「滅私」乱用の不用意、不見識を問う

【明窓】「滅私」のチームに 出雲「サンロードなかまち」火災から1週間 白熱するサッカーワールドカップ(W杯)の結果を伝えた24日の本紙スポーツ面に「めっし」という見出しが載った。39歳でなお躍動するアルゼンチン代表のリオネル・メッシ選手のことではない▼漢字で「滅私」。エースの象徴である「背番号10」を付ける日本代表の堂安律選手が、チームを思い、得意とする攻撃以上に地味な守備に奮闘する姿を取り上げた記事に付けたものだ▼同日の1面は出雲市のアーケード街「サンロードなかまち」の大火の記事。きょうで発生から1週間となったが、漢字で「滅私」。エースの象徴である「背番号10」を付ける日本代表の堂安律選手が、チームを思い、得意とする攻撃以上に地味な守備に奮闘する姿を取り上げた記事に付けたものだ▼奉公だとか、自己犠牲が大事だという意味ではない。商いを続けていくのかどうかは、個々の被災者の思いが尊重されて当然である。「滅私」の心持ちでいたいと思うのは、支える側の方だ▼同じ中小商店が並ぶ松江市の白潟・天神エリアでは、27日にあったまつえ土曜夜市の各ブースで募金活動が展開された。有志によるクラウドファンディング(CF)も始まった。人のために何ができるのか、地道に、静かに実行する「利他」の精神が試されている。「めっし」が支えるチームは、粘りがあり、そして強い。(万)(山陰中央新報・2026/06/30)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 例によって、猫たちに起こされて、今朝は午前3時に起床。それぞれにドライフードを与えて、あるいは、ひょっとして、とテレビを点けたところ、なんと8チャンネルで「対ブラジル戦」のライブをしているではないか。うんと若いころはそれなりにサッカーに関心があって、W杯だけではなく、Jリーグの試合も時には見ていたこともあります。多分、リーグ制草創期だったと思う。やがて、時代も変わり、それこそサポーターなるものが「贔屓(ひいき)の引き倒し」のような醜態を演じるようになり、またサッカー熱が嵩じて、試合中継のアナウンサーたちの狂気じみた嬌声交じり中継が横行し出して、ぼくにはサッカーにいささかの関心も湧かなくなり、ついに、この三十年ほどは試合中継などほとんど観る機会がなかった。(サッカーでも野球でも、なんでもそうですが、「応援」のあの騒々しさにはぼくの神経は絶えられないんですね)

 もともとスポーツは自分でするのも、他人(プロ)の試合を観戦するのも大好きでした。中学校から野球をし、高校になってからは野球に加えてラグビーも始めていました。偶然に、中学校の同級生で、後年の「名ストライカー」と称された釜本邦茂君と同級生になり、同じグランドで野球とサッカーに分かれて、毎日のように練習をしていたこともあり、彼の際立ったプレーぶりに引き付けられたこともあって、サッカーには関心を持ち続けていました。あるとき、何年振りかで大学のキャンパスでばったり出会って、互いに旧交を温めたりはしましたが、以来、ただの一度も彼とは会うことはなかった。昨年、意外にも早く彼は亡くなった(1944~2025)。その報を聞いて驚いたものでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 W杯・決勝リーグでの、ブラジルとの一戦が日本時間の6月30日午前2時開始ということは知っていました。猫に付き合って起きたものの、三時からどう過ごそうかと思っていたところ、ひょっとしてとテレビを点けた次第。しかし、試合を見る気は全くなかった。以外にも「中継」をしていることにぼくは驚いたのでした。後半戦が始まったばかりだった。1対0、日本リード。このままで終わるはずもないと、なんと「テレビ観戦」をする羽目になったのでした。音声は消した状態(ミュート)で、後半のおよそ一時間を観ていました。音声がない(ミュート)分、実に静かに観ることができたし、両チームのパス回しをはじめとするゲームの作り方もよくわかると思ったほどでした。同点に追いつかれた段階で、明らかに日本チームの運動量が減じていることもぼくにも分かりました。

 そして最後は、アディショナルタイムで決勝点を入れられた。「2対1」という試合結果は、両チームの接戦とも、日本チームの善戦(惜敗)ともみられる試合だったでしょう。(サッカーファンには怒られそうですが、これで、今後は劣島も、しばらくは静かになるのではないかと胸をなでおろしました。特に酷かったのは、H✖Kで、夕方7時のニュースをはじめ、これでもかと、どうでもいいサッカー談議で時間を潰していたのには、この放送局の堕落・凋落ぶりは徹底していると、あきれ果ててもいました)

 本日付の山陰中央新報のコラム「明窓」に引き寄せられました。「滅私』と「メッシ」( Lionel Andrés Messi Cuccittini)(年齢39歳。驚くことに、彼は身長170㎝だという)。「漢字で『滅私』。エースの象徴である『背番号10』を付ける日本代表の堂安律選手が、チームを思い、得意とする攻撃以上に地味な守備に奮闘する姿を取り上げた記事に付けたものだ」と、コラムにはありました。ぼくも堂安選手くらいは知っています、兵庫出身、プロになった時には「ガンバ大阪」だったと思うし、そのチームのエースであり監督としての釜本君も知ってゐました)、それが「滅私」繋がりでこの記事に出て来ることにぼくは、ある種の「違和感」を覚えた。(「サンロードなかまち」の大火には心を痛めていました。人命の犠牲がなかったことだけが救いのような賛辞でした。「復興」の早からんことを念じています)

 6月23日に発生した出雲商店街の大火災。「奉公だとか、自己犠牲が大事だという意味ではない。商いを続けていくのかどうかは、個々の被災者の思いが尊重されて当然である。『滅私』の心持ちでいたいと思うのは、支える側の方だ」と書く、この短いコラム(文章)になんと5回も6回も「滅私」が出ているのです。どうしてでしょうか。「滅私」多用の記者の意図はわかりそうで、実は彼の意識以上に、彼の無意識の働きが、どうやら来るところに来ていると、ぼくは感じたのでした。

