唄は世に連れ、世は歌に連れ(承前)

前回紹介した、敗戦後に川田正子さんが歌った「汽車ポッポ」の歌詞は以下の通りです。

 汽車ポッポ(ぽっぽ)

一、
汽車汽車ぽっぽぽっぽ
しゅっぽしゅっぽっぽ
僕らを乗せて
しゅっぽしゅっぽしゅっぽっぽ
スピードスピード窓の外
畑も飛ぶ飛ぶ家も飛ぶ
走れ走れ走れ
鉄橋だ鉄橋だ楽しいな
二、
汽車汽車ぽっぽぽっぽ
しゅっぽしゅっぽっぽ
汽笛を鳴らし
しゅっぽしゅっぽしゅっぽっぽ
愉快だ愉快だいい眺め
野原だ林田ほら山だ
走れ走れ走れ
トンネルだトンネルだ嬉しいな
三、
汽車汽車ぽっぽぽっぽ
しゅっぽしゅっぽっぽ
煙を吐いて
しゅっぽしゅっぽしゅっぽっぽ
行こうよ行こうよどこまでも
明るい希望が待っている
走れ走れ走れ
頑張って頑張って走ろうよ

 もとの歌詞は以下のとおりです。作曲の草川信さんは長野県出身で、海沼実さんの師匠にあたります。作詞は富原薫さん。(草川さんについては、「叱られて」(清水桂)を扱った際に触れておきました)原曲が作られたのが昭和十四年で、改作は昭和二十年でした。GHQの意をくんで直されたのです。

 兵隊さんの汽車  (作詞:富原 薫・作曲:草川 信)
一、
汽車汽車しゅっぽしゅっぽ
しゅっぽしゅっぽっぽ
兵隊さんを乗せて
しゅっぽしゅっぽしゅっぽっぽ
僕らも手に手に日の丸の
旗を振り振り送りましょう
万歳万歳万歳
兵隊さん兵隊さん万々歳
二、
汽車汽車来る来る
しゅっぽしゅっぽっぽ
兵隊さんを乗せて
しゅっぽしゅっぽしゅっぽっぽ
窓からひらひら日の丸の
旗を振ってく兵隊さん
万歳万歳万歳
兵隊さん兵隊さん万々歳
三、
汽車汽車行く行く
しゅっぽしゅっぽっぽ
兵隊さんを乗せて
しゅっぽしゅっぽしゅっぽっぽ
まだまだひらひら日の丸の
旗が見えるよ汽車の窓
万歳万歳万歳
兵隊さん兵隊さん万々歳
冨原家にある『兵隊さんの汽車』の自筆原稿には、「草川信 作編曲、斉藤達雄 大久保澄子 唄、ポリドール八七五五、遊戯と唱歌十一月号 丸岡氏振付」と書いてあります。「遊戯と唱歌」は、小学校女教員のための月刊誌です。(https://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00kusakawa2.htm

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 そして、川田さんが初めてのラジオ二元中継(NHK)で歌って大流行した歌が「みかんの花咲く丘」でした。それは昭和二十一年八月二十四日のことでした。前日の朝になっても作曲はできていなかった。歌詞だけを持参して東海道線に海沼は正子さんと同乗。車窓の景色を見ながらの作曲だった。完成したのは宇佐美駅付近だったという。翌日、海沼が一小節ずつ、口移しで教えて、ようやく放送に間に合ったというのです。長閑な歌の調子とは反対に、いかにもにわか作りの、戦後第一番の人気童謡の誕生でした。

「みかんの花咲く丘」(加藤省吾作詞・海沼実作曲)

みかんの花が 咲いている
思い出の道 丘の道
はるかに見える 青い海
お船がとおく 霞(かす)んでる

黒い煙(けむり)を はきながら
お船はどこへ 行くのでしょう
波に揺(ゆ)られて 島のかげ
汽笛がぼうと 鳴りました

何時か来た丘 母さんと
一緒(いっしょ)に眺(なが)めた あの島よ
今日もひとりで 見ていると
やさしい母さん 思われる

  三番の「母さん」が「姉さん」と書き換えられたことがありました。敗戦直後、母を失った子どもたちがたくさんいたので、それを慮って「姉さん」としたらしいというのですが、姉さんも母さんも、いまはもうこの世にいないことだけはたしいかです。

「歌詞は、3番で主人公が思い出す人物が母であるものと、姉であるものの2種がある。最初に加藤が書いた詞では母であったが、発表当時は戦争で母親を失った子供も多かったことに配慮し、姉であれば嫁いでいった姉のことを思い出していると解することもできるだろうとして歌詞が改変された。題名も当初は「みかん花咲く丘」であったが、発表までの間に「みかんの花咲く丘」に変更されている」(wikipedia)

