「ユーモア(笑い)」の効用について

 チャーリー・チャップリンがこう言っている。「人生はクローズアップで見れば悲劇。ロングショットで見れば喜劇」であると。対象に近づきすぎるからそのおかしさが見えないという私たちの近視眼は、まぎれもなく深刻な現代病の一つです。私たちは日々の暮らしに汲々(きゅうきゅう)としすぎ、自分のしていることの滑稽さ、ばかばかしさに気づかず、そこから一歩身を引いて遠目にながめることを忘れているからです。

「私の父は飛行機に乗り遅れたら、つぎの飛行機に乗りました」と、全国演説家協会の創設者キャヴェット・ロバートは言った。「祖父は汽車に乗り遅れたら、つぎの日の汽車に乗りました。彼らの時代は乗り物に乗りそこなったくらいで万事が休したりしませんでした。汽車だって、飛行機だっていくらでもあるんです。けれども現代は、回転ドアに一度入りそこなっただけで、その日一日がおじゃんになってしまう」(アレン・クライン『笑いの治癒力』片山陽子訳、創元社刊。1997年)

 周知のことですが、チャップリンは、ロンドンの「貧民街」で育ち、アル中で父が亡くなったのは五歳の時、その後に母親も神経を病んでしまう。どうしようもないこの人生を、彼はロングショットで稀有の「喜劇」へと創造した。「喜劇王」になるだけの望遠レンズを彼は研磨し続けたといえるでしょう。チャップリンの目から見れば、ある面においてわたしたちの時代・社会の「学校教育」は子どもの成長にとっては相当に危機的な状況にあるといわなければならないようです。受験や進学が学校教育の最大関心事となり、点数化された偏差値や学力達成度に、今日(にかぎりませんが)、過剰な関心がもたれているからです。教師も親も、もちろん子どもまでも(近視眼鏡をかけて)、目先の利害や得失に一喜一憂している滑稽な図が見えてきます。(この笑うべき風潮に陥っているのは)世の中全体といっていいかもしれないのですが、どうやらその背景には「遠くを見る」という姿勢(目)を失ってしまっているからだ、とぼくには思われてならない。保証の限りでない「遠くの百万円」(ロングショット)なんかよりも、まず「目先の一万円」(クローズアップ)に大きな価値を見出すのです。(まずい例ですね)

 だれにとっても現実は現実です。でもその現実をどのようにとらえるか。チャップリンがいみじくも言うように、目の前の状況をクローズアップでとらえるのかロングショットでながめるのか。その二つの立場(見方)からはたいへんに大きなちがい(差)が生まれてきます。また、その結果においてもかなりの差が出てくるはずです。悲観主義は「気分」の問題であり、楽観主義は「意志(意欲)」の問題だと、ぼくはいつも考えてきました。あるいはそのように自分を励ましてきました。たとえば、雨がつづいたりするようなとき、物事(天気という自然現象に対してさえ)を悪く取れば、悲観的にもなります。「なんで雨ばかり降るんだよ、計画が台無しになるじゃないか」と。しかし、同じ状況(雨降り)にあっても、それを楽観的に受けとめる「久しぶりにいい雨だ」とでもいえる人がいたら、私たちもまた、その人の態度(姿勢)というか、判断・観察から学んでもいいのではないでしょうか。アランという高校教師で哲学者だった人は「雨の日に笑え」といいました。この列島にも「雨に文句を言うな」というのがありました。

 アメリカの「(自称)愉快学者(ジョリトロジスト)」であるクラインは妻の病と死に打ちのめされながらも、そこから「笑いとユーモア」の大切さをふかく学んだ。『笑いの治癒力』に、つぎのような内容の手紙(新聞に掲載されていたそうです)が紹介されています。この手紙を書いたのは、おそらく大学生、あるいは高校生ではないかと思われます。チャップリン級になれますね。

  お父さまお母さまへ 長いことお手紙を書かなくてごめんなさい。寮が全焼して便箋(びんせん)や封筒が全部燃えてしまったものですから。やっと退院したところですが、お医者さまによれば全快も間近とのこと。安心してください。それから火事で持ち物が全部焼けてしまったので、わたしを救助してくれた男の子のところへ居候(いそうろう)しています。/ そうそう、二人とも早く孫の顔が見たいとお思いでしょう。喜んでください。いまわたしのお腹には赤ちゃんがいて、もうすぐ生まれます。 メアリより

 娘からの手紙を読まされた両親の反応はどうだったか。ここで想像(想定)するのも面白いでしょう。自分が「親」だったり「娘」だったら、こういう状況でどう反応するのか、と。メアリは賢明な女性でした。親の混乱や怒り、あるいは心配を(ロングショットで)あらかじめ見とおして、彼女は一種のクッション(ユーモア・笑いの種まき)を用意したのです。それを踏まえ、彼女はいいづらいけれども、言わなければならないことをはっきりと言葉にします。えらいな。ブラボー!

  追伸 火事など起きていません。わたしは元気そのものです。もちろん妊娠もしていません。それどころかボーイフレンドもいません。/ ただフランス語でD、数学と化学でCを取ってしまいました。どうか長い目で見てやってください。それをお願いしたかっただけなのです。(クライン・同上)

 メアリはどこにでもいるでしょうか。あるいは稀有な存在なのでしょうか。人間というのは「窮すれば通ず」(「窮鼠 猫を噛む」とはちょっとちがうか)といいます。どこかから知恵(時には悪知恵もあるにはある)が出てくるのです。もちろん気持ちにゆとりや余裕(ぼくは「遊び」と呼ぶ)があってこその知恵です。いわば、車のハンドルに不可欠な「遊び」です。「遊び」のないハンドルはこわいですよ。危険ですね。それは人間も同じ。「マジで人を殺す」「まじめに戦争をする」なんて。

 クラインはいいます。「私たちの文化は左脳社会と呼ばれる。論理的、直線的にものごとを考えようとする。けれども問題に遊び心をもって取り組んでみると、いろんな選択肢が見えてくる。脳の右半分も使うようになるからだ。右脳は左脳より創造的な働きをするので、ものごとを論理的に考えようとするときには見えなかったものが見えてくるものだ」(同上)

 「遊び心」を忘れなければ、視野は広がり、選択肢が増えるというのです。私たちの社会も、クライン言うところの「左脳社会」でしょうか。どんなものごとに対しても、色々な見方ができる。あのようにも言えるし、このようにも言える。それなのに、「これしかない」という、せまい了見をふりかざすから、きっと社会はぎすぎすしたものになるし、人間関係も破綻をきたす羽目になります。もちろん、ぼくのように「遊びがありすぎる」のも考えものであり、困ったものですが。

