こだまでしょうか、いいえ、誰でも。

【産経抄】
楽屋話めいたことを書くのは気が差すものの、お許し願いたい。「コラムのテーマはいつ決めるんですか? 前の夜から?」。こんなことを知人からよく聞かれる。いいえ。早くて当日の朝、遅いときだと正午を過ぎても決まりません。▼包まずに言えば出たとこ勝負だ。そう答えると意外な顔をされる。決まった枠の中に、決まった字数を収める。特殊な体裁だけに、書き手の抜かりない準備を読む側は想像するらしい。この手の話で思い出すのは、「釈迢空(しゃくちょうくう)」の名で歌を詠んだ民俗学者の折口信夫(しのぶ)である。▼通りかかった地で元教え子が亡くなったと聞き、追悼の歌を墓前に捧(ささ)げた。<紀伊の国の関を越え来てあはれなり/思ふことみな君にかかはる>。即興と思えぬ哀調が胸にしみる。実は<思ふこと―>以下は孕(はら)み句、用意しておいた句なのだとか。▼上の句をご当地に即した形で詠めば、体裁が整う計算である。便利な〝小道具〟には違いない。当方も応用できればいいのだが、コラムも新聞記事の一つ、できれば熱々のニュースを取り上げたい。花鳥風月を書くにしても、季節を違(たが)えたくない。▼コラムも四季の巡りの中で呼吸をする生き物だからだ。それゆえ「何かの時に備えて一本用意しておけ」と言われると困る。確かに、当方が事故やトラブルに遭い筆を執れなくなったとき、あわてなくて済む。問題は、そんな状況がいつ訪れるか予見できないことである。▼晴れの日か、雨の日か。暑いか寒いか。哀歓苦楽の何を書くのか。感情の乾湿を、どこに合わせるのかも難しい。「夏炉冬扇」のごときズレた文章を、お目にかけるのも恥ずかしい。というわけで、引き出しから何の小道具も取り出せぬまま、締め切りが迫ってくる。(産経新聞・206/08/08)

 産経新聞のコラム「産経抄」には、硬軟両派があると思う。言い換えると、武闘派と軟弱派です。本日はもちろん「軟弱派」の日でしょう。この両派は、同一人物が担当しているとはとても思われません。そして、言うまでもなく、ぼくは「軟弱派」を好む。こよなく好むものです。本日も一読、嬉しくなって、書かれた当人にメールを送ったほど。「楽屋めいた」ではなく「楽屋落ち」というのではないですかってね。懐かしい名前が出てきました。釈迢空(折口信夫)さん。若いころ、ぼくは柳田國氏を調べていて、その関係で折口さんもよく読みました。それで驚いたことがありました。柳田さんはしばしば「折口信夫」筆名での論考を読んでいた。面識はない時期でした。この名前や書きぶりからすると、民俗学の相当な「大家」であるに違いないと、その論文の内容ともどもに、ある種の畏敬・畏怖の念を持っておられた。(ヘッダー写真「金子みすゞ記念館公式オンラインショップ)(https://misuzu.store/item/432/

 機会があって面晤(めんご)された際に、折口さんがあまりに若かったので驚いたという。あるいは「いささか競争意識」が芽生えていたかもしれない。その後、いろいろな面で、民俗学上の意見の相違も生まれ、やがて柳田さんは「私を甚く嫌うようになられた」、「意地悪をされる」ようにもと、折口さんは書かれている。柳田氏には実に卑屈な「いじめの」ような振る舞いがあった。碩学・泰斗たる柳田さんも、とても嫌な一面を見せられたものですね。(そのこともあって、一冊の単行本を書いただけで、ぼくは柳田論の続編を書くのを止めてしまった。気力が失せたんだね)

 もう何十年も前、ぼくは小さな業界紙に「コラム」(月一)を書いていたことがあります。事務所の中で、職員に急かされて、その場で書かされていたことを思い出します。もちろん、プロと比較する気は毛頭ありませんが、この駄文コラム(おそらく、この7~8年間で、駄文・雑文「三千編」くらいにはなるでしょう)を、飽きもせずではなく、徐々に飽きつつ、毎日書き続けてきたうえでの感想をいえば、ぼくはいつだって「書き下ろし」、いや「書き殴って」いますので、コラム氏の言う「包まずに言えば出たとこ勝負だ」は本当でしょう。下手な鉄砲も数撃ちゃ中(あた)るというと、誠に失礼になりますが、そんなものですよプロだって。野球でも3割を打てば、それで「一流」なんですからね。

 詩人の三好達治さんが、あるときに芥川の書くものは「百発九十九中」だが、そこへ行くと室生犀星は「百発一中」だといいつつ「石蕗(つわ)の花」の詩を上げていたと、三好さんの友人の石川淳んさんがどこかで書いておられた。面倒をいとわず「石川淳全集」を調べるとありました。「また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき抜かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。」石川淳「三好達治」、「夷斎小識」所収)石川さんも大好きでしたね。よく読みましたよ。文豪という以上に「碩学(profound scholar)」だった人ですね。

 寺の庭
つち澄みうるほひ
石蕗の花咲き
あはれ知るわが育ちに
鐘の鳴る寺の庭
(『抒情小曲集』)

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【天地人】
 古今和歌集には春夏秋冬、季節を追って歌が並んでいるが、夏の歌の数はさほど多くない。いにしえの人も暑さは苦手だったのだろう、と勝手に想像してしまう。夏の歌の最後に置かれたのは次の1首。<夏と秋と行きかふ空の通ひ路はかたへ涼しき風や吹くらむ>凡河内(おおしこうちの)躬恒(みつね)。
 去ってゆく夏とやって来る秋とが大空の通路ですれ違っていく。秋が通る側だけ涼風が吹いていることだろうか-。季節を擬人化して、その推移を捉えた歌という(鈴木宏子「『古今和歌集』の創造力」)。
 続く秋の歌の最初は<秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる>藤原敏行。よく知られた1首だろう。こちらも風が登場する。秋がやって来たと目にははっきり見えないが、風の音で秋だと気づかされたという。「秋立つ日よめる」と前書きがある。
 きょうは立秋。暦の上では夏が去ってゆき、秋がやって来た。とはいえ、県内は3日前にやっと梅雨明けしたばかり。昨年より17日も遅かった。気温が上がり、ようやく夏本番の趣だが、吹く風には時折涼しさも感じられる。
 <そよりともせいで秋たつ事かいの>。江戸期の俳人・鬼貫(おにつら)は、そよりとも秋風が吹かないのに、これでもきょうから秋なのかと詠んだ。厳しい暑さがなお続いている熊本などの人たちはそんな気持ちだろうか。早く秋風を感じられればいいが。(東奥日報・2026/08/07)

