船上のカジノカーニバルだ

 世界最大のクルーズ客船の運営会社「カーニバル・コーポレーション」が、バハマ海にプラスチックごみなどを不法投棄していたことを認めた。同社傘下の「プリンセス・クルーズ」は不法投棄や環境破壊に対する罰金として、2000万ドルを支払うことに合意した。

 米国のパトリシア・セイツ裁判官はカーニバル・コーポレーションが長年に渡り、ごみを海に不法投棄していたことに関し、強い憤りを表明した。同社は残飯やプラスチックごみをバハマ海に捨てており、観光保護団体や顧客らは罰金の額が少なすぎると不満を述べている。

 2000万ドルという額はカーニバル・コーポレーションの2018年の売上、188億ドル(約2兆円)のわずか0.1%程度の金額だ。同社は排出するごみの量を正確に計測しておらず、乗務員らに査察を受けた際に備え、虚偽の報告書を提出させていた罪にも問われた。

 カーニバル・コーポレーションと傘下の企業らは、プラスチックだけでなく石油も含む様々なごみを長年、海に不法投棄してきた。2017年にカーニバル傘下のプリンセス・クルーズは豪華客船「カリビアン・プリンセス」から、石油を不法投棄し国際的な隠蔽工作を行ったとして有罪判決を受けていた。

 その際の罰金4000万ドルも、カーニバル・コーポレーションが2017年に生み出した売上、175億ドルの0.2%程度でしかなかった。

 今回の裁判所の決定により、カーニバルは新たな査察の受け入れを要求され、環境面でのコンプライアンスの遵守や、使い捨てプラスチックの使用量の削減を求められる。この条件を破った場合、1日あたり100万ドルから1000万ドルの追加の罰金が科されることになる。

横浜山下埠頭(カジノはまだ)

 セイツ裁判官はもしも同社が今後も態度を改めない場合は、カーニバルのクルーズ船を米国の港から締め出すと宣告した。

 当社は今後、環境保護に全力を尽くし、我々が暮らし、働き、旅をする海の環境を守っていくことを誓う」とカーニバルの代表者はメディアの取材に応えた。( Forbes Japan 2019/6/15)

 この企業はロンドンとマイアミに二つの本社を置き、日本支社(カーニバル・ジャパン)は銀座にあります。邦人が支社の社長を務めておられます。会社(カーニバル・PLC)全体では102隻所有しています。コロナウイルス問題がこの島で初めて報道された時から、クルーズ船は「カジノ」船であると伝えたところがなかった。ぼくの目が節穴だったのか、あるいはそんなことは先刻周知の事実なんだというのかしら。横浜はIRの有力な候補地だそうです。また、この会社の船は毎年のように「ノロウイルス」のを発症者を数百人単位で生み出すことで名をはせていたとも。経営者の一人は現米国大統領の「刎頚之友」だといわれます。

 そんなことはどうでもいいことで、2月3日だかにこの船が横浜についてからの不思議な漂流はぼくには理解できませんでした。乗客・乗員を下船させて、即検査しなかったのはどうしてかと詮索していたところでした。いろいろな事柄には背景がありすぎますね。知らなければ、それで万端、問題なしということで歴史は進んでいくのでしょう。その歴史もまた、資料・文書の改ざんや修正が平然とおこなわれるのですから、正史とは「事実歪曲」史だと言いたいね。それは野史や稗(はい)史と少しも変わらない。最近は、外国の新聞も危ない、危うい。新聞は旧聞に如かず。

 ダイヤモンド・プリンセス号は2004年、長崎の三菱造船所で建造。総トン数は115875頓。乗客2706人、乗員1100人。

 《日本で生まれた豪華客船で、日本から発着するのだけど運行しているのが外国の船会社であるダイア(ママ)モンド・プリンセスでは、外国籍という理由から日本の領海をでればお金を賭けた本格的なカジノで遊ぶことが可能です。日本を出ると外国と同じといった理由からカジノをしても大丈夫になるので、カジノクルーズで世界各地を巡りたいのならダイアモンド・プリンセスを選ぶとよいのではないでしょうか。》(CASIPEDIA HP)