 教育とはなにか。それは一人の人間にとっていかなる値打ちをもつのだろうか。この問いのようなものにも、いろいろな考え方がありうるでしょう。つまるところ、それは人間(精神)の自由の問題でもあるのです。人間が集まって住む社会(集団)には多様な形態がありえます。でも、どんな集団でも、構成員がそれぞれに、自分を表現しながら生き、なおかつ他者とていねいにまじわることができれば、それはじゅうぶんに住む(所属する)に値する社会・集団ではないでしょうか。民主主義(デモクラシー)が集団生活の原理となるという意味においてです。

 もし、今日の学校教育が個人の成長という価値をデモクラシーの原理に近づけ、あるいは重ね合わせてとらえようとするなら、それはそれで、ある一つの方向を目指さなければならないともいえます。「自分の足で立つ」、そして「自分の足で歩く」ということはデモクラシーからの要請です。くわえて、自分の利益だけを考えるのではなく、他者への思いを保ちながら、注意深く交わろうとする姿勢、そこにもデモクラシーがなりたつかどうかという点で、重要な鍵があるという想いがぼくにはつよい。もちろん、他者との交わりにもユーモアは不可欠です。「笑い」はぼくたちが思っている以上に私たちの精神や身体にいい影響、それも大きな力となるように与えてくれるのです。これはいろいろと証拠が挙げられてきました。「笑う門には服着たる」じゃなかった。「笑う門には福来る」といいますね。

 藪から棒のように「朝寝坊をする権利」があるなどといえば、たちまち非難が飛んできそうです。「今日はちょっと気分が重いから、学校休んじゃうね」と子ども。それに答えて、「ああいいね」というくらいの親なら、子どもも安心というか安全なんだけれど、「学校を休む子は悪い子だ」とか、それこそ超自我にそそのかされた正義感で子どもは攻められるのだから、たまったものじゃないと子どもは受けとる。この社会全体にもそのような風潮が根強いですね。せまい了見だ。

 再度、クラインです。彼は「ユーモア」がもつ効用について、つぎのような話を書いています。「看護学校の試験でずっとトップだった学生が突然落第点をとった。もしも君が卒業できなくなったらどんなことになるだろうね、とからかうと、彼女はわからないと答え、沈みこんでしまった。そこで私は楽しいシナリオをつくって先をつづけた。職業安定所で列に並んでいたら、そこへ億万長者がやってきて君をみつける、そして二人は恋に落ちる…。彼女はクスクス笑いだし、もうそのときには試験に失敗したくらい何でもない、たとえ卒業できなくたって世界が終わったりはしないという気持になっていた」(この部分には「ユーモア」があるとは思わないね、クラインさん)

 どうせ人生を送るなら、クローズアップではなくロングショットで、自分のレンズを曇らせずに遠くを見すえて生きたいものです。「遠くを見よ」というのは、「アンダンテで歩こう」というのといっしょになってぼくの生活の心棒(辛抱でもある)になっています。いわば、猫背にならないための、ものを遠くまで見通すための背筋の伸びをうながす背骨となっている。「上を向いて歩こう」として電柱にぶつかるのはいやだが、「遠くを見よ」うとすると、遠近のさまざまな人や物が見えてきます。ぼくは「悲劇」より「喜劇」がよほど好きです。「喜劇」の中には「悲しみ」も溢れています。その反対は?(「一人では泣けるけれど、一人では笑えない」といった少女がいます)仲間がいるから笑えるし、それで人は救われるのですね。(男のメアリ?)

すずめの学校は家の中

 閑話はまだ終わりません。というか、悲しいかな、終わりが見えないのです。さて、「すずめの学校」です。そんな学校があったのか、あるのかしら。

 チイチイパッパ チイパッパ / 雀の学校の先生は / むちを振り振り チイパッパ

 生徒の雀は輪になって / お口をそろえて チイパッパ

 まだまだいけない チイパッパ / も一度一緒に チイパッパ / チイチイパッパ チイパッパ

 作曲は清水桂(かつら)さん(1898-1951)。東京深川生まれ。関東大震災後、埼玉県和光市に居住。作曲は弘田竜太郎氏(1892-1952)。『靴が鳴る』、『叱られて』などで知られる童謡作家。清水さんは幼少期に母親と生別。武家の家にはそぐわないという理由で離縁されたらしい。その後父は再婚。多くの弟や妹がいた。ぼくの記憶では九人で、桂さんは長男、一番下の弟(異母弟)とは相当に年が離れていた(一回りか)。ぼくの記憶をよみがえらせる部分(細胞)が毀損してしまった。資料を調べればいいのですが、曖昧な記憶に頼るのがぼくには快感です。(この馬鹿者!)(ずいぶん昔、日本の唱歌や童謡についてそれなりに調べたことがありました。まことに面白いというか、日本の学校教育の歴史の重要な部分(それも核心部分)を学校(文部省)唱歌が占めているのではないかと邪推したのですが、その通りでした。 

 「言葉が旗」になり、「歌が旗」になるといいます。ばらばらの集団を一つにまとめるために歌(号令や合図のようなもの)が欠かせなかった。明治初期に伴奏がないと軍人は「行進」できなかったとされます。だから。唱歌導入でその望みどおりになったようです。国歌・校歌・社歌?などを思い浮かべてください。この旗のもとに人々(駒)を集めたし集まったんですね。「欲しがりません、勝つまでは」「一億火の玉」(ああ、怖ー)いまでもありませんか。「六甲おろし」か?

 下らない事例です。二十年の昔になりますか、ある出版社の経営者(社長さん)に誘われて東京両国の国技館に相撲見物に出かけました。相撲にはあまり興味がなかったが、升席とやらに案内され、そこで卑しい根性丸出しで、相撲そっちのけの「酒盛り」を始めました。気づいたら、千秋楽(それすら知らなかった)の取り組みがすべて終わっていた。だれ?優勝したのは?多分貴乃花とかいう横綱でしたか。やがて場内アナウンスで「脱帽願います」「ご起立願います」「ご唱和を願います」とかなんとか。ぼくらは坐ったまま好きな酒(今は一滴も飲みません)の盃をかさねていた。しばらくしたら、いやな雰囲気ときつい視線を感じ、それと同時に「非国民」だか「国賊」だかという言葉で罵られた。驚いたね。「君が代」を歌わず酒を飲んでいるトンデモナイやからだというわけ。そのときぼくは「何言いやがる」と啖呵をきったどうかはどうでもいいこと。歌が旗になりますというほんの一例です。

 (学校教育と唱歌に関しては、もうすでにいろいろな方が書かれていますから詳細はそちらに譲ります。じつに面白いというか、信じられないエピソードに溢れているのですが。その時のぼくのメモはいまもあるはずです。今はやりの「改ざん」「墨ぬり」その他手段を尽くして、唱歌を悪用しました。「蛍の光」は領土拡張の伴奏、「汽車」には兵隊さんが乗車していた、栗の実煮てます囲炉裏端という「里の秋」家のお父さんは戦地で戦っている。その他もろもろです。「少国民諸君」と叱咤され激励された時代がありました。「それがどうした」と、いまならいわれそうですね。(「別にー」とでも言っておこうか)文書改ざん、成績偽造、証拠隠滅等々の破廉恥行為は「美しい国」の麗しき伝統・順風美俗でしたね。情けないというか、ああ無常、ああ無情だね。

