ロシアの退却以外に「終結」の道なし

 ウクライナ侵攻開始から半年、ロシア世論は今も分断 2022年8月24日 12:35 発信地:モスクワ/ロシア【8月24日 AFP】ロシアのウクライナ侵攻は24日、開始から半年を迎えた。ロシア人の間では、侵攻は「必要」だったとの声が上がる一方、「悲しみ」を感じる人もおり、世論は今も分断している。/ 2月24日、親欧米路線をとる隣国ウクライナでロシアが開始した「特別軍事作戦」について、首都モスクワ周辺でAFPが取材した人々の意見は分かれたが、すべての人に共通していたのは、戦争の早期終結に対する願いだった。(以下略)(https://www.afpbb.com/articles/-/3420392)(ヘッダー写真は:https://jp.wsj.com/articles/russia-relies-increasingly-on-missiles-artillery-to-pressure-ukraine-11647901407)

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 まさか、半年経っても「侵略戦争」が終わらないとは想像もできませんでした。いろいろな理由がありますから、簡単な話ではないということは理解しているつもりです。しかし、「大義のない侵略」が全面的に受け入れられてきたとは考えられません。もちろん、ロシアに対する批判や非難が、世界中で巻き起こっているかと言えば、決してそうではないことも事実です。ロシアは「ウクライナのロシア人」を救うための戦いと言って「侵略」をはじめたのです。しかし、その間、「侵攻」の動機はどこかへ雲散してしまい、今では、ひたすら「ウクライナ」を世界地図から消すためだけに、無駄に自国の兵士の命を失い、ウクライナに対しては兵隊はもちろん、市民に対する無差別の殺戮を繰り返しています。どこまで行くのか、見当もつかない迷路にはまり込んだ「ロシア」です。「侵略を止める」とロシア(プーチン大統領)が宣言すれば、まずは、ひとまず「終わり」です。しかし、今となれば、ウクライナは「クリミアも取り戻す」と、戦いの困難さを認めた上で、国運を賭けた闘争に入っています。ロシアの「戦争犯罪」にも審判を下すことは避けられません。

 ロシアが負けることを願っているのではありません。無謀な「大義なき侵略」を即刻中止すべきだと、今も考えているのですが、今となれば、それも不可能かもしれません。国連ではなく、どこかから「仲介の名士」が現れないものでしょうか。まるで「神頼み」のような心境になっている。ロシアが仕掛けた「侵略」ですから、ロシアが「停止」「取りやめ」を言う他にケジメがつかないでしょう。それでもなお、一体、どれだけの人々が戦争犠牲者になったのか。この「戦死者」に対する責任を誰が、どのように取るのでしょうか。そんなことをも考えていると、気が狂いそうになるばかりです。

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 ロシアのウクライナ侵攻から半年、キーウ市民の思いは  ウクライナの首都キーウでは、8月24日のウクライナ独立記念日に中心部で大規模な軍事パレードが行われる。/ しかしロシアのウクライナ侵攻からちょうど半年に当たるこの日、攻撃の標的にされるとの懸念から、キーウでは公のイベントが禁止された。/ キーウ市民に、この半年について話を聞いた。(https://www.bbc.com/japanese/video-62669464

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 戦禍の激しさになすすべもなく、ひたすら「戦争中止」を願い続けてきた半年でした。この先も、いたたまれない気持ちになりながら、「終戦」を待つばかりです。まだまだ続くという予感がします。その一番の理由は、ウクライナが仕掛けられた「侵略戦争」に徹底抗戦するのは当然であり、そのウクライナを西側の多くの国々が物心両面で援助しているからです。まるで「東西対戦」の様相を見せてきましたから、ロシアは、アメリカ側の軍門に下るわけにはいかないというメンツでも戦い続けるでしょう。終わりのない「戦争」という事態(泥沼)に進んでいくことを恐れます。

 二月の「ロシアの侵略」以来、ぼくはロシアが「引き下がること」を願い続けてきました。今もその気持は、一層強くなっています。半年間の「戦い」で、何がわかり、何が見えてきたのか。次に触れるときには、そのことを綴るつもりです。

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和して同ぜず、同じて和せず(二)

 底なしの泥沼というべきか。人権として認められるべき「信教の自由」は侵されてはならないのは当たり前。誰がどんな信仰を持とうが、何人もそれを阻止することは間違いだ。しかし「信教の自由」という名のもとに、宗教に名を借りた不法行為や非道な所業を許してはならないのは、論をまたない。現に、この劣島を襲撃している「偽宗教の嵐」は、信教の自由にも中(あた)らなければ、宗教活動としての範囲を、遥かに逸脱しているとぼくは早くから(二十年も三十年も前から)指摘してきた。勤務する学校の学生が信者になり、今とまったく変わらない「宗教活動」と称した洗脳活動を諫めるためにも、ぼくは身をもって、その「宗教行為」を体験してきた。霊感商法も、その「教団」の典型的な逸脱行為の一つだった。

 (盲信、あるいは狂信の徒には、物事を冷静に判断することはできなくなるし、そのような状態になることが「信仰」だと、固く思いこんでいるので、なかなか、金縛り状態にあることを気づかせることは困難だった。それは今も変わらない。「君のは邪教だよ」というと、烈火の如く怒るのがオチだったから。いかなる宗派にも、この危険性や狂信性の要素はあるのだ。自己の尊厳を失わないで、信仰に身を捧げるというのはというのは、思いの外、困難なことではないか。自分を失うことが信仰者だと錯覚しているのだ。あるいは、自己喪失を求めるのが宗教だというのなら、それは宗教にあらずして、宗教に名を借りた「洗脳(金縛り)」だというほかない。当該の「教団)は「カルト」に等しいことを行ってきたし、現に、そうしているのではないだろうか)

