雪の降るこのしづけさは…

 ヘッダー写真「12日夕、秋田県横手市安田字ブンナ沢のリンゴ畑は雪にすっぽり埋まり、枝には重そうな雪がのっていた。県の同日時点のまとめでは、大雪による農林水産関係の被害は3億2394万円。だが、積雪のため被害を確認できない地域が多く、被害額はさらに膨らむ見通しだ」(秋田魁新報電子版・2021年1月16日)

*****************************

【北斗星】(2月10日付)風のない穏やかな冬の日に、きめ細かな雪がしんしんと降り積もることがある。この時期の清らかでりんとした美しい光景をうたった句に〈雪の降るこのしづけさは秋田のもの〉がある▼作者の玉村徹太郎を知る人は多くないだろう。旧鷹巣町に生まれ、上京してから句作を始めた。後に職を求めて北海道に渡ったが、病を得て帰郷。翌1951年に26歳の若さで亡くなった。今年は没後70年に当たる▼山口誓子主宰の俳誌「天狼」で研さんを積んでいたようだ。帰郷後に詠んだ先の句は、誓子から「秀(すぐ)れた郷土愛にもえる真実を吐露した」と評された▼(右は誓子)

 玉村という早世の俳人の存在を同郷の五代儀幹雄さん(88)から教えていただいた。若き日に玉村の作品と出会い大きな衝撃を受けたという五代儀さん。郷土を詠むことの大切さを教えられたという▼新進気鋭の俳人として活躍する夢を打ち砕かれた玉村は、志半ばでの帰郷となったのではないかと想像する。挫折感から荒れた日々を送ったことをうかがわせる句もある。同じく雪を詠んだ句でも〈雪国の天の貧しさ雪降りだす〉は古里への屈折した思いを浮き彫りにする▼帰郷後の句作の期間は1年ほどで、残された作品の数も多くない。最晩年の〈栗の実が木のてっぺんに墓穴掘る〉は、迫り来る死の影を木に幻視して壮絶だ。そうした苦境のただ中で詠まれた冒頭の句は、最後にたどり着いた静謐(せいひつ)な境地を古里の雪景色に託したのだろう。忘れられない作品である。(秋田魁新報・2021年2月10日 掲載)

+++++++++++++++

 上に引用された句について、コラム氏は「最後にたどり着いた静謐な境地を故郷の雪景色に託した」と読んでいます。そうかもしれませんが、ぼくは素人なりに、それとはちがった捉え方をしてみたくなります。大雪の降る季節はまったく外で働けない。辛うじて、来るべき春に備える夜なべ仕事で過ごすほかない。雪害というものが測られる時代ではなかったにせよ、玉村在世の時代、あまりにも深刻は貧しい生活を余儀なくさせるのが雪の降り続く季節でした。「雪の降るこのしづけさは秋田のもの」というのは、やりきれない生活苦と降りしきる雪の重みに打ち付けられた民衆の悲しみを衝いていないでしょうか。雪を観光資源、「金儲けの材料に」にという、とんでもない発想は雪国から生まれるものではない。屋根からの雪下ろしや道路の除雪、田畑の雪かき、それらががどれだけの重労働であるか、その真似事をいささかでも経験したものなら、きっと肯定するはずです。

 雪は呪うべき現象であると同時に、農作業に欠かせない用水のための重要な水源ともなります。この二つの相反する要素となる「雪」を、単純に愛でることはできないし、それなしの日常を望んでも、また降る雪は貴重な水資源であるという、結論に行きつくほかないのです。(誓子の評「秀(すぐ)れた郷土愛にもえる真実を吐露した」について、ぼくは同意できそうにありませんね)

 若い俳人の履歴について、ぼくは何一つ知りません。いくらかは調べてはいるのですが、はかばかしい結果を得られないままです。秋田の友人に依頼しようとも考えたりしますが、まず無理だろうという、諦めが先立つのですし、それでいい、一句二句、残されたものがあれば、それでよしとしようという気にもなるのです。これと対照的な一句を出しておきます。場所は東京青山だという。作者は中村草田男。句集「長子」所収。昭和六年の作。これはただそのままに、口にすればいいのでしょう。自分の少年時代だった東京の明治、降り出している雪を見るにつけ、明治はの御代は、何年も前に終わったんだなあ、という感慨でもあろうか。これはけっして「雪の降るこのしづけさ」ではないと思います。都会に降る雪、その雪は決して秋田には降らないのです。

 いろいろな人の上に雪は降る。さまざまな場所にも降る雪があります。

・しんしんと雪つむ夜の梁の音 (長谷川素逝)
・降る雪の奥も雪降るその奥も  (林翔)
・新雪の闇より闇へ雁のこゑ  (飯田龍太)
・雪国の天の貧しさ雪降りだす (玉村徹太郎)

#####################################

 ・心からしなのの雪に降られけり (一茶)

 この一句は、徹太郎さんの苦境にも通じるかもしれない。都会ではなく、「しなのの雪」にこそ、一茶は心から感じ入ったのであり、それはまるで信濃の臭いまでも降らせているようだ、と。比較は無意味ですが、秋田の青年と信州の老人に、雪を間に通い合う心境というものがあるように、ぼくは感じるのです。

 何処で降るか、、誰に降るか、どんな時に降るか。それぞれに、降る雪に変わりは、大いにあるのですね。

________________

権力のダシに使われるばかりの五輪です

【河北春秋】 「ナチスの五輪」。1936年に開かれたベルリン大会はヒトラーが国威発揚の舞台として利用したことで知られる。レニ・リーフェンシュタール監督は記録映画『民族の祭典』『美の祭典』で、映像作家としての地位を不動のものにした▼大戦後に戦犯として裁かれた彼女が生前、ノンフィクション作家の沢木耕太郎さんのインタビューで反論している。「当時の私は国際主義の信奉者。政治宣伝は行っていない」▼ヒトラーとの懇ろな関係をうわさされたこともあるが、その発言からは映像のプロとしての強烈な自負がのぞく。とはいえ、映画は結果的にナチスに花を持たせることに。奸智(かんち)にたけた為政者は「平和の祭典」をうたう五輪をてこに、世界征服の野望を膨らませていった▼この人の場合はどうなのだろう。「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証し」として東京五輪を実現すると強調する菅義偉首相。征服の対象はウイルスだが、感染の収束は見通せず国内外で慎重論が拡大する▼疫病がまん延する前は「復興」が東京五輪の枕ことばだった。建前上は消えていないけれど、なぜか後景に押しやられた印象だ。時代状況と無縁な五輪などないが、開催意義の上書きはむしろ焦りの表れか。「政権浮揚」という裏書きが透けて見える。(河北新報・2021年02月09日)

