美しい魂は悪い子供が… 

 「私は放校されたり、落第したり、中学を卒業したのは二十の年であつた。十八のとき父が死んで、残されたのは借金だけといふことが分かつて、私達は長屋へ住むやうになつた。お前みたいな学業嫌ひな奴が大学などへ入学しても仕方なからう、といふ周囲の説で、尤も別に大学へ入学するなといふ命令ではなかつたけれども、尤もな話であるから、私は働くことにした。小学校の代用教員になつたのである」

 坂口安吾(1906-1955)が1947年に書いた「風と光と二十の私」の書き出しの一部です。「代用教員」とは免許状をもたない無資格教員のことで、身分も期間も不安定な臨時雇いの教師でした。以下は一端(いっぱし)の不良少年が小学教師になる図です。代用教員にはなかなかの人材がいました。石川啄木などは代表格でした。(このテーマについても稿を改めて書きたいね)

 「私は生来放縦で、人の命令に服すといふことが性格的にできない。私は幼稚園の時からサボることを覚えたもので、中学の頃は出席日数の半分はサボつた。教科書などは学校の机の中へ入れたまゝ手ぶらで通学して休んでいたので…田舎の中学を追ひだされて、東京の不良少年の集まる中学へ入学して、そこでも私が欠席の筆頭であつたが…」などと「望ましい中学生」像からは大きく逸脱していた。「凡そ学校の規律に服すことのできない不良少年が小学校の代用教員になるといふのは変な話だが、然し、少年多感の頃は又それなりに夢と抱負はあつて、第一、そのころの方が今の私よりも大人であつた。私は今では世間並みの挨拶すらろくにできない人間になつたが、その頃は節度もあり、たしなみもあり、父兄などともつたいぶつて教育家然としてゐたものだ」

 彼の人間観察はたしかなもので、それは「堕落論」や「白痴」、さらには「日本文化私観」などでつとに証明されています。

 「本当に可愛いゝ子供は悪い子の中にゐる。子供はみんな可愛いゝものだが、本当の美しい魂は悪い子供がもってゐるので、あたゝかい思ひや郷愁を持つてゐる。かういふ子供に無理に頭の痛くなる勉強を強ひることはないので、その温かい心や郷愁の念を心棒に強く生きさせるやうな性格を育てゝやる方がいゝ。私はさういふ主義で、彼らが仮名を書けないことは意にしなかつた」

 「小学校の先生には道徳観の奇怪な顛倒がある。つまり教育者といふものは人の師たるもので人の批難を受けないやう自戒の生活をしてゐるが、世間一般の人間はさうではなく、したい放題の悪行に耽つてゐるときめてしまつて、だから俺達だつてこれぐらゐはよからうと悪いことをやる。…俺のやるのは大したことではないと思ひこんでゐるのだが、実は世間の人にはとてもやれないやうな悪どい事をやるのである」(いまではこんな教師像が通用するのかどうか、時代は頓に悪化するといったら非難されるかな)

 「自主的に思ひ又行ふのでなく他を顧みて思ひ行ふことがすでにいけないのだが、他を顧みるのが妄想的なので、なほひどい。先生達が人間世界を悪く汚く解釈妄想しすぎてゐたので、私は驚いたものであつた」(この指摘は当たっていると思う。教師の典型が抱く人間論世界観ですね)

 今に変わらぬ「教師像」が活写されているようです。教師は聖職者だということがそもそもインチキであって、そんなきれい事でつとまる仕事ではないというところから出発しなければ、たちまちのうちに息が詰まって倒れることは請け合います。文科省はけっして推薦しないでしょうが、安吾のような偽らない教師がいてもかまわないというより、いてくれなくては困るとぼくは思う。子どもたちがみる大人が型通りの教師だけというのは、けっして褒められたことじゃありません。ここでは触れないが、生徒との交わりですこしばかり真似のできないような経験を安吾先生が書いています。ぜひとも「風と光と…」を読んでください。

 以下は、安吾の一側面です。「私はその頃太陽といふものに生命を感じてゐた」「雨の日は雨の一粒々々の中にも、嵐の日は狂ひ叫ぶその音の中にも私はなつかしい命をみつめることができた」「私と自然との間から次第に距離が失はれ、私の感官は自然の感触とその生命によつて充たされてゐる」(彼は東洋大学のインド哲学科かを出ていたと記憶しています)

 「教師然」とするとはどのようなことでしょうね。手本・模範・師範・見本その他。いずれも息をしていないような、つまるところ「生命力」にかけたような雰囲気が想像されます。「四角四面は豆腐屋の…」みたいな堅苦しい上に、なんか情味にかけるような印象があります。わざわざそんな「像」に自分を当てはめる必要なんかないんじゃありませんか。いうまでもありませんが、現実の教師たちには多彩な表情や個性を有している「典型」がおられるのをぼくは疑わないのです。そのうえでなお言いたい。不良教師よ、出でよ。そんな呼びかけをしたいのですが、採用試験には馴染まないよね。でも、優良佳作ばかりじゃ、優等生に向かない子どもたちが困るでしょ。(「教師よ、堕ちろ!」)

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「育つ」と「育てられる」と

 ギリシャの哲学者だったプラトン(BC427-BC347)が書いた対話編のなかに『メノン』と題された一編があり、そのはじめの部分に奇妙な話がでています。それを材料に「ものを学ぶ」というのはどのようなことかを考えたい。メノンは貴族階級に属しており、ソクラテス(BC470-BC399)の友人。彼の家にはたくさんの「召使い」がいた。そのうちの一人(10歳くらい)を呼び、ソクラテスは次のような問題を出した。ギリシャ語はできるが、一度も学校にいったことのない子どもだった。わざとそんな子どもを選んだのです。「一辺の長さが2プウス(センチ)の正方形があるとしよう。その2倍の面積をもつ正方形はどのようにして作ることができるか」

 その子はいとも簡単に「それはこうだ」と即答した。しかし、彼の答えはまちがっていた。考え直してふたたび答えたが、それもまちがいだと指摘されました。その結果、彼は途方に暮れてしまったのです。ソクラテスはまったく「教えないで」「質問する」ばかりでした。ひたすら子どもはその問に答えるよう求められ、ついに「どうにも答えられない」というところに追いつめられたのです。はじめは知っていたつもりだったが、問いつめられて、わけがわからなくなったのです。