 童謡づくしのなりゆきです。このテーマを扱ったら、ぼくは止まらないという自覚というか、自信があります。ダラダラしないで、心して書くようにします。

 ところで、最初に紹介した「里の秋」です。この歌詞は昭和十六年に書かれていたものですが(元のタイトルは「星月夜」でした)、先に述べましたように、敗戦の年のクリスマスの日にラジオで「復員兵」を励ますためにいそいで旧作を改めたのでした。斎藤さんは戦時中、千葉県下の小学校の教員でしたが、教師としてのみずからの戦争責任を感じて、戦後は教員をやめてしまいました。このときの縁で、後に川田正子さんの家庭教師となって生活の糧をえることになります。(戦中の文章や歌詞、詩などは、戦後になって改変されたり、削除されたり、改作されたりしました。おそらく無数にあったと思われます。いろいろなケースがあり、また事情もそれぞれですから一概に何かを言うことは禁物です。これをいったいどのように考えたらいいのでしょうか。大げさに言えば、歴史の改ざんに当たります。事柄が公的なものであるだけに、無視することはできません)

 旧作の三番、四番は以下のとおりでした。大変な時代の「里の秋」だったことがわかります。それから八十五年目の「里の秋」を、今秋に迎えることになります。ご武運って(?)戦争中の歌詞が戦後に改作(改竄?)されたのは当然でした。この島は「占領」されており、戦時色を一掃する必要に迫られていたからです。教科書の「墨塗り」も同様でした。(これを書いている今、一度も観ていませんが、「朝のテレビ小説(エール)」とか(?)の主人公「古関裕而」が気になって仕方ないんです。「露営の唄」「暁に祈る」は彼の作曲でした。「勝ってくるぞと勇ましく…」。次回にでも)

きれいなきれいな椰子の島
しっかり護って下さいと
ああ父さんのご武運を
今夜も一人で祈ります

大きく大きくなったなら
兵隊さんだようれしいな
ねえ母さんよ僕だって
必ずお国を護ります

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唄は世に連れ、世は歌に連れ

 里の秋(斎藤信夫作詞・海沼実作曲、昭和二十年)

静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた

明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔
栗の実 食べては 思い出す

さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ(注) 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
今夜も 母さんと 祈ります

 《 終戦から4ヶ月立った年の暮れ、NHKでは海外から復員してくる将兵のための特別番組「外地引揚同胞激励の午后」を企画していました。放送は十二月二十四日の午後一時四十五分から。この番組のために海沼先生が作曲したのが「里の秋」です。

 「復員する兵隊さんたちが、船で浦賀港(神奈川・横須賀)に帰ってくる。その人たちを迎えるために、ラジオで歌うんだよ。」

 と、海沼先生が教えてくれました。練習はいつもと同じ口移しでした。先生が私の音域に合わせて作ってくれた曲だったので、とても歌いやすかったのを覚えています 》 (川田正子『童謡はこころのふるさと』東京新聞出版局、2001年)

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 川田正子さん(童謡歌手)が虚血性心不全のため死去

 「みかんの花咲く丘」など戦前戦後を通じ、長く童謡歌手として活躍した川田正子さん(かわだ・まさこ、本名・渡辺正子=わたなべ・まさこ)が06年1月22日午後8時31分、虚血性心不全のため都内の病院で亡くなったことが23日、分かった。72歳。東京都出身。親族の意向で、通夜・葬儀は密葬で行い、音楽葬を2月5日午後1時から東京都港区芝公園4の7の35、増上寺光摂殿で。

 川田さんは42年に少女歌手となって翌年に「兵隊さんの汽車」を歌い、関東児童唱歌研究会児童コンクールで優勝。46年に戦後初めて「赤ちゃんのお耳」をレコーディング。翌年にはNHK連続ラジオ放送「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」が大ヒットした。他の代表作に「里の秋」「あの子はだあれ」など。今年は歌手生活65周年の記念イヤーだった。(日刊スポーツ・06/01/23)

母親と三姉妹

 川田正子というひとをご存知でしょうか。戦中から戦後にかけて、全国にその名を知られた童謡歌手でした。実働期間はわずかに四年でしたが、彼女の歌声はいまなおぼくのこころに響いています。ぼく(だけではなく)は、彼女の歌声とともにまともな人間へと脱皮しました。川田三姉妹は、戦後のこの島を歌で明るく照らしてくれたとも言えます。歌の師は、のちに義父となる海沼実さん。(上に引用した川田さんの本を、彼女からだったか、贈呈されたのでした。記憶違いかもしれません。彼女の妹(美智子さん)からもいろいろと、童謡にまつわる事柄を教えていただきました)

  「里の秋」の作詞をした斎藤信夫さん(1911-1987)は千葉県出身で戦時中は教員をしていました。作曲をした海沼実さん(1909-1971)は長野県松代出身。ながく「音羽ゆりかご会」を主宰していた方です。訃報記事にある「兵隊さんの汽車」はいまでは「汽車ぽっぽ」として知られているものの原曲(?)でした。「ぼくの居住地の近くには彼の「歌碑」がたくさんあります。これには、ぼくは感心しません。山道を歩いていて、芭蕉の句碑に出会うなんて、俗そのものですな)

