91歳まで続くとは思わなかった

10歳から81年間書き続けている日記を前に語る北村知久さん=東京都武蔵野市で

 どういう北風の吹き回しか、このところ思い出したように定家の「明月記」を拾い読みしています。大学入試に備えるわけでもなく、研究成果を発表するでもなく、まして定家の親戚筋でもないのですから、それこそ気紛れの思い付きとしか言いようがありません。念のうちに、いつか何かの拍子に無性にあるものが読みたくなるという悪習があるのです。

 ぼくは大学に入った瞬間に、当時岩波書店から出ていた「日本古典文学全集」(全百巻)を衝動買いした。(同時に「筑摩現代文学大系」を全巻揃えた。これは刊行開始早々でしたから、月一冊当てでそろえたと思う)何かはっきりとして目的や当てがあったのではなぃ、もちろん金もなかったのに、「本を読むぞ」という漠然とした気分を入学以来持っていた、それを確かめるつもりだったとしか思われなかった。よくぞ、そんな向こう見ずの、文無し若造に後払いで買わせてくれた大人がいたことに感動しました。図書館には全部そろっていたのに。今もって、その時の「興奮」を肌で感じることができます。いったい値段はいくらだったか、当時は「定価」で買うのが当たり前だったし、古書でという趣味も生活の算段(知恵)もなかった。岩波本、たしか生協の書籍部で分割購入したと記憶しています。

 それが半世紀を過ぎても、今もなお貧弱な書棚の幾段かを占めています。本やレコードだと、それを買った時代がいつでも鮮明によみがえるのですから、記憶装置付きショッピングという、なんか儲けものをしたような気にさえなります。その時は「定価」から「定家」は連想できなかった。百人一首の定家は知っていた。ぼくは京都時代に今出川にあった「冷泉家」ー明月記」が保存されているーの前を何度も通ったことがあり、その先に同志社大学(同級生の多くが在学していた)もあったから、その景色にも親しんでいたのです。後年、古典「明月記」の一部が岡山で発見されたいう報道に驚嘆したことも思い出します。(右下写真 いかにも時代の「ちぐはぐ」が現れている「冷泉家」。前面が今出川通)

 それはともかく、定家は「明月記」という、驚くべき退屈な日記を、十九歳から始めて、なんと六十年も書き綴っていたというのが、若いぼくの肝を冷やすのに十分でした。彼は応保二(一一六ニ)年に生まれ、仁治二(一二四一)年に亡くなっていますから、生涯八十年余の、ほとんどが日記に録されていることになります。(いずれこのことは別の機会に)こんな人は他にいるはずがないと考えてもあながち無理もありませんね。

 だからぼくは、本日の東京新聞に目と耳を奪われたのです。「タヌキの朝帰り」にも目を射られましたが、こちらはコロナ化は人もタヌキも、災難であるのは同じだという詩興がありますが、八十一年の日記継続には「震撼」させられましたと、正直に言っておきます。いるんですね。一を以てこれを貫く、という信念の人が。十歳から始めたといいますが、わが身に照らせば、いったい僕は何をしていたか。一人の野生児として野山を終日駆け回り、ひたすら自然に還ることを希求していたのではなかったか。遊び場は兼好・長明をはじめ、平安鎌倉の早々たるメンバーの足跡も傷跡も鮮やかに残されている都の辺地でした。

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 「花丸の人生」つまった93冊 81年間書き続けた日記帳で振り返る、武蔵野市の91歳北村和久さん

 81年間つけてきた日記は93冊になった。東京都武蔵野市の北村知久さん(91)は、1940年から手帳や日記帳などに日々の出来事や思いをつづっている。戦争と復興、高度経済成長、災害…。自らの目を通して見た時代の断片と、人生の喜怒哀楽がつまったページをめくりながら「当時の記憶がよみがえり、過ぎ去った人生をもう一度味わうことができる」と語る。(長竹祐子)

「生きているうちは続けたい」という北村和久さん

 初めて手にした日記帳は、神武天皇即位2600年を記念した「小学生日記」(博文館)。東京市四谷区(現東京都新宿区)の尋常小学校5年だった10歳のとき、両親に買ってもらったことがきっかけで日記を書き始めた。

 ◆駆け抜けた昭和-平成-令和 軍国少年は良き父に

 軍国少年だった。真珠湾攻撃のあった41年12月8日の日記は、「来た。いよいよ日米戦争!! ああこの日」と興奮した様子で記している。その後も「比島に上陸」「万歳を叫ばずにはいられない」など威勢のいい言葉が並ぶ。北村さんは「当時の雰囲気だと、みんなこうなっちゃうね」と振り返る。45年5月25日、山手空襲に遭った。翌日の日記には、自宅の焼け跡を掘り起こし天をにらむ自身のイラストを描き「敢然と焦土より立て。焼けた物は焼けたんだ」と添えた。