 実に久しぶりの「天地人」です。ぼくの偏見ですが、新聞コラムにも「西高東低」の趣・傾向があるのではと、よからぬ偏見を持っているので、なおさらに、「立秋」(昨日)に合わせたコラムに、一時は気も休まるほどでした。立秋二十四節気(8月7日~22日):七十二候 涼風至(すずかぜいたる):第37候(8月7日~12日)寒蟬鳴(ひぐらしなく):第38候(8月13日~17日):第39候(8月18日~22日)蒙霧升降(ふかききりまとう)。今や、新旧歴もあったものではなく、ひたすら猛暑に厳寒という、極めて味気なくも厳しい季節に成り代わりました。この先も「四季折々」などと入っておれない時代を、地球上の日本劣島は迎えそうです。暑いか、寒いか、それだけ。

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 「広島平和記念式典」、その様子は見ることは見ましたが、複雑な印象を持ちました。この場に、子どもを登場させるのは止めてほしいね。さらに「平和」という表現も、「唯一の被爆国」という看板も降ろしたらどうでしょう。八十年超、このままでは「平和」「被爆」という言葉の原義に照らして、ごまかし、無理が隠しおおせなくなるのは目に見えているのですから。首相は、想定通りに「やがて破る、非核三原則を堅持している」などど、多くの犠牲者・遺族の前で「虚言」を、堂々と吐く。「官製の式典」「官製の記者会見」を見せつけられましたね。また、多くの被爆者や国民への冒涜に加担する新聞社にも、ぼくは批判の矢を向けてきました。戒厳令下における軍都広島でこそ、ファシズムの足音は高らかに轟いていると、ぼくは感じていました。

 マスメディアの敗北は、何をもたらすか、「素粒子」さん。 新聞紙面で書かれているのは、「ごまかしでしょうか」「いいえ、本音です」 

【素粒子】
 非核三原則を堅持しますかと聞くと、政府としては堅持しておりますと言う。9条を守りますかと聞くと、憲法の定めで憲法尊重擁護義務がありますと言う。こだまでしょうか。いいえ、すりかえ。
      ♭
 現在形か未来形か。自分が主語か一般論か。それが問題な高市話法。徹夜で原稿にペン入れをして念入りに表現をぼかしているか。
      ♭
 戦争を「反省なんかしておりません」。若いころの発言は過去形に直しては。過去の過ちに学び、現在・未来の紛争に加担しない。今を生きる首相と私たちの責任。(朝日新聞・2026/08/07)

⁑H△G「 こだまでしょうか 」Music Video( 配信シングル「 こだまでしょうか 」収録

https://www.youtube.com/watch?v=723ShV3rZ8s&list=RD723ShV3rZ8s&start_radio=1

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赤く蒼く黄色く黒く戦死せり

【天風録】被爆国の首相 50年前の8月6日、広島の原爆資料館で職員を質問攻めにする人物がいた。こんな写真がなぜ残っているのか、犠牲者の数は―。展示物に目を凝らしたのは時の首相、三木武夫氏である▲金権政治を批判して「クリーン三木」と呼ばれる一方、非核平和にも力を注ぐ。抜け穴があった武器輸出を全面禁止。核拡散防止条約(NPT)の批准を実現するなど、被爆国のトップとしてふさわしい言動を取った▲きのう高市早苗首相は就任後初めて平和記念式典に出席し、原爆資料館にも足を運んだ。「深く胸に刻まれるものがある」。記者会見での言葉が本心なら、まず己を顧みるべきでは▲今春、殺傷能力のある武器の輸出を解禁。非核三原則の見直しもかねて訴えていた。広島、長崎の願いがこもる国是だが、首相は式典あいさつや記者会見で「堅持しており…」と現状を説明するにとどまった。今後も守り通すのが筋であり、言葉を濁すのは犠牲者への誠を欠こう▲資料館を視察後、首相が芳名録に記した言葉は〈祈 平和〉。道筋をどう描くか。「核兵器を全廃し、人類を核の脅威から解放することこそ真の平和への道」。半世紀前、三木氏は式典でこう言い切っている。(中國新聞・2026/08/07)

(ヘッダー写真「願いを記した灯籠を元安川に流す人たち(6日午後7時34分、広島市中区で)=渡辺恭晃撮影」読売新聞・2026/08/06)

キャラメルの赤き帯封原爆忌(吉村 明)
人も蟻も雀も犬も原爆忌(藤松遊子)
原爆忌人は孤ならず地に祈る(飯田蛇笏)
原爆忌有無を言はせず空白み (百瀬美津)
暑くともなほ暑くとも原爆忌(山田みづえ)
原爆の日の洗面に顔浸けて(平畑静塔)
広島忌騒がしきまで蝶の群れ(原裕)
十一時二分わたしの祷り長崎忌(山崎芳子)
雀来て原爆の日の水たまり(山本雅子)
平和祭龍舌蘭も花擧げて(下村ひろし)
魔の六日九日死者ら怯え立つ(佐藤鬼房)
赤く蒼く黄色く黒く戦死せり(渡辺白泉)
原爆忌触れて呉れるなあまた汚手(飯野無骨)

 昨日の「式典」を見ていて、つくづく感じました。八十年も過ぎれば、「唯一の被爆国」という惹句は却って、手垢に汚れ、いかにも「形骸化」してしまった「キャッチ」だと。できるなら、「唯一の被爆国(The only country to have suffered atomic bombings)」という常套句を使用禁止にしたらどうか。あるいは、小さな子どもたちに「原爆反対」を言わせるのを止めたらどうか。そんな思いをしきりに重ねながら、前夜から、当日の「式典」終了、その後の「首相会見」まで見ていました。何よりも驚くのは、至る所に公安や警備の警察官たちの姿が溢れていたという光景でした。年を追って警備強化が加わる、そんな厳戒態勢を敷かなければ「式典」が開かれないということ自体、「式典」の形骸化・偏向の証明にならないか。いくつかの「挨拶」を聞いていて、決まり文句の羅列、前例踏襲の物まね等々。これらの「式典」が世界に対していかなるメッセージを発信し得てきたか。言うまでもないことでしょう。

 被爆地広島だからこその「核廃絶」であって、「抑止核」「核抑止」などと言う寝言を言うために広島の地を悪用するのは止めたらどうか。この国の政権与党は「非核三原則」を破りつつあることを、あらかじめ宣言しており、中でも「米国の核持ち込み」を容認することを、現首相は明言している。にもかかわらず、この「式典」で彼女は「二枚舌」を使った。変えようとしている「原則」を、(今のところは)「堅持して」と、歴代首相に倣っての「寸借詐欺」を働いたというのです。被爆された方々、その列に並ぼうとする人たち、そういう市民の意思と行為で実施されるのが、この「原爆投下記念日」にふさわしいという思いをぼくはつよく持っている。「官製の式典」は、明らかに矛盾しているでしょう。原爆投下を将来した側、権力に加担していた側の、後裔たちが、この「原爆忌」を主宰すべきではないと思うし、今こそ原水禁運動の初心に帰る時期ではないでしょうか。官製の記者会見というものが、ほとんどフリーパスで横行している、この惨状に、ぼくは言葉を失ってしまう。新聞社をはじめとするメディの人間たちは、一体、誰のため、何のために存在しているんですか。広島だけに限らないでしょう、「大政翼賛」気運はますます強化拡大されています。「平和」という言葉の冒涜でしかない、「記念式典」だというほかありません。

