「伝わらない部分」は残るね

質問 自分の思いを正確に伝えていく方法についてお聞きしたい。

佐野 わたしが読んでちっとも気持ちが伝わってこない文章っていうのは、自分を自分以上に見せようと思って、恰好つけたり気取ったりしている文章っていうのが非常に伝わりにくいと思います。名文でなくっても非常に稚拙な文章であっても、正直に自分の気持ちを言えばその思いは伝わると私は思う。で、谷川さんにもお聞きします。

谷川 まず第一に、自分の思っていることを正確に伝えるってことは、基本的に不可能だってことが一つありますね。それからもう一つは、その前提として自分が思っていることを、正確に自分が知っているかどうかってことも、ちょっと疑問があるってことがあるんですよね。その場合、もしそれが非常に激しい情熱に裏付けされている場合には、多分正確にわかっていると思いますね。つまりものすごく怒っているとか、ものすごく悲しいとかっていう場合がある。

手に持つのはペンか

 そうじゃなくて、もうちょっと、つまりなんか複雑微妙な自分の感情の揺れとか、心とかってことだと、それは、ことばで正確に伝わるってことは、まずないんじゃないかなって思うんです。ことばって基本的にそういうもんだと思うんですけれども。ただ幅があるってことはあります。

 それからもう一つの点は、散文で書く場合と、詩で書く場合は、全然違うんじゃないかってことがあるんですけれども。(中略)

 で、散文の場合には、やはりちょっと違ってて、やっぱり自分ですごく集中して考えて、どういうふうに言えば一番自分の言いたいことに正直か、ってことを相当考えなくちゃいけないと思うんですね。だからその場合に一番よくないのは、佐野さんが言ったように見栄を張るとかいろいろあるけれども、もう一つは、紋切り型の、例えば新聞とか雑誌とかあるいは他の書き物とかで、前に自分が読んだものをそのまま当てはめてしまうっていうのは、僕は多分もう一つよくないことじゃないかと思うんですけどね。

 だから、すごく集中して自分の気持ちにできるだけ正直に書こうとすれば、散文の場合には、ある程度は僕は書けるだろうと思います。だから、それが他の人に全然違うようにイメージされても、それはなかなかその他人を責めるわけにはいかなくてね。で、自分はどんなに正確に正直に書いたと思っても、〝ことば〟ってのはどうしても他人に受け取られる場合には、ある誤差っていうのは出てきてしまうと思うんですけれども。(鼎談「100万回生きる方法」『神話的時間』所収。熊本子どもの本の研究会刊、1995年)

 佐野とあるのは、絵本作家・佐野洋子さん。1938年に北京で生まれる。2010年没。作品に『おじさんのかさ』『おぼえていろよおおきな木』『100万回生きた猫』など。

 谷川とあるのは谷川俊太郎さん。1931年に東京に生まれる。作品に『二十億光年の孤独』『空に小鳥がいなくなった日』『ことばあそびうた』など。

 国語のテストで、作者はこの時何を考えていたかなどと問われる。「この一行」でいくら原稿料がもらえるか、まあ、「そんなとこだぜ」というのは谷川俊太郎さんです。印税がどれくらいはいるかなどというのがオチ(あるいはケチ)ですね、と当の作家が言うんだからまちがいないようですね。ぼくの駄文も試験問題に出たことがあります。中学入試だったか。ぼくには正解がわからなかった。原稿料はスズメの涙?見たことないが、まず「溜まらないほど」でしょうね。「どうしてこう考えたの」って聞かれても、記憶になんかありゃしませんよ。

 先生!試験問題はよく考えて出してください。よーく考えて。「誤差」(書き手と読み手のとらえ方の違い)はかならず残ってしまう。なのに「正解は一つだけ」となぜ言えるんだかね、先生さん。百点満点というのは荒唐無稽ですよ。接近値(接線値)という度合いがいいんじゃないですか。いい線とか、まあそうだろな、ちょっとちがうような、とか。

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世に従へば、身、苦し

 「すべて、世の中のありにくく、わが身と栖との、はかなく、あだなるさま、また、かくのごとし。いはむや、所により、身のほどにしたがひつつ、心を悩ますことは、あげて計(かぞ)ふべからず」

