火事泥か、泥縄か。いずれ劣らぬ狐と狸

 菅首相、感染症対策の本購入…就任後初めて書店へ

 菅首相は30日、東京・赤坂の書店を訪れ、数冊の新書や雑誌を購入した。/ この日は午前11時過ぎに衆院議員宿舎を出ると、近くの書店に向かった。滞在した10分弱の間、新刊や雑誌のコーナーを回り、歴史学者・磯田道史氏の「感染症の日本史」(文春新書)などを買い求めた。/ 首相は、感染が拡大する新型コロナウイルスの対応に頭を悩ませており、感染症の歴史から今後のヒントを得ようとしたようだ。9月の就任以来、首相が書店を訪れるのは今回が初めてとなった。(読売新聞・2020/12/30 20:48)

 西村担当相、緊急事態宣言「受け止めて検討」 1都3県知事が要請

 西村康稔経済再生担当相は2日、新型コロナウイルスの感染拡大防止に関して小池百合子東京都知事と神奈川、千葉、埼玉各県の知事と都内で面会し、首都圏1都3県に緊急事態宣言を発令するよう要請を受けた。西村氏は緊急事態宣言について「緊急事態宣言が視野に入る厳しい状況だとの認識を共有した。(再発令の要請を)受け止めて検討していく」と記者団に語り、緊密に連携する考えを示した。/ 西村氏は面会で、小池氏らに「ただちに行う措置」として4項目を求めたと明らかにした。飲食店について、昨年4~5月の緊急事態宣言時と同等の対応として午後8時までの営業時間短縮、酒類提供は午後7時までとし、政府は応じた店舗への支援を拡充する考えを示した。午後8時以降の不要不急の外出自粛要請なども求めた。(以下略)(産経新聞・2021.1.2 19:07)

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 年が明けても、コロナは居座り、官邸も総理も、悪びれることもなく居直っています。それに歩調を合わせるかのように、並みいる近隣の知(痴)事もまた、愚かさをそのままに何事かを画策している(主役は「女帝」、取り巻きは御用聞き痴事)。総理が本屋に行ったということがニュースになるのだから、すごい島社会ですね。何代か前に「漫画大好き総理」がいました。漫画界にとっては心丈夫だったけど、宰相としてはどうですか、という間もなく、辞任された。「あっ、そう!」

 総理だって本を買う(読むのではない)という事態は、サルでもパンツをはくというくらいの衝撃があります。買った本も素晴らしい。「感染症の日本史」を購入したのはなんとも適切でした。時宜を得た選書だったというべきでしょう。これを熟読して、感染症対策はばっちりかなと考えかかったんですが、どっこい。これはきっと「自己保身用」(一人だけの「シェルター」みたいだ)だったに違いない。この報道は大晦日の前日、忙しい最中での珍事でした。感染が猖獗を極めていた時期、「静かな年末年始を」と宣言した人物だけど、さすがに行動力はありました。あれもこれも、「支持率」対策ですね。無駄な抵抗は止めて、愚直に、人民の声に聞き耳をたてて、さ。

 感染症の専門家をごまんと周りに取り揃えながら、おそらく「彼ら」を「恫喝屋」は信じていないという明確な証明でもあるし、専門家が恫喝屋を認知していないということでもあります。磯田氏の安直・廉価な新書本購入を、大きなニュースにして報道するマスコミも立派です。揃いもそろって、というのが率直な感想というより、バカも休み休みにしろ、と言いたいね。(本を買うなら、ネットで買えば、と言いたくなる。のこのこ追っかけして、給料もらっているマスコミさんたち、もっと他にすることがあろうじゃないか)

 年が明けて早々に、一都三県の「痴事」さんが、一刻も早く「殿、緊急事態」宣言を、と官邸に陳情に上がったと報道されていました。これをニュースにするのは、総理が「新書本」を買ったのが(読んだ、ではない)ニュースになるのと同程度に、滑稽かつ奇怪を窮める事態です。「緊急事態」が生じている最中に、「宣言」を、それに必要な処政策をと、陳情している滑稽・悲嘆の図をどうみますか。(購入本の読了後の、感染症対策はどんなものになるかね)(何十年も前に医者にかかったら、彼はやおら医学書を取り出して、読みだした。ぼくは仰天した。今では当たりませの診察室風景になりましたね)

(トミカ製)

 火事が発生、110番に通報。消防署は「すぐに出動」かと思いきや、「了解しました。今からメーカーに消防車の注文をします。それまで火事の具合を監視していてください」と対応されたようなもの。歴史上、似たような事例に事欠かない。「火事場泥棒」という俚諺もあります。「泥棒を捕らえて縄を綯(な)う」と、つまりは「泥縄」ですね。これが立派な痴事の仕事(月給をとる仕事)と心得ているから、皆さん、すごい。「(近隣の痴事が」縄を綯ってくれと言ってきました」、と部下が総理に報告。「ちょっと待て、感染症の安直本を読もうとしているんだ」と答える。いやいや、これは、むしろ「火事場泥棒」というのかもしれない。どっちにしろ、泥棒です、主役は。

