要諦は「簡にして要を得る」にある

【デスク日記】賞賛と批判のバランスは? 
 その文面を読んだ瞬間、全身の力が抜けてしばらく動けなかった。数年前、社外の取材協力者と頻繁にやりとりしていた。お互いに第三者に対する批判的な見解を盛り込んでいたところ、相手の誤解を招いて「決別」のメールが送られてきたのだった。
 言葉は時に「刃物」のようにダメージを与える。私の体感でいえば、1回分の批判や非難は、感謝や称賛を10回積み重ねて得られるエネルギーを相殺する。誰かを根拠なく批判する言葉が交流サイト(SNS)には氾濫しているが、削られるエネルギーの大きさは計りようもない。
 一方で、批判的な指摘が、成長につながるのも事実だろう。辛口の意見をもらい、改善の糸口をつかんだことは私もある。これも体感だが、10回の褒め言葉よりも1回の批判が気付きをもたらす。精神的なバランスを維持しつつ成長するには、この10対1のバランスがちょうどいいのかもしれない。(四宮淳平)(西日本新聞・2026/10/25)

⁂「週のはじめに愚考する」(142)~ 「単刀直入」という。前置きもなしにいきなり本題に入るという意味で使われます。もともとは「 ただ一人で刀を執り、敵陣に斬(き)り入ること。また、そのさま」を指し、そこから転じて「前置きをぬきにして、ただちに要点に入ること。遠まわしな表現をしないで、直接問題点に触れること。また、そのさま」(「精選版 日本国語大辞典」)とあります。ぼくは、これまで半世紀以上も、つまらない文章(それをぼくは「駄文」と呼ぶ)ばかりを書き殴ってきました。人並み以下の才能(文章力)で駄文・拙文を重ねて本にしたり、論文にしてきた。

 こんな表現をご存じでしょうか。「洛陽(らくよう)の紙価(しか)を貴(たか)む」(晋書(しんじょ)・左思(さし)伝)誰かの書いた本がたくさん売れて、紙代が高騰するという逸話です。いわば「ベストセラー」で紙代が値上がりするほどだったという、ぼくには夢のまた夢のような話で、古代中国でも「ベストセラー」が話題になっていたという話です。もちろん、ぼくの書くものなど売れるはずもなかったし、だいいち、物を書くなどと言う作業は大の苦手でしたから、無理矢理に書いた(書かされた)何冊かの本であっても、無駄な紙を使ったという意味では、紙価を高くしたかもしれないという、冗談みたいな「残念物語」でした。(「司空の張華、見て歎じて曰く、班張の流
たぐい
なり。之を読む者をして、尽くして余りあり、久しくして更めて新たならしむと。是に於て、豪貴の家、競いて相伝写
でんしゃ
し、洛陽、之が為に紙
し貴
たか
し」)

 そんな自らの「駄文入門」の第一要諦(ようてい・ようたい)は「簡潔(簡素・簡明)を以て尊しとなす」でありました。えっ、冗談言うなよ、と驚かれるかもしれません。当人はいつだってそのつもりでいるのですが、うまくいかない、時には冗長(冗漫・冗句・冗語)の極みでもあり、要領の悪い、それこそ駄文のなかの悪文になることが甚だ多いこと、常に反省はするのですが、我が能力の欠如はいかんともしがたし、そんな諦念の心境で、恥をかきながら生きている。

 言い訳がましいのですが、ぼくの本音は「三百字を百字」に、あるいは「百字を五十字に」、書いたものを元(もと)の半分、あるいは三分一に短くすること。それが憧れであり、望みでした。それを実現するためには「推敲(すいこう)」を重ねるほかないことは先刻承知ですが、ぼくの怠け癖と原稿の締め切り期限がそれを許さなかったという事情もありました。いつまでたっても書き直しが続くという悪癖には、ぼく自身が閉口したほど、出版社から叱られたのは当然でしたね。

 「推敲」の語意を言うなら、「推」は「おす」で、「敲」は「たたく」です。門を「たたく」か、「おす」か、どちら適切か迷ったという詩人の逸話から生まれた言葉。世に「月下推敲」と言い慣わされてきました。今も昔も、ぼくの書く(綴る)文章など、推敲のし甲斐もないほどに内容浅薄でしたから、このような鍛錬・精進(これもまた、一つの能力です)を怠ってきたという、己(おのれ)の菲才を知ればこその駄文・駄弁でありますし、駄本であったことを今更のように恥じ入っている。(ゲーテは「天才とは努力し得る才(能)のことだ」と看破していました)

 若い時に小林秀雄さんに入れあげていた時代がありました。その際に、彼の文章道(精進の姿)の極みに驚嘆したことが何度もありました。「花が美しい」と「花は美しい」、ここを「が」にするか、「は」にするかで、塗炭の苦しみを味わうという趣旨のことが、繰り返し書かれていて、ぼくにはとてもできない「精進」だと、呆れつつ感心したことを覚えています。

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◎ 推敲(すいこう)= 唐の詩人賈島が「僧推月下門」の句を作ったが、「推(おす)」を「敲(たたく)」に改めた方がよいかどうかに苦慮して、韓愈に問い「敲」に決したという故事から ) 詩や文章を作るにあたって、その字句や表現をよく練ったり練り直したりすること。(すい‐こう‥カウ【推敲】〘 名詞 〙 ( 「苕渓漁隠叢話」の「緗素雑記曰、賈島於二京師一騎レ驢得レ句。鳥宿池辺樹、僧敲月下門。始欲レ著二推字一。又欲レ著二敲字一、錬レ之未レ定。〈略〉引レ手作二敲推勢一。時韓愈吏部権京兆。島不レ覚衝至二第三節一、左右擁至二尹前一。島具対レ所レ得。詩句云云。韓立レ馬良久謂レ島曰、作二敲字一佳矣。遂与並レ轡而帰」による語。)(「精選版 日本国語大辞典」)

 (ヘッダー写真は「中川一政筆「僧敲月下門」:https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/385568) 

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 本日のコラム「デスク日記」(西日本新聞)はいかがでしょうか。「賞賛と批判のバランスは?」とあります。ぼくの言うべき要点は、たった二つです。一つは、できる限り短い文章で。二つは、はたして「簡」にして「要」を得ているか。新聞記者の本意・本懐は「書きたいこと」ではなく、「書くべきこと」「書かねばならぬこと」を貫いているか、そうであろうと、新聞記者ではないぼくは考えています。どんな文章(コラム)でも、料金(読み代)を得ている以上は、この「二か条」は必須不可欠でしょう。この記者氏は「批判」を、あるいは「非難」と取っているように思われます。あるいは、賞賛には薬も毒も含まれる時があることを寸分も疑っていません。記者の書く文章の内容が評価されるし、同時に、それを読む側の質も問われるはずです。

 本日のコラム氏の「賞賛と批判のバランス?」については、ぼくは「論評」を控えます。それに値しないというのではありませんが、コラムの「主旨」も「趣旨」もぼくには理解できないからです。「批判」を「非難」と取る、そんな未熟な記者・読者は、ぼくはご免被りますね。「賞賛」を無条件に喜ぶという、その心持ちは、ぼくにはよくわからない。ぼくは若いころ、ある先輩から「いい論文を書いたね」といわれて、恥ずかしいくらいに「冗談でしょう」と思ったことがありました。その本音は「あなたにわかるんですか」だったから。

 「1回分の批判や非難は、感謝や称賛を10回積み重ねて得られるエネルギーを相殺する」とコラム氏は書く。そんなことがあるんでしょうか。わかるようでいて、よくわからない表現ですね、ぼくには。

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手に取るなやはり野に置け蓮華草

 ただ今の季節は 「霜降(そうこう)」の砌(みぎり)。二十四節気の第十八番目(10月23日~11月07)に当たります。昨日が「初侯・霜始降」(10月23日~10月27日)」の入り。本日は、霜ではなく雨が朝から降っています。台風30号の影響でもあるのでしょうか。南太平洋上に発生し、ひたすら北上しつつ、どういうわけか、ある場所(地点)で、劣島を目指して大きく右折(東進)する台風が極めて数が多い。いくつかの気象条件が重なっての現象でしょうが、あるいはこの劣島付近の海水温が台風を呼び寄せる引力を有しているからかもしれません。まるで、台風に「魅入られた小島」という感じが強くするのです。台風の目的地化しているようですね。柳田國男さん(民俗学)は「や詩のみ」を介して「海上の道」を発見したかに夢想されましたが、ぼくは、その伝でいうなら赤道直下「風の道」を想定したくなります。海流と解水温に誘われて、南の遠き島より旅をする風の便り。あまり大掛かりに吹かないでほしいものです。