 「生きているうちは続けたい」という北村和久さん 戦後は食糧難に苦しんだ。46年6月21日、「もう明日の米は一粒もない。(中略)ねころんでそっと腹をなでてみると肋骨ろっこつばかり」と骸骨のような自身の姿を描いた。「あのころを経験している身として、おなかがすくってどんなにつらいかがよくわかる」 51年に帝国銀行(現三井住友銀行)に入行し、10年後に32歳で佳子さん(84)と結婚。日記には「男児が誕生した」「パパー、パパーと言った。感激!」などと家族の記録も。

 ◆金婚式の日に東日本大震災 そして日記は82年目へ

 71年7月15日、米大統領が初の訪中を宣言。いわゆる「ニクソン・ショック」だ。2日後の日記は「世界の動きが大きく変わりそうだ。日本はどうなるんだろう」とつづった。 結婚50年の金婚式だった2011年3月11日、東日本大震災が起きた。「東京でも震度5以上の揺れで玄関の扉をあけて立ちすくんだ。(中略)明日もどうなるかわからない」。不安な思いが文面ににじむ。 子どものときから文章や絵が好きだったというが、「日記を書き始めたころは、91歳まで続くと思わなかった」と北村さん。昭和、平成、令和と時代を経て積み上がった日記を前に「奇跡の花丸の人生でした。生きているうちは続けたい」。年が明けると、82年目の日記が始まる(東京新聞・2020年12月6日) 

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 中唐の大詩人白居易(白楽天)(772-846)。ぼくは、これも若さに任せて彼の「白氏文集」を読んだことがあります。ことに「長恨歌」は愛読した。いうまでもなく「玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋もの」で、はたしてわかって読んだのかどうか、今でも怪しい。分かりきらなかったから、余計に興味をそそられたのかもわかりません。その白居易に「劉十九 同じく宿す」と題した詩がある。その詩に、若かった定家が魅かれていたのでしょう。

 紅旗破賊非吾事、黄紙除書無我名。唯共嵩陽劉處士、圍棋賭酒到天明。

 「明月記」中に「世上乱逆追討耳に満つと雖も、之を注せず。紅旗征戎吾が事に非ず」と記す。源平合戦の最中に成人した定家です。清盛が福原遷都をした年(治承四年・1180年)に、「日記」を書き始めます。定家は十九歳でした。殺し合いなんか知ったことかと、政変に背を向けて、官職の多忙の合間に、ひたすら私事に徹する。何を想いい、日記を書き続けたのか。謎ですね、ぼくには。

 今日の定家である、北村さんはどうだったか。軍国少年が、幾星霜を経て九十一歳を過ぎたのです。彼個人にとっては「八十三冊の日記」には感慨深いものがあるはずです。多くの「日記」は他者に読まれることを想定も期待もしていない。だからあけすけに言えば、どんな事柄も細大漏らさず書けるのでしょうが、世間には、そうでない日記もあるようで、ぼくなんかには気が知れないのです。だから、いまでも他人の日記なんかを読もうという趣味がない。永井荷風のものなども大いに評価されているが、それだけ「覗き趣味」を持つ人がいることの証明でしょうか。(このあたりの好悪・機微についても、今後の「明月記」雑記において、愚考の後を書いてみますか)

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タヌキの朝帰り、「おやすみなさい」

<12月の窓>タヌキに出会う深夜の別世界

「こんな都会で、頻繁に会うなんて」。人々が寝静まった夜の街にたびたび出没するタヌキを、東京都豊島区内で新聞配達をする男性(63)が撮影し、本紙に写真を送ってくれた。 男性は新型コロナウイルス禍での生活を安定させるため、約2カ月前から新聞販売店でアルバイトしている。2年前に同じ店で配達していた時にはタヌキはあまり見なかったが、最近は朝刊の配達中によく出くわす。シャッターチャンスを逃さないようカメラを持ち歩いて1週間、やっと撮影できたという。 今月初めの午前2時半ごろ、西武池袋線東長崎駅にほど近い住宅街でバイクを止めて新聞を配達中、前方から自分の方へ向かって歩いてきた姿をとらえた。「ひょっこり出てきて、コロコロ太っていた。写真を撮ったらすぐ消えちゃったけどね」 専門家によると、タヌキは雑食で夜行性。都心でも公園や茂みがある場所では生息できるという。ただ、寄生虫や病気を持っている可能性もあるため、触れない方がいいそうだ。 別の地区を担当する同僚らに男性が話すと、数人が「よく見るよ」と言う。「東京の街で生活して見えている昼間の世界と、新聞配達員が知る深夜は別の世界。タヌキに化かされたのか、なんて、不思議な気分になりますね」(奥野斐)(東京新聞・2020年12月6日 06時00分)

