すずめの学校は家の中

 閑話はまだ終わりません。というか、悲しいかな、終わりが見えないのです。さて、「すずめの学校」です。そんな学校があったのか、あるのかしら。

 チイチイパッパ チイパッパ / 雀の学校の先生は / むちを振り振り チイパッパ

 生徒の雀は輪になって / お口をそろえて チイパッパ

 まだまだいけない チイパッパ / も一度一緒に チイパッパ / チイチイパッパ チイパッパ

 作曲は清水桂(かつら)(1898-1951)さんです。東京深川生まれ。関東大震災後、埼玉県和光市に居住。作曲は弘田竜太郎氏(1892-1952)。『靴が鳴る』、『叱られて』などで知られる童謡作家。清水さんは幼少期に母親と生別。武家の家にはそぐわないという理由で離縁されたらしい。その後父は再婚。多くの弟や妹がいた。ぼくの記憶では九人で、桂さんは長男、一番下の弟(異母弟)とは相当に年が離れていた(一回りか)。ぼくの記憶をよみがえらせる部分(細胞)が毀損してしまった。資料を調べればいいのですが、曖昧な記憶に頼るのがぼくには快感です。(この馬鹿者!)(ずいぶん昔、日本の唱歌や童謡についてそれなりに調べたことがありました。まことに面白いというか、日本の学校教育の歴史の重要な部分(それも核心部分)を学校(文部省)唱歌が占めているのではないかと邪推したのですが、その通りでした。 

 「言葉が旗」になり、「歌が旗」になるといいます。ばらばらの集団を一つにまとめるために歌(号令や合図のようなもの)が欠かせなかった。明治初期に伴奏がないと軍人は「行進」できなかったとされます。だから。唱歌導入でその望みどおりになったようです。国歌・校歌・社歌?などを思い浮かべてください。この旗のもとに人々(駒)を集めたし集まったんですね。「欲しがりません、勝つまでは」「一億火の玉」(ああ、怖ー)いまでもありませんか。「六甲おろし」か?

 下らない事例です。二十年の昔になりますか、ある出版社の経営者(社長さん)に誘われて東京両国の国技館に相撲見物に出かけました。相撲にはあまり興味がなかったが、升席とやらに案内され、そこで卑しい根性丸出しで、相撲そっちのけの「酒盛り」を始めました。気づいたら、千秋楽(それすら知らなかった)の取り組みがすべて終わっていた。だれ?優勝したのは?多分貴乃花とかいう横綱でしたか。やがて場内アナウンスで「脱帽願います」「ご起立願います」「ご唱和を願います」とかなんとか。ぼくらは坐ったまま好きな酒(今は一滴も飲みません)の盃をかさねていた。しばらくしたら、いやな雰囲気ときつい視線を感じ、それと同時に「非国民」だか「国賊」だかという言葉で罵られた。驚いたね。「君が代」を歌わず酒を飲んでいるトンデモナイやからだというわけ。そのときぼくは「何言いやがる」と啖呵をきったどうかはどうでもいいこと。歌が旗になりますというほんの一例です。

(学校教育と唱歌に関しては、もうすでにいろいろな方が書かれていますから詳細はそちらに譲ります。じつに面白いというか、信じられないエピソードに溢れているのですが。その時のぼくのメモはいまもあるはずです。今はやりの「改ざん」「墨ぬり」その他手段を尽くして、唱歌を悪用しました。「蛍の光」は領土拡張の伴奏、「汽車」には兵隊さんが乗車していた、栗の実煮てます囲炉裏端という「里の秋」家のお父さんは戦地で戦っている。その他もろもろです。「少国民諸君」と叱咤され激励された時代がありました。「それがどうした」と、いまならいわれそうですね。(「別にー」とでも言っておこうか)文書改ざん、成績偽造、証拠隠滅等々の破廉恥行為は「美しい国」の麗しき伝統・順風美俗でしたね。情けないというか、ああ無常、ああ無情だね。

