
【明窓】「滅私」のチームに 出雲「サンロードなかまち」火災から1週間 白熱するサッカーワールドカップ(W杯)の結果を伝えた24日の本紙スポーツ面に「めっし」という見出しが載った。39歳でなお躍動するアルゼンチン代表のリオネル・メッシ選手のことではない▼漢字で「滅私」。エースの象徴である「背番号10」を付ける日本代表の堂安律選手が、チームを思い、得意とする攻撃以上に地味な守備に奮闘する姿を取り上げた記事に付けたものだ▼同日の1面は出雲市のアーケード街「サンロードなかまち」の大火の記事。きょうで発生から1週間となったが、漢字で「滅私」。エースの象徴である「背番号10」を付ける日本代表の堂安律選手が、チームを思い、得意とする攻撃以上に地味な守備に奮闘する姿を取り上げた記事に付けたものだ▼奉公だとか、自己犠牲が大事だという意味ではない。商いを続けていくのかどうかは、個々の被災者の思いが尊重されて当然である。「滅私」の心持ちでいたいと思うのは、支える側の方だ▼同じ中小商店が並ぶ松江市の白潟・天神エリアでは、27日にあったまつえ土曜夜市の各ブースで募金活動が展開された。有志によるクラウドファンディング(CF)も始まった。人のために何ができるのか、地道に、静かに実行する「利他」の精神が試されている。「めっし」が支えるチームは、粘りがあり、そして強い。(万)(山陰中央新報・2026/06/30)
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例によって、猫たちに起こされて、今朝は午前3時に起床。それぞれにドライフードを与えて、あるいは、ひょっとして、とテレビを点けたところ、なんと8チャンネルで「対ブラジル戦」のライブをしているではないか。うんと若いころはそれなりにサッカーに関心があって、W杯だけではなく、Jリーグの試合も時には見ていたこともあります。多分、リーグ制草創期だったと思う。やがて、時代も変わり、それこそサポーターなるものが「贔屓(ひいき)の引き倒し」のような醜態を演じるようになり、またサッカー熱が嵩じて、試合中継のアナウンサーたちの狂気じみた嬌声交じり中継が横行し出して、ぼくにはサッカーにいささかの関心も湧かなくなり、ついに、この三十年ほどは試合中継などほとんど観る機会がなかった。(サッカーでも野球でも、なんでもそうですが、「応援」のあの騒々しさにはぼくの神経は絶えられないんですね)

もともとスポーツは自分でするのも、他人(プロ)の試合を観戦するのも大好きでした。中学校から野球をし、高校になってからは野球に加えてラグビーも始めていました。偶然に、中学校の同級生で、後年の「名ストライカー」と称された釜本邦茂君と同級生になり、同じグランドで野球とサッカーに分かれて、毎日のように練習をしていたこともあり、彼の際立ったプレーぶりに引き付けられたこともあって、サッカーには関心を持ち続けていました。あるとき、何年振りかで大学のキャンパスでばったり出会って、互いに旧交を温めたりはしましたが、以来、ただの一度も彼とは会うことはなかった。昨年、意外にも早く彼は亡くなった(1944~2025)。その報を聞いて驚いたものでした。
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W杯・決勝リーグでの、ブラジルとの一戦が日本時間の6月30日午前2時開始ということは知っていました。猫に付き合って起きたものの、三時からどう過ごそうかと思っていたところ、ひょっとしてとテレビを点けた次第。しかし、試合を見る気は全くなかった。以外にも「中継」をしていることにぼくは驚いたのでした。後半戦が始まったばかりだった。1対0、日本リード。このままで終わるはずもないと、なんと「テレビ観戦」をする羽目になったのでした。音声は消した状態(ミュート)で、後半のおよそ一時間を観ていました。音声がない(ミュート)分、実に静かに観ることができたし、両チームのパス回しをはじめとするゲームの作り方もよくわかると思ったほどでした。同点に追いつかれた段階で、明らかに日本チームの運動量が減じていることもぼくにも分かりました。
そして最後は、アディショナルタイムで決勝点を入れられた。「2対1」という試合結果は、両チームの接戦とも、日本チームの善戦(惜敗)ともみられる試合だったでしょう。(サッカーファンには怒られそうですが、これで、今後は劣島も、しばらくは静かになるのではないかと胸をなでおろしました。特に酷かったのは、H✖Kで、夕方7時のニュースをはじめ、これでもかと、どうでもいいサッカー談議で時間を潰していたのには、この放送局の堕落・凋落ぶりは徹底していると、あきれ果ててもいました)

