山登りの効用について

 授業によっていろいろな経験を子どもたちはすることができます。その中核は「学ぶ」ということですが、それ以上に仲間や教師の性格やものの見方を確認する機会にもなるでしょう。そのような交わりを通じて、自分の性格や自分に足りないところを知ることもできます。その意味では、授業と、それが実践される教室には多くの可能性がある。

 授業の可能性とは子どもの可能性といいかえられます。ひとりとして同じものをもたない子ども、そのような子どもに教師がていねいにむかいあえば、教室の雰囲気はおのずからむつまじいものとなるはずです。長い間、このような教室の風景を夢見てきたと、ぼくは白状します。見果てぬ夢、そういう以外になさそうな、まるで夢そのものです。

 なにかを学ぶというのは、つまるところ自分を発見することです。今まで気づかなかった自分をさまざまな機会において知ることだとおもう。そのための練習こそが学校でなされてほしい授業だと、つよくいってみたい。どんな失敗しても、かならずとりかえしがつくことを経験する場、それが教室です。そのような貴重な経験を重ねるための練習が授業なのだといいたい。

 それはまた、ある物事について自分流にかんがえ、自分流に判断する、その判断がせまく偏ったものにならないようにするための訓練です。紋切り型の物言いや、みんないっしょといった「かたまりの思想」に毒されない柔軟な発想や把握ができるように自分を鍛える機会です。いうならば、この自分にも精神の自由があるということを自分で経験するのが教室でおこなわれる授業であり、その可能性を開くのが教師の仕事ではないのかとおもうのです。

 勉強 ー この言葉にはどこかかたくるしい、おさえつけられるような気味がありますね―、それはあたかも山登りに似ていると、ぼくはかんがえています。自分の足で、自分の足だけで確実に頂上を目ざさなければ、一歩も前に進まない。どんなに高い山に登ったところで、世の中の利益にはならないし、とりたてて他人から評価されることもなさそうです。だからこそ、山登りはいいのだと経験から学びました。

 誉められるため、自慢するために山に登る人がいるとはおもえません。年齢・学歴・性別・職業・国籍などは一切不問です。自分から登ろうとする人にしか喜びも苦しみも与えられない。自分から、というところが大切ではないですか。勉強、学習といってもいいでしょう、それは自分の足で、自分の意欲で登ろうとする山登りとそっくりだとぼくはおもいます。

 もうひとつ、山登りにはいいところがあります。山はいつでもそこにあるということです。自分が挑戦する相手はけっして動かない。登ろうとしていってみたら、その山がなかったということはないのです。だから、それに対して心構えをするばかりなんですね。去年はあったけれども、今年は消えてなくなっていたらどうでしょうか。せっかくその気になっていたのに、なんだということになるでしょう。(当節の環境破壊のすごさをみれば、あながちそんなことはぜったいにありえないとはいえなさそうですが)ピアノも一つの「山」ですね。「算数」もてこでも動かない「山」、そこに自力で登る、あるいはだれかに導かれて登る。 

 授業もそれと同じで、それに対してこころを準備するのです。学ぶというのはなにかに挑戦するという雰囲気があります。じゅうぶんに気持ちを集中させてかからないと、そこから得られるものはなにもないということになりがちです。その反対に、注意力が足りなければつまづく、転ぶ、場合によっては落伍するということにもなりかねない。いかにも山登りに似ていませんか。

 ぼくは勉強もこうあって欲しいとねがっています。人に認められよう、世間から認められたいいう(その実、そんなことは滅多にないし、たいしたことではない)あさましい動機から始められる勉強のなんと多いことか。勉強しているのか、人に誉められようとしているのか、ご当人にも分からないのじゃないですか。まことに厭な話です。自分の足で山に登るように、自分の頭と身体で物事を考えること。それが人間の自由ということだといえるでしょう。

 教育とは自由の実践だ、とある人はいいましたが、現実はその逆で、教育を受ければ受けるほど不自由な人間になる(させられる)のではないかとさえぼくにはおもわれます。まるで強制されて山に登るようなもので、せっかくの経験が台無しになってしまいます。