 当地(だけではありません)では、一か月前の台風25号の直撃を喰らったわけではなかったが、それがもたらした豪雨のためだったか、その破壊力に方々の崖(斜面)が崩され、今なお交通遮断、復旧作業が続いています。毎日のように買い物に出かける、その目的地まで迂回路を縫っていく途次にいくつもの損壊現場を通るのですが、山肌に蓄えられた水分が溢れだし、道路上に流れ出すことおよそ三週間。どれほどの雨が山に落ちたのか。高くない丘程度の山にも幾分かの保水力はあるはずですが、来る日も来る日も道路上に流れ出している様子を見るにつけ、掛け値なしに「自然の威力」を痛感させられている。加えて、その現象の何割かに人的要因も加わっているとみるなら、単に「自然の脅威」と受け止めるわけにはいかないでしょう。

 (ヘッダー写真は「広い花畑に咲き誇るコスモス=鴻巣市明用「コスモスアリーナふきあげ」周辺の花畑」(埼玉新聞・2026/10/19)

 県下では、いまだ「停電中」の住まいもあります。道路や電気、あるいは水道やガスなど、日常生活に不可欠なインフラを奪われて、人々の暮らしは「不自由」と「不便」を強いられ、加えて、生活の生命線である鉄道やバス便もまた、甚大な被害を被っています。百年前よりも大量の雨が生活圏内に降るという意味(背景)は、その百年の「開発」「進歩」「便利」「豊かさ」という人間の欲求・願望などと引き換えに、ぼくたちにもたらされた「負の恩恵」だともいえるでしょう。地球温暖化、気候変動、さまざまな方面から、現下の世界的「不安定な気象」状況が説明されますが、その「定説」さえもが、ある人々からは否定され続けているのも現実です。狭い敷地内で、好き放題に枯れ葉や枯れ木の山を燃やせば、どういうことになるか、誰にもわかりそうなものです。一方、広い敷地があって木々も豊富だから「焚火」ができるのだ、どうだ、といわぬばかりの隣人がいる、そんな世界の現状に、愚か者や、馬鹿者が、自分勝手な振る舞いを起こし、それでも「泣く子と地頭には勝てぬ」と、引っ込んでいて、被害を被るのは「弱者」ばかりとは、いかにも理不尽だというほかありません。

 今、地球上の各地で、政治家の、いわば「政治的不作為」に発する「生活苦」が我慢の限度を超えたかのように「抗議行動」、これをある人々は「暴動(riot)」と呼ぶ、毎日の生活苦の果ての行動が生じています。この島国も例外ではないにもかかわらず、政府に対して、批判も抗議も、目立って起こらないのはいいことなのか。あるいは「大和は 国のまほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和し 美 (うるわ)し」(倭建命)《日本武尊・小碓命(おうすのみこと)、父は景行天皇、毋は播磨稲日太郎姫(はりまいなびおおいらつめ)。「古代伝説の英雄」》とおおらかに詠うのは「自尊」精神の表れでしょうか。笑わせないでくれといいたいですね。(「まほろば」は「まほら」です。その意とするところは「素晴らしい場所」を指す古語。「楽園」「理想郷」を言うそうです。その多くは「奈良」を指しますが、大きく言って「日本(大和)」を言うのでしょう。神話時代はいざ知らず、日本の歴史は「権力闘争」の連続だったことは事実です。

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【忙人寸語】暦の上では晩秋。紅葉シーズンに先駆けて、セイタカアワダチソウ(背高泡立草)が耕作放棄地や道路沿いで一斉に咲き出した▼その名の通り、背丈は1~2メートル以上にもなり、小さな黄色い花が泡立って見える。北米原産の多年草で、明治時代に園芸目的で持ち込まれた。旺盛な繁殖力から「要注意外来生物」とされ、嫌われ者のイメージが強い▼根や地下茎から化学物質を出し、周辺の在来種を排除して繁茂するため問題視されてきた。ところが、最盛期の昭和40年代と比べて繁殖力が失われ、ススキなどの在来種が再び勢力を取り戻しているという▼植物が放出する化学物質が、周囲の植物や昆虫、微生物に影響を与える現象はアレロパシー(多感作用)と呼ばれる。この効果は、長期間同じ場所で育ち続けたセイタカアワダチソウ自らの発育も阻害していた。一面を埋め尽くすほどの繁殖力は過渡的な状態だったのかもしれない▼記録的な猛暑と長雨、さらに強大化する台風が追い打ちをかけ、夏から秋にかけて自然界は無軌道ぶりを露わにした。温室効果ガスの増加や森林破壊が地球環境のバランスを崩し、異常気象へとつながっている▼アレロパシーは、ギリシャ語が由来の合成語で「互いに影響する」という意味だ。自らの活動が気候変動を招いた人間も、セイタカアワダチソウと同じ道をたどらなければいいのだが。(千葉日報・2026/10/24)
【あぶくま抄】強く立て 草原に咲き誇るコスモスは、秋の風景を代表する。日本には明治時代に渡来した。和名の「秋桜」は花弁の形がサクラに似ているため付いたと伝わる▼歌人の与謝野晶子も愛[め]でたようだ。〈こすもすよ/強く立てよと/云ひに行く/女の子かな/秋雨の中〉。冷たい風雨に負けないでと、少女が花を励ます。その純粋な心が初々しくも、たくましい。今年は特に雨雲が長く居座り、生育が遅れた。例年9月に咲き始める県内の名所・猪苗代ハーブ園では、ようやく見頃を迎えた。磐梯山と猪苗代湖を望む高原を吹き抜ける秋風に、100万本が揺れる▼意外だが、原産地はメキシコ。標高1600メートル以上の冷涼な高地を好む。日光が差し、風通しが良ければ土壌は選ばない。道路脇や痩せた休耕地にも自生し、種を残し続けてきた。コロンブスによるアメリカ大陸発見後、ヨーロッパに入り、改良を重ねながら栽培されるようになった▼力強さを宿している。はかなげな見た目からは想像もつかない。自己主張や承認欲求がはびこるネット社会に疲れを感じたら、群生の地に足を運びたい。たおやかだが野性味を秘めた花々から、ささやきが聞こえる。強く立てよ、と。(福島民報・2026/10/23)

 本日の「コラム」は二編です。千葉日報「忙人寸語」と福島民報「あぶくま抄」。前者には「セイタカアワダチソウ」、後者には「コスモス」が登場している。どちらも、誰にも見慣れた草花でしょう。一方は「好かれ者」、他方は「嫌われ者」、そんなところが世間の相場でしょうか。昨日もセイタカアワダチソウと、ぼくは格闘していました。背は高く、幹も太い、まるで樹木かと思うほどのたくましさ。「旺盛な繁殖力から『要注意外来生物』とされ、嫌われ者のイメージが強い▼根や地下茎から化学物質を出し、周辺の在来種を排除して繁茂するため問題視されてきた。ところが、最盛期の昭和40年代と比べて繁殖力が失われ、ススキなどの在来種が再び勢力を取り戻しているという」(「忙人凡語」)こういう事態が静かに進行しているという指摘です。

 このところ連日のように取り掛かっている「外作業」も、本日は雨模様ですので、中止です。大きく伸びた木々の伐採、枝下ろし、敷地内外の除草作業などなど、昨年の猛暑・酷暑のためにできなかった作業を、漸くしのぎやすくなった気候を頼りに、ようやくここにきて動き出したところです。こんな作業を、老人一人でするのかと、我ながら呆れつつ、誰もやってくれないのだから、それこそ拙宅にはたくさんの猫たちがいるので、「猫の手も借りながら」と、意を決しているところです。「自分でできることは自分でやる」のがぼくのささやかなモットー。こんな楽しい作業を「金を払って業者に任せる」など、ぼくには考えられもしないのです。そしてまた、ぼくの信条は「無理をしない(My personal philosophy is “not to push myself too hard.”)」でありますから、今日できることは明日もできる、とばかり、先に延ばすことにいささかの躊躇もありません。

 アレロパシーという語は昔から知っていましたが、深く考えようとはしませんでした。一年を通して日当たりのいい空き地には、季節ごとに、と思われ程に、さまざまな草花(植物)が交代しながら繁茂します。その現象を毎年見ながら、それを素通りしていることを、ぼくは恥じている。この現象こそが多分「アレロパシ―」というものだったのでしょうか。この草(セイタカアワダチソウ)の隣にはススキが背も太さも負けないほどの旺盛な成育ぶりを発揮しています。後からやってきて他人の土地を侵略し、ついには「植民地化」に成功すると、やおら、みずからが崩壊過程に入るというのは、なんだか人間どもの蛮行に似ていなくもありません。いや人間の暴力的権力にも「アレロパシー」が作用しているのかもしれないなどと、ぼくは愚考しているのです。そうであるのは必然という気もしている。

 一方のコスモス。「原産地はメキシコ。標高1600メートル以上の冷涼な高地を好む。日光が差し、風通しが良ければ土壌は選ばない。道路脇や痩せた休耕地にも自生し、種を残し続けてきた。コロンブスによるアメリカ大陸発見後、ヨーロッパに入り、改良を重ねながら栽培されるようになった」(「あぶくま抄」)ぼくは何度か、コスモス栽培に挑んだことがありましたが、うまくいかなかったのは、要するに「手入れ」を怠ったからだったと思う。それと、自分の家の小さな空き地に植えるのにふさわしい草木ではなかったとも言えます。