 桂さんはそのような家庭環境にある長兄として、幼い兄弟姉妹の面倒を見たり、暮らしの足しになるような稼ぎを求められたのは当然でした。ほどなくして、神田だったかにあった雑誌の出版社に勤務。(後年、この会社は日本橋「丸善」で、こんにちは「丸善雄松堂」と看板がかかっています。二つの会社にはそれぞれにぼくはいささかの因縁がありますが、ここでは触れない。その一部になります。「丸善」の創業者だった早矢仕有的は「ハヤシライス」を作ったといわれる人。英国留学中の漱石と関係します。というか漱石のノイローゼを助けたとか。同時期に「味の素」創業の池田菊苗がいます。グルタミンの化学者。彼も漱石を救った人)

 清水さんの同僚には『浜千鳥』の作詞者の鹿島鳴秋氏や後年の作家山手樹一郎氏がおられた。そのかたわらで詩作に励み、雑誌の投稿していました。「すずめの学校」は1922(大正11)年が初出。作曲は弘田龍太郎氏。彼は「浜千鳥」の作曲も手がけました。高知出身。歌詞をよく見るとすずめの学校の先生は「むちを振り」、生徒のすずめは「お口をそろえて」「チイパッパ」とある。時代はどうだったか。祖国は日清・日露の両戦争に「勝鬨(かちどき)をあげ」いよいよさかんに他地域に乗り出そうと意気盛んな時期に当たっていた。それに歩調だか口調だかをあわせるがごとく、「すずめの学校」は帝国主義や軍国主義を謳歌したとされる向きもあるが、ぼくはそういう風にはとらない。すずめがねえ、といいたい。

 この時期はたしかに日本国家の拡張期、産業革命期に当たっていた。一等国とか二等国と内外にむけて喧しい雄叫びを列島民の多くが挙げていました。清水さんにはこの歌のほかに「靴が鳴る」(大正8年)、「叱られて」(大正9)、「緑のそよ風」(昭和23年)などがある。これはぼくのあて推量ですから、まちがっているかもしれない。彼は戦争応援や軍国主義の片棒だか先棒を担いだのではなかろう。担げ(が)なかったと思いたい。片棒・先棒を担いだり突き刺したりした著名人は五万といる。それで「文化勲章」に「輝いた人」はじつにおおくいます。そのための勲章だね。

 幼児期に生母と別れ、やがて継母に育てられるが、二人のつながりは強くはなかった。長兄として幼い弟妹の面倒(炊事・洗濯・掃除などなど)を見ざるを得なかった。お腹をすかした幼子たちに食事をあてがうことは日常であったと思います。生母への思慕はかぎりなく深かったと思う。

 自らが先生役になって、「チイチイパッパ チイパッパ」と声を上げて、なだめたりすかしたりしたのではなかったか。この掛け声は「父(ちーち)・母(はーは)」だったとどなたかが言われていましたが、ぼくは賛成します。どこだったか、かなり昔の記憶だからはずれているか、あるいはもうやめているかもしれませんが、東武東上線の「和光」駅(と思う)には「叱られて」のメロディが流れていたような気がします。(後で確認します)この曲も彼の生い立ちから生まれた、まあ「自伝」だと考えていい。彼自身の生活記録が「歌詞」の原型になったとぼくはみています。なつかしい、心がなごむ、けどどこか物悲しい、そんな雰囲気をいつも清水さんの曲から受けます。

 とすると、「すずめの学校」はめだかとちがっていたのかなという疑問がわいてきます。それは軍事教練や戦争を連想させる歌だったというが、そうではなさそうです。これは人それぞれの感受性の問題でしょうから、ぼくはこのように感じた(い)というだけでいいと思う。ところで、このところすずめが少なくなったという声が聞こえてきます。まさか絶滅危惧種になってはいないと思うが、どん欲な人間のことだから、すずめの行く末が心配です。(たかがすずめだし、童謡だよ。難しく考えるな、と「叱られて」しまいそう)これも相当に昔の話です。友人に誘われ、台東区の上野(恩賜=天皇陛下からいただいたという意味。)公園内にある「スズメや」だったか、すずめの焼き鳥を出す店に行ったことがあります。少しは食べようとした気がしますが、あまり気が乗らなかった。舌切り雀を連想したのかどうか。今はないかも?

 清水さんは18歳で職に就き、親がわりになって、弟妹の世話に明け暮れ、家計を盛り立てた。そのうえで、詩作し、歌を作り自らの成長(宿願)をも果たそうとした。あえて言いたいのは、この時期、つまり日露戦争直後の時代、清水さんは幼児から小中学校生(今でいえば)までの家族の面倒を見ながら、社会に出ていたのです。(当時は尋常小学校、高等小学校と称されていました)国民の大半は尋常小学校卒(形式卒が多かった)でした。だから、清水桂先生は幼い弟妹のために「ホームスクール」を営んでいた、その家庭学校の主題曲が「すずめの学校」だったというわけです。

 このような「ホームスクール」はこの列島に限らず、人間の集団が存在しているところでは、あらゆる時代、あらゆる場所であたりまえに営まれていたにちがいない。家族のつながりは今日の時代に生きる私たちの想像をはるかにこえて強いものだったと考えていいでしょう。比較するのも変ですが、ホルトたちよりよほど早い時代に、「家庭教育」(home school)は機能していた。子育てこそは、親や家族の絶好の教育機会だった。学校に「子どもの教育」を任せきりにしたのは、はっきりした時代背景や営業目的があったと思われます。学校に子どもたちを預けるには明確な理由がありました。家庭や親の側のというより、「日本という新興国家」の側に、でした。

 清水かつらさんは敗戦後の1951年、わずか53歳で永眠されました。とても酒好きな方で、「飲めないなら、生きていても…」と言っていたそうです。お墓は文京区本駒込の吉祥寺。その昔、学生時代に本郷にしばらくいましたので、散歩の折に彼のお墓に数回お参り?したことがあります。清水さんはぼくにはいかにも懐かしい人です。おだやかで静かな人だったように、ぼくには思われます。(根拠はありませんが)「ちち はは」がぼくの記憶の中でいつまでも共鳴しているようです。(「すずめの学校」の項はここまで。さて、ようやく閑話休題となりますか)

 追加 以下の文章はあるところで話した際のメモ書きです。もう十五年ほども前のことです。参考になるかならぬか。蛇足として転載します。上の文章の中でたくさんの「弟妹」としましたが、ぼくの記憶違いで「下には七人の侍、いや弟たち」がいました。訂正です。