 〈勉強〉という語は、先にも触れたように、ちょっと堅苦しい感じがつきまといます。むりじいされるような気がしますね。店でものを買うときに、「もう少し勉強してよ」ということがありますが、それは値段をまけてくれませんかという意味で使われます。店に対して無理してくれという気味があります。かりにお店の人が「勉強するよ」といえば、利益を度外視してサービスするということでしょう。それほどに、勉強というのはする方もさせられる方も、大なり小なり無理がありそうです。

 それに比べて、学ぶ(学習)というのは、相手がどうであるというよりは、自分の意志で学ぶのだという気分がこめられているようにおもわれます。たんに言葉づかいの問題ではなさそうで、「勉強する」と「学習する」ではそこにはっきりしたニュアンスのちがいがあるようです。だから「勉強」という言葉を教室から追放したらどうかと提案してみたい気がします。教師も子どももずいぶん勝手がちがうことになるんじゃありませんか。わたしたちは必要以上に言葉にとらわれているようです。

 もっとすすめたいのは「プレイ(play)」という語です。Play Station とまちがえられそうですが、「遊ぶ」というのです。それから学ぶことはたくさんありますし、「遊ぶ」のいいところはかならず「自分の心身を用いておこなう」という点です。ピアノを弾くとはピアノに関する本を読むのではなく、自分でじっさいに弾くことを指します。「国語」でも「算数」でも自分でやるからこそ、それが学んだ事柄以上に「経験」となって身につくのではないでしょうか。「経験する」は「遊ぶ」ですよ。

 「遊興」などというとまるで忌み嫌われそうですが、「遊戯」は「遊化」と同じで、ゆけ(ゆげ)と読ませていました。「 仏語。心にまかせて自由自在に振る舞うこと。遊化 (ゆけ) 」(デジタル大辞泉)とあります。ぼくが言いたいのはこの部分です。自由に自在にふるまうときに、ぼくたちは意志的(情念からの解放状態)であるはずです。遊び心、それは余裕であり、ゆとりですね。鉢巻をしてこぶしを握って「勉強」するなんて。少し意味は異なりそうですが、ぼくは「遊学」などという言葉をここで使いたい気がするのです。

 「遊びをせんとや生まれけむ 戯(たはぶ)れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそゆるがるれ」(「梁塵秘抄」)はいくつもの異説におおわれていますが、率直に「子ども」の本性を讃えたものとぼくは読む。

 「要するに、信念からいっても経験からいっても、わたしは、もしわれわれが単純に賢明に生きるならば、この地上でわが身をすごすことは、苦しみではなくて楽しみであると信じるのである。より単純な民族がそれによってくらしを立てていた仕事がより複雑な文化をもつ民族にとっても今なお娯楽としてのこっているように」(ソロー)

 超自我ってなんだ

谷川 鶴見さんが、ソローのことばを引いてらっしゃいましたね。「人間はひまがあって、そのひまをたのしむことのできる生活をするべきだ」というふうな。そういう生活ができれば、おそらく理想なんだけど、現実にはそれを許さないものがあるから、なかなかむずかしい。それとも、そういう生活をあくまでも主張することで切り開いていけるような状況があるのか。それがよくわからない。どこまでがエゴイズムで、どこまでがエゴイズムじゃないのか、その境目がとってもあいまいなんですよ。

鶴見 しっかりしたエゴに支えられない正義の運動というか、フロイトで言えばエゴに支えられない超自我、それは簡単にかつ短時日で崩れると思う。超自我の命令を支える力をもつエゴがなきゃ、うまくいくはずないと思いますね。そこを全部ほっぽって、社会科学の名をかりて超自我だけを強化してうわーっと圧伏すると、学生のうちは通用しても大学を出れば長つづきしない。しっかりしたエゴをつくらなきゃだめだと思うな。

