時移り、人変わる。教師も人だ

 【ニュース その一】自殺の小6女児が遺書でいじめ訴え。滝川市教委が隠す 北海道滝川市内の小学校で昨年9月、教室で首をつって自殺した6年生の女児(当時12歳)が残した学校や友人あての遺書で「いじめ」を訴えていたにもかかわらず、市教委がいじめに関する記述を隠して発表していたことが30日、明らかになった。遺族が読売新聞に寄せた遺書では、女児は「いじめ」以外の動機には触れていなかった。市教委は、「言葉だけが一人歩きすることに慎重になった」と釈明しているが、専門家からは「事実を伏せたのはおかしい。責任逃れではないか」との声が上がっている。/ 女児は昨年9月9日の朝、教室で首をつっているのを登校してきた級友に発見された。当時は意識不明の状態だったが、今年1月6日に死亡した。/ 女児は、教室の教卓上に、学校や6年生、母親あてなど7通の遺書を残していた。一部の遺書の中身は昨年10月12日、同小の校長室で遺族が読み上げ、職員が内容をメモした。/ 安西輝恭・市教委長は同年11月22日、報道関係者に対し、「手紙の中には、友だちが少なかったこと、迷惑をかけてごめんなさいという趣旨のことが書かれていた」とだけ説明し、「自殺の原因に直接結びつくようなことは書かれていなかった」と言明していた。(ヘッダーは 下村観山「(重文) 弱法師」大正4年(1915):東京国立博物館蔵)                 

 ところが、遺族が本紙に提供した学校あての遺書には、「5年生になってから、『キモイ』と言われてとてもつらくなりました」「6年生になって私がチクリだったのか、差べつされるようになりました」などと書かれていた。また、6年生全般にあてた遺書でも、言葉のいじめを訴え「それはとても悲しくて、苦しくて、たえられませんでした。なので私は自殺を考えました」とあった。ほかの動機は一切書かれていない。/ 市教委は当時の発表について、「言葉を選んで話していたのは事実。(手紙の)具体的なことについては触れないと決めていた」と、内容を把握していながら発表しなかったことを認め、「(いじめを訴えていたという)言葉だけが先行することに慎重になった」と釈明している。

 市教委は、同級生から聞き取り調査を行うなどして、原因を探ったが、現在も「死の直接的な原因は特定できない」としている。/ しかし、自殺した女児の同級生たちは、遺族の聞き取りに、「仲間はずれにされていた」ことや「集団的な陰口」があったことなどを認めている。/ 女児の遺族は事実関係を調査した上で、女児が自殺を図って1年になる今年9月、本紙に遺書を託した。母親(37)は「学校や市教委の説明ではとても納得できない。なぜ娘が死ななければならなかったのか、教えてほしい」と訴えている。(日付?)

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 あまり楽しくない、いや、ごちらかといえば、相当に深刻な病理を伝えるニュースであると、ぼくには考えられるのです。いかにも、日常のありふれた「事件」や「事故」として、新聞は紹介していますが、知れば知るほど、根が深い、人間性を根底から疑わせる記事になっているのではないでしょうか。この記事を読むまでもなく、現実に、学校は「人権」というものに対する深刻な脅威になっているのではないか。ひとりの人間が深く学ぶという行為に対しても学校が最大の障害となっていることを実感しなかった方はおられないのではないか。どこにでも起こりうる「事件」を今さらにように出してみたのは、「いじめはよくない」ということを事あらためていうためではなく、学校にはいじめを起こす条件がそろっているから、それを改善せねば、などということを言いたいためでもありません。それは、ぼくが言うまでもないこと。「戦争は最大の罪だ」と、国連の代表が言いましたが、そういったから「戦争」がなくなるものでもない。誰が、何を言おうと、戦争を起こす奴は起こすのです。だから「戦争反対」を叫ぶのは無意味だともいうのではない。そういったからなくなるものでもないというところに、足場を据える必要があるのだと、ぼくは考えているのです。

 いったん事件が起こったら、原因(理由)を解明し、その責任をはっきりとさせるのは当然です。学校のいじめで、何時でも問題になるのは、「遺書」を残して亡くなったことが明らかになった段階で、学校や教育委員会が見せる姿勢には、基本的にいずこでも同じようなパターンがあるという点です。あるいは「事故・対応マニュアル」が一律に定められているのではないかとさえ思われます。

 「事件・事故発生」⇒「(関係者は)軽々な発言は禁止」⇒「原因はいじめらしい」⇒「個々の発言は控える」⇒「いじめだとは思われない」という、公式見解(「自殺の原因に直接結びつくようなことは書かれていなかった」)これで逃げ切れれば、ラッキーと考える関係者。⇒遺族らの追求に対して、「いじめがあったとは思われないと対応」⇒さらに追及され、いじめを渋々認めるふり(知らないふりを装う)。「(手紙の)具体的なことについては触れないと決めていた」)⇒「責任追及」から逃げ切れないと判断した際、「(いじめを訴えていたという)言葉だけが先行することに慎重になった」と極めて消極的に認めたように、そして幹部連中が「お騒がせした」と報道陣の前で「平身低頭(の演技)」で、事態を終わらせる。これが上首尾に運んだなら、その幹部連中は「評価」される。しかし、これは問題の始まりであって、ここから「教育の問題」として深く深く追及されるべき事柄だと、ぼくは言ってきた。

 十年一日、いや百年一日、組織の無責任体制は「歴史と伝統」を誇ってきたのです。学校のいじめ事件で、何らかの形で「責任をとって辞職」という関係者を、ぼくはこの何十年間、ただの一人も見ていません。見落としがあるかもしれないと断ったうえで、教育関係(だけではない)をめぐって、まず「責任とは無責任」のことであり、「人命を重視するとは、はなはだしい人命軽視と同義で使う方便である」とぼくは、疑っていない。(ここで書くべきではないのですが、勢い余って、書いてしまいます。以下、つまらぬことです)

 教師の真似事を始めた際、ちあきなおみさんじゃないけれど、「三つの(お願いならぬ)誓い」を自分に立てました。①授業はさぼらない・休まない、②試験(テスト)はしない、③宿題は出さない。この三つは、何とか「誓い」通りだったとは言えませんが、自分流に筋を通したようにも感じます。そのうえで、ぼくが担任をしたクラス(ゼミクラスなど)の学生が「法に触れる行為」をしたことが明らかになったら、その内容にもよりますが、ぼくは「辞職する」ことを決めていました。これはごく少数の人間(かみさんなど)にしか伝えていませんでしたが、これも、奇跡的に「辞職する羽目」にはならなかった。幸運だったかどうか。格好いい表現をすれば、何時だって教師の末端にいる人間でしたが、いったんことが明らかになったら、見苦しいこと、醜いふるまいはしないという「啖呵」を自分に切っていました。

 日ごろから「事件を起こすな」とか「世間に恥じるようなことはしないように」ということはまったく学生諸君には言わなかった、個々の学生の判断力が育ってくれるように、ぼく流の言い方をすれば「注意深い人間になろう(Pay Attention!)」と、個々人が自らに意識を向けてくれることを願っていたからです。「職を辞する」というのは、「責任を取ること」とは無関係ではないでしょうが、まず「責任」を明らかにすることとは別の問題です。ぼくが、このところ、もっともいけ好かないと思うのは、「責任」を取ると称して「俸給の何割カット」とか「減給何分の一を何か月」とかいう、あれです。「君たちは、はした金で地位を買っているのか」というばかりです。

OOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO

 二例目も、場所と人は異なりますが、似たような経過をたどっています。「歴史は繰り返さない」が、「人が繰り返す」といった政治(思想)家がいましたし、「歴史は二度と繰り返さないが、多くの『韻』を踏んでいる」といった作家がいました。そうかもしれませんね。「戦争」だってそうです、繰り返しではないんですが、「似たようなこと」「同じような殺戮」が繰り返し生じるのは、人間という「ホモ・サピエンス」といわれる「愚者」「邪鬼」がすることは、同じような内容や残虐さを持っているのです。人間の条件(Human Condition)が変わらないからですね。

 「いじめられて、もういきていけない」「いじめが原因です」「うざい奴等はとりつきます」と遺書にあっても、「いじめは把握していなかった。(自殺した日、男子生徒は)朝から目前に迫っていた中間テストに向けてプリント学習に励んでいた。給食も元気そうに食べていた」と担任は言う(言える・言わされる)のです。子どもを見ていないのか、見ていても、見ていないふりをしているのか。どちらにしても、失格ですな。教育長の談、「遺書にはっきり『いじめられた』と書かれている以上、いじめがあったと認識している。その前提で今後の調査を進めたい」と。こういう「鉄面皮」でなければ「✘✘長」にはならないんだ✘(句読点の代わりに、句✘点です)「自分の命は大事。他人の命には無関心」なんですかねえ。恐ろしいばかりの頽廃であり、堕落です。 

 「偉くなる」(ぼく流の言い方をすると、「人間の大事な要素をなくす」ということと同義)、それは、自分以外が「評価する」ことで、自己評価とは異なるのですが、たいていはそんなこと(自己評価)はまったく考慮の外、「評価されたい」、「褒められたい」という情けない一心が、きっと働いているのです。そのために、失ってはいけないものまで、平気で捨ててしまう(育てない)のでしょう。理不尽にも「子どもが命を落とす」「身をもって不正を訴える」ことに、当事者として、どんな琴線も振るえないとしたら、すでに終わっているし、終わった人間ばかりが幅を利かせているのが、世間だということになります。そんな世間から「褒められる」「認められる」なら、ぼくは生きていたくないね。

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 【ニュース その二】中2いじめ苦に自殺 教委も認識 「生きていけない」 福岡県筑前町の三輪中学校(合谷智校長、425人)の2年の男子生徒(13)が自宅の倉庫で首つり自殺をしていたことが13日、分かった。遺書とみられるメモ紙が計4通見つかり、「いじめられて、もういきていけない」と学校でのいじめを苦に自殺したことを示唆する記述があった。同町教委は「いじめがあった認識がある」として、男子生徒が自殺にいたった経緯を調査している。/ 同町教委などによると、11日午後8時すぎ、隣家に住む祖父(67)が自宅倉庫のかもいにビニールひもをかけて首をつっている学生服姿の男子生徒を発見。救急車で近くの病院に運ばれたが、死亡が確認された。死亡推定時刻は午後5時すぎとみられる。夕食に姿を見せなかったことから辺りを捜していた。

 残された遺書とみられるメモ紙には「いじめられて、もういきていけない」「いじめが原因です」「うざい奴等はとりつきます」などといじめを苦に自殺したことをうかがわせる記述があった。/ 同中は、男子生徒が自殺した翌12日朝に緊急の全校集会を開催。合谷校長が事実関係を説明した。その後、全校生徒にいじめの有無などを確認するアンケート用紙を配布し、同日中に回収。11日の放課後の直前に男子生徒を学校のトイレで取り囲んでいた同級生計7人から個別に事情を聴いたという。/ 学校側の聴取に対し担任の男性教諭(45)は「いじめは把握していなかった。(自殺した日、男子生徒は)朝から目前に迫っていた中間テストに向けてプリント学習に励んでいた。給食も元気そうに食べていた」と答えたという。/ 中原敏隆・筑前町教育長の話 男子生徒が自殺するまで学校内でいじめがあったことは把握していなかった。しかし、遺書にはっきり「いじめられた」と書かれている以上、いじめがあったと認識している。その前提で今後の調査を進めたい。(日付?)

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 三例目はいかがでしょう。「男尊女卑」の時代が遠ざかっていくということですか。あるいは、いよいよ「男女平等(ジェンダーフリーなんだか)」の社会が、ここから始まっているという印(兆候)でしょうか。「飲酒していたため怖くなって逃げた」というのは、男ばかりだと、ぼくは勘違いしていました。女性が「男と異なるのは、嘘をつかない、やったことは認める」という点にあるというのが、ぼくの考え(期待)でしたが、違いましたね。この「事故」で、ぼくが痛感したのは「性」で判断してはいけないという分かり切ったことでした。事故を起こした女性「大丈夫ですか」と訊くんですね、被害者「大丈夫なわけないでしょう」と反応しました。この「やり取り」はなかなかのもの。訊く方も訊く方ですが、応えた方は「正常」でしたね。どうでしょう。車で轢いて(撥ねて)おいて、「大丈夫」という人が「教師」であるという、このなんとも言えない「可笑しさ」「黒い冗談」じゃない、無神経さ。まるで「中川家」か「サンド」の漫才コンビの、「落ちない話」のような。

 不謹慎なことを言っていますが、こんな人間が「人を轢いたら逃げたりしないで、すぐに警察に届けよう」「轢かれた人のけがの具合を確かめ、かならず救急車を呼ぶのよ。いのちは地球よりも重いのですから(これは「人権教育」なのか)」と、子どもたちにきっと言っているはずです。これを「二枚舌」というのですか。あるいは「嘘も方便」といわれるのでしょうか。もし、この教師に「お兄ちゃん」がいなかったら、どうしていたんでしょうか。また身代わりにならなかったということでも「お兄ちゃん、偉い(はずもないけど)」この時代は、まだ携帯やスマホによる事案は「普及」しておりませんでしたろう。

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 【ニュース その三】女性中学教諭がひき逃げ 「飲酒」の発覚恐れ 岐阜県警大垣署は15日、乗用車で女性をはねて逃走したとして、業務上過失傷害と道交法違反(ひき逃げ)の疑いで、同県大垣市の市立中教諭小川ナナ容疑者(30)=岐阜市藪田=を逮捕した。/ 女性は軽傷で、小川容疑者は「飲酒していたため怖くなって逃げた」と供述しているという。/ 調べでは、小川容疑者は14日午前零時20分ごろ、大垣市の県道交差点で右折した際、自転車で横断歩道を渡っていた飲食店経営の女性(52)=同市=と接触事故を起こし、そのまま逃げた疑い。/ 女性は転倒し両手にかすり傷を負った。小川容疑者は「大丈夫ですか」などと声を掛けたが、女性から「大丈夫なわけないでしょう」と言われ、そのまま立ち去ったという。その後、いったん自宅に戻り、同日午後10時半ごろ(兄に連れられて)大垣署に自首した。(日付?)

HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

 先に、北の大地で「いじめ・自殺」が発覚したばかりなのに、こんどは南の福岡で起こりました。いじめ列島というにはあまりにも凄絶な事件ばかりで、気が萎えてしまいそうです。子どもが死ぬまで「いじめがあったことは把握していなかった」といい抜ける大人たち。「遺書」にはっきりと「いじめられた」と書かれているから「いじめがあったと認識している」というえげつない無責任精神。(偉くなる)というのは、人間であることを放棄することにつながるのかもしれません。(もちろん、そうでない人がほとんどであるのは当然というか、そうでなければ)「いじめによる自殺」と人は言いますが、実は、これは「学校集団による殺人(他殺)」ではないでしょうか。

 ぼくには悪い趣味がいくつもあります。そのうちの一つは、新聞記事を「切り抜いて」保存している・いたということ。膨大な量になります。今ではパソコンで、保存も楽になりましたが、この三つの「事件」や「事故」の発生時期は右のカッコ内の通りです。ある年の十月の一時期、今から十五年以上前のこと。「枚挙に遑なし」とは、このことですな。「歴史は繰り返さない。人間が繰り返す」ということになるのでしょうか。〈①(2006年10月3日 ・読売新聞)②(06/10/14・ 西日本新聞)③(共同通信・06/10/15)〉

(上の「謝罪風景」は、すべて千葉日報の記事によるもの。「学校は破廉恥の花盛り」での謝罪方式です)

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 「おとこもすなる飲酒運転というものを、女もしてみんとてするなり」ですか。教師は「見本」でもなければ、「師範」でもありません。ごく当たり前に生きている人間です。酒も飲めば、車も運転する。いじめに遭遇する子がいれば、その子の側に立つというのは「正義」なんかではない、本能なんだ。弱い者の助けになるという、まともな「本能」ですよ。それを曲げてまで「自己保身=組織保存(防衛)」を図るのは、利害と打算なんだな。犬や猫のような「動物」には「利害と打算」への配慮はまずないと、ぼくは言いたいね。さすれば、ある種の人間は「犬猫以下」か。犬や猫が怒るでしょうね、「そんな人間なんかと比べるな」と。人間は、思っている以上に「弱い」のですよ。「自分は強い」と錯覚している人ほど「弱い」な。強さの象徴が「メダル」「所持金」などという、「物・もの・モノ・」ばかりです。「メダル」(象徴)を見せびらかす時代は、人間が劣化しきった時代です。「殺戮」「ホロコースト」を命じる国家から、任務を忠実に果たした廉で「顕彰・授賞される」というのは、どういうことなんですか。(「プーチン大統領は4月18日、この旅団(第64独立自動車化狙撃旅団)の『大勢が英雄的行為と武勇、忍耐力と勇気を示した』とたたえ、「親衛隊」の名誉称号を付与した。BBCニュース:https://www.bbc.com/japanese/61281410)

 ぼくは学生のころには「能狂言」にハマっていました。それについて小さな原稿を書いたこともあります。住まいや学校の近くには「能舞台」(能楽会館)がいくつもありましたから、かなり通ったりしました。「なんとか流」の会員だったこともあります。その記憶の中から、やおら「舞い出てきた」のが「弱法師(俊徳丸)」です。どういう因果かはさておき、教師になる(である)というのは「弱法師」の道を歩くようなものではないでしょうか(いささか、意味不明、説明不足の気味ですね)。まるで、茨の道を行くようなもの、そんな風景を思い描いているからです。

・弱法師ほゝげた濡す清水かな (青畝)

・卯の花や弱法師の袖に蝨(しらみ)ちる (子規)

・弱法師我門ゆるせ餅の札 (其角)

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● 弱法師(よろぼし)=能の曲目。「よろぼうし」ともいう。四番目物。五流現行曲。金春(こんぱる)流は明治初期の復曲。他流も元禄(げんろく)(1688~1704)ころに再興したものとされる。世阿弥(ぜあみ)の長男、観世元雅(かんぜもとまさ)作。ただしクセの部分は世阿弥の作。河内(かわち)国(大阪府)高安の里の高安通俊(みちとし)(ワキ)は、人の讒言(ざんげん)を信じわが子を追放したことを悔い、天王寺で7日間の施しをしている。彼岸会(え)のにぎわいのなかに、盲目となり、乞食(こじき)の身となった俊徳丸(しゅんとくまる)(シテ)が現れ、梅の香にひかれつつ施行(せぎょう)を受け、天王寺の縁起を語る。彼岸中日の落日に極楽を念ずる日想観(じっそうかん)に続き、心眼に映る難波(なにわ)の景色に興奮した俊徳丸は、人々に突き当たり、盲目の境涯を思い知る。わが子と気づいていた父に伴われ、彼は故郷へと帰ってゆく。逆境にありながら、梅の香りのような詩心と、澄んだ諦観(ていかん)を失わぬ少年(青年の風貌(ふうぼう)の能面もある)として演出されるが、創作当時は妻を伴って出る脚本であった。影響を受けた後世の浄瑠璃(じょうるり)に『弱法師』『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』などがある。(ニッポニカ)

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 発見から創造へ ー 教職の可能性と限界と

  教育者と写真家の「対談 発見から創造へ」について

 大学を卒業して田舎に帰り、山の中学校の教師になろうなどと、まったく漠然と考えていた時期がありました。漠然と考えたというけれども、実際にはほとんどなにも考えていなかったに等しいと、後から振り返って、恥ずかしくなるほどです。その後は、田舎にも戻らず、あいかわらず「風来坊」のような頼りない生活を続けているうちに、どういうことか、実にうかつでしたが、学校の教師のような仕事についていました。それも教育や道徳を課題にするような(教師の真似事)人生が、何時とはなく始まり、気が付いてみれば、なんと四十数年も続いたのです。惰性の働き、慣性の法則が、ぼくの場合にはいかに強かったか、我ながら驚くばかりでした。真似事とはいえ、教師の仕事を見よう見まねで始めてしまい、最後までその核心部分が分からないままで、逃げるようにして学校を去った。

 その間、ぼくはひたすら「教育という実践」「教師の仕事」に関して、あらゆるものから学ぼうとしていたのは確かでした。得られたものはあまりたいしたものではありませんでしたが。それは当然で、まず知的方面での才能の欠如、加えて「向学心」というか、少しでもいいから「学びたい」という気力・努力に著しくかけていた。その両方をあわせて「才能」「才覚」というなら、ぼくはまったく学ぶことを知らない「無知・無能」であり、手に負えない「怠け者」であったというほかありません。ただ、そんな拙劣極まりない人間でしたが、本だけは読んだ。読みに読んだ(といっても、たかが知れています)。世に「研究」という領域の仕事があり、多くの華々しくも目覚ましい「成果」が誇られていますが、ぼくはただ先人の驥尾に付すという姿勢を一貫してきたにすぎません。この「驥尾に付す」を、ぼくごときが使うなどというのは笑止千万ではありますが、「優れた先人」の後を追っかけるということで、重点は「優れた人」にあります。基準は何もない、ただ、ぼくの経験と直感(直観)という出鱈目な判断力が、たった一つの秤・尺度でした。

 そんな中でも、ぼくはごく若いころから斎藤喜博さんの書かれたものはよく読んだ。本当に繰り返し読んだものでした。大学時代に少しばかりでしたが因縁ができた教師からの勧めもありました。が、とにかく暇があれば斎藤さん、来る日も来る日も喜博さんでした。そんな塩梅で、「斎藤教育学論」「喜博教育実践論」なるものを、手当たり次第に読みふけったものでした。どうして引き込まれたのか、一言でいうことはできません。しかし、誤解を恐れずいうなら、「教育は芸術だ」「教師は芸術家たれ」というニュアンスの、彼の「教育真言教」に惚れたのだと思います。「デモ・シカ教師」論が蔓延っていた時代社会に、斎藤校長の仕事は、無知で無能な若者さえも動かす「迫力」があったのでしょうか。教師の仕事は(芸術に等しい、というのはさておいて)、多くの氷魚tが想定しているよりンはるかに貴重な仕事であり、職業だと思いたかった時期でした。でも、その当時、ぼくには、教職というものに関しては、何もわかっていなかったのでした。(左写真は斎藤喜博氏)

 爾来、三十年を経てからは、ぼくにも、少しはゆとりというか、余裕が出てきたともいえるのです。つまり「教育はそんなに御大層なものなんですか」、教師は子どもを、マジで「育てられない」のではないですか、「学校に接近しすぎると、火傷(やけど)をするよ」というような、学校や教師というものから少し距離を置くだけの「成長」があったのかもしれないし、「学校や教師とは不即不離のつきあい」に思い至るところがあったと、自分では考えています。学校万能でもなく、教職聖職論でもない、当たり前の「仕事」、「生業としての教職」を、少しは地道に慮る(おもんぱか)ることができるようになったともいえます。なんだ学校なんて、大したことができる場所でもないじゃないかという加減(気分)も少しはありましたが、むしろ学校や教師が何でもかんでも「子どもに対して、与える・教えることができる」という教育万能論に大きな疑い、いやむしろ「不信感」を持つようになったということです。