 「やはり野に置け蓮華草」といいます。(「遊女を身うけしようとした友を戒めて、播磨(兵庫県)の瓢水という人が作ったといわれる俳句「手に取るなやはり野に置け蓮華草」の前半を略したもの」ことわざを知る辞典)コスモスもまた、「手に取るな」という戒めだったかもしれませんし、この植物にも「他感作用」「遠隔作用」を促す要素が含まれていたのでしょうか。それにしても、植物の世界にも、十分に未解明の不思議な(合理的な)現象がたくさんあることに驚嘆している。

 「自己主張や承認欲求がはびこるネット社会に疲れを感じたら、群生の地に足を運びたい。たおやかだが野性味を秘めた花々から、ささやきが聞こえる。強く立てよ、と」(「あぶくま抄」)コラムニストはロマンチストでしょうか。「おだやかな野性味」などとのんきなことを言っておられる。ここでもまたしのぎを削り、生存競争が繰り広げられているのだと考えるだけで、ぼくは「人間であること」に恐れをなしつつ、他人を貶めないよう、邪魔をしないようにしようと誓うのですよ。「手に取るなやはり野に置け蓮華草」と、江戸の粋人(滝野瓢水、1684年~1762年)は「レンゲソウ」を「遊女」に例えました。さすれば、コスモスは誰に例えたらいいのでしょうか。

 (蛇足 人によりコスモスは「針小」であり「棒大」でもあります。以下の「二句」を並べるのは非常識でしょうか)

・嘘すこしコスモスすこし揺れにけり(三井葉子)
                                                                            ・風に立つそのコスモスに連帯す(大道寺将司)

* 詩人の三井葉子さん死去 三井葉子さん(みつい・ようこ=詩人、本名山荘幸子〈やまじょう・さちこ〉)が2日、肝不全で死去、78歳。通夜は4日午後7時、葬儀は5日正午から大阪府八尾市清水町1の4の40の八光殿八尾中央で。喪主は長男山荘隆さん。「浮舟」で現代詩女流賞、「草のような文字」で詩歌文学館賞を受賞。(朝日新聞・2014年1月2日)

* 連続企業爆破事件の大道寺死刑囚が死亡 三菱重工ビル爆破事件など1974~75年の連続企業爆破事件で殺人罪などに問われた大道寺将司死刑囚(68)が24日午前、東京拘置所で多発性骨髄腫のため死亡したことが関係者への取材で分かった。/大道寺死刑囚は死者8人、重軽傷者165人を出した三菱重工業爆破事件をはじめとする一連の企業爆破事件を起こし、87年に最高裁で死刑判決が確定した。/その後「爆弾に人が死ぬほどの威力があるとは思わなかった」などとして再審を請求していたが、最高裁は2008年に再審開始を認めない決定をしていた。(日本経済新聞・2017年5月24日)

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◎ アレロパシー(allelopathy)= モーリッシュHans Molisch(1856-1937)が1930年代に提唱した用語で,他感作用,遠隔作用などと訳されることもある。特定の種の植物が生産する物質が同種あるいは異種の植物に対して及ぼす作用のことをいう。その作用は,阻害の場合も促進の場合もあるが,結果としては有害なものが多い。セイタカアワダチソウは周辺の植物を駆逐して旺盛な群落をつくるが,これはある種の阻害物質を出して周辺に生えている植物の生育を阻害しているためである。このような作用によって,近傍の他種との競争に打ち勝って繁栄している種があり,植物群落の種組成の決定や遷移の進行については,さまざまな生態的条件の一つとしてアレロパシーが大きな役割を果たしていると推定されているが,まだ研究はよく進んではいない。/作物の忌地とよばれる現象には同種間のアレロパシーが関与しており,ジャガイモ塊茎等の生育を阻害する物質がジャガイモから分泌しているらしい。しかし,忌地の場合の原因物質が何であるかはまだ同定されておらず,その作用機構の究明が待たれている。忌地以外にも栽培植物にはアレロパシーがしばしば認められるようで,これについての研究が進めば,作物の連作障害に対策が立てられ,また田畑の雑草の管理に役立つ知見が得られるものと期待される。/なお,本来の語源からいえば,アレロパシーはある種の植物の生育が他種の作用によって影響を受けることであるが,現在では,忌地のような同種個体間の阻害作用も含めて考えられるようになっている。(「改訂新版 世界大百科事典」)

◎ アレロパシー(allelopathy)= 他感作用あるいは遠隔作用ともいう.種々の生物が共存する自然界では,ある生物がほかの生物に対して影響を与えている場合がある.この生物間の影響が,生物により対外に排出される化学物質によって引き起こされる現象をアレロパシー(他感作用)といい,アレロパシーを引き起こす化学物質を他感作用物質という.一般には,植物がほかの植物に作用する現象をいい,クルミの木やマツの木の根本に雑草が生えにくい現象や,アスパラガスの連作障害などによる忌地(いやち)現象もアレロパシーによるものである.クルミの木のジュグロンや,セイタカアワダチソウのポリアセチレン化合物などが他感作用物質として知られている.(「化学辞典(第2版)」)

◎ コスモス(Cosmos)= キク科の一年草。メキシコを主として熱帯アメリカに原産するコスモスは25種を超えるが,園芸種の基礎となったのは次の2種である。(1)コスモス(和名アキザクラ,オオハルシャギク)C.bipinnatus Cav. 秋に群生して咲く様子がサクラの花に見えるので秋桜の名があるように,基本種は短日で花芽を分化するため,10月に開花する。コロンブスのアメリカ大陸発見後,ヨーロッパに入り,しだいに改良され庭園や切花に栽培されるようになった。草丈1~2m,茎は太く多数枝を分け,葉は対生で2回羽状複葉,裂片は線形。頭状花は総苞につつまれ,8枚ほどの紅,ピンク,白の幅広い舌状花をつけて秋に咲くが,園芸変種には八重咲き,丁字咲きなどがある。またアメリカで作出された早咲種はアーリー・センセーションEarly Sensationと名づけられ,播種(はしゆ)後60日で咲く。この色変りにピンクに暗紅色の目があるラデアンスRadianceが生まれ,さらにこの四倍体ベルサイユVersaillesが育成されて,周年コスモスが咲くようになった。(2)黄花コスモスC.sulphureus Cav. メキシコからブラジルにかけて原産する一年草で,高さ1~2m,葉は2~3回羽状複葉で9~10月に黄色の8枚弁の頭状花をつける。改良された品種では高さ1m,花色は橙黄色,黄,淡黄色などの一重,八重咲きになり,8月咲きとなった。さらに美しい緋紅色のサンセットSunsetやディアボロDiaboloが作出されている。いずれも一年草で日当りと排水のよい場所に春まきとして育てる。早咲きコスモスは1~2月に温室にまけば3~4月に開花するので,鉢植えや切花に利用する。秋咲種は花壇や庭には遅くまいて草丈を低く咲かせるほうがよい。(「改訂新版 世界大百科事典」)

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♪わたしのラバさん 酋長の娘♪

 つい先ごろ、「俺は凄いんだ、文句あっかあ」と熱(いき)っていたノウスイダイジンが、「本音を喋った」という舌禍の廉で首を切られました。(表向きは「自ら辞職」したような見せかけも、実際は「お前は首だ(You’re fired.)」と、更迭されたのですね)。首切り人は、もちろん彼を任命した総理大臣です。彼女はこの「元大臣」の選挙(今年2月)に駆けつけ、「わたしのやなちゃん」「わたしの知恵袋」と昵懇(intimacy)(lover)ぶりを天下に闡明していたのです。当の大臣も、だから「まさか、首とは」と思いもよらなかったでしょう。この馴れ馴れしい、白日の下で使うべきではなかった「わたしのやなちゃん」「だいじなやなちゃん」という絶叫を聴いて、ぼくは百年以上も前に大流行したある「俗曲」を思い出しました。(「俗曲(ぞっきょく)=酒席などで座興に歌われる短い三味線声曲。都々逸(どどいつ)・かっぽれ・さのさなど」デジタル大辞泉)

 この小さな島国が、精一杯に背伸びして、世界の一等国になったという「思い上がり」=「悪夢」が募った時期、1930年に発表された歌でした(この「俗曲」にはいろいろな紆余曲折があって、一直線では語り切れない歴史があります。ここではそれには触れません)。ぼくはたぶん五歳になるかならぬで歌っていたと思う。「酋長(しゅうちょう)の娘」です。今、ぼくたちが聴くことができるのは日本の演歌師兼衆議院議員だった石田一松さん作詞・作曲・歌(最初期のシンガーソングライター)のものです。(この人や、その師匠だった添田唖蝉啞蟬坊(そえだあぜんぼう)氏についても駄弁りたいのですが、別の機会にでも)