(都内文京区の護国寺内)音羽ゆりかご会

 必要があって、明治以降の学校唱歌をていねいに調べたことがありました。もちろん、作曲家や作詞家についてもほとんど網羅するばかりに漁りました。ぼくが唱歌好きだったことが第一の理由ですが、歌はきわめて大きな影響(悪影響も含めて)を学校教育(子どもたち)に与えてきたと考えていたからでした。(このテーマについてもゆっくりと考えていきます)

(これを書いている今、6月29日午前8時半、「小鹿のバンビ」が流れてきました。作曲は平岡照章さん。かみさんの大学同期の友人の尊父で、ぼくも何度かお話を伺いました。父上も彼女も疾うに亡くなりました。懐かしさと寂しさが同時にこみ上げながらこの駄文を書いています)(しばし休憩。この後は続きにします)

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●海沼 實(かいぬま みのる、1909年1月31日 – 1971年6月13日)は、日本の童謡作曲家。経歴 長野県埴科郡松代町(現長野市)で菓子舗を営む海沼万吉の長男として誕生。1932年、資産家であった叔父の支援を受けて上京し、同郷の作曲家・草川信や、その音楽学校時代の同級生である成田為三らに師事。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)在学中の昭和8年(1933年)に音羽ゆりかご会を創設し、川田正子(後に継子となる)、川田孝子(後に継子となる)、川田美智子(実子)の川田三姉妹をはじめとする数多くの童謡歌手を育てた。(以下略)(Wikipedia)

●斎藤信夫(さいとう のぶお)は、1911年(明治44年)3月3日千葉県の南郷村(後:成東町、現:山武市)五木田に生まれ、小学校の教諭をしながら童謡の創作を続けた童謡作詞家である。終戦を境に神州不滅の皇国史観教育をしてきた自分を反省し、教職を辞めてしまうという気骨を持った人物であったが、童謡を通じ子供や動物を見る目は暖かかった。終戦直後に発表された童謡「里の秋」を作詞したことで知られ、生涯の詩作は1万余篇におよぶ。1987年9月20日死去。勲五等双光旭日章を受勲。(wikipedia)

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国は人権を踏みにじるだけの機関だ

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 《 日本国内で、中学生や高校生に、日本国の過去には何も悪いことがなかったという話を聞かせたら、「愛国心」の涵養に役立つだろうか。彼等に対してもそういう話が説得的であるかどうかは、大いに疑わしい。もし彼等が簡単にだまされぬとすれば、必ずや学校に対する不信感を強める効果しかないだろう。もし彼等がその話を真に受けるとすれば、「愛国心」の涵養に役立つかもしれない。しかしその「愛国心」は、事実を踏まえず、批判精神を媒介としない盲目的な感情にすぎないだろう。盲目的「愛国心」が国をどこへ導いてゆくかは、軍国日本の近い歴史が教える通りではなかろうか 》(以下略)(加藤周一「歴史の見方」『夕陽妄語』Ⅰ所収)(この文章はすでに別のコラムで既出)

 加藤さんの文章は十数年も前に近隣諸国との間に生じだ「歴史教科書」問題のおりに書かれたものです。加藤さんも数年前に亡くなられました。いったい、この「愛国心」を誰かの専売であると考えている愚か者がいるのは、ぼくには解せないのです。いまでも「お前に愛国心を語る資格はない」といわれかねない雰囲気があります。アホらしいことですね。「~を愛する」かたち(方法)はひとそれぞれ、誰にも指さされる理由はないのではないですか。徒党を組んで「愛国心」は好まないし、同じく「衆を頼んで」反国運動もぼくの趣味に合わない。「愛する」のは、たった一人でだ。

 「愛国心を教える」ことはできても、愛国心とはなにかと「考えることを教える」なんてできない相談だと思っている、無精で無粋な教師や政治家たちがほとんどではないか、と減らず口を叩きたくなります。学校における「日の丸・君が代」はいったいどうなっているんですか。仕方なしに、あるいは無理やりに歌わせられて育つ「愛国心」とはどんなものか。裁判所を含めて、情けないくらいに「趣味が悪い」し、不細工です。歌っているかいないか、口に耳を当てて確認するような教育委員会には「学校教育」をゆだねられないですね。白昼堂々と「愚行」を恐れないという愚連隊が劣島に多すぎます。

 「愛国心教育」とは、学校の「儀式」で「日の丸・君が代」を強制されても文句をいわない、それを何十年もつづければ涵養される、そんなアホな教育だと見なされています。野鳥を捕ってきて鳥カゴにいれて飼いならすのとまるで同じ。飼いならすというのはカゴの中でしか生きられないと思いこませることでもあるのです。これを「飼育する」(breed)という。「教育」は「飼育」であり「強制」なんかでは、断じてありません。 