 コロナも政争の具かね

 このところ、たてつづけにソーリが記者会見なるものを開いている。開いたと思ったら、直後に萎んだ。プロンプターなるいかがわしいものをチラ見しながらの口パク。ぼくはこの御仁が「自分のことば」で物事をまじめに語ったのを見たことはもちろん、聞いたこともない。すべてが他人の作文。この七年間の長期にわたって、「傀儡(かいらい)」だったとは、いかにも空虚だという証明であります。だれの傀儡?「特定の官僚」ですよ。この仁にかぎらず、「大臣」などという絶滅種もおしなべて「作文」を読む(読もうとする)のが商売らしい。その作文が読めないのだからと、仮名をふってあるのに、冗談じゃなく、その仮名さえも読めない「大臣」が続出している。笑っている場合か。

「本日背信」(2月29日)
「総理改憲」(3月14日)

 この手合いたちは、「権力欲」だけは人後に落ちないと自他に誇るのだから始末に悪い。現下の「コロナ惨状」の状況にあって、永田町に政変が生じたという。だれの情報でもなく、だれかの発言でもなく、この数年のシンゾーのやることなすことを少しでも見た人なら、きっと思うでしょう。「なんでこいつを辞めさせないんだ」と。今回の政変は「ぼや」で終わったかのようですが、火種は内閣のうちにも外にも残り続けている。政治家嫌悪のぼくでさえ、かならず内乱(内輪もめ)が起こるに違いないと、いまや遅しと構えてはいないが、想定していました。シナリオはいくつもあります。だからばかばかしくて騙らない。だれもが手をあげられるのがデモクラシー。でも暗しだね、「ええっ、お前」がというのが手を挙げていますから。学芸会?珍芸会?

 自分をもたない人間はかならずだれかに抱きつく。米国のヤクザプレジデントにくっつき「トランペット」などど揶揄されています。「国を売る」輩という語もあります。民を売るという商売もある。法律を勝手に変えて、自己保身を図ろうとする政道もあるという。ぼくにはまったく理解できませんが、あるポストについたら、辞めたくないという情念が募って「辞められない」ようになります。内容浅薄じゃなく、内容空無な人間がどうしてここまで位人臣を究めたのか。理由はじつに簡単です。彼がそこにいてくれるほうが自己の利益に申し分がないからです。「無能で権力欲のみ人間」は一種のコマです。単純コマ。このコマには金も地位もついていますから。鴨葱ではなく、地金ずるなんですね。コマッタモンダ。 

 権力は腐る、きっと腐ると、外国の賢者が言いました。はなから腐ったやつが権力を握ったとたんに権力も一瞬で腐る。腐臭をかぎつけてハイエナが蝟集してくる。(註 「食肉目ハイエナ科ハイエナ亜科の哺乳類の総称。体長80~160センチ。体形hオオカミに似るが、吻 (ふん) が太く、腰部が低い。分類上はジャコウネコに近く、肛門 (こうもん) 付近に臭腺をもつ。歯やあごが丈夫で、死肉を骨ごとむさぼり食う。夜行性。灰色に黒い縞模様のあるシマハイエナ、黒い斑点のあるブチハイエナなど。主にアフリカに分布。たてがみいぬ」(デジタル大辞泉)

(パリ)
(イタリア)

 オリンピック中止はぼくの中では早くから(四年前から)決定していました。いまだに「開催する」と口先ばかりで、コロナ対策のでたらめに油を注いだ格好です。ある国で一日800人からの死者が出ている、その横で「スポーツの祭典」もあるものか。不真面目極まりますね。原発事故の後始末には一向に手がつかない、汚染水は垂れ流しです。ここでも不実の沙汰なんだ。さる地位にあるものがつく嘘は、太郎や花子という庶民派の嘘とは意味合いがちがう。ケタチガイにちがう。以前もどこかで言いましたが、一日も早く辞める、それができなければ、徒党を組んで引きずりおろす。早ければ早いほど、それは社会貢献(湛山氏は「社会奉仕」といった、山縣有朋の死に際して)もちろん、一人御仁だけではない、官僚も含めて、掃除(除染)か。