 今度は紀元前の古い人ではなく、現代の音楽家の話を紹介しましょう。カナダ生まれのピアニストの経験談です。「若者はいかにして音楽に対する個性的なアプローチを身につけることができるか、それは教えられるものなのか」と質問されて、ピアニストは答えました。

 《わかりません。本当にわからない。…自分にできるのはただ、誰かにテープ係になってもらって学生の演奏を録音し、それを聴き直させて、こういうのです。「オーケー、満足かい?自分の演奏の速度、全体の感じやなんかはうまくいったと思う?」…でも本当にためになるものというのは、自分自身を見つめることからのみ得られるのだろうと思います。ですから教師にできる最良のことは、それをそっとしておいてやることでしょう。ただいくつかの質問を投げかけて、自分の演奏には疑問の余地があるのだということ、そしてその解答は自分で見つけねばならないということを自覚させるのです》《教師にできるのは質問することなのです。…教師が自分のものと言える唯一の役割はまさにこれなのです。教える立場というのはそれ以上のものではありません》(グレン・グールド)(1932-82)

(ぼくは心底、グールドに惹きつけられたし、今でもそうです。倦(う)まず弛(たゆ)まず半世紀に及んで聴き続けています。彼の演奏は類例を見ない独自のものでした。バッハがこんな風に弾かれるんだという驚愕、あるいは戦慄を多くの音楽関係者や愛好家が経験したはずです。ぼくは二十歳過ぎたころ、彼のいくつかのバッハ演奏を聴いて、素人(愛好家)なりに驚かされた。平均律やパルティータ、あるいはイギリス組曲、フランス組曲などなど、次々に発売されるレコードを心待ちにして聴きしびれたものでした。レコード一枚が2000円の時代です。いわゆる「クラシック」にほとんど関心を持っていなかったぼくは、グールドに巡り合って以来、他の何よりも音学好きになったといえます。ここは演奏論や音楽論を述べる場ではないので、駄弁はやめますが、彼が死して約四十年。彼ほどに音楽を面白く楽しく、そして興味をもたせて愛好家をひきつけた音楽家は出なかったとぼくは言ってみたい。その彼の教育論(?)ですから、見逃すわけにはいきません。さらに機会を設けて論じてみたいと考えています)

 話を戻します。ソクラテスは「教えないで、質問する」だけだった。グールドは「教師の最良の仕事は質問することだ」といいました。どんな人でも「自分にとって」いちばんの教師は自分自身です。だから、「自問・自答」なんです。自問と自答のくりかえしから、ぼくたちは考える力を伸ばし、また問う力を育てられるのです。問いを作り答えを見つける、それが考える働きが本来的に行うことです。誰かに聞かれて(問われて)、自分が答えるというのは、自問の練習台です。

 いつも「自問し、自答する」ことが「自分をそだてる」には欠かせない態度だといえないかと思う。「そだつ」ためには「そだてる」がなければならない。だれかに質問されて(自分で自分に質問し)、それによって自分のなかのなにかが「そだつ」、それは「そだてられる」ともいえるでしょう。教える側からではなく、「そだてる」側から教育問題をとらえたい。「教育」の核心部はそこに存すると考えるからです。訓練や調教なら、外からの力によって無理にでも相手を習慣づける。この二つの働きはまったく似て非なものです。

 言い方を変えれば、だれかに「教えられる」というのは、その人から何かを「与えられる」ことでもあるでしょう。じゃあ、与えられるばかりだと、いったいどんなことが起こるのか、という問題ですね。与えられるのが当然と思われてきます。「くれなきゃいやだ」「もっといいものをください」というように、与えられることに文句を言うようになります。学校教育でよく見る光景ではありませんか。「教えられる」に文句を言う。

 次はグールドよりも一世代前に活躍した音楽家の教育論です。もう一人の音楽家、ナタン・ミルシュタイン(ヴァイオリニスト)(1903-92)の例を出します。

 《先生っていうのは、そんなに役に立たないと思うな。今の若い人は、先生のところへ行けば何かを教えてもらえる、などと考えている。違うんだよ!誰も教えることなんてできないんだ。教わろうったって無理なんだ。先生はたしかに上手に弾けるだろう。しかし、それは彼自身の方法で上手に弾けるんだ。それをいくらそっくり真似たって、同じ音など出せっこないよ》

 《だから私は、こう思うんだ。教師の役目とは、生徒の心を開いて、生徒自身が進歩していくことを助けることだと。その意味で先生は、教えてあげることなんて出来ないとハッキリ告げるべきだと思うね。生徒は、自分の力でやり遂げなくちゃならないんです》(ミルシュタイン)

 ものを学ぶというのは自分をそだてるということです。そだてるためには、そだてられなければならない。これは教育の根っこの問題です。だれかによって「そだてられる」というのではなく、自分で自分を「そだてる」です。それは次のような意味ではないですか。大切なものを自分で「発見する」、自分の足りないところをみずからが「気づく」、そこに「そだつ」「そだてる」ということの秘密がありそうですね。

 別の言葉でいえば、どこかしらで「達成感」というものが自覚されるということです。「自分はまだ足りない」っていう自覚、「自分にはこの部分が欠けてるな」という感覚です。おそらく、達成感というのは「欠けている」「足りない」という感覚の裏側にひそんでいる。不足感から達成感へ、そこから充足感へ、この王道をゆっくりと歩きたいね。

 グールドはいつでも自身が自分の教師だった。「オーケー、満足かい?」といつも自問していた。教育について強い関心をいだいていたといわれるグールドの「教えの方法」、言いかえれば「学びの方法」は、おおいにわたしたちに刺激を与えてくれる。かれは教師になる希望を実現しないうちに亡くなった。かれはカナダトロントだったかの出身、もしウィーンだったらかれは存在できなかったと思われます。音楽にかぎらず、すべからく伝統」というものはこわいですね。