 それは、単に学校にだけ問題の根があるのではなく、深く広く時代や社会の「世相」(世評・ドグマ)に依拠していたことの狭さからくる、至らなさ、間違い(欠陥)に、ぼくが遅まきながら気が付いたということでした。そのような部分については、このブログ(駄文集録)の端々に、如実に表れていると、自分なりに見ていますます。要するに、「教師の側」からばかり「学校・教育」を考えるのは可笑しいのではないか、もっと「子どもの側から」「生きている現実の生活」から、学校や教師を見直さなければならないという地点に、ぼくは足場を築くようになったともいえます。そこから、「教育」「学校」というものの見え方が、がぜん色あせてきましたね。それはぼくの「成長」であったとは、とても思えないのですが。だからといって、「学校教育」が重要ではなくなったということにはなりませんでした。ただ、入試の合否や偏差値、学歴偏重にいささかの不思議も感じない学校教育全体への、ぼくなりの「総反撃」のようなものが生まれかかっていたともいえそうです。

 若いころに、夢中になった斎藤さんの「教育芸術論」の中核部を少しばかりではあれ、語っているのが、この「対談集」でした。中でも写真家の土門拳さんとの対談は、ぼくにとても刺激的であった。まだまだ土門さんは全盛期のころだった時期に、二人の邂逅がありました。斎藤さんは、すでに現役を退かれ、あるいは「全国授業行脚」を続行している時期であったかもしれません。斎藤神話が広宣流布されていた時代になっていたでしょう。ぼくが教師をしていた時に、盛んに斎藤さんを授業で扱っては、先輩の教授連中から「軽侮」「揶揄」されたことがしばしばありました。「アイツはロクな研究もせずに、小学校教師に入れあげている」という具合に。まったくその通りでしたから、「確かに」という感じがありはしました。しかも、現実には「入れあげている」以上だったので、ぼくは、連中の非難には目もくれなかった。「読みもしないで、何かを言うなよ」とさえ思っていた。 

 以下、ほんの触りの部分だけですが、紹介しておきます。こんな両者の発言をどのように読むか、読むことができるか、そこがとても大事であると、ぼくは思います。(右上写真は土門拳氏)

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 斎藤 土門さんにおたずねしたいのですが、カメラ芸術ってものは、文学とか絵画よりも、たとえばぼくなんかが撮ってもここにあるこのコップならコップが撮れてしまうというように、なにかちょっと抵抗がないわけですね。だれでも何でも撮れてしまう。(中略)これはぼくの独断的解釈で押しつけみたいな意見ですが、そういう通俗的になる要素を持っていると思われるカメラ芸術のなかで、土門さんのような通俗的でないものをつくり出していくことは、どういうことなのか、そういうことを質問したいのです。なぜこういう問題を出すかっていうと、教育という仕事は、もともと教師をひじょうに通俗的な人間にしてしまう要素が、じゅうぶんにあると思うからです。それは、自分が駄目な教え方をしたために子どもが駄目になっているときでも、この子はできないんだ、社会がわるいからこうなっているんだといえば、それで済んでしまうところがあるからなんですね。(中略)

 土門  これは写真でも映画の芸術でも、カメラというメカニズムが対象と自分のあいだに介在していますから、新米がシャッターという物理的な力があればこと足りてしまうことにもなるのですが、その背後に人間がいるということですね。そうじゃないと、人間の感情、意志、思想がカメラになにも関係ないってことになっちゃうでしょ。(中略)このコップなら写す人はガラスという質感なり、コップ本来の美しさを写そうという期待と欲求があってやるんだから、…。

 斎藤  …ぼくはいまの〝期待と欲求〟という言葉をひじょうにいい言葉だと思ってきいておったんですがね。これは教育のばあいでも、期待と欲求の高いAという教師が子どもたちの前に立っているときと、それのないBという教師が子どもたちの前に立っているときとでは、ぜんぜんちがうものになってしまうからです。これも教師の仕事を追求していくばあいに忘れてはならない問題だと思うのです。

 土門  作家のがわはべつに個性的なもの、あるいは独創的なものを、つっこもうなんて思っていることは一度もないわけですね。要するに、そんなことは考えていない。その結果を、みるがわがいろいろなものを感じたり、あるいは私個人のくせ、個性というか独創というか、それをみるってことはあるけれど、作家のほうは一度も考えたことはないですね。(中略)

 斎藤  授業のばあいでも、一人ひとりの教師が土門さんの言葉でいえば期待と欲求が強烈であるか、またそのような方向がより高く正しいかどうかにかかってくるんじゃないか。その上で教授学をつくり、教科の体系の近代化、現代化をはかり、それを武器として、つまり、いいカメラ、いいフィルムがあればよい条件がそこにあるように、なおいいものができるんじゃないかと思っているのですが、〝背後にある眼〟について、もう少しお話していただけませんか…

 土門  一般教養…といっては語弊があるが、ほんものということですね。跳ぶ、ということも、ほんとうに跳ぶことをみ、知らなければいけない。ガラスひとつ撮るにも非ガラス的なものを知っていなければならない。(中略)ほんものを教えることをしっかりやらなければいかんと思いますね。(以下略)(1966年6月、東京にて対談) (土門拳・斎藤喜博「発見から創造へ」)

HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

 土門さんも斎藤さんも故人となられています。この自意識のかたまりのようなふたりが思いっきりぶつかったら、さぞかし大変なことになっただろうと思われますが、まあ、淡々と対話が進んだといえそうです。(全部をご紹介すればいいのですが、いずれ機会を見つけて)このような「芸術論」というか、職業観について、ぼくは、今ならかなりの批判をぶつけたい気がします。でも、それはまた機会を改めて、ですね。(誰だってカメラで写真」が撮れる、それは猫だって「ピアノが弾ける」というくらいに、ばかばかしい意見ですね。「期待と欲求」というものは、大なり小なり、ほとんどの教師は持っているでしょう。持っているけれども、それが実現される可能性は、写真を撮るのとは比較にならない困難さがあるのです。教師も子どもも、同僚も、親も、何もかもが人間だからです。生身(生物)が相手と、「静物」とでは吉良べること自体が間違いではないでしょうか。

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 その斎藤さんが教師の仕事を次のように言い切っています。いかにも彼らしい。 斎藤さんは、土屋文明さんの薫陶を受けた「歌詠み」でもありました。短歌誌「ケノクニ」を主宰され、強烈な「短歌(啖呵)集」が、後に残されました。「教師は芸術家だ」と思うのは喜博さんです。質の高い授業が芸術であると、果たして言えるかどうか、言ってもいいけど、その根拠になるものは何か、じゅうぶんに喜博さんは言い当てていないと思う。これは「表現」の問題であり、教職にはそんな要素は無駄とは言いませんが、むしろ、「芸術」的創造というなら、子どもの側に当てはまるのではないですか。

《私は教師は芸術家だと考えている。教師の仕事としていちばん大事な場面である授業も、それがほんとうに創造的なものであり、探求的なものであれば、その授業は、芸術と同じ高さになり、芸術と同じ感動を人に与える。そして、そういう授業をすることによってだけ、子どもも教師も満足し成長し、自己変革をとげることができる》(斎藤喜博『授業入門』) 