●リーフェンシュタール(英語表記)Riefenstahl, Leni 1902―2003Leni Riefenstahlドイツの映画監督,写真家。ベルリン生れ。バレリーナとしてM.ラインハルトに学んだ後,山岳映画に主演し監督も手がける。次いでヒトラーのもとでナチス党大会の記録《信念の勝利》(1933年),《意志の勝利》(1934年),1936年のベルリンオリンピックの記録として,第1部《民族の祭典》,第2部《美の祭典》からなる《オリンピア》(1938年)を監督。これらの作品にみられる民族的英雄主義を賛える映像的技法は,ドキュメンタリー映画の金字塔であると同時に,ナチス宣伝映画の基本的なスタイルとなった。〈ヒトラーの愛人〉〈第三帝国のセックス・シンボル〉などと呼ばれ,第2次大戦後は4年間収容所生活を送る。《低地》(1954年)を製作した後は写真家として活動し,スーダンのヌバ族の写真集《ヌバ》(1964年)が話題を呼んだほか,水中写真も発表している。(百科事典マイペディアの解説)

+++++++++++++++

●オリンピズムの根本原則

  1. オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、 バランスよく結合させる生き方の哲学である。 オリンピズムはスポーツを文化、 教育と融合させ、 生き方の創造を探求するものである。 その生き方は努力する喜び、 良い模範であることの教育的価値、 社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする。
  2. オリンピズムの目的は、 人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである。
  3. オリンピック ・ ムーブメントは、 オリンピズムの価値に鼓舞された個人と団体による、 協調の取れた組織的、普遍的、恒久的活動である。その活動を推し進めるのは最高機関のIOCである。活動は 5 大陸にまたがり、 偉大なスポーツの祭典、 オリンピック競技大会に世界中の選手を集めるとき、 頂点に達する。 そのシンボルは 5 つの結び合う輪である。
  4. スポーツをすることは人権の 1 つである。 すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない。 オリンピック精神においては友情、 連帯、 フェアプレーの精神とともに相互理解が求められる。
  5. オリンピック ・ ムーブメントにおけるスポーツ団体は、 スポーツが社会の枠組みの中で営まれることを理解し、 政治的に中立でなければならない。 スポーツ団体は自律の権利と義務を持つ。 自律には競技規則を自由に定め管理すること、 自身の組織の構成とガバナンスについて決定すること、 外部からのいかなる影響も受けずに選挙を実施する権利、 および良好なガバナンスの原則を確実に適用する責任が含まれる。(「五輪憲章」より)

**********************************************

 期日を一年延期した、東京五輪も半年後に迫ってきましたが、ここにきて、なにかと騒々しい事態が巻き起こっています。そもそも、五輪はいろいろな意味で政治的・商業主義的な催し物になりきっており、それに参加する選手たちの大半はプロです。上に示した「五輪憲章」に見られるような「オリンピズム」というものが失われて久しい。それを無視して、嘘っぱちの五輪精神というところに、今日の五輪問題のまやかしがあるのでではないか。政治的な意味を除いて、五輪の存在価値はなくなったように、ぼくには思われてきます。

 

 36年はベルリン(ヒトラー)、40年は日本(東条英機)、44年はローマ(ムッソリーニ)と、まさに日独伊三国同盟が、五輪史のなかでも、固く結ばれていた時代でした。戦争の惨禍が終わった時点で「幻の五輪」は順番通りに開催された。ぼくには「幻の東京五輪」の記憶はありませんが、その歴史を実地に辿った経験があります。競技場などを建設するために、住まいを追われ、生活を奪われたたくさんの人民がいました。今回の五輪開催でも同じ問題が生じています。それも含めて、五輪と「政治権力」は密接不離であり、権力の象徴として、「五輪精神」をとことん利用し、それを土足で踏みにじって来たのです。「マエハタ、ガンバレ」という実況中継のアナウンサーの絶叫が耳について離れません。忌まわしい記憶の一つです。前畑秀子さんに文句を言うのではありません。

 五輪と政治というかかわりでいえば、その典型は1936年に開催された「ベルリン五輪」でした。「民族の祭典」という標語を掲げたこと自体、五輪精神の死を明示していました。五輪記録映画も話題になりましたが、そこには「国威発揚」がいかんなく発揮され、五輪どころか、権力のすべてが顕彰され、民族主義の「不滅性」が謳歌されたといってもいいでしょう。今でも、政治力なしでは「五輪」開催は不可能です。ナチに続いて、1940年、日本は東京五輪を開こうとしました。ベルリンにつづいての「民俗の祭典」です。この時は日中戦争拡大の影響で中止されたのでした。その1940年(昭和15年)は皇紀2600年に当たっていた。「邦国の開闢以来、2600年」という「祝賀すべき」年に当たっていた、と受け止められていた。

 64年の東京五輪時、ぼくは東京にいました。テレビ放送をしていたので、いくつかの競技は見た記憶はありますが、殆んど印象に残っていません。「東洋の魔女」と名付けられた女性たちが戦ったバレーは何年も経過した後の映像で見たのですが、「俺についてこい」という監督の言葉や野蛮な練習ぶりには目を向けられなかった。

 そもそも、競争相手を打ち負かすとか、敗亡を喫するということ自体、ぼくは大嫌いでしたから、五輪が鮮明に印象付けられることはなかった、こんな言い方は誤解されるのですが、余計な解説は付けない。世界規模を誇るような五輪などではなく、それぞれの競技における大会は無数にあるのですから、そちらに任せれば済むものをというのが、ぼくの考えです。競争は尊いとか、勝負に勝つための努力は美しいというような、捻じ曲げられたげられた「覇権主義」はぼくの選ぶ所ではありません。