【水や空】広島原爆の日 安全保障を巡る環境がどんなに変わっても、この国の夏は非戦を誓い、非核への決意を新たにする季節だ。そうでなければ、犠牲者が浮かばれない。「唯一の戦争被爆国」の名前が泣く。広島はきょう81回目の原爆の日▲それなのに-。「フランスは核戦力を増強しようとしています、フィンランドは自国への核兵器持ち込みを認めることにしました、私たちの国もあらゆる政策をタブーなく議論しなければなりません…」▲小泉進次郎防衛相がネットの番組や訪問先の欧州で、核兵器を巡る議論の必要性に繰り返し言及した。失礼ながら熟慮を重ねて考え抜かれた発言にはあまり聞こえなかった▲批判の広がりは当然だ。小泉氏も一昨日の記者会見で「被爆地や被爆者の方々が訴えてきた核兵器のない世界を願う切実な思いに強く共感する」と火消しを図った▲一般論だけで言うなら、あらゆる議論は率直でオープンな方がいい。物事はぶつかった分だけ磨かれることもあるから。だが、核兵器は「絶対悪」だ。念を押すまでもあるまい。政策の選択肢に入れてはならない▲医師の国家試験には、選択問題でその選択肢を選んでしまうと、他の問題でどんなに高い点数が取れていても問答無用で不合格になる「禁忌選択肢」という仕組みがあると聞いたことがある。(智)(長崎新聞・2026/08/06)

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🔵 原水爆禁止運動(げんすいばくきんしうんどう)= 核兵器に反対する民衆運動。 1950年,ストックホルム・アピールが世界4億 7000万人の署名を集めてその端緒を開いた。 54年3月1日,アメリカのビキニ環礁水爆実験によって『第五福竜丸』が被害を受けると,東京杉並区の主婦によるアピールと広島の各種団体による署名運動をきっかけに,運動の規模が広がり 55年8月6日,広島の第1回原水爆禁止世界大会までに 3000万人の署名が集った。大会後生れた原水爆禁止日本協議会 (原水協) により毎年世界大会が開かれることになった。しかし,60年の安保改定前後から政治勢力各派の間の対立が表面化するようになった。そして 61年に民社党,全労会議系の核兵器禁止平和建設国民会議 (核禁会議) が結成され,66年には,63年の米英ソ3国による「部分的核実験停止条約」の評価をめぐって共産党,平和委員会系と社会党,総評系とが分裂し,後者による原水爆禁止日本国民会議 (原水禁) が結成された。以後原水協と原水禁による2つの「世界大会」が広島を中心に開かれてきた。しかし,76年末から両者の間で再統一の動きが始り,77年3月合意に達し,同8月広島で統一世界大会が開かれた。だが,86年の大会をめぐる両者間の対立と分裂により,完全再統一の実現はなお予断を許さない。(ブリタニカ国際だ百科事典)

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八月六日付各新聞「コラム」のこと

【春秋】人間の眼と作家の眼とふたつの眼で見ているの 広島の川は美しい。眠くなるような美しさである。高低のない広い土地に、眠ったように青く横たわっていて、はっきりした流れも見えない-。故郷の川をこう見つめた流行作家がいた。東京から妹の家に疎開していた時、あの日を迎えた▼原民喜や峠三吉と並ぶ広島の被爆作家、大田洋子(1903~63)。代表作「屍(しかばね)の街」に投下直後の惨状を描いた。長く絶版で原爆文学の埋もれた秀作と呼ばれた。昨夏、岩波文庫で再刊され、読み直されている▼<そのとき私は、海の底で稲妻に似た青い光につつまれたような夢を見たのだった>。家は壊れ、河原で三日三晩過ごした。身を寄せた家の障子紙やちり紙に光景を書き付けた。「お姉さんはよくごらんになれるわね」。とがめる妹に「人間の眼(め)と作家の眼とふたつの眼で見ているの」と答えた▼3カ月で脱稿したが、占領軍の言論統制で世に出たのは3年後。刊行後、世間は「原爆を売り物にしている」と批判した▼冷遇された理由は男性中心の文壇にあったと、大田の評伝を書いた江刺昭子さんは指摘する。男たちが女に求めたのはつつましく耐える姿。原爆と権威に怒りの声を上げた女性作家は嫌われ「ヒステリック」だと忌避されたのだ▼顔を焼かれた娘、結婚や出産をためらう女…。大田は女たちの苦しみを文字で刻んだ。8月6日。あの日、焼けただれた人で埋まった川は、静かに横たわっている。(西日本新聞・2026/08/06)

 いつもように、各紙の「コラム」を北から南から一瞥・乱読するのですが、本日はいくつかの「コラム」に目を奪われ、心を揺すられました。そのうちのたった1~2について触れるばかり。コラム漁(あさ)りは、何年間かの朝の習慣と化していますが、本日は(も)また、「忘れられない日」として、ぼくの胸に刻印されてきました。まず西日本新聞「春秋」に大田洋子さんが書かれていました。とても大切な作家でしたね。ぼくには個人的にもとても感慨深い人として記憶に残されています。彼女は戦前戦中から新進作家として活躍された方。同人でもあった「女人芸術」に何点かの作品が残されています。知人の研究者の示唆でぼくは早くに、その作品の存在を知りました。敗戦直後に書かれた「屍の街」の創作の始終にうちては彼女の語るところを引いておきます。GHQの検閲もあり、その解除後にようやく出版されたもの(1948年)でした。

 (ヘッダー写真は「広島市白島九軒町で被爆し、川のほとりで3日間野宿した後、玖島村(後の佐伯町。現在の廿日市市玖島)へ避難した太田洋子。玖島へ避難した後、作家としての責任から3ヶ月で書き上げたのが小説『屍の街』である。/1978年、『屍の町』や『夕凪の街と人と』など数多くの原爆作品を残した功績を賛え、平和への道標として詩人・栗原貞子、作家・佐多稲子、作家・大原富枝などをはじめとする全国の多くの人々の募金によって建立された。/この地に建てられたのは、たびたび広島に帰省し、原爆スラムとよばれた実妹・中川一枝宅を訪ね、『夕凪の街と人と』の舞台となったことによる。/設計は広島の反戦詩画人・四国五郎。大小15個の自然石を並べ、原爆によって亡くなった人々を模したもので、1個には『屍の街』の一節が刻まれている(「鬼哭啾々の秋」第2節第3段落目)。/「少女たちは 天に焼かれる 天に焼かれる と歌うやうに 歩いていった」/サッカースタジアム建設に伴い、元あった場所から約50m北の場所に再設置。2024年8月に公開された。(広島文学資料保全の会)(https://bungakuhozen.jimdofree.com/