 若かった頃、斎藤さんのこのような言葉を聞いて(読んで)、ぼくなどは卒倒しそうになりました。すごいことをいう人もあるのだな、と。もちろんそれを否定する理由を少しももたなかったし、彼が言おうとしている意味がどのようなところにあるのか、自分のささやかな経験からも分かりそうな気がしたのです。だから、「入れあげた」わけですね。実に若かったというほかありません。一面的にしか「教育」「学校」を見ていなかったという意味です。子どもの立場に立てていなかったんでしょうね。

《そういう授業をするためには、教師はいつも芸術家の創造態度と同じ態度を持ち、一時間一時間の授業を、作家が作品をつくるように、そのときどきの創作として創造していかなければならない》

 といわれれば、ただうなだれるばかりということになりますね。その気持ちは、今だって強くあります。この部分を解明するためには、かなり面倒な文章を書かなければならないし、いまのぼくには、そんなことには、それほどの興味がないのです。

 作家、画家、音楽家、…ときて、並んで「教育家」とくれば、なんの違和感もなく受けいれられるでしょうか。これらの、芸術家といわれる人々(職業)はすべて、なんらかの創作活動、言葉の正しい意味で、創造行為をしている人たち(職業)であるといわれます。創造行為とはなにか、自らの内から、未だ形をなさない思想や感情を、言葉・色彩・音という手段(道具)(材料)を用いて<形を与える>ということでしょう。一言でいえば、<表現する>のです。教師の仕事は「子どもという作品」を生み出すことだという先入観、自己体験に基づく「予見」「予断」が、斎藤さんにはあった(ある)ように、今でも感じます。絵や彫刻、あるいは音楽や小説を作るのと同じような意味合いで、「子どもを作る」ということはできないでしょ、むしろ、子ども自身が「成長」というキャンバスに、思うような絵を描くことをしているんじゃないでしょうか。教師は、それを見ている、聞かれればアドバイスする、野球の監督やコーチのような位置にいるのであって、言われたことを「やる・やれない」は、選手にゆだねられているのです。 

 野球の監督やコーチだって、その仕事は創造的・表現的行為であるでしょう。だから、教師の仕事である「授業」は、そのような意味における<表現行為>であるのだろうと、ぼくは考えています。そこで、<表現行為>ということについて考えてみたいのです。教師の仕事である授業と<表現行為>とにどんな関係があるというのか、といぶかしく思われるかもしれない。誰でも、何かについて文章を書くときのことを想定して下さい。ある課題を与えられ、それを文章に表現するのは、まぎれもなく〈表現行為〉だといえるかどうか。問題はその<表現行為>の内容ですよ。誰かの文章を借用することは記録・記述ではあっても「表現」ではない。そのようなときに、教師の仕事にとって子どもはどんな位置づけになるのでしょうか。それが問題ではないですか。(ここで、斎藤さんが言われた「写真を撮る」のは、素人でもプロでも「映す・写す」という点では「差」はなかろうという意見を考察するべきなんでしょうね。そして、土門さんが言われた「期待と欲求」というものを教師にも重ねてみると、さらに何が明らかになるか、この先の議論は、少し先までの「宿題」にしておきます)

 どこかで触れておいた、大岡 信さんの「言葉の力」を思い出してほしい。あれをそっくり書写しても自分の「表現」にはならないでしょう。当たり前だといわれますが、世の多くの人はその程度のことをして(言って)いるにすぎないんじゃないですか。どんなにささいなことであっても、文字にとらえきることはそんなに簡単ではないのです。表現するというのは<express>に該当します。一例を上げれば、レモンを絞って、なかから「レモン汁」を絞り出すことです。レモンには「レモン汁」があります。果たしてぼくたちの中には、つねに「(果汁に似た)絞り出されるべき液体(言語などによって、内容を与えられるもの)」があるといえるのでしょうか。中にある「X」を、「ex(外に向かって)」「press(圧して出す)」、その内容こそが「独創的」であることを、人にも自分にも「期待」され、「欲求」されるのでしょう。

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〇土門拳 (どもんけん)(1909-1990)=昭和時代の写真家。明治42年10月25日生まれ。名取洋之助の日本工房で報道写真をまなぶ。昭和14年退社し,古寺巡礼の取材をはじめる。戦後は「絶対非演出の絶対スナップ」の写真リアリズムをとなえ,木村伊兵衛とともに写真界をリードした。平成2年9月15日死去。80歳。山形県出身。日大中退。写真集に「ヒロシマ」「筑豊(ちくほう)のこどもたち」「古寺巡礼」など。【格言など】丸めて手に持てる,そんな親しみを見る人々に伝えたかった(「筑豊のこどもたち」をざら紙に印刷した理由)(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

〇 斎藤喜博(さいとうきはく)(1911―1981)=教育研究家。群馬県佐波(さわ)郡芝根村(現、玉村町)に生まれる。1930年(昭和5)群馬県師範学校卒業。長く小学校教員を務め、1952年(昭和27)佐波郡島村小学校長、1964年境小学校長となる。また戦後一時期、教員組合役員としても活躍。民主主義教育のあり方を授業実践のなかで厳しく追究し、民間教育運動や教授学研究に大きな影響を与えた。主著に『未来につながる学力』(1957)、『授業入門』(1960)がある。(ニッポニカ)

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 「コスタリカの奇跡」ってなんですか

コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~(https://www.cinemo.info/movie_detail.html?ck=48)

 南米の(面積が)小さな国「コスタリカ」、この国について、ぼくたちはどれほどのことを知っているでしょうか。「軍隊を持たない国」あるいは、「コスタリカ方式」というようなことを耳にしたことは何度もありますが、果たしてその先について、どれだけ知ろうとしたか、ぼく自身に関して言うならば、それは、実にお粗末極まりない為体(ていたらく)でした。コスタリカと訊けば、まず、ぼくが記憶の棚から取り出してこようとするのは、一人の青年の話になります。以下に、少し古い記事ですが、これも記録の箱から取り出してきました。

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 一人の青年、ロベルト・サモラさん。当時はまだ大学生だった。ある月刊誌に掲載されていたインタビュー記事によって、ぼくは、その青年に引き付けられたのでした。十五年以上も前のことでした。以下はその内容(概要)です。

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 ― 軍隊を持っていることによる安心感と、軍隊 ―人権を軽視する組織ですから、もっとも非民主主義的な組織だと言えるでしょう ― を持つことによるセキュリティの危機を考えた場合、どちらが基本的に安全か、という問題になります。

 サモラ 軍隊を持っている国=戦争の準備が出来ている国ということですね。軍隊とは、目的ははっきりしていて、戦争に行くことしかないんです。戦争にいく体制の国とは、すなわち、人を殺す体制にもあるということ。それは他国民だけでなく、自国の同胞を殺す場合もあるわけです。そこに安全があるの、というと、ない。とても簡単なことだと思います(笑)。

 ― おっしゃるように簡単なことですが、その簡単なことがなかなか世界に広がっていかない。それは不安だとか、脅威だとかを人々が観じているからです。/ 日本の場合だって、たとえば北朝鮮や中国など、現実的脅威ではないにもかかわらず、その脅威が煽られる。そういうところから、やはり軍隊は必要なのではないか、という議論になってしまう。

 サモラ 逆に、なぜ日本の人は、北朝鮮が攻めてくる、と思うんですか?

 ― たとえばミサイルを発射されるんじゃないか、という不安ですね。それから、向こうの考えていることがよくわからない、ということもあります。

 サモラ ということは、向こうのことをよく知らないのに恐れている、ということですか? 