 ある時期まで、公安警察がこの「教団」を「特異集団」としてして観察の対象としていたのは事実だったし、それがある政治家とその取り巻き勢力の台頭とともに指定を外されたのも事実だった。「教団名称変更」の認証も、彼等の絶頂時だった。それ以降、この「偽宗教教団」は我が物顔に振る舞い、その汚染された集団結集力(あるいは集票力)を、銃弾に倒れた元総理が、「意気揚々」「意気軒昂」として利用し尽くしてきた。「偽教団」からすれば、勢力範囲を拡張するために、この単純な「お山の大将」を利用してきた、しゃぶってきただけだったのだ。これが持ちつ持たれつの関係になって、それ以降、ある時期には政権政党の「総裁選挙」にまで「党員票」として参加したのです。「教団の信者」が「党員」となって、投票権を行使したとされる。「信教の自由」は保証されるべきだが、その名のもとで「逸脱行為」「反社会的行動」を取っていたのだから、それは「偽宗教」というほかない。(参照・「安倍氏は三代にわたって付き合いがあった」マスコミが書かない山上容疑者・統一教会・自民党をつなぐ点と線:鈴木エイト・プレジデントオンライン:https://president.jp/articles/-/59539)(左上の写真も)

 みずからの権力掌握のために、この悪勢力を引き込んだのが元総理だった。彼一人の仕業だというのではない。ぼくはこの小心者の嘘つきが「権力の頂点」と目される総理の椅子に座ったのは、取り巻きや、その他大勢が「寄らば権力の影」と、神輿の担ぎ手になったからだ。担がれる御仁は「無能」がいいというのが衆目の一致するところ。その点では、彼は格好の担がれ役だった。これをして、「時宜を得る」「悪運が強かった」とぼくは言ってきたし、今も言う。それが「歴代最長」とかなんとか、寝言をいっている間に、惰眠を貪っていたぼくたちも同罪かもしれぬが、この社会は引き返すことのできなところまで曲がってしまい、這い上がることのできない奈落にまで落ち込んだのだ。

 政権党の総裁は即「総理大臣」である現状を見るなら、この「偽教団」は政治権力に癒着して、国政にまで大きな波及力(影響力)を行使してきたことになる。繰り返すまでもないが、信教の自由は死守されるべきものだが、それを騙(かた)って、違法行為、逸脱行動を繰り返してきたのが、この「教団」で、ぞっとすることだが、その「偽宗教教団」と昵懇の仲になっていたのが、時の権力者とその取り巻きだったということ。現総理の後援会の会長も「癒着派」だったということが明かされている。この総理は「私個人は旧統一教会とは関係ない」と怯えつつ話していたが、それこそが「関係ある」ということなんだな。まず「辞職すべき」は総理大臣ではないか。「毒を喰らわば皿まで」というが、「票を取るなら悪魔と心中する」ということかもしれぬ。しかし、我々までが道連れなどとは、まっぴらごめんだ。

 この政権党の幹事長は、問題発覚当初、「我が党は一切関係がない」と大見得(実は、怯えながらの虚勢だった)を切っていた。生徒の三割も四割もが「コンビニで万引き」していたとしても、「(万引きは生徒個人の問題で)我が校は無関係」と白を切る校長のような「屁理屈」が通用すると考えている、その不真面目な姿勢こそが、国民(人民)を舐め切っていると、ぼくが言う点なのだ。その後、「襟を正し」とかなんとか、おちゃらかしの弁明をしていたが、嘘で生きている人間集団という、政権与党には、恐らく「解体」か「分裂」が待っているだろう。

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 ぼくは萩が好きです。「おはぎ」も好きですが、それ以上に秋の花の代表のような「萩」を好んでいます。荒れ庭にも一、二本、咲き出しを待っているのがあります。種類は「江戸小紋」とか。今は草に覆われていて、暑苦しそうですが、その草をすっかり取りのぞくと、じつにスッキリとした、穏やかな優しさを振りまいてくれるのです。万葉の昔から、この秋の草花は愛でられていました。「さを鹿の朝たつ野べの秋萩に玉とみるまでおける白露」(大伴家持)あるいは、「色かはる萩の下葉をながめつつひとりある身となりにけるかも」(賀茂真淵)もっと新しいところの歌人のものに、「ゆふ風に萩むらの萩咲き出せばわがたましひの通りみち見ゆ」(前川佐美雄)などなど。

 「くゞらせて色々にこそ萩の露 」(嵐雪) 「しら露もこぼさぬ萩のうねりかな」( 芭蕉) 「凩やこの頃までは萩の風」( 蕪村) 「折りとりて花みだれあふ野萩かな 」(蛇笏) 「萩に伏し芒に乱れ古里は」( 漱石)

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 「付和雷同」、「雷同一律」、現下の「偽教団」騒動を見ていて、まず浮かんだのがこの言葉でした。とにかく、定見も何もなく、強そうなところにより掛かる、無定見の衆、それが集まって徒党(政党)をなしているのではないか。自らの頭でものを考え判断しようとしないで、誰かの意向を受け入れることが「信仰」なのだ、無定見であることが「信者」だという、そのような「教団」も、定見も節操もない「政党」も、その根っこは同じじゃないか。その指向(志向)性は、「政治宗教」であり、「宗教政治」ともいうべきものではないかとぼくは考えている。政治と宗教は二つであって、一つなんだ。だから癒着するのも容易なんだな。

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 今の「政権与党」は名称を変更すべきだろう。この「与党」には、表向きは「野党」を名乗っている(甘んじている)多くの議員も入る。新政党名は「一味郎党」、または「一族郎党」、それとも「一家眷属」、「一家団欒(だんらん)」「家庭連合」としたらどうか。「宗教教団」に関しては、まずそれを認証した当局の責任において、時間はかかろうが、適切な処断を下す必要がある。被害者救済を果たしつつ、時間をかけても、法律に基づいて「旧✖✖教会」は解散させるべきだろう。「認証」に関わった政治家や官僚は職を辞すのが当然さ。しかし、「仲間(身内)」が「仲間(身内)」を切れるかどうか。大いに怪しいのだが。