 問答無用は論外と知るべし

 《授業での問答の時には、教師がよく知っていること、答えをしっかり胸に持っていること、それを子どもに聞くということが、ほとんどだと思います。鑑賞などで危ない時はあるようですが。教師はよく「ほかに」「ほかに」と言いますが、その教師自身は、ほかに何を考えているのかしらと思うことがよくあります。

 こういう場合は、教師自身に発言してもらったほうがよほどよい、と思うことがあります。「ほかに」「ほかに」と、よほど子どもに期待しているのかな、思うときもあります。私はもっと教師がほんとうに聞きたいこと、聞かないと困ること、それを子どもに聞く機会をもたないと、ほんとうの問答の力がつかないし、問答の必要感もでてこないと思います。自分がよく知っていることを相手に聞くということは、普通の生活では無礼なことですから、しません。ですから、ほんとうに聞こうという、そこなのです。それは、教師が何も知らなくて、分からなくて聞いているということとは、まったく別なことです》(大村はま『日本の教師に伝えたいこと』筑摩書房刊。1995年)

夜間中学「こんばんは」2003年/日本/16mm/カラー/92分

 必要に迫られた場面でなければ、たしかな「問答」(ダイアローグ)というものはなりたたないといわれる。「生きた人間が生きた人間に聞いて、生きた人間が生きたことばを使って答える、そういうことでしょう、問答というのは」ともいわれます。

 「何と読みますか」 「そう、よろしい」

  これは問答なのか。聞かないよりはましだろうが、それでなにが行われたのか。答え合わせをする、検査する、確かめる、そのために聞く、そんな問答まがいが世に氾濫しているというのが大村さんの慨嘆でした。

 ところが学校には、よくひとつの学校型の優等生がいて、教師が何か聞いたら、とにかく返事をするのがいいんだと思い込んでいます。何はともあれ、なんでもいいから、とにかく早く答えたほうがいいんだ。いや、そうしなければいけない、というふうに考えているようです。そういう子がぱっと手を挙げて感想を言います。そうすると、教師 はそれを聞いて、「ほかに」 とか言って、(私はこの「ほかに」ということばが大嫌いです。だれかが答えた答えのほかにと言って、さっき答えた人はちっともねぎらわれないことが多いのです)「ほかに」「ほかに」とやっているうちに、とにかく答えることがいいんだ、考えることよりも答えることが大事だと心得る、そんなふうにならされていくわけです。

 答えられたときだけ褒められて、黙っているとよくない。子どもは教師に喜んで欲しい。これはもう当然のことですから、何か言おうとします。私は、これはこわいことではないかと思います。ほんとうに自分の気持ちが表せることばでなくとも、とにかく適当に言えるというのは、こわいことではないでしょうか。

 「ほんとうに言おうと思っていないことでも、適当に人に言えるということは、とても寂しいことのような気がします」(同上)

 大村さんは「問答本来のもの」といわれました。本来の問答、それは対話ということを指すでしょう。対話というのは、文字どおりに一対一の話し合い。

  「聞き手のいない一対一の世界」、これこそが対話の生まれる場だというのです。

 教室にはたくさんの子どもたちがいる。だれかひとりに質問して答えさせるのは、いかにも一対一の対話のようにみえる。しかし、多くの子どもたちがそれを聞いているだけなのだから、よく言えば問答ではあろうけれども、対話ではないのです。大村さんの言われることはまことにその通りで、いかにも誰もができそうに思いがち。ところがどっこい、そんなにかんたんにいきますかいな。「教えよう」「教えられたい」、そんな甘えた姿勢が教室をいじけたものにし、愉快でないものにしているんですね。話す―聞く、これを破り、これを越えたところから対話の手がかりが顔を見せるのです。「おしゃべり病」の教師と「聞き耳病」の生徒のなれ合いをすっぱりと断捨離することです。

 この問題は教室の中だけでは終わらない。家庭や企業など、少なくとも人が人に話しかけることからしか何事も始まらない「社会」においては必須の課題となっているのです。

 ナント・ホクレイ?