 ところが、日本では競争本位の受験勉強ばかりさせるから、小学校から中学校、高等学校と、エゴをつくることができない。逆にエゴをどんどんそぎおとしてしまう。受験勉強をとおして従順な人間をつくっていくわけでしょう、一種の思想教育ですよ。それが大学へ行くと、学生運動の言動を押しつけられる、あるいは、教授から専門用語を押しつけられるから、それに同化して、超自我になってしまう。会社に入ってからエゴに目覚めて、超自我を脱ぎ捨てることができれば、しめたものだ。なぜなら、エゴがつよくなれば、そのエゴが自分を自然に抑制することを知ると思うんです。だから、子どものときからエゴを育てることがたいせつだと思いますね。エゴがつよく育てば、あらゆる欲望を無制限に伸ばそうなんてことにならないですよ。

谷川 ならないですね。

(「世界の偽善者よ、団結せよ」鶴見俊輔座談『学ぶとは何だろうか』所収。晶文社刊、1996年)

 お二人が対談をされたのは七六年ですから、もう四十五年前になります。学校教育において子どもたちのエゴをめぐる状況はどのようになっているのか。恐ろしいことになってるんじゃないですか。

 外からの「規制」力とはちがう、自分を制御する要素を持つとされる「超自我」(スーパーエゴ)は今日ではほとんど問題にされません。その意味は、上手に自制心が働く子どもたちが生まれている(育っている)からというのではなく、はんたいに「自制心」は彼や彼女の内部にあるというよりは、それを越えた外的な存在が自制心の代用を果たすような状況になったからだと思われます。「いうことを聞かないと、おまわりさんに言うよ」「先生に言いつけちゃうぞ」という具合に、おまわりさんや教師から始まって、お上というか権力者なんかの意向に沿う(今風に言えば、忖度ですかな)、逆に言えば、自分よりも強いとされるものに背かないような、まことにふがいないいい子がつくられているのではないか。

 「朝寝坊をする権利」などといえば、たちまち警察官が飛んでくるような雰囲気があると思うんですね。「今日はちょっと気分が重いから、学校休んじゃうね」「ああいいよ」というくらいの親なら、子どもも安心というか安全なんだけど、「学校を休む子は悪い子だ」とかなんとか、それこそ別種の「超自我」になり代わった正義感で子どもを攻めるんだからたまったものじゃないですね。理づめ(理屈)というけれども、それは一種の暴力ではないでしょうか。じつに息苦しいものでしょうね。

*精神分析の用語。パーソナリティを構成する3つの精神機能の一つ。快楽追求的なイド (エス) と対立して道徳的禁止的役割をになうもの。5~6歳頃,両親の懲罰が内在化して,みずから自分を禁止するようになることと,その後の両親その他の価値観への同一視を通じて形成される。良心に近いがより無意識的に働くとされる。同様に自我理想も良心に近いが,超自我とは反して積極的側面をもつ。(ブリタニカ国際大百科事典)

 「私の唯一の正当な義務は、私が正しいと考えることをいつでもすることです」(ソロー)

 

 子どものこころ

  今では記憶している者が、私の外に一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃(みの)の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で斫(き)り殺したことがあった。

 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰(もら)ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。

 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末のことだという。二人の子供がその日当たりのところにしゃがんで、しきりに何かしているので、傍(かたわら)へ行って見たら一生懸命に仕事で使う大きな斧(おの)を磨(と)いでいた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入り口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕(とら)えられて牢(ろう)に入れられた。(柳田国男『山の人生』より)

 『山の人生』が刊行されたのは大正十五(1926)年のことでした。したがって、文中の「三十年あまり前」というのは、明治三十年頃のことです。ちょうど「日清戦争」が終わった時期に当あります。戦争やそれによって引き起こされた不況などで世間が大騒ぎをしている一方で、西美濃(現在の岐阜県)の山奥深くにこんな事件がおこっていたというのですね。

 「子どもとはなにものだろうか」という問題を考えようとするとき、いつでも去来するのは「入り口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝た」二人の子どもたちの奇怪な行動をとらせたものはいったい何だったのだろうかという、大きな不思議です。教師や親から教えられた親孝行からの行動なんかではなかったでしょう。言葉を失わせるような行為に駆り立てたのはなんだったか。いまでもこのような不思議にぼくは襲われているのです。