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 葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国

 【南風録】先週の本紙ひろば欄にため息が聞こえてきそうな投稿が掲載された。「朝、田畑を見ると本当にやる気を失ってしまいます」。薩摩川内市の山あいに暮らす吉川(きちかわ)幸子さんは野生動物による被害を嘆いた。▼最近までコメを作っていたが、被害がひどくてやめたという。「イノシシやシカが田んぼで寝転んで稲を倒して…」。暑さの中、手塩にかけて育ててきたのに、一晩で価値を失ってしまう。▼鹿児島県内の農家が抱える共通の悩みである。イノシシやシカ、サル、鳥たちが実ってきた野菜や稲、果樹を荒らして回る。県全体の農作物被害は年間約4億円に上るという。植え付けから日ごろの手入れまで流した汗が無駄になると思うと気の毒でならない。▼被害を抑えようと農家が行政や猟友会と手を取り合い、田畑に電気柵や防護柵を張り巡らせ、捕獲にも取り組んできた。その成果だろう。最近の被害額は横ばいからやや減少してきたと聞く。▼きょうは二十四節気の一つ処暑。立秋と白露の中間で、暑さが収まる頃とされる。収穫に向かって農作物が実っていく時季は、動物たちにも“おいしい季節”である。できるだけ被害なく収穫を迎えてほしい。▼期待される対策の一つに、残り物の野菜や果樹などを片付け、「餌場」をつくらないことが挙げられる。効果は担い手がいてこそ。豊かな農村風景を取り戻すために、何とかしなければ。(南日本新聞・2022/08/23)

 すでに房総半島地域では、稲刈りが始まっています。小生が住んでいる地区でも、もう十日もしないうちに稲刈りが始まりそうです。ついこの間、田植えを済ませたばかりという気がするのです。いかにも季節は巡るというのか、歳を取ると、時間は早く経過すると感じるのか。それにしても稲の成長は確実であり、連作に適しているとさえいえますね。先祖の労苦がわかろうというものです。いずれにしても、近所の田畑は獣害予防のための警備に怠りなしで、なんとも「殺風景」な黄金の波の打ち寄せる「瑞穂の国」です。田も畑も「電気柵」を張り巡らしてあり、見栄えは言うまでもなく、危険この上ない収穫時期の装いではあります。

 もっとも多く目にするのはイノシシでしょう。加えてシカ、まだサルはこの近辺には来ておりませんが、それも時間の問題で、房総半島は適当な森林があり、標高も高くないところから、気軽に半島を半周したり、一周したりするのはお手の物。鹿の仲間なのか、キョンという動物も、最近は夜泣きしているのが、すぐ家の側で聞かれます。顔つきに似合わない「悪声」、いや凄まじい鳴き声といったほうがいいようです。それを聞くと、身震いがします。ゾッとするほどの、凄みがある。これも住宅地は言うまでもなく、田畑を荒らし回っています。

 稲にとって害獣になるのかどうか知りませんが、その他、いくらも野生の動物が棲息しています。これらの動物が運び屋になって、人にも動物にも共通した、厄介な感染症を引き起こすウイルスも豊富です。以前も、どこかで触れましたが、年間のイノシシの「駆除数」は数千頭に達します。この「駆除」という表現はどうですか。人間からすれば、害獣なのかもしれませんが、あるいは、それは人間の生活環境(侵略行為)が生み出したものかもしれない。今では、害獣の「有効利用」などと悪ふざけがすぎるような気もしますが、「ジビエ」料理が持て囃されています。

 拙宅では畑は作っていませんが、時々、イノシシが訪れます。時期にもよりけりですが、庭の土をほじくり返しては、食い物を物色していきます。つい二ヶ月ほど前は、自宅前でばったり「ウリ坊」に出会いました。生まれたばかりと言う小ささでしたが、立派に本能を発揮して、土を掘り起こしていました。やがて、このウリ坊も成長して「美味しいジビエ」になるのでしょうか。

 野生動物が媒介して、人にも感染する多くのウイルスが認められています。今、猖獗を極めている「新型コロナ」も、特定はされていませんが、動物(鳥類)がもたらしたとされています。その他、ダニなどもじつに厄介な媒介手で、近年は「マダニ」からのウイルス感染で、各地で、何人もの死亡例が報告されています。拙宅の猫にも「マダニ」が寄生しないための予防薬として、ある医薬品を毎月使用している。じつに高価なもので、それだけの「効果」があるかどうか疑わしいと思いながら、人への感染も恐れるために投与しています。(「フロントライン」というもので、主成分を含め、毒性が強い物質が含まれており、あまり使いたくないのですが、今のところは、これに頼っています)

● ジビエ(じびえ)(gibier フランス語)=狩猟によって捕獲された野生鳥獣やその食肉。狩猟肉ともいう。ジビエを材料とするジビエ料理は、古くから狩猟の盛んだったヨーロッパでは浸透しており、狩猟が解禁となる秋から冬の季節には一般の市場にも出回る。ヨーロッパでは野禽(やきん)のキジ、ヤマウズラ、マガモをはじめ、野生の野ウサギ、シカイノシシなどの肉をさまざまな調理法で食している。/ 日本にも東北地方の山間部に居住した狩人(かりゅうど)の「またぎ」をはじめ、狩猟肉の食文化が古くからあり、シカやイノシシ、クマ、カモシカ、タヌキ、ウサギ、キジ、シギなどの肉が食べられていた。近年は狩猟肉を食べる慣習は薄れていたが、農作物被害や生活環境の保護の観点から、おもにシカとイノシシを捕獲するケースが増え、これに応じて狩猟肉を食べる場所や機会が増えた。