 歎異先師口伝之信

鴨川から遠望する比叡山。

 竊(ひそか)に愚案をめぐらして粗(ほぼ)古今を勘(かんが)うるに、先師の口伝(くでん)の真信に異ることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、幸に有縁の知識によらずんば、争(いささ)か易行(いぎょう)の一門に入ることを得んや。全く自見の覚語を以て他力の宗旨を乱ることなかれ。よて故親鸞聖人の御物語の趣、耳底に留むるところ、いささかこれを注(しる)す。偏(ひとえ)に同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々。

「歎異」とあります。

 歎異抄については、何かと異説があります。まず著者はだれか。明治以降では「唯円」というのが定説らしいのですが、その唯円が何者であるかが判然としません。東国地方の親鸞の同士であるらしいというばかりです。いくつかの異説の一は、如信説。親鸞の実子善鸞の子とされます。(後年、善鸞は親鸞に背いたという理由で、義絶)つまり親鸞の孫が書き残したものとされるのです。その二は覚如説。親鸞の末娘の長男の子、つまりは親鸞の祖孫です。

 ぼくは詮索は好みませんし、その能力もありません。さいわいに定説でもありますので、唯円作『歎異抄』ということで愚論を続けます。

 唯円は常陸(茨城)の人とされます。親鸞は師の法然とともに「承元の法難(1204、5年)」によって後鳥羽上皇から流罪を命じられ、法然は土佐に、親鸞は越後に幽閉されました。略述すれば、法然のとなえる「専修念仏(南無阿弥陀仏)」を延暦寺や興福寺衆徒が禁止するように朝廷に訴えた事件。これにもいろいろと尾ひれがつくのですが、ここでは省略。

河和田の唯円ゆかりの地。水戸市内。

 流罪の咎が解けた後、親鸞は東国に赴きました。(いったん京都に帰ったという説あり)都における布教が叶わなかったからです。この時期に多くの同行の士が生まれますが、唯円はその一人だというのです。親鸞はその後、京に戻ります。

 (蛇足ながら ここに後鳥羽上皇が出てきます。鴨長明のスポンサーだったことについては別のところで触れています)親鸞が生まれたのは長明の終の棲家になった京都伏見の日野(自動車じゃありません)でした。年代的に重なる時期もあり、二人が出会っていたら、さぞかしと思われたりします。また長明と同時代を生きた貴族・九条兼実(『玉葉』という日記で知られる)の弟は慈円で、九歳のころに親鸞が得度を受けるきっかけを作った僧でした。京都は狭い世界だったし、貴族社会もまた「敵であり仲間である」という政治家そのままの交友関係で縛られていた時代だったといえます。

カメラの位置に拙宅がありました。通称「あたごさん」

(余談ながら 京都の北にそびえる愛宕山(標高924m)、ここに竈(かまど)神が祭られています。ぼくの卒業した中学校では毎年冬季に愛宕登山を課します。(落語に「愛宕山」あり)ぼくは何回のぼったか。この神社に詣でた直後に、本能寺の変を起こしたのが明智光秀。この山のふもとが清滝で、さらに北に向かうと月輪寺があります。九条兼実が隠棲した寺とされます。法然・親鸞が流罪になった時、別れを惜しむために二人はこの寺まで来て、兼実に面会を求めたとされます。騙りきれない逸話がいっぱいで、ぼくの少年時代の渉猟コースでもありました。まるで長明のように、あちこちと彷徨していました)