 「自分が受け入れているものをふくめて、疑う権利を確保すること、それが私のデモクラシーの基本です。それを手放してしまったら、人間はそこからつぶれていくと思うんです。人間の思想というのは弱いものでね、思想で一つにくくってしまったら危ない。どこかに通り道を残しておかないと、やっぱり自滅してしまうんですね」(鶴見俊輔)

 「自分が受け入れているものをふくめて、疑う権利を確保する」というのは、別の表現を使えば「わたしは自由である」ということじゃないですか。疑うというのは「ぼくは自由である」という意味です。疑う自由、あるいは自由に疑う。与えられたものを鵜呑みにするのではなく、それを疑ってみる。自分の頭で疑って見る。それをしなければ、自分がないというようなものです。自分が認めているものまで(ものこそ)疑う。それが「自由」ということ。考える、疑う、あるいは迷う、それが「ぼくは考える」ということの表れではないですか。

 与えられたものを飲み下す、丸飲みする。まるで鵜飼の鵜です。「これしかない」としがみつく、そのとたんに、ぼくたちは(考える)自由を失ってしまう。そこで止まってしまう。つまり、固まる。「これこそが正しい」と思いこんじゃう。そこで思考停止。自由の消失、放棄です。それはどこにもある罠だし、それにひっかかる人は後をたたない。下手な考え休むに似たり、それもまずい。自問するのはやさしいことじゃありません。でも自問する、自答する。あくなき挑戦だな。

 自分が信じているものさえも疑う。いや、信じているものほどはげしく疑うことができる。「それ(疑う権利)を手放してしまったら、人間はそこからつぶれていく」というのは、「そだつ」「そだてる」ことをやめてしまうという意味です。安易に受け入れることで、その先を考えようとしなくなるからです。

 自分にとって(自分が)「信じているもの」ってなんですか。

 「本当にためになるものというのは、自分自身を見つめることからのみ得られる」「誰も教えることなんてできないんだ」という言葉をもう一度思い出してください。自分で「気づく」ということは、ホントに大事です。自覚症状がなければ、どんな名医でも、いかなる診断も下すことはできない。(「そんな弾き方じゃダメだ」といわない音楽教師はいい教師)

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柄にもなく、良寛さんの漢詩を

 よくわかりもしないでいろいろなものに手を出してきました。なにか身についたかと問われれば、無残も無残、文字通りに何も残っていません。これまでに人並みに本を読んできたといいたいところですが、その数少ない読書から得たものはほとんどなさそうです。いったい「読んだ本」はどこに行ってしまったのか。(古本屋じゃなさそうです)「読んだ本」とは「読んだ本の記憶」の意味。そら恐ろしくなるほどに何も記憶に残っていないという恐怖。それならば、残る残らないに構わずに読みつづけるほかないと、半分はあきらめ半分は意欲十分、いかにも不届きな心持でいまも時間をつぶしているのです。金も残らなかったし、読んだ書物の記憶も消えてしまった。きれいさっぱり浮世の痕跡は消え、残るものといえばわが貧相な骨柄のみという無惨。人間元来無一物だそうですね。だから良寛さん。

 さて良寛(1758-1831)さんです。宝暦八年に越後出雲崎に生まれ、天保二年、(現在の長岡市で)没しました。本名は山本栄蔵。(さしずめ、映画俳優のようなお名前)74歳でした。なんと昔の人かと思われますが、明治維新を導いた多くのヤングたちは天保生まれでしたから、彼の没年はごく近年なんですね。ぼくの伸ばした手には届かないにしても、世代でいえばたかだか三代か四代前の話。ぼくの親父の親父、つまり祖父は1880年だったかの生まれ。だからその前代です、天保は。(過去帳を見れば、さらに何代か前までわかります。偽作じゃなければ)(「天保生まれの青年たち」についてはいずれ。参考までに。天保年間は元年から十四年まで。西暦では1831-1845。主な人物を順不同、敵味方入り乱れて。吉田松陰、大久保利通、木戸孝允、江藤新平、坂本龍馬、高杉晋作、近藤勇、土方歳三、中岡慎太郎、福沢諭吉、板垣退助、大隈重信、山形有朋、井上毅などなどなど。長い歴史のうちには、こんな時代がきっとあるのでしょうね)(左の書は、良寛さんが子どもたちに頼まれて書いたとされる)

 良寛さんは号をいくつか持っておられました。ぼくがもっとも好きなものは「大愚(たいぐ)」です。およそぼくにはかりしれない深度や高度さらには奥行きを有する宇宙をあらわすようなペンネーム(まるで号外だ)です。彼は曹洞宗ですから道元禅師の弟子筋に当たります。今でいえば、住所不定の輩で、諸国を歩き、やがて越後に戻り、いろいろな方面で活動したといわれますが、履歴は明らかではなく、存命中から謎に満ちた人でした。ぼくも生意気にも道元師を齧ってきました。それがために歯が欠けてしまったほどに、ぼくには歯が立たなかった。その顛末もまたどこかで触れたいと思いますが、はて寿命がもつかどうか。『正法眼蔵』は数回最後まで読んだことがあります。ぼくの感想では、道元さんは50歳で亡くなりましたが、いうならば「学者」そのものだったと。学者のとらえ方によりますが、彼は宇宙や真理、仏教、悟達その他について、縦横無尽の知識を動員して哲学書を表したといえそうです。(「読んだ記憶」は無残)

 余談です。連れ合い(やまのかみ・「ういのおくやまけふこへて」と「奥は山の上」に鎮座しています)の母(義母)の実家が新潟の巻町越前浜でしたか。(ここで註です。越前浜ではなく「角田浜」でした。書いて何日経ちますか。記憶違いであることに気づきました。無残)だからよく柏崎や寺泊の近くで遊びましたし、その延長で出雲崎の「良寛記念館」にいったことがあります。それでどうした?(別にー、です)

 「良寛は僧ではあっても生涯寺をもたず無一物の托鉢(たくはつ)生活を営み位階はない。人に法を説くこともせず、多くの階層の人と親しく交わった。子どもを好み、手毬(てまり)とおはじきをつねに持っていてともに遊んだ。正直で無邪気な人であって、人と自然を愛して自然のなかに没入していた。無一物でありながら、震えている乞食(こじき)に着物を脱いで与えたこともあるなど、自作の詩歌や『良寛禅師奇話』(解良栄重(けらよししげ)著)などに伝える」(大日本百科全書』

