「蛙の面に…」というと、蛙は卒倒するね

 嘘つきと政治家 、いや、嘘つきが政治家=== 先月の参院選で初当選した女性議員。元は歌手だったとか。たまにテレビのコメンテーターをしているのを垣間見た程度。歌手としてではなく、一端の評論家のような口ぶりで事件や事故を論評するのを見ていて、この人は「(局に)喋らされているな」ということと、選挙に出る準備運動だと直感した。案の定そうだった。政権与党から、亡き総理の後押し(命令)で出馬、指導係を仰せつかったのは、八王子が地盤の H 議員。この議員も「旧統一教会」近親者で、この件でも、総理の申し送り(申し子)だった。マスコミは(一紙を除いて、だと思う)報道しないが、この「教会」と元総理一統(祖父以来)の蜜月ぶりはよく知られた事実だった。今から三十年前に、この団体は、公安庁から「特殊(反社会的)団体」に指定されていたが、元総理の登場で「指定解除」となっている。選挙のたびに応援を依頼したのは表向きで、もっと深いつながりがあった。祖父・父の時代からの(日・韓間の暗部)交流は、徐々に深まり、三代目に至って「盤石」になった。つまりは「持ちつ持たれつ」(give and take)ということ。ついには、離れ難くなったのだ。その「取引」の中身は何だったか。

 元おニャン子の I さんは、出馬前(六月)「教会」の施設を訪れた。会見では要領を得ない弁解をしていたが、H 議員と口裏合わせが露見しただけの弁明・釈明になった。出先の団体の実態は知らなかったというが、真っ赤な嘘。H 議員の「教会」との付き合い方は半端ではない。元総理を見習った上でのことだから、彼らは「特殊団体」に便宜を図った見返りに「さまざまな利益」を得ていたことになる。元おニャン子さんも当然、事実は承知していた。ウソというものは、白々しいものだね。

 この I 議員は、生来の嘘つきだったのかどうか。訪問先が「教会」の関係施設だったと、今回(現総理に)指摘されて、調べて、初めてわかったという。短時日で「立派な政治家」に成長していた。その「才」は十分にあったのだし、それを見抜いた元総理、流石というべきか。類は友を呼ぶという。この女性議員はこれからさらに成長することだろう。

 ところで、「特殊団体」の指定を外させたのは誰だったか、言わなくてもわかろう。この「教会(初代教祖)」は北朝鮮とも親交が深い。そこから浮かんでくるのは「拉致問題」でも、いろいろな面における元総理の突出ぶりだった。どこかで少し触れたが、この団体はアメリカの政治中枢ともつながっている。表向きは「反共」だったが、それは看板で、実際の事情は更に複雑怪奇のようだ。(こんなことは、ぼくが綴ることではなく、名だたるマスコミ各社が報道すべき。政権党とこの「教会」の癒着は、あるいは「大疑獄」になるかもしれないほどの深刻な問題だと見ている)

 おニャン子の一人が、政治家になるのは悪いことではないが、「嘘つき」を実践する必要などないと思う。いやいや、当人には「虚言癖」や「偽証癖」が、生来身についていたのかもしれない。それが今までバレなかったのは「猫を被っていた」からだとしたら、猫に合わせる顔もないさ。「瓜田(かでん)」も「李下(りか)」もあるものか。(嘘つきを詰っているのではない。こうも、出てくる面々が「いけしゃあしゃあ」と嘘をつき、ごまかし、偽りを重ねて、その集合体が「永田町の政治だ」ということになっている現実を、ぼくたちは放置していていいのか、ということです。地方自治体だって、まことに怪しい限りだ。

 「蛙の面に小便」と、なんとも美しくない表現があります。(参考までに 明治期までは、蛙にかかったのは「水」だった、以降はドギツクなって、現行の表現となった由)政治家の面には、何をかけたらいいのか、「厚顔(audacity)」、「鉄面皮(shamelessness)」でなければ、政治家は務まらないのだ。そんな輩たちと並べられたら、立つ瀬がないよ、というのは蛙でしたね。嘘をつき、虚偽の答弁をしていながら、驚くほど「恬淡」としているのが、亡き総理を筆頭とした政治家たちだ。平気の平左で嘘をつく、このような「芸当」は並の(ごく平凡な)人間ではできない。よほど民衆(国民)を舐(な)めきっているのですね。彼や彼女は「国民のために」と嘘をついて、ますます肥えててゆくのだ。民衆を愚弄するという姿勢が透けて見えるのだ。

___________________________

票になるなら、何にだって食らいつくのさ

 【くろしお】総動員での説得 「お前は何も知らないから、そんな風に悪く言えるんだ。実際に話を聞いたらよさが分かる」。「よし分かった。じゃあ俺も一緒に行って話を聞くよ」。大学時代、友人との間で交わされたやりとりである。◆純朴を絵に描いたような友だった。福岡の繁華街を一人で歩いているときに声をかけられ、立ち止まったところ、あれよあれよという間に相手のペースにはまり、近くのビルの一室に連れて行かれたらしい。そこでビデオを見せられ、何人もから話を聞かされ…。◆「○○が宗教にのめり込んでる」―。その情報は友人間で瞬く間に広がった。やめさせるべく”総動員”での説得が始まった。冒頭の会話は、そのときのものだ。かくして、彼に連れられて、その教団のところへ行くことになった。ビデオを見せられ、入会を勧められ―。◆その帰り道に「やっぱやめとけって」と再び説得。多くの友人も根気強く説得し、時間はかかったが彼は教団から離れた。その教団による霊感商法などが社会問題となったのは、その数年後のことだった。それから30年余り。元首相銃撃という大事件によって今、再びこの教団が注目を浴びている。◆1990年代の初頭に世間を騒がせて以降は長い間、あまり教団名を耳にしてこなかったが、今回の一件で名前が変わっていたことや、政界にも食い込み続けていたことなどを知り、驚いた。最も驚いているのは、その”入り込み具合”の広さと深さである。(宮崎日日新聞・2022/08/18)