 ところで、清水かつらです。彼は深川で生まれ、四歳の時に生母は離縁されました。十二歳で継母が家に入り、商業学校を経て英語学校に入るのですが、そこを中退します。そして、大正五年、当時神田にあった出版社に勤めます。そこで鹿島鳴秋や山手樹一郎らと出会います。鳴秋は「浜千鳥」「金魚のひるね」の作詞家となります。山手は作家です。

 この時期、鈴木三重吉が「赤い鳥」(大正7年)を創刊します。いわゆる教育におけるロマン主義の時代でした。かつらは大正八年に「靴が鳴る」、九年には「叱られて」を、十一年には「雀の学校」を、作詞します。(これに曲をつけたのが高知県は安芸出身の弘田龍太郎でした。弘田は「「鯉のぼり」「浜千鳥」「春よ来い」など実にたくさんの童謡を作曲した人です。) 

 かつらが二十四歳の時に八男が生まれたのですが(一月)、その直後(三月)に父は死亡します。その年の九月には関東大震災が起こりました。家も財産もすべてを失います。そして継母の実家のあった埼玉県の新倉村に越し、さらにその後白子村(現、和光市白子)に転居し、亡くなるまでを当地で暮らしました。戦後にも活躍し、「みどりのそよ風」(昭和二十三年)を書きましたが、二十六年に五十三歳で亡くなりました。(「みどりのそよ風」の曲は草川信で、彼には、このほかに「夕焼小焼」「揺籠の歌」「どこかで春が」などがあります。)

 「雀の学校」の詩が作られたとき、かつらは二十四歳。彼の下には七人の弟たちがいました。父の死後、家計は彼の肩にのしかかり、弟たちにとっては「父親代わり」というよりは「父」そのものだったのではないかとおもわれます。かつらの作った詞・詩をよく読んでみます。くりかえし読んでみるのです。そこには観念的な子ども観は少しもみられない。「子どもは宝」だというのが清水かつらの信念であったといわれています。(2020/2/16)

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野生と理性について

 「私たちは自分で思っているほど、いつも合理的ではないのではないか?その証拠に事前に結果を見通すよりも、ことが起こったあとに言い訳をするほうがみんな得意なようだ。私たちが知的な生き物であることは疑いようもないが、同時に思考や行動にバイアスをかける強力な傾向や感情を持って生まれたことも事実である」(フランス・ド・ヴァール『利己的なサル、他人を思いやるサル』西田・藤井訳、草思社、1998年)(ヘッダー写真「家族を失ったシーザーの運命は? – (C) 2017 Twentieth Century Fox Film Corporation」:https://www.cinematoday.jp/news/N0093432

 ヴァール(1948年生まれ)さんは生物学・動物行動学者です。じつにたくさんの著書があります。どれもこれも、ぼくにはまことに面白く読めました。「類人猿」などと気安くいいますが、なかなか一筋縄ではいきません。彼の本に引き寄せて言えば、我らは「類猿人」ではないかとさえ思えてきます。思えてくるというより、猿が先行しなければ、人は今とはちがっていたはずですから。氏はオランダの生まれ。現在はアメリカ在住。何か一冊、手に取られると、つまりは読むといいですね。抱腹かつ絶倒ものだし、少しは賢くなったという自覚が芽生えました、ぼくには。つまり猿を超えようというのは不届きだという戒めであり、人間の分際ということをよくよく見極めろという教えでありました。引用書の副題は「モラルはなぜ生まれたか」です。仲間を大切に、それが自分を尊重することにつながりそうです。そんな肝心なことをチンパンジーさんから教えられた。


 チンパンジーはいじめられた者をやさしくなでて、「慰め」る。人間も泣いている子を抱きあげてあやしたりします。だから両者は同類だと言えないにしても、根っ子には同じような部分があると考えた方がいいのではないか。つまり人間の脳は進化の産物だという意味です。人間の地位をあまりにも過大評価しないように注意したい。進化の逆方向が退化であり、それがあまりにも目立つ時代や社会の状況ではないでしょうか。ほんとに猿類から「進化」したのでしょうか。

 道徳とはちょっとした不注意から、ご当人も、(巻き込まれた)他人も「不幸」にならないためのプログラム。国家や民族などというご大層な概念とはあまり関係なさそうです。つまりは社会(集団という仕組み)で生きる個々人の問題だと思うのです。「不幸」というのは、あわてて階段を駆け下りて転んで骨折する。かっとなって他人を傷つける。油断していて信号を見落とす。その結果、深く後悔するといったような、「不注意」から生じる不都合(=不幸)のことです。こんな不幸ならなんとか防げそうじゃないですか。ここに「道徳の問題」があるのだとぼくは考えています。自分の不幸を願う人はいないのですから、不注意によってまちがってしまう(あわてて、よく考えないで、怒りに狂ってなど)状況に陥らないために自分を救い出す方法であり、不注意による過ちから解放され(自由になり)、幸福であろうとする、そんな方法を考えるのが道徳教育、そのようにぼくは経験からも学んできました。 ”Pay Attention!” 「よく注意しよう!」「注意深くあれ!」「注意一秒、怪我一生」という「標語」はいいものだけれど、表現以上の深い内容があることに公安委員会は気づいているのかどうか。

 「アメリカ人のドーン・プリンス=ヒューズは、だれかと結びつきたいと切実に願っていた。自閉症の一種であるアスペルガー症候群の彼女は、まわりの人とうまくつきあうことができないのだ。ところが動物園のゴリラを世話するようになって、彼女ははじめて心の平安を得ることができた。いや、世話をしていたのはゴ リラのほうかもしれない。プリンス=ヒューズの本を読むと、周囲の人にまっすぐ目を見られたり、単刀直入な質問にすぐに答えを求められたりすることが、彼女の神経をさかなでしていたことがわかる」

 「それに引きかえゴリラは、彼女を追いつめないし、視線を合わせない。その平静沈着な様子に、こちらの気持ちも慰 められる。何よりも彼らは忍耐づよかった。ゴリラは、正面から顔を合わせるような接触をめったにしない。類人猿はみんなそうだが、目に白目の部分がない。だから白目の多い人間の目で見られると、落ち着かない気持ちになる。人間の目は、伝えたいことを大きく増幅してくれるが、同時に黒目しかない類人猿のよう な微妙なコミュニケーションには向かない。だいたい類人猿は、ちらりと視線を走らせるだけで、私たちのようにじっと見つめたりしない。また周辺視野がとても広く、視界の隅にちらりと入っただけでもちゃんと見えている。これは慣れるまでたいへんだ。チンパンジーやボノボが見すごしたと思っていたら、そうではなかったことが幾度もあった。彼らは何ひとつ見逃さない。」(ヴァール『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』藤井留美訳、早川書房、2005)


