「ユーモア(笑い)」の効用について

 チャーリー・チャップリンがこう言っている。「人生はクローズアップで見れば悲劇。ロングショットで見れば喜劇」であると。対象に近づきすぎるからそのおかしさが見えないという私たちの近視眼は、まぎれもなく深刻な現代病の一つです。私たちは日々の暮らしに汲々(きゅうきゅう)としすぎ、自分のしていることの滑稽さ、ばかばかしさに気づかず、そこから一歩身を引いて遠目にながめることを忘れているからです。

「私の父は飛行機に乗り遅れたら、つぎの飛行機に乗りました」と、全国演説家協会の創設者キャヴェット・ロバートは言った。「祖父は汽車に乗り遅れたら、つぎの日の汽車に乗りました。彼らの時代は乗り物に乗りそこなったくらいで万事が休したりしませんでした。汽車だって、飛行機だっていくらでもあるんです。けれども現代は、回転ドアに一度入りそこなっただけで、その日一日がおじゃんになってしまう」(アレン・クライン『笑いの治癒力』片山陽子訳、創元社刊。1997年)

 周知のことですが、チャップリンは、ロンドンの「貧民街」で育ち、アル中で父が亡くなったのは五歳の時、その後に母親も神経を病んでしまう。どうしようもないこの人生を、彼はロングショットで稀有の「喜劇」へと創造した。「喜劇王」になるだけの望遠レンズを彼は研磨し続けたといえるでしょう。チャップリンの目から見れば、ある面においてわたしたちの時代・社会の「学校教育」は子どもの成長にとっては相当に危機的な状況にあるといわなければならないようです。受験や進学が学校教育の最大関心事となり、点数化された偏差値や学力達成度に、今日(にかぎりませんが)、過剰な関心がもたれているからです。教師も親も、もちろん子どもまでも(近視眼鏡をかけて)、目先の利害や得失に一喜一憂している滑稽な図が見えてきます。(この笑うべき風潮に陥っているのは)世の中全体といっていいかもしれないのですが、どうやらその背景には「遠くを見る」という姿勢(目)を失ってしまっているからだ、とぼくには思われてならない。保証の限りでない「遠くの百万円」(ロングショット)なんかよりも、まず「目先の一万円」(クローズアップ)に大きな価値を見出すのです。(まずい例ですね)

 だれにとっても現実は現実です。でもその現実をどのようにとらえるか。チャップリンがいみじくも言うように、目の前の状況をクローズアップでとらえるのかロングショットでながめるのか。その二つの立場(見方)からはたいへんに大きなちがい(差)が生まれてきます。また、その結果においてもかなりの差が出てくるはずです。悲観主義は「気分」の問題であり、楽観主義は「意志(意欲)」の問題だと、ぼくはいつも考えてきました。あるいはそのように自分を励ましてきました。たとえば、雨がつづいたりするようなとき、物事(天気という自然現象に対してさえ)を悪く取れば、悲観的にもなります。「なんで雨ばかり降るんだよ、計画が台無しになるじゃないか」と。しかし、同じ状況(雨降り)にあっても、それを楽観的に受けとめる「久しぶりにいい雨だ」とでもいえる人がいたら、私たちもまた、その人の態度(姿勢)というか、判断・観察から学んでもいいのではないでしょうか。アランという高校教師で哲学者だった人は「雨の日に笑え」といいました。この列島にも「雨に文句を言うな」というのがありました。

 アメリカの「(自称)愉快学者(ジョリトロジスト)」であるクラインは妻の病と死に打ちのめされながらも、そこから「笑いとユーモア」の大切さをふかく学んだ。『笑いの治癒力』に、つぎのような内容の手紙(新聞に掲載されていたそうです)が紹介されています。この手紙を書いたのは、おそらく大学生、あるいは高校生ではないかと思われます。チャップリン級になれますね。

  お父さまお母さまへ 長いことお手紙を書かなくてごめんなさい。寮が全焼して便箋(びんせん)や封筒が全部燃えてしまったものですから。やっと退院したところですが、お医者さまによれば全快も間近とのこと。安心してください。それから火事で持ち物が全部焼けてしまったので、わたしを救助してくれた男の子のところへ居候(いそうろう)しています。/ そうそう、二人とも早く孫の顔が見たいとお思いでしょう。喜んでください。いまわたしのお腹には赤ちゃんがいて、もうすぐ生まれます。 メアリより

 娘からの手紙を読まされた両親の反応はどうだったか。ここで想像(想定)するのも面白いでしょう。自分が「親」だったり「娘」だったら、こういう状況でどう反応するのか、と。メアリは賢明な女性でした。親の混乱や怒り、あるいは心配を(ロングショットで)あらかじめ見とおして、彼女は一種のクッション(ユーモア・笑いの種まき)を用意したのです。それを踏まえ、彼女はいいづらいけれども、言わなければならないことをはっきりと言葉にします。えらいな。ブラボー!

