺しなんだ」)という人はそんなにいるものではないと、確信しています。「戦争反対」を訴える国民が多く生まれているからこそ、国家権力はさまざまな手段を用いて「暴力行使」をしてでも反対の声や動きを封じようとしているのです。逮捕監禁されると、その人は社会における発言を封じられます。「アムネストス」というのはギリシア語のようですが、「口を封じられた人」という意味で、その人々の「語る権利」を回復するために組織されたのが「アムネスティ」です。(このことには、どこかで触れています)

 報道統制が敷かれているから、これが解放されれば目を覚ます民衆もいる、そんな寝言を言う人もいるでしょうが、それは、どこまでいっても寝言。視覚や聴覚を働かせ、五感を動かしている人なら、プーチンが勝手なふるまいでおのれの欲望を、国家の目的にすり替えていると見抜きます。きっと、猫だって、犬だって気が付きますよ、プーチンがどんな「悪」であるか。よしんば、国家機関が垂れ流している情報を模範国民として受け入れているとしても、やがて「戦死した兵士」が帰還したらどうなりますか。「戦争」ではなく「侵略」でもなく、「祖国の防衛」「ロシア住民の危難を救うため」といって出かけた兵士が「棺(ひつぎ)」に収められて帰ってきます。それでも政府は五万と嘘を並べるでしょう。それを「脳みそ」のないロボットのように「唯々諾々」として、「英雄」「英霊」として、民衆は弔うことが出来るのでしょうか。現状が隠されているのではなく、「見えなかったことにしている」、それがロシアの実際の状況だと言えます。テレビの生番組で、「戦争反対」「デマを信じないで」と、国営テレビ局員の女性職員が身を賭して訴えた、それが本人もびっくりするほどに「成功」したのは、彼女の行動を阻止する人がいなかったからです。テレビ局員の多くも「(消極的な)プーチン反対」であると、(画面を見た瞬間に)ぼくは受け止めた。

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 ぼくが大学生になったころに、劣島に流行った「歌謡曲」がたくさんありました。そのなかでも今回の「プーチンの戦争」と、それを真に受ける「純粋な、愛国的市民」との関係に近づけて思い返してみると、バーブ佐竹という歌手が歌った「女心の歌」が符合する、いや附合しすぎますね。「戦争」で多くの人が亡くなり、住居を追われ、家族が離反せざるを得なくなっている、国を奪われて、身寄りも頼りもなく、異国に「避難」しなければならない、それを知っていながら、なんとも悪ふざけが過ぎいると非難されるかもしれない。許されない「いのちの冒涜」であるという方がいるでしょう。その通りと、ぼくは認めたうえで、「過ぎたる悪ふざけ」以上の非道を行っているのは「P」の方です。それもいくらかの「三分の理」があるならともかく、一ミリの「正当性」もない「殺戮」そのものを強行しているのです、と反撃したくなります。ぼくは漱石風「無鉄砲」で、加えて、塚原卜伝仕込みの「無手勝流」です。「P」一派をこきおろしたいのは山々ですが、如何せん、敵は遠方にあり、です。だから、この程度の「ふざけ」でも舞ってみようとしているのです。(下の写真はBBCニュースから・2022/04/02:完膚なきまでの破壊、それをなさしめるのはいかなる「怨念」「憎しみ」なんでしょうか)

 諧謔なのか、駄洒落なのか、言い訳も弁解も解説も解釈もしません。「女心の歌」は洋の東西に腐るほどあります。ヴェルディのオペラ(リゴレット)にも有名なのがありますが、ここは、ネオン街の「男と女」、あるいは「狐と狸」です。「男心に騙されて」と、恨みもつらみも言いつのりたいのが、身の愚かさを棚に上げて、騙した相手を呪う、それが「捨てられた側」の身の定めであり、身の破滅でもある、いかにも「ありそうな」「なさそうな」「女心」です。「戦争は悪そのもの」、それを仕掛ける方も支持する方も、取り返しのつかない非道徳、不義を働くことになるのを学んでこなかったのですね。これまでの「人間の歴史」でどれだけの「悪逆」「非道」が繰り返されて来たか。真面目に学ぼうとしてもいいではないか。「女心の歌」では、誰と誰が「あなたと私」なのでしょうか。まさか、取り違えはしないでしょうが。「唯一の被爆国」「ホロコーストの呪縛」といいながら、またもや「同じこと」を繰り返そうとしているのかもしれない。ヘッダーの写真のM.T.は言っている、「歴史は繰り返さないが、多くの韻は踏んでいる」と。