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● 食肉目イヌ科。体長 50~80cm,尾長 13~25cm,体重4~6kg。黄褐色の毛が密生し,黒色の差し毛があり,眼の周囲が黒い。ノネズミ,カエル,魚などの小動物を捕食するが,植物質も食べる。夜行性で,昼間は土中の穴や木のなどにひそむ。家族単位で生活する。早春交尾し,約2ヵ月の妊娠期間を経て5~7子を産む。木登りが上手で,危険を感じた際,一時的に気を失う。毛皮は上質で,毛も毛筆の材料にされる。地方によってはムジナとも呼ばれ,アナグマと混同されやすいが,アナグマは蹠行性 (足裏全体を地面につけて歩行する) で,タヌキは趾行性 (足指だけを地面につけて歩く) である (→蹠行 ) 。北海道,本州,四国,九州およびシベリア朝鮮半島,中国に分布する。日本の民間伝承では,人 (おもに男) や物に化け,また人を化かすとされる。眠っているふりをすることを「狸寝入り」と言い表すのも,古くから人をだますと伝えられているからである。戯画ではよく大きなおなかに描かれ,音にかかわる言い伝えが多い。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)学名=Nyctereutes procyonoides 英語表記=raccoon dog

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 まだ食べたことはありませんが、「赤いキツネと緑のタヌキ」という名のカップ麺。普段でもぼくは頻繁にうどんを食べます。ほとんどが「キツネ」です。理由はよくわかりませんが、きっと油揚げが好きなせいだと自分では思っています。でも潜在意識では「キツネ」という動物が好きなのかもしれません。深く考えたことはありません。現実生活で頻繁に出会うのは「タヌキ」で、拙宅近くの県道ではよく「轢死状態」で発見されますし(タヌキはほんとに不注意です。人間は乱暴だということを知らないらしい)、実際に運転中に何度も遭遇しています。日常的に出会う機会の多いのはイノシシと双璧です。

 もう何十年も前に友人(三島在の年下の女性)に誘われて出かけ、三島駅そばの料理屋さんでごちそうになった。日本料理がおいしいからということでしたが、もう一つはそこに生きたタヌキがいる、タヌキに出会えるからというのです。たしかに、昼間、料理屋の庭に出てきて、さかんに当方を伺ってしました。可愛いなあ、という感じはしませんでしたが、「早く店から脱け出なさい」と、「タヌキ汁になってしまう」から、と案じたことでした。

 新聞配達の男性はタヌキとの遭遇に心躍らせていたことは事実だし、一週間も機会を狙ってシャッターを押した執念はなんだったのか。「一目ぼれ」だったのかな。それにしても、見事な映り映えですね。パンダのようでもあり、アライグマのようでもあり。午前二時半ごろにしてはやけに明るいのは、紅灯の巷たる池袋だからだったか。あるいはこの「タヌキ」さんはお勤めを終えて帰宅途中だったかもわからない。お店では「妙齢の美女」として、コロナ禍の最中に店にやってきてくれる大事な「お得意さん(カスタマー)」への奉仕に精をつくしたことでしたろう。ちょっと疲労気味にみえなくなはい。

 飲み屋をはじめとする店名に「タヌキ」が多いのはどうしたことか。店主は男女を問わず、です。きっとこの朝帰りの方もたんまり儲かって、ご機嫌よろしくの御帰りだったかもしれません。(いやいや、キツネの方も負けていません。かなりの数でタヌキと張り合っているようですね。ぼくは志ん生の「王子の狐」が大好きです。そこではもう志ん生は狐になりきっています、顔つきは狸似ですが)

 脱線の連続です。ぼくが好むのはキツネうどんで、自分でもよく作りました。お店に入って注文するのは「キツネ」です。ところが場所によって「タヌキ(天かす入り)うどん」を頼んだのに、「キツネ(油揚げ)」が出ることがある。間違えたんでしょうというと、お店の人が「いやこれでいいんです」と。文句を言いかけると「タヌキがキツネに化けた」と言われたこともあります。嘘か誠か。

 どうして麺類の名が「キツネ」「タヌキ」と言われるか、由来がまた込み入っていて、この動物たちとの付き合いを知るきっかけになるかも。暇な折に調べられるといいですね。どんな事柄にも、それらしい歴史があるというものです。(日本の「昔話」に登場するのも、多くはタヌキのようですが、なにか理由はあるのでしょうか。これも、またの機会に)

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(同性婚を)認めても、世界は続いていく

(秋田市内の一部の民家に配布されたビラ(画像の一部を加工しています)=性と人権ネットワークESTO提供)

 秋田で投函されたLGBT差別あおるビラ 誇張し偏見 問題の背景は?