🔵 大田洋子 (おおたようこ) 生没年:1903-63(明治36-昭和38)= 小説家。広島市の生れ。本名初子。《女人芸術》を経て,《中央公論》《朝日新聞》の懸賞小説に当選,作家生活に入る。1945年帰郷中の8月6日朝,米軍による初の原爆投下に遭遇,以後原爆を主題とする作品を書きつぎ注目された。その初期の《屍(しかばね)の街》(1948),《人間襤褸(らんる)》(1950-51)は当時の惨状と占領下の苦悩を伝え,続く《半人間》(1954),《夕凪(ゆうなぎ)の街と人と》(1954-55)などは,原水爆禁止運動が起こるまでの被爆者の屈折する心理と生活の苦闘とを描いている。晩年は心境小説的な作風に傾斜,不遇のうちに心臓麻痺で急逝した。82年ようやく《大田洋子集》全4巻が発刊された。評伝に江刺昭子《草饐(くさずえ)》がある。(改訂新版 世界大百科事典)

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 「私は一九四五年の八月から十一月にかけて、生と死の紙一重のあいだにおり、いつ死の方に引き摺つて行かれるかわからぬ瞬間を生きて、「屍の街」を書いた。
 日本の無條件降伏によつて戰爭が終結した八月十五日以後、二十日すぎから突如として、八月六日の當時生き殘つた人々の上に、原子爆彈症という恐愕にみちた病的現象が現れはじめ、人々は累々と死んで行つた。/私は「屍の街」を書くことを急いだ。人々のあとから私も死ななければならないとすれば、書くことも急がなくてはならなかつた。
 當日、持物の一切を廣島の大火災の中に失つた私は、田舍へはいつてからも、ペンや原稿用紙はおろか、一枚の紙も一本の鉛筆も持つていなかつた。當時はそれらのものを賣る一軒の店もなかつた。寄寓先の家や、村の知人に障子からはがした、茶色に煤けた障子紙や、ちり紙や、二三本の鉛筆などをもらい、背後に死の影を負つたまま、書いておくことの責任を果してから、死にたいと思つた。/その場合私は「屍の街」を小説的作品として構成する時間を持たなかつた。その日の廣島市街の現實を、肉體と精神をもつてじかに體驗した多くの人々に、話をきいたり、種々なことを調べたりした上、上手な小説的構成の下に、一目瞭然と巧妙に描きあげるという風な、そのような時間も氣持の餘裕もなかつた。(↷)


 私の書き易い形態と體力とをもつて、死ぬまでには書き終らなくてはならないと、ひたすら私はそれをいそいだ。/いま改めて出版するにあたつて、熟讀して見ると、私の體驗は、一九四五年八月六日に廣島全市に展開された、異常な悲慘事の現實の規模の大きさと深刻さに比べ、狹少で淺いことを、今更つよく感じないではいられない。/私の筆は全市にくりひろげられてはいないのである。自分の住んでいた母の家からのがれ出して、三日間を野宿した河原と、田舍へ逃げて行く道中の情景とのきわめて部分的な體驗しか書いていない。
 私は讀者に、私の見た河原と道筋の情景よりももつと陰慘苛酷な災害が、全市街を埋めつくしたことを知つてもらいたい。
 讀者は私の書き方をもの足りなく思われるであろう。私自身五年經つたこんにち、讀み返して見て意に滿たぬ多くのもどかしさを感じている。そして私の書き得なかつた廣島の、當時の樣相を眼底に思い浮べ、私の魂自體が焔の中で煮詰まるほどの、肉體的な、精神的な苦痛を覺えるほかはない。(以下略)」(「大田洋子「屍の街」序」(冬芽書房 1950(昭和25)年5月30日発行)

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 本日の各紙コラムを注目しているのですが、午前7時現在では、いくらも公開されていません(ネット上の公開が多くの新聞ではとても遅い)。その中でも奈良新聞の「国原譜」に、ぼくはある種の「驚愕」「呆然」を覚えたので、引用しておきます。八月六日の「コラム」に、以下のような記事が出された「意図」は何でしょうか。たぶん、何もないのでしょう。数日前、この新聞のコラムにあからさまな「誤謬(誤植)」と思われるものがあったので、その旨を指摘したメールを送りました。数日経っても無音だったので、電話連絡したら、小生のメールは既読とのことでした。細かいことは言いませんが、驚くほど「新聞発行」への姿勢が崩れていることを痛感しました。たぶん、一人の記者が書いた記事を「校正」もしないで、そのまま掲載しているとしか思われない初歩ミスが目立ちます。奈良新聞ばかりではないことを付加しておきますが。まるで運転技術も知識もないものが車で街中を走っているような危なさが見て取れます。怖すぎますね。

【国原譜】
 映画で見た懐かしい風景がほとんど変わっていないのがうれしかった。「男はつらいよ」シリーズで舞台となった東京都葛飾区柴又を観光で訪れた。
 京成柴又駅に着いたら、ホームの11本の柱に渥美清演じるフーテンの寅さんらの名シーン写真が。駅前には寅さんと妹さくらの銅像がある。
 ここから柴又帝釈天までの参道が、寅さんの生家に設定された名物のだんご屋などが並ぶ商店街となっている。映画の名場面が思い出され、胸がいっぱいになった。
 柴又は都と千葉県との境にある。小さな門前町の情緒と緑豊かな江戸川の自然があり、数多くの候補地から山田洋次監督が選んだ理由が分かる。
 1969年の第1作から95年の第48作(特別編など除く)まで製作された。97年開館の寅さん記念館で、実際に使われたセットなどを見学し、「名作は色あせない」との思いをかみしめた。
 葛鹿柴又の文化的景観が2018年、国の重要文化的景観に選定された。「男はつらいよ」シリーズは今もしばしばテレビ放映されるので、寅さんを知らない人も「昭和の郷愁」を一度ご覧あれ。(栄)(奈良新聞・2026/08/06)