 昭和5年という時期は、日本(当時は「大日本帝国」)が第一次世界大戦に、いわば「漁夫の利」を占めて、いわゆる「南洋群島」を国際連盟委任統治領として、その支配下に置いた時期でもありました。ミクロネシアをはじめとする南海の島々が「領土」となったというので、帝国臣民は浮かれつつ沸いていたのでした。「南進論」がさかんに論じられていた時期でもありました。(この「委任統治領」問題では新渡戸稲造やその後輩の柳田国男さんなども関わっていましたが、その内容も割愛。柳田さんの最晩年の著作「海上の道」(岩波文庫、岩波書店 1978年公刊)は、日本民族のルーツをたどる推理小説のような論考集ですが、その発端はこの「ミクロネシア諸島」辺りににあるとみるのは、ぼくには実に興味深いものがありました。柳田さんは委任統治問題の日本側の代表「委員」になり、スイスには滞在しましたが、「南洋諸島」には出向かなかった。国際舞台上での任務も「関東大震災」発生で終了しました) 

 以下に「酋長の娘」の歌詞を出しておきましたが、誠にいい気なもの、そんな雰囲気が伝わるし、ぼくがわざわざ「俗曲」などと言う呼称を使ったのも、文字通りに、酒席・宴席の座興・肴にしてお座敷でも大いにもてはやされていたからでした。その証拠に、最初は石田一松さんの作詞・作曲・歌でレコードが出された(十万枚を売り上げた、創業草創期のポリドールの「玉手箱」「お年玉」でしたが、それ以降は入れ代わり立ち代わり、さまざまな「替え歌」まがいが発生し、お座敷住まいの「お姐さん」たちが盛んに盛り上げたものでした。その石田さんの代表作は「ノンキ節」でしたから、さもありなんということでしたね。

 「酋長の娘」
一、わたしのラバさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人
二、赤道直下 マーシャル群島 ヤシの木陰で テクテク踊る
三、踊れ踊れ どぶろくのんで 明日は嬉しい 首の祭り
四、昨日浜で見た 酋長の娘 今日はバナナの 木陰で踊る
五、踊れ踊れ 踊らぬものに 誰がお嫁に 行くものか
(石田一松作詞・作曲、1930年(昭和5)年8月発売)

 「わたしのやなちゃん」という下卑た絶叫を聴いた途端に、ぼくは「わたしのラバさん」というセリフを思い出したのですから、とてもいやーな気がしたことをはっきりと覚えています。「ラバー(lover)」とは男の恋人を指すともいわれるから、文字通りに首相の「やなちゃん」でした。どうしてか、二人の結びつきの連想から「わたしのラバさん」を想起したか、それを言っても理解はされないでしょうが、絶叫の主が持っている「帝国主義(「大日本帝国」の臣民という意識があるとさえ思われる御仁です)」の偽装感覚(親和性)、腐敗した看板がその背中に背負われていると感じたからです。五歳の子どもがどうして「わたしのラバ(lover)さん 酋長の娘」などと歌っていたのか、ぼくにも幼児なりの「いい気な様子(軽佻浮薄傾向)」があったのだと思う。つまりは「浮かれていた」のでしょう。その時、ぼくは間違いなく「赤道直下 マーシャル群島 ヤシの木陰で テクテク踊る」という雰囲気を肌で感じていたかもしれません、能登半島の片田舎で。つまりはぼくもまた、昭和初期の「小国民(子ども)」になっていたのでした。まさに、それは「悪夢」だったと思います。

 今日、この「俗曲」は「放送禁止」とされています。なぜでしょうか。南洋諸島の人々に対する差別意識(差別語)が如実に認められるからだといいますが、どうでしょうか。表向きの「差別主義反対」の偽看板を掲げているだけで、実際にはいささかの改心も反省も、あるとはとても思われませんから。「わたしのラバさん」と「わたしのやなちゃん」を一直線で結ぶのも呆れた心境(はやとちり)ですが、この女性首相の信条(心情)を想い量れば、 強(あなが)ち、無根拠でもなかろうとも思ったりします。それにしても、腐ったり濁ったり汚れたりする、数多(あまた)の大臣や議員たちも、何事もなかったかのごとくに国会議事堂内の赤じゅうたんはおろか、天下の公道を、周囲を睥睨しながら闊歩しています。それにつけても「無責任」を問われるべきは首相でしょう。

 先ごろ行われた(10月2日)G7サミットの緊急会議(オンライン)に「ずる休み」(まるで「登校拒否」ですな)を決め込んだ。その欠席の理由(弁明に嘘を言う首相ですから、見上げた「あまさん」でしょう。その見苦しい・醜悪な弁明をを訊いて、ぼく自身の耳も目も、神経さえもぼくは疑ったのです。「世界の中心」と(一応は目されている)首脳会議に出ないことを決めて「酒席に連なって」、きっと「酋長の娘」をカラオケで歌っていたのかもしれません。彼女の愚かさと、唯我独尊ぶりには底がないでしょうな。「底抜けの破廉恥女」という意味です。責任を取るべきは大臣(わたしのやなちゃん)一人はなく、イの一番に「あなた」ですよ。

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◎ 石田 一松(イシダ イチマツ)= 昭和期の演歌師,政治家 衆院議員(民主党)。生年明治35(1902)年11月18日 没年昭和31(1956)年1月11日 出生地広島県 学歴〔年〕法政大学文学部法科〔昭和2年〕卒 経歴 レンズ工員を経て上京、苦学しながら法政大学を卒業。在学中に添田啞蟬坊らの東京倶楽部に入って演歌師になる。自作の歌詞も多く代表作「ノンキ節」は大正12年ごろの作。昭和5年吉本興行の専属となり、法学士の看板を浅草万成座にあげて初舞台。バイオリン片手に「ノンキ節」がヒット、映画やラジオに出演した。他のヒット作に「のんきな父さん」「酋長の娘」「いやじゃありませんか」などがある。戦後は21年に一人一党の日本正論党から衆院選東京5区で当選、その後、国民協同党、改進党に所属、連続4回当選。26年民主党の党議に背き日米安保条約・対日平和条約の批准に反対、“全面講和”を主張して脱党。のち代議士の肩書で寄席などに出演した。著書に「のんき哲学」がある。(「20世紀日本人名事典」)

 「作品発表当時、ミクロネシアは国際連盟委任統治領として当時の大日本帝国の支配下にあり「南洋群島」と呼ばれていた。1919年の南洋群島領有により日本国内で南進論がブームになった1920年代に入って、南洋(東南アジアおよびオセアニア島嶼部)の地名・風俗を歌詞に取り入れた大衆歌謡が登場するが、この作品はそのような歌曲の一つである」(Wikipedia)

◎ 参考(安細西和彦著「私のラバさん 酋長の娘」) 「2012年から2015年まで在マーシャル日本国大使を務めた安細和彦は、同国大統領・クリストファー・ロヤックや大統領補佐大臣、外務大臣等を務めたデブルム大臣(Hon. Tony deBrum)とも「酋長の娘」を知っていたと証言している[6]。ロヤック大統領は「亡くなった祖父から聞いた」と話し、デブルム大臣は「自分の父親や、戦後に出会った日本人商社マンから教えてもらった」と話したという。ロヤック大統領が「日本の国祭日(天皇誕生日)の祝賀レセプションの席で一緒に『酋長の娘』を歌いたいがどうか?」と提案してきたため、安細は「実はこの歌の歌詞には一部好ましくない表現があり、日本国内では放送禁止となっているのです」と恐る恐る説明した。すると大統領と、その場に同席していたデブルム大統領補佐大臣の二人ともびっくりし「一部好ましくない表現とは何か?」と質問してきた。安細は後で誤解を生じないように明確に説明した方がいいと判断し「歌の題名は『酋長の娘』であり『酋長』という表現が適当かどうか問われているのです」と説明した。するとロヤック大統領は「別に悪いことはないと思う。自分は長男ではないので酋長職(マーシャル語ではIroji)を継いでいないが、長兄は今もアイリンラプラプ環礁の大酋長であるし、マーシャルでは全ての環礁に大酋長や酋長が存在していることは貴官もご存じだろう。更に、次兄はこの国の国会(the Parliament)の諮問機関である『酋長評議会』(Council of Iroji)の議長を務めている。そうした意味でも『酋長』の存在は否定できない」と言われた。仕方なく、極めて申し上げ難いことであるがと断った上で、「更に申せば、遺憾ながらこの歌の1番の歌詞には『色は黒いが南洋じゃ美人…』という部分がある。これは外見上の差別表現とも言えるので相応しくないと考える」と重ねて説明した。これに対し、ロヤックとデブルムは口を合わせて「何故に『色は黒いが…』が遺憾なのか? 我々マーシャル人はご覧のとおり確かに浅黒い肌をしている。この歌は事実を述べており、差別とは思っていないが…」と言われた。安細は返す言葉が見つからなかったという。マーシャル諸島は第一次世界大戦において日本が占領した国で、安細は「そうした曲折があったにも拘わらず、マーシャルの指導層が今も日本に親しみを抱き、また、高齢者を中心に我々日本人に対して知っている日本の歌を聞かせようとしてくれる親愛の情に対し、我々としても応える必要があるのではないか」と考えさせられたという」(Wikipedia)