 類人猿がなかまをとても大事にすること、そして毛むくじゃらの彼や彼女らに人間が深い親近感をいだいていることを、身をもって私たちに教えてくれたのが人間関係をうまく結べない「自閉症患者」であったとは、いかにも考えさせられる話だと、ヴァールさんはいいます。チンパンジーやゴリラなどの類人猿が仲間を大事にして助け合うというのは本来の性質で、いわばそれは「野性」です。しかし、だれでもそれがわかるとはかぎらないのです。ここで使われる「野生」という言葉をじゅうぶんに把握したい。野生が動物本来の性質なら、人間の本来の性質はなんですか。「そうでない者は話される言葉にとらわれすぎて、態度や身ぶり、表情、声の抑揚など言葉以外の手がかりを十分に理解できない。身体が発するさまざまなシグナルがないと、私たちのコミュニケーションは感情的な内容が抜けおち、無味乾燥な情報しか伝わらなくなる」(同上)

 動物性を脱ぎすててどこに行くのか 人間も進化の過程で群れて生きることを学んできたはずです。だから仲間はずれに対する恐怖心はとても強いのでしょう。動物学では「必然的群居性」がある動物だと人間を規定しているほどです。つまりわたしたちは「骨の髄まで社会(集団)的な生き物」だとされる。ひとりでは生きてはいけない、ということをどう考えるか。人間は動物である部分(野性)を洗練させただけ、動物的ではなくなってしまったと思いこみ、人間性に必要な根幹の部分(他者に対するやさしさとか、「白目」の部分ではなく、「黒目」の部分とか)をそぎ落としてしまったにちがいない。ある地点で動物の分際を超えた瞬間(パンドラの箱を開けたとき)に人間はあらたな難問や難題をかかえこんでしまったのです。「考え足りないし、考えすぎる動物」中途半端な動物だともいえそうです。(もちろん動物の部分は確実に残っている。いやそれを含んで「人間」であるというのです)

 ヴァールさんはおもしろい譬えをつかっています。二十年も乗っていたダッジ(車名・1914年創業のアメリカ自動車会社のブランド。いまでは社名は消えて、合従連衡の痕を残している)は全体重をかけてブレーキを踏まないと完全に止まってはくれなかった。そう、自動車でもっとも重要なのはエンジンなんかではないということを教わったというのです。今日ではアクセルとブレーキを踏みまちがえる事故によってあちらこちらで大きな不幸を生みだしています。アクセルよりもブレーキ、それが大事ですね。アクセルはいらないかも。ぼくは時速「10キロ」以上は出せない自動車をほしいとずっと願っています。コンビニエントじゃありませんが、不便だからこそ、猿知恵ならぬ人間知性が鍛えられるのではないですか。人間の歩く速さも「時速3キロ」くらいがちょうどいいじゃん。3キロ同士で衝突して、どうなりますか。

 レストランの予約時間に遅れそうだからと時速百キロ近くで走行して人を死に至らしめるという事故を、どういえばいいのか。やたらに高速で走る車に乗った「猿」ならぬ「人間動物」とでもいいますか。仮に事故を起こさなかったとして、なんとか食事にありつけて、それで満足なのかね。考えが足りない(大きな不注意から)から起こった不幸で、とりかえしがつかないでしょう。車ならぬ人間にもアクセルだけしかないような人が電車や人ごみの中にいそうで、こちらが注意していても避けられない不幸というものがあるのです。じつに理不尽極まることがらです。

 「自然界においては、自動車のブレーキと同じくらい重要なのが、行きすぎを正し、つりあいを保とうとする抑制均衡の働きだ。すべてのことは統制され、制御されていなければならない。(中略)/ 抑制均衡の原則は、社会のなかでの傾向にも当てはまる。競争か協力か、利己的か利他的か、闘争か調和か。すべて最適な条件のもとにバランスがとれている。利己的になることは避けられないし、必要なことだが、それにも限度がある。人間には二つの顔がある…。私たち人間は、相反するさまざまな力の産物だ。自分の利益だけを追求したいし、ほかの人ともうまくやりたい。私は後者について多く語っているかもしれないが、それは従来の考え が前者に偏りすぎていたからだ。ほんとうは両方が密接にからみあって、生存を支えている。けんかのあとの和解など、平和を積極的に保つ能力が発達したのは、摩擦があったからこそだ。二極化した世界では、どんな能力もその正反対をほのめかしている」(同上)

 しばしば「教育の祖型」とでもいうべき関係を「教える」「教えられる」の関係であるという。たいていの学校は「教え、教えられる場所」(教場・教室)になっています。家庭においてもしかりです。(なぜ勉強部屋を持ちたがるのか不思議やな、と少年のぼくは思っていました。さいわいに家が狭隘だったので、外遊びに没頭し、「勉強」を強制される災難を免れました。しかるに、この子ども時代の悪習慣が根強く残って、学校を終えてからも相当に長く「外遊び」が止むことはありませんでした。それが収まったのはほんのここ数年のことです。でも、いまは室内遊びに夢中?でもありませんが、ご覧のような駄文を書きなぐって遊んでいます)いったいなにをそんなに「教える」のかと疑問に思ったことがありませんか。親や教師は親切心から(でない人も、ときにはいますが)子どもや生徒たちにいろいろと「教える」、「教えすぎる」けれども、どのような目的をもって「教える」のか。子どものため、生徒のために「教える」のだとおおよその見当はつきますが、はたして「教えられる」ものの中身はなにか。危険に遭遇して自分でブレーキを踏めるかどうか。そこに学校や教育問題の核心があります。

 「お手」や「お座り」と飼い主は犬に教えているつもりで、その通りにできれば満足で、そうでなければ満足しないとなれば、人は自己満足を求めて「教えている」ことにならないか。ベストを着たり、パンツをはいたりしたいと言い出したのは、犬?猫? やがては犬・猫の専用「ユニクロ」が誕生するかも。知らぬはお前だけ、すでに出店は加速中かもわかりません。最近は犬・猫はおろか、オウムやインコまで、相当にスパルタを受けていると、吾輩は心配になります。たぶん、すべてとはいわないが、多くの学校でやられているのは、犬に上着を着せたり、猫にダンスを踊らせたりするような「野生(本姓といっていい)」を無視した蛮行教育じゃないかと心配になるときがあります。人間の子ども教育の実際は、あるいは犬・猫に「小判」「お経」の類かもしれない。豚に真珠、馬の耳に念仏。つまるところは「蛇足」「無用の長物」だと思いたくなります。バカになるのもカシコクなるのも自分次第。大人はやたらに手出しして、それ(子どもの自分次第)を邪魔しないこと、そのブレーキが踏めますか。(「申(さる)年」生まれの類猿人?の願いでした)

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めだかの学校とすずめの学校

 さて、めだかの学校です。前回から時間がたちすぎたので「めだかの学校は」春休みになったかもしれません。あるいは人間どもの行儀の悪い振る舞いで「廃校」の憂き目を見たかもしれません。おそるおそる覗いてみましょう「そっと覗いて、みてごらん」