 (参考までに、昨五日の「国原譜」も合わせて載せました。「郷土の誇り」だから、贔屓の引き倒し、それでいいんですかと、開いた口が塞(ふさ)がりませんね。当たり前の感覚でいうと「郷土の誇り」だからこそ、叱咤激励を、常任より厳しく、となるのでしょうが、違いますね。こんな調子だから、自らの「無能さ」も「愚かさ」も、いつまで経っても自覚できないのだといえば、言葉が過ぎますか。つまり「育て方」がいけないといいたいですね。この記事の書きぶりは「ヤラセ(やらせ)」という以上に、あからさまな「騙(だま)し」「詐欺行為」でしょう。以前から、ぼくは、広島や長崎には行かないでほしいし、行ったとしても「無言」でいてほしいと願っていることを隠していません。でなければ、犠牲者の冒涜になるような振る舞いが出てしまうでしょう。

【国原譜】
 被災者から感謝の言葉が聞かれるほどうれしいことはない。高市早苗首相が初めて熊本地震の被災地を訪問し、ナマの姿に接した。
 その様子をテレビで見たが、熱心に語りかけ、何か気になることがあればすぐにメモを取る姿が報じられていた。そのことに被災者が喜びを交流サイト(SNS)で発信していた。
 地震が起きて、わずか1週間足らずで現地に赴く行動力に感心する。そういえば東日本大震災が起きた時も、時の民主党の総理だった菅直人首相も翌日に福島に飛んだ。
 最高責任者としての直接指示が、情報不十分ななかで混乱を招いたとの指摘もあり、最悪の事態を防いだとの見方もある。それだけに高市首相も真剣だったろう。
 今回は原発は関係なかったが、10年前の被災地でまた地震が起きたことに衝撃が走った。日がたつにつれ、猛暑のなかでの救援活動の厳しさもある。
 商業施設で爆発事故もあり、せっかく避難していた従業員を再び現場に戻らせて亡くなった、という事実も明らかになった。何とも残念な出来事で、これ以上犠牲者がないようにと祈るばかりだ。(治)(奈良新聞・2026/08/05)

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 できれば、次のような「コラム」を読みたいですね、毎朝とは言いませんけれども。

【春秋】大事なことはシンプルだ 浜辺で遊ぶ幼い頃の自分を撮ったホームビデオを見て、水平線の艦影に気付いたという。真珠湾攻撃で撃沈される前の戦艦アリゾナだった。米国の児童文学作家ロイス・ローリーさんは、ここから「水平線のかなたに」という作品の着想を得た▼41の短い物語で構成されている。誕生日の翌日に命を落とした戦艦の乗組員。双子で乗り組み、弟を亡くした兵士。一人一人の人生を描いていく▼物語の舞台は広島へ移る。三輪車で遊んでいて被爆した男の子。遺体とともに庭へ埋められた三輪車は、後に原爆資料館に収められた。奇跡的に生き残った路面電車の運転士は生涯悪夢に苦しんだ▼終戦後の東京で、11歳から暮らしたローリーさん自身の話もある。金髪に触れた日本人がつぶやいた「きれい」が「きらい」に聞こえた。子どもながらに罪の意識を感じ、周囲の視線を恐れた。戦争は人の心に影を落とす▼きょう広島では、過去最多の見込みの国・地域代表が出席して平和記念式典が開かれる。核兵器を持つ国も、持たない国も、今なお戦火にある国も、被爆地に集まり祈りをささげる▼大事なことはシンプルだと本の後書きは結んでいる。黒く焦げた三輪車を見てこうべを垂れ、地球に暮らす私たちはつながっていると認識することだー。国境を超え、平和への思いを一つにする日としたい。
【近事片々】(毎日新聞夕刊・2026/08/06) 

 広島訪問は「核持つ指導者の責務」と説いたパルメ元スウェーデン首相。「核戦争勝利の神話は一瞬で崩れる」
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 原爆記録映像を手に米ソを訪れた若き河野洋平氏は後に広島で議長サミットを開く。「廃絶への転換」を願い。        
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 被爆地が「私たちの道義的な目覚め」の出発点として記憶される未来に、とオバマ米大統領はこの地で誓った。
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 被爆の実相をその目にとどめ、人類の愚かさを知る。
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 かつて「核クラブ」入りを夢想した日本。愚かな亡霊がさまよう。「タブーなき核議論」せかす防衛相の影に。

(写真右は「令和八年版「防衛白書」)

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Today you, tomorrow me.(情けは人の…)

【地軸】酷暑下の支援 
 「暑いじゃなくて、ぬくいと言いなさい」。どうしようもない気温の高さに文句をたれていたら、そんな一言を返された。気休めにはなったが、気の持ちようで変わるほど今夏は甘くはない。
 どちらかといえば「ぬくい」は寒い時分になじむ言葉だ。温かいものに触れたときに口にして、いいあんばいを表す。古典語由来とされ、愛媛をはじめ西日本で広く方言化している。
 しかし、熊本の被災地で使うときは要注意らしい。「暑い」を意味すると知っておかないと、窮する人の訴えを見落としかねない。熊本へ支援に向かう人のため、東北大が現地の方言集をまとめていると本紙が伝えた。
 不慣れな土地で、言葉にも気を配りながら、重い任務をこなしていると思うと、ただただ頭が下がる。愛媛からも医療関係者や保健師、給水支援の一団が、いち早く現地入りした。支援する側が倒れてはいけないという緊張感もあるだろう。
 暑さが未知の領域だ。熊本県内はおととい、観測史上初の40度超えを経験した。水も足りていない。助かった命が熱中症で失われては、悔やんでも悔やみきれない。向こう1カ月は災害関連死を防ぐための重大局面となる。(愛媛新聞・2026/08/05)

(ヘッダー写真は「熊本県八代市で地震で倒壊したとみられる民家(撮影・児玉珠希)」西日本新聞・2026/07/30)

 1995年1月17日に発生した「阪神・淡路大震災」が、今日では「災害ボランティア元年」とされています。全国各地から、文字通りボランティア活動の奉仕精神が芽生えたということでしょう。その後の数々の大災害に、このボランティア精神は確実に広がり、災害復旧・復興の「縁の下の力持ち」の役割を果たしてきました。熊本地震発生一週間後の時期に、各被災地ではボランティア活動が開始されてきました。これまでにも猛暑期の活動があったでしょうが、今回は飛びぬけて高温高湿度の中の救援活動で、被災者は勿論、奉仕活動に入られている方々の健康にも、大いに関心が払われてしかるべきでしょう。(左写真「ボランティアの受付はスマホを使って行われた=2026年8月2日午前9時2分、熊本県益城町の保健福祉センター、浅野哲司撮影(朝日新聞・2026/08/02)

 具体的な数値などで調べていないので、確かなことはいえませんが、ぼくが大学生(1960年代)になるまで、あるいは社会人(1970年代)になるまでに、ぼくの感覚(記憶も働いています)では、今日ほど大きな災害が起こったという気はしないのです。もちろん、多く発生してたのでしょうが、情報が今ほど自分のところに届かなかったということもあるかもしれません。それはともかく、他者への奉仕という点では、人並みに「ボランティア活動」に出かける気持ちはあるほうだと自認しています。でも、若い時分には、何度か出かけたという記憶がなかったのは、社会的にボランティア活動が、今日ほど普及していなかったことが最も大きな理由だったかもしれません。