 2010年(平成22)の狩猟による捕獲数は、イノシシ約23万頭、シカ約17万頭で、年々増加している。とくに長野県や近畿地方の一部では、高タンパクで低脂肪であるシカ肉やイノシシ肉のよさを生かし、地域振興につなげようとする動きが活発である。2013年には関東地方で店舗展開するハンバーガーチェーンが、長野県産のシカ肉バーガーを発売して話題となった。/ 厚生労働省では野生鳥獣の肉を食用する際には、人獣共通感染症を防止するために生食を避け、十分加熱処理をするように呼びかけている。兵庫県森林動物研究センターが2007年に全国16地域で捕獲されたニホンジカ(976頭)について行った調査では、E型肝炎ウイルス抗体の保有率は2.6%であった。また、2006年の別の調査では、イノシシの抗体保有率は27.5%と高かった。シカ肉による感染の可能性は低いものの、食肉の加工処理過程でウイルスが付着する可能性もある。また、E型肝炎ばかりでなく、腸管出血性大腸菌感染症(O157)、寄生虫ウェステルマン肺吸虫に対する注意も必要であり、食べるときは十分な加熱処理が求められる。(ニッポニカ)

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 日本紅斑熱 千葉県内で増加 マダニから感染、昨年最多17人 野山や畑に入り病原体を保有したマダニにかまれると感染する「日本紅斑熱」患者が増えている。千葉県内の感染者は2012年から増加傾向にあり、昨年は17人で感染症法に基づく調査を始めた1999年以降、最多だった。今年の感染報告は1人だが、軽装になる6月ごろから増えるため、県衛生研究所は注意を呼びかけている。/ 同研究所によると、主な症状は頭痛、発熱、倦怠感で、体幹部から四肢末端部にかけての発疹や刺し口があるのが特徴。かまれてから発症するまでの潜伏期間は2~8日で、早期に治療をしないと命に関わる場合もある。/ 2012~21年の10年間の感染者は85人で、うち83人が6~11月に感染が判明した。年代別では60代以上が9割以上を占めた。20年8月には君津市の無職女性=当時(85)=が、右足首をマダニに刺されて感染し亡くなった。感染者が増加している理由は不明という。/ マダニは成虫で体長3~6ミリほど。山林や裏庭、あぜ道などの草の上に生息し、県内では南部の山間地域で多く発見される。農作業やレジャーで山林、草むらに入る時は軽装を避け、防虫スプレーやレジャーシートを使い、帰宅後は着替えて入浴することが重要という。/ 同研究所の担当者は「県内だけでなく全国的に増えている。ワクチンはなく、マダニに刺されない対策が必要。刺された場合は無理に引き抜くとマダニの一部が皮膚に残ってしまうことがあるため、医療機関を受診して」と促した。(千葉日報・2022年5月22日)

 長閑(のどか)な田園風景、日本の原風景、羨ましいスローライフなどと、いかにも都会生活者から見れば、農山漁村という、人畜共存地帯に対する精一杯の「お上手」なのかもしれませんが、住んでいる人間には、いろいろと気を使うことばかりが続くのです。我が家の猫は、すでに三回も「蛇に噛まれ」、急いで動物病院に駆け込みました。スズメバチも、いつも家の周りを見張っています。巣作りに適した場所探しのためです。大小取り混ぜて、色々な生き物が住んでいる、その隣にぼくたちも住んでいるというわけです。先住民はどちらかと言うなら、文句なしに「害獣」と蔑まれている者たちだったでしょう。この先、熾烈な(一方的)殺戮合戦が続けられるのでしょうが、どちらかが撲滅されてしまえば、戦いは終わるかもしれません。でも、どちらかが住めない環境に、一体何者が住むというのでしょうか。

 「生態系」というものを、もう一度考え直したいですね。その昔、鴇(とき)が群がって住んでいたとされる地域が近くにあります。鴇谷(とうや)という町です。今では地名のみになってしまいましたが、稲を荒らす「害鳥」ということで、大勢で撲殺して退治したと、記録には出ています。荒れ放題の庭に、時々「雉(キジ)」が立ち寄って、何かをしています。これらも、やがては「駆除」されてしまう運命にありそう。「雉も鳴かずば撃たれまい」と言うそうですが、鳴かないにも関わらず、銃殺されるのでしょうか。ある辞書には「無用のことを言わなければ、禍いを 招かないですむことのたとえ」(広辞苑)とある。雉の鳴き声は「無用」ではなく、必要があるからのものなのに。人も鳥も、いらぬ「言挙げ」はするなということらしい。それを敢えて「言挙げする」歌人が、その昔、この劣島にいました。「葦原の瑞穂」の歌人でしたね。

 「葦原(あしはら)の 瑞穂(みづほ)の国は 神(かむ)ながら 言挙げせぬ国 言挙げぞ我(わ)がする 言幸(さき)く ま幸くいませと 障(つつ)みなく 幸くいまさば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと 百重波(ももへなみ) 千重波(ちへなみ)にしき 言挙げす我(わ)れは 言挙げす我は」(柿本人麻呂)

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なしくずし、折り合いをつけ、どうするか

 【編集日記】折り合い 神社や寺院に参拝する前に手を清める手水(ちょうず)。新型コロナウイルス禍以来、その空間を花で飾る「花手水」に改めて目が向けられている。不特定多数の人に感染が広がらないよう使用を控えている折、鮮やかな花々は訪れる人の気持ちを潤す▼江戸時代の手水はいまと様相が異なり、全身を洗う行水に近いものだった。城下は土ぼこりが舞って汚れやすく、刀のさやや黒い羽織は真っ白になる。住んでいる長屋はすすが多いため、手水は日課だった▼清潔を旨とした理由はもう一つあった。「〈洗う〉文化史」(吉川弘文館)が参勤交代で江戸に住んでいた藩士の日記から読み解いている。不潔や無精を許さない風土があり、江戸詰は一時的でも、恥は一生続く―として、清潔を心がけてきた▼日本人の衛生観念を否定的に見る向きは少ないだろう。マスク着用の徹底や手洗いなどは、世界のどの国にも引けを取らないはずなのに、1週間の新規感染者数が「世界最多」、県内の感染者が「過去最多を更新」などのニュースが続く▼医療機関の疲弊は日ごとに増し、社会の活力はそがれ続けている。ウイルスとどう折り合いを付けていけばいいのかを、新たな観点から議論していく段階だろう。(福島民友新聞・2022/08/22)