競争に勝ったから「日の丸」というのはなんですか。壇ノ浦か二〇三高地の戦いですかね。自軍や国家を背負っているということ自体、スポーツとは根っ子を違えていませんか。当時の東京五輪のマラソンで、三位になった選手が、その後に自殺し、大々的に報道されたこともありましたが、とても違和感を感じました。(選手にというよりは、報道の仕方に、感じました)東京五輪の「記録映画」もつくられましたが、ぼくは敢えて見なかった。その監督にぼくは嫌悪を抱いていましたから(いまでいえば「パワハラ」の権化のようでした。多くの映画監督にはこの手の醜聞はつきものでした。ぼくが映画嫌いになった一因かも)。「国威発揚」をこれでもか、と総力を挙げて、五輪を美化しようとししたのではなかったか。

 おそらく、今回も、仮に実施されれば、ある監督(この島のリーフェンシュタールになるのかしら)が記録映画を残すのでしょうが、ぼくは見たくありません。(体制翼賛)という風潮にはぼくの柔な脳細胞がついて行かないんですね。映画や新聞が政治の「宣伝」材料に使われることにもっと問題意識を持たなければと、ぼくは、たった一人で強く感じているのです。現実の状況は相当にひどいものだとみていますが、もっとひどくなることは請け合いです。

 今回の五輪開催は、ぼくのなかではあり得ませんが、これまでに使った二兆を超える税金は戻ってきません。こんなえげつない権力の「いいとこどり」「人民からの収奪」はこれで二回目ですから、きっともう一回はあるのでしょう。「二度あることは三度ある」少なくとも、人民一人当たり、三万円を略奪されているのですよ。

 【余録】東京湾の埋め立て地の一角に東京都江東区の枝川地区はある。「十畳長屋」と呼ばれるトタン壁の住宅が昔の面影をわずかに残している。1941年、当時の東京市が、周辺に住む在日コリアンを強制移住させた▲40年の開催を目指した東京五輪の関連施設をつくるのが目的だった。日中戦争で五輪は幻に終わったが、市は住民の反対を押し切って計画を進める。ゴミ焼き場のハエに悩まされる土地に1000人を超えるコリアン街ができた▲住民は助け合って暮らした。45年3月10日の東京大空襲。総出で消火し、下町が焼け野原となる中で、枝川は焼失を免れる。そこへ押し寄せたのは被災した大勢の日本人だ▲「東京のコリアン・タウン 枝川物語」(「江東・在日朝鮮人の歴史を記録する会」編)に証言が残る。

「(被災者は)何千人じゃないかなー。みんなで炊き出しをやって助けたんですよ、握り飯やどぶろくを出してね」。住民は食べ物や着物を惜しまず与えた▲下町には関東大震災の時に多くの朝鮮人が虐殺された過去がある。虐殺はあったのかと問われた小池百合子都知事は「さまざまな見方がある」と明言を避けた。日本人に虐げられてもなお、空襲の被災者に手を差し伸べた枝川の住民がいたことを思わずにはいられない▲枝川の街から運河を一つ越えれば、五輪開催で開発に沸く豊洲地区だ。五輪を控えて小池知事が掲げる「ダイバーシティー」とは、国籍や性別に関わらず、人の多様性を尊重する社会を意味している。(毎日新聞・2017年9月10日 東京朝刊)

############

 この枝川地区にある朝鮮学校に、ぼくは若い人たちと何度か通ったことがあります。この枝川の隣に「五輪選手村」となる予定だったマンション群が林立しています(晴海地区)。

 「フクシマ復興五輪」という荒唐無稽、かつ不誠実極まりない、現実を無視した政治メッセージを掲げて五輪誘致を果たしたのは、いくつもの犯罪容疑を持つ、前の「嘘つき総理」だし、「人類がコロナに克った証」の五輪開催をとほざいているのが、現「虚言癖強面恐喝総理」でした。利権や賄賂で泥まみれにされてしまった東京五輪。きっぱりと中止を内外に明言しなければならない、それがいまです。(本日は「春秋」で始まり「余録」ならぬ、「余禄」で終わるという下卑た落とし噺になるという塩梅です。五輪誘致から幾春秋、今では「余禄」こそが、五輪の最大の開催理由に成り下がりました。膨大な税金・寄付金が行方知れずになりにけり、です。)

__________________________

皺(しわ)にこそ、人間の光と闇が表れる

【有明抄】しわだらけの手、シミのある目元、まばらな髪…。細密な鉛筆画で知られる画家木下晋さんは、やせ衰えた老人を数多く描いてきた。あるとき脚本家の山田太一さんが尋ねた。絵を描く人なら、若い女性を描きたい、その美しさもたまには自分の絵にしたいとか思わないのですか、と。木下さんはさらりと答えた。「しわのない肌はつまらないから」◆しわもシミも、白髪も抜け毛も、世間から見れば老いは「マイナス」でしかないが、実はそこに豊かな価値があるということなのだろう。「女性にとって最良の夫は考古学者だ」と、ミステリー作家アガサ・クリスティーも語っている。なぜなら「妻が年をとればとるほど夫が興味をもってくれるから」◆全国で65歳以上の女性は2018年に初めて2000万人台に突入し、同世代の男性を500万人近く上回っている。今世紀半ばには5人に1人は高齢女性が占めるという。人口減少が進む社会で、彼女たちの存在感は増している◆ただ、この世代で働いているのは男性に比べまだ半分ほど。近ごろ盛んに語られる女性活躍も、ちゃんと彼女たちまで人数に入れてあるか、少々気になる。元気なおばあちゃんたちが、元気のない社会に活力を与える。そんな時代は遠くない◆また話し合いが長くなる…と嘆く御仁がおられないか心配ではあるが。(桑)(佐賀新LIVE・2021/02.08)