 「学校に対する不信感を強め」ないままで、ながい学校教育をうけいれてしまうと、どんな感覚の人間になるのでしょうか。皮肉でも何でもありません。正直に、思っていることを言いたいだけです。学校は、どんな人間をつくるつもりですか、一人一人の教師が問われているのです。それに対してどうこたえるか、それが日々、自らの実践が示しているところです。おわかりになりますか。

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 「おら七つのとき、子守りにだされて、なにやるたって、ひとりでやるには、ムガムチューだった。おもしろいこと、ほがらかに暮したってことなかったね。だから闘争が一番楽しかっただ」これは飛行場建設にたった一人で反対し、国家権力に踏みにじられても闘った小泉よねさんの「戦闘宣言」です。早くに夫と死別し、土間と六畳間の「小屋」に住み、2アールの土地を一人で耕していたよねさん。そこへ突然、「ここを飛行場にするから、立ち退け」と大学卒の役人は一片の紙切れで命令を下したのです。66年のことでした。(大学はどんな人間を受け入れ、請出しているのか。今でも大学の教育は問われ続けています。「クイズ王」に沽券をかけている屑大学もある)

 「公団や政府の犬らが来たら、おらは墓所とともにブルドーザの下になってでも、クソぶくろと亡夫が残して行った刀で戦います」なんとしても理不尽な暴力を許せなかった。よねさんに四坪ばかりの土地(住まい)を貸していた島村良助さんは「よねに財産があったり、教育があったりしたら、よねにたいしての代執行なんかできなかったんじゃないか」と語る。立ち退きの代償に支払われた「補償金」は八十万円也。居宅である「小屋」を踏みつぶした空港公団が用意した「住居」にはいることを、彼女は峻拒したのでした。

 国家そのものが「人間の値うち」を財産や学歴でみている。その国家が掌握する学校教育で生産されるのも同じ価値観・人間観をもつ人間もどきであるのはいうまでもないことです。器用な児童、要領のいい生徒、つまりずるがしこい人間の再生産装置です、学校は。

 国家のいいなりになるのも、国家にたった一人で対峙するのも、自らが経験してきた教育(生き方)によります。「もう、おらの身はおらの身であって、おらの身でねえだから」どうしても国家権力の理不尽なふるまいをみとめるわけにはいかない、たった一人の闘いであると同時に、個人の権利を踏みにじられたくない人間たちの闘いでもあったのです。この生き様です、一人ではないし、人間としても闘い、ぼくはここに尊厳をいだきながら生きてきました。

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 成田空港(土地収用)問題、ぼくはこれ一つだけでも国家というものが許しがたい代物だと断じてきました。国際化の時代に羽田(米軍の横田基地に配慮するために)に代わって「空の玄関」を求めていた国は、いろいろ千葉県内を物色した挙句、成田の三里塚に白羽に矢を立てた。ぼくが大学に入ったころでした。なぜここを選んだか、胸糞が悪くなるような理由からでした。(今は省略)「ここに空港をつくるから、お前らはどけ。代わりの土地はやるからさ」といった態度で農民を蹴散らそうとした。乱暴のかぎりをつくした。これも詳細は省きますが、ぼくは戸村一作さん(反対同盟委員長)の話を聞いたり、それなりに問題を知ろうとしたのを今も忘れていません。

 これは今から考えれば、あきらかに「若気の至り」といえそうですが、後悔はしていない。十分に反対の意思を表さなかったという忸怩たる思いも手伝って、「ぼくは絶対に、成田空港からは乗らない」と誓いました。以来半世紀以上が経過しました。友人を送り迎えするために仕方なしに空港に出かけますが、一度たりとも飛び立つことはなかった。かみさんが外国に出かけるときも、空港に近づきさえもしなかった。そのために何かと不便や不利益がありましたが、「許し難い」という気持ちと、身命を賭して「権力の理不尽さ」と闘った人々の衷心を考えれば、当然であると今も固く思っているのです。

 権力は、厚顔にも「国民の生命財産」をいとも簡単に足蹴にします。他国の専制権力を云々できないのではないですか。人権を足蹴にしたり踏みにじったり、それは悪辣国家のやることです。土足で踏みつけるだけではない。白足袋を履いた足で踏みつぶすこともある。あの手この手で、言うことを聞かぬ(従わない)ものを苛め抜くのです。