 なにが言いたいというのではなく、こんな言葉がいささかの違和感も躊躇もなく、頻繁に出て来る(使われる)「時代」というか「社会」というものの色調・音調・背景・後景というものに、ぼくは「(特攻精神なるものが)ここまで来ているんだ」という、実に不快な気分を隠せないんですね。もっと言えば、「侍ジャパン」だの「サムライブルー」だの、「ナデシコジャパン」だの、ぼくにはとても鬱陶しい物言いが横行していると思いつつ、とても気分が滅入るんですよ。その同調主義のような傾向が鬱陶しくなったのも、多くのスポーツから離れた理由でもあるでしょう。「五輪」競技が嫌いなのは、スポーツ(運動)は、個々人の意志(目標)から発していると思うのに。いつしか、「国家」が表に出っ張ってきて、「日の丸の旗(メダルの色)」を振り回す事態を、社会の多くが安易に受け入れている、それがぼくには受け入れがたいんですね。プロ野球などでも、試合開始時には「君が代」を謳うというのは、ぼくに言わせれば、狂気の沙汰。

 メッシと滅私、ダジャレにもならない不用意・不見識な言葉遊び(記述)だと思いました。「滅私」とは《私心をなくすこと。私利私欲を捨て去ること。「―奉公」》(デジタル大辞泉) というわけで、決して褒められた表現ではないように、ぼくには思われます。述べれば面倒なことになりますが、「自分を殺すこと」を意味し、直ちに「死の崇拝(death cult)」につながるものです。よく知られたのは「滅私奉公」でしょう。サッカーは決してそんなものではないどころか、むしろ正反対の「自己顕示」のためのものであるはずだと、ぼくは考える。「滅私(selflessness)」は「自己滅却(self-annihilation)」に隣り合っています。それを指摘したのがジョージ・オーウェル(George Orwell)の「1984年」の「イースタシア(Eastasia)」ではなかったでしょうか。「滅私」と「利他」、同じ範疇の表現として使われるのは、書く人の自由でしょう。でも、「言葉」が内に含んでしまっている「歴史」(影の部分)というものに配慮しないならば、それはまずいことになるのではありませんか。

 「君が代や日の丸を、世界に知れ渡らせるためのサッカーなどではない」ということが言いたかったんですな。試合中継をミュート状態で「観戦」する時、ぼくには選手個々と個々の選手のまとまりであるチームの、いかにも魅せる個人技とチームプレーの鮮やかさを、誰にも邪魔されないで「堪能する(to fully enjoy)」ことができた、その「報告」みたいな駄文になりました。(おそらく、これは何十年ぶりかで見たW杯の試合だったと思います)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

数万人が依然として行方不明

【筆洗】ベネズエラの首都カラカスで不思議な光景を目にした。30年ほど前の話である。空港から市内へ向かうバスから外を見ると丘の暗闇の中にぽつり、ぽつりと光が見える。たくさんのホタルが集まっているようだ。きれいだと思ったが、「バリオだ」と説明を受けた。それは一種の町だった▼1950年代、農村部から職を求めて都市部へと人が押し寄せた。住宅が足らず、人々は丘の斜面に小屋を勝手に建てて住みはじめた。こうした家々が次第に増え、バリオ(近所)と呼ばれるコミュニティーになった。夜の「蛍火」は丘にしがみつくように立っていた家のともしびである▼ベネズエラを襲った大地震の被害の大きさにうろたえる。死者の数は日ごとに増え、なお数万人規模の人と連絡が取れないという▼丘の斜面で肩を寄せ合うように立ち並んだバリオの現在が心配である。一説では国民の4割近くがこうしたバリオで生活していると聞く▼高い耐震性を持つ住宅は望むべくもなかった。長く続く経済の混乱によって貧困率は極めて高い。政治は不安定で今年1月、米軍がマドゥロ大統領を拘束した事件は記憶に新しかろう。困難の上に重なった大地震が恨めしい▼国際社会の救助と支援を急ぎたい。今年3月のWBC。優勝したベネズエラの選手たちは実にたくましく、心も強かったが、それだけでは乗り切れない惨事である。(東京新聞・2026/06/28)

(ヘッダー写真「2026年6月25日時点の、環太平洋火山帯で発生した主な地震を示したインフォグラフィック」「ベネズエラの大地震は、極めて稀な「ダブレット地震」だった」Yasin Demirci/Anadolu/Getty Images)(WIRED・2026/06/26)(https://wired.jp/article/venezuelas-powerful-earthquakes-rare-seismic-doublet/

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 地震発生から5日。報道が錯綜していますが、手の付けられない未曽有の災厄であることは明らかでしょう。昨日現在、死者数はおよそ1500人と報じられていますが、行方不明者が5万に上るとされ、死者の数も一万人超えるのではとほじられている。各地各国からの援助隊や救援隊が入って活動を進めていますが、あまりの被害の大きさに、全く手つかずの個所が何か所もあるという。30秒ほどのマグニチュード7以上の大きな地震が立て続けに2度も発生。その間、この日本劣島でも、小さくない地震が各所で発生しています。まさしく、他人事ではないというばかり。国際機関(NPO》、数か所から支援金や寄付(物品)以来のメールが、小生のところにも、連日のように届いています。虚仮の一念というべきか、いつに変わらぬ「貧者の一灯」を点し続ける以外に手はありません。「明日はわが身(It could happen to me, too.)」、いや、「まさしく、今日のわが身(Today, it could be me.)」かもしれないのですから。

++++++++++++++++++++++++++++++

《ベネズエラを襲った強い地震の後、11歳の少年2人が数時間のうちに、それぞれ別々に倒壊した建物の瓦礫の中から救出された。/モイセスと名付けられた最初の少年の映像には、彼がねじ曲がった瓦礫の中から引き出される様子が映っていた。彼の目は太陽から守るために覆われており、救助隊員たちの拍手が送られた。/数時間後、デルシー・ロドリゲス暫定大統領は、別の11歳の少年が救出されたと発表し、彼が担架に乗せられて巨大な瓦礫の山から運び出される様子を映した動画をXに投稿した。/水曜日に発生したマグニチュード7.2と7.5の地震以降、当局は少なくとも1450人の死亡を確認した。数万人が依然として行方不明となっている。/地震発生から3日以上経っても、救助隊員たちは希望を捨てておらず、特に瓦礫の下に食料や水があれば、まだ生存者がいる可能性があると述べていた。/わずか39秒の間に発生した2度の地震により、数百棟の建物が倒壊し、多くの人々が建物内に閉じ込められたままとなっている。絶望した家族たちは、愛する人を探し出すため、瓦礫の中を手作業で掘り続けている》(BBC・2026/06/29)(https://www.bbc.com/news/articles/cr47dvywvy5o