月輪(つきのわ)寺

 阿弥陀信徒だった唯円たちがはるばる常陸あたりから京の親鸞を訪ねてきた。

 「おのおの十余ヶ国のさかひをこえて、身命をかへりみずしてたづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり」

 ぼくには信仰らしいものは皆無ですから、唯円たちが示す信仰心の苛烈さには理解の行き届かないところがあります。そんな「お前」が親鸞を騙るというのは、我ながらおかしいなあ、という心持がします。極楽に往きたいためではないのは言うまでもありません。たんに『歎異抄』をかじり、親鸞の心情を垣間見たいだけのよこしまな気持ちがこのような破廉恥・無礼をさせているのです。

叡山・延暦寺・根本中堂

 元に戻って、唯円は師の没後三十年ほどもたったころ、「ひそかに一つの考えが生じて来た。師の伝えた教えが古今をみてみると本当の信心とはおよそ異なっているのを歎くようになった。これでは後の世代が学ぶのに迷いが生まれるであろう。ありがたい導きにあって、どうして「やさしい念仏専修」の門に入ることができよう。自説でもって他力本願の宗旨を乱してはならない。

 したがって、師の語るところ、耳に残っているところをここに取り出しておく。ほかでもない、後続同行の士の疑惑を防ごうとするためである。

 「歎異」、つまりは師の教えがいまでは異なって流布されている、それを知って嘆かざるを得ないという唯円の、信心を通して師に回帰しようというこころざしが、著述のきっかけとなっていると読めるでしょう。忘れられない親鸞の言葉を書き残しておこう、その一点が歎異抄の核心であります。

 身命を賭して遠方からここに来たのも「ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり」と親鸞は言う。

「しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文(ほうもん)等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはべらんは、おほきなるあやまりなり」

 「念仏が大事というが、そのほかに法文(教義)なども知っていると、もしや考えておられるなら、それは大きな誤りである」と親鸞は明言するのです。そんなものは南都や北嶺の学者(僧)にきけばいい。親鸞はひたすら「専修念仏」大事と師(法然)に教えられた通りを信じているのだ。念仏を唱えて極楽へ行くやら地獄に落ちるやら、自分はまったく知らない。

「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう」(聖人にだまされて、念仏を唱えて地獄に落ちたって、いささかの後悔もない)

 法然も親鸞も比叡山にのぼって学問をした。当時は延暦寺は国(官)立だったといっていい。もう一方の興福寺も同じ官立系列に属していました。世に「南都北嶺」と称していますが、それは今にいわれる(まことに頼りないが)国立大学、いや官立大学にあたりますね。「講義」だの「講座」「講演」「講堂」と今でも使われることば(符丁)は多くはお寺から来ました。えらい坊さんは教授です。頭を丸めない生臭坊主が各地の大学を占拠している風ですね。いまでは「講義」は「抗議」に、「講座」は「口座」に「講演」は「公園」になっているんじゃないかしら。ぼくの知っている大学の何代目かの総長(山口組じゃない)は「わが大学はディズニーランド」で結構、入場料さへ払ってくれるなら、「どなたでもどうぞ」とほざいていました。坊主丸儲けかね。

 再び蛇足ながら 「承元の法難」というのは、いわば「学問の正当性」の争いのお面をかぶった、信者(門徒)獲得競争でした。いまの大学入試における志願者争いを見れば事情はわかりそうですね。南都も北嶺も、ともに官立大学。一方法然と親鸞は私立の「専修(念仏)学校」ですらなかった。掘っ立て小屋同然のものでした。入試もなければ授業料もなし。入りたければ誰でも結構。「悪人もどうぞ」という具合だったから、官立は怒りました。「シマ」「縄張り」を荒らされるのを放置できなかったから、朝廷(いまなら文科省か内閣か。まさか皇居・宮内省じゃないでしょう)に訴えた。(一説によれば、日本のヤクザの系譜をたどれば、禅寺に至るといいます。「一宿一飯」「仁義を切る」「果し合い」などなど)