+++++++++++++++++++++++

● 木下 晋 Susumu KINOSHITA

1947富山県に生まれる

196316歳 作品「起つ」を自由美術協会に出品、初入選を果たす。

196922歳 8月村松画廊での初個展で、評論家・瀧口修造と出会う。

197528歳 木下晋油絵展(現代画廊・東京 ’77 ’79 ’81’83 ’85)

198942歳 注連寺に籠り天井画本図を描き上げる。

199245歳 9月念願であったニューヨークでの個展が実現する。(キーンギャラリー)

199750歳 「木下晋 えんぴつの世界 1981-1997」(池田20世紀美術館・静岡)

199952歳 東京大学大学院工学系研究科建築学専攻非常勤講師(造形基礎)となる。(~2008年)

200154歳 武蔵野美術大学造形学部油絵学科非常勤講師となる。

「スタンダート展」(直島コンテンポラリーアートミュージアム・香川)

200457歳 「六本木クロッシング:日本美術の新しい展望2004」(森美術館・東京)

200962歳 金沢美術工芸大学大学院博士課程専任教授となる。

201164歳 3月に起こった東日本大震災の被害を目の当たりにし、新たに「合掌図」の制作を行う。

201265歳 「木下晋展 祈りの心」(平塚市美術館・神奈川 他2館巡回)

201568歳 教科書「高校3年・美術」(日本文教出版・三村図書刊)に制作風景と作品が掲載される。

201669歳 「エッケ・ホモ―現代の人間像を見よ―」(国立国際美術館・大阪)

201770歳 「リアルの行方」(平塚市美術館・神奈川 他4館巡回)

5月14日NHK日曜美術館・特集「リアルの行方」に出演

「ニッポンの写実 そっくりの魔力」(北海道函館美術館 他3館巡回)

現在パーキンソン病の妻をモデルにした作品の制作を続けている。

パブリックコレクション

国立国際美術館 福岡市美術館 神奈川県立美術館 富山県立美術館 石川県立美術館 新潟県立近代美術館 宮城県立美術館 平塚市美術館 沖縄県立美術館 他10数館(https://echo-ann.jp/artist.html?name=%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E6%99%8B)

****************************

【学校とわたし】 極貧から救ってくれた先生=鉛筆画家・木下晋(すすむ)さん

 終戦2年後、富山に生まれた私は食うや食わずの極貧家庭に育ち、5歳のころ、二つ違いの弟が餓死しました。父はとび職で留守が多く、母は兄を連れて放浪を繰り返していました。小学4年のころ、母を追って街をさまよい、空腹に耐えられずパン屋でコッペパンを盗み、その場で捕まりました。

 施設に保護された私を連日校長先生が訪ねてくれました。その熱意に心を開いた私に、1冊の本をさりげなく置いて帰りました。タイトルは「ああ無情」。ビクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」の児童向け翻訳書です。パンを盗んだ主人公ジャン・バルジャンが成長して市長になる物語を、「僕とそっくりだ。すごいぞ」と泣きながら読みました。「こんな僕でも立派な人になれるかも……」。希望の灯が幼い私の心にともったのです。

 富山市立西部中に進み、2年の1学期終了時、美術の河西(旧姓清水)修子先生から「木下君、夏休みも学校に来て彫刻をしてみない?」と声をかけられました。しかも「昼にはラーメンをごちそうする」と。生活保護家庭の子にとって、給食のない夏休みは「昼抜き」を意味します。願ってもない提案でした。(以下略)(毎日新聞2020年1月20日 東京朝刊)

************

 ひたすら、木下さんの作品に向かう。どれくらいの時間が経過したのか、すこしも気にならないうちに何時間も過ごしてしまうことがあります。木下さんが描いた「人」たちの中にこそ、人間の生の歴史が刻み込まれている。そこには外側からは伺い知れない深い「闇と光」があると、木下さんは言われる。ぼくは、ある友人を通して、草津の「桜井さん」とも不思議なご縁を持つことが出来ました。東久留米の多摩全生園には何度か通ったことがあります。「社会の闇や心の闇を描くには、6Bではだめだった」という話に、ぼくは度肝を抜かれた。

 「しわのない肌はつまらないから」というのが、木下晋さんの絵を描く根本の態度であり、生きるための根っこにある思想ではないでしょうか。しわや老衰(もうろく)を、まるで忌み嫌うべき「病」のように排除するような時代社会のもつ、いいようのない闇の深さを、ぼくは今一度経験しなければならないようです。「孤独」というものに、ぼくはまだ遭遇していないのかもしれない。

______________________________

かつて遠藤友介という詩人教師がいました

 〔本日の詩、いくつか〕

 傘のない子は はるさめついて 蕗のはかむってはしってこい

 木綿糸(もめど)で ぬうたゴムぐつ けうもはいてきた くつずれ くつまめ すあしがいたいなあ

 子守して行(え)ぐと がっこ厭(や)んだ やんだ 小便たれられ はらまで ぬらされ みんなからからかわれ 

 あすは とほく こもりにやられるといふ おまえ おほきいゴムぐつ あめなかをゆく からかさかたむけ さようなら さようなら さようなら

 すあしで つめたくないかときくと にっこりして あたらしい足袋はかず ふところにしまってるの これとみせられた

 けふも ひるめしに味噌つめてきた マサヲの眼(まなこ)となりの塩引(しおびき)じろじろ にらめながら はしうごかしている          (『遠藤友介歌集』)

 はるかに遠く、「山びこ」はこだました?