 【雷鳴抄】新型コロナウイルスの流行は依然、先が見通せない。県内でも7月20日以降、新規感染者の4桁台が続く。このレベルに慣れてしまうのが怖い▼県内の累計感染者数は、今月18日で16万8419人に達した。全人口に占める割合は9%近くに上る。この数字ではピンとこないかもしれないが、11人に1人と言えば多さを感じられるだろう▼小欄でも注意喚起のコラムを書いてきたのだが、当事者意識を実感することは難しかった気がする。だが、その心持ちは吹き飛ばされた。ごく身近な同僚が感染したからだ▼感染対策は十分なように見えたし、危なそうな所への出入りも心当たりがないという。万全の対策をしていても感染の可能性があるということだ。常に感染と隣り合わせの現実を、危機として感じさせられた▼症状に苦しんだ別の先輩からは「絶対にかからないほうがいい」と言われた。マスクや手指消毒など警戒のギアを上げた、と言えばかっこいい。だが実際は、感染が身近に迫って焦っただけのことだ▼主流の「BA・5」は重症化しにくいとされるが今月、死亡者の最多更新が続く。さらに感染力の強い「BA・2・75」が確認された。周りに感染者が出てから警戒を強めても遅い。絶対に感染しないとは言い切れないけれど、しっかりした対策はリスクを下げるはずだ。(下野新聞・2022/08/21)

 【水や空】全数把握見直しへ 夕方になると、通信社の出稿案内のスピーカーからひっきりなしにこんな放送が流れてくる。〈○○県は△△△人の新型コロナ感染と公表済みの△人の取り下げを発表しました〉。取り下げの方はほぼ例外なくひと桁の数字だ。感染者数の「全数把握」が極めて精密に行われていることがよく分かる▲その全数把握を取りやめる検討が始まったのと同じタイミングで感染者の数が跳ね上がっているのは何だか皮肉に思える。全国の感染者数は2日連続で過去最多を更新した▲医療機関や保健所の負担が重いのだという。確かに、感染者数をきっちり把握するための連絡や集計に追われるあまり、感染者のケアや診療に手が回らないのでは本末転倒▲市民に行動の変容を呼びかけるための物差しとしての意味も近ごろは怪しい。ただ「公」の部類に属する仕事のやり方がなし崩しに変更されるのは少し気になる、と書きかけて▲ルールや決めごとがいつの間にか曖昧になったり、うやむやにされたりすることを指して「なし崩し」を使うのは誤用なのだ、と前にどこかで読んだことを思い出した。漢字で書くと「済し崩し」。元々は大きな借財を少しずつ返済することに由来する言葉▲状況を徐々に前進させ、好転させる-全数把握の見直しはその契機になるだろうか。(智)(長崎新聞・2022/08/20)

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 あまり芸のないことですが、各紙のコラムから三本。いずれも「コロナ対策」が「壁に突き当たっている」「手探りの対策」の様子が指摘されています。

 新型コロナの感染者が初めて出て以来、もう二年八ヶ月です。「新型」というくらいですから、既往の処方やワクチンでは対応できなかったのは当然であるとして、それにしても、並みいる専門家たちが、ぼくの目(老眼)から見ると、文字通りに「右往左往」していることに当惑を覚えました。あるいはコロナ対策に関して、官僚も政治家も、まるで「感染症」に対する方針も見通しもまったくないままで、おそらく「課題」を小さく扱ってきたという印象を持ってきました。発生後数ヶ月の段階で「緊急事態宣言」なるものが出された。何を勘違いしていたのだろうか。それが必要なものだったかどうか、今から考えても大いに疑わしいし、その前の三月段階では全国一斉休校の命令(措置)が、政府から一方的に、しかも唐突に発表された。これもまた、一種の政治劇場の幕開けだったかもしれない。感染症対策というよりは、政治マターとして、国民受けを狙った、誰かの「一人芝居」のようにしか見えなかった。(今からなら、なんとでも言えることですから、なんとでも言わないことにします)

 「済し崩し」に物事(事態)を有耶無耶(うやむや)にしているのかどうか。全数把握は、それは必要でもあるでしょうが、その把握の仕方に問題があるのではないでしょうか。記入項目が百以上だったと言われていました。この話を聞いて、学校の教員がやたらに書類を管理職や教育委員会に出さなければならないために、本来の授業やその準備に時間が取れないという「本末転倒(顛倒)」の状況を思い出しました。ぼくも、教師稼業の真似ごとをしていましたから、なにかと書類を書かされたし、あるいは文科省に「課程認定」のために、履歴書を繰り返し、間を置かないで提出を求められた。ぼくが少し早めに退職したのも、「同じ履歴書」を三年も続けて求められた、その作業の馬鹿らしさ、煩雑さのためでした。「全数把握」の件は、それとは別の問題だと言えるかどうか。

 目下の「(感染症者)全数把握」という手続きで行政が求めるのは、問題解決のための材料ではなく、自らが定めた様式に合致した報告書を出させたいだけではないでしょうか。もちろん、言い分はありましょうが、現実には、医療も行政も「業務逼迫」の危殆に瀕しているのですから、「全数把握」は万全の方策であったとして、その万全を期した結果、感染者が爆発的に増加し、対応に大童(おおわらわ)の状態が現出しているのです。これでは泣くに泣けない、逆さま行政ですな。感染症の初期には「日本型モデル」と意気軒昂に、感染者の少なさを誇ったのが、二年後には、形勢は逆転し、同じ「日本型モデル」でありながら、感染者数は世界一だと言う。何事でも、世界一はいいことだという、感染症対策に対する無策は、まさか、「世界一」を目指した、政治的意図があってのことではないでしょうね。