 「2026年熊本地震で最大震度6強を観測し、大きな被害を受けた宇土市でボランティアが不足している。市は「隣接する宇城市など、さらに被害が大きい自治体にばかり注目が集まり、取り残されるのではないか」と被災者の生活再建の遅れを懸念する。/市社会福祉協議会の災害ボランティアセンターは3日に受け入れを開始。毎日約20人が参加し、手分けして10軒ほどを回っている。/4日時点で被災家屋の片付けを中心に104件の依頼が来ているが、市が把握する住宅被害は約1200件に上り、今後も依頼は増える見通しだ。市は「倒れた家具の片付けなどが困難な高齢者も多く、もっと多くのボランティアが必要だ」と呼びかけている。/4日、同市宮庄町の漁業伊藤清光さん(75)方で、倒れた食器棚の片付けに汗を流した佐賀県吉野ケ里町の看護師永池昌博さん(50)は「宇土市は報じられている以上に被害が大きいと感じた。今後も通い続けたい」。伊藤さんは「自分たちだけでは片付けられず、来てもらえてとてもうれしい」と感謝した。/ボランティア参加は宇土市社協のウェブサイトで事前登録が必要。市社協☎0964(23)3756。(井田真太郎)」(熊本日日新聞・2026/08/04)

 各地(海外も含めて)で災害が発生するたびに、気分としては「少しでも助けの必要な人のところに駆けつけたい」という衝動にかられます。しかし、八十を超えた老人が、よしんば出向くことができたとして、かえって「足手まといになる」のが関の山と、それこそ「切歯扼腕(せっしやくわん)*」するばかりでいます。「*[名](スル)《「史記」張儀伝にある言葉から》怒り・くやしさ・無念さなどの気持ちから、歯ぎしりをし腕を強く握り締めること」(デジタル大辞泉)(写真左)「益城町ではボランティアの受け入れが始まりましたが、宇城市や八代市、氷川町について、木村知事は家屋の安全性の確保ができるまで待ってほしいと話していました」(RKK・2026/08/01)

 九州・沖縄地方には「台風13号」の余波というか影響が数日前から出ています。気候変動のなせることか、「降れば土砂降り、晴れれば酷暑」です。ちょうどいい具合の「お湿り」など望みたくともかなえられない当節です。ぼく自身は、「災害被災者予備軍」であり、同時に「ボランティア(後方支援部隊の一員)」として、年寄りなりにできること、役に立てそうなことを考えながら、被災地の動向に深く関心を持ち続けています。

 (・ドルと円の為替レート:157.66-157.67 (8/5 9:46) -0.14(-0.08%)(・長期金利10年:国内の長期金利の指標となる新発10年物国債の利回り 2.830 (8/5 8:48) -0.015)(日経新聞・2026/08/05)

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日本初「金融危機」発生、自覚のない当局

 この財務大臣会見を見ていて、すでに「日本発の世界金融危機」が始まっているという、財務当局の認識がないという点に、激しい驚きを感じました。詳細は明日以降にでも触れますが、「日米協調介入」は、アメリカが日本発の危機に引きずられることに断じて反対したい姿勢を見せただけ。円安是正はドル売り是正でもあるし、両国の「国債」の金利上昇は、阻止できないという危機の表れ。「トラスショック」(2022年9月)から何一つ学ばなかった、無能首相に関せられる「サナエショック」がすでに始まっているのです。借金漬けの国家財政を知りつつ、「減税」をするという、底抜けの無能ぶりは、いよいよ実害を伴って激しく進行するでしょう。

 (会見場に雁首を揃えていた各社の記者の、大臣に忖度しかできない、呆れた横並びの態度もまた、日本発の金融危機の「共犯者」であることをはっきりと証明していたと思う。「日本売り」「日本投げ売り」がどこまで行くのか、老人の肝をつぶさないでくれと、叫びたいですね。「為替介入」は時間稼ぎの意味しかないが、今回は、それすら認められない性格のものですね。(昨日は、久しぶりに低温(30度を超えなかった)ので、庭仕事をしていたら、すぐに陽気が戻ってきたので、切り上げた。朝起きたら、頭がくらくら、熱中初夏元気をもんだが、あるいは風の初期症状かもしれない。ベッドで横になっていらのだが、気になって「記者会見」を一瞥したら、なお熱が高くなった気もするほどに、悪いものを見てしまったのでした)

 「ずっと手を挙げてるんですけど…」記者が日米協調介入を追及「バケツの底に穴が開いてるようなもので円売り止まらない?」「家計は苦しいがインフレにさえすればいい?」 片山大臣の“表情”と回答は 4日、閣議後の会見で片山さつき財務大臣が記者からの「円買いの日米協調介入」についての質問に答えた。記者が質問する中、片山財務大臣が厳しい表情を見せる一幕もあった。 

【映像】記者が質問→片山大臣の“表情”(実際の様子)

 会見終盤、記者の「ずっと手を挙げてるんですけど、最初から」という声が響いた。

 その後、司会者が「残り一問になります。他いかがでしょうか?」と促すと、同じ記者が「いいですか? 最初から挙げているので。いいですか? はい、じゃあ」と述べた後に、すでに片山財務大臣が「介入の効果について特にお答えすることはありません」とこの会見で回答していた日米協調介入について質問を開始した。

 記者は「私、15年前の協調介入をワシントンで取材をしましたけれども、アメリカが協調介入するのは異例のことです。これは日本ではもう賄いきれない、アメリカがある意味では助けなければいけない、それだけ危機が高まってるということなんじゃないでしょうか? 日本発の金融危機が起こることをアメリカ側が恐れてこういう協調介入に踏み切ったんじゃないでしょうか?」と質問した。

 片山財務大臣がこれまでの質疑とは異なる厳しい表情で質問に耳を傾ける中、記者はさらに「そして、この協調介入の背景は、やはり高市政権の責任ある積極財政なるものがマーケットの信任を得られなくて円売り圧力が止まない点にあると思います。この中核的な問題が解消されない限り円売り圧力が弱くならないと思いますけど、日銀やアメリカの財務省がいくら円を守ろうとしても、日本の高市政権や財務省がこれだけ拡張的な財政政策を続けている限り、バケツの底に穴が開いてるようなもので円売りは止まらないんじゃないでしょうか? それを改める考えはないでしょうか?」と質問を続けた。

 最後に記者は「これはおっしゃると思うので事前に聞きますが、高市政権は『債務残高の対GDP比を安定的に引き下げる』と言ってますけれども、これは分母の名目GDP、つまりインフレ率が高まりさえすれば国の財政的には大丈夫なわけです。高市政権として、財務省として、インフレ政策、つまり、家計は苦しいですけどインフレにさえすればいいと思ってるんじゃないでしょうか?」と問うた。