 ― そうです。よく知らないからこそ、恐れるんです。

 サモラ 知らないから、恐がり、知らないから、悪いことをたくらんでいる、と考えてしまうですね。/ 不思議なのは、外交関係がないなら、外交関係をきちんと創っていこう、と考えずに、どうして軍隊を作ることを考えるのか、です。問題が生じて、その国と外交関係がないなら、まず、外交関係を作って問題の解決を図るべきでしょう。軍隊は外交関係とは全く関係なく、問題解決につながらないわけですから。

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 (コスタリカは日本の約7分の一の面積で、人口はおよそ430万人。1502年にコロンブスにより「発見された」。1949年制定の憲法で「軍隊保持の禁止」を明示しました)

 サモラさんは中米のコスタリカ共和国の大学生5年生でした(掲載当時)。04年9月に、コスタリカ政府がアメリカのイラク攻撃を支持したのは憲法違反だと提訴し、最高裁判決で勝訴した人です。(判決「憲法・国連・コスタリカが受け入れた国際人権規約に反する、との結論をもって、2003年3月19日に行政府がイラク戦争及びそれに付随する全ての行為について行った合意を無効とする」)(『世界』2005年5・6月号)(左上の記事:毎日新聞・2019/12/10)

 <日本の場合は、あれだけ大きな戦争で、甚大な被害があった。それゆえに、軍隊を放棄し、平和を守ろうと決意したわけですよね。軍隊を持たずに平和を保つことが、平和の維持にもっとも有効だと判断したわけで、そのことをもう少し考えてみればいいのに、と思います。「なぜ持たなかったのだろう」と。…たとえば、どこかの国がコスタリカを攻めたとしたら、国際的に非難が起こるでしょう。そう考えると、コスタリカを攻める、という行為が政治的にいかに愚かな行為なのか、理解できます。だからこそ、コスタリカはどこからも侵略されない、ともいえますが。>(同上) 

 (このような「無防備国」として、国際的な監視のもとにあっても、あるいは「コスタリカ」を攻撃する、侵略する国(たとえば、アメリカやロシアのような)「超野蛮国」がないとも限りません。その時はどうしますか、といったこともまた、ぼくたちの生きている「世界」の現実の課題でもあるのでしょう。純真無垢の「赤ちゃん」に暴力をふるうような人間はいないといいたいけれど、掃いて捨てるほどいるし、そのために多くの「乳幼児」が、その未来を犠牲にされ続けているのです)

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 ことは単純、でも事情は複雑? いや、そうじゃないんでしょう。「戦争をしたい」、そんな物騒な人がたくさんいるということではないんですか。この劣島に限定しても、憲法を「改正」し(「改正」しなくても)、他国と戦争できる、普通の国にしたい。(同盟国)がやられたら、仲間に対する「仁義」をはたすために「共同戦線」(集団防衛=「集団的自衛権」だというらしい)を張る。そんな理屈にもならない屁理屈で「好戦国」ぶりを発揮してきたのが、この十数年でした。もちろんそれ以前から、その傾向はありましたが、この十年は特に加速して「好戦国」になろうとしてきたのです。言葉もまやかしも目につきます。「敵基地攻撃能力」ではあからさますぎるから「反撃能力」というというごまかしです。武力そのものが「能力」だというのですから、開いた口が塞がらないというべきです。ぼくは「コスタリカ」の国是に痛く共感してきました。武力ではなく対話のたちから(外交・交渉・交際力)(これを能力というのです)にこそ、活路を見出し、友好関係への道を歩こうとするべしというのです。「武力」に物を言わせると、そこからは、際限のない「殺戮合戦」しか生まれない。それが戦争です。でも「言葉」を駆使した「戦争」は、殺し合いには絶対(と自信をもってと、いいたいね)にならない。(それは、長年にわたって、ぼくは経験済みですから。ぼくの場合は「内乱」でしたが)

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 雑誌のインタビュー記事以来、サモラさんについては、しばしばその活動を耳にすることがありました。近年で度々来日され、各地で講演などの活動をされています。その際にも、きっと「コスタリカの奇跡」が話題にされてきました。ぜひとも見るべきドキュメントであろうと思われます。ここでは、その前段階の「予告編」的なものを二編ばかり紹介しておきます。Ⅰコスタリカ国会の刻板 - 映画『コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~』特別編(1)(https://www.youtube.com/watch?v=pnxGYapjZME) Ⅱコスタリカの平和教育“ビー・ピース” 映画『コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~』特別編(2)(https://www.youtube.com/watch?v=awLll2S_1FY

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 戦争繰り返さぬために 軍隊を持たない国から学ぶ コスタリカの弁護士が講演 

軍隊を持たない中米コスタリカから学ぼうと、同国の弁護士ロベルト・サモラ氏を招いた講演会が11日、長崎市内であり、参加者が日本の改憲の動きや国民の役割について考えた。/ 高校生1万人署名実行委や市民団体などでつくる実行委が主催。約170人が参加した。/ コスタリカは永世中立を宣言し、軍隊保有を禁じる平和憲法を制定している。2010年に隣国のニカラグアが侵攻してきたが、国際司法裁判所に提訴して阻止した。サモラ氏は「1人の死者も出さず、お金も銃も使わず、また自衛の兵も作らなかった」と強調した。/ コスタリカの大統領や内閣がイラク戦争を支持したり、核兵器製造を提案したりした際には、サモラ氏が裁判所に提訴。裁判所の命令で戦争支持を撤回させたり、核兵器を製造禁止に追い込んだりしたと説明した。/ サモラ氏は日本の憲法九条改正の動きについて「政府が国民を欺いている」と批判。高校生平和大使らの活動報告を聞き「失敗しても希望を持ち続け、不可能だと思うことに取り組んでほしい」とエールを送った。/ 参加した第21代高校生平和大使で諫早高3年の山西咲和(さわ)さん(18)は「戦争を二度と繰り返さないために(戦争の)原因についても貪欲に学び続けていかなければならない」と語った。(長崎新聞・2019/06/13)

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〇 コスタリカ=正式名称−コスタリカ共和国Republic of Costa Rica。◎面積−5万1100km2。◎人口−430万人(2011)。◎首都−サン・ホセ(34万人,2006)。◎住民−白人系(スペイン系がほとんど)97%,黒人2%など。◎宗教−カトリック(国教)が大部分。◎言語−スペイン語(公用語)。◎通貨−コスタリカ・コロン。◎元首−大統領,ソリスLuis Guillermo Solis(2014年5月就任,任期4年)。◎憲法−1949年11月制定。◎国会−一院制(定員57,任期4年)。最近の選挙は2014年2月。◎GDP−298億ドル(2008)。◎1人当りGNP−4980ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−18.6%(2003)。◎平均寿命−男77.8歳,女82.2歳(2013)。◎乳児死亡率−9.0‰(2008)。◎識字率−96.3%(2011)。*中米,パナマの北に位置する小共和国。東はカリブ海,西は太平洋に臨む。国土は大部分高原状地形で,火山が多い。気候は太平洋側は乾燥,カリブ海側は高温多湿。住民の大部分が,スペイン系白人とその混血で,生活・教育水準は他の中米諸国に比して高い。農業が主で,コーヒー,バナナ,カカオを輸出,牛の畜産もある。米国資本の進出が著しい。1502年コロンブスがコスタリカ(豊かな海岸の意)と命名,16世紀後半からスペイン領となった。1821年メキシコ帝国の一部として独立,1824年―1838年中央アメリカ連邦に属し,連邦解体後は1848年正式に独立した。1949年制定の現憲法は武装放棄を宣言し,軍隊をもっていない。1987年アリアス・サンチェス大統領(国民解放党)は,中米紛争の和平合意への努力を評価され,ノーベル平和賞を受賞。中南米では最も政情の安定した国の一つ。(マイペディア)

