唄は世に連れ、世は歌に連れ

 里の秋(斎藤信夫作詞・海沼実作曲、昭和二十年)

静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた

明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔
栗の実 食べては 思い出す

さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ(注) 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
今夜も 母さんと 祈ります

 《 終戦から4ヶ月立った年の暮れ、NHKでは海外から復員してくる将兵のための特別番組「外地引揚同胞激励の午后」を企画していました。放送は十二月二十四日の午後一時四十五分から。この番組のために海沼先生が作曲したのが「里の秋」です。

 「復員する兵隊さんたちが、船で浦賀港(神奈川・横須賀)に帰ってくる。その人たちを迎えるために、ラジオで歌うんだよ。」

 と、海沼先生が教えてくれました。練習はいつもと同じ口移しでした。先生が私の音域に合わせて作ってくれた曲だったので、とても歌いやすかったのを覚えています 》 (川田正子『童謡はこころのふるさと』東京新聞出版局、2001年)

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 川田正子さん(童謡歌手)が虚血性心不全のため死去

 「みかんの花咲く丘」など戦前戦後を通じ、長く童謡歌手として活躍した川田正子さん(かわだ・まさこ、本名・渡辺正子=わたなべ・まさこ)が06年1月22日午後8時31分、虚血性心不全のため都内の病院で亡くなったことが23日、分かった。72歳。東京都出身。親族の意向で、通夜・葬儀は密葬で行い、音楽葬を2月5日午後1時から東京都港区芝公園4の7の35、増上寺光摂殿で。

 川田さんは42年に少女歌手となって翌年に「兵隊さんの汽車」を歌い、関東児童唱歌研究会児童コンクールで優勝。46年に戦後初めて「赤ちゃんのお耳」をレコーディング。翌年にはNHK連続ラジオ放送「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」が大ヒットした。他の代表作に「里の秋」「あの子はだあれ」など。今年は歌手生活65周年の記念イヤーだった。(日刊スポーツ・06/01/23)

母親と三姉妹

 川田正子というひとをご存知でしょうか。戦中から戦後にかけて、全国にその名を知られた童謡歌手でした。実働期間はわずかに四年でしたが、彼女の歌声はいまなおぼくのこころに響いています。ぼく(だけではなく)は、彼女の歌声とともにまともな人間へと脱皮しました。川田三姉妹は、戦後のこの島を歌で明るく照らしてくれたとも言えます。歌の師は、のちに義父となる海沼実さん。(上に引用した川田さんの本を、彼女からだったか、贈呈されたのでした。記憶違いかもしれません。彼女の妹(美智子さん)からもいろいろと、童謡にまつわる事柄を教えていただきました)

  「里の秋」の作詞をした斎藤信夫さん(1911-1987)は千葉県出身で戦時中は教員をしていました。作曲をした海沼実さん(1909-1971)は長野県松代出身。ながく「音羽ゆりかご会」を主宰していた方です。訃報記事にある「兵隊さんの汽車」はいまでは「汽車ぽっぽ」として知られているものの原曲(?)でした。「ぼくの居住地の近くには彼の「歌碑」がたくさんあります。これには、ぼくは感心しません。山道を歩いていて、芭蕉の句碑に出会うなんて、俗そのものですな)

(都内文京区の護国寺内)音羽ゆりかご会

 必要があって、明治以降の学校唱歌をていねいに調べたことがありました。もちろん、作曲家や作詞家についてもほとんど網羅するばかりに漁りました。ぼくが唱歌好きだったことが第一の理由ですが、歌はきわめて大きな影響(悪影響も含めて)を学校教育(子どもたち)に与えてきたと考えていたからでした。(このテーマについてもゆっくりと考えていきます)

(これを書いている今、6月29日午前8時半、「小鹿のバンビ」が流れてきました。作曲は平岡照章さん。かみさんの大学同期の友人の尊父で、ぼくも何度かお話を伺いました。父上も彼女も疾うに亡くなりました。懐かしさと寂しさが同時にこみ上げながらこの駄文を書いています)(しばし休憩。この後は続きにします)

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●海沼 實(かいぬま みのる、1909年1月31日 – 1971年6月13日)は、日本の童謡作曲家。経歴 長野県埴科郡松代町(現長野市)で菓子舗を営む海沼万吉の長男として誕生。1932年、資産家であった叔父の支援を受けて上京し、同郷の作曲家・草川信や、その音楽学校時代の同級生である成田為三らに師事。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)在学中の昭和8年(1933年)に音羽ゆりかご会を創設し、川田正子(後に継子となる)、川田孝子(後に継子となる)、川田美智子(実子)の川田三姉妹をはじめとする数多くの童謡歌手を育てた。(以下略)(Wikipedia)

●斎藤信夫(さいとう のぶお)は、1911年(明治44年)3月3日千葉県の南郷村(後:成東町、現:山武市)五木田に生まれ、小学校の教諭をしながら童謡の創作を続けた童謡作詞家である。終戦を境に神州不滅の皇国史観教育をしてきた自分を反省し、教職を辞めてしまうという気骨を持った人物であったが、童謡を通じ子供や動物を見る目は暖かかった。終戦直後に発表された童謡「里の秋」を作詞したことで知られ、生涯の詩作は1万余篇におよぶ。1987年9月20日死去。勲五等双光旭日章を受勲。(wikipedia)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)