 これに対し、片山財務大臣は「昨日、記者会見をいたしまして、日米の円買い介入は28年ぶりでございますが、私の方からもベッセント財務長官の方からも各々の同時刻に発表しておりまして、それ以上申し上げることはございません。また、(ベッセント財務長官は)日本のアベノミクスという言葉を使っておられましたが、アメリカ側の日本のロバストな(確固たる)経済対策に対する評価は非常に高く、そのことは明記されていたというふうに考えております。お答えは以上です」と回答した。

 だが、同じ記者はなおも「私、アベノミクスって言ってませんけど」と発言した。

 この発言に片山大臣は取り合うことなく、司会者が「それでは、大臣この後お時間ということですので、こちらで終了させていただきます」と会見を締めくくり、片山財務大臣は「はい、どうもありがとうございます」と会見場をあとにした。(ABEMA TIMES/2026/08/04)(https://news.yahoo.co.jp/articles/e427f63e794616179cafdc6161a97c23e29b2c43)

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もはや「経済大国・先進国」ではない

【天風録】もはや〇〇ではない 有名なフレーズが独り歩きし、当初の意味とは懸け離れることがある。「もはや戦後ではない」はその代表格だろう。70年前の経済白書の名文句だ。敗戦直後のうらぶれた状況を脱し、成長の段階に入ったという自信の表れと理解されることが多い▲だが、原文をたどるとまるで違う。戦後に経済を引っ張った復興需要には、もう頼れないという意味なのだ。これからは技術革新を急がねば、とハッパをかける内容である。そこにあるのは高揚感ではない。危機感だ▲先月出た今年の白書には「デフレの状況ではない」の文言が見える。長年、苦しめられた経緯がある。後年に読む人は、ばら色の景色を思い描くのでは▲実際はインフレが生活を直撃。デフレ対策のなりふり構わぬ低金利や円安を正常化するのに四苦八苦している。日米の協調介入を受け、円が急騰した今の為替相場もその流れの中にある▲日本経済が転換期にあるのは70年前と似ている。持ちこたえるのか、このまま貧しくなるのか。正念場である。現政権が唱える「強い経済」の成否は見通せないが、と白書に載る展開になるとすれば、さすがに寂しい。(中國新聞・2026/08/04)

 滅多にないような事態が立て続けに発生しています。もちろん、こちらは「自然災害」ではありません。文字通りに「人災」です。円安・物価高・長期金利上昇などなど。政府の経済財政政策が今この時期に即応しているのか、大いに怪しまれている、危機的状況下に、「日米為替協調介入」が、この数日で数次にわたって行われました。163円後半に振っていた対ドル円相場が、為替介入によって最高値155円まで上昇した。現下の円安や物価高にはしばしば触れてきましたから、ここではこれ以上は触れません。アメリカは日本円安を阻止するために支援した格好になっていますが、要するに、日米ともにインフレ、物価高が著しく、放置しておくと相乗悪効果を双方にもたらせる恐れがあったので、必死になって、これ以上の円安を避けるための介入を使嗾(しそう)したというところです。日米両国の「国債金利」上昇をなんとしても阻止したかったというわけ。「飛びかかる火の粉は払わねばならぬ」(「利害の一致」というより、日本初の破綻状況に、何もしないままで「共倒れ」はしたくなかったという、アメリカの事情が日本政府を動かしたというのが実際だったろう)

 本日の中國新聞コラム「天風録」には懐かしい文書が出てきました。「もはや戦後ではない」というフレーズで、戦後復興経済とは縁切りをし、自前の経済復興・経済発展を図るべしと「戦後経済」と縁切り宣言した、1956年7月発行の「経済白書」です。この文献、ぼくは何度も手にした記憶があり、その内容に繰り返し言及したことがありました。1956年当時の経済官僚だった後藤譽之助氏の筆になる「白書」でした。「いまや経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされた。なるほど、貧乏な日本のこと故、世界の他の国々に比べれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期に比べれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した」(白書引用)

 突き落とされた谷底から這い上がる必死の生命力と、他国からの友好的援助などによって、土壇場で危機的事態からの回復は果たされた。しかし、「問題はこれからだ」というものでした。「もはや『戦後』ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである」、この一文は、「高度経済成長」という戦後の「経済発展」の狼煙(のろし)となったのかもしれませんでした。ぼくが「今の今にして」、この「もはや戦後ではない」という経済運営政策問題を、再び、この戦後直後の日本の状況になぞらえたい誘惑に駆られるのです。

 「近代化--トランスフォーメーション--とは、自らを改造する過程である。その手術は苦痛なしにはすまされない。明治の初年我々の先人は、この手術を行って、遅れた農業日本をともかくアジアでは進んだ工業国に改造した。その後の日本経済はこれに匹敵するような大きな構造変革を経験しなかった。そして自らを改造する苦痛を避け、自らの条件に合わせて外界を改造(トランスフォーム)しようという試みは、結局軍事的膨張につながったのである

 今では「失われた三十年」などと言われるようになった、経済膨張の見せかけ(いわゆるバブル経済)に官民ともに惑わされ、舞い上がり、まるで不動産売買に支配されたマネーゲームに終始したうぴな浮かれぶりで、その当然の帰結として「バブルの雲散霧消」に苦しんできたのでした。その必然の手法が「特例国債」という国の借金依存体質の継続に、その後のどの政権も惑わされ、気が付いてみれば、身動きの取れない「借金政治」に落ち込んでいたのです。その悪習に、あろうことか、今もなお遮二無二突撃しようという驚くべく時代錯誤の「責任ある積極財政」という看板こそが、破綻の一歩手前まで来た段階での「日米協調為替介入」だったと思う。米国の強制だったろう。

 釈迦に説法などというつもりはなく、あえて言うなら「馬の耳に念仏」かもしれません。今の内閣閣員をはじめ、国策策定の要路にいる人々は、酷暑の砌(みぎり)、キンキンに冷えた快適な執務室で、昭和31年版 「経済白書」(「もはや戦後ではない」)を熟読されることを薦めたい。「もはや戦後ではない」といえば、「今は戦前である」と誤解する、百年遅れの時代感覚の権力者がいないとも限らない。問題の本質は「大国」ではなく、分に相応した「小国」主義の道をこそ、歩くべきではないでしょうか。この「経済白書」が公刊された年の末に「首相の地位」に就いたのが石橋湛山さんでした。病気罹患のために翌年2月には辞任されたが、筋金入りの「小国国主義者」でもありました。日本のあるべき姿の一つとして、今こそ、彼に学ぶ時でしょう。無駄なお世話と知りつつ、政治家の皆さんに一読再読をお勧めしておきたい。いろいろな意味で、目が覚めますよ。