 まず一篇。

無欲一切 / 有求万事窮 / 淡菜可療飢 / 衲衣聯纏躬

独住伴糜鹿 / 高歌和村童 / 洗耳巌下水 / 可意嶺上松

 さらに一篇。

花無心招蝶 / 蝶無心尋花 / 花開時蝶来 / 蝶来時花開  

吾亦不知人 / 人亦不知吾 / 不知従帝則

 下手な、そして無謀な「解釈・解読」はしないし、できない。我流の鑑賞法(?)はわからないなりに、終日その詩(対象)を見続けます、翌日も。時間が許す限り、また…。あたかも海や山に出かけて、ひねもす坐って「遠くを見よ」う、です。やがておのずから判然として…きませんよ。また、初めてあった人がどんな人物なのわからないのが当たりまえ。わかろうとしてひたすらつきあう。その長いつきあいから、あの人は「こういう人なんだ」とわかることがあります。ぼくはこの長いつきあいが「教育」なんだと思ってきました。

 悪い例ですが、「やまのかみ」とほんとうに長くつきあってきました。そこから「ああ、この女性はこうなんだ、こんな性格だったのか」と納得することができましたが、さらに新たにわからないところが見つかります。「へえ、こんなやつだったの」と「わかった部分」と同量の「未知の部分」が生み出されるんです。あるいは「既知」の部分が増えるに応じて、「未知」の部分が減少するんではなく、かえって増大するのではないか。ぼくの経験ではそうです。つまりつきあうにつれ、この女性は「謎のかたまりじゃないか」と恐怖を感じるのも事実です。この増減現象は無限旋律なんですね。つきあい甲斐があるとはこのこと。それでいいのだと思いたくありませんが、まあ妥協です。

 そして失敗し、また挑戦する。そういう我流をさまざまな場面で通して今まで来ました。なにごとにおいてもぼくは我流・自己流でした。だめですね、我流は。もはや手なおしは手おくれです。したがって、ここでもその流儀です。あるいはしばらくして、ああこういうことか、さすがは良寛だ、となればしめたものですが。まずそれはありません。(そんな僥倖は金輪際、ありえない)(我流もまた楽し)

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子どもはトランクではない

 教育における自由と訓練との対立は、その用語の意味するところを分析して感ずるような深いものではありません。生徒の心は成長しつつある有機体です。けっしてなじみのない観念を無慈悲にも詰めこまれるような箱ではないのですし、順序正しい知識の修得は、発達する知性にとっては自然な栄養源なのです。従って訓練は、自由な選択からごく自然になされるものでなければなりませんし、自由によって訓練の結果豊富な可能性をうるようになるのが、理想的な教育目標だといえるはずなのです。この二つの原理、自由と訓練とは対立概念ではなしに形成されつつある個性の特性として、あちこちに揺れる自然な心と呼応するように、子供の生活の中に適応され調整されていかなければならないのです。このような発達過程がもつ自然な揺れに自由と訓練とをうまく合致させていくことが、わたくしが別の所で述べた「教育のリズム」の意味なのです。(ホワイトヘッド『教育論』久保田信之訳、法政大学出版局、1972年」)

(*Alfred North Whitehead (1861-1947) イギリスの数学者・哲学者。記号論理学の完成者。また、実在論的な基礎の上に、有機体の哲学と呼ばれる独自の形而上学を展開した。著「科学と近代世界」「過程と実在」など。また、ラッセルとの共著に「数学原理」がある)(大辞林)

 閑話休題としましょうか。「閑話」と少しも変わりがなさそうですね。

 他の人とは少しばかり趣(毛色)がことなるかもしれませんが、とても興味のある「教育原理」「教育哲学」を展開している人としてぼくはホワイトヘッドを読んできました。今から見ても(読んでも)古くなっていないどころか、今こそもっとまじめに受け取られてもいい思想であり、教育論だと思うのです。ぼくが読んだのは『過程と実在』ほかいくつか。ぼくにはとても難解でした。

 「自由と訓練」とはいかにも英国風ですが、彼の語るところに耳を傾けてみましょう。古代の諸学派では哲学者たちは「英知」(Wisdom)を授けることに情熱をもっていたが、現代の大学教育(ですらそうなっているのだから、それ以下の諸学校の状況は言うまでもなさそうです)では教科目を教えるだけという卑しい目的に転落・堕落してしまったといいます。(彼はケンブリッジ大学やハーバード大学をはじめいくつかの大学で教壇にたった)

 「わたくしが力説したいことは、知識はたしかに、教育の主要目的ですが、もう一つの、これは莫然としていますが知識より偉大なるもので、その重要性において他に匹敵するものがないほどの、もう一つの要素があるのだということです。古代人はこれを英知とよんできました。知識の裏付けなしに賢くなることはできませんが、英知を欠いたままで知識を修得することはいとやすいことなのです」(同上)

 英知とはなにか。彼に言わせれば、それは知識をコントロール(応用)し、いい結果をもたらすための選択肢を示し、「われわれの身近な経験に価値付けをしてくれる」ものであって、その「英知」こそ、本質的な自由だというのです。「知識の修得」という訓練と、そこから始まる「英知」にいたる道こそが自由によって敷かれているのです。

   だからこそ、と彼は力説します。「教育は、トランクのなかに品物をただ詰めるようなものでない点忘れてはなりません。トランクに品物をただ詰めるという比喩とはまったく異なるものです。教育はいうまでもなく完全にそれを受けとる側の選択を前提とする活動です。わたくしの意味するところに最も近い比喩をあげれば、生きている有機体による食物の消化のようなものです。適当な条件さえ整えば、口に合う食物が健康に最もよいのだということはご存知なはずです。トランクのなかに長靴を入れるという場合は、再び取り出すときまでそのままそこに入っているでしょう。しかし子どもに腐った食物を与えたら事態は大変なことになってしまうのです」(同上)