 大学に入ったのが東京五輪が開催された(1964)年でした。この時期以降、欧米でも、時を同じくして「既成価値」の打破、あるいは旧体制打破といった「政治の季節」に入っていきました。サルトルその他の実存主義哲学者が持て囃(もてはや)され、ある種の興奮の坩堝化していたのが「大学」だったように思います。コラム氏が書かれているように、ぼくの同級生(クラスメート)も、しばらく顔を見せない間に、驚くような「思想的展開」(でもなんでもない、自分の頭で思考することを放棄しただけだった)を成し遂げて、周囲を煙に巻いていた。共産党の組織に入ったもの、学生運動の党派のそれぞれに入ったものなど、まるで当時の大学は「教条主義の百貨店」といった趣を呈していました。

 その百貨店の「飾り窓」には、目下大騒ぎをしている「宗教団体」という名の政治組織もあり、あるいはその後に政党を作って政界に進出した新興宗教団体(日蓮派)もありました。ぼくの友人のそれぞれが、自らの「党派・団体」の正当性を主張し、論争ならぬ闘争を繰り広げる始末でした。ぼくは「党派」大嫌い、「宗教」虫酸が走る、そんなアカンタレでしたが、それでも、寄らば「大樹」だか「権威」だかに縋(すが)らなかったのは、ぼくにはまるで「オウム返し」のような、単純頭脳を認めることができなかったからです。一つの党派・宗教団体に加入すると、まるで判で押したように「紋切り型」の応答しかできなくなるのが、どうしても肯定できなかった。自分の頭で考えろよ、それだけで、ぼくは卒業後も通してきた。ぼくの駄文には、頻繁に「教条主義」という言葉が出てきます。大体の説明は下の辞書にあるようなものですが、肝心なのは、ほとんどの主義・主張は「ドグマ(独断と偏見)」から成り立っているところです。現実や状況は無視する、そうしなければ、教条の一貫性がつかないからでした。今日も変わりませんな。

 世界は「2+2=4」と説くものいがれば、いや違う「2×2=4」だというものもある。どこが違うのか、部外者にはわからない。わからないから、入信・入党するのかもしれませんが、かくも世界の定義が異なれば、論じても無駄で、結局は暴力沙汰で決めることになるのです。このように、一種の暴力で物事を決めるのを「政治」というと語弊があるが、それでも一抹の正しさ(らしさ)はあるのかもしれない。学生時代の友人の中には、どこに身を隠したのか、行方不明になるものが出たり、大きな怪我をして体に包帯を巻いたような姿を見せるものもいました。それなりの「理論・論理」を身につけて、一人前の構えを取るのでしょうが、ぼくからすれば、それはまるで赤鉛筆を手にして本を読むようなもの。つまりは大事なところは「赤線」だというわけです。書かれている内容の真偽を問わず、それが「赤線」で記されているから重要なのだということだったらしい。「ぼくはこう思う」が決定的に欠如しているのです。

 +++++++++

● きょうじょうしゅぎ【教条主義】=ドグマティズムdogmatismの訳語で,元来,科学的証明なしに,ドグマ(宗教上の教義や教条)にもとづいて〈世界の事象〉を説明することをいう。歴史的には一般に中世のスコラ学が代表的なものといわれる。無批判的な独断にもとづくという意味で独断主義,定説主義ともいわれ,今日ではマルクス主義において否定的な意味で用いられている。ヘーゲルは教条主義を形而上学的思考として弁証法に対置して批判し,マルクス主義では,特定の理論,命題を,事物の変化,条件や環境の変化を考慮せずに機械的に現実に適用する態度をさして批判した。(世界大百科事典第2版)

++++++++

 思想信奉といえば聞こえはいいが、要は「人の頭を使って、自分が考えたことにする」だけのことでした。これは、洋の東西を問わない現象で、政治も宗教も、すべて(とはいわないが)、「ドグマ・教条」の看板だけが目立つ、一種の詐欺商法のようなものと、ぼくには思われました。学問研究といいますが、多くはこの手の「お手本同調」志向が骨子となっているのです。「『お前は何も知らないから、そんな風に悪く言えるんだ。実際に話を聞いたらよさが分かる』。『よし分かった。じゃあ俺も一緒に行って話を聞くよ』」というのは、どこか「オレオレ詐欺」や「ネズミ講」の悪徳商売にそっくりな、説得だか、言い任せるのだか、ある宗派はさかんに「折伏」といっていましたが、自分で判断する能力がないから、「参りました、入門させてください」ということになるのでしょう。聞くと見るでは大違いということではないし、百聞は一見にしかずでもない、もう無理やり説き伏せるだけで、これは宗教ではなく、拷問じゃないですか。とするなら、拷問が好きな人もいるのだ、ということに落ち着くのか。

 「宗教は阿片(アヘン)のようなものだ」といろいろな人が言っていますが、最も有名になったのはマルクス。「宗教は民衆の阿片(のようなもの)」だから、いいとか悪いとかいうのではなく、病み苦しんでいる人には「阿片」は緩和剤や痛み止めになる、そのようなものだというのがマルクスの言いたかったことです。いわば激痛を緩和するための「モルヒネ」のようなもの。人生の痛苦を緩和するためには必要な処方だということだったでしょう。今問題の「✖✖教会」は、その伝で言うと「劇薬」になるでしょうか。一服服用すると、たちどころに人生の「痛苦」は癒えて(消えて)、自分自身すらも喪失して(消えて)しまうほどの「劇薬」ぶりではないでしょうか。「良薬は口に苦し」というのではなく、「劇薬は身をも滅ぼす」のです。教祖は、滅ぼされた「身の山」の上に御殿を建てている。

 その「劇薬」の図抜けた効能に飛びついたのが政治家でした。彼らが求めたのは、票にかかわる万般であって、信仰とは一切無関係だ。宗教性も信仰心も論外・埒外のこと、金になり票になるなら「たとえ火の中水の中」という具合で、理非曲直や正邪善悪はまったく問わない連中なんでしょう。信仰を求めている「迷える子羊」を食い物にし、その血肉で肥大した「教会」を食い物にしたのか、反対に(某党が)「食い物にされたのか。どうもそうらしい証拠がいくつかあります。亡き総理も相当に食い込まれていたと言う。その一番弟子だったH議員、おニャン子の一人(一匹)を担ぎ出し、教会本山(あるいは別山)に票頼み(選挙加担のお願い)に参籠しました。権力の階段を上り詰めるには、四の五の言っていられない、背に腹は変えられないと、悪魔に身売りまでしてでもほしい票と金、その亡者が「位人臣を極める」のだとしたら、その社会は、どんな卦体(けたい)の悪い社会だろうか。この劣島はそういう社会になりきっているのではありませんか。