 桂さんはそのような家庭環境にある長兄として、幼い兄弟姉妹の面倒を見たり、暮らしの足しになるような稼ぎを求められたのは当然でした。ほどなくして、神田だったかにあった雑誌の出版社に勤務。(後年、この会社は日本橋「丸善」で、こんにちは「丸善雄松堂」と看板がかかっています。二つの会社にはそれぞれにぼくはいささかの因縁がありますが、ここでは触れない。その一部になります。「丸善」の創業者だった早矢仕有的は「ハヤシライス」を作ったといわれる人。英国留学中の漱石と関係します。というか漱石のノイローゼを助けたとか。同時期に「味の素」創業の池田菊苗がいます。グルタミンの化学者。彼も漱石を救った人)

 清水さんの同僚には『浜千鳥』の作詞者の鹿島鳴秋氏や後年の作家山手樹一郎氏がおられた。そのかたわらで詩作に励み、雑誌の投稿していました。「すずめの学校」は1922(大正11)年が初出。作曲は弘田龍太郎氏。彼は「浜千鳥」の作曲も手がけました。高知出身。歌詞をよく見るとすずめの学校の先生は「むちを振り」、生徒のすずめは「お口をそろえて」「チイパッパ」とある。時代はどうだったか。祖国は日清・日露の両戦争に「勝鬨(かちどき)をあげ」いよいよさかんに他地域に乗り出そうと意気盛んな時期に当たっていた。それに歩調だか口調だかをあわせるがごとく、「すずめの学校」は帝国主義や軍国主義を謳歌したとされる向きもあるが、ぼくはそういう風にはとらない。すずめがねえ、といいたい。

 この時期はたしかに日本国家の拡張期、産業革命期に当たっていた。一等国とか二等国と内外にむけて喧しい雄叫びを列島民の多くが挙げていました。清水さんにはこの歌のほかに「靴が鳴る」(大正8年)、「叱られて」(大正9)、「緑のそよ風」(昭和23年)などがある。これはぼくのあて推量ですから、まちがっているかもしれない。彼は戦争応援や軍国主義の片棒だか先棒を担いだのではなかろう。担げ(が)なかったと思いたい。片棒・先棒を担いだり突き刺したりした著名人は五万といる。それで「文化勲章」に「輝いた人」はじつにおおくいます。そのための勲章だね。

 幼児期に生母と別れ、やがて継母に育てられるが、二人のつながりは強くはなかった。長兄として幼い弟妹の面倒(炊事・洗濯・掃除などなど)を見ざるを得なかった。お腹をすかした幼子たちに食事をあてがうことは日常であったと思います。生母への思慕はかぎりなく深かったと思う。

 自らが先生役になって、「チイチイパッパ チイパッパ」と声を上げて、なだめたりすかしたりしたのではなかったか。この掛け声は「父(ちーち)・母(はーは)」だったとどなたかが言われていましたが、ぼくは賛成します。どこだったか、かなり昔の記憶だからはずれているか、あるいはもうやめているかもしれませんが、東武東上線の「和光」駅(と思う)には「叱られて」のメロディが流れていたような気がします。(後で確認します)この曲も彼の生い立ちから生まれた、まあ「自伝」だと考えていい。彼自身の生活記録が「歌詞」の原型になったとぼくはみています。なつかしい、心がなごむ、けどどこか物悲しい、そんな雰囲気をいつも清水さんの曲から受けます。

 とすると、「すずめの学校」はめだかとちがっていたのかなという疑問がわいてきます。それは軍事教練や戦争を連想させる歌だったというが、そうではなさそうです。これは人それぞれの感受性の問題でしょうから、ぼくはこのように感じた(い)というだけでいいと思う。ところで、このところすずめが少なくなったという声が聞こえてきます。まさか絶滅危惧種になってはいないと思うが、どん欲な人間のことだから、すずめの行く末が心配です。(たかがすずめだし、童謡だよ。難しく考えるな、と「叱られて」しまいそう)これも相当に昔の話です。友人に誘われ、台東区の上野(恩賜=天皇陛下からいただいたという意味。)公園内にある「スズメや」だったか、すずめの焼き鳥を出す店に行ったことがあります。少しは食べようとした気がしますが、あまり気が乗らなかった。舌切り雀を連想したのかどうか。今はないかも?