 世の中はおしなべて住みづらいし、この身も住まいもはかなく、むなしい限りだ。まして住むところや、身過ぎの明け暮れにはなにかと心悩ましいことばかりであり、そのような心痛は数えればきりはないほどにある。

平清盛(1180-1239)

 長明が出生以来の変転はいずれも本文中に記されているが、生誕直後の保元・平治の乱(1156、59年)に始まり、安元の大火(1177年」、治承の竜巻(1180年)、福原遷都(1180年)、養和の飢饉(1182-3年)と、この十年ほどの災厄は凄まじいものがあった。いかな人間でもこの天変地異の連続に心穏やかでなくなるどころか、暗澹たる心地がしたでしょう。自分を生んでくれた母の所在も安否も不明であり、たった一人の身内であった父も二十歳前に亡くなっている。父は下賀茂神社の「正禰宜惣官」だった。身寄りのない独り身に長明は深い孤独を託(かこ)っていたか。

下賀茂神社・糺の森(境内の一角にマンションが)

「世に従へば、身、苦し。従はねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心休むべき」

「すべて、あられぬ世を念じすぐしつつ、心をなやませる事、三十余年なり。その間、折り折りのたがひめ、おのづから、みじかき運をさとりぬ。

 すなはち、五十の春をむかへて、家を出で、世を背けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず、何につけてか執をとどめん。

 むなしく大原山の雲にふして、また五かへりの春秋をなん経にける」

 遥かな昔、ぼくたちの想像を絶するような「有為転変」の時とところに生活を重ねた長明の人生苦はいかほどであったろうか。天変地異に慄き、定職らしいものを持たない、身の丈に合わせるほかない見過ぎ世過ぎも心痛の重しにこそなれ、一日として安閑たる時はなかったように見えます。しかし、それはまた僕たちの時代の生活苦であり、苦悩・苦汁の種であることに変わりはないとも言えます。「朝に死に、夕に生まれるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける」

 世の習いに素直であれば、義理や人情に縛られよう。また世の中に背を向けて生きるには、よほど気が張る。あるいは狂気じみてもくるだろう。どこかしかるべき土地でなんなりと仕事をしてわが身がしばらくでも休まる心地を得たいものだ、という気弱な(?)心境になっていた。

 長明は五十を前にして、神職「禰宜」に就こうとしたことがありました。もともとは神官の家の出であったが、後ろ盾はなく、なにかと苦労してきた時でもありました。

 若くして和歌や音楽には才能を示していた長明は後鳥羽上皇の支持を得ていた。「新古今集」を編むための選者に推された(和歌所寄人)こともある。詳細は省くとして、そのころ、鴨河合社(=下賀茂神社境内「糺の森」にあった)の禰宜に席が空き、それを求めて、長明は曽祖父が兄弟同士であった一人の縁者と争ったが、いろいろな誹謗などもあり、後鳥羽院の推薦もむなしく、長明は外れてしまった。後鳥羽院は見かねて、であったと思われますが、別口の神職を用意したが、今度は彼がこれを断った。

後鳥羽院(1180-1239)

 この三十年、生きにくい世の中を渡りながら、いつも苦心惨憺してきたが、五十になって街中の家を出て、世の中に背中を向けることにした。妻子もいないので縛られるものは何もない。無職の身であれば、なにに執心することがあろう。この時代、官位も高くなく、後ろ盾もない独り身には、生きるによしなしで、まるで背伸びをして(あるいは強がって)生きている風情がします。 

 世上言われるように、長明は「無常」を感じ、「超俗」に走る人ではなかったというのが本当らしい。世をはかなんで出家し、山中深くに住まいするという「風狂」の影は彼には見えない。大原というのは都(宮処)の北部ですが、御所からは指呼の距離、おそらく都の街区を彼はいつも見つめ続けていたにちがいありません。今に見ておれ…。

 機を見て敏であったとはいえませんが、世事に鈍感であったとも思えない。「世を背(そむ)けり」とはいうが、声がかかれば一目散に駆け降りる心算はあったように思われます。いつのころか、彼は鎌倉まで実朝に会いに出かけています。長明没の三年後に実朝は暗殺されますが、京・鎌倉は長明にとっては生きる縁となっていたはずです。修羅場の人といえば、いいすぎでしょうか。