 「なしくずし」というのは、借金の山があって、それを少しずつ崩してゆくことを指します。一気にではなく、計画を立てて少しずつ返済する、じつに要領を得た方法ではないでしょうか。それを、都合よく解釈して「なしくずし」に、事態を曖昧に、あるいは有耶無耶(うやむや)にしてしまう魂胆なのかどうか。辞書には「物事を少しずつかたづけていくこと」「物事を少しずつ変化させ、うやむやにしてしまうこと」「 借金を少しずつ返すこと」(デジタル大辞泉)と出ています。言葉というのは便利なのか不便なのか。また、「折り合い」をつけるというのも、じつに変幻自在を許容する言葉ですね。「折り合うこと。譲り合って解決すること」「 人と人との関係。仲」とあります。(デジタル大辞泉)しばしば「経済をまわす」ことと「感染対策のための行動規制」を指して、両者の折り合いをつけるというのでしょうが、さて、どう言えばいいのでしょうか。物事の進め方で、一番行けないのは「中途半端」何だな。

 「人の活動を制限する」ことと「経済の動きを止めない」ことは、本来は両立しないものでしょう。だから、ここで熟考を要するのは「感染症」を収束させることを第一義にするのか、それとも、少々の犠牲は伴うのは仕方がないが、何よりも経済活動を阻害しないこと、この「選択」です。二兎を追うものは一兎も得ず、こんな事態が、まだまだ続くのでしょうね。人命も大事だけれど、お金はもっと大事、という、比べられないものを比較するというのは、どこか違うような気がします。運悪しく感染されたという現総理、ゆっくりと養生されて、その間に、しっかりとした方針と展望をもった政策を立ててもらいたいね、というのは無理というもの。何よりも回復に専念、念には念を入れて。「政治空白は一日も許されない」ということはありませんし、幸いなことに、代わり(代打)はいくらでもいるようですから。虎視眈々と、…。

 「絶対にかからないほうがいい」という「雷鳴抄」のコラム氏が言われるとおり、感染経験者の先輩の言うとおりです。「感染しないためにどうする?」が、最大のコロナ対策です。どんな策がありえるか。それとも、何度でも、ワクチン接種が効果的なのか。でも、ワクチンを何度打てば、切がつくのでしょうか。古い表現で「守株待兎(しゅしゅたいと)」があります。「株を守って兎を待つ」、うさぎが株につまずいて死んだという(それを手に入れた)幸運を、いつまでも待つというのも愚かだし、新奇を衒うのも感心しません。正攻法という、もっとも当たり前の方法に気づく必要がありそうですね。その際の核となるのは「人命大事」、それに尽きる。

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 早朝五時前(四時に起きて、猫に食事を与え出す)、例によってラジオを聴いていたら、本日の「誕生の花」と「花言葉」が流れてきました。「夏水仙」だという。別名「リコリス」とも。草刈り最中の我が庭にも何株か、「夏水仙」がピンクの花をつけています。水仙とは言いますが、彼岸花の仲間だとか。「花言葉」は、いろいろあります。ラジオではなんと言っていたか、聞き漏らしました。調べてみると「深い思いやり」、「楽しさ」、「悲しい思い出」、「あなたのためになんでもします」とじつに多様でしたね。なんでもアリの百貨店です。一つだけを除いて、「コロナ感染者」にもってこいの励ましではないでしょうか。本日が自分の誕生日でなくとも、夏水仙に肖(あやか)りたいものですね。

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和して同ぜず、同じて和せず(一)

 このところの駄文が、あまりにも偏狭で、自分でもウンザリしています。元来が政治向きの話は好きではなく、むしろ苦手に類するものでした。しかし、年齢のせいでもなく、世上、あまりにも埒外のことがありすぎるので、我ながら、身の不勉強を顧みないで、なにかと悪態をついているという仕儀に、自分でさえも醜悪であり、大いに戸惑っています。八十年近く生きていて、いつの時代でも(物心がついて以来、という意味)、ぼくには生きることが楽しいと思ったことはない。辛いとか苦しいからと、逃げ出したいと思ったことは一度だってないのも事実で、要するに「人生は斯くの如し」という、いわばいつでも「受け身」で生きてきたというのでしょう。「あるがままに(live as it is)」と言えば、聞こえはいいが、つまりは流されて来ただけでした。

 (ヘッダー写真は混同浩一路筆「水郷」:https://blog.goo.ne.jp/otsumitsu/e/dfc96fcc30313b8bfafd784a71323997

 川の流れに身を任せて、溺れないように、沈まないように、藁なんか掴まないように、それだけを心して、流されてきた、それがぼくには生きることだった。右を見ても左を見ても、前にも後ろにも、多くの人々が同じように流れに身を晒しているから、それが当たり前に思って、取り立てて、自分は変なことをしているとは考えられなかった。もちろん、流されるのは「自己流」であって、他人のマネをしたり、他人を押しのけてまで先を急ごうとしてきたわけではない。敢えていうなら、お先にどうぞ、そんな流され方だった。追い越しもしなければ、追い越されることに異を唱えることもなかった。それがどういう「流儀」「流派」かはわからないが、あくまでも自己流であり、我流であることだけは間違いがありませんでした。