 ぼくは、ある人にとっては「宗教は薬物である」と思っている。良薬にもなれば、同じものが悪薬・毒薬にもなる。また、ある人にとっては「依存症」に罹患してしまう、そんな危険性も伴う。という意味は、人々の悩みを減じ、その生きる支えになるなら、宗教は、ある状況の人には不可欠な良薬なのでしょう。しかし、その「良薬」を食い物にし、政治的に悪用しようとするなら、たとえ、政治家自身が信者であれ、信者たちが政治家の支持者であれ、宗教の誤用の最たるものというほかありません。「信教の自由」を言っているのではない。「宗教を騙る」政治の悪質さを指摘したいのです。

 誰であれ、「私は神である」といってもかまわないし、そういった人はこれまでにも腐るほどいました。その「現人神」を信じ込む、信じ切るというのは、ぼくに言わせれば、じつに勇気ある行為、そして愚かしい選択・判断であると思う。(後で考えると)それは「真っ赤な嘘」であることは、最初からわかっているのにもかかわらず、「神を求める」人が多すぎるから、「神になりたい人」が騙る宗派が蔓延(はびこ)るのでしょう。かかる詐欺商法の通用は、それを政治的に利用し、その余得に与ろうという政治家がゴマンといるからです(宗教の話ではなく、政治の話になるのは、「宗教という政治」が目下の問題だからです。純粋に宗教と言われるものがあるとは思われません。宗教・教派もまた、政治の一党派だということは、世界各地の「宗教政治」の有様を見れば、イヤでも納得するでしょう)。