 遠藤友介(1907-1955)という教育者がおられました。今ではほとんど忘れ去られてしまった人です。山形県は山元村国民学校の訓導(旧制小学校の正規の教員の称。学校教育法により現在は教諭)(広辞苑)で、敗戦直前には村の「移民推進員」を勤めていました。食糧難と貧困に勝てず、村はこぞって海外移民を模索していたのです。その移民募集係を、教員が担わされていた時代でした。

 遠藤さんは敗戦直後まで同国民学校時代最後の校長を務めていました。その後、山形県教職員組合の委員長を務められて、1949(昭和25)年に亡くなられました。49歳でした。遠藤さんは歌人としても、上に紹介したようなリアルな色彩の強い歌を作られ、経済学者だった大熊信行さんが主宰していた「まるめら」に作品を寄せていたのです。それは戦前のことで、戦争が始まるといっさい歌は作らなくなったそうです。ぼくは、遠藤さんについて調べていました。なかなか資料も見つからず、いい加減に諦めていたのですが、紹介した「歌」に詠まれている子どもたちへの限りない愛おしさ、優しいまなざしに心を奪われ、いまもなお憧憬に近い感情をいだいているのです。

 ぼくの手元に一冊の詩集があります。『遠藤友介歌集』(遠藤友介歌集刊行会編、昭和三十二年刊)編集委員には多くの高名な方の名があります。大熊信行、結城哀草果、真壁仁、須藤克三、その他。県内はいうまでもなく、県外でも仕事を通して知られた方々でした。この人々にぼくはたくさんのことを教えられてきました。

 「遠藤友介はすぐれた教師であった。最後は、新設山形市立第六中学校の初代校長として、創業の困難なしごとに心身をかたむけ、三年間で、みごとに新しい校風をきずきあげたのであったが、二年前の三月なかば、卒業式で生徒にはげましのことばをのべながら仆れてしまった。そして学校の宿直室にはこばれたまま入院もできない重態で、ついに恢復をみることもなく死んだのである。寝食を忘れるほど学校創設に奔走した疲れが大きな原因のひとつと考えられ、その最後を思うと、まことにいたましい殉職であった」「かれの歌のなかでは、清らかな恋愛と、貧しい山村の子供のくらしとが、二つの大きなテーマとなっている。遠藤友介はある時期に、教育と文学とを、みごとに統一されたエネルギーとして生活の中に持つことが出来たのであった」(同書、「まえがき」真壁仁)

 こんな時代に、戦前戦後期の一教師の仕事に思いを寄せようとするのは、流行らないどころか、常軌を逸していると思われるかもしれません。でも常軌を逸しているといわれるようなことをしなければ、この出鱈目な学校教育時代を討つことはできないのではないか。ぼくにはそんな思いが滾っているのです。どこにあっても、戦火の中でも日常生活は止められない。「おはよう」「おやすみ」という当たりまえの生活があるからこそ、人間はそこに、自分の根を張ることができるのです。根を張るための「地盤」、それが教育の土壌です。遠藤さんに代表される生活派の教師は、そこに自らの仕事の核心部を見出していたし、そこに向かって意識を集中させていたというのです。(この項、続く)

_________________________________

きはまりなき放言(ほうごん)しつ

 元総理だったとかいう人の「発言」が物議をかもしています。いわく「女性差別」の失言だという。「謝罪会見」を偶然見ましたが、下らん人間の下らん言い訳に終始していました。弁解とか言い訳というのは、「本当に思っていたことを言ったただけなのに」という気味が非常に強い。差別発言というの、殆んどが確信をもってなされた発言です。これは、ぼくのつたない経験から学んだことです。言ってはいけないのに、ついつい言葉が滑ってしまったというのは「失言」でしょ。<make a slip of the tongue>この表現が当たります。本当は言ってはいけないのに、口(舌)が滑ったというのです。言うことは間違いだが、つい言い間違えた、それが「失言」です。失言とは、他者から指摘された時の表現です。

 つまらない発言に目くじらを立てたくないというのは、ぼくの感想ですが、それでも一言しなければと愚考したのは、簡単な理由によります。森某が犯したのは「放言」であって、それは「失言」なんかじゃないということです。どっちだっていいじゃないかというなら、それは奇妙な言い草だし、聞き捨てなりませんね。「言うべきではないことを、うっかり言ってしまうこと」(デジタル大辞泉)、これは失言です。言い方を誤った、表現に適切を失したという話だからです。言ってはいけないのに、思わず口走った。

 この森某の発言はどうでしょうか。「これが言いたかった」というくらいに確信をもって「言い放った」、つまりは「放言」です。「他への影響などを考えずに、思ったままを口に出すこと。無責任な発言」(同上)、これは「放言」です。「放言」でしかないし、あるいは「暴言」と言っていいかもしれない。(「礼を失した乱暴な言葉。無礼で、むちゃな発言」)暴言と失言を同等に扱うのは「暴言」に近いでしょう。ぼくはいくつもの記事を見ましたが、殆んどが「失言」です、それで問題を終わりにしています。

 この御仁は「放言壁(癖)」で有名でした。なぜそうなのか、いろいろな理由があるでしょうが、こういう輩が総理大臣になれるという「永田町(政界)」に原因があると思われます。詮索は止めておきますが、まじめに、真摯に国家社会のために国民の生活と命のために「政治」を執行するための大黒柱となる地位、それが総理大臣であると、露とも考えていない連中が選んだというところに、永田町の奇怪な雰囲気や習俗が充満しているのです。(密室の「五人組」が選んだ、こいつ(森)ならおれたちの利益を害しないという確信で)いつからこんなにひどくなったか、この不誠実極まりない人物が座ってはいけない「ポスト」に座った、座らされた、それが今に至るまで続いているとすれば、かれこれニ十年にもなる期間、国民を踏みにじるための政治が行われていたということでしょう。(しかも、彼が選ばれたのは、「現総理(当時)」が意識を失って昏睡しているベッドサイドでの談合においてだった)

 こんなにわかりやすい「放言」を、わざわざ「失言」と取り違えている、わざと混同している、報道にも開いた口がふさがりません。これも流行りの「忖度」なんだろうか。あるいは、「失言」の方が「放言」よりも罪が軽いとでもいうのか。「言ってはいけないことを言ってしまう」のは「無知」「蒙昧」だからです。だから、それは許せるというのではありません。「無知」であることは話にならないほど、許せないことですから。だから「謝る」「謝罪する」しか方法はないのです。知りもしないのに、余計なことを言ってしまった。「ご免なさい」と。しかし「放言」は違う。(当たり前の感覚なら、言うべきでないことを)知っていながら「信念をもって発言する」、誰も言えないだろ、と。それを以て、自分は偉いと思われるはずだという程度の認識をひけらかしているのです。これを「撤回」「謝罪」で終わりにできるでしょうか。その証拠に、森某は「確信していることを言ったまでだ」「女がいると面倒だ」ということを常日頃から苦々しく思っているから、素直に「謝罪」も「撤回」もできない、言えば弁解になっているのがその証拠です。その「弁解」も敵意を多分に含んでいるから、始末に悪い。底なしの「無知」「無能」でした。謝ります、といえないという「無知」の人間に特有の往生際の悪さを、ぼくは感じてしまう。