 「P」も初心はあったのでしょうか。あるいは、はなから「権力におぼれてしまったの」か。「男心の裏表」といっていますが、実は「裏」ばかりであることを、学校は教えてくれないんですね。逆に「表」しか見ないように、そんな偽教育が、人を見抜く「眼力」というか、直観力を養わないどころか、それを失わせてきたのではないですか。「男はみんな狼だ」という歌も巷(ちまた)に流れていました。その通りです。「男は狼」でありますが、狼には「やさしい」のと「やさしくない」のがいるというのは、嘘です。「狼は狼だ」と、迷わないで見抜くべきなんでしょうね。「赤頭巾ちゃん、気をつけて」です。じゃあ、「あなた」はどうなんですかといわれますか。「女心」で謳われているのは「観念」に過ぎないともいえそうです。騙される女もいれば、騙す女もいます。騙す男に騙される男、それが世のならいです。だから、ぼくは「世間」「社会」は大嫌いでしたね。騙すふりに騙された振り。振りでもなんでも「人を殺すのは許せない」のだ。

 「散って砕けた 夢の数 つなぎあわせて 生きてゆく いつか来る春 幸せを のぞみ捨てずに ひとり待つ」と謳う。実を言えば、これは「女心の歌」になぞらえているのであって、真実は「民主主義の歌」だったんだ。「のぞみ捨てずにひとり待つ」のはぼくであり、あなたです。改めて、「民主主義」への道は、はてしがないことを実感している。それでも「リレー」をしていくほかありません。バトンを前から受けて、後ろに渡す、「それもまた人生」と、川の流れのようにも見えてきます。とにかく「戦争犯罪」を即刻止めなければ、それをひたすら祈る卯月三日です。

 「女心の歌」は、はるかロシアの孤独な権力者に向けられている呪詛であり、騙し、虚偽、利権漁り等々の、数知れない「売国行為」に目覚めた、目覚めようとしている人民の「暴発」「反乱」を予兆させる、時限爆弾であり、まさに「一触爆裂」間違いない、その瀬戸際で謳われている(とぼくには思われる)歌でもあるのです。数日前の報道で、P大統領の「支持率は93%」とありました。国民の信頼が厚い大統領ですね、といいたいけれど、実際に「調査」をしたのかしら。あるいは、「ウクライナ侵攻」は、自国民の救済のためだという大統領の許言を露疑わない、そんな国民感情だから、この数字は当然だというのですかな。あれもこれも、「詐術」であり「でっち上げ」だと言っているのは、「よそ者なのだ」とでもいうのでしょう。極東に存在している「核を持った小国」からロシアは学んだのだと、ぼくは考えています。人民がどれほど飢えて死のうが、知ったことかというのが「権力者」だとするなら、そこに生まれ合わせたのが不幸だというほかありません。(このような「ならず者国家」の存在を許している限り、超大国(A国)は、これまでの世界における「指定席」を独占できるという、深慮や遠謀が働いているのでしょう。というのが実情のようでありそうな雰囲気になっていませんか。いずれも「ならず者」である限りにおいては、どっちもどっち、五十歩百歩でしょ、その五十歩だか百歩の「下駄の雪」状態を永遠に続けていく気になっているのが、「わが祖国」です。

 「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」とうそぶいた寺山さん、ぼくはその「姿勢」を自らのものにしてきたような気がします。

 「どうせ私を だますなら だまし続けて 欲しかった」というのが本音の人民がいるのも確からしい気がしてきました。やりきれないから「女心の歌」なんですね。(「世界中が、本日はまだ、「四月一日」なのかしら)