大原三山遠望

「むなしく大原山の雲にふして、また五かへりの春秋をなん経にける」心ならずも大原山の雲の下に住み、すでに五年も過ごしてしまった。(この「大原」の所在については異論もあるが、今は京の北部、三千院(天台宗派)のある地とする。貴顕紳士の別宅や別荘があった)当時にあって、この地は一つの「世間」であったし、長明が選んだ理由は明らかではありませんけれども、人跡未踏の地ではないという条件を彼は維持したにちがいないのです。

勝持寺の桜

 (蛇足 「大原」にはもう一つの候補地があります。北山に対して西山、「大原野」といわれています。嵐山の南西方にあり、そこには勝持寺(別名「花の寺」)がある。ここは西行ゆかりの寺でもあります。「春風の花を散らすとみる夢はさめても胸のさわぐなりけり」(西行)「西行桜」がありました。今はどうですか。寺の西方は長岡(京)であり、南には桂離宮があります。姉二人がそれぞれの地に居住しています。ぼくは中学生のころ、長岡の姉に会うためにしばしば大原野を通ったことを思い出します。さらに近くには在原業平の墓所とされる地もあります。業平ゆかりの十輪寺も健在です。はたして長明はこの地に住んだか。隠棲には似合わない風景ですがね。北山大原より、ぼくの好みは西山大原野です。)

 大原の「雲間」にいた五年の間、彼は何をしていたのか。歌を詠むことは続けていました。「新古今集」の成立はこの時期(1205年)で、神職任官事件の一年前です。彼の歌は十首が採用されています。世間とは没交渉ではなかったといえるでしょう。あちらこちらを、長明は足しげくといっていいほどに渉猟しているのです。いったい何を求めてだったか。

「すべて、世の中のありにくく…」「世に従へば、身、苦し…」「すべて、あられぬ世を念じ…」

 まるで世の中を呪わんばかりの、この苦衷や苦悩の漂白は長明のどこから生まれ、何に由来するのでしょうか。「家を出て、世を背(そむ)けり」というのは、彼の偽りない心情の吐露であった。すすんで家を出たのではなく、だから世を捨てたのではなかったのです。「世が世ならば」という見果てぬ夢物語は、五十(耳順)前の夜ごとの習いになっていたとぼくには思われてきます。

唐木さん

 彼は「世を捨てた人」ではなく、「世が捨てた人」だったとも言えます。

 ― ちょっと休憩です。ここまできて、若いころに耽読した唐木順三さん(1904-1980)の『無用者の系譜』を思い出しました。(一瞬の間に、二十歳時代に引き戻されました。唐木さんが本郷「赤門」のそばで立小便していたのを目撃したことがある。少し呑んでいる風でしたが。「良寛」や「一休」の著者が…と驚いたね、驚くに値しないか。(無駄話了)どうして「唐木」と分かったか。当時ぼくは彼に入れあげていたので、「尊顔」は知っていました。半世紀以上も昔のつまらぬ出来事)

 世に受け入れられない怨みに悶えた末の大原入りだったといえるのではないか。

 門閥も誇れず、位階も貧しい、それならば、と「歌詠み」に一縷(る)の望みをかけたが、ここでも門閥制度が侵入を禁じた。音楽の世界にも一門の壁が厚く、長明の住める世界ではなくなっていたのです。あらゆるところで幅を利かせていたのが門閥(家柄)、位階であった。それらは一連の門外漢封じの「注連縄(しめなわ)」だったといいたい。諭吉に倣って「門閥制度は親の仇でござる」といえばいえたのです。

 「たまゆらも心休むべき」土地を探し求めていた時期でした。彼は足しげく住処にふさわしそうな土地を求めて逍遥、あるいは跋扈したにちがいありません。もちろん、今日のように不動産屋さんはなかった。これは「駅近物件」ですなどと紹介してくれる人もいない時代でした。「大原」が北であれ西であれ、「たましきの都」に半日もかからずに帰れる距離にあったことを思えば、よほど長明は都を離れたくなかったはずだといえます。

 (「たまゆら」はアニメにあらず。「玉響」と書き、勾玉の擦れ合う間、一瞬を意味する)「たまゆら」が存外長期になるのも世の常です。(「無常」、それは長明には似合わない)