 今年9月、秋田市内の一部の民家に「過激な『同性婚合法化』運動に気を付けよう」と書かれたビラが投函(とうかん)された。LGBTなど性的少数者への差別をあおるようなビラは、当事者の家にも投函されたといい、相談を受けた支援団体は「本人たちの幸せを侵害する権利は誰にもない。誤った情報で差別や偏見をあおるとは」と憤る。【高野裕士、小鍜冶孝志】

 性的少数者を支援する団体「性と人権ネットワークESTO」の真木柾鷹代表によると、当事者から寄せられた情報で問題のビラの存在が発覚した。ビラの投函が確認されたのは、秋田市議会でパートナーシップ制度に関する一般質問が出た直後。戸籍上は女性で男性として暮らす当事者の家にもビラが配られ、秋田地方法務局や県警、県などに相談している。/ ビラには、パートナーシップ制度や当事者の人権を否定するような記述があった。「行き過ぎた主張が無批判に認められていく危険を感じる」「子供たちにマイナスの影響はないのか」「(海外では同性婚が認められ)婚姻制度が根底から揺らいでいる」。ビラを投函された当事者本人は「個人を特定してまかれたとすれば非常に怖い。存在を否定された気がする」と不安を募らせているという。(以下略)(毎日新聞・2020年12月5日)(https://mainichi.jp/articles/20201204/k00/00m/040/176000c)

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 アジア初の同性婚 20年の道のり (更新:2020.06.26)

 2019年5月24日、台湾で同性婚が認められるようになりました。アジア初の快挙となったこのすばらしいニュースは、日本でも大きく取り上げられたので、ご存じの方も多いかもしれません。/ あれから約1年後の2020年5月23日までに、台湾で4,000組以上の同性カップルが結婚しました。台湾での同性婚の成立までの経緯、そして、アジアで初めて同性婚を実現した台湾が、結婚の平等を叶えるための次のステップについて、考えてみたいと思います。

 同性婚実現までの道のり

 アジア初の同性婚を実現した台湾ですが、もともと同性愛に寛容だったわけではありませんでした。「同性婚は、家族を破壊する」という考えをもつ人が、たくさんいたのです。台湾のLGBTIの人たち、そして活動家たちは、そのような偏見や差別と闘いながら、20年以上にもわたり、同性婚の実現を訴え続けてきまし た。特に2020年代に入ってからは、同性婚を求める声が高まっていきます。/ 同性婚を求める多くの人たちの声が届き、2017年5月、台湾の最高裁判所は、同性カップルに結婚の権利が認められないのは違憲であるとの判断を下し、2年以内の法改正を求めました。合法化への道を開く、歴史的な出来事となりました。(以下略)(https://www.amnesty.or.jp/lp/lbg/about/lgbt_newsblog_03.html)

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 三年前の十一月、ニュージーランド議会で一人の議員が演説をしました。(これについては、このブログで触れています。)(https://www.bbc.com/japanese/42177128)

「この法案でやろうとしていることは、ただ愛し合う2人に結婚という形でその愛を認めてあげることだ。それだけだ」
「今この法案に反対している人たちに約束する。明日も太陽は昇る」
「十代の娘はやはり全て分かっているかのように言い返してくる。住宅ローンは増えない」
「皮膚病や発疹にはならないし、カエルがベッドから出てくることもない。世界は続いていく。だから大げさにしないでほしい」

 この問題について、ぼくが言うべきことは、ほとんどありません。ウィリアムソン議員の発言に全面的に賛成するばかりです。願いが叶うまでに、時間がかかるし、かけるべきであると思いますが、いずれ「少数者の権利」は認められるはずです。そのことによって、「多数者の権利」は侵害されるものではありません。人権の価値は「多数決」に馴染まないのは当たり前ですが、それが法的基盤を以て社会制度と認められるためには(多数決による)法の制定は避けることができないのです。どんな問題でも、同じ手続きが課されることになります。「法の下の平等」とは、「少数者の権利」も「多数者の権利」と同様に、社会の構成員によって認められることを意味します。