 子どもはトランク(入れ物・コンテナ)であり、教師の話す・伝達する言葉(知識じゃないでしょ)は長靴だ、腐った食物だというような教育(授業)が白昼堂々と蔓延・横行しています。まことに手に負えない事態とはこのことです。「英知」に向かう気づかいなど一切ない、たんなる細切れの情報や言葉の断片を授けることが教育の別名になっている事態に、さてどう向きあえるのか。

 そんなむごい授業が進むに応じて「この長靴は歯ごたえがある」だの、「このハイヒールは乙な味だね」などと洒落にもならないことをいう(いやな)子どもが現れる始末です。要するに、教師に迎合するんですね。子どもをそのようにそそのかすんですよ。世間では「学校優等生」の大量生産企業(別名「進学校」という)がのさばっているんじゃないですか。子どもにとっては、自分を教師に無条件であわせるのがもっとも大切であるとされます。子どもをして、そのように仕向ける大人の責任は看過できないし、許せないと思います。ぼくの体験からしてもそういえます。

 「知識の裏付けなしに賢くなることはできませんが、英知を欠いたままで知識を修得することはいとやすいことなのです」

 ここで、はるかな昔の人間であるホワイトヘッドをことさらに引用したのは、「教育はいうまでもなく完全にそれを受けとる側の選択を前提とする活動」だという、彼の指摘をまともにうけとめたいと思ったからです。ぼくはいつでも教育(授業)をそのように受け止めてきました。指摘通りの活動ができたかどうかはまことに疑わしいのですが。そのような指摘が時代や社会を超えていまなお妥当すると思われるのは、教育というものが「完全に受け取る側の選択を前提とする活動」なんかではないものとして、「教える(与える・授ける)」側の都合ばかりが斟酌されるものになっているという不信の念がぼくにあるからです。それはまた多くの方の実際の経験ではなかったでしょうか。(彼の講演がなされたのは1923(大正12)年のことでした。「めだかの学校」の草創期ですね)(筆名『ぼくは「トランク」も「トランプ」も嫌いだ』) 

「ユーモア(笑い)」の効用について

 チャーリー・チャップリンがこう言っている。「人生はクローズアップで見れば悲劇。ロングショットで見れば喜劇」であると。対象に近づきすぎるからそのおかしさが見えないという私たちの近視眼は、まぎれもなく深刻な現代病の一つです。私たちは日々の暮らしに汲々(きゅうきゅう)としすぎ、自分のしていることの滑稽さ、ばかばかしさに気づかず、そこから一歩身を引いて遠目にながめることを忘れているからです。

「私の父は飛行機に乗り遅れたら、つぎの飛行機に乗りました」と、全国演説家協会の創設者キャヴェット・ロバートは言った。「祖父は汽車に乗り遅れたら、つぎの日の汽車に乗りました。彼らの時代は乗り物に乗りそこなったくらいで万事が休したりしませんでした。汽車だって、飛行機だっていくらでもあるんです。けれども現代は、回転ドアに一度入りそこなっただけで、その日一日がおじゃんになってしまう」(アレン・クライン『笑いの治癒力』片山陽子訳、創元社刊。1997年)

 周知のことですが、チャップリンは、ロンドンの「貧民街」で育ち、アル中で父が亡くなったのは五歳の時、その後に母親も神経を病んでしまう。どうしようもないこの人生を、彼はロングショットで稀有の「喜劇」へと創造した。「喜劇王」になるだけの望遠レンズを彼は研磨し続けたといえるでしょう。チャップリンの目から見れば、ある面においてわたしたちの時代・社会の「学校教育」は子どもの成長にとっては相当に危機的な状況にあるといわなければならないようです。受験や進学が学校教育の最大関心事となり、点数化された偏差値や学力達成度に、今日(にかぎりませんが)、過剰な関心がもたれているからです。教師も親も、もちろん子どもまでも(近視眼鏡をかけて)、目先の利害や得失に一喜一憂している滑稽な図が見えてきます。(この笑うべき風潮に陥っているのは)世の中全体といっていいかもしれないのですが、どうやらその背景には「遠くを見る」という姿勢(目)を失ってしまっているからだ、とぼくには思われてならない。保証の限りでない「遠くの百万円」(ロングショット)なんかよりも、まず「目先の一万円」(クローズアップ)に大きな価値を見出すのです。(まずい例ですね)

 だれにとっても現実は現実です。でもその現実をどのようにとらえるか。チャップリンがいみじくも言うように、目の前の状況をクローズアップでとらえるのかロングショットでながめるのか。その二つの立場(見方)からはたいへんに大きなちがい(差)が生まれてきます。また、その結果においてもかなりの差が出てくるはずです。悲観主義は「気分」の問題であり、楽観主義は「意志(意欲)」の問題だと、ぼくはいつも考えてきました。あるいはそのように自分を励ましてきました。たとえば、雨がつづいたりするようなとき、物事(天気という自然現象に対してさえ)を悪く取れば、悲観的にもなります。「なんで雨ばかり降るんだよ、計画が台無しになるじゃないか」と。しかし、同じ状況(雨降り)にあっても、それを楽観的に受けとめる「久しぶりにいい雨だ」とでもいえる人がいたら、私たちもまた、その人の態度(姿勢)というか、判断・観察から学んでもいいのではないでしょうか。アランという高校教師で哲学者だった人は「雨の日に笑え」といいました。この列島にも「雨に文句を言うな」というのがありました。

 アメリカの「(自称)愉快学者(ジョリトロジスト)」であるクラインは妻の病と死に打ちのめされながらも、そこから「笑いとユーモア」の大切さをふかく学んだ。『笑いの治癒力』に、つぎのような内容の手紙(新聞に掲載されていたそうです)が紹介されています。この手紙を書いたのは、おそらく大学生、あるいは高校生ではないかと思われます。チャップリン級になれますね。

  お父さまお母さまへ 長いことお手紙を書かなくてごめんなさい。寮が全焼して便箋(びんせん)や封筒が全部燃えてしまったものですから。やっと退院したところですが、お医者さまによれば全快も間近とのこと。安心してください。それから火事で持ち物が全部焼けてしまったので、わたしを救助してくれた男の子のところへ居候(いそうろう)しています。/ そうそう、二人とも早く孫の顔が見たいとお思いでしょう。喜んでください。いまわたしのお腹には赤ちゃんがいて、もうすぐ生まれます。 メアリより

 娘からの手紙を読まされた両親の反応はどうだったか。ここで想像(想定)するのも面白いでしょう。自分が「親」だったり「娘」だったら、こういう状況でどう反応するのか、と。メアリは賢明な女性でした。親の混乱や怒り、あるいは心配を(ロングショットで)あらかじめ見とおして、彼女は一種のクッション(ユーモア・笑いの種まき)を用意したのです。それを踏まえ、彼女はいいづらいけれども、言わなければならないことをはっきりと言葉にします。えらいな。ブラボー!