自分の弱さをかくさない

 宮本常一(1907-1981)というひとに再登場してもらいます。家業は旅籠屋でした。お遍路さんたちがよく泊まりに来ていたそうです。民俗学者。山口県周防大島生まれ。大島は瀬戸内でもっとも大きな島。この島人の遍歴にも騙るべき多くが残されていますが、いずれの日にか。胸を病み、遅れての天王寺師範卒。日本各地を歩きとおした人で、それはまるでものに取り憑かれたような歩き方、聞き方でした。村に生きる人々の姿を温かく描いた民俗誌を数多く残す。著「忘れられた日本人」「家郷の訓」など。『宮本常一著作集 全50巻』(未来社刊)が残された。

 宮本さんは比類ない大きな仕事をされました。ぼくは何十年にもわたって、彼の仕事から学びつづけてきたし、いまなお、読みついでいる。人間の生活―賢・愚とりまぜたものです―それをじつにていねいに調べようとされました。列島が「経済成長」という大きな怪物に併呑されていくさまざまな場面や情景、あるいはその流れに翻弄される常民の生活を委細漏らさず記録するかのように、列島の端から端まで歩きとおされた。

 青春時代の一時期、宮本さんは苦労されながら、師範学校を出られ、短期間でしたが、小学校教員を経験された。その時期の姿を調べたことがあります。低いところから、子どもたちと同じ地平で歩かれようとしている姿がはっきりと認められたとぼくには思われました。

 《ふりかえって見ると、私は決していい教師ではなかった。むしろいたってお粗末で、欠点だらけであった。自分の教壇を立派に守った記憶もないし、子供たちに対しても決して忠実ではなかった。そしてそれは教え子に対してのみではなく、親や妻や子に対しても同様なのである。そういう自分を比較的卑下しなくて考えるようになったのは敗戦のおかげだが、そのまえにいとぐちをつくって下さったのが芦田先生だと思っている。(略)

 自分の持つ人間的な弱さをジッと見つめ批判している先生の一面にふれて、大へん親しみを覚えるようになった。それまで師匠というものはすべて一つの完全な人格として私の眼にはうつっていた。私にない多くのものを持っている人としてうつっていたのである。しかし芦田先生の場合は自分の人間としての弱さをジッと見つめていたばかりでなく、私などにもかくさなかった。劣等児に対しての特別な思いやりもそういう所から来ているものと思うが、御自身としては、そういうものをたえずのりこえられようと努力せられて、生涯をつらぬかれたのであろう》(宮本常一「芦田先生の一面」)

 「優劣のかなた」の大村はまさんもまた、芦田さんに導かれた時期をもっていました。

 《先生はほんとうに個人を見ていらしたと思います。ひとりひとりを見ぬき、どのひとりをも生かそうとされました。今、中学生の指導の大きな問題点の一つは、個人差に応じる指導ではないかと思います。これができなければ、中学校の教室をいきいきとさせることはむずかしいと思います。(略)芦田先生の徹底した個人差の考え方は、私をグループ指導のくふうにうちこませました》

 《また、そのグループ指導についても、グループにすることによって、個人をよりよく指導するためで、いく人かを一つのたばにして扱うのではないという考えや、たとい、はっきりした、いわゆる能力別のグループにした場合でも、指導者が、優にも劣にも、人間として真に同じ尊敬をもっていれば、優越感も劣等感も起こさせるものではないという自信をもたせてくれました》(大村浜「芦田先生に学んだもの」)

 すでに何回か触れた芦田恵之助さん。彼にはたくさんのお弟子たちがおられました。この師弟関係という一面もまた独特の雰囲気を有するものであり、それには別途で語られる多くの物語がありそうです。

 《高師の附属にいたころの話を少し申してみます。わたしは複式の学級をもっておりましたが、どんなに骨折ってみても子供が作文をかかんです。これほど骨折っても書かんなら、お前ら書きたいことを勝手にかけ―こう突っ放しました。すると、五、六年の学級が一心に書き出しました。実におもしろい文がたくさんできました。題を与えても、系統立てて、すっかりお膳立てして書かせようと努力した時には到底得られなかったようないきいきした子供の生活を書いた文が生まれました。わたしはこれに打たれました。子供の作文は結局この方法だと思いました》