 「火事場のどさくさに紛れて盗みを働く者。火事どろ。ごたごたにつけこんで不正な利益を得ること。また、その人。火事どろ」(デジタル大辞泉)真相はどうでしょうか。これまでの、奴らのこの一年間の、対コロナにかかわる仕事ぶりを見ていると、ぼくには「火事泥」に思えてきます。「泥縄」なら、まだ少しは、同情の余地があるけれど(ホントはないのだけど、よりひどいBが来ると、Aはよりましだとみえる)、泥棒を「捕まえた」という実態がありそうですが、その処置が「感染症の歴史」読書だから、救い難いというべきだ。島のいたるところで火災発生、さらに炎上中、急いで消火活動開始。そして、「宣言」が出され、町内会でバケツリレーが列島のいたるところで始まった。新しい年明けの島の絶景です。あるいは、竹槍で「ウィルス」を刺突する図ですな。「この道はいつか来た道、あーあ、そうだよ」というのは白秋さん。

 女は「女帝」と呼ばれ(揶揄され)、男は薄っぺらな「政治家の覚悟」を公開した、いずれ劣らぬ「厚顔無恥」の面々です。衆人環視の中、笑顔をみせて握手して、机下では、互いの足を蹴りあっている「狐と狸」(例に挙げて、ごめんくだされ)が居残っり居座っているのですから、この危機から脱出することは容易ではありません。もう三十年ほども前のことです、何か月も前にある山中の温泉場の旅館を予約した。宿泊当日の夜、夕食に何を召し上がるかと尋ねられ、予約した時に言ったはず、と。「ああ、そうでした。早速用意します」と言って、懐中電灯をつけて外に出かる。どうしたのかと尋ねると、峠一つ越えた店に「猪の肉を仕入れに行ってくる」と。猪肉料理を食べたかどうかは忘れましたが、この出来事だけは覚えています。これは実際にぼくが経験した出来事、埼玉の皆野町(の一軒の)温泉宿でした。

 旅館やホテルの話なら、実害は少ないので、まだ笑い話です。だけれども、これが島の首都の首長、島の総理の寝言みたいな「政治気風」なら、どうします、生死がかかっているんですからね、「笑ってる場合」か。感染真っ盛り。ふたたび「緊急事態」が宣言されます。それでどうなるのか。五輪は止めない、go to~も再開する、病院は患者お断り、医療は崩壊してると(嘘くさい)、どうも真剣味がみえてこない、などなど。なにせ、(片や「口下手」、こなた「口八丁」の「キツネ&タヌキ」です、これまでさんざん騙されてきたのに、さらに騙されるのか。尻尾が丸見えなんですよ、各々方。すべてが人気取り(支持率稼ぎ)です。これを大衆迎合主義(populism)といい、デモクラシーの鬼っ子でもあります。

 (昨春から、いっかなPGR検査数が増えていかないのはなぜか。検査すれば感染者が増え、医療崩壊が起こるからというのですが、崩壊しているのは、君らの頭の細胞じゃないか。感染者が増えると「五輪開催」が危ないから、こちらが本音だったりしませんかね。死者が続出している横で、「平和の祭典」とは、言葉もないね、バカという以外には。グロテスクの領域をはるかに超えている)(言いt年前から、同じことの繰り返し、言い訳とうそをないまぜにして、結局は、ひたすらな自己主張で、点数を稼いでいるだけ。これは日本の政治家。官僚。軍人・経済人などのお家芸です)

 「強権発動に伴う、嘘と誤魔化し」の三蜜関係で、この島は奈落の底にまっしぐら、ですね。 (墜落まちがいない騒ぎのなかで、「神さま、墜ちても(堕ちても)痛くないように (柏手)」「仏さま、墜ちても死なないように(合掌)」と祈ってる場合ですか。神は嘲笑い、仏は仏頂面している、この島の年始風景です)

 (蛇足 二十年も前になるか。友人たちと、富山の白山に登ったことがあります。頂上の室堂にたくさんの「絵馬」がかかっていました。少ない掛け金(お賽銭ともいう)で、好き勝手なことが書いてある中でも最も腹が立ったのは、「家内安全、みんな健康で。彼女ともうまく行きますように もて男より」だと。神さんは腹を立てたと思うね、この腐れ者め、と)

 「羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶」(「仏説 摩訶般若波羅蜜多心経」)

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「コロナに感染しませんように」と初詣か

 年の始めに、オンラインでのご祈願

 神社まで参拝にお越しいただくことが難しい方に、オンラインでのご祈願のお申し込みを承っております。/「国安かれ」の一念のもと、尊い生命を捧げられた御祭神への奉慰顕彰のため、また皆様が日々お健やかにお過ごしいただけますよう、祝詞を奏上し祈念申し上げます。(https://www.yasukuni.or.jp/e-worship/)

*靖國神社の由緒 靖國神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂社しょうこんしゃがはじまりです。/ 明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社しょうこんしゃに御親拝の折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。(中略)