一 めだかの学校は 川のなか そっとのぞいて みてごらん/そっとのぞいて みてごらん みんなでおゆうぎ しているよ

二 めだかの学校の めだかたち だれが生徒か 先生か/だれが生徒か 先生か みんなでげんきに あそんでる

三 めだかの学校は うれしそう 水にながれて つーいつい/水にながれて つーいつい みんながそろって つーいつい

 この三つの歌詞に共通しているのは「みんな…」という部分。「みんなでしているよ」「みんなであそんでる」「みんながそろってつーいつい」茶木さんはこれをどのようにとらえたか。それはぼくにはわからない。しかしめだかは「だれかを仲間外れにしないで」「みんなでなかよく」、なんでもいっしょにやるのがいいなあ、とめだかたちの学校の長所をそこにもとめたのでしょう。めだかの学校にも授業時間はあり、休み時間もあれば掃除や給食の時間もあるでしょう。「なんでもみんなで」というのはいいけれど、では、個別・個体としてどう動くのか、どう育つのか、そこに問題がありそうです。(「なにをいうか。たかがめだかじゃないか、童謡じゃないか」)

 これを全体主義などというのではないし、だからいけないというのでもありません。あるいはめだかの習性からくるのかどうか。ぼくみたいに一人(勝手)主義をとるのではない。個人主義と全体主義などといえば面倒な話になるが、群れから離れて「個人(個めだか)性」を死守しようという習い性がないというわけでしょう。個体や個性を認めない(認める必要がない)のが、めだか社会か国家の掟なのかもしれない。まさに「全体の一部としての存在」の形式だともいえよう。

 ここに「めだかの学校」と名付けられたのは先に触れた、敗戦直後(1946年)に茶木さん親子が生活物資の買い出しに出かけた途次に、小田原郊外(荻窪)の小川で長男が「めだか」を見つけた。茶木さんがそばによるとメダカは隠れてしまった。「いないじゃないか」「待ってれば出てくるよ、ここはめだかの学校だから」というエピソードがあったのです。この出来事を下敷きに茶木さんは後日(「みなさまの協会」から作詞の依頼があったので。当時、茶木さんは詩を書いておられました)上掲の詩(歌詞)を作り、それに中田喜直さんが曲をつけて、童謡『めだかの学校』が誕生したという顛末でした。(中田さんが原詩を少し手直しして、歌いやすくしたという)

 めだかの習性とはどんなものか。詳細は専門家にゆだねて、当方の貧しい飼育体験から推測してみます。①まず、集団行動が目立つという点。茶木さんの歌詞にある通り。②仲間意識が強い。反対に他種に対しては親和的(親切)ではないともいえる。③姿かたちに似合わず「獰猛」というか、仲間同士で食い合いをする。また、先に生まれたものが針子(稚魚)を食べることもある。(苛烈な生存競争だと人間の安易なヒューマニズム・人間中心主義には映るのです)その他…。育児ならぬ育魚に手を抜いているのは事実ですが、ぼくのところのめだかは増えて困るということが一度もありません。産児制限ならぬ、自然調整で個体数の増加を抑制しているともいえます。したがって、卵は成魚から隔離する必要があるとさえいわれています。ほかにいろいろとありそうですが、いまはめだかは冬眠中につき、直接に聞きとりができないので、詳細はすべて省く。

 めだかの学校はリーダーがいなくても統率がとれて、「みんなで」なにかをしてしまう。「だれが生徒か 先生か」というのは言葉の綾であり彩でもあるのですね。ここだけとれば、いいなあ、楽しそうだなと思いたくなるほどに、「人間の学校」は上下関係や役割分担がはっきりしすぎて、ゆとりも遊びもないと考える人々がいるという証拠でしょう。めだかの学校でもっともいいとぼくに思われるのは、まずは算数や国語などの(ぼくにとって)いやな教科がないらしいという点です。「成績の差」を表そうにも、材料がないからできません。それだけでも最高だ。

 もっといえば、宿題(ホームワーク)はない。ぼくが若い時に強烈な影響・薫陶を受けたある校長は「怠け者の教師ほど宿題を出す・出したがる」といわれた。(その通り!)おそらく教室では自信がなかったんだね。とするなら、「怠け者の親ほど宿題を出してもらいたがる」(これまた、その通り!)ということでしょう。この怠け者同士で「日本の学校」はとりしきられてきた。今でも、です。さらに、中間・期末試験ももちろんなさそうです。成績の序列化はめだか諸君には似合わない。ひょっとしたら全寮制かも。あるいは男女平等、まさか。労働もなさそうだとすると、めだかの一生はどういうことになるのかしら。生きることが働くことと同義だといえないでしょうか。たかだか一年ばかりの人(魚)生なのだから、それくらいの恩典があっていいのではないですか。先生も生徒もいない学校だってあるのです。教える人も教えられる人もいない。みんなが生得・自得しているからです。じゃ、人間の学校は?人間が生きるのは?

 めだかの学校という命名が問題だったのかもしれません。あまりにも人間の「学校」に比べすぎていたという点です。それだけ人間の「学校」は「堅苦しい」「管理がきつい」「規則ずくめ」といったところを茶木さんや息子さんが現実に経験しており、それに比べて、「めだかの学校は」のどかで、楽しそうで仲良しでいいなあということだったかもしれません。今も昔も、この島国の「学校」は四角四面が過ぎるというわけです。「四角四面は豆腐屋の娘 色は白いが水臭い(後略)」と啖呵を切ったのは車寅次郎さん。この項はそれだけの話です。なんだつまらない。まあ余得といえば、学校のイメージの再発見だったともいえます。

 (「雑談(ぞうだん)」に関しては江戸時代中頃の『滑稽雑談』があります。俳句の歳時記、作者はお坊さんでした。なかなか優れたものらしい。所持しているが、未読です。元来は特定の話題を扱うのを「ぞうだん・ぞうたん」と称したらしい。明治以降でもぞうだん話は、露伴を筆頭にいくらでもあります。ぼくは露伴が大好き。文さんや玉さんはそれほどでもない。(「それは君の勝手でしょ」)いやいや、いかにも道草が過ぎる。とっくに「めだかは逃げ出した」ぞ。いくら草が好きでも、予定が立たないし先に進めなくなるので、この項はいずれ機会を設けて。

 (ぼくにはたくさんの悪癖・悪弊がありますが、「雑談(ざつだん・じょうだん)」が過ぎるというのでもっとも強く非難されます。話の本筋お構いなしに、脇道にそれてどこまでもひたすら、というのです。いってみれば、「まくら・枕」(前置き)だけで数十分かかる、あるいはそれだけで、草だけではなく時間も食ってしまうという悪癖ぶりで、自分でもホトホト困っています。話題が行方知れずになるような話しぶりは、志ん生(五代目)さんからの影響が強いかもしれない、と他人のせいにするのはよろしくない。それにしても、数十年も彼の「落語」を飽きもせずに聴いています。枕に頭をのせて。目をつむりながら。早い話が寝ながらです )(つづく)