 《爾来わたしの綴方の時間は、おまえさんたちが自分で題をきめて、書きたいと思うことを、好きなように書け―そういうやりかたをして二年目の冬の高等師範の附属の講習会に随意選題の綴方教育というように発表をいたしました。すると芦田は外国の自由思想をとり入れて自由作文をはじめたといわれました。この随意選題は当時はなかなか非難もされましたし、批判も受けました。広島の附属にいた友納友次郎君は系統主義による綴方を標榜しておりましたので、友納君には一番咬みつかれたのですが、彼は彼の信ずるところを主張し、我はわが是(ぜ)なりと信ずるところを行ずるのみであります。わたしはこの綴方の随意選題一本で今日までずうっと貫いて参りました》

 *芦田恵之助(1873-1951)]国語教育家・教師。兵庫生まれ。国語科の読み方教育と綴り方教育に独自の理論を展開。著「綴り方教授」「読み方教授」。(大辞泉)『芦田惠之助国語教育全集』(全25巻、明治図書出版, 1987年)

 「高師」とは東京高等師範学校(現在の筑波大学)。「随意選題」は字のとおり、子どもが自分でなにを書くかを自分で選ぶという意味です。それが後の「生活綴方」につながっていく。

 大切な仕事をしたひとですから、功罪が半ば(毀誉褒貶)するのは当然だろうと思います。どんなひとについてもそうですが、彼や彼女はすばらしい仕事をしたのだから、「それをていねいに学びなさい」というまではいい。でもその学び方はむずかしいですね。その仕事を真似ることはできても、表面だけのことです。そのひとがみずからの方法を発見したように、自分もまた自分の方法を発見することがあるのだということを教えられる(考えさせられる)のではないでしょうか。他者から学ぶというのはそういうことです。(芦田さんは牧口常三郎氏とも近しい間柄だった。芦田さんも「教祖」と称されたような人です)

責任を折半しながら

 忘れた青さ

 …私は、すぐれた教育技術者によって人間が作られてゆくという発想から遠く離れて教育を考えている。よき対話者としての父もなければ、鑑とするだけの教師ともめぐりあわなかった。

 それと言うのも、私の父が地方の警察の刑事であって、同じ県の中を始終転勤してまわっていたことと無縁ではない。私は、一年ごとに転校し、いつも先生になじまないうちにその地を去っていった。父はアルコール中毒寸前で、酒が切れるとよく母をぶった。だから私は、彼らを人生の「教師」として私の中で人格化するためには、想像力のたすけを借りなければならなかった。私は、いつでもいらだっている自分と、そんな私を管理し自律しているもう一人の自分とのあいだで、引裂かれていた。ウラジミール・マヤコフスキーの詩に

中山競馬場

  空は

  けむりの中で青さを忘れ

  ……

というのがあるが、私自身もまた外界の「けむり」によって、むしろ自失することがあっても、自分を強化することはなかった。

 戦後復活した「道徳教育」の押しつけがましい我慢の強要、スパルタ式体育教師のリビドーに奉仕するような長距離ランニング、そして教師たちの買った「馬券」のために、丸暗記して点数をかせがされるクラス別対抗のアチーブメント・レース。書きたくないときに書かされる作文という名の心境レポート、そして民主主義という名で、自分の存在さえも相対化され平均化されてゆく集団生活。―少なくとも、与えられた教育の中で私は「忘れた青さ」を、べつの場所で取りもどさなければ、窒息してしまいそうなのであった。

ウラジーミル・マヤコフスキー(1893-1930)

 私は、マヤコフスキーの「ぼくは心のための男さ」という句を反芻し、学校の外に「学校」をさがし、挙句に大学一年で中退し、それに代わるものを居酒屋、野球場、ダンスホールなどに求めるようになった。教養主義はメガネと運動不足しかもたらさないからおまえはじぶんで、思想を生成するために市街にかかわってゆかねばならない、と私にいってきかせてくれたのは、私自身の本能である。一冊の岩波文庫を読むように、一人のホステスの身の上話を「読む」ことは、自分を生徒にするだけでなく、教師にもしてくれる。自分は自分自身の師であると共に、名もない行きずりの酔客の師になっているかも知れないし、その師弟の相互関係は限りなく交錯し、幾何学的に社会を構成しているのである。

 私は、一度も「ほんとうの」教育者像を考えてみたことはない。しかし、私が今まで私自身と責任を折半しながら自分を教育してきたものなら、それは限りなく挙げることができる。のらくろ上等兵。アルチュール・ランボー。坂本キエおばさん。大列車強盗ジェーシー・ジェイムズ。中西太。セッちゃん。小川医師。石童丸。映写技師阿保さん。谷川俊太郎さん。予想屋の政。古川益雄氏。オスワルト・シュペングラー。その他大勢。(寺山修司「私自身 市井の万事が教師」)