 この『山の人生』は明治末にに出された『遠野物語』とあわせて一冊になって岩波文庫に収められています。宮本常一さんの『忘れられた日本人』とあわせて一読をつよくすすめます。ここにもまぎれもなくおさない「日本人」がいます。ここで言われている「日本人」というのは「国家」「国語」「国民」というものに取りこまれていない人びと(庶民。それを柳田さんは「常民」といいました)をさしていることはまちがいありません。

柳田さんは小学校には行かなかった

 国家だとか国民だとかやかましく言いたてる人びとをよそにして、黙々と営々とその生活・文化、つまりはわたしたちの社会の歴史をつないできた人たちのことでした。「国家・国民・国民」などがつくられるはるか以前から、この島に住み着いていた人々でした。そんな「日本人」がいたということですね。それをさして「日本人」というのもはばかられるような、人間そのものの厳存です。人間のもっとも深い部分にやどっている感覚かもしれない。「国家」がふりかざす倫理や道徳とは軌を一にしない人間の本性かもしれないのです。

 上にあげた文章の最後の部分で、柳田さんは次のような言葉を書き残しておられます。どのようなことをいおうとしているのでしょうか。

 「我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙(はる)かに物深い。また我々をして考えしめる」

 この「山に埋もれたる人生あること」は実話であったかなかったか、時には問題視されてきました。確かなことは今でもはっきりしていません。ぼくもこの「物語」か「歴史」か定かでない問題を調べた(詮索した)ことがあり、それについて文章を書こうとしたことがありました。しかい、結局それをしなかったのは、理屈で物事を極めようとするよりも、いかにもこんなことがあったのだなあと読めば、ぼくたちのどこかにもこの子どもたちと同様の感情が流れていると思う誘惑にかられたからです。この年端の行かない子どもたちにはいうにいわれぬ感情、年齢や経験ではおしはかれない感受性というのもがあったにちがいないと思われてきたりします。

 この時代にあってもなお、幼児や児童の悲劇が実の親や肉親によってくりかえされています。これらは、まちがいなのない不幸であり悲劇です。幼児や児童(子ども)の不幸がやまない限り、だれもがしあわせになれないのだと、ぼくはわがこととして、やりきれない心持で実感するのです。いかなる子どもの中にもきっと大人の感受性(智慧)があるのだとぼくは信じている。大人のすることの意味を彼や彼女はたちまちのうちに直感(直観)するのです。その逆に、どんな大人の中にも自分自身の子どもの部分があるのです。だからこそ、大人も子どもも、その部分を通じて互いにわかりあえる(互いを受け入れられる)にちがいないことを、ぼくは山小屋の前で親に死を慫慂した二人の子どもたちの行為から、言葉をこえて、教えられるのです。ぼくがその子どもたちだったら、とずっと考えさせられつづけてきました。

 田植えは教養の根っこ

 憂楽帳:大学というところ:私立大に勤める知人の大学教授によると、大学では今、「出口」がいかにしっかりしているかということが、“売り”になるのだという。企業が求める人材を育て、就職率を上げることが、「入り口」の学生の募集活動に直結する。

 学生への対応は至れり尽くせりだ。この大学の場合、キャリアセンター、昔で言う就職課は、入学時から就職活動に向けて、大学生活をいかに送るべきかを教え、資格取得など就活対策の特別講座も設けている。親の協力も必要だというので、保護者向けの懇談会では「子どもと一緒に考える就職活動」という講演や、教員との面談も用意されている。

 少子化で、生き残りにしのぎを削る大学の事情、厳しい雇用環境では、大学の就職予備校化の流れは止まらないのかもしれない。だが、次世代を担う大事な財産を、目先のことばかりが気になる小さな人間に仕上げようとしているようで心配だ。「(実利に)役に立たないことをしていたのが良かったのに」と、「教養」を身に着けた自分の大学時代を振り返り、矛盾に悩む教授に共感を覚える。(毎日新聞・09/06/29)