 勝負は端(はな)からついていました。国家権力ににより近い勢力が勝つのが今昔の「センス」だった。官位(官職と位階)とは権力者からの距離計測装置。無位無冠の法然・親鸞組は犯罪人として流刑に処されました。なんだか、今の時代にも通じているでしょ。嘘八百吐いても、一寸たりとも地位は変わらない。あろうことか、三権の長を自任している。汚濁された権力の椅子ですよ。消毒ぐらいじゃ追っつかない。焼却処分しかないでしょ。盗人猛々しいというのは誤りで、政治家・官僚猛々しいですね。辞書も改ざんしなければ。「盗人に追い銭」で、庶民はいい面の皮。「泣く子と地頭には勝てない」はいまでは「泣く子も黙る、塵芥政治家・官僚」ですか。

 いま、島社会は別口の「法難中」です。人命を弄ぶ輩たちに牛耳られ、乗っ取られています。(元国税庁長官が公文書改ざんの指示を出し、その作業を行った下僚が自死したという事件で遺族が元長官を相手に訴訟を起こしたという報道がありました。「私や妻が事件にかかわっていたら、総理も議員も辞める」と大見えを切った、国会答弁がすべての始まりでしたな。それがウイルス退治のためにと、厚顔にも人民に命令を下しているという現下の滑稽の図。どうしようもない「私」が歩いている)

(註「南都は奈良,北嶺は比叡山延暦寺をさし,最澄が比叡山を開いたことを奈良の仏教教団と対比して呼んだもの。10世紀に入り,諸大寺の僧兵中,春日大社の神木を擁した興福寺の僧兵と日吉(ひえ)神社の神輿(みこし)を奉じた延暦寺の僧兵とが代表的となり,互いに確執を繰り返し,朝廷への強訴(ごうそ)を行った。そのため南都北嶺の称はもっぱら強訴の僧兵をさすこととなった」(百科事典マイペディア)

 社会と学校について

 アメリカは「建国」からまだ三百年たっていません。(1775-83年、独立戦争。76年独立宣言。同年に、トマス・ペイン(Thomas Paine:1737-1809)は「コモンセンス」を著す)何かというと「アメリカ一点張り・一辺倒」であった時代は戦後すぐの時ならいざ知らず、いまははるかに昔の歴史の一齣になったと、ぼくなどは考えたりしますが、決してそうじゃない人たちもいます、かなりたくさん。「なんてたってアメリカ」「アメリカ第一」(島に住んでいながら)というのです。じっさいにはこの島は米国の「第五十一州」のようでもあります。

 かくいうぼくも、若いころは「アメリカの民主主義」かぶれ(接触皮膚炎)寸前にあったことを隠しません。もちろん、大学に入ってからの話です。もっぱら「民主主義」だの「デモクラシー」などと、世間並みにぼくも熱に浮かされていた時期でした。以後は「アレルギー」体質になりました。つまりは「過剰反応」ですね、この米国に対して。

ペイン「コモンセンス」

 入学した大学はぼくにとっては場違いなものだったし、ことに教育内容はよくないものだった。ひどいものでありました。自身の選択が誤っていたのだから、それ(大学教育)を否定するのは自分を否定することと同義みたいでね。まあ、どこの大学でも似たようなものと割り切って、勝手な道を歩こうとしていました。たとえ有料であっても他人から者を学ぼうという浅はかなこころがけ(根性)こそがよくなかった。ようするに 「学校の正体」がじゅうぶんにわかっていなかったのはなんとも不覚でした。

 大学に入って初めて読んだ本がジョン・デューイ(1859-1952)という人の「民主主義と教育」(Democracy and Education、1916年刊)でした。いまではいくつかの文庫本でも読めます。ぼくは浩瀚なこの本を英語で読み出しました。(分量は文庫本で2冊分)時間はかかりましたが、つまずきながらも、ともかく最後まで読み切りました。そのおかげかどうか、今でも英文でいくつもの文章を記憶しています。