《政情不安の中の震災 ヴェネズエラは今回の震災の前から、政情不安と経済危機が続いている。/今年初めには、2013年から国を支配したニコラス・マドゥロ大統領が今年1月に首都で米軍に拉致され、ニューヨークへ連行された。マドゥロ氏の盟友で元副大統領のデルシー・ロドリゲス氏が残影大統領、国の運営を引き継いだ。/ヴェネズエラの野党関係者たちは、トランプ米政権が反体制派指導者でノーベル平和賞受賞者のマリア・コリナ・マチャド氏を、国のトップに据えることを期待していたが、それは実現していない。/スペインに亡命中の野党党首レオポルド・ロペス氏は、BBCニュースに対し、地震の被害は「甚大」で、大勢が「ショック」状態にあると話した。/「残念なことに、インフラの崩壊と並行して、国家が被災地の人々に素早く的確な救助と支援を提供できなくなっている」ものの、「ヴェネズエラの市民社会は、大いに(被災地を)支えている」と、野党党首は強調した。(BBC/2026/06/27)(https://www.bbc.com/japanese/articles/cvgm1665edmo

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「徒然に日乗」(1137~1143)

◎2026年06月28日(日)終日曇天、時には小雨も。台風の残した爪痕の深さが徐々に明らかになる。今回は暴風というよりは、大量の降雨がもたらした被害が大きかった。土砂崩れ、川の氾濫、その他、都市部での下水や道路側溝などの氾濫、陥没など。既存の敷設設備(インフラ)の耐用年数が期限を超えていたことなど、そこにも人災の要素なしとしない。▼終日、自宅内に。この数日、驚くほどの「コバエ」が家屋内にも発生。その始末に手を焼いている。ごく近くに、最近、大量の肥料を施した畑地があり、そこからの飛来だったかもしれない。大きな運搬車で、どれほど撒いただろうか。猫たちが屋内にいるので、やたらに殺虫剤を散布できないので、苦慮中。降雨や湿度、気温とも関係していると思われるので、もう少し状況を見てみたい。それにしても大量発生には、気味が悪く、かつ恐ろしくなるほど。▼ヴェネズエラの大地震の発生と、その被害は、日を追うごとに大きく広範囲に及んでいる。何の足しにもならないが、いくつかのNPO組織を通じて、義演の寸志を送付することにした。▼米とイランの和平交渉は、停戦破りの応酬で、どこまで進むか知れたものではなさそう。原油の輸入が頓挫したままの状態が続くだろうか。大体調達は、きわめて割高の米産がほとんど。深慮のない場当たりの結果だといえよう。(1143)

◎2026年06月27日(土)台風7,8号が劣島を直撃するような進行具合。梅雨前線も相まって、各地に記憶的な豪雨をもたらしています。当地も未明から降り出し、明け方は一層激しくなった。そんな中、小雨になった隙を狙い茂原まで買い物。気になっていた「豊田川」(しばしば氾濫)の水量は差し当たっては大丈夫のようだった。帰宅後、思いのほか大雨は激しくもならないで7号は通過。茂原では記録的な大雨だった。夕方から夜の9時ころまでは8号の豪雨が心配されたが、それほどでもなく、通り過ぎて行ったようだ。それでも、台風がもたらしたさまざまな災厄で、各地に多くの被害が出ており、人命も失われた。これほど「予想」「予防」がきめ細かくなってきているにもかかわらず、結果的には犠牲者が出てしまう。いったいなにが欠けているのだろうか。▼ヴェネズエラの大地震の犠牲者が徐々に膨らんでいる。グローバルに各地でも地震が頻発している。(1142)

◎2026年06月26日(金)「2時46分頃、千葉県北東部を震源とする最大震度4の地震が発生しました。地震の規模を示すマグニチュードは5.8、震源の深さは約50kmで、この地震による津波の心配はありません」(WN・2026/06/26)昨日の青森や岩手沖地震といい、このところ、太平洋側の地震が連続している。▼「台風8号が先行して通過し、その後を追うように台風7号が接近するため、27日(土)は1日を通して広範囲で雨が強く降る時間帯が続きます。/南から大量の水蒸気が帯状に流れ込む影響で、伊豆半島周辺では24時間で300ミリ超、首都圏でも過去の災害に匹敵する記録的な大雨となる恐れがあります」(WN・2026/06/26)(1141)

◎2026年06月25日(木)雨模様の中、午前中に茂原まで買い物に。いつも同じスーパーを利用しているが、大変に混雑していた。会計のために並んでいた行列の隣の人に聞いたら、「特売日だから」という。スーパーが発行しているカードにつくポイントが5倍になる日だという。そのようなカードを持たないものだから、我ながら、その鈍感さに驚いた。それにしても、雨天をついての大混雑ぶりは、やはり「物価高」のせいだろうと思う。▼国会は7月17日が閉幕。それなのに、この間に緊急にやる必要性があるとは思われない議案(法案)がたくさん出されている。「国旗損壊罪」「皇室典範」改正案を含めて、これまでの国の形をすっかり変えてしまうような(国論を二分する議案)、そんな議案が山積。不思議でならないが、この時代にわざわざ、一世紀も時間を巻き戻すような、世界の趨勢から著しくそれるお不幸をなぜ選ぶのだろうか。まさに「奇怪が島」になってしまっている。たぶん、確実に国の根っこの腐敗が進んでいるのだ。多くの政党の狙いは、そこにあるのだろうか。▼「近日中に、奈良の(木下)秘書の陳述書と、暗号資産に関する記述などどこにもない相手企業から送られてきた唯一の提案書、これを予算委員会の理事会に提出させてください。それをもって本件に関する詳細な問いへの答弁とさせていただきたいと考えます」/答弁を「陳述書」の提出に代えたいというのだが、坂本哲志・予算委員長(自民党)は、「陳述書を私が預かり、理事会でご協議いただきたい」とこれを引き受けた」(アエラ・2026/06/24)国権の最高機関である国会が根っこから腐っていることが明らかにされたのだ。予算委員長もまた「国賊」に並んだのか。「陳述書」で勘弁という意味は、報道されている「週刊誌ネタ」が事実だ(責任は秘書にあり、自分にはないというに等しい)ということを認めたというのだろう。どこまで腐るか、「似非(えせ)国家主義者よ」と、実に胸糞が悪い。(1140)