 日本のお寺も、西洋の教会も、競って威容を誇る建物を誇りたがるのは、内容がないからです。心に触れる宗教(信仰)は「教会」も「お寺」もいらない。無教会、無寺門こそ、神・仏と人とのつながりを示すものです。近世期、「教会の外に救いなし」とある教団が宣告したことがあります。自惚れもいいところ。唾棄すべきです。女人禁制、男色歓迎は、日本のある宗派の看板となっていました。ここはまた、世間以上の「世間」でしたね。「聖地)ではなく、「性地」だったか。

`````````````````````

 「1990年代の初頭に世間を騒がせて以降は長い間、あまり教団名を耳にしてこなかったが、今回の一件で名前が変わっていたことや、政界にも食い込み続けていたことなどを知り、驚いた。最も驚いているのは、その”入り込み具合”の広さと深さである」ぼくはこの部分を読み、新聞記者というのは呑気なもんだなと、いつも通りに、その鈍感さに驚愕するばかりです。この「くろしお」さんばかりではなく、多くの新聞は、時の権力の一挙手一投足には、必要以上に関心を示すが、巷でどれだけの人間が、日々苦悩に苛まれているか、それを等閑視するとは、あまりにも冷酷ではないですかと、「政治」に向ける悪罵と同じような痛罵を浴びせたくなるのです。(右写真は西日本新聞・2022/08/18)(https://www.nishinippon.co.jp/image/543146/)

_____________________

虎は死して皮を留め、人は死して名を残す

  虎は死して皮を留め人は死して… 。今でもこの古言は通用するか。中国の古典に「蓋棺事定」とある。「棺を蓋(おお)いて事定まる」、人物の評価は死後に一定するらしい。一理あるが、真理にあらず。史上最長の首相在任期間を傲り、その間にも「違法に類する」所業が判明するも、選ばれ続けた故の錯覚・錯誤か、自己欺瞞が増大しすぎたか、余所目にも、自己撞着は繕い難かった。なお「棺を蓋いて事定まる」というか。公然たる「虚偽答弁」、(森友事案に)夫婦関与なら、「総理大臣は疎(おろ)か、国会議員も辞す」と十八番が。その段の挙措は、いかにも「虚偽さ」と表情に出た。往時の狼少年は、成人し「狼男」に成熟。ここに狼戻(ろうれい)という語を想起する。時宜を得るのは偶然でも、やがては必然となる。「時の宜しき」は「時の悪戯」となる好例だった。国家財政は破綻に至り、政治道義は地に堕ち、人心惑乱の勢い、未だ終焉をみず。それでも「国葬」か?(「言わねばならぬことをこそ、言う」第四回)(2022/08/17)

 去る者日々に疎し、そうなるのか。ますます余人を持って代え難い人物だったか。いろいろな意味でも「置き土産」は甚大な悪影響を及ぼしていると、ぼくはこの二十年、三十年の政治道義の退廃・頽落の蔓延、それは間違いなく、翼賛的政治のしからしむるところ、この社会の行き着く果でもあった、そんな感慨を持ってしまう。世界における、経済力や政治的影響力の低下はどうと言うことはない、それ以上に「人心」「風儀」の堕落のほうがこの社会にとっては致命的でもあると思うし、その漂流は留まるところを知らないようです。たった一人の人間の仕業とは思えもしません。衆を頼んで事を起こす、暴力政治のよくなすところは、一人間の尊厳を足蹴にし、強くない人間を罵倒するという「荒芸」だった。そんな「暴戻政治」を(ぼくを含めた)「衆愚」は願ったのでしょうか。「権力者の犯罪」に目をつむり、良きに計らうのが司直だったと、改めてこの社会の病巣が明かされたのですが、その始末はどうなるのか。「某統一教会」の指導よろしきを得るのか。金輪際、御免被りたいな。

***************************

 【小社会】事件・森友 歴史を再編して眺めると、違った景色が見える。記憶に残る森友疑惑。あれは疑惑?▼大阪の国有地。小学校が開校予定で、名誉校長は首相妻。予定地前で写った妻の写真は政府職員の撮影。当事者の学園理事長によると、この写真を担当者が見て急に計画が進んだとする。▼国は土地売却の値段、経緯をことごとく隠す。しかし報道でバレる。鑑定額から8億円を引き、10年分割払いを提案、ごみを大量撤去したことにする口裏合わせまでも企てた。そして首相が「私や妻が関係していればやめる」とたんかを切るや、財務省本省で始まるのが前代未聞の文書改ざん。▼「妻」の登場する文書、「特例」といった記述は廃棄、削除。本省職員は事情を知らない部下にログインさせ電子データを夜に改ざん。まるで映画の世界。この改ざん文書を国会にも提出。2017年秋の解散総選挙は、いわば隠蔽(いんぺい)工作が続く状態の中で行われ、自民・与党は圧勝した。▼バレたのは選挙明けの18年。朝日新聞のスクープによる。先は想像するほかない。1人の真摯(しんし)な公務員が、自死する以前に事実をファイルにまとめ、早い段階で検察に渡している。まして改ざんはお膝元で起きた。時の政権は本当に終始何も「知らなかった」のだろうか。▼最長政権の光は、今も長い影を延ばす。茫漠(ぼうばく)たる現在地から思う森友「事件」である。国民をだましたという結果の一点において、疑惑ではない。(高知新聞・2022/08/17)

_____________________________

人のなす罪より低し雲の峰

 【滴一滴】〈おうい雲よ/ゆうゆうと/馬(ば)鹿(か)にのんきさうぢゃないか/どこまでゆくんだ/ずっと磐(いわ)城(き)平(たいら)の方までゆくんか〉▼山村暮鳥の有名な詩だ。青い空を見上げると、のんびりと空を流れていく雲。思わず親しげに声をかけたくなったのだろう▼暦の上では秋を迎えたとはいえ、暑い夏が続く。夏空を代表する風景と言えば「入道雲」だ。もくもくと立ちのぼる様子が、仏門に入ったお坊さん(入道)の丸刈り頭や、妖怪の大入道に似ていることから名付けられたとされる▼積乱雲と同じと勘違いされがちだが、厳密に言えば、入道雲は雄大積雲に分類され、積乱雲に成長する前の段階だ。雄大積雲の上部に髪の毛のような筋が見られるか、雷活動を伴うようになったら積乱雲に分類される(荒木健太郎著「すごすぎる天気の図鑑」)▼ある研究によると、非常に発達した一つの積乱雲に含まれる水の量は最大で25メートルプールの1万杯に相当するという。一般的な家庭の浴槽なら3千万杯。積乱雲が次々に発生して連なり、同じ地域に大量の雨を降らせる線状降水帯の怖さを改めて痛感する▼〈投げ出した足の先なり雲の峰〉小林一茶。ごろんと寝転んだ足の先に、山のようにそびえ立つ入道雲。その雄大さが心地よい。もっとも現代は「おうい雲よ、極端な豪雨は勘弁してくれよ」と呼びかけたくもなる。(山陽新聞・2022/08/16)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

● 雲【くも】=微小な水滴または氷晶からなる雲粒(くもつぶ)が集まって大気中に浮かんで見えるもの。水滴の場合,普通半径10μm程度のものが1cm3に50〜500個浮かんでいる。赤道地方で高度約18km,極地方で約8kmが分布の上限で,真珠雲夜光雲などの特殊な雲だけが20〜100kmの超高空に発生する。大気中の水蒸気が凝結して雲粒となるためには,空気が露点温度以下に冷却され飽和または過飽和の状態になることが必要である。この冷却は主として各種の上昇気流中で行われ,空気塊が気圧の低い高層に移動する際の断熱膨張により冷却する。地表面の空気は,気温をt℃,露点温度をτ℃とすると,h=125(t−τ)mの高度まで上昇すると飽和状態になり水蒸気が凝結して雲が発生する。この高さを凝結高度と呼び,地表面の空気が上昇して発生する雲の雲底の高さがこれで決まる。雲の成因となる上昇気流には,温暖前線,寒冷前線,低気圧に伴う大規模な暖気の上昇,台風や雷雲などでみられる垂直な熱上昇気流,山を吹き上る風,上空の気流の波に伴う小規模な上昇気流などがあり,それぞれの場合に生じる特有の雲形や雲の分布(雲系)を観測することによって大気の運動状態を逆に推測することができる。(マイペディア)

● 積乱雲(せきらんうん)(cumulonimbus)=雄大積雲の上部に鉄床雲(かなとこぐも)が生じたもの。記号Cb入道雲雷雲ともいう。大気の成層状態が不安定なときには、大気下層に発生した積雲が急速に上空に向けて発達し、雲頂が圏界面の近くまで達することがある。この状態を雄大積雲という。積雲の雲粒は水滴であるが、上空まで発達すると気温が下がり氷晶が発生する。小さな氷晶は上昇気流によって対流圏上部まで吹き上げられ、そこで水平に広がる。その部分を鉄床雲(鉄雲(かなとこぐも)とも書く)という。積乱雲の直径は10キロメートル、高さは、中緯度で8キロメートル、低緯度で16キロメートル程度である。激しい雨(夕立、スコール)または地表気温が0℃以下であれば雪を降らせる。ときとして、鳴、雷光を伴い、(ひょう)を降らせることがある。雲底は低く、暗く、乱れており、ちぎれたような雲(片乱雲(へんらんうん))を伴う。積乱雲の内部から冷たい空気が吹き下りて地表面に沿って広がることがあり、その先端にはアーチ雲とよばれるロール状の雲が発生することがある。(同上)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

 一茶の時代(1763~1828)は、もちろん、今よりも遥かに空気は汚れていなかったし、大気中の雲の輪郭もずっとくっきりとしていたに違いありません。当然ながら、そんな環境に生きていた「人心」が、今日の顚落状態にあったはずがありませんね。その一茶は、森羅万象、俳句に詠み込めないものはなかったと言ってもいいほど、ありとあらゆる事物を俳句に取り入れています。目下の話題である積乱雲(入道雲・雲の峯など)もその題材の代表例で、いくつもの作句があります。その中から、評価抜きで、いくつかを挙げておきます。

`````````````````````````````

・しづかさや湖水の底の雲の峰   ・すき腹に風の吹けり雲の峰   ・たのもしや西紅の雲の峰   ・人のなす罪より低し雲の峰   ・大の字に寝て見たりけり雲の峰   ・寝むしろや足でかぞへる雲の峰    (左の石碑の句 :涼風の淨土即我が家哉)                                                                                                                   