 これぞ「旧聞」です。この時代を含めて、ぼくは新聞人間でした。というよりは、活字人間だったかも。数年前からまったく読まない。読むに堪えないというのではありません。読むほどのこともないじゃないかと勝手に見切ったからです。テレビもまず観ません。こちらは観るに堪えないから。新聞もテレビも「作る側」はほとんどが大学出でしょう。ぼくは当今の大学事情を知っているつもりはないのですが、「大学出」と聞いただけで、もうあかんという直感が働くのです。これが外れることは九分九厘ない。なぜか。大学は一人の人間にとっては入ってはいけないところとまではいわないが、行かなくてもいいところ。学生が問題だというのではなく、教員でしょう、話にならないくらいに「教育・授業(講義)」に不熱心だと思うからです。それにつられて、学生も落ちていきますね。「学校」はよほど注意してかからないと、人間の成長を阻害します、金をとって。

 上記のコラムに戻ります。このように臆面もなく書ける記者はいったい何歳くらいの方だろうか。「教養」を身につけることができた「大学時代」などなかったとはいわないが、はたしてそれはいつの時代だったか、どんなものが「教養」なんだか、と還暦をはるかに超えたいま、ぼくは高尚な冗談を書く記者だなと、反面では関心もしますね。でも、まともにそうだといわれると、どこの島の話なんだと訝るばかりです。

 もちろん、「教養」の中身や程度こそが問題になります。「教養」とはなにか。「単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。その内容は時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる」といかにも教養をひけらかすのは「広辞苑」です。(ぼくはこの辞書の悪口を言うのが趣味になっています。この断定する態度が嫌ですね)「創造的な理解力や知識」と聞いただけで、気が遠くなります。「文化理想を体得」となれば、さらに面倒な、一面ではいかにもナショナリスティックな雰囲気も漂ってきます。そんなにたいそうなものかよ、いいたくなる。はたして、記者氏が大学で「身に着けた」教養は?

 大学が就職予備校化していなかったことはたえてなかったと思われますし、それでどこが悪いのかとさえいいたくなります。大学にかぎらず、学校というところは、つねに次の段階に進むための準備教育に徹してきたのではなかったか。それに成功したか否かは問うところではありません。現今みられる風潮はいつでもあったし、反対に、それとは似てもにつかない大学生活を過ごしている学生もまた、昔もいたし、今もいるのです。二年で可能なことを四年に延ばしているのが大学です。「勉強に四年はないぜ」といいたいですね。

「田植え」ここに教養がある。

 この時代(十余年前)、世間では政権交代だ、新型インフルだなどと落ち着かないことおびただしいようでした、そんな世間とは没交渉で、ぼくは勝手に自分流の「教養」をまさぐるしかない生活に明け暮れていました。わざわざ「教養」ということばなど使う必要はなさそう。ようするに、自分の足で立ち、自分の歩度をわきまえて歩くことができれば、それでじゅうぶんです。自分の足で歩くこと、握ったこぶしを開くこと、それが「教養」ですね。言葉じゃありません。

 学校教育で「教養」を身につけるなどということがあるのかどうか。それぞれがみずからの経験をふりかえれば判然とするのではないでしょうか。大学時代に「『教養』を身に着けた」と自信ありげな記者の書く内容浅薄な記事を読める読者はしあわせだろうかと、無教養な人間として雑言を放ちたくなった次第です。

上田萬年

 明治の高い「教養人」の本を読んでいて、「国語は帝室の藩屏である」という文に遭った。その人は上田萬年(カズトシ)(1867-1937)さん。この島に「国語」という名称を持ち込んだ張本人です。「国語」と「日本語」は同じものではないのです。 蛇足 お嬢さん(次女)が円地文子さん(1905-1986)。

 いまでは「国語」は共通語・標準語などと称されているようです。それに対して、「日本語」は「方言」などと蔑称される始末です。なんでですか。国語・国民・国家というのは、つい最近でっち上げられたものじゃないですか。この島に人が住みだして以来、いつでも「ことば」が使われていたし、それがあるときから「日本語」と呼ばれるようになったというだけの話。人民の汗や涙や脂肪分までが混入して育てられたのが「日本語」、それは一つや二つどころではない、数百もありましたし、いまでも相当数が使われているのです。教養の基礎になるのは、国語からか日本語からか(?)