◎2026年06月24日(水)台風7号と8号が同時期に同方向に沿って劣島を縦断しそうだ。すでに九州地方では各地で「線状降水帯」に襲われている。このまま進むと、今週末からは関東地方でも大雨に見舞われると予想されている。▼しばらく前に選定した枝葉などをそのままに溜めていたが、午前中から、これらを少しずつ燃やした。例によってダンボール なども含めて、かなりな量にはなっているが、何とか手を付けだした。今週末の台風襲来を避ける点でも何度かに分けてでも燃やし尽くしておきたい。以前とは違って、なかなか体力がないことを痛感している。可能な限り無理をしないで体と相談しながらの庭掃除、除草作業である。▼「日経平均69,174.97 -613.41 NYダ51,666.84 -45.87 ドル円161.68-69 +0.21円安 NY原油71.01 -2.20 長期金利2.660 0.015」(日経新聞・2026/06/24)(1139)

◎2026年06月23日(火)八十一年目の「沖縄終戦記念日(「慰霊の日」)。現首相の「挨拶」を聴く。いつも通りの内容浅薄な、歴史意識のきわめて希薄な言葉の羅列(作文)に終始。会場からは多くの批判の声あり。当然であったろう。4月29日に行われた「昭和記念の日」の二の舞といっても構わないような、歴史の偽造(捏造)を意図した朗読だったと思う。それにしても、この人間には「己を知る」という知的作用は皆無だと、ぼくには語る言葉もない。「国益」を著しく損ねる、まさに事態は国難に及ぶ「首相在任」の災厄である。▼「最高裁第3小法廷(渡辺恵理子裁判長)は23日までに、宗教法人法に基づき世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の解散を命じた東京高裁決定を支持し、教団側の特別抗告を棄却する決定をした」(日経新聞・2026/06/23)(1138)

◎2026年06月22日(月)終日、好天が続く。▼午前中に市原のHCに出向き、猫の缶詰などを購入。いつもの通販での商品が届くのが一日遅れるとの連絡があったので、間に合わせのために。いつものように、このHCにある食品スーパーはとても混雑している。ごく最初期に1~2度入ったきりで、その後は回れ右で帰宅する。本日も帰宅し、荷物を置いて、直ちに茂原まで出向き、食品を購入。▼現役首相の醜聞というか、犯罪もどきの話題が新たな局面に進んだと思われる。これまでは他候補や他党候補者への中傷動画を拡大して、選挙妨害をしたというところに力点が置かれていたが、今では「サナエトークン(暗号資産)」にまつわる不明朗な取引が大きな疑惑を持たれて、国会でも論議の対象になってきた。この件に関しては、すでに金融庁の捜査が入っていると報道。圧倒的議席を持っているので、数に任せて乗り切ろうとしているのだろうが、計算通りにいくだろうか。▼《高市首相「金曜夜から寝てない」 中傷動画めぐり答弁拒否、陳述書の提出で済まそうという異例の対応 高市早苗首相は22日の衆院予算委員会で、首相陣営による自民党総裁選や衆院選での中傷動画作成・拡散などの疑惑を巡り、関与が取り沙汰されている秘書の陳述書を予算委理事会に提出する意向を示した。/その上で、「それをもって詳細な答弁とさせていただきたい」と求めた。国会審議で事前通告された質問への答弁を拒み、書面回答で代えようとするのは極めて異例。野党側は反発し、秘書の参考人招致を重ねて要求した。/ 中道改革連合の後藤祐一氏が、中傷動画の作成・拡散や首相の名前を冠した暗号資産「SANAE TOKEN(サナエトークン)」の開発に携わったとされる男性と首相秘書との関係をただした際のやりとり。/首相は自身の関与を否定した上で「報道を見ても(答弁の)一部が切り取られることで全体像が明らかにならず、混乱を招くことになる。首相としての業務時間も確保できなくなっている」として、秘書の陳述書による説明を申し出た》(東京新聞・2026/06/22))睡眠不足でついに異常をきたしたかというほかない、信じられない首相の頓珍漢ぶりだ。即刻「議員も辞職」すべき。(1137)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

雑草といわれる植物群は弱者かね

【日報抄】雪が解けたばかりの庭に、ホームセンターで買った防草シートを張ったのは3月だった。雑草対策に先手を打ったはずなのだが、ほったらかしの庭では今、カナムグラや雑草化したキクイモが伸び盛りで、包囲されたシートは埋没していた▼座布団のようにこんもり膨らむシートの下では、キクイモがうじゃうじゃと身をよじらせていた。留め具もろとも押し上げたシートとシートの継ぎ目から、光を求めてずぶとく頭を突き出している▼戦国時代の武将は「おもだか紋」「たかばみ紋」など草の家紋を好んだという。抜いても抜いても伸びてきて生き残る雑草が、勝ち草として尊ばれた。植物学者の稲垣栄洋(ひでひろ)さんが自著「弱者の戦略」に書いている▼しぶとい強さの象徴でもあった雑草を、こよなく愛した漂泊の俳人がいる。種田山頭火はいくつもの句を詠んでいる。〈あるがまま雑草として芽をふく〉〈うれしいこともかなしいことも草しげる〉。雑草風景と題した句集もある▼日記にもつづる。〈私は雑草をうたふ、雑草のなかにうごく私の生命、私のなかにうごく雑草の生命をうたふのである。雑草を雑草としてうたふ、それでよいのである、それだけで足りてゐるのである〉▼少し意外だが、稲垣さんによれば、雑草と呼ばれる植物群は植物界では強者ではなく弱者とされるのだという。植物間の生存競争に勝てず、豊かな森を追われ、リスクのある不人気な場所を選んで生きる。そう思えば、山頭火の雑草愛が、しっくりとくる。(新潟日報・2026/06/28)

 台風一過、「快晴の一日」とはいきませんでした。台風二つ分のもたらした雨量でしたから、かなりの被害が出たのも不思議ではないでしょう。拙宅には、建設時に盛り土をしたために、裏庭(北側)にはかなり急勾配の斜面(法面)がありまして、大雨の都度、大いに心を痛める仕儀になっています。それなりの工事は施してはいますが、そのような人工物を一気に破壊するのが自然災害、これまでに何とかやり過してきましたが、心配の種は尽きることはないんですね。