・投げ出した足の先なり雲の峰   ・早稲の香や夜さりも見ゆる雲の峰  ・涼しさよ手まり程なる雲の峰   ・湖へずり出しけり雲の峯   ・湖水から出現したり雲の峯   ・順々にうごき出しけり雲の峰                                                      

````````````````

 八月も半ばを過ぎました。ひたすら「豪雨」をもたらした台風8号、その被害たるや、秋田・青森をはじめ、静岡地方にも甚大な傷跡を残しながら、さらに次なる「積乱雲」の群生と襲来が危惧されています。このところやたらに耳目に届く「線状降水帯」なるものは、今に始まった現象ではありませんが、環境悪化の激化に伴って、その被害は尋常ではない災禍を示しています。政治の世界は「(旧統一教会という)線状降水帯」によって、ずぶ濡れ(水浸し)になっており、政治家も政党も「命の危険」にさらされているほどの悪状況であるにも関わらず、「この国を更に前進させる」という。口からでまかせをいう至芸は、僧侶と政治家の「十八番(おはこ)」だという世評があり、口当たりのいいことばかりを垂れ流して「功徳」の値打ち下堕落腐敗させているのです。それにしても、どうしてこうも無軌道に「嘘を付き」「虚言を弁ずる」輩ばかりが(といいたくなる)、政治屋になっているのだろうかと、不思議にも思わなくなっている自分の驚嘆しています。「嘘つきは泥棒の始まり」という俚諺を残して、元総理は逝った。その元総理に肖(あやか)りたい面々ばかりが、国政を食い物にし、そんな連中を性懲りもなく国政に送り込む、ぼくらもまた、罪深い過ちに懲りる気遣いがなさそうです。まさしく「(罪悪においては)一蓮托生」ですね。

 政治家も坊さんも、いわば「雲をつかむような話(a vague story)」の名人でもあります。雲にもいろいろありますが、このところ、つかんだ雲は「積乱雲」だったという埓のないことばかりではないでしょうか。つまりは「放埒」そのものであります。少しは、歴史に学び、あるいは歴史に恥じない、そんな当たり前の行動を取ってはどうか、取っても悪くはないんだが。いろいろな「先祖祭り・祀り」の続いたこのところ、ぼくは雲でも、積乱雲とは別種の雲に、やがては「瑞雲」に恵まれることを希っているのです。暗雲・風雲・雷雲はお断りするばかりだし、戦雲などはもってのほか。雲霞のごとくに議事堂に人は集まってはいますが、本当に助けを必要としている人には、まったくの音沙汰ない、それが現実政治の実態です。衆寡敵せず、これは実際のところでしょうか。

 歴史に学ぶということは、出過ぎたことをしない、出来もしないことを言い募らない、ようするに「謙虚」になりきること、それが政治家に限らずに、ぼくたちに求められているのでしょう。「不戦の誓い」は国家や政治家だけがなすものではなく、個々人が、いろいろな意味において、「不戦」「非戦」を肺腑に刻むことだと、ぼくは考えているのです。

 人のなす罪より低し雲の峰 (一茶)

###########################

● 線状降水帯(せんじょうこうすいたい)=次々と発生する発達した複数の積乱雲が並ぶことで形成される、線状の積乱雲の集合体。厳密な定義はないが、気象庁では「次々と発生する発達した雨雲(積乱雲)が列をなした、組織化した積乱雲群によって、数時間にわたってほぼ同じ場所を通過または停滞することでつくりだされる、線状に延びる長さ50~300キロメートル程度、幅20~50キロメートル程度の強い降水をともなう雨域」と説明している。日本で起きた集中豪雨のうち、台風によるものを除いて、約3分の2が線状降水帯によるものであるとの調査もある。気象庁では、警報や注意報、天気予報等で用いる予報用語に指定していないが、報道発表資料や予報解説資料で用いる解説用語としている。/ 線状降水帯は、暖候期に発生し、大きな災害や集中豪雨が発生する要因となる。1990年代から日本の集中豪雨発生時に線状の降水域がしばしばみられることが指摘されていたが、この用語が頻繁に用いられるようになったのは、2014年(平成26)8月の豪雨による広島市の土砂災害以降である。/ 線状降水帯は、日本全国で発生しているが、なかでも九州と四国に多い。発生メカニズムは解明しきれていないものの、次のように考えられている。(1)多量の暖かく湿った空気が、およそ高度1キロメートル以下の大気下層に継続的に流入する。(2)前線や地形などの影響により、大気下層の暖かく湿った空気が上空に持ち上げられ、水蒸気が凝結し積乱雲が発生する。(3)大気の成層状態が不安定ななかで、発生した積乱雲が発達する。(4)上空の強い風により、個々の積乱雲が風下側へ移動して帯状に並ぶ。このメカニズムが持続すると、線状降水帯は長時間にわたってほぼ同じ場所に停滞することとなり、一つの積乱雲では50ミリメートル程度の雨しか降らせないのに対し、結果として数百ミリメートルの雨をもたらす。(ニッポニカ)

_____________________________

かくすればかくなるものと知りながら

 【筆洗】近代以降、どこの国でも戦争を始める際、時の責任者が必ずと言っていいほど使う言葉があるそうだ▼どんな言葉か想像していただきたい。皮肉な話なのだが、「われわれは、戦争を望んでいるわけではない」だという▼試しに一九四一年十二月八日の東条英機首相の開戦表明の演説を引く。「(平和を願う)帝国のあらゆる努力にも拘(かかわ)らず、遂(つい)に決裂の已(や)むなきに至つたのであります」「帝国は飽(あ)く迄(まで)、平和的妥結の努力を続けましたが…」。なるほど、「戦争を望んでいるわけではない」のニュアンスが読める▼事情は想像できる。戦争はしたくないが、ここにいたってはやむを得ないと説明することで戦争に対する国民の理解を求めているのだろう。非は相手にあるとも強調できる。戦争はいやだ、望まない。そう唱えながら。こうして戦争という沼に足をとられていく▼七十七回目の終戦の日を迎えた。ロシアのウクライナ侵攻や米中の対立を挙げるまでもなく、国際情勢は緊張に向かう。戦争は遠い過去のものとは言い切れぬ時代にあって二度と戦争にかかわらぬために必要な呪文はやはり「戦争はいやだ」だろう。その「いやだ」を最後まで「しかたない」「むこうが悪い」に変えない頑固さだろう▼<戦争と畳の上の団扇(うちわ)かな>三橋敏雄。畳の上の団扇という平和。そこへ「しかたない」は気づかぬ間に忍び寄ってくる。(東京新聞・2022/08/15)(ヘッダー:ロイター/アフロ)