 しかし、そうした大変革は、一方において国内に避けることのできない不幸な戦い(戊辰戦争)を生み、近代国家建設のために尽力した多くの同士の尊い命が失われる結果となりました。/ そこで明治天皇は明治2年6月、国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるために、東京九段のこの地に「招魂社しょうこんしゃ」を創建されたのです。
 この招魂社が今日の靖國神社の前身で、明治12年(1879)6月4日には社号が「靖國神社」と改められ別格官幣社に列せられました。/ 明治天皇が命名された「靖國」という社号は、「国を靖(安)んずる」という意味で、靖國神社には「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。(https://www.yasukuni.or.jp/history/detail.html)

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 もともと、神社仏閣に「お参り」するという習慣をぼくは、自分に育ててこなかった。いや、それはきっと両親の影響が大きかったに違いないと、今では考えています。信仰心というものがそもそも、ぼくにはなかったし、だから何とかしてそれをもとうという、殊勝な心がけがありませんでした。もちろん、お寺や神社には何度も出かけたし、それなりに関心を維持してきました。この靖国神社にも何度でかけたでしょうか。上京直後はよく通いました。一つは花見、ある時は建物見学でした。もちろん「靖国」の由来は知っていました。だからといって、「拝殿に額ずく」ということにはなりませんでした。実に篤信家からすれば、「罰当たり」な人間ではあります。

 初詣というものには出かけたことがありません。この無関心は、京都にいたころからです。手を合わせるとか、お経(お題目)を唱えることが「性に合わない」ということでしょう。ぼくは山登りを若いころからしていました。目的は「自主トレ」でしたが、おりよく「日の出」に遭遇すると、一応は敬虔な気分になります。それは花や植物に見とれるときの気持ちによく似ているかもしれない。心中ひそかに、「手を合わせ」ていることがあったかもしれません。

 この神社の「オンライン参拝」は、時宜にかなっているというか、お手軽というのか。お札も祈祷もすべて「stay home」で可能だし、支払いはクレジットカードのみ。はたして、霊験はあらたかでしょうかね。「ふるさ」のなかに「新しさ」を生み出す、さすがというべきか、

 混雑の中、マスクをして、たくさんの「善男善女」が神社仏閣に参詣する時期です。面白いというと顰蹙を買いそうですが、このような風習はどれくらい古いのか、いやじつはかなり新しいのではないか。ぼくは後者の説です。村の鎮守や産土(うぶすな)神社にはいつでも詣でたでしょうが、大勢が挙ってお参りするという「初詣」の習慣は、かなり新しいものだと考えています。かなり以前は、めいめいが各家で信心を守っていた中での一コマでした。(この点に関してはいずれかの日に)

 「困った時の神頼み」「地獄に仏」というように、娑婆で生きていると「避け得ない災厄」「待ったなしの困難・苦悩」が常に襲ってくるのですから、あらかじめそれを防ぐためにもお参り(参詣)は大事なのでしょう。それにしても寺社は「見事な営業」を生みだしたものです。その走りは京都でしたね。観光と信仰は隣り合わせ(仲間同士)だったのです。

(初詣のため東京の神田明神を訪れた人々(2021年1月1日撮影)。(c)Kazuhiro NOGI / AFP)

 コロナ禍の最中、必死で手を合わせ拝んでいる「信仰篤い」とみられるたくさんの人々の姿を見て、ぼくは不思議な感情に襲われているのです。感染は大丈夫か、「感染しませんように、神さまにお願いします」神さま仏さまがついているからというけれど、コロナウィルス(covid-19)は、寺社が「聖域」であることを認めたがらないのは、欧米各地を見てもわかるのです。いずれにしても、この年が、ウィルスをはじめ、厄介な災害の被害者に、どなたもならないことをぼくはこの駄文を書きながら祈念しています。(感染を恐れるなら、まず、人混みに行かないことなんですがね)

 いまや、あらゆる場面で「オンライン◎◎」が蔓延中です。これは近年の「新文明」、そうです「文明の利器」の仲間入りということか。人との交わりもオンラインで、飲み会もオンライン。教育(学校)も…。 この奔流はは押しとどめられないのでしょうか。(もちろん、その成果次第ですが)

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光陰、何のためにか惜しむとならば…

 時節柄ですね、またまた「徒然草」です。あるいは、それは現実から逃げているんだと横やりが入りそうですが。しかし、無性にと言っていいほどに、これが読みたい、そんな気分が募ってくるのを抑えられないんです。なぜでしょうか。兼好さんは七十くらいで亡くなられたといわれている。この「随筆」を書かれたのは五十代だったとも。「寿命」が今とは比較できない、彼方の時代の人でしたから、そこからなにかを言おうとするのは正しくなさそうですが、しかし、この人の長短さまざまな文章を読んでいると、その行間から気配が感じられてくるのは、いかにも時代意識(自意識)が強すぎる一人の人間が、達観しているように見えて、実際は生きることに呻吟している様、とでも言いたくなってくるのです。勝手な言い方をすれば、人間五十にもなれば、おおよその実感というものを「己の人生」から得ているにちがいないと思われるのです。兼好さんも例外ではなかった。しかし、枯れ切ってなんかはいないのです。