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バーブ佐竹「女心の歌」https://www.youtube.com/watch?v=Rf0gLNV1tCQ

 「女心の歌」:バーブ佐竹(作詞:山北 由希夫 作曲:吉田矢 健治)

あなただけはと 信じつつ  恋におぼれて しまったの  こころ変りが せつなくて  つのる想いの しのび泣き

どうせ私を だますなら  だまし続けて 欲しかった  酔っている夜は 痛まぬが  さめてなおます 胸の傷

うわべばかりと つい知らず  惚れてすがった 薄情(うすなさ)け  酒が言わせた 言葉だと  なんでいまさら 逃げるのよ

女ですもの 人並みに  夢をみたのが なぜ悪い  今夜しみじみ 知らされた  男心の 裏表

逃げた人なぞ 追うものか  追えばなおさら 辛くなる  遠いあの夜の 想い出を  そっと抱くたび ついほろり

散って砕けた 夢の数  つなぎあわせて 生きてゆく  いつか来る春 幸せを  のぞみ捨てずに ひとり待つ

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ささやかな言葉の、ささやかさの意味

 【水や空】桜色の花 新聞を春の色で染めようと、きょうの紙面は「さくら版」。満開を迎えたあちこちの名所をカメラマンが訪ね歩いた。すでに桜を見に出掛けた人も、今年も自粛という人も、どうぞ紙上でお花見を▲桜の淡いピンクは季節をほの温かく彩っている。心安らぐその桜色について、詩人の大岡信(まこと)さんはこう書き残した。〈私のような素人は、桜が満開の時、その咲いている花から色をとれば簡単に桜色がとれると考えてしまうのですが〉…。染織家に話を聞くと、まるで違ったらしい▲花びらをグツグツ煮ても、薄い灰色にしかならない。〈桜の色は桜の木の真っ黒なごつごつした皮からとる〉ことを知って驚いた、と著書「名句 歌ごよみ〔恋〕」(角川文庫)にある▲しかも煮出すのは、つぼみを付ける頃の木の樹皮に限られるという。色素が枝の先にまで達する時節に皮を煮ると、淡い桜色が染み出してくる▲目に見えないが、桜の季節には木の幹にも樹皮にも、色が満ちている。〈ものごとには幹があって根っ子があって…最後に花が咲くというのが、全てのものの真実です〉と大岡さんはつづっている▲きょうが社会人としての、あるいは新天地での第一歩という人も多い。一日一日、私という樹木の幹を、樹皮を、枝を育てた先に、桜色の花の咲く日がきっと待つ。(徹)(長崎新聞・2022\04/01)

 ある言葉、あるいは文章というものにも、草花や樹木などと同じように、それが萌え出し、開花・結実し、もっとも輝く時季、そんな時候があるのではないでしょうか。何時だって、一語たりとも変わらない、一つの文章であっても、一年の中で、その時期に、きっとその文章を読んでみたくなる、今が読みごろと感じるような、そんな文章があるのかもしれません。繰り返し読むたびに、ある種の発見、見直しなどが起ってくる、それは同じ桜の木を見るたびに、自分の中に生まれてくる一つの感動というものに似ていると、ぼくは経験してきた。他の人は知りませんが、ぼくには、毎年、ある時期になると読みたくなる文章がいくつかあります(それは音楽についても言える。決まってその季節に聞きたくなる音楽がいくつも、ぼくにはある。あまりにも俗に塗(まみ)れてしまったような「第九」(ベートーベン)、「四季」(ビバルディ)などは、それほど好みませんが、季節の音楽という意味では、その典型です。それがいけないというのでは、毛頭ありません。季節の訪れに合わせるように、ぼくたちの感覚がある種の「芸術作品」(文章や音楽などを含む)に疼(うず)くのだと思います)。大岡信さんが書かれた文章「ことばの力」は、ぼくにとっては、その代表的な文章となっています。(この「教材」については、昨年三月二十七日のブログでも触れています)