==================

 生意気を言えば、本日の「筆洗」は、じつに面白いし、的を射ていますね。「止むを得ず」「止むなきに至った」「止むに止まれず」「(戦争ではなく)平和を願っているにも関わらず」とかなんとか、いかにも唆(そそのか)され、戦を仕掛けられたからには「応戦せずばなるまい」と、「来るなら来い」と言ってみたいが、「きたら逃げるさ」と、上手を行くことができないのだ。いかにも、一端の口を利くが、中身は空想・妄想だし、せいぜいが観念の迷妄です。「戦争は遠い過去のものとは言い切れぬ時代にあって二度と戦争にかかわらぬために必要な呪文はやはり『戦争はいやだ』だろう。その『いやだ』を最後まで『しかたない』『むこうが悪い』に変えない頑固さだろう」という、コラム氏のその「呪文云々」の言を、ぼくは固く堅持してほしいと、報道の任にある方々に願うばかりです。戦後になってからだったか、朝日新聞の重鎮で、政界にあっても一目を置かれていた緒方竹虎さんが、もう少し新聞社(朝日)がしっかりと言うべきことを言っておれば、なんとかなっただろうに、というような意味のことを言っておられたと記憶しています。戦前、戦中にこそ、表明すべきだった覚悟ではなかったか。

 ぼくは、このよう「止むなきに至った」などという「口からでまかせ」の強がり(強弁)を方言し、勝つ見込みのない戦いに挑むのが「勇気」だと錯覚(勘違い・早とちり)している「頓珍漢」、ある種の観念過剰主義の典型は「国粋主義者」に多かったろうと思います。(もちろん、共産主義者にも、たくさんいた)今でも腐るほどいますが、その先輩は平田篤胤ということになっているようですが、ぼくはもう一人、吉田松陰を思い出しています。若い頃は、無理してというのも変ですが、ぼくは松蔭をよく読みました。死後は「神」として祀られるほどの人物(松陰神社)だと評価する向きが少なからずいたことは事実ですが、「短慮の人」だったという気もします。もっとも、なくなったのは三十でしたから、まだまだ変わる可能性はいくらもあったでしょう。「死ぬ必要がなかった」「打首になるような罪ではなかった」、それはまるで「ソクラテスの死」を想起させるものがあります。そう、ぼくは今でも考えています。(松蔭について書きたくなっていますが、この場は、それにふさわしくありませんね)

 松蔭はわずか二十九歳で一期を終えます。ある種の狂気であり、純粋な陽明学派が、直情径行、衝動に動かされるとどういう仕儀に至るかを絵に書いたように見せてくれました。学者としての松蔭の仕事は評価できても、「尊王攘夷」に直結する「短絡」には、ぼくはついてはいけませんでした。一人でアメリカに乗り込んで行って、「大和魂だぞ」とでも言うつもりだったのか。松蔭といえば、それこそ「大和魂」でしょうが、死の直前に認(したた)めた「留魂録」の冒頭に、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留め置かまし大和魂」と詠むほどの「国粋(国の美点とされるものを信奉すること)」に殉じようとした人物でした。同じ「大和魂」を言うにしても、「大和心」といった宣長さんとは大違いです。「朝日に匂う山桜花」と国学の大家は詠んだが、松蔭は「尊王攘夷」をこそ、というのです。これこそ、「日本(大和魂)陽明学」というべきでした。大和魂は、まるでお題目のごとく、衆庶の身動きを封殺(脳拘束)し、「右に習え」の号令のように機能したのでした。松蔭の影響力と言うより、人々の中に「一致団結」したい、「縛られたい」という、「いつでも号令を」という、ある種のゲス(下衆・下種)の根性があるからなのでしょう。

 松蔭の獄死からわずか八十年後に「日米戦争」が始まります。まさに「昭和の尊王攘夷」でした。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という、松蔭の毒に当てられた「大和人」は少なくありませんでした。あるいは「一億火の玉」というのは「一億大和魂」ということだったかもしれない。戦時中にたくさんの翼賛短歌を乱造した斎藤茂吉氏に「ひとつなるやまとだましひ深深と対潜水網をくぐりて行けり」という、なんとも言えない「貶められた短歌」というほかない、下劣で下卑たものが残されました。短歌が啖呵ではなく、銃器にもなる、武器にもしてみせるという戦争讃歌のお粗末でした。戦後で言えば、作家の三島由紀夫さんだったでしょうか。

 そして、翻って考えるのは、ぼくの中にもこのような「大和魂」が流れているのか、ということであり、流れているぞ、そう思うと、ガックリきますね。(この駄文集録のどこかで、大和魂と大和心について触れています。今でも、基本の考え方はまったく変わりありません。一人一人に「大和魂」、あるいは「大和心」というものが(表現はともかく)、強弱濃淡さまざまに、あるのではないですか。これぞ「大和魂」というのはマヤカシ、幻影だな。

 +++++++++++++

● 大和魂(やまとだましい)=日本民族固有の精神として強調された観念。和大和心,日本精神と同義。日本人の対外意識の一面を示すもので,古くは中国に対し,近代以降は西洋に対して主張された。平安時代には,和魂漢才という語にみるように,日本人の実生活から遊離した漢才(からざえ),すなわち漢学上の知識や才能に対して,日本人独自の思考ないし行動の仕方をさすのに用いられた。江戸時代に入り,国学者本居宣長は儒者の漢学崇拝に対抗して和魂を訪ね,「敷島のやまとごころを人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠んで,日本的美意識と,中華思想に対する日本文化自立の心意気をうたいあげた。幕末にいたり,対外危機の深まるなかで,佐久間象山橋本左内らによって「西洋芸術」に対比された「東洋道徳」の思想内容は大和魂であり,吉田松陰の詠んだ「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」は,尊皇攘夷の行動精神を熱情的に吐露したものとして有名である(→攘夷論)。明治天皇制国家のもとでは,大和魂はナショナリズムの中核的要素として重視され,内容的にも芳賀矢一らによって天皇への忠誠,国家と自然への愛として強調され,さらに新渡戸稲造によって武士道の国民的規模への展開として説かれた。その後は日本民族の発展のための対外拡張を美化する精神的支柱としての色彩を濃くし,昭和の戦時には軍人の士気高揚のスローガンとして用いられた。(ブリタニカ国際大百科事典)