 今回の台風によって、各地で痛ましい犠牲者が出ています。気象予報や防災体制。避難の呼びかけと、年を追うごとに精緻になってきているようには思われますのに、やはり、従前と同じような「被害」「犠牲」が出てしまいます。いったい、どこに問題があるのでしょうか。何はともあれ、今回の連続台風の被害にあわれた方にはお見舞いを申し上げます。そして、不幸にして犠牲になられた方には深い哀悼の意を表します。

~~~~~~

 本日の「日報抄」には、我が意を得たように感じ入りました。ぼくは防草シートなどの「雑草対策」は一切しておりません。しても無駄だというのではなく、「雑草め」などと蔑む心持ちが湧くことに、ぼく自身が、それはおかしいぜよと、根っこのところに疑問が湧き続けているからです。あえて言うなら、拙宅の庭は「雑草園」でございますと言いたいくらいのものです。何でもかんでも「根こそぎ」「根絶やし」というのは間違いのもと。そもそも「雑草」を根絶できると考えること自体が間違いのもとです。できるはずもないのですから。植物受粉原理を否定することになります。それぞれの草花に名あり、また親しみあり、です。固有名を知れば、見方・味わい方も変わるのにと、ぼく自身の経験から学びました。草が生えない土というものはどういう土なんでしょうか。

 本日の「コラム」には「ほったらかしの庭では今、カナムグラや雑草化したキクイモが伸び盛りで、包囲されたシートは埋没していた」「座布団のようにこんもり膨らむシートの下では、キクイモがうじゃうじゃと身をよじらせていた」と、さも忌々しいといわぬばかりの「悪態」を吐かれている。「戦国時代の武将は『おもだか紋』や『たかばみ紋』など草の家紋を好んだという。抜いても抜いても伸びてきて生き残る雑草が、勝ち草として尊ばれた」と、その効用にあやかりたかった戦国武人のいわれ(験担ぎ)を書かれていました。

 そして、ここまで読んで、ぼくの目は静止しました。「おもだか(澤瀉)」はよく知っているが、「たかばみ」初めて聞く家紋銘だと。咄嗟(とっさ)に、これは「かたばみ」の記憶違い(書き違い・写し違い)だと判りました。余計なことと知りつつ、新聞社に、これは「間違いではないですか」とメールを送りました。ほどなく返信が来ました。「この度は、弊紙の日報抄につきましてご連絡をありがとうございました。担当部署に確認したところ、ご指摘の通りでした。誠に申し訳ありません。速やかに訂正の対応を取らせていただきたいと思います。何卒よろしくお願いいたします」とありました。ケチをつけるのではありませんが、「担当部署に確認した」ところ間違いだったとあります。これを知らずに、新聞社内で読んでいたとしたら、さて、…。加えて、間違いを訂正しますと言いつつ、「何卒よろしくお願いいたします」と、どう受け止めていいのか見当もつかない表現がありました。新聞人が、方々で使う言葉か。(ぼくの経験から推しはかると、「コラム」は執筆者以外は誰も読んでいない形跡があります、驚嘆すべきですね)

 それはともかく、ぼくはこれまでにも何度も、同じような「初歩(不注意から)の間違い」、例えば「信号無視」とか「一旦停止」を怠るような。そんな「不注意」が、そのまま新聞社の社員の眼をすり抜けて記事になるという、信じられないことを経験してきました。先日は茨城新聞のコラムで「無知の知」を説いた「アリストテレスの命日」とあったので、電話で連絡し、その「過ち」の如何を問い合わせ、執筆者にもつててほしいと告げておきました。だれも気が付かないで、コラム記事として、世間に出る。ぼくは読者であって、「校正係」ではないですよ。その後の記事を見ても茨城新聞では「訂正」があったかどうか確認できませんでした。(あるいはぼくの見落としかもしれません)(クイズではありません。ここに四枚の草類の写真と、二枚の家紋を出しておきました。それぞれが何というものか、多くの人は知らないでしょうね)

 (あれは何歳ころだったか、庭の草取りをしていた時、これは「カタバミや。うちの家紋なんやで」と教えてくれたことがありました。正式には「剣片喰(けんかたばみ)」です。ぼくは家紋には一切の興味はない。大学生になりたての時期、図書館で「家紋」について浩瀚な書物を借り出して眺めていたことがあります。だから、他人よりは少しは知ってゐるかもしれませんが、その値打ちには全く関心が湧かないままで、生きてきました。その家紋でも、「菊」や「葵」よりも「六文銭」が好きですね。もちろん、小室等さんですよ。小室さんは上田出身だったか。真田(さなだ)ですね。ぼくは、小室さん以上に「真田幸村」が大好きでしたね)

+++++++++++++++++++

 この社会のあらゆるインフラが劣化に劣化を重ねていることに、言い知れぬ寂しさを覚えています。端的に指摘するなら、コラムを書いた人が間違いに気が付かなければ、そのまま記事になるというのは、どう考えても新聞社の機能(車内で読む人、間違いに気づく人がいないという意味)が壊れているということだし、それに気づいても指摘しない「読者」がいたとしても、決して新聞社のためにはならんでしょう。こんな事態に、「堕ちろ、落ちろ」と呪文を唱えたくなります。こんなつまらないことを事々しく言い立てるのではありません。大小の如何を問わず、読者に届ける記事(商品)ならば「間違いはタブー」でしょうに。それを新聞社そのものが見逃してしまう、何をか況(いわん)や。

 間違いでしょうか、と問い合わせて、逆にぞんざいに扱われることも何度もあります。「そんな小さいことを」、などと洒落たことを言う輩(社員)もいましたよ。読者を蔑視しているのが、声でわかりますね。それでも、ぼくは気が付けば指摘してきました。その理由は、大したことではないですよ。間違いは間違い、おかしいことはおかしい、倦まず臆せず、いうべきだと考えているし、反対に、気持ちのいい記事に出逢ったら、読んだ・読めたことのお礼を伝えることも、もちろんあります。その割合は9:1でしょうか。どっちがどうとは言いません。(このぼくの悪癖は書物に関してもやっていましたね、「あらさがし」が趣味になっているのかもしれない)

 政治家の劣化、企業人の劣化、役所人の劣化と、挙げればきりがありません。要するに、国民(市民)の期待や願いが眼中にないということだし、そのような多くの腐敗堕落の徒は、一歩でも一ミリでも「権力」に近寄りたいだけで仕事をしているような無様・醜態ぶりです。その昔は、内閣府にも企業にも、ぼくは身分(大したものではない、平凡な一市民)を名乗り、名を明かして「注文」や「指摘」をしていましたが、ばかばかしいこと限りなく、とばかりに、ほぼ諦(あきら)めかけていました。でも、「残り少ない日数を胸に(「高校三年生」の気分。ぼくが高校三年時の流行歌、舟木一夫さん歌。作詞の丘灯至夫さんも作曲の遠藤実さんも、ともに中学校卒。その二人が作った、未経験の「高校三年生」、心意気がちがっていました)ぼくはこの年齢になって、もう一度、一から「生き方のおさらい」をしている次第です。いわゆる大新聞は、読者の「意見・注文(批判)」に対して聴く耳持たずですね。「慇懃無礼」であり、「傍若無人」そのもの。とっくに終わっていますね(将棋なら、詰んでる)。

