《06年10月2日、米ペンシルベニア州のアーミッシュの学校に、同じ地域に住む非アーミッシュの32歳の男が侵入し、銃を乱射。13歳から7歳までの5人を殺害、5人の子どもに重傷を負わせ、自殺した。事件当日の夜から何人かのアーミッシュが男の家族を訪ねて男をゆるすと伝え、男の葬儀には大勢のアーミッシュが参列した。被害者の家族の何人かは娘の葬儀に男の家族を招き、数週間後には双方の家族が一堂に会して悲しみを分かち合った》(朝日新聞・09年07月08日)

(事件は以下のような経過をたどった)
午前一〇時四四分。農家の庭先から九一一通報を受けてからわずか九分で、三人の州警察官が学校に到着した。警察官は、ドアがロックされブラインドが下ろされているのを確認した。やや遅れて、さらに七名の警察官が現場に駆けつけ、学校を素早く包囲した。交渉担当が、パトカーの拡声器を使ってロバーツに話しかけ、銃を下ろすよう繰り返し説得した。
立てこもったロバーツは、携帯電話で妻を呼び出し、もう家には帰らない。皆に書き置きを残してある、と伝えた。神に腹を立てている、と彼は言った。それは、九年前に生まれた長女のエリーズが、生後わずか二〇分で死んでしまったためだ。妻に宛てた書き置きには、「俺は君にふさわしくない。完ぺきな妻である君にふさわしいのは、もっと・・・ 俺の心は自分への憎しみ、神への憎しみ、途方もない空しさで一杯だ。皆で楽しく過ごしていても、なぜエリーズだけがいないんだと怒りが湧いてくるんだ。

警察が来て、少女に悪戯する計画が駄目になったと知り、ロバーツはさらに動揺した。午前一〇時五五分には、自分で九一一番に通報し、「少女一〇人を人質にとった。全員ここから出ろ・・・ 今すぐだ。さもないと、二秒で皆殺しにする。二秒だぞ。わかったか!」
それから、少女たちに向かって言った。
「娘の償いをさせてやる」
教室にいた十三歳の生徒二人のうちの一人、マリアンが、ロバーツは皆を殺すつもりだと悟り、年下の子たちを何とか守ろうと思って、言った。
「私を最初に撃って」
そうすることで、他の子供を救い、自分が世話を焼いている小さな子たちへの義務を果たしたかったのだ。
午前一一時五分、警察は、散弾銃の銃声三発、続いて拳銃の速射音を聞いた。玄関の窓から発射された散弾が、数人の警官をかすめた。警察隊は校舎に突進、棍棒とタテで窓を壊した。壊れた窓から突入したちょうどそのとき、殺人犯が拳銃で自分を撃ち、倒れた。床の上には、まるで処刑場のように、撃たれた少女たちが一列に横たわっていた。五人は瀕死の状態である。もう五人も重傷を負っていたが、頭を両手でかばい、転げ回ったため命が助かった。
静かなアーミッシュの村を襲った学校乱射事件は、世界に衝撃を与えた。しかし、それと同じくらい世界を驚かせたのは、(ペンシルベニア州ランカスター郡)ニッケル・マインズのアーミッシュが、その直後に殺人犯を赦(ゆる)し、その家族に思いやりあふれた対応をとったことだった。

事件直後、同情した外部の人々がアーミッシュのコミュニティを支援していたとき、アーミッシュ自身も別の仕事にとりかかっていた。優しく、そっと、静かに、赦しという困難な課題に取り組もうとしていたのだ。
アーミッシュが、ロバーツの未亡人と遺児たちも事件の犠牲者なのだ、と気がついたのは早かった。夫や父を失った上に、プライバシーを暴かれている。しかも、アーミッシュの犠牲者と違い、ロバーツの家族は、最愛の人が無垢(むく)な子供と家族に凶行を働いた恥を忍ばねばならない。アーミッシュのなかには、事件後わずか数時間後のうちに、早くもロバーツの家族に手を差し伸べた人たちがいた。
近くの教区の牧師エイモスは、我々にこんなふうに説明した。
「ええ。私たち三人は、(事件が起こった)月曜日の夜は消防署近くにいたんですが、そのとき、ロバーツの未亡人エイミーに言葉をかけにいこう、ということになりました。まず自宅へ行ってみると、誰もいない。彼女のお爺さんの家も尋ねてみましたが、そこにも誰もいない。それで、お父さんの家へ歩いて行ってみると、エイミーと子供たち、彼女のご両親がいました。私たちは一〇分ほどお邪魔してお悔(く)やみを言い、あなたたちには何も悪い感情をもっていませんから、とお伝えしてきました。