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 殺めしめんかな、さらに殺めしめんかな

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● 栗原貞子(くりはらさだこ)(1913-2005)=昭和-平成時代の詩人。大正2年3月4日生まれ。昭和6年,アナーキスト栗原唯一と結婚。戦時中「人間の尊厳」などの反戦をかく。20年広島被爆とともに「中国文化連盟」を結成し,21年機関誌「中国文化」を創刊,原爆特集号に詩「生ましめんかな」を発表,また反戦詩集「黒い卵」を自費出版した。その後も原水爆禁止運動にとりくみ,「私は広島を証言する」「ヒロシマ・未来風景」などを刊行。平成17年3月6日死去。92歳。広島県出身。可部高女卒。(デジタル版日本陣明大辞典+Plus)

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 産院爆撃で負傷の妊婦が死亡、赤ちゃんも助からず ウクライナ(CNN) ウクライナ南東部マリウポリで、9日の産科病院爆撃を受けて負傷した妊婦が死亡した。赤ちゃんも助からなかった。治療に当たっていた医師が14日に確認した。/ 医師がマリウポリからウクライナのテレビ取材に語ったところによると、医師団は女性の蘇生を試み、ショック状態に対する治療を行いながら帝王切開で出産させたが、誕生した子どもに生命の兆候はなかった。子どもにも、母親にも、30分以上、蘇生措置を行ったが、蘇生させることはできず、母子ともに死亡した。/ 9日に病院が爆撃された現場では、担架に乗せられて救急搬送される妊婦の姿をAP通信がとらえ、世界中に配信されていた。(以下略)(https://www.cnn.co.jp/world/35184858.html)

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「妻と生後3カ月の娘、義母をミサイルに殺された」、オデーサで生き残った男性が語る 

ウクライナ南部の港湾都市オデーサに住むユーリイ・グローダンさんは23日、家族をアパートに残して買い物に行こうとした時に、爆発があったというニュースを知った/ グローダンさんは燃え上がるアパートを前にして、敷地の入り口にいた警察に、中に入れてくれるよう叫んだ。自宅までたどり着くと、そこにはロシア軍のミサイルによって殺された妻と義母の遺体があった。ミサイルは、集合住宅の上層階を引き裂いていた。/ 生後3カ月のキラちゃんの遺体は、その後に見つかった。グローダンさんは24日に自室に戻った時に、その姿を始めて見た。/ この一家3世代の死に、ウクライナ国民は激怒し、その無残さに強く反発している。ウクライナの人たちはすでに2カ月続く戦争で、数々の悲惨な事態を目にしてきたのだが、それでもなお、この一家の悲劇は国中を揺り動かしている。/ オデーサへの攻撃をめぐる記者会見でウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、キラちゃん殺害について語るときに明らかに動揺していた。

 ゼレンスキー氏は国民への演説で「その子がいったいどうやってロシアを脅かしたというのか? 子供を殺すことがロシア連邦の新しい国家的なアイデアになっているようだ」と述べ、この攻撃を計画し、実行した当事者たちは「ろくでもない言語道断な」人間だと強い言葉で非難した。/ このミサイル攻撃では、ほかに5人が亡くなっている。/ グローダンさんは25日、何か見つけられないかとがれきとなったアパートの中にいた。写真のアルバム、妻が集めていた砂糖の小袋、手書きのメモ……ベビーカーが粉々になっているのも発見した。(以下略)(https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-61212677)

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 栗原さんの「生ましめんかな」は、大学生になってから読んだ。原爆投下から二十年ほど経ってからでした。しかし、その衝撃は言いようのないものだったことを、今でもはっきりと記憶しています。「赤ん坊が生まれる」「私が産婆です、私が生ませましょう」「かくてくらがりの地獄の底で / 新しい生命が生まれた」「 かくてあかつきを待たず産婆は / 血まみれのまま死んだ」「生ましめんかな」「生ましめんかな」「己が命捨つとも」二十歳を過ぎた若輩が、この詩をどこまで受け入れられたか、それはまことに覚束ないことでした。しかし、原爆投下、それによる被爆という災厄に伴う、ひとつの生命の誕生、その隣に、同時に別の生命の終焉が、同居している、その、言いようのない「生死の交代」の瞬間に、まるで「立ち会っていた」かのような錯覚を抱いた。原爆投下から二十年余の時間が経過していた。

 この「P」の戦争が始まって以来、敵対する双方にどれだけの犠牲者が出たのでしょうか。「敵・味方」に関係なく、それは死ぬべきいのちだったか、殺されなければならないいのちだったかと、ぼくはなけなしの怒りとともに、愚かで醜悪な「自己顕示」の傍若無人のふるまいによる犠牲者への悼みを深くするばかりでした。いったい何のために、こんな愚かしいことを、と謗(そし)る(嘆く)のはやめておきます。そんなことは言うまでもないことだからです。ぼくは政治権力に限らず、いかなる権力も「唾棄すべき」代物だということについては、いささかの疑いも持っていない。権力をいたずらに行使しなけれ、何事もできないのでしょうか。教師の仕事は、一面では子どもたちよりも優位にあるとされます。しかし、それは暴力的、横暴な権力行使と同列のものではないことを自らに明らかにしなければならないのです。悪質で醜悪極まりない「権力」は自己拡張・自己肥大という狂気の蠢動に弄ばされているのは事実ですが、その暴虐のために「生ましめんかな」ではなく、その対極にある「殺(あや)めしめんかな」が、現在進行形で、世界中に見せつけられているのです。まさしく、これこそが、「生き地獄」です。生きて地獄の苦悩を味わう。

 実に軽々と「核の脅威」「第三次世界大戦」に言及している露国の「外務大臣」、文字通り「人命」を弄(もてあそ)んでいる。彼が私的にはどんなに汚い蓄財・税金泥棒をしているか、他国のことといえども、考えるだけでも胸がムカつきます。ロシアの腐敗政治家ばかりではないでしょうが、それにしても汚い連中です。「西側」の奴ら目と、蛇蝎のように嫌悪していながら(しているふりをしながら)、彼らの親族は「西側世界」で、「わが世の春」を決め込んでいるのです。盗人猛々しいし、これほどの「売国奴」というのも阿保くさい。かかる醜態はいずれの国においても起こりえるし起こっているのでしょう。だからこそ、「君、死に給うことなかれ」であり、「新しい命を、なんとしても奪われるな」と、今からでも繰り返し、叫びたい。「犬死」という、その死には、何の意味もなく、何物にも役にも立たない徒死であり、無駄死にだといわれる。本当にそうか。生れ出ようとしていた胎児、生後三か月の乳児、そしてその母親たちの死は、はたして「犬死」だったとでもいうのか。ぼくには、なんとしても忘れることにできない、記憶の底に刻印しておくべき「死に様」であったと思うばかりです。「戦争」の愚劣さ、暴力の激しい頽廃を糾弾してやまない「貴重ないのちの喪失」だったと心から思うのです。

 They did not die for nothing. They did not die in vain. It clearly taught us that violence cannot be admitted under any circumstances and that it is an unforgivable act. They passed in front of us, surely imprinting deep and heavy sorrow and “importance of life” on those left behind, regardless of the length of time they existed in this world. I pray again for the purity of that soul.  