例年、十二月十日は「国際人権デー」とされています

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 国民のための政策をさらに前へ…

判決後、勝訴と書かれた旗を掲げる原告側の関係者=大阪市北区で2020年12月4日午後3時9分、大西達也撮影

 大飯原発の設置許可取り消し 住民ら原告側勝訴 大阪地裁が初判断

 福井県や近畿地方の住民ら127人が、関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)について国の設置許可を取り消すよう求めた行政訴訟の判決で、大阪地裁は4日、許可を取り消した。森鍵一(もりかぎはじめ)裁判長は、原発が想定する地震の最大の揺れを示す「基準地震動」について、「原子力規制委員会の判断に看過しがたい過誤、欠落があり、設置許可は違法」と述べた。2011年の東京電力福島第1原発事故後、国の設置許可を否定する司法判断は初めて。

 国は関電などと協議し、控訴する方向で検討している。判決が確定しなければ許可取り消しの効力は発生しない。国による安全審査の妥当性が否定されたことで、他の原発にも影響を与える可能性がある。

 耐震設計の目安となる「基準地震動」の妥当性が最大の争点だった。関電は原発周辺の地層の調査や過去の地震データなどから、基準地震動を856ガル(ガルは加速度の単位)と算定。規制委は17年5月、福島事故後に厳格化された新規制基準に適合するとして、設置許可を出していた。

 判決は、関電が算定に使った計算式は過去の地震データの平均値に基づいており、実際に発生する地震は平均値からかけ離れて大きくなる可能性があったと指摘。耐震性を判断する際、想定する地震規模を上乗せして計算する必要があったのに、関電や規制委が「何ら検討しなかった」と批判。規制委の判断に「不合理な点がある」として設置許可を取り消した。(以下略)(毎日新聞・2020/12/04)

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 福島事故後、やがて十年目を迎えます。その区切りの時期の「設置許可取り消し」判決でした。この問題については、さまざまなことが指摘されてきましたが、いまだに政府官僚電力業界の原発依存体質は微塵も(表向きは)変わっていないようです。死んでも変わらないでしょう。また、規制委員会ももちろん原発推進派であることを隠していません。「推進規制委員会」と名称を変更したらいい。「反対派を規制する」委員会なんだからさ。原発を一基設置すると、どれだけの税金が制約なしに使えるのかという「旨味」に味を占めたハイエナ連中が犯してきた犯罪行為です。東電事故で、どれだけの税金が使われてきたか。呪兆円なんてものではありません。それで被災者が、すこしでも救われるならまだしもですが、現実は非道極まる「仕打ち」に徹しているかの思いがします。早く過去の「悪夢」を消したいだけの「復興」旗振りです。

 いずれ、「福島の現状」について書こうと準備しているのですが、見るも読むも聞くも、惨憺たる有様に目も耳も口も塞ぎたくなるばかりです。こんなに人民を愚弄し、足蹴にしてきた政府や官僚とはいったい何者なのか。「苛斂誅求」という古語を使いたくなります。「情け容赦もなく、税金などを取り立てること」というのです。その上に、「いのち」まで取り立てるという非道を平然と敢行しているのです。「悪逆無道」そのものです。

 世界の趨勢はとっくに「脱原発」です。にもかかわらず、この島で、原発で儲けようと姦計を弄する連中はさらに新規に設置したうえで、あろうことか原発輸出まで目論んでいました。その「死の野望」が失敗に終わったからには、何が何でも既存の原発を稼働させ続けるという「賭け」(人民は参加していない賭場があるのでしょう)に出たが、この勝負は「八百長」が通り相場です。「死の商人」だと他国からはみられているのです。

 設置三十年で廃炉という当初の方針がいたずらに延ばされて、今では「原発事故」が起こるまで動かすのだという、狂暴な方針(覚悟)に摩り替ってしまったといいたいほどに「無責任」「出鱈目」な施策をでっち上げているのです。それだけ、「原発」は金になる、金を産むのです。それに加担してきた司法や行政の反正義も強く非難されるべきです。この地裁の判決が二審ではどのように判断されるか、ぼくは期待はしませんが、関心を失わないで監視を続けていくつもりです。「こころある司法」への願いは持ちながら。

 おのれの死後にも責任をとるというのは「荒唐無稽」だし、「できない相談」であることの証明です。俯瞰的に総合的に見て、現実に責任を微塵も取ろうとしない政治屋が、未来に責任を持つふりをしている図は、得も言われぬ漫画だし、底知れぬ退廃と腐敗を感じるばかりです。(この二人の党代表は、あるいは宗派が同じかもしれないと考えます。つまり、「日蓮一派」ですね。なにでもかんでも「お題目ファースト」だから)