 この駄文を書き出して、二年半以上が経過しました。きっかけはどこかに触れています。要するに、記憶力の低下をこれ以上悪化させないこと、それに加えて、曲がりなりにも長年の仕事に関わりのあった学校や教育について、何かしらを材料に愚考するということ、そんな程度の思いからはじめました。自分がよく使ってきた表現をするなら「考える練習」のためでした。その趣旨は今も変わりません。材料には事欠かないから、ひたすら「練習に励む」というより、「練習(ウォーミングアップ)」を楽しむという風情でした。

 あくまでも練習ですから、誰かに見て(読んで)もらいたい、「いいね!」をもらいたいなどという嫌な根性は微塵もありませんでした。そんな「愚見」「愚考」ばかりを並べてきたにも関わらず、読んでくださる方がおり、感謝しつつも、我ながら恥ずかしい思いをしています。野球やサッカー、あるいはテニスやゴルフの練習で、一人黙々と時間を費やしているばかりで、他人様にみせるのものではないことをは重々承知しています。だから、ブログという公開の場所(機会)を使うこともないのですが、それなりの理屈は、ごく初期に、何処かで書いたとおりです。他者が見る、他者に見られているという「想定」があればこそ、それなりの「化粧(文章)」というか、よりマシな「素顔(スッピン)(内容)」を見せようとするかもしれない、そんな程度の気持ちで、ネットにあげている次第(それは、はっきり言って、ぼくの錯覚。文章の体裁もひどいし、内容もないんですよ、実際は)。それで、何かをしようというのではなく、あくまでも「考える練習」(シャドースウィング・shadow swing=素振り)の域を出ない事柄です。

 ところが、その練習の場が、勢いよくどこかの「球場」で試合をしているような具合になることが多くなりだしてきました。ぼくの最も嫌うところですが、まるで本番の試合さながらに、ヒットを打とうなどという邪念に唆(そそのか)されてスウィングしているような、醜悪な仕儀になってきたことに驚いているのです。そうなったについては、それなりの理由がありますが、手短に言えば、現実の政治や経済問題から生じた「火の粉」が、こんな辺鄙な山中にも飛んできた、それを傍観していては火傷をするぞ、そんな気配が漂ってきたからでした。かといって、街中に飛び出して、抗議活動をするという気もないのです。もうぼくの出番は、そこにはないと感づいているからです。

 こんなことを考えるのも、先年亡くなられた金子兜太さん(2018年2月死去)が、作家の澤地久枝さんの依頼によって、旧十歳を遥かに過ぎて「揮毫」した、あのビラを思い出しているからです。ぼくの尊敬する友人や先輩は、今なお、街頭に立ち「悪政治反対」の活動を続けておられる。ぼくの居場所は街中にはないと、ずっと考えてきました。理由はいたって単純。「世代交代」「バトンタッチ」ということです。ぼくの居場所はそこにはないのです。ひたすら「素振り」をすることが、今のぼくのやるべきことだと思っている。バットやクラブを、庭先で、実際に振ることも、もちろんある、でも時間を使ってやるべき「素振り」は「駄文綴リ」だと言いたいのですね。これは自分勝手な理屈(にもなりませんが)、素振りから何かが得られたら、それは駄文のごく一部に表現されるかもしれない、されないかもしれない、そんないい加減な思いをもって綴ってきたかったのです。

 ところが、あまりにも世情騒然、「山中暦日なし」などと呑気に惚(ほう)けてはいられなくなったと、ぼくのなけなしの「元気」が反応したのかもしれませんでした。ぼくは瀬戸内寂聴さんや金子兜太さんではないということを、ここで再度、胸に刻んでおきたいと、本日の、この駄文を書いた次第です。「年寄りの冷や水」というのは、大切な教え(経験からの)でしたね。コロナ感染症が発生したと騒がれだした時、ぼくは「収束・終息には五年」と綴りました。根拠があると言えばあるのですが、まあ、「咄嗟の判断」でした。だからその五年は(元気であれば)、閑居・蟄居するのだと、自らに言い聞かせてきたのです。今の状況からすると、五年では片付かないのかもしれません。けれども、自らのいのちは自ら守る、これがもっとも有効な「処方箋」であると固く思っているのです。

 怠け者で小心者でもあるぼくには、他者をしのいで生きてやろうという気分は、微塵もない。存在を見せびらかすという、その振る舞いの因って来たる原因・理由がわからないのです。「水の流れに身を任せ」て(だれでしたか「時の流れに身をまかせ」と歌っていました、⇚)、流れるまま、流されるままに、どこに行き着くか、途中で水没するか、暗礁に乗り上げるか、あるいは岸壁に打ち上げられるか、港があるのかないのか、流れる着いたところが港なのか。いずれ明らかになるのでしょうが、本人には、幸か不幸か、その顛末(終幕)はわからないんだな。

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 愁ひつつ岡にのぼれば花いばら(蕪村)

 温暖化のししおどし 過去にないような猛暑や干ばつなどの背景にあるのが、人為的な地球温暖化だ。気候変動の研究者が懸念する概念に「ティッピングポイント」というものがある▼少しずつの変化が積もり積もって一定のレベルを超えると、それまでとは大きく異なる急激な変化になってしまう。そんな点のことで「臨界点」とも訳される▼竹筒に流れ込んでいる水の重さが全体のバランスを崩すまでになると、一挙にこぼれて筒が石を打ち、大きな音を立てる。日本庭園の「ししおどし」に例えられることもある▼最近になって、地球環境にもティッピングポイントが存在することを示す研究成果が示されるようになってきた。気温上昇が一定のレベルを超えると、地球環境に取り返しがつかない不可逆的な変化をもたらすことへの懸念が高まっている▼西南極の氷床や北極域の永久凍土の融解、南米・アマゾンの乾燥化などにティッピングポイントが存在するという。「幸いなことにまだ現在の温暖化はティッピングポイントを超えるまでには至っていない」というのが最新の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の評価だ▼だが、もしかしたら明日にでも、ししおどしの水がこぼれて、周囲を驚かす音が響き渡るかもしれない。そんな危機感を持って、一刻も早く脱化石燃料を実現するべきだ。(下野新聞・2022/08/14)