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●小泉よね=生年明治40(1907)年11月25日 没年昭和48(1973)年12月14日 出生地千葉県印旛郡八街村 別名=小泉 よね(コイズミ ヨネ) 経歴7歳の時から子守、女中奉公、露店商、行商などで流浪。昭和17年ブローカーの大木実と結婚、三里塚(千葉県成田市)に定住。戦後、配分を受け、開墾した土地で農業を営む。23年に夫と死別。41年に結成された成田空港反対同盟に参加、闘争激化とともに行動・集会の先頭に立った。46年9月第2次強制代執行で反対派農家として唯一自宅が破壊され、東峰に移転。その後も運動を続けたが、48年12月心臓病で死亡。遺体は第2期工事の滑走路予定地に土葬された。その後、養子で市民運動家の小泉英政が国を相手に“土地の明け渡しを認めた緊急採決”の取り消しを求める裁判を起こし、平成11年国の謝罪により和解が成立。14年には新東京国際空港公団が小泉に対し空港地内の土地の使用権を認めた。(出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」)

●戸村一作=生年明治42(1909)年5月29日 没年昭和54(1979)年11月2日 出生地千葉県成田市三里塚 学歴〔年〕成田中(旧制)卒 経歴実家は三里塚に定着してから3代目の農機具商。また3代つづいたキリスト者。鉄の彫刻で二科展会員として活躍。昭和38年成田空港建設反対のキリスト者空港設置反対同盟を結成。41年より三里塚芝山連合空港反対同盟の委員長として、激しい実力闘争を続けた。42年より成田市議を2期務める。著書に「闘いに生きる」「野に起つ」「我が十字架・三里塚」「小説・三里塚」がある。(出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」)

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生きられた生活が思想です

 (この「対談」は何度目かの登場です。たいへんに興味深い話が出てきますので、ぜひご一読を)

鶴見 ひとつ考えていることがあるんです。日本の歴史というと、私は近ごろのことしか知らないのですが、知識人と大衆との関係ということがずっと気になっているんです。さっきの血管が狭くなっているという問題ですね。これが学問としての日本の歴史を大変に貧しくしていると思うんです。それは明治以後の日本の知識人の養成ルートとの関係があると思うんです。幕末の教育を受けた人たちは、その養成ルートに乗っていない。養成ルートは明治半ばからできているわけで、これができたあとが「概念のブロック積み」になってくるわけですね。抽象名詞から発していたと思うんです。このまま行くと能率的であるが転換期にたえられない。

  抽象名詞も、暮らしの中に挿し木みたいに伸びていく可能性はあるんですけど、時間がかかるでしょう。「人権」という抽象名詞にしても、根づいてほしいんだけど、「人権」というと負け犬の遠ぼえみたいな感じがして、まともに金儲けしている人間はそんなこと言わんぞ、という反応が現に今の日本にあるでしょう。これでは困る。部分的にも今の暮らしとのつながりを回復しなきゃいけない。それは暮らしの前後の脈絡の中で使われてきた日常語を新しく使うことだと思うんです。昔の日本語から力を得ていく。抽象名詞は日本語の中で非常に少ないのですから、動詞や形容詞からもとらえていく。これは柳田国男が早くから言っていて、卓見だと思うんです。(中略)

 これから改革しなきゃいけないことは、とても多いんですね。外国人差別、在日朝鮮人、アイヌへの差別など、たくさんの問題があるでしょう。それらの改革は次の「一八五三年*」類似の事件が起こるまで待たなきゃならないのか。大まかにいえば、私の問題はそれなんです。(*嘉永六年六月にペリーが大統領の国書を携えて浦賀に来航。翌安政元年一月再来し、開国を迫る)

 網野 いまの高校の教科書を読んでいると、まったく「神話」といってもいいようなおかしなことが書かれており、いまだにそれが教壇で教えられているんですね。たとえば、「江戸時代の農村は自給自足であった。日本の人口の八〇パーセントは農民であった」ということなどそのよい例ですね。これは戦後のマルクス主義も含む歴史学のつくってきた歴史像ですけれども、この歴史像にとどまる限り、「日本国」や天皇の呪縛からは絶対に逃れられない。それをどうやって客観化できる立場に立てるかというのが現代のいちばんの問題だと思います。歴史学を勉強することは本当にコワイと思いますね。(中略)

 鶴見 「君が代」もそうですね。詠み人知らずの歌で千年残ってきたというのは面白いことです。敗戦後、すぐ歌う気力があったら、占領に対するはっきりした抵抗で、それは立派なものだと思うんですけど、七年間歌わないできて、突然復活してくる。そして今度は「君が代」を演奏しているときは校長が生徒に立て、と強制する。(中略)

 網野 いまのお話を伺っていて思いついたのは、津田左右吉さんのことなんです。…津田さんの本を私は全部読んでいるわけではないけれども、明治以後の歴史家の中では非常に特異な方だったという感じを持っているんです。津田さんは「生きた生活」という言葉が大好きで、彼が言おうとしたのは、極端にいえばいままでの日本の文学にせよ、思想にせよ、すべて本当の日本人の生きた生活に根ざしたものではない、ということだと思うんです。有名な「文学に現はれたる我が国民思想の研究」(一九一六~二一年)をはじめ、一貫して言おうとしているのはそれだと思うんです。  津田さんの書いたものには「生きた生活」という言葉がいたるところに出てくるんです。江戸時代の儒者に対する批判、国学者も同じで、みんな生きた生活から離れている、という言い方で批判を加えていくわけです。(鶴見・網野編『歴史の話』朝日新聞社刊、2004)(右上写真は津田左右吉)