 長く生きれば「悟るところ」が、早逝した人より多くなるに違いないといいたい気がしますが、そんなことはなさそうです。恥も失敗も多くなりますから。三十で生命が途切れたとしても、「人生の難問」にはきっと、それなりに対面していたのだと、ぼくには思われます。兼好や長明をつれづれに読んでいて感じるのも、そこです。また時代の早い遅い(文明の程度)を指摘したくなるけれど、それだって、ぼくたちが表面上に見るような差異はなさそうです。生老病死と言いますが、その段階ごとに、人は得るべきものを得ているのだし、それを「悟る」と言っても一向構わないでしょう。十歳は十歳なりに、三十は三十なりに、五十は五十なりに、です。

 兼好研究の専門家によっても、彼の生涯の履歴は明らかではない。どこかに謎が隠されているとは思えませんが、杳として知られない「生の奥深さ」を感じさせられるのもまた、偽りのないところです。一点の疑問もないように、歴史上の人物の履歴(謎)を明らかにするなどということはあり得ないし、あってはいけないでしょう。十三世紀末に生まれ、南北朝にかかる時期(十四世紀半ば)を生きた人で、一時期は天皇の側近として仕えていたし、歌詠みもそれなりの力量に恵まれていた。生家は神職の官だった。いってみれば「波瀾万丈」の波頭を流されつつ乗り越えようとした生涯だった。世のだれとも同じような、しかし、彼独自の生き死にを送った人でした。その「波瀾万丈」が直截・間接に活写されているのが「徒然草」でした。

 今回は、以下の二つばかりの章段を取り出してみた。

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  (その1) 「寸陰、惜しむ人無し。これ、よく知れるか、愚かなるか。愚かにして、怠る人の為に言はば、一銭軽しといへども、これを重ぬれば、貧しき人を富める人となす。然れば、商人の一銭を惜しむ心、切なり。刹那、覚えずと雖も、これを運びて止まざれば、命を終ふる期、忽ちに至る。

 然れば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。ただ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし。もし、人来て、我が命、明日は必ず失はるべしと、告げ知らせたらんに、今日の暮るる間、何事をか頼み、何事をか営まん。我等が生ける今日の日、何ぞ、その時節に異ならん。一日の中に、飲食・便利・睡眠・言語・行歩、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その余りの暇、幾何ならぬ中に、無益の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して、時を移すのみならず、日を消し、月を渡りて、一生を送る、最も愚かなり。

 謝霊雲は法華の筆受(ひつじゅ)なりしかども、心、常に風雲の思ひを観ぜしかば、慧遠、白蓮の交りを許さざりき。暫くもこれ無き時は、死人に同じ。光陰、何のためにか惜しむとならば、内に思慮無く、外に世事無くして、止まん人は止み、修せん人は修せよ、となり」(第百八段)(島内校訂・訳)(既出)

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 「束の間(一分一秒)」を惜しむ人はいません。これは道理がわかっているからなのか、あるいは愚かだからなのか。愚か者のために言っておくと、「一銭」は軽いというが、これを積み重ねれば貧者は富者にもなる。商人の一銭惜しみ、それは切実なものだと分かります。「束の間」は、知らぬ間に過ぎていく。でもこれをそのままにしておけば、あっという間に最期(命を終ふる期)が来てしまう。

 「然れば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。ただ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし」道理にかなう生き方を求める人は、遠い先の歳月を惜しんではならない。それよりも「この、今の瞬間」が空しく過ぎ去ることをこそ、惜しむべきです。誰かがやってきて、「君は明日、死ぬでしょう」といったなら、今日が終わるまでに、いったい何をして過ごすのか。「我等が生ける今日の日、何ぞ、その時節に異ならん」生きるのに必要なこまごましたことをしているうちに、日が暮れてしまう。一日を無駄にし、一月をもそうして過ごし、やがて一生を送ってしまうのだ、これほど愚かしいことがあろうか。

 謝霊雲という人は法華経の翻訳筆記者でしたが、「常に風雲の思ひを観ぜしかば」いつも世に出たい出世したいビッグになりたいという、抑えられない邪念でいっぱいでした。そこで、慧雲は「白蓮(同志社)」への参加を認めなかった(まっとうな「仏道者」としなかった)。なぜ生きるのか、この問いかけがなければ「死人に同じ」です。なぜ時間を惜しむかと言えば、心のうちに邪念がなく、世俗への無用な関心をもとうとしない、そんな人は仏道に励む、そのために時を惜しむのです。(左写真 兼好墓石、京都市内双ヶ岡長泉寺内)