● 吉田松陰=没年:安政6.10.27(1859.11.21) 生年:天保1.8.4(1830.9.20) 幕末の長州(萩)藩士。尊攘派の志士。諱は矩方,通称寅次郎,松陰は号。父は藩士杉百合之助,母は滝。山鹿流兵学師範の吉田家を継ぐ。嘉永3(1850)年九州を遊学。翌年江戸に出て安積艮斎,山鹿素水,佐久間象山に経学,兵学を学ぶ。12月,友人との約束により藩から許可を得ないまま東北を遊歴,咎められて士籍を削られ,杉家育となる。同6年江戸に赴き,折から来航中のペリーの黒船を視察。象山の勧めもあり海外渡航の志を立てる。翌安政1(1854)年3月下田に停泊中のペリーの艦隊に同行を求め拒絶されて自訴,江戸伝馬町の獄に送られ,次いで萩の野山獄に移される。このときより「二十一回猛士」の別号を用いる。生涯21回の猛心を発しようとの覚悟である。時に25歳。また同獄の人に教授を行う。唯一の女性の友人ともいうべき高須久との交流が始まるのもこのときである。12月出獄し杉家に幽居。 安政3年宇都宮黙霖からの書簡に刺激を受け,一君万民論を彫琢。天皇の前の平等を語り,「普天率土の民,……死を尽して以て天子に仕へ,貴賤尊卑を以て之れが隔限を為さず,是れ神州の道なり」との断案を下す。翌年11月,杉家宅地内の小屋を教場とし,叔父玉木文之進の私塾の名を受けて松下村塾とする。高杉晋作,久坂玄瑞,吉田稔麿,山県有朋,伊藤博文らはその門下生である。同門下生のひとり正木退蔵の回顧によれば,身辺を構わず常に粗服,水を使った手は袖で拭き,髪を結い直すのは2カ月に1度くらい,言葉は激しいが挙措は穏和であったという。安政5年7月日米修好通商条約調印を違勅とみて激昂,藩主毛利敬親に幕府への諫争を建言,また討幕論を唱え,老中間部詮勝暗殺を画策。12月藩命により下獄。翌6年6月幕命により江戸に送られる。10月25日死を予知して遺書を書き始め,翌日の暮れにおよぶ。冒頭に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留め置かまし大和魂」の句を置き,全編を『留魂録』と命名。その翌日,斬に処せらる。年30歳。<著作>『吉田松陰全集』<参考文献>徳富蘇峰『吉田松陰』,広瀬豊『吉田松陰の研究』(朝日日本歴史人物事典)

+++++++++++

 戦争を始める理由には事欠きません。「止むに止まれず」ですから。なんとでも理屈をつけてやろうと思えば、始められるのが戦争。しかし、仕掛けられた方はたまりません。「止むに止まれず」といって黙っているわけには行かないのです。目下、熾烈な「殺戮」が行われている「ロシアのウクライナ侵略戦争」を見るまでもないでしょう。「戦争」(とP大統領は言わない)を仕掛ける理由は二転三転、いまは理由も曖昧なまま「止められなくなったから続けている」という最悪の指導者ぶりです。ウクライナにとって「仕掛けられた戦争」であるからこそ、戦争を続けなければならない。止めるという選択肢はない。止めれば国がなくなるのですから。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

 本日は「終戦記念日」だという。数えて七十七回目。「(平和を願う)帝国のあらゆる努力にも拘(かかわ)らず、遂(つい)に決裂の已(や)むなきに至つたのであります」といって戦を始め、「惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」(「終戦詔勅」)「帝国の努力にもかかわらず、戦の思うに任せない状況に鑑み」て、「終戦」の「やむなきに至ったのであります」といって終わりを告げたのでした。この戦争による犠牲者は幾千万ともいうべく、国内外に甚大な被害・災厄をもたらした。「止むを得ず開始し」「止むを得ず敗戦を受け入れる」というのではなく、どんな状況にあっても「武力行使しない」「戦争の手段としての軍事力を持たない」、そのことを内外に、自他に明らかにするための「一日」であり、「終戦」の覚悟を銘記し直す日であってほしい。「敗戦」の意義があるとすれば、その一点にこそ、ですよ。負けたからこそ「憲法」が生まれさせられた。いわば「憲法を負け取った」のだといいたい。

 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」(「憲法前文」)

___________________________

我々が生死を共にした記録が世界平和への…

 【滴一滴】きょう8月14日は日本がポツダム宣言を受諾した日である。終戦を翌日に控えたその日の日記にこうある。〈今日もまた暑い日だ〉〈廊下の患者は減ったが、まだ便所や階段の下へ患者がつめこんでいる〉▼原爆投下から9日目。自らも重傷を負いながら、広島逓信病院長として被爆者の治療に当たった岡山市出身の蜂谷道彦さん(1903~80年)の「ヒロシマ日記」だ。被爆後56日間、医師の立場で被爆の惨状を克明に記録した▼〈一夜のうちに十六名の死人があった〉〈口がくさり熱がでて白血球が激減し遂(つい)に死という経過を辿(たど)る者がありだした〉―。日記は10年後に米国で出版され、十数カ国語に翻訳されて世界に衝撃を与えた▼第2次世界大戦開戦時のルーズベルト米大統領夫人は「世界初の原爆投下が何をもたらしたかを語っている」と書評に書いた。英国の哲学者バートランド・ラッセルは「これまでで最も心を動かされた本だ」と言っている▼時代の振り子は今、揺り戻しているのだろうか。世界で再び戦争が起こり、核使用への言及や核抑止力に頼る動きも目立つ。広島、長崎の今年の平和祈念式では、両市長が危機意識をあらわに核廃絶を訴えた▼〈我々(われわれ)が生死を共にした記録が世界平和へのささやかな捨石となれば私の本望〉。日記のあとがきに込められた最後の言葉は重い。(山陽新聞・2022/08/14)(ヘッダー写真は「敗戦を伝える昭和天皇の放送を聴く人たち=1945年8月15日、大阪市・曾根崎警察署前」:https://globe.asahi.com/article/14417433)

=========================

● 蜂谷道彦(はちや-みちひこ)(1903-1980)=昭和時代医師。明治36年8月9日生まれ。昭和17年広島逓信病院長となり,20年病院の近く被爆被爆者治療にあたったその時の体験を「ヒロシマ日記」として出版,英訳されて海外でも反響をよんだ。昭和55年4月13日死去。76歳。岡山県出身。岡山医大(現岡山大)卒。著作に「卒中物語」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