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卯の花も母なき宿ぞ冷(すさま)じき(芭蕉)

 門弟其角の母親の法要の際に、詠んだもの。「貞亨4年5月12日、44歳。この年、4月8日門人其角の母が逝去。その五七日忌の追善俳諧での句」とものの本に記されています。句意は「卯の花のあまりにも白いその花が、法要が営まれている宿(家)には、不似合いなほどに輝いている」とでもいっておきましょうか。

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 学校で習う(学ぶ)「歴史」がどんなものだったか、ひとそれぞれにある種の感慨や批判を持っていると思う。ぼくにもある。よく「歴史は暗記もの」などと粗末にされ、けっして真に迫って、それを学んだことはなかった。息苦しい学校時代を離れて初めて、ぼくは「歴史」をつかまえようとした。それは絶対に暗記ものではなかったし、暗記物にしてはいけないと痛感したのです。歴史に登場する人間は血も涙もある「にんげんそのもの」であり、だからこそ、その人間の所業を、ぼくたちは学ぶことができるのでしょう。ぼくのつたない経験から言えば、学校の歴史担当の教師は(全部ではありえないが)、いかにもつまらなさそうにしか「歴史」を「教えよう」とはしなかった。それが不思議でならなかった記憶が鮮明に残っています。さらに、歴史に登場する人物は映画や小説の主人公などには、まず収まりきらないのだとぼくは早くから断定していました。

 《 日本国内で、中学生や高校生に、日本国の過去には何も悪いことがなかったという話を聞かせたら、「愛国心」の涵養に役立つだろうか。彼等に対してもそういう話が説得的であるかどうかは、大いに疑わしい。もし彼等が簡単にだまされぬとすれば、必ずや学校に対する不信感を強める効果しかないだろう。もし彼等がその話を真に受けるとすれば、「愛国心」の涵養に役立つかもしれない。しかしその「愛国心」は、事実を踏まえず、批判精神を媒介としない盲目的な感情にすぎないだろう。盲目的「愛国心」が国をどこへ導いてゆくかは、軍国日本の近い歴史が教える通りではなかろうか。

 私は昔フランスに住んでいた頃、同じ事件を政治的傾向を異にする新聞がいかに異なって報道するか、例を示して高校生に教えている教師に出会ったことがある。その教師は、どれが正しいかを教えず、どれが正しいかを生徒みずから考えることを、教えていた。けだし盲目的「愛国心」の涵養は、考えるための教育の反対物であり、つまるところ愚民政策の一つの形式にすぎない》(加藤周一(1919-2008)「歴史の見方」『夕陽妄語』Ⅰ所収)

楝散る 川辺の宿の 門遠く

うつ‐ぎ【空木/×卯木】 =ユキノシタ科の落葉低木。山野に自生。幹の内部は中空で、よく分枝する。葉は卵形でとがり、縁に細かいぎざぎざがある。初夏、白い5弁花が群れ咲く。生け垣にしたり、木釘 (きくぎ) や楊枝 (ようじ) を作る。うのはな。かきみぐさ。(デジタル大辞泉)
 夏は来ぬ

卯(う)の花の、匂う垣根に
時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ
 
さみだれの、そそぐ山田に
早乙女(さおとめ)が、裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる、夏は来ぬ
 
橘(たちばな)の、薫るのきばの
窓近く、蛍飛びかい
おこたり諌(いさ)むる、夏は来ぬ
 
楝(おうち)ちる、川べの宿の
門(かど)遠く、水鶏(くいな)声して
夕月すずしき、夏は来ぬ
 
五月(さつき)やみ、蛍飛びかい
水鶏(くいな)鳴き、卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす、夏は来ぬ
(*佐作信綱作詞 小山作之助作曲)(明治二十九年新編教育唱歌集)
(*https://www.youtube.com/watch?v=XQm1qk53suc)

 この唱歌が出版されたのは明治二十九年五月。ギリシアで第一回近代オリンピックが開かれました(四月)。参加者は二百人余。今日の商売五輪とは「隔世の感」ですね。六月には三陸大津波が発生。死者三万余人とされます。痛感するのは、いつの世も災難や災害が途切れなく襲来しているさまです。百年余前も、まったく無防備だったというか、備えはあっても憂いもまたなくならないという、人の世の無常を痛感します。そんなことは長明さんが遥か悠久の昔に明示してくれているところではあったのです。