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富士と並んでその名も高い

「旅行けば 駿河の道に茶の香り 流れも清き大田川 若鮎おどる頃となる 松の緑の色も冴え 遠州森町よい茶の出どこ 娘やりたやお茶摘みに ここは名代の火伏の神 秋葉神社の参道に 産声上げし快男児 昭和の御代まで名を残す遠州森の石松を 不弁ながらも務めます。」

 二代目広沢虎造演じるところの「石松三十石船道中」のまくらです。ぼくは小学校低学年のころから、この浪花節をどれほど聞いたでしょうか。娯楽というものが、ラジオしかなかったような時代です。かすかな記憶では毎週何本もの「浪曲」番組がありました。素人が参加するものまね浪曲もあった。もちろん落語や漫才も。いまだにつづくぼくの演芸好きは、この頃から始まったといっても過言ではありません。毎週ラジオにかじりついて、日々を過ごしていた。虎造で聞く「清水次郎長伝」は、何にも代えがたい学習の機会でした。男心とか、義理人情という面倒な機微を学んだといえるかもしれない。いったい、次郎長とは何者か?虎造とは?

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  清水次郎長

 東名高速道清水インター脇の貯水タンクは、静岡市清水区のさまざまな名物が描かれている巨大な広告塔でもある。ウイスキーのキャラクター「アンクルトリス」で知られるイラストレーターの故柳原良平さんがデザインを手掛けた。

 30年近く前、旧清水市が塗り替えを計画した際、清水次郎長を引き続き登場させるかどうかで論争になった。一般的には切った張ったの世界に身を置いた前半生のイメージが強い。渡世人をPRに使うのは適当でないとの意見も出た。/ 最終的に、清水といえば次郎長は欠かせないという声が大勢を占めた。ただ、羽衣の松や天女、ミカン、サッカー選手などと共に新たに描かれた次郎長は、塗り替え前よりも一回り小さくなって、現在に至っている。

 今年は次郎長の生誕200年。地元の官民組織は「郷土の偉人」と明確に位置付けた。清水港の整備、富士山麓の開拓など、地域の発展に尽力した後半生の功績に光を当てる記念事業を来年度まで展開していく。/ 次郎長は英語塾を日本で初めて開いたともいわれる。清水港の整備も静岡茶の輸出が念頭にあった。江戸から明治に時代が変わったのを機に、「海道一の大親分」は国際派の事業家に転身を遂げたといえる。人生をやり直す手本として語られることもある。

 子どもたちに次郎長のことをどう教えるのかが難しいと、正直に語る地元の小学校教諭の声を聞いたことがある。善い面も悪い面もすべて伝えたという教師もいた。こうして人々を悩ますのも、他の偉人にはない次郎長の魅力かもしれない。(静岡新聞「大自在」2020/12/4 08:30)

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● しみずの・じろちょう(1820~1893)本名・山本長五郎。駿河国清水町の廻船業・高木三右衛門の次男として生まれ、叔父の米穀商・山本次郎八の養子となる。呼び名の「次郎長」は「次郎八のところの長五郎」が縮まったとされる。山本家は裕福な商家だったが、養父の死後、博打をめぐる争いで傷害事件を起こして出奔し、博徒の世界に身を投じる。1859(安政6)年、尾張から三河に大きな勢力を張っていた博徒の大物・保下田久六を殺害したことで名を上げ、故郷の清水に一家を構える。大政、小政ら個性的な子分を使いこなし、幕末までに周辺の敵対勢力を圧倒し、東海道一の大親分として知られるようになる。

 明治維新直後の政情不安な中で、新政府(東征総督府)から清水港周辺の警備を命じられる。68(明治元)年、清水港内で旧幕府と新政府の軍艦が交戦し、幕府側戦死者の遺体が港内を漂流するが、新政府の威光を恐れて放置された。見かねた次郎長が遺体を手厚く葬り、それをとがめられると、「仏に朝敵も官軍もない」とたんかを切ったエピソードは広く知られる。維新後は富士山麓の開墾など正業に従事するが、84(明治17)年、賭博犯処分規則により逮捕され、服役する。釈放後、清水港で船宿を経営、93(明治26)年に病気で死去。(画像は、79(明治12)年ごろの撮影とされる写真)(国立国会図書館提供) 【時事通信社】