  追伸 火事など起きていません。わたしは元気そのものです。もちろん妊娠もしていません。それどころかボーイフレンドもいません。/ ただフランス語でD、数学と化学でCを取ってしまいました。どうか長い目で見てやってください。それをお願いしたかっただけなのです。(クライン・同上)

 メアリはどこにでもいるでしょうか。あるいは稀有な存在なのでしょうか。人間というのは「窮すれば通ず」(「窮鼠 猫を噛む」とはちょっとちがうか)といいます。どこかから知恵(時には悪知恵もあるにはある)が出てくるのです。もちろん気持ちにゆとりや余裕(ぼくは「遊び」と呼ぶ)があってこその知恵です。いわば、車のハンドルに不可欠な「遊び」です。「遊び」のないハンドルはこわいですよ。危険ですね。それは人間も同じ。「マジで人を殺す」「まじめに戦争をする」なんて。

 クラインはいいます。「私たちの文化は左脳社会と呼ばれる。論理的、直線的にものごとを考えようとする。けれども問題に遊び心をもって取り組んでみると、いろんな選択肢が見えてくる。脳の右半分も使うようになるからだ。右脳は左脳より創造的な働きをするので、ものごとを論理的に考えようとするときには見えなかったものが見えてくるものだ」(同上)

 「遊び心」を忘れなければ、視野は広がり、選択肢が増えるというのです。私たちの社会も、クライン言うところの「左脳社会」でしょうか。どんなものごとに対しても、色々な見方ができる。あのようにも言えるし、このようにも言える。それなのに、「これしかない」という、せまい了見をふりかざすから、きっと社会はぎすぎすしたものになるし、人間関係も破綻をきたす羽目になります。もちろん、ぼくのように「遊びがありすぎる」のも考えものであり、困ったものですが。

 教育とはなにか。それは一人の人間にとっていかなる値打ちをもつのだろうか。この問いのようなものにも、いろいろな考え方がありうるでしょう。つまるところ、それは人間(精神)の自由の問題でもあるのです。人間が集まって住む社会(集団)には多様な形態がありえます。でも、どんな集団でも、構成員がそれぞれに、自分を表現しながら生き、なおかつ他者とていねいにまじわることができれば、それはじゅうぶんに住む(所属する)に値する社会・集団ではないでしょうか。民主主義(デモクラシー)が集団生活の原理となるという意味においてです。

 もし、今日の学校教育が個人の成長という価値をデモクラシーの原理に近づけ、あるいは重ね合わせてとらえようとするなら、それはそれで、ある一つの方向を目指さなければならないともいえます。「自分の足で立つ」、そして「自分の足で歩く」ということはデモクラシーからの要請です。くわえて、自分の利益だけを考えるのではなく、他者への思いを保ちながら、注意深く交わろうとする姿勢、そこにもデモクラシーがなりたつかどうかという点で、重要な鍵があるという想いがぼくにはつよい。もちろん、他者との交わりにもユーモアは不可欠です。「笑い」はぼくたちが思っている以上に私たちの精神や身体にいい影響、それも大きな力となるように与えてくれるのです。これはいろいろと証拠が挙げられてきました。「笑う門には服着たる」じゃなかった。「笑う門には福来る」といいますね。

 藪から棒のように「朝寝坊をする権利」があるなどといえば、たちまち非難が飛んできそうです。「今日はちょっと気分が重いから、学校休んじゃうね」と子ども。それに答えて、「ああいいね」というくらいの親なら、子どもも安心というか安全なんだけれど、「学校を休む子は悪い子だ」とか、それこそ超自我にそそのかされた正義感で子どもは攻められるのだから、たまったものじゃないと子どもは受けとる。この社会全体にもそのような風潮が根強いですね。せまい了見だ。

 再度、クラインです。彼は「ユーモア」がもつ効用について、つぎのような話を書いています。「看護学校の試験でずっとトップだった学生が突然落第点をとった。もしも君が卒業できなくなったらどんなことになるだろうね、とからかうと、彼女はわからないと答え、沈みこんでしまった。そこで私は楽しいシナリオをつくって先をつづけた。職業安定所で列に並んでいたら、そこへ億万長者がやってきて君をみつける、そして二人は恋に落ちる…。彼女はクスクス笑いだし、もうそのときには試験に失敗したくらい何でもない、たとえ卒業できなくたって世界が終わったりはしないという気持になっていた」(この部分には「ユーモア」があるとは思わないね、クラインさん)

 どうせ人生を送るなら、クローズアップではなくロングショットで、自分のレンズを曇らせずに遠くを見すえて生きたいものです。「遠くを見よ」というのは、「アンダンテで歩こう」というのといっしょになってぼくの生活の心棒(辛抱でもある)になっています。いわば、猫背にならないための、ものを遠くまで見通すための背筋の伸びをうながす背骨となっている。「上を向いて歩こう」として電柱にぶつかるのはいやだが、「遠くを見よ」うとすると、遠近のさまざまな人や物が見えてきます。ぼくは「悲劇」より「喜劇」がよほど好きです。「喜劇」の中には「悲しみ」も溢れています。その反対は?(「一人では泣けるけれど、一人では笑えない」といった少女がいます)仲間がいるから笑えるし、それで人は救われるのですね。(男のメアリ?)

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中