 これまでにどれくらい、この「ことばの力」を読んだことか。一回読んだから、それで終わりということがなかった。それは小さいときに「満開の桜」を堪能したから、もうこれ以上は見なくてもいいのだ、そんな人がいるのかどうかしりませんが、そんなことはなくて、ぼくにはいつでも機会があれば見たくなるのです。年々歳々、桜に対する感じ方・接し方が微妙に変わってきたのが自分でもわかるし、恐らく、もうこれでいいのだということはないのでしょう。「ことばの力」は、ぼくにとって、年々歳々、その深みや彩(いろどり)が変化して止まない、そんな文章になっているのです。これで分かったというのではなく年齢を重ねるとともに、ことばに対する感受性は深まったり、鈍感になったりするのに応じて、この文章もまた、まるで読み手の力量・程度に歩調を合わせるように、ゆっくりとついてきてくれる、そんな感覚をいつでも持つことができます。初出はいつだったか、雑誌「世界」という地味な場所に出ていたと記憶します。単行本化されたのは、一九七八年、花神社からでした。(ある時期からは、中学校「国語」教科書教材として採用されてきました)

 この文章(エッセイ)を書くきっかけになった折については文中に記されています。その志村ふくみさんに「一色一生」という著書があります。これを大岡さんの「ことばの力」と合わせて読むと、文章というものが人生にとってどんな力やはたらきを持っているかが実感されるような気がしてきます。手軽に「言葉は道具」といってしまうのも、確かに頷(うなず)けるところはありますが、その「道具」によって、人は(ぼくは)力をもらったり、力を奪われたりするのです。ことばに、必要以上に何ものかを加えるべきではないのは、その通りですが、逆に、必要以下に貶めることも避けたいのです。志村さん(の本)についても触れたい、でも、ここでは止めておきます。大岡さんの「ことばの力」は、志村さんの仕事や人生に「呼応・感応」することから生まれたことを知るだけでも、このエッセイ、「ことばの力」の含んでいることばの力に、ぼくは心を動かされ、そのたびに、人間が発する「ことば」のはたらき(の優れている部分)を忘れたくないと肝に銘じてきたのでした。

 奇妙な言い方をしますが、どんな人が口にして(発して)も「洗濯機は洗濯機」です。使う人によって、その機能・役割を変えたり止めてしまうことはありません。それと同じことが、それぞれの「ことば」にもいえるでしょうか。「ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものだはなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである」と大岡さんは言う。ぼくは、しばしば「いうこととすること(言動)(知行)(知徳)」が同じでない人間は安心できないということを語ったり書いたりしてきました。もっというなら、「口ではなんとでもいうことができる」ということです。もちろん、この(安心できない人の)中に自分が含まれていることを否定できません。正直を装うのもことばです。誠実であるということを、ことばを尽くして他者に説明することはできます。しかし、実際に、その人がどんな行動をしているかを見れば、その人の口から出てきた「ことば」は偽りであったということが判明する。(「雄弁な政治家(口八丁・手八丁)」などの瀰漫や「振り込め詐欺」の横行は、「ことばの力」の、皮肉なことに、その反証でもあります)

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◉ 大岡信【おおおかまこと】=詩人,評論家。静岡県三島生れ。東大国文科卒。読売新聞記者,明治大学教授,東京芸術大学教授を務める。東大卒業後,谷川俊太郎らの《櫂(かい)》に加わり,1959年,吉岡実,清岡卓行らと《鰐》を結成。詩と批評を発表した。1956年の処女詩集《記憶と現在》以降,詩集には《春 少女に》(1978年。無限賞),《水府》《地上楽園の午後》などがある。評論活動も多彩で,《蕩児の家系》(1969年。歴程賞),《紀貫之》(1971年。読売文学賞),《詩人・菅原道真――うつしの美学》(1989年。芸術選奨文部大臣賞)など。また《朝日新聞》連載(1979年―2007年)の《折々のうた》は広く読者の関心を得た。1994年度の恩賜賞・日本芸術院賞を受賞。《大岡信著作集》全15巻。大岡玲は長男。(マイペディア)