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 「侠客」「任侠」とくれば、ヤクザです。「任侠」は「弱い者を助け強い者をくじき、義のためならば命も惜しまないといった気性に富むこと。おとこ気。「―道」」(大辞泉)というそうです。本場は中国、近いところでは「水滸伝」がありますが、もともとは「無頼の徒」でした。細かく言えば切りがないので、今回は深入りしません。それに対して、「やくざ」というのは役に立たないもの(賭博カードで八・九・三」は、カスです)の意味を持っていたのですが、それが正業に就かず無法な生き方をする者たちを指すようにもなった。やがて、任侠や侠客と重なり合って、意味が混乱してきます。暴力団は論外として、次郎長のような「街道一の大親分」には勇み肌の子分がいます。大政、小政、石松その他、いずれも一廉の侠客でありました。戦前に大流行した歌謡曲に「旅姿三人男」があります。歌ったのはディック・ミネ。幼いぼくも、よく歌いました。「いつか、きっとりっぱな男伊達に」と念じていたのだったか。その念は通じたでしょうか。ちょっとだけ、ね。(左上写真「次郎長三国志」に出演した虎造、中は淡島千景、右は森繁久彌)

昭和13年(1938年) JASRAC No.046-0127-1
旅姿三人男 作詞:宮本旅人 作曲:鈴木哲夫
歌唱:ディック・ミネ 制作:滝野細道

(一)
清水港の 名物は
お茶の香りと 男伊達
見たか聞いたか あの啖呵
粋な小政の 粋な小政の旅姿

(二)
富士の高嶺の 白雪が
解けて流れる 真清水で
男磨いた 勇み肌
なんで大政 なんで大政国を売る

(三)
腕と度胸じゃ 負けないが
人情からめば ついほろり
見えぬ片目に 出る涙
森の石松 森の石松よい男

 「春の旅 花はたちばな駿河路行けば 富士のお山は春がすみ 風はそよ風茶の香が匂う 歌がきこえる茶摘唄 赤い襷に姐さんかぶり 娘二人のあで姿 富士と並んでその名も高い 清水次郎長街道一よ 命一つを長脇差に かけて一筋仁義に生きる 噂に残る伊達男」(「次郎長伝」の「まくら」) 

 ここでは清水次郎長(本名山本長五郎)と、その次郎長を主題にした「浪曲師・広沢虎造」の二人をテーマにして、なにがしかを騙ろうとしているのですが、時間切れと息切れが同時に来ました。「山口組」にまでたどれると面白くなるのですが。それは、島社会のもう一つの「歴史」でもあるからです。「任侠に生きる人」がときどき表社会に顔を出しましたし、裏社会につながる政治家なども、今でもいるようですから。 

 そして、堅気もヤクザも区別がなくなって、ヤクザ顔負けの堅気が出てくる時代になってしまいました。あらゆる職業の選択は自由であるとはいえ、法を守るという素振りも見せずに、違法・脱法行為を平然とする輩が「正業」に就く、それを不思議とも理不尽とも思わなければならないでしょう。正邪・善悪のあからさまな区別が成り立って、初めて社会(世間)というものにおいて、人が集まって住みあう場となるというものですが、いまは清濁併せのみ、ヤクザか堅気かが判然としないような人物に政治も企業も牛耳られてしまっている、そんなどうしようもない時代に、ぼくたちは生きているのです。 「ちょうど時間となりました、おそまつながら。また口演」(どこかに、たぶん続くはず)

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あたたかく草の枯れてゐるなり

 おとといの朝、テレビをつけたら、奈良の最低気温は4度台だった。かなりの冷え込みの中、12月がスタートした。/ 駅頭では「歳末たすけあい運動」への協力を呼び掛ける人々の姿が見られた。コロナ禍で誰もが苦しめられた1年。何とか皆が前向きな気持ちで新年を迎えられるようにと、祈らずにはいられなかった。

 12月3日は、山口県出身で自由律俳句の代表的俳人の一人、種田山頭火の誕生日。「うしろすがたのしぐれてゆくか」など、生涯に8万余句ともいわれる句を詠んだ。/ 漂泊の俳人として有名だが、奈良にも来ている。昭和11(1936)年2月、7カ月に及ぶ長旅の途中、奈良市内に下宿していた俳友の元を訪ね、1泊したという(地域雑誌「ぶらり奈良町」2001年春号)。

 奈良女子大近くのその家は、今では築100年近い古民家となり現存。古書喫茶「ちちろ」として、女性観光客らの隠れスポットとして静かな人気がある。/ 山頭火のように、自由に旅ができるのは、一体いつごろになるのだろうか。そんなことを思いながら、やり残した仕事を確認している。(恵)(奈良新聞「国原譜」2020.12.03)