 ぼくの好きな落語の出し物(演目)に「死神」というのがあります。六代目の圓生さんが秀逸だと思って、繰り返し聴きました。「消える、消える」という最後の件(くだり)はゾッとしたものでした。その伝でいうと、この国は「終わる、終わる」ですね。そのようなことから比べれば、新聞記者の間違いなんて可愛いものでしょうか。総理大臣郎党が「虚偽情報拡散」「選挙違反紛い」「裏金づくり」に執心して、その非を認めないばかりか、逆切れするんですからね。昨日(27日)の奈良新聞コラム「国原譜」は、以下のような内容でした。

「国原譜」5月の臨時会で堀内大造市長への辞職勧告決議が可決された大和高田市で、今度の6月定例会で、同市長への問責決議が可決された。/市立病院の予算を専決処分した問題を受けて、給与報酬1割削減案に対してのもので、問責は昨年3月に続き2度目だ。市長と議会との溝を市民はどう見ているか。/いっそのこと不信任決議案でも出し、可決されれば議会を解散して信を問えばよいのではないかとも思う。来春の統一選で任期満了なのだから少し早まるだけだ。/そこまで腹をくくって決議したのなら、市長に対する嫌がらせではなく、市民にも説明がつく。他の議会では、首長いじめとみられる案件が続いている。/市民のための施策かどうかをチェックするのが議会のはずで、何でも反対すればいいというものではないだろう。道理にかなっていれば市民も理解する。
 思惑を持って混乱させようとすれば、きっと市民も見抜くはずだ。国でも週刊誌ネタで高市首相攻撃が続いているが、この情報が確かなものかどうかを見抜かねばなるまい、そんな時代に生きていることを知る。(治)(奈良新聞・2026/06/27)

 「思惑を持って混乱させようとすれば、きっと市民も見抜くはずだ。国でも週刊誌ネタで高市首相攻撃が続いているが、この情報が確かなものかどうかを見抜かねばなるまい、そんな時代に生きていることを知る」と。一端(いっぱし)のことを書いています。自らの役目はどこにあるんでしょうか。そして、ぼくはとっくに奈良新聞に関しては、きわめて早い段階(もう何年も前)から呆れ切っているし、心底、諦めています。こんなやくざ新聞が「郷土の総理」を煽(おだ)てて、そのお零(こぼ)れに与ろうというものでしょうか。腐り切っている。まことに残念ですが、いたるところで、この国・社会は「機能不全」を起こしているね。落ちる、落ちる。堕ちる、堕ちる。墜ちる、墜ちる。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

人生は「坂道」の上り下りなんですか

【有明抄】人生の「下り坂」で 自転車で坂道を登ると息が切れる。やっと登り切れば下りは楽ちんで気持ちいい。人生もそんな旅に似て「楽しみは下り坂にあり」と、昨秋83歳で亡くなった作家嵐山光三郎さん(左写真)が書いている◆世にあふれる老後の指南書はほとんどが上昇志向。「まだまだこれから」とか「若いモンには負けん」といった発想になりがち。〈年をとったら、ヨロヨ口と下り坂を楽しめばいい。落ちめの快感は、成り上りの快感に勝る〉と嵐山さん。車にばかり乗っていたら気づけない◆75歳以上の高齢ドライバーで信号無視や速度超過など違反歴のある人は、免許更新時に技能検査を合格しながら、その後事故や再び違反を起こすケースが目立つという。車の運転は道路状況を判断し、歩行者の動きを予測して的確に操作する高度な作業。「若いモンには負けん」つもりでも、年とともに心身の機能は衰える◆警察庁は検査のあり方を見直す方針というが、高齢ドライバーは免許を返納すると外出が減り、要介護リスクが高まるとか。地方は代わりの「足」となる公共交通が頼りない悩みも抱えるだけに、当事者だけの問題ではない◆人生の終盤を悲惨な事故で台なしにはしたくない。楽しみの多い「下り坂」にもブレーキのタイミングがある。嵐山さんは説いている。〈降りる技術は、登る技術にも増して熟練がいる〉と。(桑)(佐賀新聞・2026/06/28)

◎ 嵐山光三郎 (あらしやま-こうざぶろう)(1942-2025)= 昭和後期-平成時代の作家。/昭和17年1月10日生まれ。平凡社で「太陽」編集長をつとめ,昭和56年退社。独特の文体による軽妙な風俗評論やエッセイで知られ,「口笛の歌が聴こえる」発表以降は小説にも力をそそぐ。63年「素人庖丁記」で講談社エッセイ賞。「悪党芭蕉」で平成18年泉鏡花文学賞,19年読売文学賞。ほかに「「不良中年」は楽しい」「追悼の達人」など。静岡県出身。国学院大卒。本名は祐乗坊英昭(ゆうじょうぼう-ひであき)。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

⁂「週のはじめに愚考する」(125)~ 盛んに「老い」ということが喧伝されています。まるで「老い」というものが社会の荷厄介となっている錯覚(ではないかもしれぬ)を持ってしまいそうです。「荷物をもてあますこと。転じて、物事が負担になること。また、そのさま」(デジタル大辞泉)つまりは「高齢者」(老人)は社会のお荷物だといわぬばかりです。いい気なもんだと、ひとりの老人には甚だ気にいらない。だれもが生きていれば年を取る。年齢を重ねるというのは年を取るという意味だし、それしかないのだが、長く生きていれば、いろいろと差しさわりが出て来る、それもまた人それぞれでしょう。

 還暦(六十歳)を過ぎて急激に老化する人もいれば、それ以前にもまして元気になる「老人」もいるでしょう。病気をしない人はいないと思うが、これも人それぞれ、病やけがにめっぽう強い人間もいれば、そうでない人もいる。要するに、人の生涯には,一定の「基準」も確からしい「平均」もないということであって、一人一人が、それこそ毎日毎日、未知の領域に足を踏み出しているということでしょう。