  追伸 火事など起きていません。わたしは元気そのものです。もちろん妊娠もしていません。それどころかボーイフレンドもいません。/ ただフランス語でD、数学と化学でCを取ってしまいました。どうか長い目で見てやってください。それをお願いしたかっただけなのです。(クライン・同上)

 メアリはどこにでもいるでしょうか。あるいは稀有な存在なのでしょうか。人間というのは「窮すれば通ず」(「窮鼠 猫を噛む」とはちょっとちがうか)といいます。どこかから知恵(時には悪知恵もあるにはある)が出てくるのです。もちろん気持ちにゆとりや余裕(ぼくは「遊び」と呼ぶ)があってこその知恵です。いわば、車のハンドルに不可欠な「遊び」です。「遊び」のないハンドルはこわいですよ。危険ですね。それは人間も同じ。「マジで人を殺す」「まじめに戦争をする」なんて。

 クラインはいいます。「私たちの文化は左脳社会と呼ばれる。論理的、直線的にものごとを考えようとする。けれども問題に遊び心をもって取り組んでみると、いろんな選択肢が見えてくる。脳の右半分も使うようになるからだ。右脳は左脳より創造的な働きをするので、ものごとを論理的に考えようとするときには見えなかったものが見えてくるものだ」(同上)

 「遊び心」を忘れなければ、視野は広がり、選択肢が増えるというのです。私たちの社会も、クライン言うところの「左脳社会」でしょうか。どんなものごとに対しても、色々な見方ができる。あのようにも言えるし、このようにも言える。それなのに、「これしかない」という、せまい了見をふりかざすから、きっと社会はぎすぎすしたものになるし、人間関係も破綻をきたす羽目になります。もちろん、ぼくのように「遊びがありすぎる」のも考えものであり、困ったものですが。

 教育とはなにか。それは一人の人間にとっていかなる値打ちをもつのだろうか。この問いのようなものにも、いろいろな考え方がありうるでしょう。つまるところ、それは人間(精神)の自由の問題でもあるのです。人間が集まって住む社会(集団)には多様な形態がありえます。でも、どんな集団でも、構成員がそれぞれに、自分を表現しながら生き、なおかつ他者とていねいにまじわることができれば、それはじゅうぶんに住む(所属する)に値する社会・集団ではないでしょうか。民主主義(デモクラシー)が集団生活の原理となるという意味においてです。

 もし、今日の学校教育が個人の成長という価値をデモクラシーの原理に近づけ、あるいは重ね合わせてとらえようとするなら、それはそれで、ある一つの方向を目指さなければならないともいえます。「自分の足で立つ」、そして「自分の足で歩く」ということはデモクラシーからの要請です。くわえて、自分の利益だけを考えるのではなく、他者への思いを保ちながら、注意深く交わろうとする姿勢、そこにもデモクラシーがなりたつかどうかという点で、重要な鍵があるという想いがぼくにはつよい。もちろん、他者との交わりにもユーモアは不可欠です。「笑い」はぼくたちが思っている以上に私たちの精神や身体にいい影響、それも大きな力となるように与えてくれるのです。これはいろいろと証拠が挙げられてきました。「笑う門には服着たる」じゃなかった。「笑う門には福来る」といいますね。

 藪から棒のように「朝寝坊をする権利」があるなどといえば、たちまち非難が飛んできそうです。「今日はちょっと気分が重いから、学校休んじゃうね」と子ども。それに答えて、「ああいいね」というくらいの親なら、子どもも安心というか安全なんだけれど、「学校を休む子は悪い子だ」とか、それこそ超自我にそそのかされた正義感で子どもは攻められるのだから、たまったものじゃないと子どもは受けとる。この社会全体にもそのような風潮が根強いですね。せまい了見だ。

 再度、クラインです。彼は「ユーモア」がもつ効用について、つぎのような話を書いています。「看護学校の試験でずっとトップだった学生が突然落第点をとった。もしも君が卒業できなくなったらどんなことになるだろうね、とからかうと、彼女はわからないと答え、沈みこんでしまった。そこで私は楽しいシナリオをつくって先をつづけた。職業安定所で列に並んでいたら、そこへ億万長者がやってきて君をみつける、そして二人は恋に落ちる…。彼女はクスクス笑いだし、もうそのときには試験に失敗したくらい何でもない、たとえ卒業できなくたって世界が終わったりはしないという気持になっていた」(この部分には「ユーモア」があるとは思わないね、クラインさん)

 どうせ人生を送るなら、クローズアップではなくロングショットで、自分のレンズを曇らせずに遠くを見すえて生きたいものです。「遠くを見よ」というのは、「アンダンテで歩こう」というのといっしょになってぼくの生活の心棒(辛抱でもある)になっています。いわば、猫背にならないための、ものを遠くまで見通すための背筋の伸びをうながす背骨となっている。「上を向いて歩こう」として電柱にぶつかるのはいやだが、「遠くを見よ」うとすると、遠近のさまざまな人や物が見えてきます。ぼくは「悲劇」より「喜劇」がよほど好きです。「喜劇」の中には「悲しみ」も溢れています。その反対は?(「一人では泣けるけれど、一人では笑えない」といった少女がいます)仲間がいるから笑えるし、それで人は救われるのですね。(男のメアリ?)