 もっと言うなら、この御仁が会長職についている組織が、これまでの五輪開催準備にどれだけの税金を使い、これからさらにいくら使うつもりなのか。ほとんど使いたい放題です。当初の発表では、開催費用は「七千億円」だった。すでに二兆円超が使われ、さらに一兆ともいわれる金が投入されるという。会計報告は一切なし。これだけ税金投入事業の主であるという責任意識がまったくないのだから、手に負えない。即刻辞職、「首にする」、いや「首に縄をかける」べきであると言いたいほどです。五輪がどんなに出鱈目な金の使い方で、開催できない状況の中でありながら、ひたすら引きのばしを謀っています。こんな無残な五輪組織委員会の暴走についても、マスコミはまったく口をつぐんでいます。森某と同罪じゃないですか。「謝罪会見」において、質問した中に「全国紙」記者は一人もいなかった。 JOC(この組織の前会長は五輪誘致に絡んで賄賂を使ったという疑いがまだ晴れていない。現会長は、JOC委員会の(事態を弁えない)「女性発言」で困っていると森某に訴えたから、この差別発言が生まれた)も文科省(スポーツ庁)も、東京都も組織委員会自体も、一言あってしかるべき、意や猫の首にじゃなく、森某の首に縄をかけるべきであるのに、まったくシラを切っている。嵐が過ぎるのを待っている。スポーツとはいかにもかけ離れた態度だ。なんとも、情けなくはありませんか。それに輪をかけて酷いのIOC、この組織は、もういりません。無用の組織です。

***************************

 芸のない話ですが、また「徒然草」を持ちだします。高野山の偉い坊さんが京都にやってくる途中、細い道で馬に乗った女とすれ違った。その女の馬子が馬をうまく御さなかったので、上人が乗った馬を堀の中に蹴落としてしまった。その時の上人の怒りに駆られた、悪口雑言がすごかった。本性下品が剥き出しになった。下品(げぼん=げしょう)とは、下劣ということで、それを衣で隠していたというのでしょう。

+++++++++++++

 聖いと腹悪しくとがめて、「こは希有(けう)の狼藉かな。四部(しぶ)の弟子はよな、比丘(びく)よりは比丘尼(びくに)はおとり、比丘尼より優婆塞(うばそく)はおとり、優婆塞より優婆夷(うばい)はおとれり。かくのごとくの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴入れさする、未曽有の悪行なり」と言はれければ、口ひきの男、「いかに仰せらるるやらん、えこそ聞き知らね」と言ふに、上人なほいきまきて、「何といふぞ。非修非学の男」とあららかに言ひて、きはまりなき放言(ほうごん)しつと思ひける気色(けしき)にて、馬ひき返して逃げられにけり。/ 尊かりけるいさかひなるべし。」(「徒然草」第百六段)

 「四部の弟子」とは「4種の仏弟子。比丘 (びく) ・比丘尼・優婆塞 (うばそく) ・優婆夷 (うばい) 。四衆」(デジタル大辞泉)を指す。つまり、身分が低いくせに上位の比丘の乗った馬を蹴落とすとは、「未曽有の悪行なり」と怒り心頭に達した。森某も、この上人のようではありませんか。女のくせに、男の中に入ってきて、ペラペラ話をする、時間の無駄を考えないとは、身の程知らずめと、言ったと受け取れます。「なんとおっしゃいます。ちっとも言われることがわかりません」といわれたが、さらに言い募って「上人なほいきまきて、『何といふぞ。非修非学の男』とあららかに言ひて」と。ここではっと我に返ったかどうか。いったい俺は何を口走っているんじゃと「きはまりなき放言(ほうごん)しつと思ひける気色(けしき)にて」、馬を引いて逃げ帰ったという。余りにも出鱈目な悪口だと気づいたのは上人であって、森某とは違う。

 「尊かりけるいさかひなるべし」というのは兼好さんです。喧嘩は事実ですが、いかにも「尊いいさかひ」であったとするのです。罵りを発している音声が自分の耳に届いたのでしょう。小人は恥ずかしくなり、そこにいたたまれなくて逃げてしまった。「俺は発言を撤回して、謝罪までしてやった。文句あっか」と元総理。間違いだらけのちっぽけな自分を後生大事にするのもいい加減にした方がいいね。

 「バカは死ななきゃ治らない」と呻ったのは広沢虎三師した。

################

【大観小観】▼全国紙の他県の支局長が部下からのセクハラの訴えで左遷されたことがある。同期だという津の支局長が「バカなことをして」と吐き捨てるように言ってから「うちの女性記者に手を出すなんて」と続けた。魅力の問題か、意識が高いということかと戸惑ったことがある▼どちらの含みもあるか。男尊女卑の背景を感じさせもしたが、男社会の中で、女性の先駆者が女というより、人間として強い信念を持って行動し、道を切り開いてきたのはよく知られる▼東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長が発言を撤回し、謝罪した。委員の女性枠拡大を議論して「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」などと述べた。組織委の女性委員は「わきまえておられる」とも発言して、批判が広がっている▼現在の風潮にあえて異論をはさむというのではなく、問題とも思わず発言して問題になるというのが森会長の〝失言〟の特徴だ。委員枠の発言について、謝罪会見では「(男女を問わず)どなたが選ばれてもいい。無理なことはしない方が」の趣旨だったと釈明している▼この論理が事実上、女性を閉め出すことになっていることに気は回らなかったのだろう。女性委員が半数を占める会議に出席することがある。各組織の持ち回りで参加してくる女性の発言はなく、組織の幹部としての委員は男性に劣らず発言し、その都度新たな視点を教えられる▼女性がより鍛えられる構造はそう変わっていないのではないか。元首相のなにげない一言が社会の女性の現状を雄弁に物語っている。(伊勢新聞・2021-02-06)