◉ 志村ふくみ =1924- 昭和後期-平成時代の染織家。大正13年9月30日生まれ。母の小野豊に基礎をまなび,黒田辰秋,富本憲吉,稲垣念次郎(としじろう)らにも師事した。植物染料による紬織(つむぎおり)をつくり,日本伝統工芸展などで活躍。平成2年紬織で人間国宝。5年文化功労者。19年井上靖文化賞。滋賀県出身。文化学院卒。随筆集に「一色(いっしき)一生」(昭和58年大仏(おさらぎ)次郎賞),「語りかける花」(平成5年日本エッセイスト・クラブ賞),「白夜に紡ぐ」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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 「言行不一致」を咎められた経験がまったくない人間はいないでしょう。それほどに、自らの深みから発する言語というものは稀であるということですし、思わず「心にもないこと」を言ってしまうことが避けらないことを言い当てているでしょう。誰が使っても(口にしても)「正しいことば」「美しいことば」というものはないと、大岡さんは言われます。口から出てきたことばは「正しい」「美しい」と思われそうに聞こえるかもしれませんが、その「正しさ」や「美しさ」は、それを口にした人の誠実さや繊細さが伴わなければ、いかにも「軽薄」かつ「白々しい」響きしか持たない。よく「心に響かないことば」「他者に届かない話」というようなことが指摘されるのも、これを指して言うのです。

 「美しい桜色に染まった糸で織った着物」を見せてもらって、大岡さんはこの桜色は、てっきり「桜の花びら」から煮詰めて得られたと考えた。その淡いピンクはいかにも花びらのものだと早合点したのでした。ところが、「実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという」、さらに「この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるの」とも志村さんは続けられたという。

 一人の人間を、一本の桜(でなくても構わないでしょう)と見立てる。そこからどんなことが言えるのか。ぼくは、この「ことばの力」を教材にした授業に何度も参加したことがあります。それぞれが工夫・苦心して、教師たちは、この教材に取り掛かり、子どもたちと格闘していたのを、今でもはっきりと記憶しています。そして、その授業の後でいつも、この「教材」は中学生にはむずかしすぎると感じたものでした。文章が難解だというのは、それが表現しようとしている内容が容易には理解できないものだったからで、それは高校生でも大学生でも、あるいは大人であっても受け止めるのは困難ではないでしょうか。それだけ、「ことば」や「ことばの力」というものを、ぼくたちは「1+1=2」というように、なんとも安易に解している証拠でしょう。そして、ことばに逆襲もされるのです。

 同じ「言葉」でも、使う人によって、それを受け取る側には異なった反応が生まれるでしょう。「つらいけれども立ち直ってね」といわれて、だれもがその気になるかどうか、その気になって実際に「立ち直る」ことができるかどうか。教師が頻繁に吐くことばに「よく考えなさい」「静かにしましょう」などがあります。これはことばですか、それとも「笛」「信号」のようなものですか。そして、いっかな「効き目がない」のは、どうしてでしょうか。こんなところにも、「ことばのちから」が問われています。暴力と同等・同質の「ことば」は、ことばではない。それはまったく反対の、暴力そのものです。「口より、手が早い」というのは、発するべき言葉がないということ、あるいは貧困であることを言うのです。

 しばしば「文は人なり」といわれてきましたが、さらに一歩進んで「ことばは人なり」といいたいですね。口から出るのは、「一枚の花弁(はなびら)」のような「ことば」です。その「ことば」が力を持つには、桜の「花弁(はなびら)」が背負っている木全体の「縮図」としての風合いであり色合いであるのと同じように、その人自身の「精神の縮図」にこもる「ちから」によるのでしょう。誰もが使う「ことば」にちからを与えるのは、そのことばを発する人自身の「姿勢(や態度)」そのものです。それを、ぼくは思想と言ってきました。ことばの力は「思想のちから」であり、その人の「生きている姿勢(態度)」が示す力であると、ぼくはこれまでの生活経験のうちに確信するようになってきたのです。