◎ 南洋諸島(なんようしょとう、旧字体: 南洋諸󠄀島)は、かつて大日本帝国が国際連盟によって委任統治を託された西太平洋の赤道付近に広がるミクロネシアの島々を指す。現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦に相当する地域である。/別名は南洋群島(なんようぐんとう)。当時の日本人は内南洋(うちなんよう)とも呼んだ。(同上)

◎ 南進論(なんしんろん)= 第2次世界大戦前の日本近代史における外交政策についての議論。日本が東南アジアなど南方に経済的,政治的,武力的進出を行うべきだという論で,朝鮮,満州方面に発展しようとする北震進論と対立した。南進論の萌芽はすでに 1890年代からみられたが,明治・大正期の南進論は経済進出の側面に重点がおかれ,関心は軍事的側面に重点がおかれていた北進論よりは少なかったといえる。 1936年8月7日の内閣総理大臣および外務,陸軍,海軍,大蔵の5相会議で国策基準として南方進出が決定され,南進論は日本の外交方針となった。さらに 40年にいたりヨーロッパ戦線でドイツが圧倒的勝利を収めると,石油,アルミニウム,ゴムなどを求めて,武力行使による南進の主張が強まった。その結果,北部仏印進駐,南部仏印進駐など武力南進政策が強行され,南進論は太平洋戦争開始の重要な引き金の役割を果すことになった。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 「海上の道」より~ 「今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾すそを東へまわって、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使われない四、五町ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子やしの実みの流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。一度は割れて真白な果肉の露あらわれ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛うかんだものかは今でも判わからぬが、ともかくも遥かな波路なみじを越えて、まだ新らしい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。/この話を東京に還かえってきて、島崎藤村とうそん君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦あいしょうせられている「椰子の実」の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰もらいましたよと、自分でも言われたことがある。

 そを取りて胸に当あつれば
 新あらたなり流離の愁うれひ

という章句などは、もとより私の挙動でも感懐でもなかったうえに、海の日の沈むを見れば云々うんぬんの句を見ても、或いは詩人は今すこし西の方の、寂さびしい磯ばたに持って行きたいと思われたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によって、些々ささたる私の見聞もまた不朽ふきゅうのものになった。伊勢が常世とこよの波の重波しきなみ寄する国であったことは、すでに最古の記録にも掲げられているが、それを実証し得た幾つかの事実のなかに、椰子の実もまた一つとして算かぞえられたことを、説き得る者はまだ無かったのである。土地にはもちろん是を知っている人が、昔も今も多かったにちがいないが、それを一国文化の問題とするには綜合を要し、または或る一人のすぐれた詩人を要したのである。
 椰子の実の流れ着くという浜辺は多かったはずであるが、是が島崎氏のいうような遊子ゆうしによって、取り上げられる場合が少なかったかと思われる。昔はこの物を酒杯しゅはいに造って、珍重ちんちょうする風習があり、それも大陸から伝わってきたように、多くの物知りには考えられていた。『倭名鈔わみょうしょう』の海髑子かいとくしの条などは、明らかに書巻の知識であって、もし酒中に毒あるときは、自おのずから割れ砕けて人を警戒するとあり、まだどういう樹きの果実なりとも知らず、何か海中の産物のごとくにも想像せられていたようであるが、なお夜之やしという単語だけは、すでに和名として帰化している。京人の知識は昔も今のごとく、むしろ文字を媒なかだちとして外国の文化に親しみ、久しく眼前の事実を看過みすごして、ただいたずらに遠来の記録の、必ずしも正確豊富でないものを捜索していたことは、独ひとり椰子の実だけの経験ではなかった。この頃やっとその習癖に気がついたと、言いたいところだが、それもまだ少し怪しい」(柳田国男「海上の道」岩波文庫版)

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(⁑❶「大阪南地 富田屋喜久治 – 酋長の娘」https://www.youtube.com/watch?v=_hVtpeG7xfU&list=RD_hVtpeG7xfU&start_radio=1) (⁑❷「加藤雅夫-酋長の娘」https://www.youtube.com/watch?v=OaLhH8HKCu4&list=RDOaLhH8HKCu4&start_radio=1)(蛇足 この加藤雅夫さんが歌う「酋長の娘」の作詞は岡十四夫さん(1917~2009)。岡さんは海軍に招集された経験を有する。戦後にたくさんの詞をを作る。「「好々爺として知られ、その明るい人柄から作品も明るい青春歌やホームソング的なものが多い。代表作は『高原列車は行く』、『高校三年生』、『あこがれの郵便馬車』などがある。アニメの主題歌なども手がけており、『ハクション大魔王』、『みなしごハッチ』、『ガッチャマンファイター』などの作品がある」Wikipedia)この人の話を何度もラジオで聞いたことがあり、軍隊生活などのあれこれは、それこそ捧腹絶倒、とても面白いものがあった。西条八十さんに師事したことがありました。福島県出身。

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人間は生き、堕ちる。そのこと以外 …

【日報抄】
 時代の移り変わりを感じるとき、無理とは分かっていても、あの人が生きていたら何と言うだろうと考えることがある。「生きよ堕(お)ちよ」と言い放ち、敗戦後のこの国に衝撃を与えた新潟市出身の作家、坂口安吾だ▼その言葉はさまざまに解釈できる。戦時中、国は戦争遂行に都合のいい国民像を掲げ、多くの国民もそうであろうとした。だが、そんな国と国民は敗れ去った。理想の国民像から外れることを堕落と呼ぶのなら、思う存分堕ちてやれ-。こんなふうにも読めないか▼安吾はあのとき、何よりもまずは生き抜くのだと叫んだ。人は聖も俗も併せ持つ。理想像などかなぐり捨て、一人の生臭い人間として生き抜かねばならぬと訴えた。押しつけられた生き方なんて放り投げればいい。自分の頭で考えたように動けと訴えたのではなかったか▼安吾が「堕ちよ」と言い切った「堕落論」が雑誌に初めて掲載されてから、今年で80年。その間、この国は平和を謳歌(おうか)し経済的な豊かさを手にした。一方で、近年は安全保障を巡る国際環境が大きく変化しようとしている。もはや「戦後」は幕を下ろし、新たな「戦前」に足を踏み入れているとの見方もある▼そんな状況だからこそ、あの無頼派作家の言葉が聞きたくなる。虚飾を鼻で笑い、この社会の真のありようを喝破する姿を見たくなる。今月20日で生誕120年の節目を迎える▼安吾さん、あなたなら2026年の今、どんな言葉を吐くんですか。私たちにどう生きろと言うんですか。(新潟日報・2026/10/16)

 ある期間、ぼくは坂口安吾という作家に夢中になった時期がありました。筑摩書房から出された「坂口安吾全集」(全十八刊)を購入し出した頃ですから、今から三十年ほど前のこと。ぼくは五十に入った頃で、晩稲(おくて)でありすぎるという自己評価は強かったけれど、さすがに、それくらいの年齢になれば少しは世の中が見えてきたというか、歴史の表面の下に潜んでいる、人間のいわく言い難い「深層心理」(ことばがうまくないけれど)、それがようやく気になりだしかけていた時期だったと思う。

(ヘッダー写真「漫画で読破」:https://mangadedokuha.jp/lineup/009-depravity-idiot/))

◎ 坂口安吾 (さかぐちあんご) = 生没年:1906-55(明治39-昭和30)小説家。新潟県生れ。本名炳五(へいご)。父仁一郎は代議士で,また,漢詩をよくした。安吾は少年時代から自由奔放で,1919年新潟中学に入学したが,2年で落第,翌年上京して豊山中学に転校,卒業後1年間小学校の代用教員を務めた。25年,東洋大印度哲学科に入学,またアテネ・フランセに通ったが,東洋大卒業後の30年,江口清,葛巻義敏(くずまきよしとし)らと同人誌《言葉》を創刊,《木枯の酒倉から》を発表,つづいてその後継誌《青い馬》に,《風博士》《黒谷村》(ともに1931)の2作を書き,牧野信一その他に認められた。このころ女流作家矢田津世子との恋愛があり,また,中原中也を知った。デカダンな生活におぼれていくなかで牧野の主宰する《文科》に《竹藪(たけやぶ)の家》を連載。その後,自身の半生の総決算とも言うべき長編《吹雪物語》(1938)を書いた。40年には大井広介,平野謙らの《現代文学》に参加し,同誌に《日本文化私観》(1942)などを書いたほか,《青春論》(1942)その他の卓抜なエッセーを発表した。その延長線上に,戦後《堕落論》を書いて太宰治,織田作之助らとともに〈無頼(ぶらい)派〉と呼ばれ,流行作家として活躍,《白痴》(1946),《桜の森の満開の下》(1947),《不連続殺人事件》(1947-48)などの名作を残した。(改訂新版 世界大百科事典)