【河北春秋】仏教では、してはいけない行いを「十悪」と呼ぶ。10のうち、口に関するものは、「綺(き)語」「妄語」「悪口(あっく)」「両舌」と四つもある。綺語はお世辞、妄語はうそ、両舌は二枚舌のことを言う。「口は災いの元」とはよく言ったもの▼東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の口も災いをもたらした。ただし、こちらは十悪にはない「失言」。「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」などの発言が女性を蔑視し、五輪の理念を否定するのではないかと国内外から批判された▼謝罪して撤回したものの、辞任は否定。記者会見での居直ったような言動からは事の本質と重要性を理解している様子はうかがえなかった。かえって火に油を注いでしまったようだ▼森氏は首相在任中を含め、数々の失言が問題視された。「またか」とあきれた人もいるだろう。だが、海外は森氏個人の問題ではなく、日本が性差別に対してきちんと向き合っていない国だと受け止めている。こちらの方がより深刻ではないか▼森氏は、過去にこんなことも言った。ソチ冬季五輪で、フィギュアスケートの浅田真央さんに対して「大事なときには必ず転ぶ」。「転ぶ」を「失言する」に置き換えると、ご本人のことに。首に鈴を付ける人はいないのだろうか。(河北新報・21年02月06日)

+++++++++++++++++++++++++

 出てきてはいけない人間がしゃしゃり出ているのが、この島の、特に政治の歴史です。どこまで続くぬかるみぞ。森某を推したのは「前総理」、その後を継いだ「現総理」は家族ぐるみで違法行為三昧です。人を選ぶというのは、なかなか簡単ではないということを、ぼくたちは改めて考えた方がいいという事例にはなるでしょう。現総理は、やがて辞職。森某も辞任。接待を受けた公務員は解職(会食ではない)。接待した方はお咎めなし。さらにコロナは衰退を見せないままで、発表される感染者数は激減の一途。ワクチンはいつから接種できるのか。光明が見えない中で、ぼくたちは、なお手探りで歩を進めるのです。くれぐれも「感染」には注意したい。(この島が世界の中で、まことに恥ずべき政治を続けているというニュースを海外に知らしめたという、この一点で、今回の惨事は「奇貨」になるかもしれません)

 (蛇足です。今回の「放言」事件の発端(きっかけ)は、JOCの現会長の讒言にあったと、ぼくは考えます。「組織の女理事の発言がひどい、森会長なんとかなりませんか」と言ったに違いない。「よっしゃ、俺に任せておけ、ぎゃふんといわせてやるから」と親分気を出したのが、そもそもの間違いのもと。「柔道王」の山下は反則負け。ちなみに、女性理事とは、山口香さん、小谷美可子さん、高橋尚子さん。いくら男どもでも、正論ではかなわんでしょう。山下は自分の勝負を審判にまで訴えて、勝てるようにしてくれと、頼んだというのが、ぼくの下司の勘繰りです。失言屋は「gaffe」ともいう)

_______________________

万巻の書を読み万里の道を行く

 (寿老図)

●富岡鉄斎 = [生]天保7(1836).12.19. 京都 [没]1924.12.31. 京都 江戸時代末期~大正の代表的南画家。京都三条の法衣商,十一屋伝兵衛の次男。通称は猷輔。名は道節,のち百錬。字は君 筠。幼少から国学,漢籍,陽明学,画事を習い,安政2 (1855) 年頃歌人太田垣蓮月尼の薫陶を受けた。万延1 (60) 年鉄斎の号を用い,翌年長崎へ行って海外の情勢を探る。文久2 (62) 年帰京して聖護院村に私塾を開き,志士の藤本鉄石,平野国臣らと交わって,『孫呉約説』ほかを出版。明治維新後は,神社の復興を念願して石上 (いそのかみ) 神社少宮司,大鳥神社大宮司として献身的に尽力し,鉄史,鉄崖と号した。 1881年以降は京都に定住して学者,画家としての生活を続け,おりにふれ日本各地を旅行,『旧蝦夷風俗図』 (96,東京国立博物館) などを描く。その鮮麗な色彩と個性的で奔放な筆線は,晩年になるほど円熟した。なお絵をもって説法することを考えて画賛に凝り,古今東西の書物から引用して,独特の書体で書いた。帝室技芸員,帝国美術院会員などを歴任。主要作品『山荘風雨図』 (1912頃) ,『阿倍仲麿明州望月図』 (14,重文) ,『蘇子会友図』 (21) ,『蓬莱仙境図』 (24,清荒神清澄寺) ,画集『貽咲 (いしょう)墨戯』 (23) ,『水墨清趣図』 (24) 。(ブリタニカ国際大百科事典)

(ヘッダー写真は富岡鉄斎「(名士観梅図)( 奈良月ヶ瀬の梅を描いた作品)

 若い時から数十年、ぼくは机の天板に新聞に出ていた鉄斎の文人画(写真)を二十枚ほど張り付けて、飽きもせずに眺めていた時期がありました。不思議な画であり、それが「文人画」だと知ったのは、その後の事でした。もうひとつ鉄斎にかかわって忘れられないのは、京都の自宅のすぐそばにある「車折(くるまざき)神社」の宮司を、明治年間に彼がしていたということでした。まるで自分の庭か何かのようにしょっちゅう神社の境内に遊んだ記憶とともに、鉄斎の筆になる神社額をよく覚えています。この神社は芸能の神が祀られているということでたくさんの芸能人が寄進をしており、その名前がお札になって張り巡らされているので有名でもありました。

● 車折神社(読み)(くるまざきじんじゃ)京都市右京区嵯峨(さが)朝日町に鎮座。平安後期の儒者、清原頼業(きよはらのよりなり)を祀(まつ)る。後嵯峨(ごさが)天皇が大堰川(おおいがわ)行幸のとき、当神社の社前で車が急に動かなくなったことから「車前(くるまさき)(折(さき))大明神」の神号を得たと伝えられる。旧府社。同社の三船祭(みふねまつり)は、毎年5月第3日曜日に、嵐山(あらしやま)渡月橋(とげつきょう)上流で斎行され、平安時代の舟遊びを再現する。明治時代には画家富岡鉄斎(とみおかてっさい)が祠官(しかん)となり、所願成就の信仰を広めた。その作品類は車軒文庫として収蔵されている。(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