(*てらやま‐しゅうじ【寺山修司】歌人・劇作家。青森県生れ。早大中退。前衛芸術家として短歌・演劇・映画など多方面で活躍。劇団「天井桟敷」を主宰。詩文集「われに五月を」、歌集「空には本」など。(1935~1983)(広辞苑 第五版)

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教師は教えなかった、だから…

〔ある時期、ある場所の「教師vs生徒」〕

 わたしは、ひとはひとに影響を与えることも影響をうけることもできない、という太宰治の言葉が好きだ。この言葉はひとはひとに教えることもひとから教えられることもできない、ということをも意味している。遠山さんはわたしに教えたのではなかった。だからわたしは教えられたのだ。遠山さんはわたしに教えた。だからわたしはそのことを教えられなかった。多くの学生たちのあいだには教授はただ敬遠すべき偽善者たちであり、大学は諸悪の根源であり、ただ通過すればいいと考えている怠惰でひねこびた箸にも棒にもかからない暗鬱な存在がきっといる。かれらに取柄があるとすれば、ただ無垢で無償でありたいという願望だけだ。わたしはそんな学生の一人であった。遠山さんの教育理念と情熱をもってしても、このような存在は落ちこぼれるほかないにちがいない。だがわたしの信じているところではこのような存在の地平を解明するところに膨大な未知数の課題が開かれているはずであった。(吉本隆明「遠山啓」『追悼私記』・ちくま文庫所収)

 遠山啓さん(1909~1979)は熊本生まれ。東京工業大学の教授を務められ、同時に算数・数学教育にも情熱を傾けられました。数学計算における「水道方式」を提唱。雑誌『ひと』創刊。さらには広く教育全般に対して発言をつづけられた。一方、吉本さんは東京工大卒の詩人・評論家。この「遠山啓」は追悼文として79年に書かれた。

 敗戦直後、西日が落ちかかった東工大の階段教室で遠山さんは「量子論の数学的基礎」という講義をされていた。その講義に参加したときの情景を、後年いくども思うかべたと吉本さんは書かれています。粗末な詰め襟の国民服姿での「量子化された物質粒子の挙動を描写するために必要な数学的な背景と概念をはっきりと与えようとする」講義だった。

遠山啓さん

 ことの発端は、敗戦直後に工場動員から帰ってきた学生たちの数人が「なんでもいいから講義してくれという。ぼくたちは大学にはいったが、工場動員の連続で、ロクな教育を受けていない、だから、講義というものに飢えているのだ」ということからだった。「率直にいうと、長い教師生活のなかで、そのときほど熱をこめて講義したことはなかったような気がする。講義をきくほうも、するほうもなにかに利用しようという目的もなく、まったく無償の行為だったからであろう」(遠山啓「卒業証書のない大学」)

 「教える―教えられる」ということ

 「遠山さんはわたしに教えたのではなかった。だからわたしは教えられたのだ。遠山さんはわたしに教えた。だからわたしはそのことを教えられなかった。」

 吉本さんのこの指摘こそ、願わしい「教育」というものが内包しているはずの真髄を言いあてているとぼくは直観しました。これをべつの言い方になおせば、「先生が教えたから、わたしは学ばなかった。先生が教えなかったから、私は学んだ」と。これを学べ、という強要から、なにが生まれるのか「千六百年に関ヶ原の戦があった」と教えられるが、それでなにを学んだことになるのか。

 さらに、吉本さんはつづけられます。

 「物心ついてから、がさつな生活と戦争と敗戦の荒廃しかしらず、およそ教養の匂いなどひとかけらももっていないわたしには、この講義がつくりあげている稀にみる稠密(ちゅうみつ)な潜熱のような雰囲気が貴重なもののように思われた」(同上)