 コラム「有明抄」では「人生の『下り坂』」と書かれています。それが「老人」に与えられた歩道だというのでしょうか。では「登り坂」はいつまで続き、何処から「下り坂」に変わるというのでしょうか。少なくとも、自分の足で歩けるようになった段階から「上り坂」が始まるのでしょうが、いったい「峠(とうげ)はどのあたりにあって、そこから下り坂が始まるとして、これもまた、人それぞれに「標高」も「峠の面積」も、そこに「滞在する時間の長さ」も異なるのは言うまでもありません。ぼくは、いま八十一歳です。これまでの人生が上り坂であり、いつのころから登っていた道を下り始めているという自覚は皆無(かいむ)です。体力の衰えを感じることはいつだってありましたから、それが人生の下り坂に差し掛かった時期なのだといわれるなら、ぼくは五十を超えたところで「下り一本鎗」人生などということになりそうです。

 どうも「上り坂」「下り坂」という譬えがぼくにはよく理解できません。もしそうであるなら、「彼は今は上り坂にある」「今では下り坂にかかっているぞ」と、誰かが噂したり、批判したりするときに言われる表現なんじゃないですか。あえて言うなら、人生は「一本の道(未知)」を歩くようなものですよ、もちろん、それは平坦でもなければ、舗装などもされていない、いつだって、本人にしてみれば「未踏の道」であるはずです。だれだって常に、一瞬一瞬を、今初めて過ごしているのですから。その「未踏破の道」は、たぶん起伏に富んでいるでしょう。まるで凸凹道だといえなくもありません。あえて例えれば、それは「川の流れのように」でしょうか。 

 あくまでも譬えですから、それは違うという人がいても構わない。この曲を謳った五か月後に、歌手の美空ひばりさんは亡くなられました(1989年6月24日、享年52)。彼女の「登り坂の終わり(峠)」はいつだったんでしょうか。人生は「登山」「下山」のようなものではないように、ぼくには考えられるんですね。

知らず知らず 歩いてきた(♫)
細く長い この道
振り返れば 遥か遠く
故郷(ふるさと)が見える
でこぼこ道や 曲がりくねった道
地図さえない それもまた人生(♬) (1989年1月11日発売)(作詞:秋元康 / 作曲:見岳章 / 編曲:竜崎孝明)

 ぼくはこんなこと(人生はどういうものですか?)はほとんど考えたこともない人間です。いつだって「行き当たりばったり」でしたね。「その日暮らし」あるいは「今この瞬間」に焦点を当てるような生き方でしょう。今この時、それこそが、いわば「永遠」であって、その意味では「永遠とは時の鏡(Eternity is the mirror of time.)」のようなものではないでしょうか。自分の来し方を振り返ることなどしたことはない。もちろん行く末にも大きな関心を抱いたことはありません。だからあえて言うとすれば、人生とは「川の流れのように」と言ってみても、それほどの不都合はないでしょう、今でもそう思っている。

 「老いの坂」を下っている段階にあると思い込んでいるときでさえも、今は「少し上っているかな」という感覚があるのです。起伏に富み、凸凹・曲折だらけだけれど、発端(水源)は山肌にためられた雨水だったでしょう。それが何年も何十年も、幾筋の地下水脈・水路を通過して、ついには海に流れ入る(海にまで到達しない小川や水流はいくらもあります)、そんな印象みたいなものをぼくはうっすらと感じているのです。

 ある時期に、ぼくは嵐山さんをよく読んでいたことがありました。彼は根が真面目な人間だったと思う。そんな堅物が、何かの折に羽目を外すと、そこには意外な可笑しさが出て来るんですね。それがぼくにはとても新鮮で、かつ快感でした。もちろん当の光三郎さんもそれを感じ取って、ある時期からは「外れも外れ」のような歩き方(行き方)をされたと思う。それにしても、彼が交流を重ねられていた人脈には素晴らしいものがありましたね。彼には人を寄せ付ける「光(蜜)」のような物があったんでしょうか。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

嘘にも種が要る、嘘で固めるのも大変

【春秋】虚構とリアル にじむ境界 公文書を開示する際、機密や個人の特定に触れる部分は黒塗りにする。情報公開に消極的な役所ほど、隅々までべったりと覆い隠し「のり弁当」に例えられる▼政府が今月、黒塗りを「虹塗り」に変更した-。そんな記事をインターネットで見かけた。七色に彩られた文書の画像付き。ナフサ騒動に寄せて「あえて大量のカラーインクを使用することで供給不安を払拭する狙いがある」との解説に思わず噴き出した。もちろん作り話だ▼発信元は「虚構新聞」。時事ネタを笑いに包んで風刺し、架空のニュースとして楽しませる。滋賀県の教育関係者が「社主」として1人で創作してきた。サイト開設から20年余りがたち、読まれ方が変わってきたそうだ▼見出しだけを見て真に受け、SNSで拡散する読者もいる。本当にだましてしまわないように、最近は「分かりやすいうそ」を心がけるようになった。画像も人工知能(AI)を使うとリアル過ぎるため、手作りで粗雑に仕上げている▼虚実ない交ぜの情報がネット空間からあふれ出し、一国の大統領までうそみたいな言動を繰り返す。「共通の常識があるからこそ虚構を笑えるのに、現実が常識の斜め上を行く」と社主は嘆く▼誰もが情報を発信できるし、受け取れる。せっかく便利な時代になったのに、足元がぐらついてきた。他人を欺かない、傷つけない。人としての良識はこれからも不変と信じたい。(西日本新聞・2026/06/27)

 ついに「虚構新聞」に触れられましたね。どこかの新聞が記事にするかと待望し知恵ましたが、たぶんそれは「藪蛇」というか、「タブー」にしていたと思われる節がありましたから、西日本新聞コラム氏の英断を多としたいですね。「虚構」を看板を掲げて二十年余の苦節。なかなかの壮図、いや快挙だとぼくなどは脇の方から、ひそかに羨んでいたほどです。ある種の「羨望の念」という感情だと白状しておきます。内情は全く知りませんが、この新聞の編集方針と発行姿勢に、ほとほとぼくは感心していました。

 しばしば「虚実取り混ぜ」などと洒落た風なことを言いますが、そのほとんどは嘘と誠が半々か、四分六か。いずれにしても、明らかに虚と実がお互いを殺し合っているとみているのですが、この「虚構新聞」は「書かれる記事は純粋な虚」「真正の虚構」だけと、堂々とj子主張をしての営業活動です。なかなかの哲学だというほかありません。

 かなり若いころ、ぼくは小説書きのまねごとをしていました。その際に筆名を一人前に名乗り、いくつかを使い分けていました。その一つが「月田迷雲」、あるいは「山野万八」などがありました。種も仕掛けもない、軽薄な筆名です。特に「万八」は自身ではとても好んでいたもので、その後も何かの折に使ったことがあります。「《万の中で真実なのはわずかに八つだけの意》うその多いこと。いつわり」(デジタル大辞泉)とあるように、手に負えない「嘘好き」「嘘つき」を指しています。似た表現にはは「千三つ」があります。千に三つしか「本当」がないということで、割合からいえば、「万八」の方が嘘の含有量が多いといううこと。もちろん、これは、ぼくの遊び半分のおふざけで、それで何か商売をしたということはありませんでした。