###############

 世に「十五年戦争」と言われる長い戦いに敗れ、この国が「敗戦」を認めた時(「終戦」に到った時)、ぼくは十一ヶ月の乳児だった。それから年令を重ね、どのようにして「戦争の歴史」を学んできたか、よく思い出せない。学校時代に「社会」「歴史」に代表される多くの授業があったが、そこで、縄文人や弥生時代、あるいは鎌倉幕府の成立や江戸時代の政策を学んだように、明らかに記憶に残されるような(現代史の)「学習」はなかった。これは、ぼくの不勉強だけのせいではなかったと思う。「現代史」とは、どこから始まるのかも定かではなく、まして「歴史事実」というものが確定していない状況下では、使われる資料も限られていたでしょう。

 ここで、ぼくが言いたいことは、曲がりなりにも「十五年戦争史」についていくらかの経過を知るに至ったのは、すべてといっていいほど「自習」「自学」「独学」だったということです。それは、一面では不幸なことだったかもしれませんし、他面では「歴史を学ぶ」(それは「歴史」に限られないこと)というのは、端的に言うなら「独学」に尽きると言えるのではないでしょうか。そして、この「独学」には終わりはないということです。「教えられる」のでは足りないものがあり、その不足を満たすのは「自ら学ぶ」ということです。

 「敗戦」を「終戦」と言い募る、あるいは「『敗戦』という事実をごまかす、『終戦』という表現」と言われてきました。敗戦か、または終戦か、どちらが、この国の歴史の事実に即しているのか、大いに「論争」が展開された経緯があります。ぼくにはどうでもいいこと、多くの識者たちには捨てておけない大問題だったのでしょうな。それで、今に到って決着がついたのかといえば、そうではありません。決着のつけようがないからです。どういうことでしょうか。面倒な議論は避けたいのがぼくの常、口が裂けても「負けた」と言えるかよ、と誰かはいうのでしょう。だから「勝ち負けを争ったにも関わらず」(それに蓋をして)「戦いは終わった」と言いたい人がかなりいるのです。いてもかまわないし、いないほうが可笑しいと言うばかりです。しかし、真実に近いのは「無謀な戦争を仕掛け、長い間続けてきたが、ついに戦争状態(戦時体制)を維持できないほどに疲弊して、この国は戦いに敗れた」、だから「終戦」というのではないでしょうか。「戦に敗れた」から、「戦争が終わった」というのです。(どういう表現を工夫しようが、表している内容はまったく同じこと)しかし、「戦争の惨禍・惨状」はいたるところに刻印されていました。ヒロシマ・ナガサキへの「原爆投下」と、その余波はその典型例です。歴史は、表向きは「大文字の歴史」であるが、深いところでは、庶民の「なけなしの経験の蓄積」そのものだと、ぼくは考えています。「被爆者の体験」がなければ、「原爆」などというものは、風船玉が割れたようなものでしかないからです。

 小学校時代、ぼくは「原爆投下」と「被爆者」の映像を、授業の一環として観たことがあります。その段階では、無慈悲(鬼畜米英)、悲惨(ケロイド)などという「決まり文句」に動かされて、ほとんど実態・状況がわからなかったと思う。今日の学校教育では、いろいろと「国家の犯罪にかかわる不都合な事実」は授業では扱わないようなことになっているようです。それだからということではないけれど、「日米戦争」とか「第二次大戦」という歴史の事実を知らない人々がたくさん生まれていると聞きます。そうならないための「歴史教育」をというのですが、「自虐史観」だとか「敗北の歴史」ばかりを教えては、国家に対して「誇りが持てなくなる」と杞憂する向きがたくさんおられます。「国家に誇りを」というのは、どういうことを指すのか。そもそもの出発点から、国家が大事であって、その国家の一員として国民(個人ではない)を育てるということが針小棒大に語られる時代になっているように、ぼくには感じられてならないのです。紙風船のように軽んじられている「人情」「厚誼」が浮遊している時代や社会を指して、どこを突けば「美しい国」と言えるのでしょうか。誰にも、どこにも、美・醜は切り離し難く結びついているのですのに。

 人間は過ち繰り返す存在です。個人であれ、集団であれ、何度でも過ちを犯す。どんなに間違いをしないと誓ったところで、間違ってしまう。ぼく自身の経験から言っても、そうであります。そこから、ぼくは何を学んだか。どうにかして「同じ過ちを繰り返さない」ようにする、そのためには、過ちを犯した時点(地点)に立ち返る、あるいは「間違った記憶」を失わない、この二つを、なんとしてでも守ろうとしてきたと、言えなくもありません。間違いを犯しそうになった時、それ以前に間違いをを犯したところに立ち返る(間違いのオリジン)こと、これをなんとかして学び取りたいと願いながら生きてきました。

 原爆投下によって引き起こされた「惨禍」、そこから「人間の尊厳を回復する」ための弛(たゆ)まない努力、このような人間の足跡(軌跡)を刻した資料は数え切れないほどあります。コラム氏が挙げられている「ヒロシマ日記」は、その中でも代表的なものでしょう。自ら被爆しながらの、蜂屋さんの献身的な医療行為が克明に記録されています(ナガサキの永井博士に重なります)。「終戦」か「敗戦」かという議論とは著しくかけ離れた場所で、生きるために「懸命な(それは、厳かでもありました)」営為に、ぼくたちは「人間の深遠さ」を感じ取ることができます。人間であることはた容易(たやす)くない、しかし「人間にふさわしい厳(おごそ)かさ」を維持することは、果てしなく困難でもありのです。こんな状況下でありながらも、かかる存在が居たと知ること、それによって、ぼくたちは、少しは自分を立て直しながら生きていけるのではないでしょうか。(昨日触れた美谷島邦子さんもまた、そのような力をぼくたちに与えられてきたと思う)

 素晴らしい歴史と伝統を持った、誇りを持てる国、美しい国、そのために求められる「学校教育」があるのかどうか。そんな(歴史)教育とは別種の「歴史を学ぶ」方法や内容は、無数にあるのです。他人を思いやる心、自らを含めた人々の「平等」「幸福」「平和」を願う感情、そんな人間の「尊厳」を育てる教育は、学校でしか、あるいは、教師からしか学べないのではないのですね。歴史を学ぶ、歴史に学ぶ、それはいつでも、どこでも発見することができる(善悪交々の)人間の営みを知り、それを学ぶことに重なるのです。

_______________________________