 大学に入って何年もたってから、これは直接聞いたのか、姉たちから聞かされたのか忘れましたが、おふくろはぼくの大学入学試験に際して車折神社で「お百度参り」をしたということでした。それを聞いて、一驚したことを今になっても忘れられない。ぼくはいい加減な気持ちで受験したと思っていたし、合格してもしなくても構うもんかというぞんざいな心がけだったから、おふくろの「お参り」噺は、不真面目なぼくの心根を少しは打ったと思っている。今となれば、おふくろの想い出とともに神社が懐かしい。(兄貴の息子、ぼくにとっては甥っ子、彼がこの神社の傍に住んでいます。彼は京都の小さな美術大学の画の教師をしているそうです。その大学(「新型京都芸大」とか)については、どこかで触れています)

 「鉄斎は幼少期から国学や漢学を学び、歌人・大田垣蓮月のもとで学僕として過ごした。幕末期には、勤王志士たちと交流し、国事に奔走。明治維新の後は宮司としての職を経て、晩年は画業に専念する。学者としての姿勢を貫きながら多彩な作品を手がけ、文人画(学問を修めた知識人が余技的に描く絵)の重鎮となった」(「美術手帳」https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/19381)

● 文人画=職業画家でない文人 (知識人) の制作する絵画。文人画を規定し,職業画家に優越することを主張したのは中国,明末の董其昌 (とうきしょう) で,彼は絵画技巧よりその内容の豊かさと高踏を重んじ,気韻に富む作品は「万巻の書を読み,千里の道を行く」文人でなければできないことを強調。同時に唐の王維に始り北宋の董源,米 芾 (べいふつ) ,元末四大家,明の沈周 (しんしゅう) ,文徴明と連なる文人画の系譜を設定した。董其昌のいう文人画の系譜と南宗画の系譜はほぼ一致するため,論理的には矛盾する南宗画 (山水画様式による分類) と文人画 (画家の社会的身分による区別) を同一視し,これに対する北宗画すなわち職業画家の絵および浙派 (せっぱ) を痛撃し,北宗画,浙派衰退の原因をつくった。日本では主として明末蘇州派の文人画遺品が舶載され,同時に画譜も輸入されて池大雅,与謝蕪村らの南画家を生み,江戸時代中期以降の南画隆盛の要因となった。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 蕪村や大雅の作品をそれなりに見てきました。職業画家と比べて、文人画はああだこうだというつもりはありませんが、なんだか作品にゆとりというか、遊びというか、そんなものが溢れているようにもぼくには感じられてきます。だからどうだと、何かを断定はしませんが、見る方もそれとはなしに、ゆったりと好きなように見ればいいのだと思われてくるところが、ぼくの性に合っているのかもしれません。鉄斎は真贋争いが絶えないようで、それほどに彼の作品を所有したいという愛好家が沢山いるという証明にはなるでしょう。今となれば、たった一冊の画集があれば、ぼくにはなにも言うことはないのであります。(左は艤槎図(ぎさず)大正13年、鉄斎89歳。 筏の右は東洋学者・内藤湖南。左は息子。湖南洋行の折の餞として描く)(内藤湖南についても、どこかで書いてみたいですね。右下写真)

 文人画家というのではないにしても、ぼくは愛好家(ジレッタント・dilettante)で生涯を過ごしたいと念願してきました。もちろん働くことを厭っているのではないし、また遊んで暮らせるゆとりもまったくありませんでしたから、なにか無理をしない程度に生活の糧を稼いで、糊口をしのぐ。本領は「愛好家」、そんな生き方が出来たらいいなあと、若いころから求めていたような気がします。(「(愛好家とは)芸術や学問を趣味として愛好する人。好事家 (こうずか)」(デジタル大辞泉)もっと乱暴な言い方をすれば、絵でも音楽でも好きな時に好きなだけ見たり聞いたりする。そんな趣味を金儲けの手段なんかにできるかという流儀でした。「下手の横好き」は結構な生き方であり、「玄人跣(くろうとはだし)」になることはあっても(そんなことはぼくには望めないことでしたが)、なんであれ、「玄人」にはまずならないで生きていくという人生観を持っていたといえばどうでしょうか。おおむね、そんな中途半端な生活を重ねてきたようにも思うのです。

(蕪村「夜色楼台雪萬家図」)(「うづみ火やわがかくれ家も雪の中」)

 ぼくの欠点は、あらゆることを「我流」で通そうとしてしまったという、その一点にあります。なぜか。玄人の技芸が、けた違いに俊秀に見えたからです。逆立ちしても歯が立たないという経験を一、二度した結果の成り行きでした。それは「絵」においてまず現れました。親父は若いころから絵を描いていたのですが、あるとき、ぼくが学校に提出する絵を描いていた時に、「ここは、このように描くのや」と一筆動かしたとたんに、ぼくの画は見違えるように精彩を帯びたと、ぼくは思った。たぶん、小学校の高学年の頃でした。このことは今でも忘れられない。貴重な経験であったし、その後の「我流」への道を開いたという意味では、はたして、よかったか悪かったか、きっとぼくには不幸な出来事だったのでしょう。もっと言えば、そのような技法を「倣う・習う」という魂胆がぼくには著しく欠けていたのでした。

 だから、文人画とか南画を好んで鑑賞してきたというのではありませんが、職業画家には見られない、恬淡としたさわやかさがどこかに感じられたのは確かです。そんな区別をつけること自体に意味があるのではないのですが、ぼくが好んだのは「さわやかさ」「恬淡寡欲」にかたむくものだったが、それがおしなべて「文人画」「南画」だったというだけのようです。それはまた、雪舟などの禅僧染みた生き方を押し通した人たちの生き方にも通じているように思えてきます。こんなのは、まあ、素人の雑談ですが。(☚大雅「寒梅図」)

_______________________________