 清水さんは18歳で職に就き、親がわりになって、弟妹の世話に明け暮れ、家計を盛り立てた。そのうえで、詩作し、歌を作り自らの成長(宿願)をも果たそうとした。あえて言いたいのは、この時期、つまり日露戦争直後の時代、清水さんは幼児から小中学校生(今でいえば)までの家族の面倒を見ながら、社会に出ていたのです。(当時は尋常小学校、高等小学校と称されていました)国民の大半は尋常小学校卒(形式卒が多かった)でした。だから、清水桂先生は幼い弟妹のために「ホームスクール」を営んでいた、その家庭学校の主題曲が「すずめの学校」だったというわけです。

 このような「ホームスクール」はこの列島に限らず、人間の集団が存在しているところでは、あらゆる時代、あらゆる場所であたりまえに営まれていたにちがいない。家族のつながりは今日の時代に生きる私たちの想像をはるかにこえて強いものだったと考えていいでしょう。比較するのも変ですが、ホルトたちよりよほど早い時代に、「家庭教育」(home school)は機能していた。子育てこそは、親や家族の絶好の教育機会だった。学校に「子どもの教育」を任せきりにしたのは、はっきりした時代背景や営業目的があったと思われます。学校に子どもたちを預けるには明確な理由がありました。家庭や親の側のというより、「日本という新興国家」の側に、でした。

 清水桂さんは敗戦後の1951年、わずか53歳で永眠されました。とても酒好きな方で、「飲めないなら、生きていても…」と言っていたそうです。お墓は文京区本駒込の吉祥寺。その昔、学生時代に本郷にしばらくいましたので、散歩の折に彼のお墓に数回お参り?したことがあります。清水さんはぼくにはいかにも懐かしい人です。おだやかで静かな人だったように、ぼくには思われます。(根拠はありませんが)「ちち はは」がぼくの記憶の中でいつまでも共鳴しているようです。(「すずめの学校」の項はここまで。さて、ようやく閑話休題となりますか)

 追加 以下の文章はあるところで話した際のメモ書きです。もう十五年ほども前のことです。参考になるかならぬか。蛇足として転載します。上の文章の中でたくさんの「弟妹」としましたが、ぼくの記憶違いで「下には七人の侍、いや弟たち」がいました。訂正です。

ところで、清水かつらです。彼は深川で生まれ、四歳の時に生母は離縁されました。十二歳で継母が家に入り、商業学校を経て英語学校に入るのですが、そこを中退します。そして、大正五年、当時神田にあった出版社に勤めます。そこで鹿島鳴秋や山手樹一郎らと出会います。鳴秋は「浜千鳥」「金魚のひるね」の作詞家となります。山手は作家です。

 この時期、鈴木三重吉が「赤い鳥」(大正7年)を創刊します。いわゆる教育におけるロマン主義の時代でした。かつらは大正八年に「靴が鳴る」、九年には「叱られて」を、十一年には「雀の学校」を、作詞します。(これに曲をつけたのが高知県は安芸出身の弘田龍太郎でした。弘田は「「鯉のぼり」「浜千鳥」「春よ来い」など実にたくさんの童謡を作曲した人です。) 

 かつらが二十四歳の時に八男が生まれたのですが(一月)、その直後(三月)に父は死亡します。その年の九月には関東大震災が起こりました。家も財産もすべてを失います。そして継母の実家のあった埼玉県の新倉村に越し、さらにその後白子村(現、和光市白子)に転居し、亡くなるまでを当地で暮らしました。戦後にも活躍し、「みどりのそよ風」(昭和二十三年)を書きましたが、二十六年に五十三歳で亡くなりました。(「みどりのそよ風」の曲は草川信で、彼には、このほかに「夕焼小焼」「揺籠の歌」「どこかで春が」などがあります。)

 「雀の学校」の詩が作られたとき、かつらは二十四歳。彼の下には七人の弟たちがいました。父の死後、家計は彼の肩にのしかかり、弟たちにとっては「父親代わり」というよりは「父」そのものだったのではないかとおもわれます。かつらの作った詞・詩をよく読んでみます。くりかえし読んでみるのです。そこには観念的な子ども観は少しもみられない。「子どもは宝」だというのが清水かつらの信念であったといわれています。(2020/2/16) 

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。

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