 なぜデューイだったか。当時(六十年代後半)、この島では彼がもてはやされていたからです。教育を考えるにはデューイに限るとまではいわなくても、かなり重視されていました。今はどうなったか。彼は食品・雑貨屋さんの息子で、バーモント(カレー)州で生まれました。はじめはドイツの観念論(カントやへーゲルなんか)に接近、やがて心理学を学び、そこから教育問題に至った人です。

 (いずれ項目を立てて、彼について騙りたいのですが、今は省いておきます)

 彼には残された著作は多いのですが、ここでは『学校と社会』という講演集を引用しながら、当時(十九世紀末)のアメリカ社会(デューイの活動はシカゴを中心にしたもの)の教育状況を推し量ろうと思います。(この本は、当時デューイがいたシカゴ大学で「実験学校」を主宰した彼が行った保護者向けの講演(1899年)から成り立っています。著書の刊行は1915年)実験学校は当初は二十人足らずで始められ、その後は大学付属小学校となり、デューイが校長さんだった。七年ほど続けられました。School and Society. という書名に留意しなければなりません。

 ソローよりも四十年以上も後に生まれ、しかもソローの歩いた同じような方向を目指したデューイのことばを少しばかり、以下に紹介しましょう。

 「…たんに事実や真理を吸収するということなら、これはもっぱら個人的なことがらであるから、きわめて自然に利己主義におちいる傾向がある。たんなる知識の習得にはなんら明白な社会的動機もないし、それが成功したところでなんら明瞭な社会的利得もない」

 「実のところ、成功のためのほとんど唯一の手段は競争的なものであり、しかもこの言葉の最も悪い意味におけるもの―すなわち、どの子どもが最も多量の知識を蓄え、集積することにおいて他の子どもたちにさきがけるのに成功したかをみるために復誦ないし試験を課して、その結果を比較することである。じつにこれが支配的な空気であるから、学校では一人の子どもが他の子どもに課業のうえで助力することは一つの罪になっているのである」

 「学校の課業がたんに学科を学ぶことにあるばあいには、互いに助け合うということは、協力と結合の最も自然な形態であるどころか、隣席の者をその当然の義務から免れさせる内密の努力となるのである」(ジョン・デューイ『学校と社会』岩波文庫版)

 このようにデューイが述べたのは十九世紀末でした。学校教育の現状を批判した『学校と社会』はいま読んでも、今日の学校教育に対する立派な批判として通用しそうです。それはまた、日本の学校教育の現状をも射当てているとぼくには思われます。その意味は、古今東西を問わず、「学校の役割」は同じであり、それはけっして子どもをじゅうぶんに伸ばし、賢くするための場になっていないということです。

 「私は旧教育の類型的な諸点、すなわち、旧教育は子どもたちの態度を受動的にすること、子どもたちを機械的に集団化すること、カリキュラムと教育方法が画一的であることをあきらかにするために、いくぶん誇張して述べてきたかもしれない」

「旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書・その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある。それでゆくなら、子どもの生活はあまり問題にならない」(同上)

《デューイ【John Dewey】アメリカの哲学者・教育学者。プラグマティズムの立場から論理学・倫理学・社会心理学・美学などあらゆる方面にわたる業績があり、また子供の生活経験を重視する教育理論は大きな影響を与えた。著「民主主義と教育」「哲学の改造」「確実性の探究」「論理学」など。(1859~1952)》(広辞苑第五版) 

 いまなお(二十一世紀に入っても)、私たちの社会、というよりは「島国」の学校教育は「旧教育」に支配されているといえそうですね。

 学校になじめばなじむほど、学校という制度に自分を預ける度合いが強くなればそれだけ、学校で行われる教育(授業内容)が実生活から離れてしまうのはなぜか。生きる力を育てる教育などということがさかんに、まことしやかに叫ばれてきましたが、そのこと自体が学校では生きる力が育た(て)ないことの証明になっていたでしょう。「いや、そうじゃない」と反論があるかもしれない。決められてことができ、言われたことを素直に実行するような力こそが「生きる力」なんだというのですか。ここにはっきりと学校教育の目的や意味があるようにぼくは考えています。