 「堕落論」を読んだ時、正直に言うと、ぼくは相当に衝撃を受けました。これまでに、こんな刺激的でいわゆる「正統派」を罵倒するかのごとき文学評論(だと、ぼくは見ていました)を読んだことがなかったからでした。「堕落論」が出たのは敗戦八か月後の1946年4月。同じころ、それまで読んでいた小林秀雄さんには少し距離を置きかけていました。「本居宣長を執筆されていた時期で、宣長さんの影響がもろに林さんの書かれる文章をの中を超えて、彼の思想や精神の域にまで波及していたことにぼくは不信の念を抱きかけていたものでした。坂口・小林両者のかかわりは、それだけで一つの主題になりますが、それではなく、むしろ、積極的に坂口安吾という作家の資質に大きな興味を持ち始めたのだったと思う。

 それはともかく、「堕落論」の一部分です。

 「半年のうちに世相は変った。醜
しこ
の御楯
みたて
といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋
やみや
となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌
いはい
にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。」「半年のうちに世相は変った。醜(しこ)の御楯(みたて)といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋(やみや)となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌(いはい)にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ」

 今、これを読んでも、まさしく安吾氏の人間論、人性論は、正鵠(せいこく)を射ているというほかないように、ぼくは思うのです。ぼくはしばしば「堕ちろ、堕ちよ」と口癖のように呟(つぶや)くのは、この「堕落論」の間違いのない指摘による。敗戦後、わずか半年で「世相は変わった」と安吾さんは断定します。誤解してはならないのは「人間が変わったのではない」という指摘です。あんなに悪かった、あの子が「(改心して)こんなにいい子になった」と親や教師、社会は思いたがるが、「変わったのは上辺(うわべ)だけ」、騙されてはいけませんぜと、ぼくなら言ってやりますね。

 「人間は変わらない、堕落するだけだ」とい安吾氏の主張を取り違えてはいけないでしょう。「戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない」とも言います。詐欺もいなければ泥棒もいなかった、その意味は「そこには人間がいなかったからだ」というのです。「戦時下の日本」は「嘘のような理想郷」だという指摘をぼくたちは読み取り取り損なってはならないでしょう。そこには「人間の仮面をつけた怪物・魔物」がいただけだった。

 それに反して、「戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ」、今こそ、ぼくたちは「堕落論」を熟読玩味する時ではないでしょうか。政治や政治家、教育や教育者の行うことは「上辺だけのこと」、人間である限り生きなければならない(と、ぼくは考えている)、生きている限り、きっと堕落する。その自覚があるかないかの問題ではなく、生きている以上は堕落する存在であるという自己認識を失わないことでしょう。「人間は堕ちる、けれども堕ち切れない」、それもまた人間の弱さだろうとぼくは自分の体験から学んできました。この自分を見ていれば、そうとしか思われないのです。「戦後八十一年」、その意味は、今は「戦前」であるということでしょう。人間が集団で生きている、集団をつくり、国をなして存在している限り、「戦前・戦中・戦後」の繰り返し。いったい、今日は何度目の「戦後」であり「戦前」でしょうか。

 堕落論

 半年のうちに世相は変った。醜(しこ)の御楯(みたて)といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋(やみや)となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌(いはい)にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。(中略) 
 歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるという事は実に唯一の不思議である。六十七十の将軍達が切腹もせず轡(くつわ)を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。私はハラキリを好まない。昔、松永弾正という老獪(ろうかい)陰鬱な陰謀家は信長に追いつめられて仕方なく城を枕に討死したが、死ぬ直前に毎日の習慣通り延命の灸(きゅう)をすえ、それから鉄砲を顔に押し当て顔を打ち砕いて死んだ。そのときは七十をすぎていたが、人前で平気で女と戯れる悪どい男であった。この男の死に方には同感するが、私はハラキリは好きではない。 

 私は戦(おののき)ながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。実際、泥棒すらもいなかった。近頃の東京は暗いというが、戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締なしで眠っていたのだ。戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。
 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。(中略)

 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱(ぜいじゃく)であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

(「堕落論」初出「新潮 第四十三巻第四号」1946(昭和21)年4月1日発行。「坂口安吾全集14」ちくま文庫、筑摩書房1990年刊)

 「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」、この安吾氏の「肺腑の言」を胸に収めて、ぼくは繰り返し、繰り返し想い重ねているのです。どれだけ年寄りになっても、ぼくはこの発言を「反芻(はんすう)」するばかりです。新潟日報「日報抄」氏はわかり切ったことを使者に尋ねるのです。

 「安吾さん、あなたなら2026年の今、どんな言葉を吐くんですか。私たちにどう生きろと言うんですか」と。もう一度「堕落論」を書くばかりでしょう。「戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない」と。そしてさらに言うことがあるとするなら、「堕ち方が足りないよ、上辺だけの堕落じゃないか」「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ」安吾さんは「正しく堕落せよ」と、断じる。それはどういうことを指すのですか。

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 (余談です。左下に出した「風と光と二十の私と」一冊を読んで、安吾という作家(その「精神」といっていい)の「肝」をつかんだような気になったことがありました。その勢(いきお)いで、ぼくは「日本の学校における代用教員」というような趣の本を書きかけたことがありました。もちろん未完で投げ出したままですが、今でも書き続けたいという気持ちがあります。それほどに安吾先生の破天荒な、それでいて驚くほど真っ当な「教師ぶり」は、若いぼくには魅力的でした。これについては、駄文集録のどこかで書いています)

 「私は放校されたり、落第したり、中学を卒業したのは二十の年であった。十八のとき父が死んで、残されたのは借金だけということが分って、私達は長屋へ住むようになった。お前みたいな学業の嫌いな奴が大学などへ入学しても仕方がなかろう、という周囲の説で、尤もっとも別に大学へ入学するなという命令ではなかったけれども、尤もな話であるから、私は働くことにした。小学校の代用教員になったのである」「凡およそ学校の規律に服すことのできない不良中学生が小学校の代用教員になるというのは変な話だが、然し、少年多感の頃は又それなりに夢と抱負はあって、第一、その頃の方が今の私よりも大人であった。私は今では世間なみの挨拶すらろくにできない人間になったが、その頃は節度もあり、たしなみもあり、父兄などともったいぶって教育家然と話をしていたものだ。/今新潟で弁護士の伴純という人が、そのころは「改造」などへ物を書いており、夢想家で、青梅の山奥へ掘立小屋をつくって奥さんと原始生活をしていた。私も後日この小屋をかりて住んだことがあったが、モモンガーなどを弓で落して食っていたので、私が住んだときは小屋の中へ蛇がはいってきて、こまった。この伴氏が私が教員になるとき、こういうことを私に教えてくれた。人と話をするときは、始め、小さな声で語りだせ、というのだ。え、なんですか、と相手にきき耳をたてさせるようにして、先ず相手をひきずるようにしたまえ、と云うのだ」(「風と光と二十の私」「坂口安吾全集4」ちくま文庫、筑摩書房、1990)」

 (追記 「人と話をするときは、始め、小さな声で語りだせ」という訓戒、それとそっくりの話を、ぼくは落語家の志ん生さんが語っていたのを聞いたことがあります。息子の志ん朝さんに向かって「お前さんのように元気ばかりがいいのでは、な。客に聞こえないくらいの囁き声で話すと、おやっ、何を話しているのかと、客は身を乗り出すだろ、ぐっと乗り出したところを、ぱっと突き放すのさ」ってね。言い話でしたね)

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人の世の 塵にまみれて なお生きる 

 初めて買ったレコードが「川は流れる」だっと覚えています。発売と同時に、店は忘れたが、買ったはず。高校2年の9月、65年も前のことでした。兄貴が持っていた装置で、それこそ朝から晩まで、気が狂ったように聞き続けていた、しかも何日も連続で。時々、兄は「どうかしたんか」「大丈夫かいな」と訊いたほどでした。なぜ、ぼくがこの曲(と歌手)に引き込まれたのか。理由は今もってよくわかりません。あるいは、茫漠としていましたが、ぼくの「沖縄開眼」だったかもしれません。沖縄が本土復帰を果たすのは、この後も十年余を俟たなければならなかったのですから、あるいは沖縄系の仲宗根美樹という歌手に、今でいうなら「ハマった」のでしょう。彼女は1944年6月生まれだったから、ぼくとは同学年、東京で生まれた。もともとが両親は沖縄の人だったが、戦争末期の「沖縄戦の激化」を逃れての東京移住(一種の疎開)だった。レコード発売とほぼ同時期に制作された同名の映画(松竹制作)の主題歌だった。彼女も映画出演をしている。奇妙なことだったが、ぼくは映画にはまったくの無関心で、ひたすら聞き続けていた。この傾向が、いったい何年続いたでしょうか。

 高校を卒業して何年か経て、ぼくはハタと気が付いた。この曲の「歌詞」の意味を全く理解していなかったのだ、ということを。実に驚愕したことを鮮明に覚えている。高校2年生に「夜の女性」の身上というものがわかるはずもなかった。「街の谷 川は流れる」と歌われて、それが何を意味しているか、ほとんど気にもならなかったのだ。これは一種の「病気(熱病)」であって、その点では兄貴の判断は正しかったと思う。後年、彼は「気が狂ったと思ったで」といっていたほどでした。「病気」だった証拠に、ぼくは仲宗根美樹という歌手の、これ以外の作品も、また、彼女の活動についても一切関心を持つことはなかったから。では、仲宗根美樹の「川は流れる」のどこに牽かれたのか。彼女自身もは後年、「歌詞の意味もほとんどわからないままで歌っていた」と述懐している。高校生が歌詞をよくわかって歌う曲ではなったし、それを同じような高校生が聴いてわかるはずもなかったと思う。ぼくに、この歌の「心持ち」がわかる道理もなかったのです。