私は立たない 坐っています

 もともと「教育」という行いは文化そのものだったといいたいのです。土地に根ざして営まれていたという意味です。それぞれの作物にふさわしい土壌があるように、その土地に根ざした「教えと学び」のスタイルがあった。にもかかわらず<教える>に特化してきたのが日本の近代学校教育でした。国是・国策としての「近代化」はひとえに教育、それも学校教育に頼りきりにならなければ進められなかったと信じられたからです。

 国家が創設した大学は、遅ればせの「近代化」をなしとげるエンジンの役割を押しつけられました。そこで教授されたのは、いうまでもなく西欧の文物、つまりは「新知識」だった。大学以下の教育体制が「近代化路線」に強引に参入させられたのは当然でした。すべての諸学校では中央から持ちこまれた教育内容をひたすら生徒や学生たちの脳髄にたたき込んだのです。それがいまなおつづいて、学校教育の「習い性」となったのでした。その結果、獲得された成果は「国民国家」という箱船に同乗した身内意識でありましたが、失われたものはその土地に独特の地味であり、風情というものでした。これは土地だけのことではなかったのは無論です。ひとりひとりの存在が独特の土壌だったからです。

 本日は立春の2日前。明治の初期に太陽暦に変えられる(明治五年十一月に改暦布告)以前、「立春」は旧暦正月、一年の初めでした。世間は「新春」を寿ぐ習いであったのです。新暦の今日では「入試の春」であり、「別れの春」「いまこそ、別れめ、いざさらば」と「泣いて喜ぶ日」だった人もいるでしょう。「もうあの嫌な教師に会わなくていい」「嫌いなやつとの別れはいいね」と。早い学校では「卒業式」なる行事が開かれるでしょう。今では「卒業証書授与式」というところも多いようです。どこが違うのですか。「(卒業)式」と「(卒業)証書授与式」では字数に多少があるし、それがもたらす印象や雰囲気も異なりそうですが。この「授与」という表現が曲者でしょう。誰が授与するのですか。ここにも長い歴史があります。いずれの御時にか、それに関しては触れざるを得ませんが、いまはスルーします。だれのための「式」かと問えば、「いうまでもない」という答が返ってきそうです。いつの時代でしたか、どこかの学校で式に参加しなければ卒業証書(だか入学証書』を発行しないと強弁した校長がいました。今でもいるのですか。「そんなものいらないよ」といえ!(ないか)。

 ぼくは「式」はなんであれ、好きじゃないというより「嫌い」でしたし、いまも、行きたくないですね、いかなる式でも。つい最近「結婚式」のお誘いをいただきましたが、無礼ながらお断りしました。まず参加したことがありません。義理を欠くことにおいて、ぼくはあるいは、褒められませんが、人後に落ちないと自認しています。なぜ嫌いなのか、理由はありますが、要するにだれのための「式」なのか疑問に思うばかりというのが一つの理由といえば理由。ある種の「無理強い」が性に合わないんですね。ここに、邪念いっぱいのわが心にもよみがえる一つの詩があります。

 鄙(ひな)ぶりの唄                                  

 それぞれの土から/陽炎(かげろう)のように/ふっと匂い立った旋律がある/愛されてひとびとに/永くうたいつがれてきた民謡がある

 なぜ国歌など/ものものしくうたう必要がありましょう/おおかたは侵略の血でよごれ/腹黒の過去を隠しもちながら/口を拭って起立して/直立不動でうたわなければならないか/聞かなければならないか

 私はは立たない 坐っています    (茨木のり子『倚りかからず』所収・筑摩書房、1999)

 鄙(ひな)というのは「都から離れた土地。田舎」、つまりは自然状態に近い土地・在所という意味。もちろん、人が住んでいる。人がいなければ「文化」は不要です。「それぞれの土」とは、ひとりひとりの分ということ。それぞれが自分の唄(言葉・思想)をもっている、自分に似合った唄をうたいたいというのは一つの態度であり、生きる姿勢(方法)です。自分の言葉で自分の感情を表現し、自らの唄を口ずさむ。それが生きるエネルギー。存在の根拠地。それこそ「文化」というものでした。時代はすっかり「文明」の時代に。人間が文化を生むけれども、文化が人を生み育てるのです。(茨木のり子さんは20歳の時が戦争のさなか。女学校時代には全校生徒の代表で軍事訓練の指揮をとったという。「かしらあー、右」とかなんとか。その自分の無残な「過ち」が許せなくて、この詩のような境地に至った。それに費やした時間は戦後の相当に長い時間だった)

 「私は立たない 坐っています」といえば、そんな不敬・不遜な態度は(公の名において)認めない、「お前だけを坐らせておくわけにはいかない」と、生徒も教師も「ものものしくうたう」ことを強いられる。滑稽かつ愚弄かつ唾棄すべき風潮ですね。頽廃のきわみだと腹の底から思う。こんな風潮がいたるところで何年も続きました。今日ではどうなんでしょう。いろんな「君が代」があっていいと思う。なくてもいい。卒業式にうたう唄はいろいろとあっていい。「式」は誰のものだろうかという思いは募るばかりです。

 「君が代を千年以上も前の詠み人知らずの歌として認め、明治以前の千年のあいだ、べつのさまざまの抑揚でうたいつがれてのこっためずらしい歌と感じる道は、どうして今もとざされているのか。別の調子でこの歌をうたうことに、学校はどうして罰をあたえるのか」(鶴見)(鶴見俊輔・網野善彦対談『歴史の話』朝日新聞社、1994年)

 こんな堅苦しい雰囲気に満ちた風土のなかから、伸びやかで心豊かな青春を育むことができるはずがない。学校教育で生み出される「生きる力」などとは、悪い冗談だと思う。それはまた別種の「生きる力」なのだろう。「鳥かご」や「犬小屋」に閉じこめて、鳥や犬に「さあ、ここで生きる力をつけるのだ」といってみて、さてそれはどんな力なんだろう。人間の好みに飼い馴らされる力ですか。実にグロテスクだというほかない。人間と同様に、「学校」もまた氏より育ちなんだ。「学校」を変える(教育する)のは至難の業であります。不可能ではないけど。(馬耳)

捕まったが最後…

 天候の悪い日は室内で野放図に時間を無駄使いしている。you tube 濫視もその一つ。つい最近は『日本の黒い夏―冤罪』(日活・熊井啓監督。公開は01年3月)を見た。映画化のもとになったのは長野県松本市で94年6月に発生した「松本サリン事件」。これを題材にした県立松本美須々ケ丘高校放送部制作「テレビは何を伝えたか」に描かれた事件をめぐるマスコミの報道姿勢とその妥当性に対する深い疑念が映画化の動機になったとされます。