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  昭和十年十二月六日、庵中独坐に堪へかねて旅立つ
  水に雲かげもおちつかせないものがある
  生野島無坪居
  あたたかく草の枯れてゐるなり
  旅は笹山の笹のそよぐのも
  門司埠頭
  春潮のテープちぎれてなほも手をふり
  ばいかる丸にて
  ふるさとはあの山なみの雪のかがやく
  宝塚へ
  春の雪ふる女はまことうつくしい
  あてもない旅の袂草こんなにたまり
  たたずめば風わたる空のとほくとほく
  宇治平等院 三句
  雲のゆききも栄華のあとの水ひかる
  春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏
うららかな鐘を撞かうよ
伊勢神宮
  たふとさはましろなる鶏
  魚眠洞君と共に
  けふはここに来て枯葦いちめん 
麦の穂のおもひでがないでもない (「草木塔」)

 歩きに歩く山頭火です。それを「旅」と言っていいか。「山頭火のように、自由に旅ができるのは、一体いつごろになるのだろうか。そんなことを思いながら、やり残した仕事を確認している。」と余裕のコラム氏の「恵」さん。この時期、山頭火は五十四、五でした。「漂泊」というのは、どうですか。島のあちこちに友人というスポンサーがいました。もちろん、時には野宿もありましたし、食うものもなく銭もないという「ホームレス」状態にあったのも事実ですが、いざという時には、友人に無心することを彼はいとわなかったし、奇特なファンもいたのです。ぼくは山頭火好きですので、彼をあしざまに言うつもりはありません。でも、まるで「go to」気分で「自由に旅」、しかも政府の支援(税金)で、というのでなかったことは確かです。山頭火の「旅」は物見遊山でもなく、グルメ巡りでもなかった。あるいは「道行」に準えてもいいだろうか。

 彼が書き残したものを見れば(読めば)、それがどんなに風狂染みていたかが分かろうというものです。「正気」を失わないで「風狂」に遊ぶといった風情だった。「風狂」というのは「気がくるうこと。狂気。 風雅に徹し他を顧みないこと。また、その人。」(デジタル大辞泉)というようですが、その奇人たちにも流派はあったろうし、先達がいたのです。なによりも芭蕉が第一の祖だったといってもいいでしょう。遥かの昔、西行という野人もいましたし、さらには長明さんも仲間だったかもしれない。だが、彼らは世間とは切れなかった、世間が放さなかったのかもしれぬ。山頭火はどうでしょうか。世間が認知しなかったし、山頭火も世を拗ねていた。妻との間に子をなしながらの「家出」だったとぼくは見ています。

 (安藤次男さんに「風狂始末」と題された芭蕉俳句評論があります。今は文庫本で読むことができます)

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 青葉わけゆく良寛さまも行かしたろ(国上山と題して)

 奈良は文人(にかぎらず)には特別の地だったかもしれません。奈良の都と言えば、会津八一です。「青丹よし奈良の都」にかぎりない旅情を感じた人は多かったし、そこに棲みつくことを願った客人もすくなくなかった。会津八一さんもまた、特別の感情を奈良に寄せた歌人でもあったのです。明治十四年八月一日生まれ、だから八一とはいかにも端的。新潟の人で、良寛に親炙する(八一さんは親戚ではなかったが、そのように言いたいほどの親しみを持っていた)。後年上京、子規に会う。二十七歳で初の奈良行き。

●[1881~1956] 歌人,書家,美術史家。新潟の人。秋艸(しゅうそう)道人,渾斎と号す。早大英文科卒。奈良の古美術などを主題にした,総ひらがなの万葉調和歌や,独特の書で有名。早大で英文学と東洋美術の講座を担当。《法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究》,歌集《南京(なんきょう)新唱》《鹿鳴集》等多くの著作がある。(マイペディア)

 直接の邂逅はありませんでしたが、若いころからぼくは八一さんの書や歌には親しむ機会に恵まれていました。その良さがじゅうぶんにわかったとは言えませんが。八一を読み、次いで山頭火に及べば、山頭火の心境がさらに分かろうという気になったことがしばしばありました。これはまだ調べきっていないのですが、八一と山頭火は青春の一時期、どこかで(新宿辺で)出会っていたかもしれないという予感を持っているのです。一所不住の人だったがゆえに、すれ違いにすらならなかったこともあり得ますが。

みほとけのあごとひじとにあまでらの
あさのひかりのともしきろかも
  (弥勒菩薩を詠んだもの)

観音のしろきひたひにやうらくの
かげうごかしてかぜわたるみゆ
  (法輪寺十一面観音をよんだもの)

 親類でもないのに、好きな人の誕生日だからと、芸のない無駄話をしてしまいました。山頭火も、ぼくにとっては「導きの糸」であり、気が優しすぎた年上の友人という気がずっとしていて、いつも呼びかけたくなるのです。彼が自ら願ったのではない、漂泊を強いられた彼の人生に、ぼくは哀惜の情措く能わざるがままに、ここまで生きて来てしまいました。

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