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 残りの日を数え、焦り始めている頃だろうか。<算術の少年しのび泣けり夏 西東三鬼>。ためてしまった夏休みの宿題。真っ黒に日焼けした丸刈り頭の男の子の姿が浮かぶ。数十年前のわが身を重ねる人も多いだろう▼年内で芸能活動の一線から退くという吉田拓郎さんの『夏休み』の歌詞も浮かぶ。「絵日記つけてた」「花火を買ってた」「西瓜を食べてた」「水まきしたっけ」夏休み。「ひまわり 夕立 せみの声」。絵日記は最後にまとめて書いたけれど▼振り返ると、今年は乱調子の夏だった。<蓋あけし如く極暑の来りけり 星野立子>。東北の南部は6月29日、所によっては猛暑日で、わずか14日間の梅雨が明けた。初めて6月から突入した夏は、その後も異変が続く▼7月中旬の宮城をはじめ、東北の各県を記録的な大雨が重ねて襲った。仙台では、カッと照りつける日差しは少ないのに、もあっと気温が上がった印象が強い。36・2度の猛暑日となった8月2日と9日は、いずれも曇りベースの日だった▼収まらぬコロナの第7波、豪雨の被害を思うとき、心は晴れにくい。<かなかなや少年の日は神のごとし 角川源義>。夕の訪れ。井上陽水さんの『少年時代』のメロディーが、スーッと浮かぶような夏の終わりであってほしい。(河北新報・2022/08/20)

*吉田拓郎「夏休み」:https://www.youtube.com/watch?v=_sU29AA_HYQ                   *井上陽水「幼年時代」:https://www.youtube.com/watch?v=ZWBs3oBw4qk

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 この数年の酷暑度を、いくつかの資料をもとに調べていました。そこから言えるのは、今年がとくに暑いのではなく、この「酷暑」はもう数年前からの当たり前の現象だということ、それが今更のようにわかりました。「今夏が最も暑い」と言いたいところですが、そうではなく、いずれも優劣つけ難く「酷暑」が連年のものだったということです。今年はヨーロッパがやたらに暑いという報道が飛び交いました。スペインやフランス、イタリアでは史上最高と。しかし昨年の夏には、カナダでは五十度近くも気温が上がり、数百人が死亡しているとニュースにありました。それぞれの地域ごとにデータを出していけば、確実に地球全体が激しい勢いで高温化していることが判明します。いうまでもなく、「地球温暖化」は決して単一の理由で生じているのではなく、複雑な原因が絡まって起こっていることです。暑さ対策を講じることによって、さらに温暖化の速度を高めるという逆の結果にもなります。化石燃料の膨大な消費が最大の理由であることは分かっているにもかかわらず、いっかなその排出量を減少化するための抜本的対策が講じられていない。暗黙の了解のもと、地球全体が確実に滅びの方向に進んでいることを示しています。

 もとより、日本劣島の酷暑ぶりだけを云々しても始まらないことです。とは言え、暑いことには変わりはなく、それを凌ぐための方策は今のところはなさそうだという、八方塞がりの状況を嘆いたり恨んだりする、それでまた温度(血圧)が上がるというもの。加えて、コロナ感染の拡大が進行し、それに伴い死亡者や重症者が増大化を辿っているにも関わらず、根本的な対策や、明確な方向性を出さ(せ)ない政治行政の「怠慢・罷業」が、さらに気温を何度か上げている。

 物価は上がり、気温が上がり、感染症の危険度が上がり、政治や行政への不信感が天井知らずに高まるのかと思いきや、政治家や政党が好き放題の人民見殺しに齷齪しているにも関わらず、「寄らしむべし、知らしむべからず」よろしく、人民の中には、現状維持派が圧倒的に多い(とは、ぼくには思えないのだが)のは、馬鹿にされ、愚弄されることに快感を感じる国民性のなせることだからなのか。

 さらに、「特殊団体」との親交・友情・腐れ縁を深めている政治家が国にも地方にも蔓延しているという事実にも、多くの人々が、まず驚かないという現実に、ぼくは驚嘆するばかりです。殆どの政治家は、「家庭連合」を利用しているつもりだったと思う。しかし相手は役者が違う、軽く政治家をあしらいつつ、持ち上げつつ、骨までしゃぶろうとしていたし、もうすでにしゃぶられた連中もゴマンといるのです。いずれ明らかになるはず。某教会は、自らの躍進(前進)のために、政治家を「駒」か「馬の脚」程度にしか見做していなかったんですね。「家庭連合」は、確実に地方政治(議会)や政治家に食い込んでいます。その入り込み方はじつに周到で、何十年もかけて準備してきた効果が、そこに根付いている。もう二十年以上前に、ひょんなことから、その実態をぼくは知ることになった。きっかけは「拉致問題」です。その問題の非人道性を訴え、北朝鮮の非道を避難する決議を上程し、「北朝鮮」と対峙するための狼煙を地方議会から挙げさせていたのが「統一教会」だった。地方議会を唆(そそのか)し、国会を動かし、いろんな画策を講じていた、その経過を、ぼくは直に経験していたのです。安保法制、秘密保護法性、反同性婚、憲法改正、その他。まるで政権等の親藩のように振る舞っていたのだ。

 政権党や権力集団は、「某宗教団体」に、政治そのものの「根底」「真価」を汚染されているのに、それを見ないことにして、というより、その汚染源に手も足もつっこみながら、気がついたら「国を奪われていた」ということになるのでしょう。「美しい国」は「✖✖教会」からのパクリかもしれない、いやそれをそっくり、故総理は恵んでもらっていたのではないか。「傀儡」という言葉が、このところずっとぼくの中でうごめいているのです。

ふるさとや寄るもさはるもばらの花(一茶)

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