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 この雑文集のどこかで、高校時代に古文の時間に、「徒然」の一説を読まされて、大いなる失敗をした話を書きました。ぼくの愚かさのゆえでしたが、今もこれを書きながら、その場面を思い出しています。そして、こんな兼好さんの「哲学」「人生観」が、怠け心いっぱいの高校生に分かるはずがあるものかと、再確信してもいるのです。国語に限らないが、学校の教室や授業には、越えられない限界、入ることのできない領域があることを教師もせいとも、はっきりと悟った方がいい、改めてそう考えます。学校には「教える」「授ける」「学ぶ」「習う」という核心の部分に致命的な欠陥があるのです。できないことをしようという「無謀さ」、がそれです。限界を熟知するところから、「学校再生」は、その始まりの端緒をつかむでしょう。

 「光陰矢の如し」と「読めて、書けて、説明ができる」と合格(百点)ですというのは、とてつもない道徳的な頽廃を示しているとぼくは感じるし、やってはいけないことをやっているという意味では、何か罰当たりな仕業のようにも思われてくるのです。(この点については、この雑文の山の中で、同じことをあちこちでくりかえしています)

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 その2 「一道に携る人、あらぬ道の筵(むしろ)に臨みて、「あはれ、我が道ならましかば、かく、余所(よそ)に見侍らじものを」と言ひ、心にも思へる事、常の事なれど、よに悪く覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな、羨まし。などか、習はざりけん」と言ひて有りなん。我が智を取り出でて、人に争ふは、角有るものの、角を傾け、牙有るものの、牙を咬み出だす類ひなり。

 人としては、善に誇らず、物と争はざるを、徳とす。他に勝る事のあるは、大きなる失なり。品の高さにても、才芸勝れたるにても、先祖の誉れにても、人に勝れりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心に、若干(そこばく)の咎有あり。慎みて、これを忘るべし。烏滸(おこ)にも見え、人にも言ひ消(け)たれ、禍をも招くは、ただ、この慢心なり。

 一道にも、誠に長じぬる人は、自ら、明らかに、その非を知る故に、志、常に満たずして、終に物に誇るる事なし」(第百六十七段)(この部分は、機会を改めて。熟読するだけが肝要ですから)

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 兼好さんの真髄はどこにあるか。ぼくにはよくわかりませんが、どこまで行っても経験主義者だったという点、どんなことでも、自らの経験から学んだという意味では、彼はプラグマティストでした。こういって、彼がプラグマティズムの「先駆者」だったなどというつまらないことを言うのではない。どんな人でも、自分がやってみて、その結果や経験から物事を判断し、価値を規定する思想(生き方)を作り出したという点で、あえていえば、それを「プラグマティズム」というばかりです。観念や教典・経典からの「知識」にものを言わせなかった人でした。ぼくが彼を好むのは、もっぱらこの傾向からでした。(今でも、彼は高校生などの「教材」(お手本)になるような人物じゃないと、言いたいですね)

 「謝霊雲は法華の筆受(ひつじゅ)なりしかども、心、常に風雲の思ひを観ぜしかば、慧遠、白蓮の交りを許さざりき」と。兼好自身が謝霊雲でなかったとは、ぼくには言えない。若い兼好(かねよし)も世間並みに、「立身出世」を求めなかったはずはないし、その道が閉ざされたならどうするか、彼は「徒然草」を書いた。怨み辛みではなく、人の生きる様子(生き方の流儀)は、どこかできっと重なるものです。時代や社会を隔てているとみえるものは、実は表面・皮相ではないかとぼくはみなしています。彼我の差は、あるようでいて、ないんですね。つまりどんな人も、自分で歩き、自分で転び、自分で立ち上がり、泣いたり笑ったり、そんなことをして生きているのですよ。(⇑ 徒然草絵巻・海北友雪(1598~1677年)(サントリー美術館蔵)

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色々の雲の中より初日出

被災10年、初日の出に歓声 福島の沿岸部、「平穏な1年を」

(福島県いわき市の四倉海岸から見られた初日の出=1日午前7時2分)

 東京電力福島第1原発事故により一時全町避難となった福島県浪江町で1日、川沿いを約5キロ歩いてゴールの請戸海岸で初日の出を迎える行事が開催された。10年前の東日本大震災の津波で壊滅的な被害が出た海岸に、雲間から朝日がのぞくと約200人の参加者は歓声を上げた。 行事は震災前に始まった「あるけあるけ初日詣大会」。朝日は当初雲に隠れたが、隙間からのぞくと参加者が「やっと見えた」とうれしそうに写真に収めた。 甚大な津波被害に遭った同県いわき市の四倉海岸では、同市の会社員高島仁美さんが初日の出を拝んだ。「昨年はコロナで大変だったので平穏な1年を祈った」と話した。(中日新聞・2021年1月1日 16時24分 (1月1日 16時47分更新) )

(福島県浪江町請戸地区の海岸から、初日の出を眺める人たち=1日午前7時7分)

 原発事故発生の二年後、ぼくはこの四ツ倉海岸に立っていました。この写真で見る限りきれいになっている様子が見て取れますが、当時は惨状そのままに、荒れた海でした。今も汚染されたままだといわれています。真夏だったように記憶し知恵ます。群馬県から知り合いの車に乗せていただきながら、海岸に着きました。また請戸の地は、ぼくの友人(都内の理髪店主)の母上の故郷だった。原発事故直後、彼から請戸の話を伺ったことを昨日のように記憶しています。