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 私たちは退歩できない道を歩いている

 【編集日記】チェルノブイリ ソ連時代に起きたチェルノブイリ原発の爆発事故から、きょうで36年となる。普通の火事だと呼び出されて大量の被ばくをした消防士をはじめ、職員や事故処理作業員ら多くの人が命を落とし、故郷を追われた▼高線量の原子炉からそう遠くない場所を、軽装備で走り回る兵士たち。その様子を目に焼き付けたヘリコプターの操縦士は、帰宅した後、息子に「(あそこは)戦争だよ」と話した(スベトラーナ・アレクシエービッチ著「完全版 チェルノブイリの祈り―未来の物語」岩波書店)▼2月に始まったウクライナ侵攻でロシア軍は、「石棺」に覆われたチェルノブイリ原発を占拠し、外部電源が一時失われた。さらに、稼働中の別の原発を攻撃。チェルノブイリ原発事故の惨事を上回りかねない状況に陥れた▼原子炉を破壊せずとも、電源喪失がどんな事態を招くのか、本県は東京電力福島第1原発の事故で経験した。トラブルを起こした原子炉の制御は危険を伴い、豊かな大地は放射能に汚染される▼人々の苦しみや悲しみをつづった著書の副題「未来の物語」は、悲劇を繰り返しかねない人類への警鐘だ。原発でさえ標的となる現実をどう変えていくか。わがこととして考える。(福島民友新聞・2022年04月26日 08時30分 )(ヘッダーは:https://www.star-ch.jp/drama/chernobyl/)

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 「ウクライナ戦争」で、ロシアの権力亡者は「核を弄(もてあそ)んでいる」というほかないような所業が明らかになっています。「戦略核(むしろ戦術核か)」であるとしても、核爆弾であることには間違いないのですから、それを脅しの材料に使うとなると、彼らをどのように形容すればいいのでしょう。ソ連時代の「原発事故」から三十六年目になりました。いったいこの三十六年は「原子力発電所の核爆発」の始まりの終わりなのではなく、これから先、途方もない長さの「終わりへの道行き」の始まりを記す一歩かもしれません。ソ連時代から今のロシアに至るまで、正確な情報はまったく出されていません。各種の記録を拾い読みしながら、ようやくわずかな明かりに似た「視点」を得るに過ぎないことの積み重ねでもあります。しかし、全く見通しは立っていないのだ。

 この日本における「原発事故」においても同じような経過をたどってきました。「嘘」を既成事実化し、その上にさらに嘘を重ねて、一つの物語を捏造するのです。後には、それが虚偽であったことは必ず明らかになります。いつでも「一歩進んで、二歩下がる」という進み方(退歩ですが)で、ここまで来ました。この先、時間がさらに、永遠にかかるはずです。解決から「遠のく」ことを真面目を装って、国費を使ってやっているのです。事故を起こした企業は、もはや国策会社であることは隠しようもないのですから、事態が一向に明らかにならないのは、国の「隠蔽体質」によるというしかないのです。各地で原発事故による裁判がつづけられていますが、はかばかしい進捗とは言えません。生活の基盤である居住地を奪われた方、被爆された方、その他有形無形の被害者に対して、国も企業も、いささかの謙虚さもない、そんな姿勢を一貫して堅持しているのです。

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●チェルノブイリ原発事故【チェルノブイリげんぱつじこ】=1986年4月26日,ウクライナ(旧ソ連)キエフ州北部,プリピャチ市のチェルノブイリChernobyl’原子力発電所で発生した原子炉の爆発・火災事故。死傷者数,放出放射線量,原子炉の損傷状況など,いずれも前例のない激しさで,INES(国際原子力事象尺度)で最悪レベルのレベル7の大事故である。事故炉は4号炉で,他の3基と同じく電気出力100万kW(熱出力320万kW)の黒鉛減速軽水沸騰冷却型。ソ連が国際原子力機関に提出した報告書によれば,原子炉を核的にも熱水力的にも不安定な状態にした上,緊急停止機能を著しく低下させ,安全保護信号(スクラム信号)をバイパスして試験を開始した人為ミスによるものであるが,炉自体の緊急停止機能が不十分であることも原因とされている。この事故による死者は31人,負傷者203人(発電所従業員と消防士のみ。一般人を含まない)。周辺30km以内の13万人以上が避難したが,ソ連国民の集団線量は,外部被曝だけでも約900万人レム,今後50年間で約2900万人レムに達すると推定されている。事故後ヨーロッパ諸国で高度の放射能汚染が観測されたほか,日本を含む北半球の広い地域でも放射能が検出された。とくに半減期の長いセシウム137による汚染地域がベラルーシ,ロシアにも大きく広がっており,1989年にベラルーシでは1km2当り15キュリー以上の汚染地域から住民約11万人を移住させると決定したが,3共和国を合わせると同レベルの地域は1万km2,住民29万人に及ぶ。時の経過とともに甲状腺癌,白血病をはじめ癌の多発や家畜の奇形が現れており,国際的な医療・救援活動が長期にわたって行われた。事故後,4号炉は放射能もれを防ぐためコンクリートで固め〈石棺〉としたが,ひび割れが増大し崩れる心配があるため,1997年ウクライナ政府と西側諸国は改修に合意した。補強案や覆いを二重にする第2〈石棺〉案などがあるが,資金難などから早期の解決は困難視されている。2000年12月15日には事故後唯一稼動していた3号炉を停止し,チェルノブイリ原子力発電所は完全閉鎖された。事故は原子力発電の危険性を改めて認識させ,ヨーロッパ諸国の脱原発の流れに大きな影響を与えた。2011年3月11日に起こった福島第一原発の大事故で二つの事故の比較から同事故が世界の注目を集め,とりわけ事故後現在に至る放射能汚染被害とその対策が日本で関心を持たれている。(マイペディア)

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(東京電力福島第一原子力発電所事故から10年。世界最悪レベルの事故を起こした原発はいま、どうなっているのでしょうか。号機ごとに見ていきます。)(NHK:2021/03)(https://www3.nhk.or.jp/news/special/nuclear-power-plant_fukushima/feature/article/article_01.html)

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*処理水にデブリ・・・福島原発廃炉の現在地 脱炭素で“原発回帰”の流れも 震災から11年(2022年3月11日):(https://www.youtube.com/watch?v=cJdHpv8cf6w

 チェルノブイリでは原発への武力攻撃が実行されました。狂気の沙汰の上に、なお凶器の沙汰を重ねているのですが、それをだれも止めることができないのはなんとしたことでしょうか。福島では「汚染水」の海洋投棄が実施されようとしています。これはまだ、原発事故後の「廃炉に向けた作業」がほとんど手付かずの状態で、肝心かなめの「デブリ」の取り出しにはまったく展望がないことを示しています。すべてが手遅れになりながら、その大事な手続きが事後承認という「虚偽」の積み重ねでしかなされていないことに、この時代に生き、原発の「恩恵」をいやおうなしに享受してきた、一人の人間として、深い悲しみとと同時に、やり場のない怒りを自らのうちに蓄積していくしかないようです。

 チェルノブイリの爆発事故から三十六年、福島の爆発事故から十一年経過した現在、ウクライナで「核」を脅迫の道具にした戦争が進められています。この戦争によって、世界の「経済開発先進国」は化石燃料の著しい「枯渇」に苦悩し、あろうことか、原発への回帰を一斉に目指し始めました。戦争も、原爆も、そして原発も、何度事故や戦禍を重ねたら気が付くのでしょうか。経済的繁栄がいかに根拠の薄いものであったか、それよりも、素朴だが、人が互いに敬いあえる生活が、はるかに望ましいものであったかが実感されることは、もうないのでしょうか。この島でも「より安全な原子力発電」を目指すと、利権金権亡者たちはいいます。狂気の沙汰といっても足りないほどの、愚劣さ加減です。(右写真:福島第1原発2号機原子炉格納容器の底で見つかった燃料集合体の一部(L字)と小石状のデブリとみられる堆積物:国際廃炉研究開発機構提供)

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 狭い一本の道が続いている。その道を、人間を含めた地上の生物は(例外なしに)歩き続けるしかないのです。背後からは、汚染物質が迫りつつあります。その行きつく果てに何があるか、誰も知りません。「核と共存する」ということは、極めて限られた選択肢しか残されていない(選択の余地はないといってもいい)、行く先不明の一本道を、先を争って歩くようなものです。他人の国を奪い、そのために人民の命を簒奪する、その結果、得られるものは「幸福」なんでしょうか、「繁栄」なのでしょうか。それを「生の充実」とどうしていうことができるのか。

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