 島秋人著『遺愛集』について

 ここにもまた、およそ常に語られるものとは別種の「教師の面影」が色濃く記されています。

〇 島 秋人(あきと)(本名 中村 覚)の略歴。       

 1934年6月28日生まれ。満州で育ち、戦後に新潟県柏崎に住む。早くに母を病気でなくし、自身も結核やカリエスに罹患。小中学校時代はまったく孤独で、成績も最下位であったという。以後、生活は荒み、転落した人生を送る。少年院に収容されたこともある。 

 1959年、飢えに耐えられず、農家に押し入り、2000円を奪い、その家の夫人を殺害。逮捕され、1962 年6月に最高裁で死刑が確定。1967年11月2日、刑の執行により、33歳の生涯を閉じた。

☆窪田空穂の「序」より

 「『遺愛集』一巻に収められている三年間、数百首の短歌は、刑死を寸前のことと覚悟している島 秋人という人の、それと同時に、本能として湧きあがって来る生命愛惜の感とが、一つ胸の内に相克しつつ澱んでいて、いささかの刺激にも感動し、感動すると共に発露をもとめて、短歌形式をかりて表現されたものである。これは特殊と言っては足らず、全く類を絶したもので、ひろく和歌史の上から見ても例を見ないものである」

  「そうして歌を読むと、頭脳の明晰さ、感性の鋭敏さを思わずにはいられない感がする」「一言でいえば、島秋人は私には悲しむべき人なのである。しかし悲しみのない人はいない。異例な人として悲しいのである」 

窪田空穂氏

☆島 秋人の手紙と短歌いくつか。

 「僕は小学校五年の時国語の試験でレイ点を取り、その先生に叱られて足でけっとばされたり棒でなぐられたりしておそろしさに苦しまぎれのうそを云って学校から逃げ出し八坂神社の裏の草やぶや川口の岩の影にかくれて逃げまわって居た事があった…」(中学校時代の教師吉田好道宛・1960 年10月5日付け)

   死刑囚に耐へねばならぬ余命あり 淋しさにのむ水をしりたり(1961 年作)

 「…大きな過失によって小さな幸せを見出すことが出来たと思います。人間としてめぐまれた境地に歩むことも出来たみたいです。言い過ぎみたいですが、『心』ってものだけは社会の人よりめぐまれたものをあたえられたと思っています」(高校生前坂和子宛・1962年11月28日付け)

東国原英夫主演(一人芝居)

  「人間である以上、僕は生きたいと言う事は第一です。『極悪非道』って善人が作った言葉だと思います。実際これにあてはまる人はないのではないかと僕は思うのです。どんな罪を犯した者でも真心のいたわりには哭くものです。…僕は「気の弱い人間」でしかない者だったと思う。人生って不思議なものです。わからないな-と思う。でも、とても生きることが尊いってことだけはわかります。僕は犯した罪に対しては「死刑だから仕方ない受ける」と言うのでなく「死刑を賜った」と思って刑に服したいと思っています。罪は罪。生きたい思いとは又別な事だと思わなければならない。やせがまんではない。僕の本心である様だ」(同上)

   この手もて人を殺めし死囚われ 同じ両手に今は花活く(1962年作)

前坂和子著

   被害者に詫びて死刑を受くべし 思ふに空は青く生きたし(同上)

 「知能指数のひくい、精神病院に入院もし、のうまく炎もやって、学校を出てより死刑囚となるまでは僕の内側の『もの』を知らなかったのを短歌と多くの人の心によって知り人生とはどんな生き方であっても幸せがあるのだと思い、被害者のみたまにも心よりお詫びをし、つぐないを受ける心を得、現在では人間として心の幸を深く知り得たことをよろこぶのです」(空穂宛・1963年6月7日付け)

 「…僕はおろか、ていのうです。だから一生懸命裸になり切って真実を力として詠み、おろかなままに歌の道によろこびと悔いとを知らされて生きてゆく心です」(同上)