 人間という存在は「ことば」からできているのです。

 (参考)  言葉の力       大岡 信

 人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものだはなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。
 京都の嵯峨に住む染織家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかで、しかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。
「この色は何から取り出したんですか」
「桜からです」
と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという。志村さんは続いてこう教えてくれた。この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。
 私はその話を聞いて、体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。春先、間もなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである。花びらのピンクは幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった。
 考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の一刻も休むことのない活動の精髄が、春という時節に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。しかしわれわれの限られた視野の中では、桜の花びらに現れ出たピンクしか見えない。たまたま志村さんのような人がそれを樹木全身の色として見せてくれると、はっと驚く。
 このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だといっていい。一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかし、本当は全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。そういうことを念頭におきながら、言葉というものを考える必要があるのではなかろうか。そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。美しい言葉、正しい言葉というものも、そのときはじめて私たちの身近なものになるだろう。(中学校『国語2』、光村図書出版)                                  

 (志村さんの言われた「桜の木」はどんな種類のものだったか、ずっと疑問を持っています。世間に氾濫している、あの「種類」でないことは確かではないですか。あの木の皮から、産まれてくるなら、「桜の木」そのものの天稟なのかもわかりませんね)

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春を病み松の根つ子も見あきたり

 【滴一滴】春を待ち望む思いが伝わってきた。「お城山の桜はまだですかなあ」。かつて勤務した津山市ではそんなあいさつを耳にした。市民が親しみを込めて「お城山」と呼ぶのは、市中心部にある津山城跡の鶴山公園だ▼明治時代に天守閣などが撤去され、代わりに桜が植えられた。今年はもう開花し、きょうあたりが満開の見込みだそうだが、寒の戻りが予想される。城跡のそばに立つ津山文化センターには、こんな句碑もある。〈花冷えの城の石崖手で叩く〉▼作者は市出身で新興俳句をリードした西東三鬼。61歳で亡くなってからきょうで60年になる▼大胆、モダンな作で知られ「サンキュー」をもじって俳号にするユーモアもあった。古里を詠んだ句が晩年の句集に見える。〈父のごとき夏雲立てり津山なり〉。18歳で津山を離れたものの、慈しみ育ててくれたことへの感謝は消えなかったのだろう▼生家に近い津山市西寺町の成道寺にある句墓碑を先に訪ねた。代表句の一つである〈水枕がばりと寒い海がある〉が刻まれた碑はきれいに手入れされ、お彼岸らしくオレンジ色の菊が生けてあった▼入賞者が先月、発表された津山市などの俳句賞「第29回西東三鬼賞」には、3800句余りが寄せられた。お城山の桜と同様、時代を超えて親しまれることにも「サンキュー」と感謝しているだろう。(山陽新聞・2022年04月01日)

 岡山県はしばしば足を運んだところで、それもかなり気ままなぶらり旅が多かったようです。大した理由もなく、早くから「備前焼」が好きだったので、安いものばかりでしたが、たくさんの酒器を買い集めた時期もありましたし、花器も手元に置きたくなり、今でもそれを使って野花を活けたりしている。焼き物漁(あさ)りといった見物を兼ねた散歩が発端でした。俳句を作る能力は皆無でも(断るまでもなく、俳句に限りませんが)、下手の横好きで、駄句の小山ぐらいは残しています。このブログの駄文と同様に、とてもよそ様にみていただき、読んでいただくような代物ではありません。岡山に関わらせると、まず西東三鬼さん、彼にはかなり早くから親しんでいました。時に仰天するような破綻というか破調というか、そんな句のいくつかが新鮮であったし、また時には実に老成した俳人だなあと勘ぐったりしたこともしばしば。しかし考えてみれば、三鬼さんは六十二歳で亡くなっている。もと歯科医でしたが、なかなかの暴れ者という風貌を持ち、さらには、ある時期からは俳句にのめりこみ、俳壇の刷新というよりは、打破を目指していたこともありました。