 この唱歌の歌詞を、ぼくはくり返し読んだものです。いまでは想像もつかない「夏の景色」が見事に謳いこまれているからです。今日ではもはや見られなくなった景物や動植物もありそうです。ようするに、夏は、あらゆるものを含めた「まるごとの夏」だったという思いを強くいだきます。卯の花や時鳥はまだしも、早乙女*(左写真)、玉苗(同)、橘(柑橘類の古名)(上部写真左)、楝(右上の写真)、水鶏(上部写真の右)は説明されなけれな分からなくなりました。「春の小川」が流れていたのは渋谷区の某所だったというのに等しく、土地も自然環境も破壊に破壊をくわえられて「近代化」とは、まことに野蛮な所業の残滓ではあったというべきです。

*二番の「早乙女」は変更されたもので、原詞は「賤の女」(しずのめ)でした。「しず〔しづ〕【×賤】[名]卑しいこと。身分の低い者。「貴人 (あてびと) 、―が身何の変わりたる所あるべき」〈藤村・春〉[代]一人称の人代名詞。拙者。わたし。江戸時代に幇間 (ほうかん) などが用いた。「君さへ合点なさるれば、―が聟になるぢゃげな」〈浄・卯月の紅葉〉(デジタル大辞泉)

 ここでは「卑しい、身分の低いもの」の意味で用いられたと考えられます。だれも「気づかない」ままで唱歌として人口に膾炙していました。「偏見と差別」はこうして根付いていくのです。個人の問題であると同時に、集団の「過ち」でもあるでしょう。

(このように、元の詞が変更された唱歌はとても多くあります。いずれは、これをテーマで記述してみようと考えていました。「春の小川」「港」「汽車」「蛍の光」ほか、数えられないほどあります。変更の理由もさまざまでした)

 この島社会の「偏見と差別」意識(風潮)が、学校音楽にも導入されていたという時代相が読み取れます。今少し、この問題をていねいにたどらなければならないと考えております。

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 文明化は野蛮化を意味しているんじゃないかとさえ言いたくなります。文化は自然を根拠にしています、その文化を遅れたもの、未開なものと野蛮視した「文明」こそ野蛮であったというのは、どうしたことだったか。豪雨も暴風も止められないのは自然の摂理です。

(⏪️・1800年代と2000年代の東京湾の比較)

 人命もまた、近代化や文明化という残虐野蛮行為の絶えざる犠牲に供されてきているのです。

 「夏は来ぬ(夏は来た)」、けれども往時の風情も情緒もすっかり滅却してしまい、あるのは狂気の熱波と暴風雨ばかりです。これは紛れもない人為の心無い業の惨たらしい結果でもあります。これを書いている今(6月28日午前6時ころ)豪雨が屋根といわず土といわず、たたきつけるが如くに空から落下してきています。今春生まれたばかりの猫四兄弟姉妹は、脅威を感じて泣きじゃくっています、親もつられて大泣きです。ぼくは手当てにずぶ濡れ、かみさんはどこかへ泊り。

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教師は芸術家である、と。

 教育実践とは何か

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 私は、実践ということは、いつでも事実を動かすことだと考えています。自分の目の前にある事実を、一つの方法でだめならば、他の方法で動かしてみる。そのようにして子どもがひとつの高い地点にいくと、いままで天井だった教育の可能性が、それをつき抜けて屋根の上まで遠のいていってしまう。そこに新しく生じた子どもの姿から、さらに高い子どもの可能性とか、人間像とかいうものが、私にみえてくるようになる。そういうことから、教育の可能性とか教育への願いとかが、つぎつぎと高いものになり、また事実が動き、新しい姿の子どもが出るにつれて、そのなかにある法則的なものをつかみ、つぎのより高い実践への噴射力としていったと思うのです。(中略)

 平面的に、機械的、形式的に一時間の授業が進行してくだけのものは、展開といえない。それは子どもを殺してしまっているし、教師自身も自分の持っている固定したものだけを、一方的に注入しているだけだから進歩しない。

 展開というのはもっと生きた力動的なものであり、それは一人の教師と一人の子どものあいだでできるのではなく、一人の教師と三十人とか四十人の子どもと相互の関係をもって、教材を使って、教師と教材、教師と子ども、子どもと教材、子どもと子どもとのあいだに、複雑な衝突・葛藤を起こさせさながら授業を進めていきます。

 そういう格闘をしていくと、教師がそれまで予想もしていなかったような論理とか、不完全ではあるが論理的になる要素を持っているものとかが、子どものなかから出てきます。そのときに教師は困って何もいえなくなり、自分の我なり固定した考えなりを押しつけて、これが世のなか通用の正しいことなんだ、というのではなくて、どうたたいら相手が納得し新しいものをつくり出していくだろうかとか、さまざまに考えいろいろの方法をとってみなくてはならない。

 それを克服したときに、非論理の子どもは、なるほど私はちがっていたんだとか、こういう意味でちがっていたんだと考え、クラス全体がパッと明るくなるわけです。そういうことをくり返す ことで、子どもが豊かになったり、強靭になったり、教師も人間として変わっていったりするんだといっているんです。そうすると、展開というのは、Aのほうへいこうと思っていたのが、パーッとそれてBという方向へいくこともあるし、Cのほうへいってしまうこともある。いろいろ動いていく。だから展開のある授業というのは、充実味もあるしダイナミックになる。それだけ授業の展開のすじみちをはっきりと記憶することもできる。(斎藤喜博「教育実践とは何か」斎藤喜博全集別巻2。国土社刊、1971年)