 やがて十年を刻みます。「十年一昔」というが、それはどういう意味を含んでいるのでしょうか。あるいは「十年一日」ともいいます。こちらは何を示そうとしているのか。似たようでもあり、まったく異なるような二つの言い草を、人は(ぼくも含めて)器用に使い分けているのではないでしょうか。使い合わけする、どんな理由があるのでしょうか。相馬の先輩から「賀状」を頂きました。「年相応に、元気」とありました。すでに「卒寿」を迎えられたのだろうか。あるいは、その直前であるかもしれません。長寿、それも健康で、ひたすらそのことを祈るのです。

 色々の雲の中より初日出 (漱石)

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達人の、人を見る目は、…

 達人の、人を見る眼は、少しも誤る所、有るべからず。

 例へば、或人の、世に虚言を構へ出して人を謀る事有らんに、素直に真と思ひて、言ふままに謀らるる人、有り。余りに深く信を起して、猶、煩はしく虚言を心得添ふる人、有り。また、何としも思はで、心を付けぬ人、有り。また、いささか覚束無く覚えて、頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じ居たる人、有り。また、真しくは覚えねども、人の言ふ事なれば、然もあらんとて、止みぬる人も、有り。また、様々に推(すい)し、心得たる由して、賢げにうち頷き、微笑みて居たれど、つやつや知らぬ人、有り。また、推し出(いだ)して、「あはれ、然るめり」と思ひながら、猶、誤りもこそ有れと、怪しむ人、有り。また、「異なる様もなかりけり」と、手を打ちて笑ふ人、有り。また、心得たれども、「知れり」とも言はず、覚束無からぬは、とかくの事無く、知らぬ人と同じ様にて過ぐる人、有り。また、この虚言の本意(ほい)を、初めより心得て、少しも欺かず、構へ出(いだ)したる人と同じ心に成りて、力を合はする人、有り。

 愚者の中の戯(たわぶ)れだに、知りたる人の前にては、この様々の得たる所、言葉にても顔にても、隠れ無く知られぬべし。まして、明らかならん人の、惑へる我等を見ん事、掌(たなごころ)の上の物を見んが如し。ただし、かやうの推し量りにて、仏法までを準(なずら)へ言ふべきにはあらず。(第百九十四段)(出典は既出)

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 達人は大観す、などと言います。達人とは「技芸・学問の奥義に達している人。達者。深く物事の道理に通じた人」(デジタル大辞泉)とする。そんな人がこの世にいるのかしらと大いに訝りますが、いたとしても彼・彼女はまず「判断を誤ることがない」というのでしょう。間違えないというのは、人間の分際では不可能です。兼好さんが「達人」だったかどうかをいうのではないし、達人でなくても構わないのです。要するに達人と称される稀有な人は「他者を見る目が曇ることがない」という、そこを弁えているのが大事だというのです。どんなに鋭い眼光を持っている人か、一例を挙げましょうと、「虚言」に対する「凡人」「愚人」の多様反応型を例示して、こういう愚者・凡人でない人こそが、「達人」なのだと、兼好さんは述べるのです。「嘘つき」に直面して、人はどんな反応を示すのでしょうか。兼好先生曰く。

 ①「嘘を、そのまま真だと思い込む人」、②「嘘を信じすぎて、その上塗りの嘘を言う人」、③「嘘であろうが、なんとも思わない人」、④「「嘘を聞いて、どうしていいかわからない人」、⑤「本当とは思わないけれど、あの人が言うのだから、そうかなと思う人」、⑥「何かと推量し、賢そうにうなずくが、まったく「嘘」であることがわからない人」、⑦「自分で推量し、ああそうかと思うが、ひょっとして間違いかも、と怪しむ人」、⑧「別段どうということもない、と手を打つ人」、⑨「嘘は見抜いているが、それについて、知らない人みたいにふるまう人」、⑩「嘘は知っているのだが、それをとやかく言わず、その嘘を言い出した人の心持になって、嘘を広めようとする人」 これを「新聞の世論調査風にすると、どういう結果が出るか。 

 総理が「嘘をつく」はずがないというのは、誰しもが考えたいところ。「あの人」はうそつきだと、大方の人は知っていた。そして幸か不幸か、「総理」と「あの人」が一つになった。そうなると、総理に肩をもつか、あの人の素性に反応するか。それとも「あの人は総理である」、そう考えたくなってしまう人が大多数じゃなかったか。「嘘つき」が「総理」になっても、「嘘をつかない総理」ではなかったことは事実として明らかでした。