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(資料➀) 結語 戦後日本経済の回復の速やかさには誠に万人の意表外にでるものがあった。それは日本国民の勤勉な努力によって培われ、世界情勢の好都合な発展によって育まれた。しかし敗戦によって落ち込んだ谷が深かったという事実そのものが、その谷からはい上がるスピードを速やからしめたという事情も忘れることはできない。経済の浮揚力には事欠かなかった。経済政策としては、ただ浮き揚がる過程で国際収支の悪化やインフレの壁に突き当たるのを避けることに努めれば良かった。消費者は常にもっと多く物を買おうと心掛け、企業者は常にもっと多くを投資しようと待ち構えていた。いまや経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされた。なるほど、貧乏な日本のこと故、世界の他の国々に比べれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期に比べれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや「戦後」ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである。
 新しきものの摂取は常に抵抗を伴う。経済社会の遅れた部面は、一時的には近代化によってかえってその矛盾が激成されるごとくに感ずるかもしれない。しかし長期的には中小企業、労働、農業などの各部面が抱く諸矛盾は経済の発展によってのみ吸収される。近代化が国民経済の進むべき唯一の方向とするならば、その遂行に伴う負担は国民相互にその力に応じて分け合わねばならない。(↷)


 近代化--トランスフォーメーション--とは、自らを改造する過程である。その手術は苦痛なしにはすまされない。明治の初年我々の先人は、この手術を行って、遅れた農業日本をともかくアジアでは進んだ工業国に改造した。その後の日本経済はこれに匹敵するような大きな構造変革を経験しなかった。そして自らを改造する苦痛を避け、自らの条件に合わせて外界を改造(トランスフォーム)しようという試みは、結局軍事的膨張につながったのである。
 世界の二つの体制の間の対立も、原子兵器の競争から平和的競存に移った。平和的競存とは、経済成長率の闘いであり、生産性向上のせり合いである。戦後10年我々が主として生産量の回復に努めていた間に、先進国の復興の目標は生産性の向上にあった。フランスの復興計画は近代化のための計画と銘うっていた。
 我々は日々に進みゆく世界の技術とそれが変えてゆく世界の環境に一日も早く自らを適応せしめねばならない。もしそれを怠るならば、先進工業国との間に質的な技術水準においてますます大きな差がつけられるばかりではなく、長期計画によって自国の工業化を進展している後進国との間の工業生産の量的な開きも次第に狭められるであろう。
 このような世界の動向に照らしてみるならば、幸運のめぐり合わせによる数量景気の成果に酔うことなく、世界技術革新の波に乗って、日本の新しい国造りに出発することが当面喫緊の必要事ではないであろうか。(昭和31年 年次経済報告 経済企画庁)

(資料②) 【余禄】「もはや戦後ではない」とうたった経済白書が話題となったのは今から70年前の1956年だ。高度成長の到来を告げる名文句とされたが、実際は戦後の復興特需が消え、技術革新が急務と説いた警告だった▲このフレーズはもともと56年の文芸春秋2月号に載ったエッセーの題名である。筆者はシェークスピア作品の名訳で知られた英文学者の中野好夫。やはり当時の風潮に警鐘を鳴らした。日本の独立を認めたサンフランシスコ講和条約の発効後、大国復活を求める声が出ていたからだ▲戦前の大国とは「軍事力以外の何物でもなかった」と批判し、規模の小さな北欧3国は平和で生活水準も高いことを戦後多くの日本人が初めて知ったと指摘。「戦後を卒業する私たちは小国の意味を認め、人間の幸福に生かすべきだ」と提唱した▲異なる意味で「もはや戦後ではない」と言いたげなのが高市早苗首相だ。憲法改正や非核三原則の見直し、防衛装備品の輸出推進など戦後日本の根幹となってきた政策の転換に意欲を示す▲防衛力と経済力を一体化させた国力を強化し「日本列島を強く豊かに」と訴える。力を信奉するトランプ米政権と連携して強国への道を突き進もうというのなら危うい▲56年は、軍事力による領土拡張に反対する「小日本主義」を唱えた石橋湛山が首相に就いた年でもあった。病のため短期間で退いたが、冷戦下でも米国一辺倒に陥らず、「世界平和の確立」を外交の柱に据えた。その意義を思い起こしたい戦後81年である。(毎日新聞・2026/02/23)(左上写真「サンデー毎日連載「中野好夫対談集・話の広場」で、対談する英文学者の中野好夫さん(左)と映画監督の吉村公三郎さん=京都市で1953年5月3日」(毎日新聞掲載・2026/02/23)

(資料③) 🔵石橋湛山(いしばしたんざん)(1884―1973)= 経済評論家、政治家。東京生まれ。早稲田(わせだ)大学文学部哲学科を卒業後、1911年(明治44)東洋経済新報社に入り、編集局長を経て1941年(昭和16)社長。東洋経済新報社は自由主義を編集の基本に据えていたため、社説を担当していた石橋もその立場から満州事変や五・一五事件を厳しく批判し、政府の軍国主義政策に反対した。第二次世界大戦前・戦中の石橋の主要な活動舞台は経済評論であった。井上準之助(いのうえじゅんのすけ)の財政緊縮政策に対して積極財政論を展開した「金解禁論争」は有名。戦後、自由党に入り、1946年(昭和21)総選挙に出馬したが落選。第一次吉田茂内閣の蔵相に就任し、生産復興第一主義を中心とした積極財政によってインフレ政策を推進。1947年衆院選で当選(静岡2区)したが公職追放となる。1951年の追放解除後、自由党に復帰するが、岸信介(きしのぶすけ)らと反吉田の新党運動をおこし除名され、1954年鳩山一郎(はとやまいちろう)総裁の日本民主党結成に参画し同党最高委員。同年吉田内閣退陣後、鳩山内閣で通産相。保守合同(自由民主党成立)の翌1956年12月鳩山後継総裁選挙で岸信介と争い総裁となり、石橋内閣を組閣。しかし肺炎のため十分に政策実施を行わないまま翌1957年2月わずか3か月で総辞職した。その後、中国、ソ連を訪問し、日ソ協会会長に就任するなど共産主義諸国との交流促進に活躍した。昭和48年4月25日死去、88歳。(日本大百科全書ニッポニカ)

(資料④)🔵 後藤誉之助(ごとう・よのすけ)(1916-1960)= 昭和時代後期の官僚。大正5年10月25日生まれ。昭和22年経済安定本部(のち経済企画庁)にはいる。27年度から33年度まで(30年度を除く)経済白書を執筆。31年度の白書の結語にかいた「もはや戦後ではない」は流行語となった。昭和35年4月13日死去。43歳。東京出身。東京帝大卒。著作に「日本経済の見方考え方」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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