 本日は四月一日、「西東忌」にあたっています。何をどう血迷ったのか、霊前に額ずいてみようという「仏ごころ」が生まれてきました。このところ、実に嫌な「侵略戦争」に打ちのめされているような状況で、この一か月余を過ごしてきたので、我が先輩の三鬼さんの「抵抗」と「反骨」の心意気に感じさせてもらおうとしたのかもしれません。また、ぼくは備前焼好きの岡山ひいきですが、それが津山となればまた別格の感情が湧いてきて、押しとどめることもできないのです。岡山は「黍団子」、だから「桃太郎」と連想が働きますが、それが津山となるとどうでしょう。山中の辺鄙で不便、この二つは同義ののようで、辺鄙にもかかわらず便利というところはまずないのが相場でした。けれども、津山は違っていました。その経緯を話すとなると、中世以来の備前・美作地方の歴史に触れなければなりませんが、本日は「日が悪い」ということで、パスしておきます。何時か触れたいですね。

 津山はいいところで、まるで自分の「ふるさと」のような言い方をしますが、実にのどかなところでした。久しく訪れていませんから、現状はわかりません。山は本当にいいですね。ここは劣島の「金庫」というか「鉄庫」でもあったのです。「もののけ姫」に出て来そうですね。津山には後輩が役場勤めをしており、この御仁を見るだけで「津山はいいぞ」といいたくなる。ぼくの知っているK君、風貌は牛の如く、体格は象の如く、性格は掴みどころのない「ウナギ」のような、それでいて、気は優しくて泣き虫のようでいて、…。こんな青年は、ぼくの知る限りでは、あまり出会わなかった。役所勤めの初期は「納税係」という、ぼくの天敵のような部署に配属され、その後も転々と役所内を回っているようですが、なんと彼は根っからの「撮り鉄」だったと思う。(もう一人、どうしようもないくらいに生来の「撮り鉄」の後輩がいました。彼の風貌もまた牛の如く、体格は象のごとく…、まるでK君じゃないかという、今では「鉄道記事(ばかりではありませんが)」をよく雑誌等に書いているジャーナリストになられています。この人も、イニシャルはK君です)

KKKKKKKKKK

◉ 西東三鬼(さいとうさんき)(1900―1962)=俳人。明治33年5月15日岡山津山市に生まれる。本名敬直。日本歯科医科専門学校卒業。東京共立病院歯科部長在職中、同人誌『走馬燈』を知り、日野草城欄に投句新興俳句運動の新鋭として台頭する。1935年(昭和10)1月『旗艦』に参加、この年同人誌『扉』に参画、『京大俳句』に加盟。「水枕(みずまくら)ガバリと寒い海がある」「算術の少年しのび泣けり夏」など独自の句境を切り開いた。40年新興俳句総合誌『天香』に加わり、俳句弾圧事件に連座、検挙される。第二次世界大戦後、47年(昭和22)現代俳句協会創立に参与。あわせて山口誓子(せいし)を擁し『天狼(てんろう)』発刊(1948)、編集長となる。同時期に別途、『雷光』『激浪』を主宰。52年『断崖(だんがい)』を創刊主宰。57年総合誌『俳句』編集長。61年俳人協会の設立に参加。昭和37年4月1日、癌(がん)によりす。句集に『』(1940)、『夜の桃』(1948)、『今日』(1951)、『変身』(1962。没後、第2回俳人協会賞受賞)がある。戦後の句「中年や遠くみのれる夜の」「赤き火の哄笑(こうしょう)せしが今日黒し」など。(ニッポニカ)

◉津山市=(略)中心の津山は1603年(慶長8)森氏が入封して鶴山に築城して津山藩の城下町となり、やがて松平氏にかわり、明治まで続いた。津山県、北条県を経て岡山県に編入。現在は岡山県美作(みまさか)県民局の所在地。古くから出雲(いずも)往来の中継点でもあり、津山往来、片上往来、倉敷往来、倉吉(くらよし)往来、因幡(いなば)往来があり、吉井川水運も発達していた。美作地方の商業中心地であるとともに軽工業が発達し、木材、木製品、和紙、製糸、雑貨品などの生産があったが、1974年(昭和49)の中国自動車道の開通を契機に内陸工業地域として草加部(くさかべ)、綾部(あやべ)、院庄の3工業団地などに弱電、機械などの工場が立地している。1998年には津山総合流通センターが完成した。市の北部では稲作や果樹栽培、酪農が行われている。(ニッポニカ)