 住宅街での「毒ガス発生」直後に、発生現場近くの住人が警察に通報。後に家宅捜索を受け猛毒の「青酸カリ」が押収されたこともあり、この第一通報者(河野義行さん)は警察やマスコミによって「真犯人」に仕立てられる。妻は有毒ガスを吸引して意識不明の重体に(発生から14年後に亡くなられました)。(余談ですが、彼女の父はぼくの高校時代の「地学」担当教師だった)

 いかにして心ない組織や個人の共同作業(共同正犯)で「冤罪」が作られていくか、それが主題。作品の評価は、いまはしない。いつでもどこにでも「冤罪」の種は尽きないという、やり場のない憤懣を、改めてこらえきれないでいるというほかありません。

 この映画製作とほぼ同時期に以下のような「冤罪」事件とそれにかかわる、奇妙奇天烈な裁判(判決)が行われていました。同じような事例は劣島のあちらこちらでも。題して「捕まったが最後…」 

 99年1月、愛媛県宇和島市の女性が自宅から通帳と印鑑が盗まれているのに気づき、50万円が引き出されていたことが判明。県警宇和島署は翌2月、防犯ビデオに映った現金を引き出す男に「似ている」という証言から、男性を任意同行して逮捕した。男性は窃盗罪などで起訴されたが、結審後の00年1月、高知県警が別の事件で逮捕した男が盗みを自供。同年2月、男性は約1年ぶりに釈放された。検察側は同年4月、無罪論告をして法廷で男性に謝罪。愛媛県警も会見して謝罪した。翌月、松山地裁宇和島支部で無罪判決が出て確定した。(毎日新聞・2006/1/13)

 「無罪」でよかった、と「もろ手を挙げてバンザイ」じゃありません。盗りもしないのに逮捕され、あろうことか有罪判決。それも、一年以上も拘置されていたのです。警察・検察の罠にかけられた男性が起こした賠償請求訴訟の判決が06年1月18日に松山地裁でありました。裁判長は「供述の強要や誘導などはなく、捜査に違法性はなかった」と、男性の請求を棄却した。無理無体に「犯人」に仕立てた、それこそ違法じゃないですか。この事件および裁判から十数年経ったが、あいも変わらず、警察・検察・裁判にかかわる事態は少しもかわらないという構造をどうしますか。

 「犯人でもないのに、犯人にさせられた」からには、そこに強制・強圧の捜査があったとみるのは「合理的」。だが、この化石裁判官氏は請求を棄却した。ああ無能!警察側は「男性は自ら進んで“自白”しており、強要はなかった。(盗んだ金の使途や隠し場所などの)裏付け捜査も十分」と、これまた間抜けな陳述。なんのこっちゃ。これも今に変わらぬ、人間性を虚仮にした嘘と歪曲の極致。このような「真っ赤な嘘」のごり押しは警察だけではなく中央官庁でも国会でも、いまなお白昼堂々と(盗人、猛々しく)実行されているのです。

 進んで自白し、進んでムショにはいりたがる、そんな奇特な人間もときにはいるけど、「(盗んだ金の使途や隠し場所などの)裏付け捜査も十分」とは、どういう意味か。犯人になるために、この男性は自分で「偽装」したとでもいうのか。(いくら偽装ばやりの世の中でも、それはないよ)でも、このすり替えと自己弁護の「三分の理」が、どこかの「ソーリ」の胸糞の悪くなる答弁になんと酷似していることか。(碁・将棋でいえば、すでに詰んでいる。見苦しいし、恥ずかしい。あれえ! 裸で出歩いている、気づかないふりをしているね。子どもに聞いてみな。地位に恋々とね。)

 捕まったが最後、この国(警察や検察)では白を黒、それも真っ黒に塗りたくる。そして、「わたしは白です、やってない」という人間に対して、「警察(検察)が黒だというのだから、お前は真黒だ」と判事が斬りすてる。病院にいけば「病人に仕立てられる」、学校に入れば「人間性を壊される」人権侵害を訴えた警察では「さらなる人権侵害が」、かかる「理不尽は許さない」と裁判にすがれば「お前を訴えた側(病院や学校や警察)に落ち度はない」と「今様越前の守」はふんぞり返る。(ぼくは、いまは亡き加藤剛さんが好きだった。ぼくにないまじめさがあったから。それで…?)時代遅れの「法服」を着て、高所から呪文を唱え、「請求は却下する」だって。(判決を「下される」側は悲劇だが、悪いけどこれこそ「抱腹絶倒」の図だよ。判事には咎はないんですか。無謬なんですか。裁かれないんですか)

 さて、どうするか。なにより肝心なのは、他人に頼らないこと。それにかぎります。病気にならない、なったら自分で治す。治る力は自身にある。警察の厄介になるような状況を金輪際作らない。「捕まったが最後」だから。本当に学びたいなら学校に行かない。行けば、興味のないことを強いられる。さらに、心も体も傷つけられる。学びたいものを見つけて、じっくり自分で自学・自習する。そうすれば、学んだものはきっと自分の栄養(力)になる。「教師に頼る」という甘ったれた根性がまちがいのもと。(教職の「営業妨害」をするのではない。可能なかぎり、自学自習を阻害・邪魔しない教師であってほしいと願うだけです)

 専門家がそれらしい顔をして、素人を見下す時代が長くつづきました。他人を軽蔑したり、見下したいために専門家になるのですか、と減らず口をたたきたくもなる。そうだとすると、動機はじつに不純だし、第一、その了見が卑しい。自称・他称「専門家」すべてはそうじゃないでしょう。とすれば、まともな専門家になりきれぬ「半ちく専門家」がなけなしの権威(あるいは特権)をふりかざし庶民(大衆)を苦しめるということか。自分もまた「大衆」なのに、さ。「天に唾だね」見苦しくも無残な風潮です。まずは危うきに近寄らず。不用意にそんな「風潮」に巻きこまれないようにしたい。(南無三)

《氷見冤罪で県に賠償命令 富山地裁、国への請求は棄却 2015/3/9付・日経

 富山県氷見市で2002年に起きた強姦事件で再審無罪となった柳原浩さん(47)が、違法な捜査で逮捕、起訴され、約2年間の服役を強いられたとして、国や県に約1億400万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、富山地裁は9日、県に約1966万円を支払うよう命じた。国への請求は退けた》

(▼氷見の冤罪事件 富山県氷見市で2002年に発生した強姦事件で、タクシー運転手だった柳原浩さんが誤認逮捕され、富山地裁高岡支部から実刑判決を言い渡され、約2年間服役した。06年に鳥取県警が強制わいせつ容疑で逮捕した男の自白から誤認逮捕が判明し、富山県警と富山地検が柳原さんに謝罪した。柳原さんは07年に再審無罪が確定した)(日経新聞)