 作詞家の横井弘さん。敗戦の年の春に招集、直後に敗戦、招集解除。東京空襲で自宅が全焼していたため、長野県下に移住。そこで作った詩が「あざみの歌」(作曲は八洲秀章、歌は伊藤久男)で「山には山の憂いあり 海には海の悲しみが…」、これが横井さんのでデビュー作となりました。その後は三橋美智也さんの主だった曲の「詞」はすべて横井さんのもの。だからぼくは誰よりも彼の詩(詞)をよく知っていました。でも「川は流れる」だけは、作詞も作曲も一向に気にならないままで、聴き狂っていたのでした。

 以下に、「川は流れる」に至るまでの横井さんの作品を列挙します。悲しいかな、ぼくはこの「歌詞」のすべてをほとんど記憶しています。(これほどの記憶力があったら、学校の成績は常に抜群だったかもしれません。そのようにならなかった理由は、そこ(成績)にぼくは価値を見出していなかったからだった。どうして、こんなに歌謡曲を覚えたのか、今もぼくには、その事情はわからないまま)

 『あざみの歌』(昭和26年8月)『裏町のピエロ』(昭和30年8月)『あゝ新撰組』(昭和30年9月)『哀愁列車』(昭和31年6月) 『俺ら炭坑夫』(昭和32年2月)『おさらば東京』(昭和32年11月)『銀座の蝶』(昭和33年4月)『夜霧の滑走路』(昭和33年7月)『赤い夕陽の故郷』(昭和33年11月) 『山の吊橋』(昭和34年10月)『心の窓にともし灯を』(昭和34年11月)『達者でナ』(昭和35年10月)『川は流れる』(昭和36年11月)『下町の太陽』(昭和37年11月)

 (余談です。この「あざみの歌」はよく聞いたものでした。歌手の伊藤久男さんの朗々とした発声に大いに魅了された。しかし、ある時期(成人してから)に、彼が「露営の歌」(昭和12年)(「♪勝ってくるぞと勇ましく 誓って故郷(くに)を出たからは 手柄立てずに死なれよか」)を歌った人だと知るに及んで、その後、ほとんど彼の謡うのを聞くことがなくなりました。当然、作曲の古関裕而さんに関しても同じでした。あくまでも、ぼくの個人的な好悪の範囲の問題でしたが)

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 今から考えても、この「川は流れる」との邂逅は奇遇だったと思う。まさに「交通事故」のような、出会い頭(An unexpected encounter)の衝突だった。それで、ぼくは致命傷を負ったわけでもありませんでしたけれど(そう、能天気のぼくは考えてきたが、実はそうではなかったかもしれない)、長く、沖縄という土地に言い得ぬ感情を抱いたのですから、一面では感謝すべきだったかもしれません。二年前に仲宗根美樹さんが亡くなられたという報道に接した際にも、ぼくは深い悲しみに襲われはしませんでしたが、彼女の、ときたま報じられる生活ぶりに、この殺伐とし大都会と競争時代に翻弄された生涯だったのではなかったか、という奇妙・奇怪な印象を持ちました。今だから言えることです、彼女もまた「街の谷を流れる」、その川に流されていたのではなかったか、と。このように言ったからと、仲宗根さんの人生(生涯)をどうこう評価するのではありません。住むにはあまりにも雑然・混沌としている「都会」に生きるということは「人の世の 塵(ちり)にまみれて なお生きる」という、誰彼にも心当たりのある人生の深い深層にもまた、絶えることのない「川は流れる」ということだったのではないでしょうか。ここまで来て、ぼくは鴨長明さんのいくつもの文章を想起しています。その一つだけを。

 「世に従へば、身、苦し。従はねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むむべき」(「方丈記」浅見和彦校訂・訳、ちくま学芸文庫版)

 「歌手の仲宗根美樹さん死去 「川は流れる」が大ヒット、沖縄の曲も 歌手の仲宗根美樹(なかそね・みき、本名国場勝子〈くにば・かつこ〉)さんが24日、肺がんで死去した。79歳だった。葬儀は親族で営まれた。喪主は長女国場亜紀さん。/1961年に歌手デビューし、同年の「川は流れる」が大ヒット。沖縄県出身の両親を持ち、「奄美恋しや」「永良部百合の花」などの島唄や沖縄ソングも歌った。NHK紅白歌合戦に5回出場。結婚を機に71年に引退したが、98年に歌手復帰した。(時事)(朝日新聞・2024年2月29日)

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《「川は流れる」(かわはながれる)は、1961年9月30日に発売された仲宗根美樹のシングル。並びに同曲の大ヒットにより製作された同名映画。1971年8月20日には、新録音バージョンのシングルがリリースされた。/作詞は横井弘、作曲・編曲は桜田誠一による。/オリジナル歌謡曲の制作・放送をするABCラジオの音楽番組「クレハ・ホームソング」で発表された楽曲。/元々は、1961年9月発売のシングル「雨の花園」のB面曲として発売されたが、歌声喫茶で評判となったことから、同年11月にA面とB面を入れ替えて再発され、売り上げが100万枚を超える空前の大ヒットを記録した》(Wikipedia)

(⁑「川は流れる」仲宗根美樹:https://www.youtube.com/watch?v=3O5zNfaC7kI&list=RD3O5zNfaC7kI&start_radio=1) 

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「これ以上いたら殺されると思った」

 一見すると華やかな舞妓、実態は「現代の奴隷だった」… 16歳の少女が見た世界 “粋”という名のセクハラ、客との混浴、先輩の暴力「やめるんなら3千万円払うか『旦那さん』の愛人に」 元舞妓の告発 
 
 2016年7月、桐貴清羽さんは舞妓をやめた。日本舞踊や三味線、茶道の稽古が大好きで、芸を磨いて将来は一人前の芸妓になることを夢見ていた。しかし、あまりに異常な世界と感じたためだ。中学卒業直前に舞妓になるための「仕込み」を始めて1年超。京都の「花街文化の担い手」とも言われる舞妓だが、実態は「奴隷制度だった」と振り返る。3月8日は女性の権利向上を掲げ、国連が提唱する「国際女性デー」。未成年で直面した、花街の現実とは。(共同通信=三野多香子)

▽きっかけは日本舞踊 「舞妓にならないか」
 桐貴さんが子どもの頃にあこがれたのはファッション誌のモデル。タレント事務所への応募をきっかけに芸能の世界に入り、地下アイドル活動やご当地ヒーローショーに出演した。
 そのうち、日本舞踊に興味を持つようになった。稽古場へ見学に行き、師範の踊る姿に魅了された。「生身の人間とは思えないほどの滑らかさ」。すぐに入門した。
 中学3年の春に発表会に出たとき、近づいてきた男性が声を掛けてきた。
 「舞妓になったらどうだ」。男性は花街の常連客という。当初はあまり乗り気でなかったが、経済的な事情で高校進学が難しい状況でもあった。進路を決めた。(中略)

▽「これ以上いたら殺される」30年前も
 舞妓による同様の訴えは、桐貴さんが初めてではない。
 1994年、複数の舞妓が置き屋から逃げ出した。訴えたのは長時間労働や体罰。
 当時の舞妓らによると、「生意気や」と顔を平手打ちされたほか、手紙を勝手に開封されたり、実家から送られた化粧道具や本などを捨てられたりしたと主張している。
 労働時間の制限がなく、客からもらった祝儀を全て取り上げられたとも訴えた。舞妓らは記者会見し、目に涙を浮かべて語っている。「これ以上いたら殺されると思った。心の傷は何年かかっても消えへん」
 桐貴さんが辞めてから9年がたった2025年6月、弁護士や大学教授による「舞妓と接待文化を考えるネットワーク」が設置された。桐貴さんの被害を国内外に発信し、国などに調査と改善を求めている。1994年当時に舞妓らの代理人を務めた村松いづみ弁護士らが呼びかけ人になり、こう語った。
 「給料がもらえないというのは当時から変わっていない。声を出せない人が多く、実態が分からないまま30年がたってしまった」(後略)(共同通信・2026/03/13)

 共同通信の記事が出た当時、各地方紙もこの配信記事を掲載しました。「いよいよ来たか」という想いを強く持ったものでしたが、「まさか、祇園が潰れますかいな」という不安も抱いていました。この「現代の奴隷だった」という訴えのその後が気になっていたが、報道はすっかり絶えていました。いまでも、その後を、何んとか探りたいと考えています。(❶写真左:桐貴さんが原案を書いたコミックエッセイの続巻。今年出版された)