  「被害者の方に、罪を犯した人間が出来る限りの反省と悔いに罪を詫びて、正しさにみちびかれてお詫びとしては足りない罰の上に心からの更生をすることを知っていただき、みたまに詫び、家族に詫び罪人であれ人間であったと云うことも知っていただきたいのが生前、死後を問わず歌集の出版の趣意なのです。そして遺品でもあるのです」(空穂宛・1964年5月10日付け)

  なつかしくのみ思ひ待つわれ打ちし 旧き旧き師はふみたまはらず(1964年作)

  鉄鋲の多き靴にてけられたる 憶ひが愛しあまりに遠く(同上)

  字を知らず打たれし憶ひのなつかしさ 掌ずれし辞書は獄に愛し(1966年作)

 「私は少年時代に、ていのう児と云われ満州から内地に引揚げてからの生活の貧しさに弱い躰と頭のはっきりしない事でとても苦しい目に会って来ました。でも小さい時から私は正しいことを大事にしてずるがいこい者、表裏のある者を極端にきらっていましたので友人はほとんどありませんでした。

 長所を伸ばす教育が弱い人間、普通よりも劣る人間には一番大切です。ダメな人間、ダメなやつと云われればなおさらいしゅくして伸びなくひがみます。ほめてくれると云うことが過去の私の一番うれしいことでした」(窪田章一郎宛・1967年10月25日付け)

窪田章一郎氏

 「…たくさんの人々に読んでいただきたいと思いました。特に教育者に」(章一郎宛・同30日付)

  「先生のただ一言が私の心を救い、私の人生をかえた」

  この澄めるこころ在るとは識らず来て 刑死の明日に迫る夜温し(1967年11月1日作)

 「教師は、すべての生徒を愛さなくてはなりません。一人だけを暖かくしても、一人だけ冷たくしてもいけないのです。目立たない少年少女の中にも平等の愛される権利があるのです。むしろ目立った成績の秀れた生徒よりも、目立たなくて覚えていなかったという生徒の中に、いつまでも教えられた事の優しさを忘れないでいる者が多いと思います。忘れられていた人間の心の中には一つのほめられたといういう事が一生涯くり返えされて憶い出されて、なつかしいもの、たのしいものとしてあり、続いていて残っているのです」(前坂宛・1967年2月)

*関連図書・前坂和子編著『書簡集 空と祈りー『遺愛集』島秋人との出会い』(東京美術、1997年刊)

*『遺愛集』(東京美術、1974年刊)

*http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-97.htm

〇窪田空穂(1877-1967)・窪田章一郎(1908-2001)両氏は親子。ともに歌人。

 手放しの教育愛?

 ネットでニュースを見ていたら、先週の土曜日(3月21日)に宮城まり子さんが亡くなられた、と報じられていた。93歳だった。ほんの少しばかりの出会いがありましたので、穏やかならざる心持ちで、哀悼の意を表したいと思いました。もう何年になるか、宮城さんからぜひともお話を伺いたい、それもぼく一人だけじゃなく、たくさんの若者にも聞いてもらいたいとお願いしたのでした。ねむの木学園についても大きな関心をいだいていましたので、率直にお願いをしたところ、聞き入れてくださった。障がい者・養護教育について貴重なお話を聞くことができたのをいまさらのように感謝しているのです。その当時、夜中にまり子さんから電話がありました。ぼくも必要があって、何度か「まり子の部屋へ電話をかけて」ということがありました。

 この「分野」というのも変ですが、島における草分けのような先達がおられ、ぼくは根っこのところから教育問題を教えられたと自分では考えてきた。今ではまずご存じの方はほとんどいないでしょう。近藤益雄(こんどうえきお)(1907-1964)さん。長崎の人です。近藤さんが亡くなられたときに重なるように宮城さんは「ねむの木」を作られました。詳しいことを宮城さんからは伺えませんでしたが、お二人の関係には因縁を感じたりしました。どこかで宮城さんについても述べたいと考えています。今回はほんの少し、近藤さんについて。