同じ晩、数マイル離れたところでは、別のアーミッシュの男性が殺人犯の父親を訪ねていた。父親は元警察官で、地元のアーミッシュのため運転手をしていた。ロバーツ家の代理人ドワイト・レフィーバーは、後にマスコミ取材に対し、アーミッシュの隣人が一人、家族を慰めに来たことを話している。
「その人は一時間そこに立っていました。それから彼(ロバーツの父親)を抱擁し、『私たちはあなたを赦しますよ』といいました」
その翌日から、ロバーツの両親のもとをつぎつぎとアーミッシュが訪れては赦しの言葉を伝え、彼らを優しくきづかった。
(母親の腕の中でその死が見届けられたその翌日、二人の姉妹の祖父はいきなりマスコミの取材を受けた)
「犯人の家族に怒りの気持ちはありますか?」と女性レポーターが聞いた。

「いいえ」
「もう許している?」
「ええ、心のなかでは」
「どうしたら赦せるんですか?」
「神のお導きです」
同じ日の午前中、ジョージタウンに住むアーミッシュの女性が、CBS(テレビ局)の「アーリーショウ」にシルエットで出演し、殺人者を赦すことについて語っている。「赦さなければいけません。神に赦していただくには、彼を赦さなければいけないんです」
マスコミを通じ全国に報じられたもう一つのエピソードは、先ほどの姉妹とは別の犠牲者の祖父の話だ。自宅に安置された棺に横たわる孫娘の無残な姿を見て、まわりにいる幼い子供たちに「こんなことをした人でも、悪く言ったりしてはいけないよ」と言ったというのだ。(文中の引用はクレイビル、ノルト、ウィーバーザーカー共著『アーミッシュの赦し―なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか』亜紀書房刊、08年からです。少し変えたところがあります)
テロには報復を、というのがアメリカ社会の風潮だった当時、アーミッシュの行為をブッシュ(前)大統領の野蛮な選択に重ねることがあったという。悪(テロ)には報復がふさわしい、報復しかないという大きな声に対してこのアーミッシュの「赦し」はどのような意味をもっているのか。たくさんのこと、それを深く考えなければならないとぼくたちにせまっていないかどうか。

「許す」か「許さない」か、その間にもう一つの選択肢(「赦し」)がないのかどうか、アーミッシュの人々の態度や行動はそのことをつよく教えていないでしょうか。彼らや彼女らの生き方は信仰に基づけられた特殊なものだといっただけではすまないものが、そこにはあるにちがいありません。信仰の有無にかかわらず、ぼくたちははげしく問われているようです。
寛容(赦し)とはどのようなことだろう、と。
事件の詳細を知るにつれ、ぼくはこの時代に存在する「アーミッシュ」という生活団におおきな衝撃を受けました。かなりな資料などを渉猟し、それなりに考えようとしたのですが、いまなおぼくにはわからないことばかりです。「許し・赦し」とは? 寛容であるのは大事な姿勢でありますけれど、誰に対して寛容であり得るのか。あるいは寛容であるかないか、それは場合によるとすれば、寛容には二面性があることになります。不寛容が存在して初めて寛容が問われるのだ、と。
いまではこの共同体は相当程度に変質し変形しているともいわれます。時代の波が押し寄せるということですが、中からもまた、うねりになっているかどうかわかりませんが、アーミッシュ社会に向けるうちからの意識の変化が相当に大きくなってきているのは否定できそうにありません。これを機会に、あらためてアーミッシュをとおして「許し・赦し」「寛容」の問題を考察し続けたいと思うのです。
(*アーミッシュ【Amish】キリスト教プロテスタントのメノー派の一派。また、その信徒。スイスのアマン(J..Amman 1644頃~1730頃)の創始。迫害を避け、アメリカのペンシルヴァニア州に移住、地域社会集団を形成。電気・自動車などを用いず、質素な生活様式を保つ)(広辞苑 第五版)