 つまり、生きる力を個々のこどもが自らのうちに育てるようなプログラムは最初から学校には存在していないのだということです。では、いったいなんのための学校、なんのための教育なのか、このことはあらためて問われる必要がありますね。これこそが「生きる力」であると子ども以外の何者(元締め)、そういう塊が断定した「教育」を徹底して行おうとするのが学校なんだ。

 「旧教育は子どもたちの態度を受動的にする」とデューイが批判したのは今から百年以上も前のことだった。受け身は柔道にあるばかりではない。いやなことだが、「旧教育」は「永遠に不滅」(同語(義)反復ですが。

 この小さな本が「学校と社会」と題されて、「学校と国(国家)」といわれていないことにぼくたちはていねいな考察を及ぼさなければならない。一人の人間は「社会」に属し、「国」にも属しています。でも両者(同じ人間が属する集団)は機能もねらいも異なるんですよ。クラブと教室の役割がちがうように。第一、気分がまったくちがうんだ。社会人といって国家人という習慣が、ぼくたちの生活圏にないのはどうしてですか。(「社会」と「国」はちがうよ)

 子どもといっしょに歩くひと

 石垣りん(1920~2004)。芯が強くて、意志の大切さをぼくに感じさせてくれた詩人。

 ある雑誌に次のようなエピソードを語っておられます。

 「親戚の女子高生が言ってきたことがあるんですよ。<試験に石垣りんの詩が出たけど、正解がわからない>っていうの。「作者が表現しようとしたのはつぎのどれか」という設問の正解が作者の石垣さんにもわからなかった、と。

 「詩って、いろいろ意味がとれるでしょ。与えられた中から答えを選ばなきゃいけないって言うのは大変不都合だと思った」

 「洋服でも着物でも、昔は自分で作ってましたよね。いまはみんな、買う、つまり出来合い品から選ぶんです。答えも選ぶんです。自分で書くのでなくて」

 「子どもたちが自分で考え、自分で書く。大事なそのことに付き合ってくれる大人がいなくなった。怖いことですね」

 石垣さんが高等小学校を卒業して「事務見習」で東京丸の内にあった銀行に就職したのは昭和9年(14歳)のときでした。(すでに八十五年以上が経ったんですね。お別れしたのはついこの前だったような気がします)初任給は18円。その18円が、自身の意に反して、一家を支えるなけなしの元手となった。四畳半に6人の生活から、硬質な光沢をもった、清冽であり薫風薫るような詩が生みだされました。このあたり、青春の大半を使い尽くした、並大抵ではなかった明け暮れが強いた辛苦が石垣詩の骨格を作ったと思われます。

 「出来合い品から選ぶ」「子どもたちが自分で考え、自分で書く。大事なそのことに付き合ってくれる大人がいなくなった。怖いことですね」という文章に目がとまった時、飲んだくれだったぼくでさえも慄然とした。恐れおののいたといっても過言ではなかったと思いました。子どもが歩く、その子どもと「いっしょに歩く人」が教育者だったといったのはソクラテスという哲人でした。

 子どもと歩く、どころか、自分でさえも歩かない、歩こうとしない大人(親・教師など)がいなくなったのはなぜだろう。マニュアルが横行する時代は人間の器量が著しく棄損される時代でもあるのです。それもまた、教育のなせる業といっていいのか。「考える」は「歩く」です。

 以下はオマケです。

  詩の四行に読みこまれている悲哀と怒り。かくて、わたしたちは大切なものを忘れていく、忘れられるはずはないのに。それでいいのか。

 死者の記憶が遠ざかるとき、

 同じ速度で、死は私たちに近づく。

 戦争が終って二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、

  覚えている人も職場に少ない。                     (「弔辞」)