 わたしたちは時に、「この意見は絶対に正しい」「本当の教育はこうなのだ」と思いこみがちです。日常生活で多くの難題に遭遇しますが、それに対して一つしか答がないと断定すること自体、あるいは危機状態なのかもしれません。こうも言えるし、ああも言えそうだという姿勢は「自信のなさ」ではなく、むしろ精神の自由を証明するものです。それはまた、「迷い」の表れでもあります。迷いは独断からの解放の端緒ともなる。手前勝手な言い草ですが。

 以下は、藪に馬鍬(ヤブニマグワ)のようです。親鸞の言。

「親鸞は弟子一人ももたずさふらう。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念仏をまふさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ。弥陀の御もよほしにあづかて、念仏まふしさふらうひとを、わが弟子とまふすこと、きはめたる荒涼のことなり」(「歎異抄」) 

 何か教えたから教師で、教えられたから弟子であるというのはきわめて皮相な話で、実際にはどんなに立派(大切)なことを教えられても、それを自らのものにしなければ、教師は何を教えたことにもならないし、子どももまた、何を教えられたことにもならないのです。「弥陀の御もよほし」があればこそ、救われるというのです。

ねむの木学園

 「弟子」(同行同士)無数の親鸞の吐く肺腑の言でしょう。教えられる側にはっきりとした覚悟があったからこそ、師の言葉は伝わった。親鸞は教えられる側の「覚悟」を「弥陀の御もよおしにあずかって」といいます。「わがはからひにて」教えてやったというのは厚顔のきわみというほかありません。

 《助教(代用教員)になって一年たらずのある女教師が手紙をよこして、〝私は自分の教えている子どもたちをどうしても愛することができないでなやんでいる。これで教育者としてほんとうにやっていけるのだろうか〟という意味のことを訴えてきたことがある。

 私はそのとき〝あなたのなやみはもっともだと思うが第一子どもたちを愛するなどということが、そんなにたやすくできるはずのものではない。愛することがそうやすやすとできるなどという考えは一種の思いあがりにすぎない。そんな大それたことを考えているうちに、子どもたちは私たちをどんどんはなれ去っていくだろう〟と答えてやった。ところがそれでその教師はいちどは腹をたてたようだったが、だんだん子どもたちを教えていくうちに、愛情などというあまい感覚とはまた別のものが、実は教育の支えとなっていることに気づきはじめたようだった》(近藤益雄「子供への愛情について」)

子どもたちと近藤さん

 「子どもへの愛情」、それと混同されているような「子ども好き」ということば。そんな甘ったれた言い草とはちがったものによって教育は支えられているというのが近藤さんの経験談です。「愛するがゆえに教育をするのではなくて、教育することによって愛すべきものになるという」、こんな考えはまちがいだろうかと益雄さんは自問する。

 上に引いた親鸞の「弟子ひとりもたず候」について、益雄さんもつぎのようにいうのです。

 「私はそこに愛情以上のものを感ずる。…〝一人一人の子どもを公平に愛せよ〟などと教えられているが、そのようなことがはたして実行できることだろうか」「それは土台、無理な話であって、できもしないことをいうだけのような気もするのです」

 「子どもたちは結局私たちの弟子ではないのだ。ましてや私たちの肉親の子どもではない」

  「子どもが正しく生きていけるような場がどんどんくずされていっている今日の社会に目をひらき、そこの中で子どもを守ることの困なんはもはや愛情ではどうにもならなくなってきたのではないでしょうか」

 近藤さんは子どもへの愛情を否定しているのではないんですね。

 「一人一人を平等に愛する」とか「じぶんのこどもと同じように他人様の子どもを愛する」などとできもしないことをいうのはやめたほうがいい、ただそれだけです。

 「子どもへの愛情を否定してきたようだが、実はこの否定の後にあっても、さらにもえあがり、芽だってくるものとしての愛情をこそ、私はうたいたいのだ。手ばなしの教育愛などというもの程危いものはない」というのです。

 弥陀の本願、弥陀の御もよほし、それは黒カビの生えた寝言か。それとも抹香臭い戯言といわれるか。(「センスの否定」の後に)