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すずめの学校は家の中

 閑話はまだ終わりません。というか、悲しいかな、終わりが見えないのです。さて、「すずめの学校」です。そんな学校があったのか、あるのかしら。

 チイチイパッパ チイパッパ / 雀の学校の先生は / むちを振り振り チイパッパ

 生徒の雀は輪になって / お口をそろえて チイパッパ

 まだまだいけない チイパッパ / も一度一緒に チイパッパ / チイチイパッパ チイパッパ

 作曲は清水桂(かつら)さん(1898-1951)。東京深川生まれ。関東大震災後、埼玉県和光市に居住。作曲は弘田竜太郎氏(1892-1952)。『靴が鳴る』、『叱られて』などで知られる童謡作家。清水さんは幼少期に母親と生別。武家の家にはそぐわないという理由で離縁されたらしい。その後父は再婚。多くの弟や妹がいた。ぼくの記憶では九人で、桂さんは長男、一番下の弟(異母弟)とは相当に年が離れていた(一回りか)。ぼくの記憶をよみがえらせる部分(細胞)が毀損してしまった。資料を調べればいいのですが、曖昧な記憶に頼るのがぼくには快感です。(この馬鹿者!)(ずいぶん昔、日本の唱歌や童謡についてそれなりに調べたことがありました。まことに面白いというか、日本の学校教育の歴史の重要な部分(それも核心部分)を学校(文部省)唱歌が占めているのではないかと邪推したのですが、その通りでした。 

 「言葉が旗」になり、「歌が旗」になるといいます。ばらばらの集団を一つにまとめるために歌(号令や合図のようなもの)が欠かせなかった。明治初期に伴奏がないと軍人は「行進」できなかったとされます。だから。唱歌導入でその望みどおりになったようです。国歌・校歌・社歌?などを思い浮かべてください。この旗のもとに人々(駒)を集めたし集まったんですね。「欲しがりません、勝つまでは」「一億火の玉」(ああ、怖ー)いまでもありませんか。「六甲おろし」か?

 下らない事例です。二十年の昔になりますか、ある出版社の経営者(社長さん)に誘われて東京両国の国技館に相撲見物に出かけました。相撲にはあまり興味がなかったが、升席とやらに案内され、そこで卑しい根性丸出しで、相撲そっちのけの「酒盛り」を始めました。気づいたら、千秋楽(それすら知らなかった)の取り組みがすべて終わっていた。だれ?優勝したのは?多分貴乃花とかいう横綱でしたか。やがて場内アナウンスで「脱帽願います」「ご起立願います」「ご唱和を願います」とかなんとか。ぼくらは坐ったまま好きな酒(今は一滴も飲みません)の盃をかさねていた。しばらくしたら、いやな雰囲気ときつい視線を感じ、それと同時に「非国民」だか「国賊」だかという言葉で罵られた。驚いたね。「君が代」を歌わず酒を飲んでいるトンデモナイやからだというわけ。そのときぼくは「何言いやがる」と啖呵をきったどうかはどうでもいいこと。歌が旗になりますというほんの一例です。

 (学校教育と唱歌に関しては、もうすでにいろいろな方が書かれていますから詳細はそちらに譲ります。じつに面白いというか、信じられないエピソードに溢れているのですが。その時のぼくのメモはいまもあるはずです。今はやりの「改ざん」「墨ぬり」その他手段を尽くして、唱歌を悪用しました。「蛍の光」は領土拡張の伴奏、「汽車」には兵隊さんが乗車していた、栗の実煮てます囲炉裏端という「里の秋」家のお父さんは戦地で戦っている。その他もろもろです。「少国民諸君」と叱咤され激励された時代がありました。「それがどうした」と、いまならいわれそうですね。(「別にー」とでも言っておこうか)文書改ざん、成績偽造、証拠隠滅等々の破廉恥行為は「美しい国」の麗しき伝統・順風美俗でしたね。情けないというか、ああ無常、ああ無情だね。

 桂さんはそのような家庭環境にある長兄として、幼い兄弟姉妹の面倒を見たり、暮らしの足しになるような稼ぎを求められたのは当然でした。ほどなくして、神田だったかにあった雑誌の出版社に勤務。(後年、この会社は日本橋「丸善」で、こんにちは「丸善雄松堂」と看板がかかっています。二つの会社にはそれぞれにぼくはいささかの因縁がありますが、ここでは触れない。その一部になります。「丸善」の創業者だった早矢仕有的は「ハヤシライス」を作ったといわれる人。英国留学中の漱石と関係します。というか漱石のノイローゼを助けたとか。同時期に「味の素」創業の池田菊苗がいます。グルタミンの化学者。彼も漱石を救った人)

 清水さんの同僚には『浜千鳥』の作詞者の鹿島鳴秋氏や後年の作家山手樹一郎氏がおられた。そのかたわらで詩作に励み、雑誌の投稿していました。「すずめの学校」は1922(大正11)年が初出。作曲は弘田龍太郎氏。彼は「浜千鳥」の作曲も手がけました。高知出身。歌詞をよく見るとすずめの学校の先生は「むちを振り」、生徒のすずめは「お口をそろえて」「チイパッパ」とある。時代はどうだったか。祖国は日清・日露の両戦争に「勝鬨(かちどき)をあげ」いよいよさかんに他地域に乗り出そうと意気盛んな時期に当たっていた。それに歩調だか口調だかをあわせるがごとく、「すずめの学校」は帝国主義や軍国主義を謳歌したとされる向きもあるが、ぼくはそういう風にはとらない。すずめがねえ、といいたい。

 この時期はたしかに日本国家の拡張期、産業革命期に当たっていた。一等国とか二等国と内外にむけて喧しい雄叫びを列島民の多くが挙げていました。清水さんにはこの歌のほかに「靴が鳴る」(大正8年)、「叱られて」(大正9)、「緑のそよ風」(昭和23年)などがある。これはぼくのあて推量ですから、まちがっているかもしれない。彼は戦争応援や軍国主義の片棒だか先棒を担いだのではなかろう。担げ(が)なかったと思いたい。片棒・先棒を担いだり突き刺したりした著名人は五万といる。それで「文化勲章」に「輝いた人」はじつにおおくいます。そのための勲章だね。