本日付の山陰中央新報のコラム「明窓」に引き寄せられました。「滅私』と「メッシ」( Lionel Andrés Messi Cuccittini)(年齢39歳。驚くことに、彼は身長170㎝だという)。「漢字で『滅私』。エースの象徴である『背番号10』を付ける日本代表の堂安律選手が、チームを思い、得意とする攻撃以上に地味な守備に奮闘する姿を取り上げた記事に付けたものだ」と、コラムにはありました。ぼくも堂安選手くらいは知っています、兵庫出身、プロになった時には「ガンバ大阪」だったと思うし、そのチームのエースであり監督としての釜本君も知ってゐました)、それが「滅私」繋がりでこの記事に出て来ることにぼくは、ある種の「違和感」を覚えた。(「サンロードなかまち」の大火には心を痛めていました。人命の犠牲がなかったことだけが救いのような賛辞でした。「復興」の早からんことを念じています)
6月23日に発生した出雲商店街の大火災。「奉公だとか、自己犠牲が大事だという意味ではない。商いを続けていくのかどうかは、個々の被災者の思いが尊重されて当然である。『滅私』の心持ちでいたいと思うのは、支える側の方だ」と書く、この短いコラム(文章)になんと5回も6回も「滅私」が出ているのです。どうしてでしょうか。「滅私」多用の記者の意図はわかりそうで、実は彼の意識以上に、彼の無意識の働きが、どうやら来るところに来ていると、ぼくは感じたのでした。

なにが言いたいというのではなく、こんな言葉がいささかの違和感も躊躇もなく、頻繁に出て来る(使われる)「時代」というか「社会」というものの色調・音調・背景・後景というものに、ぼくは「(特攻精神なるものが)ここまで来ているんだ」という、実に不快な気分を隠せないんですね。もっと言えば、「侍ジャパン」だの「サムライブルー」だの、「ナデシコジャパン」だの、ぼくにはとても鬱陶しい物言いが横行していると思いつつ、とても気分が滅入るんですよ。その同調主義のような傾向が鬱陶しくなったのも、多くのスポーツから離れた理由でもあるでしょう。「五輪」競技が嫌いなのは、スポーツ(運動)は、個々人の意志(目標)から発していると思うのに。いつしか、「国家」が表に出っ張ってきて、「日の丸の旗(メダルの色)」を振り回す事態を、社会の多くが安易に受け入れている、それがぼくには受け入れがたいんですね。プロ野球などでも、試合開始時には「君が代」を謳うというのは、ぼくに言わせれば、狂気の沙汰。

メッシと滅私、ダジャレにもならない不用意・不見識な言葉遊び(記述)だと思いました。「滅私」とは《私心をなくすこと。私利私欲を捨て去ること。「―奉公」》(デジタル大辞泉) というわけで、決して褒められた表現ではないように、ぼくには思われます。述べれば面倒なことになりますが、「自分を殺すこと」を意味し、直ちに「死の崇拝(death cult)」につながるものです。よく知られたのは「滅私奉公」でしょう。サッカーは決してそんなものではないどころか、むしろ正反対の「自己顕示」のためのものであるはずだと、ぼくは考える。「滅私(selflessness)」は「自己滅却(self-annihilation)」に隣り合っています。それを指摘したのがジョージ・オーウェル(George Orwell)の「1984年」の「イースタシア(Eastasia)」ではなかったでしょうか。「滅私」と「利他」、同じ範疇の表現として使われるのは、書く人の自由でしょう。でも、「言葉」が内に含んでしまっている「歴史」(影の部分)というものに配慮しないならば、それはまずいことになるのではありませんか。
「君が代や日の丸を、世界に知れ渡らせるためのサッカーなどではない」ということが言いたかったんですな。試合中継をミュート状態で「観戦」する時、ぼくには選手個々と個々の選手のまとまりであるチームの、いかにも魅せる個人技とチームプレーの鮮やかさを、誰にも邪魔されないで「堪能する(to fully enjoy)」ことができた、その「報告」みたいな駄文になりました。(おそらく、これは何十年ぶりかで見たW杯の試合だったと思います)
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