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 この島にも「世に虚言を構へ出して人を謀る事有らん」とする人がごまんといますが、中でも飛び切りの「嘘つき名人」「嘘つき心臓(晋三)」が出現して、この島の政治屋心持ちまでも壊しかけて、いや壊してしまったかの感があり、新年に入ってもその「虚言(そらごと)」の放った毒が消えないままで、あるいは人によっては致命的な痛手を負ったかもしれないのです。この「天才嘘つき」の出現に遭遇して、所在は不明ですが、「達人」はいかなる判定を下すのでしょうか。その前に、嘘をつかれた人間の反応には、なんと「十類型」あると兼好氏は言うのです。こうまで「嘘つき」の反応にこだわるには何か理由というか、背景がありそうですが、詳しくはわからない。きっと怨み骨髄に達する「嘘」に心を踏みにじられたのではなかったか、とぼくは邪推しているのです。

 ともかく、たった一つの嘘つきの「嘘」に対して、こんなに多様多彩な反応があるのですね。健康という人の執念深さを知らされる思いがしてきます。そして、我が長州出の「嘘つき」が「我が世の望月」を眺めることが出来たのは、いったい嘘反応「獣類家」のどれとどれが力を与えたからだったのか。ぼくは得と考えなければならない宿題を。年末年始に課されたような気がしているのです。①から⑩までのなかに、この島ンチュウの騙された人(ぼくもそこから逃れられません)すべてが編入されることは間違いなさそうです。体を張って「この嘘つき」と、彼の嘘を暴いた人がいなかったのですから、島の住人の深手は、癒されそうにないです、③⑧を除いては。

 「達人の、人を見る眼は、少しも誤る所、有るべからず」という、その「達人」はいったいどこにいるか。この島にいるのか。過去にいたのか。これから出てくるのか。あるいはその達人をも欺いた「嘘つき」の桜花爛漫だったというのでしょうか。きっと功名な嘘とは、じつは驚くほど単純なものだったのでしょう。彼の言うことがすべて正しいわけではない、すべてが嘘でもないという、微妙な虚実の按配(割合)が、問題を不透明にしているのだと言えます。ぼくは、実に短純明快に「補填はしていない、全額事務所が負担していた」とみています。(「誰一人として、参加者が沈黙を決め込んでいる理由は、そこにあるんじゃないか。ぼくは検察でも弁護士でもなく、一有権者ですから、その分だけは、「虚言者」は責任を果たさなければならぬと考えている。まだごくは、途方もない「嘘」の直撃を受けて、立ち直れていない。たちなおるために、そして従来のように「自主トレ」ができること路まで、心身の健康を回復したい。年頭の所感だね)

 「明らかならん人の、惑へる我等を見ん事、掌の上の物を見んが如し」という。姿を現さぬ「達人」は、おそらく、我らが心を大局高所から、やすやすと「俯瞰」しているに違いない。雑音に惑わされず、心を静かに持すれば、きっと「掌の上の物を見んが如」く、ぼくらにも真偽の見分けがつくのかもしれない。誠実と不誠実をあからさまに見抜く、そのような感受性を、ぼくらごとき衆生もまた、育て上げることが出来る、それを身をもって証明すべき生き方が、今も求められているのです。「仏法までを準(なずら)へ言ふべきにはあらず」というのは、嘘を見抜くのに、わざわざ「仏法」を持ち出すまでもあるまいに、と兼好さんは言うのです。けったいな陰謀論の如きも、歪んだ「仏法」の類かもしれない。(左上は京都市右京区双ヶ岡の「兼好法師旧跡碑」)

 屠蘇なくて酔はざる春や覚束な (漱石)(大酒呑みだったぼくが、酒なしの正月を迎えるのは何年目になるか。「覚束ない」ということはまずなくなりましたね)

(「自主トレ」もやがて、開始以来、一年がたつ。効果はいまだ不明です。自覚がないといっておきます。無理せず、無駄をしないという鉄則を守ろうとしたのではありませんが、毎日の食事や入浴のように、必要に見合った分だけを、と心がけてきました。今少し続けること、それが肝要というのでしょうね。やがて成果となって、いやいや、そんな「期待」「願望」は無用ですね)

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明けゆく空の気色、昨日に変はりたりと

 さて、冬枯の気色こそ、秋には、をさをさ劣るまじけれ。汀の草に紅葉の散り留まりて、霜いと白う置ける朝、遣水より煙の立つこそ、をかしけれ。年の暮れ果てて、人ごとに急ぎあへる頃ぞ、又無く、哀れなる。凄まじき物にして、見る人もなき月の、寒けく澄める二十日余りの空こそ、心細きもの物なれ。御仏名、荷前(のさき)の使ひ、立つなどぞ、哀れに、やんごとなき。公事ども繁く、春の準備(いそぎ)にと取り重ねて、催し行はるる様ぞ、いみじきや。追儺より、四方拝に続くこそ、面白けれ。晦日(つごもり)の夜、いたう暗きに、松ども燈して、夜半(よなか)過ぐるまで、人の、門叩き、走り歩きて、何事にか有らん、事々しく罵りて、足を空に惑ふが*、暁方より、さすがに音無く成りぬるこそ、年の名残も心細けれ。亡き人の来る夜とて、魂祭る業は、このごろ都には無きを、東の方には、猶、する事にて有りしこそ、哀れなりしか。