 それを思うに、「虚構新聞」は万事万般、これすべてが嘘ですから、見上げたものですね。その「風刺」というか、「諧謔」というかそのさわりの一部を引いておきますが、「バウムクーヘンの天日干し」など、取材力が効いていますね。 「当たり屋の少女を逮捕」もまた、フザケ切った世相を活写しています。「調べに対して少女は、『故意ではなく恋だ』などと意味不明な供述をしているという」取材の丁寧さがわかりそうですね。「面識とは、名刺を交換し…」などという年増女性の言い分に似ていなくもありません。

 この「虚構新聞」の真面目(しんめんもく・しんめんぼく)は「おめずおくせず」、実に真摯に「虚構(フェイク)」を突き出しているところでしょう。そこには、今日の通弊である「大本営発表(一元化された情報)などいささかも見られないのは、実に稀有なことであるし、ニュース源(もと)となっている相手(対象)にも、微塵の忖度もないというところ。

 「共通の常識があるからこそ虚構を笑えるのに、現実が常識の斜め上を行く」と社主は嘆く」ここまでくると、常識か虚構化は判別しがたい状況が生まれる。(フェイクに満たされた人間」が首相になる時代・環境です。「誰もが情報を発信できるし、受け取れる。せっかく便利な時代になったのに、足元がぐらついてきた。他人を欺かない、傷つけない。人としての良識はこれからも不変と信じたい」とは、「春秋」氏、心からの実情の吐露であり、そうであってほしいという「本音(true feelings)」でしょうか、それとも「偽らないフェイク(an honest fake)」でしょうか。嘘か真か、その差異(違い)は、いったいどこにあるんでしょうか。筆者の筆の中、それとも筆者と読者の間にあるのか。

(ヘッダー写真は「虚構新聞社」:https://hentonen.net/articles/report002/

******

 (*台風情報:第8号は大雨をもたらして、午前八時前には当地付近を通過していきました。ただ今は正午過ぎ。またぞろ大雨が降り出しました。第7号の襲来の前触れかと思います。幸いなことに風が、今のところほとんどありませんので、問題は雨量でしょうか。これから夕方まで大量の雨に打たれながら、過ごすことになります。大過のないことを願うばかり)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」


 ただ今午前5時過ぎ。房総半島中央部に位置する当地では猛烈な雨が降り続いています。昨日のお昼過ぎにはやや大きい地震がありました。その前には盛岡や青森にも震度5強の、さらには昨晩深更には山梨県富士五湖地域(河口湖町)で震度6弱の地震が発生しています。いたずらに怖がることもあるまいが、なんとも気味の悪い自然現象のめぐりあわせであります。

 台風7号と8号の連続襲来とあってみれば、暴風はともかく、大量の雨量が心配です。拙宅は標高約100メートルの地にありますが、ここから街中に出るにはなかなかに大変で、また国道14号、茂原付近はしばしば浸水するので懼れられています。また、これほどの大量の雨が降り続くと、各地の土砂崩れも警戒を要するし、風が強くなれば倒木も気がかりです。それに因する「停電」も。(右写真はBBCNewsJapan・2026年6月25日)(https://www.bbc.com/japanese/articles/cz75pjng45po

 というわけで、これから、さらに雨脚が強くなり、風力も強くなるとの予報が出ています。たしかに停電も気がかりです。(本日は、自然現象によって災厄を免れ、万事に事なきを得たならば、午後にでも「駄文」の続きを開始するつもりです)各地において、災害の少なからんことを祈念するのみ。

 ヴェネズエラの地震の被害が相当に拡大するとも報じられています。さまざまな技術革新を駆使して、さらに時代は進んでもなお、自然の現象に、人間社会は翻弄されてしまうのでしょうか。その当たり前の自然現象に、決して否定できない、大きな悪影響を及ぼしているのが「文明生活」というものであるとするなら、悔しいけれど、それは「自業自得(what goes around comes around)」というものだという声がどこかから聞こえてきそうです。

6月27日(土)3時現在、台風8号(ヒーゴス)は伊豆半島の南を、台風7号(メーカラー)は九州の南を進んでいます。/台風8号はこの先数時間が関東への最接近となり非常に激しい雨に警戒が必要です。台風7号は今夜にかけて西日本〜東日本の南岸を進む予想です。

▼台風8号 6月27日(土)3時
 中心位置   三宅島の南西約260km
 大きさ階級  //
 強さ階級   //
 移動     北東 55 km/h
 中心気圧   998 hPa
 最大風速   23 m/s (中心付近)
 最大瞬間風速 35 m/s
▼台風7号 6月27日(土)3時
 中心位置   屋久島の南南東約90km
 大きさ階級  //
 強さ階級   //
 移動     東北東 30 km/h
 中心気圧   992 hPa
 最大風速   18 m/s (中心付近)
 最大瞬間風速 25 m/s (Weather News・2026/06/27)

 《26日午後、千葉県北東部を震源とする地震が相次いだ。午後0時46分ごろから午後1時31分ごろまでの約45分間に少なくとも5回発生し、最も規模が大きかった地震ではマグニチュード(M)5.8、県内10市町で最大震度4を観測した。いずれの地震も津波の心配はない。/最初の地震は午後0時46分ごろに発生。震源の深さは約50キロで、東金市、旭市、匝瑳市、香取市、山武市、多古町、九十九里町、芝山町、横芝光町、成田市で震度4を観測した。県内の広い範囲で震度3となったほか、茨城県で震度4、東京都や埼玉県、神奈川県、静岡県など広い範囲で揺れを観測した。/その後も同じ千葉県北東部を震源とする地震が続き、午後0時52分ごろにはM3.1で旭市が震度1、午後1時ごろにはM3.9で東金市や旭市、匝瑳市、香取市などで震度2を観測した。/さらに午後1時22分ごろにはM3.5で東金市、旭市、香取市、山武市、多古町、芝山町で震度1を観測。午後1時31分ごろにはM4.1の地震が発生し、旭市や匝瑳市、成田市などで震度2を観測したほか、銚子市、東金市、市川市などで震度1を観測した。茨城県内でも震度1を観測。/同じ千葉県北東部を震源とする地震が短時間に相次いで発生した》(千葉日報・2026/06/26)

IIIIIIIIIIIIIIIII