二人静か
一人静か

 なんだってそうですが、他者といっしょになにかをなしとげるのであって、授業も教室にいる全員が協力して作り出すものではないですか。教室(にかぎらない〉で教師は独り相撲を取る場合がきわめて多い。教室を土俵に見立てると、そこにいるのは教師ばかりという殺風景な場面が浮かびます。「一人(教師)静か」や「二人(教師・生徒)静か」はいただけない。それは花の名であり酒の銘柄にもありますから、そちらに譲り、互いが一瞬の「無償の行為」に浸りきるという、そんな経験をしたことがある人は、それだけで幸せだったろうと羨ましくなるのです。「優劣の彼方」で行われる「無償の行為」というものかもしれません。(「稠密な潜熱」の土俵上)(吉本さんの続きです)

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教育とは〈予想する〉…

 以下は、むのたけじ(1915~2016)という新聞人が実際に学校で経験した話です。

《…ぼくの旧制中学時代(現在秋田県立横手高校にぼくは昭和二年四月から同七年三月まで在学した)のことを思いだしたので、書いてみよう。当時は上級生の下級生に対する鉄拳制裁が「質実剛健の校風助長に役立つ」としてなかば公認されていた。最上級の五年生は週一回か二回、下級生全員を雨天体操場に集め、かねて生意気だと目星をつけていた下級生をみんなの前でなぐったり蹴ったりした。あまり行きすぎないように監督するため、教師が当番制で体操場にはいってきたが、集団心理でいたけだかになっている最上級生たちは声をそろえて教師のアダナを連呼し「帰れ、帰れ」と怒鳴った。それで姿を消す教師もいたが、じっと立ちつくしている教師もいた。

 その教師は、近ごろ見る写真ではずいぶん肥えて良いかっぷくをしているが、当時は全くやせ細っていて声も弱々しかったので「ヨガ(夜蛾)」とアダナされていた。だから、その教師が制裁の場へはいってくると、悪童達は「いまは昼だ、ヨガの出る幕じゃない、時間をまちがえるな、帰れ、帰れ」と怒鳴った。教師にとってそれは堪えがたい屈辱であったろうが、その教師は体操場の一隅に立ち続けて情景をみつめていた。石のようにだまりこくったポーズは、岩のようにきびしかった。そのとき、教師と生徒達の間には火花の散る決闘に似た何かが流れたのをぼくは思い出す。(左写真は石坂洋次郎さん・1900-1986)

 その教師、石坂洋次郎さんがその後たくさんの青春小説を書くことができた源泉は、あの<踏みこんだきびしさ>の中でつちかわれたものかどうか、ぼくにはわからないが、けれども、ぼくら当時の悪童連の側ではいまでも同級会を催すと、ご本人不在のところでヨガ、ヨガとよんで敬愛の話題はつきない。ぼく個人についていえば、石坂文学に心ひかれることは少ないが、国語と作文と倫理の授業を担当した「すばらしい教師・石坂洋次郎」に対する尊敬と感謝は、あれから三五年すぎた現在もかわらない。(「高校生への手紙」・65/05)

 もう一つ。敗戦直前(1945/8)の一コマです。ここにも教育・教育者というものを考える上で大切なヒントがあるように思う。

 《ヒロシマに原爆のおとされる約一週間前、私は月島方面にあった東京府立商業学校(現在の都立第三商業高校、昭和三年設立)へ講演に行った。その学校から新聞社へ「戦意高揚の講演に記者を派遣してほしい」という申し込みがあって、当時極度に少人数となっていた社会部員の中から偶然私が指名されたのであった。そのとき何を話したかをあらましおぼえている。私は、東南アジア先々への従軍体験をもとに、アジア諸民族の独立を求めてやまぬ課題は情勢がどうなろうと生きつづけると述べ、だからわれわれ日本人はたたかい抜かねばならないと説いた。日本が勝とは考えなかったが、負けることを望んでもいなかった私がそのときに若者たちに語ったことは、明白に「戦意高揚」の言葉であった》

 むのさんは中学を卒業して奉公に出ることになっていた。家計の余裕がなかったからです。「成績が優秀なんだから、上の学校に出してやれ」という篤志家の援助で東京の学校に入ることになった。(現在の)東京外国語大学卒業後に新聞記者になります。このエピソードは別の新聞社に就職していたときのことでした。

《ところが玄関まで見送ってきた校長は、質問するようでもあれば独語するようでもある口調で、「いよいよ民主主義の時代ですなあ。民主主義はこの国でどのように展開されるでしょうねえ」と行った。私はギョッとした。私は何も言わずに校長の顔を見た。ああ、じれったい、その名前が思い出せない。背の低い私の顔とほぼ同じ高さにあったその人の顔は微笑もせず緊張もしていなかった。五十を一つか二つこしたと思われるその人は、頭髪がうすく、顔のつくりは平凡で、当時だれもが着た国民服ではなく背広を着て、ネズミ色のネクタイをしめていた。その人から受けたショックは二十年たったいまもなまなましいのに、どうして名前を忘れてしまったのだろう……》