  教師の仕事の最重要部は授業です。授業がなりたたなければ話にならない。もちろん、いい授業とはさまざまな要素から生みだされるのだから、これぞ授業という定番はなさそうです。そのつど、心を新たにして授業を作りだしていくほかありません。「教える―教えられる」という決まりきった関係から自由になる、そこからしか授業の可能性は生まれそうにありません。斎藤さんはよく、「授業を組織する」といいました。あるいは「授業の成立」とも言われたりしました。それはどういうことだったか。

 斎藤さんの授業(教授学)論、教材研究論に耳をかたむけてください。

《 教材研究というと、その文章を教師がわかるようにするとか、算数の問題がとけるようにするとかだと考えている向きもあるが、私の学校ではそういうものを教材研究とは いっていない。文章が解釈できたり、算数の答えが出せたりすることは、教師として当然なことなのであり、それは教材研究以前の問題である。

 そういう教師は問題外なのだが、ほんとうによい授業をやろうとするものは、一月に一度でもよいから、紙の上で生きてうごいていくような、創作的な指導案を書くような努力をしなければいけないのだと思っている。そして、固定した指導案しか書けない教師、固定した授業しかできない教師から、早く抜け出さなくてはならないのだと思っている。

 指導案が創作になり、授業が創作と同じようになったとき、「教師は芸術家である」ということが、はっきりいえるのだと私は思う 》(斎藤喜博『授業入門』)

●斎藤喜博=教育研究家。群馬県佐波(さわ)郡芝根村(現、玉村町)に生まれる。1930年(昭和5)群馬県師範学校卒業。長く小学校教員を務め、1952年(昭和27)佐波郡島村小学校長、1964年境小学校長となる。また戦後一時期、教員組合役員としても活躍。民主主義教育のあり方を授業実践のなかで厳しく追究し、民間教育運動や教授学研究に大きな影響を与えた。主著に『未来につながる学力』(1957)、『授業入門』(1960)がある。[三原芳一]『『斎藤喜博全集』(第1期全18巻・1969~1971、第2期全12巻・1983、1984・国土社)』(大辞林第三版の解説)

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 「教材研究」ってのは、まあ芝居でいえば本読みですね。白紙の状態で台本に当たり、読みを重ねていくうちに、その役のイメージを深く確かなものにしていく。そして読み合わせで、イメージの修正や強化などを施す。もちろん、それ以前に教師は教室という劇場で行われる「芝居(授業)」の「台本」を仕上げなければならない。

 教師のばあい、その表面の形式は「一人芝居」だけれど、実体はけっしてそうじゃない。それは「教材研究」といわれる作業を行っている時も変わらないことです。題材や単元を前にして、さてこれをどのように料理するか、客を思い描かないで包丁をにぎる板前を想像することはできないでしょう。教師もその意味では、立派かどうかはともかく、板前であり、役者でもあるのですよ。

 でも近年では、客がだれであるかに心を配らないで、弁当やソバなどをパックにして売っている店もあるように、まただれが作ったかを気にしないでそれを買う客がいるというように、万事がお手軽で無責任な商売を流行らせています。教師の世界もご同様といえば、腹を立てる向きもあるでしょうし、またそういう人(腹を立てる人)がたくさんいてほしいですね。客の素性を知らないで、ものが売れればそれでよしというのが商売なら、さていかにもお気楽ですねと、ぼくは憎まれ口を利きたくなります。(一回限りの講演が大流行りですが、なんともつまらないことです) 

 教材研究以前の問題をさも「教材研究」だと受けとめている人も少なからずいます。話すことを調べる、調べたことを話す、こんなのが教材研究であり授業であるはずがありませんね。先ず「教材」ですが、教科書はそれだけでは教材にはなりませんね。それをいっしょに学習する子どもたち向けに作り上げる(料理する)作業こそが、教材化の第一歩です。市場から買ってきた鰹を皿にのせて「召し上がれ」はないでしょう。刺身にするのかどうか、手を入れる「料理する」仕事を抜きにして、なにが魚屋かと、言いたくなるのは当然です。

 「教師は芸術家である」と斎藤さんは言っておられます。受け止め方はさまざまでも、その心意気は「芸術家」であってほしいと、ぼくも願うばかりです。「作品」はまた別個のいのちを持って生きていきます。でも、考えてみれば、斎藤喜博さんはとんでもないことを言っていませんか。芸術家だなんて、そんなことあるかよと、たまげる人がたくさんいると思う。当然ですね、偏差値や学力に血道を挙げているのが関の山なんだから。

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