 かくて、明けゆく空の気色、昨日に変はりたりとは見えねど、引き替へ、珍しき心地ぞする。大路の様、松立て渡して、華やかに嬉しげなるこそ、また哀れなれ。(「徒然草」第十九段)(島内裕子校訂・訳 ちくま学芸文庫版)

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「あわただしい歳末風景や、大晦日と元旦を一続きの切れ目のない、流れとして描く。早朝の都大路の風景に、無事に巡ってきた新しい年を言祝ぎ、季節の循環を改めて認識する」(島内裕子)

 この章段を愛でる人はたくさんいるようです。理由は人それぞれでしょうが、大晦日と元日が連続した時間でしかないのに、あたかも行く年来る年のバトンタッチが瞬時に行われ、同時に、人々の心の切り替えもまた一続きの時間の中で、微妙に行われる。その物・心両面の微妙な連続と非連続の様子が、いかにも事々しくなく表現されているからでもあるでしょう。

 ぼくは、何事もなくこの年の交替を夢の中で過ごしました。朝の四時、例によって「ラジオ深夜便」で、一人の男性(九十三歳)の語りに、「こんな人もいるのだなあ」と、こころを洗われたような気になりました。これこそ、「果報は寝て待て」というのかしら。彼は結婚六十三年をへて妻を亡くされた。一歳違いの兄さんと妹さんというべく、元銀行の同僚同士の夫婦でした。こんな夫婦がいるのだ、しかも六十数年変わらずに続いたと、ぼくは卒倒しそうになりかけながら(寝ているのですから倒れない)、その話に引き込まれていった。イチカワケイイチさんと言われた。妻の死後、ほとんどなす術もなく暮らしていたが、何かのきっかけで、気を取り直した。そして、生前の妻の遺品整理に立ち向かったそうです。

 ここでイチカワさんは「感謝離」という語(漢字が違うかもしれないが、ぼくにはそのような意味に受け取れました)、それを何度も使われていた。着るもの、履物、使ったもの、すべての品々に妻を見ながら、「付き合ってくれて、ありがとう」という感謝の気持ちが、遺品を通した「彼女との出会い」の中で淡々(ではなかったでしょう)と湧き出てきた様を語られていた。さらに「代謝離」(という漢字だったか、後日確かめたい)、「断捨離」などと簡単に捨てられなかったからこそ、人も物もすべては「新陳代謝」だから、遺品も「代謝離」じゃないかと気が付いたといわれるのです。このようなイチカワさんの経験が新聞の「読者の声」に掲載され、大きな反響を呼んだそうです。(たしかアサヒだったか)この記事がさらに広がり、「映画」にまでなったという。(ぼくはまだ観ていません、当然ですが)

 人知れず、時間の長短はあろうが、人が出会い、別れるという、寄せては返す波の如き交わりの中で生涯を送る人がどれほどいるのでしょうか。ここにこそ、ひとりひとりの歴史があり、さらに人間の歴史、人類の歴史があるのだと、ぼくは痛感したのでした。歴史は、なにか書物になったり、記録されたものでしかないというのではありません。故人が生前に使っていた「お茶碗」一つ、「一膳の箸」、そこにも歴史を紡ぐ糸があるし、あるいは着物の切れ端にさへ、個人の想い出が宿っていると感じられれば、そこには紛れもない歴史が生まれているのです。若いころに、著名な文学者が「歴史は想い出だ」といったことに、ぼくはいたく感動したことを今でも忘れないでいる。遺品(想い出)から「事物の存在」の確かさを再確認するに至る、それが歴史です。(これは「遺跡の発掘」とは、すこしニュアンスは異なるでしょう)

 床の中で聞いた「深夜便」は、「他者に知られない歴史」には光や温かみがいつでも「想い出」を介して甦るということを伝えてくれたと思います。(さらに、続きがあって、起床後、西日本新聞をネットで開いたら、そこに、野見山暁治さんの写真と溢れる仕事への情熱が語られていました。たくさんの事を教えてくださった画家です。野見山さん、本日元旦には、百歳になられました)(誠実を貫くのは至難ですが、そのように生きていきたいね)

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「不要不急」 それでも芸術の力信じ… 満100歳迎えた野見山暁治さん

 大正、昭和、平成、令和と四つの時代を生き抜いてきた画家の野見山暁治さんが1日、満100歳を迎えた。コロナ禍で不要不急とされた芸術に向き合い続けた人生。「今の日本は忙しい。人情や友愛、慈しみの心が薄れてしまった」。そう嘆きつつも、芸術の力を信じ、変わらぬ情熱で絵筆を握る。/ 1920年12月17日(戸籍上は翌年1月1日)、福岡県穂波村(現飯塚市)生まれ。東京美術学校(現東京芸大)で学び、満州(現中国東北部)に出征。12年間の在仏を経て東京芸大で教え、2014年に文化勲章を受章した。洒脱(しゃだつ)な随筆でも知られ、戦没画学生の作品保存に尽くしてきた。現在は都内で暮らし、福岡県糸島市で毎夏過ごす。(以下略)(2021/01/01 06:00西日本新聞)

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