 幼児期に生母と別れ、やがて継母に育てられるが、二人のつながりは強くはなかった。長兄として幼い弟妹の面倒(炊事・洗濯・掃除などなど)を見ざるを得なかった。お腹をすかした幼子たちに食事をあてがうことは日常であったと思います。生母への思慕はかぎりなく深かったと思う。

 自らが先生役になって、「チイチイパッパ チイパッパ」と声を上げて、なだめたりすかしたりしたのではなかったか。この掛け声は「父(ちーち)・母(はーは)」だったとどなたかが言われていましたが、ぼくは賛成します。どこだったか、かなり昔の記憶だからはずれているか、あるいはもうやめているかもしれませんが、東武東上線の「和光」駅(と思う)には「叱られて」のメロディが流れていたような気がします。(後で確認します)この曲も彼の生い立ちから生まれた、まあ「自伝」だと考えていい。彼自身の生活記録が「歌詞」の原型になったとぼくはみています。なつかしい、心がなごむ、けどどこか物悲しい、そんな雰囲気をいつも清水さんの曲から受けます。

 とすると、「すずめの学校」はめだかとちがっていたのかなという疑問がわいてきます。それは軍事教練や戦争を連想させる歌だったというが、そうではなさそうです。これは人それぞれの感受性の問題でしょうから、ぼくはこのように感じた(い)というだけでいいと思う。ところで、このところすずめが少なくなったという声が聞こえてきます。まさか絶滅危惧種になってはいないと思うが、どん欲な人間のことだから、すずめの行く末が心配です。(たかがすずめだし、童謡だよ。難しく考えるな、と「叱られて」しまいそう)これも相当に昔の話です。友人に誘われ、台東区の上野(恩賜=天皇陛下からいただいたという意味。)公園内にある「スズメや」だったか、すずめの焼き鳥を出す店に行ったことがあります。少しは食べようとした気がしますが、あまり気が乗らなかった。舌切り雀を連想したのかどうか。今はないかも?

 清水さんは18歳で職に就き、親がわりになって、弟妹の世話に明け暮れ、家計を盛り立てた。そのうえで、詩作し、歌を作り自らの成長(宿願)をも果たそうとした。あえて言いたいのは、この時期、つまり日露戦争直後の時代、清水さんは幼児から小中学校生(今でいえば)までの家族の面倒を見ながら、社会に出ていたのです。(当時は尋常小学校、高等小学校と称されていました)国民の大半は尋常小学校卒(形式卒が多かった)でした。だから、清水桂先生は幼い弟妹のために「ホームスクール」を営んでいた、その家庭学校の主題曲が「すずめの学校」だったというわけです。

 このような「ホームスクール」はこの列島に限らず、人間の集団が存在しているところでは、あらゆる時代、あらゆる場所であたりまえに営まれていたにちがいない。家族のつながりは今日の時代に生きる私たちの想像をはるかにこえて強いものだったと考えていいでしょう。比較するのも変ですが、ホルトたちよりよほど早い時代に、「家庭教育」(home school)は機能していた。子育てこそは、親や家族の絶好の教育機会だった。学校に「子どもの教育」を任せきりにしたのは、はっきりした時代背景や営業目的があったと思われます。学校に子どもたちを預けるには明確な理由がありました。家庭や親の側のというより、「日本という新興国家」の側に、でした。

 清水かつらさんは敗戦後の1951年、わずか53歳で永眠されました。とても酒好きな方で、「飲めないなら、生きていても…」と言っていたそうです。お墓は文京区本駒込の吉祥寺。その昔、学生時代に本郷にしばらくいましたので、散歩の折に彼のお墓に数回お参り?したことがあります。清水さんはぼくにはいかにも懐かしい人です。おだやかで静かな人だったように、ぼくには思われます。(根拠はありませんが)「ちち はは」がぼくの記憶の中でいつまでも共鳴しているようです。(「すずめの学校」の項はここまで。さて、ようやく閑話休題となりますか)

 追加 以下の文章はあるところで話した際のメモ書きです。もう十五年ほども前のことです。参考になるかならぬか。蛇足として転載します。上の文章の中でたくさんの「弟妹」としましたが、ぼくの記憶違いで「下には七人の侍、いや弟たち」がいました。訂正です。

 ところで、清水かつらです。彼は深川で生まれ、四歳の時に生母は離縁されました。十二歳で継母が家に入り、商業学校を経て英語学校に入るのですが、そこを中退します。そして、大正五年、当時神田にあった出版社に勤めます。そこで鹿島鳴秋や山手樹一郎らと出会います。鳴秋は「浜千鳥」「金魚のひるね」の作詞家となります。山手は作家です。

 この時期、鈴木三重吉が「赤い鳥」(大正7年)を創刊します。いわゆる教育におけるロマン主義の時代でした。かつらは大正八年に「靴が鳴る」、九年には「叱られて」を、十一年には「雀の学校」を、作詞します。(これに曲をつけたのが高知県は安芸出身の弘田龍太郎でした。弘田は「「鯉のぼり」「浜千鳥」「春よ来い」など実にたくさんの童謡を作曲した人です。) 

 かつらが二十四歳の時に八男が生まれたのですが(一月)、その直後(三月)に父は死亡します。その年の九月には関東大震災が起こりました。家も財産もすべてを失います。そして継母の実家のあった埼玉県の新倉村に越し、さらにその後白子村(現、和光市白子)に転居し、亡くなるまでを当地で暮らしました。戦後にも活躍し、「みどりのそよ風」(昭和二十三年)を書きましたが、二十六年に五十三歳で亡くなりました。(「みどりのそよ風」の曲は草川信で、彼には、このほかに「夕焼小焼」「揺籠の歌」「どこかで春が」などがあります。)

 「雀の学校」の詩が作られたとき、かつらは二十四歳。彼の下には七人の弟たちがいました。父の死後、家計は彼の肩にのしかかり、弟たちにとっては「父親代わり」というよりは「父」そのものだったのではないかとおもわれます。かつらの作った詞・詩をよく読んでみます。くりかえし読んでみるのです。そこには観念的な子ども観は少しもみられない。「子どもは宝」だというのが清水かつらの信念であったといわれています。(2020/2/16)

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