 ぼくはこれまでにも、ただの一度だって「花街(かがい)」には無縁で来ました。もちろん、そんな場所に無縁である理由ははっきりしています。物の本では京都祇園の一晩の「遊び」で百万円などザラにあるという、そんな話を何十年も前に聞いたことがありました。ぼくは祇園に足を向けたことはありますが、「お茶屋」にただの半歩だって足を入れたたことはありません。京都の高名な学者や売れっ子作家たちの「武勇伝」には呆れながらも、こんな「岡場所」が今でもあるんだと思っていた高校生時代。東京にも「吉原」という「別乾坤」があることは知っているし、その内実についても、物の本で教えられてきました。それはまた、江戸落語の重要な主題ともなっていたので、落とし噺の世界として、ぼくは「置屋」「茶屋」「遊女」に関しても、それなりに耳は超えていました。京都にいたのは高校卒業時まで。卒業と同時に、ぼくは京都を飛び出し、とりあえずの棲み処を都内文京区に置きました。(❷写真右:桐貴さんと伊藤和子弁護士(中央)=2025年6月、国会)

 本郷界隈も、近間では上野や湯島、あるいは浅草など、男性の遊び場所には事欠かなかった。ぼくには、言うまでもなく無縁の世界。京都を飛び出した一番の理由は、京都という町があまりにも「狭すぎる」というのが理由でした。面積が狭小だということ以上に、人間関係も狭すぎるという実感(外からのものには冷たい)がぼくにはありました。ぼくは10歳前に、能登半島から京都に来ましたが、その後に友人となった多くの人たちは京都に地生えの「京都人」でした。中には「応仁の乱」以来の歴史を同じ土地で過ごしつつ、今日に至るまで存在していた人もいたほど。その「古さ」「狭さ」がぼくには合わなかった。今なら「千年の都」といって誇りにする、その誇り(自慢)」というものが、ぼくには見事に性に合わなかったとも言えます。ぼくが京都にいたのは、なんと十年に満たなかった。

 京都を出た第二の理由は、狭さが底流になっている「人間関係」の軋轢・抑圧でした。仲のいいものは更に仲良く、その反対も、根強く残っている。そんな文化がぼくには受け入れられなかったのです。このことは上京してかなり年月が経過してから分かったのですが、今や「外国人にも大受け」の「祇園」や「先斗町」に代表される「花柳文化」というものの「胡散臭(うさんく)さ」でした。ここでは詳細は語りませんが、「若い女性」を「売り物」にし、あるいは「見世物」にして成り立つ、「京都文化」というものの「非文化性(非人間性)」でした。(*「花柳」とは「《「花街柳巷(りゅうこう)」の略》芸者や遊女。また、遊里・遊郭」)(デジタル大辞泉)

 昨日、珍しく「映画」に関して駄弁りました。京都時代、ぼくはたくさんの「邦画」を観ましたが、幾分かは「花街(廓話(くるわばなし)」(確か「十八禁」もあったと思う)でした。好き好んでみたのではなかった。近所のおじさんたち(映画会社の社員が多かった)から無料の切符をもらったのでした。京マチ子、嵯峨美智子、山田五十鈴、山本富士子など、たくさんの綺麗な女優の花盛りの時代。ことに大映の制作する映画には、この手のものが多かった。今では「遊郭」という語は死後に等しくなったでしょうが、実態は手を変え品を変えて生き残っています。さしずめ、京都などはその「歴史」を最大の売りにして観光産業が隆盛を誇っているという、あまり褒められないような感想を非常に強く持ちます。(➌左写真:舞踊やお茶などの舞妓文化にふれあうイベントに参加した桐貴さん=2016年3月、京都市の「みやこめっせ」)((❶❷➌ともに、上掲の共同通信記事による))

 「千年の都」が泣いているという実感を持っています。観光立地という浮華(ふか)に溺れている都会というのがぼくの京都に対する率直な(否定的)意見です。神社仏閣が観光業になり果てているという気もしていました。祇園や先斗町が脚光を浴びる時勢、もう一方の歴史的な岡場所が「島原」だったと思う。島原から祇園へと街筋は変わりましたが、「女性」を食い物にする野生・野蛮文化は衰えていないのです。(この問題をさらに追いかけてみたい)

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◎ 島原(しまばら)= 京都市街の南西部にあった近世の代表的遊郭。京都の遊郭は,1589年(天正17)に秀吉が指定した二条柳町に始まり,1602年(慶長7)に六条柳町(三筋町ともいう)へ移っていたが,40年(寛永17)に当時としては町はずれの朱雀野へ再移転を命じられて傾城町となった。これが現在下京区に属する島原で,島原の地名はその3年前に起こった島原の乱にちなむとする諸説が伝わっているが,確証はない。いずれにしても,島原は俗称ないし通称であって,正式の地名は西新屋敷といい,その中は揚屋町,太夫町,上之町(かみのちよう),下之町,中堂寺町(ちゆうどうじちよう),中之町の6町に分かれ,この町名は今も残っている。四方を溝で囲み,出入口を1ヵ所に限定した,典型的な遊郭設計であった。出入口は出口(でぐち)と呼び,そこに出口ノ柳があった。また,そこへ入る通路は〈朱雀(しゆじやか)の細道〉と呼ばれた。太夫の質がよいことで知られたが,元禄(1688-1704)以後は祇園(ぎおん),北野などの私娼街の進出により衰退を続けた。明治以後も営業を継続していたが,1957年の売春防止法実施とともに消滅した。なお,揚屋町の角屋(すみや)(揚屋),中之町の輪違屋(置屋)などに近世建築の遺構が残っており,角屋では観光用に遊郭風俗のショーをみせている。(改訂新版 世界大百科事典)

◎ 祇園(京都市)(ぎおん)= 京都市中央部、東山(ひがしやま)区の八坂(やさか)神社を中心とする地区。祇園という地名は八坂神社の旧称祇園社(祇園感神院(かんしんいん))にちなむ。八坂神社西門前から鴨(かも)川以東の四条通南北両側一帯で、京都の代表的な花街である。戦国期には荒廃したが、江戸初期ごろから、八坂神社や清水(きよみず)寺への参詣(さんけい)者を相手に水茶屋が軒を並べて門前町を形成するようになった。茶くみ女が妍(けん)を競い、1713年(正徳3)には祇園町北側の内六町が開かれ、やがて京都の遊里の中心は島原から祇園に移った。1872年(明治5)には、東京遷都によって打撃を受けた京都復興策の一つとして、京都に観光客を集めるために花見小路に祇園歌舞練場を建てて、「都をどり」が始められた。/現在は茶屋、料亭のほかにバーも多く、昔のおもかげは薄らいだが、格子戸の続く家並みには往時の風雅と格調がしのばれ、路地に聞こえる三味線の音や、舞妓(まいこ)や芸妓(げいぎ)の姿に花街の風情が感じられる。四条通と花見小路の赤壁の万亭は大石良雄(よしお)の故事を伝える一力茶屋(いちりきぢゃや)である。また4月の都をどりは、先斗(ぽんと)町の鴨川(かもがわ)をどりとともに京の春の華やかな行事であり、7月の祇園祭は平安時代に始まった祭礼である。また祇園の北側を流れる白川の河畔には、吉井勇の「かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水のながるる」の歌碑が立ち、また祇園新橋一帯は、国の重要伝統的建造物群保存地区となっている。また祇園縄手・新門前と祇園町南が京都市の歴史的景観保全修景地区に指定されている。(日本大百科全書(ニッポニカ))

◎ 遊郭(廓)【ゆうかく】= 郭(くるわ),曲輪,色里とも。公娼を集めて居住させた特別区画。豊臣秀吉によって始められ,江戸時代に制度として整えられ,《洞房語園》(1720年)には,江戸吉原,京都島原,大坂瓢箪(ひょうたん)町(新町),下関稲荷町,博多柳町,長崎丸山など官許遊郭25ヵ所があがる。これに対して飯盛旅籠(めしもりはたご)の名目で半公認された品川等の宿駅や,江戸中期以降とくに勢力を伸ばした,深川などの私娼(ししょう)街(江戸では岡場所)があった。遊郭は多く郊外に設置され特別な町割をもち,周囲をみぞで囲み,大門(おおもん)のみを通行口として隔離した。特異な習俗,作法,廓詞(くるわことば),揚屋制度などを有し,江戸期の文化形成に一定の影響を与えた。江戸芸術の多くが遊里と何らかの関連があるのは,ここが芝居とともに一種の社交場となっていたことにもよる。遊郭は明治に入ると単なる売春地帯へと変貌して急増し,1924年には全国544ヵ所を数えた。第2次大戦後1946年の公娼廃止指令によって表面上は消滅したが,いわゆる赤線帯として存続し,1958年の売春防止法実施で完全に一掃された。(百科事典マイペディア)

 (右上写真:「吉原歓楽街への入り口。江戸時代は木製だったそう。鉄製のアーチから明治時代以降のもののようです」)(https://www.excite.co.jp/news/article/Japaaan_27931/)

◮ 関連語 ~ 公界・桂庵・里ことば・娼妓解放令・新地・買売春・遊女などなど。

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