 西東三鬼について
 新興俳句の旗手、鬼才と呼ばれた西東三鬼(本名=斉藤敬直)は市内南新座の生まれ。津山中学に学び、両親を失った18歳で東京の長兄に引き取られ、歯科医になりました。患者に誘われて俳句を始めました。俳号、三鬼はサンキューをもじっているようです。/ 33歳で俳句入門して、3年後の昭和11年、「水枕ガバリと寒い海がある」を発表。その鋭い感覚が俳壇を騒然とさせました。「十七文字の魔術師」の誕生であり、「ホトトギス」的伝統俳句から離れた新興俳句運動の記念碑でもありました。/ 戦時色が濃くなってきた時代に、三鬼の「昇降機しづかに雷の夜を昇る」が世情不安をあおるとして弾圧を受け、無季を容認した新興俳句は三鬼が幕を引く結果になりました。/ 三鬼は、弾圧のショックを胸に東京の妻子を捨てて神戸に移住しました。

  露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

 三鬼は、特高警察の刑事につけ狙われながら雌伏していました。NHKテレビドラマ「冬の桃」は、その時代の三鬼の随筆をドラマ化したもので、小林桂樹が三鬼に扮して好演、再放送されるほど好評でした。/ 俳句がすべてだった三鬼は、昭和17年、転居した神戸市内の西洋館(「三鬼館」と呼ばれる)の和室の畳まで売り払い、「天狼」創刊運動費にあてるほど、徹底していました。/ 終戦後、三鬼は俳句活動を開始、同志と現代俳句協会を創設、昭和23年、山口誓子を擁して俳誌「天狼」創刊の中心になりました。編集長になり、自分も「激浪」を主宰し、28年ぶりに帰郷しました。そして昭和37年、惜しまれつつ永眠しました。4月1日は西東忌、三鬼忌として歳時記に不滅のものとなっています。/ 平成4年4月5日、 三鬼句碑が生誕の地、津山市南新座に建てられました。三鬼の生家は平成2年に老朽化により取り壊されたので、同じ町内に句碑を建てることになったものです。刻まれた句は、

  枯蓮のうごく時来てみなうごく

 昭和21年、奈良・薬師寺で詠んだ作品で、代表作の一つです。(津山市公式サイト:https://www.city.tsuyama.lg.jp/life/index2.php?id=59)

 駄文を連ねるのも気が引けますし(断ることもなく、いつでも、とても「気が引けている」のです)、三鬼さんの俳句について御託を並べるのも「身の程知らず」であることを、だれよりもわかっているので、以下、順不同に、いくつかの三鬼作を掲げておくだけにします。

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頭悪き日やげんげ田に牛暴れ  ・野遊びの皆伏し彼等兵たりき  

・限りなく降る雪何をもたらすや  猫一族の音なき出入り黴の家  

・薔薇に付け還暦の鼻うごめかす  ・炎えている他人の心身夜の桜  

・老眼や埃のごとく桜ちる  ・亡者来よ桜の下の昼外燈

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 朝方、小雪が降っていました。寝起きのつれあいに「雪が降っているよ」と告げると、「うそっ」と返しがあった。今日は「四月一日」だ。昨夜に地震あり、朝方には降雪(というほどでもなかったが)。天災に人災、両者の混合災害と、ことごとくの襲来に見舞われた、新たな年度開きになりました。毎日が「四月一日」のような。虚実定かならぬ、日々の連鎖です。その「日常」に沈没し、あたら身を滅ぼさないように、アンダンテで、あるいは、レントのゆとりをもって、わが地歩を踏みたいですね。

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