 初めて会った一人の校長の言葉は、むのさんに大きなナゾを投げかけたようです。

 《ともあれ、戦時中に私が「民主主義」という単語を日本人の口から聞いたのはそれがはじめてで、それきりであったのだが、その約二週間後――私は敗戦の日の日付で勤務先に辞表を出してもう野人生活をはじめていたが、浦和市本太の麦畑の中にあったわが家へ、あの商業学校の小使さんが現在(今からほぼ55年前)なら二万円に相当する金額のはいった角封筒を持ってたずねてきた。そして「これは講演の謝礼です。……その記者(むのさん)は朝日新聞社にはとどまっていないだろう、きっとやめているだろう、と校長先生が言ってました」と言った。

 一人の教育者が初対面の俄か弁士にむかって「民主主義」を言うことができたのは、なぜであったか。なぜ私の退社を、当の私でさえ辞表を書く日までそんなことになるとは思ってもいなかったのに、彼は推断できたのか。本人から説明を聞ける機会を持たずに経過してしまったが、彼の側の説明がどうあれ、この出来事から〈教育とは、予想することだ〉という実感を私は抱いた。(「教師たちに問う」・1965/05)

 ぼくはあるとき、たまたま大きな集会(二千人くらい)で雑談をする機会を与えられた(それは、ある年の「入学式」においてでした)。ほとんどが若い人たちだったので、むのさんのエピソードを急いで騙りました。集会が終わった直後に、一人の青年(新入生)がぼくのところに来て「おばあちゃんがむのさんの友達で、いつもむのさんの話を聞いていた。こんな場所でむのさんのことを聞くとは思ってもいなかったので感激した。早速おばあちゃんに伝えます」という。彼は秋田から上京したばかりでした。いかにもむのさんらしいなあ、いまも元気なんだと感じ入ったことがありました。その二年後だったか、むのさんは亡くなられました。

◎ むのたけじむのたけじ( 1915~2016)ジャーナリスト= 「戦争絶滅」を訴え続けた、ジャーナリスト・むのたけじ(本名・武野武治)。21歳で報道の世界に入り、101歳で亡くなるまで、日本の戦前戦後を鋭く見続けた。むのは大正4年(1915年)秋田県の小作農民の家に生まれる。働いても働いても、貧困から抜け出せない―貧富の絶対的格差の中で働く両親を目の当たりにして育ち、「社会の仕組みを変える」と決意する。東京外国語学校(現・東京外大)へ入学、報知新聞を経て昭和15年朝日新聞社に入社。戦争へと突き進む政治の裏側を取材。その後、従軍記者として中国・東南アジアの戦場を目の当たりにする。直ぐに終わると言われた戦争は泥沼の一途を辿る。拍車をかけたのは、‘国益に反することは書かない’と新聞社自らが課した‘自主規制’による報道の「嘘」だった。記者でありながら真実を書くことが出来なかった悔恨から、むのは昭和20年、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」と終戦の日に退社。(↷)

 「ジャーナリストは何が出来たのか」。そして、「どうすれば人間が幸せに暮らせる社会が出来るのか」。二つの命題を胸に、故郷の秋田に戻り週刊新聞「たいまつ」を創刊する。読者とともに作る新聞を目指し、常に生活者の視点から日本そして世界の姿を見つめ、鋭く深い思索に裏打ちされた言葉を紡ぎ出してきた。そこには「日本は地域から生まれ変わる必要がある」という強い思いが根ざしていた。90歳を迎えてからは、憲法9条の大切さを精力的に訴えて講演活動を重ね、反戦を訴える若者たちを応援、子供たちに向けた本を記した。「ジャーナリズムとは、歴史の日記。過去に何があって現在に至っているのか。何をやって、何をやらなかったのか。人間の歩みを伝えるのが、私たち古い世代の仕事なのだ」。『平和を手渡す』という強い決意を胸に、ジャーナリストとして生きぬいた。(NHK・アーカイブス)(https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250497_00000

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