教師は教えなかった、だから…

〔ある時期、ある場所の「教師vs生徒」〕

 わたしは、ひとはひとに影響を与えることも影響をうけることもできない、という太宰治の言葉が好きだ。この言葉はひとはひとに教えることもひとから教えられることもできない、ということをも意味している。遠山さんはわたしに教えたのではなかった。だからわたしは教えられたのだ。遠山さんはわたしに教えた。だからわたしはそのことを教えられなかった。多くの学生たちのあいだには教授はただ敬遠すべき偽善者たちであり、大学は諸悪の根源であり、ただ通過すればいいと考えている怠惰でひねこびた箸にも棒にもかからない暗鬱な存在がきっといる。かれらに取柄があるとすれば、ただ無垢で無償でありたいという願望だけだ。わたしはそんな学生の一人であった。遠山さんの教育理念と情熱をもってしても、このような存在は落ちこぼれるほかないにちがいない。だがわたしの信じているところではこのような存在の地平を解明するところに膨大な未知数の課題が開かれているはずであった。(吉本隆明「遠山啓」『追悼私記』・ちくま文庫所収)

 遠山啓さん(1909~1979)は熊本生まれ。東京工業大学の教授を務められ、同時に算数・数学教育にも情熱を傾けられました。数学計算における「水道方式」を提唱。雑誌『ひと』創刊。さらには広く教育全般に対して発言をつづけられた。一方、吉本さんは東京工大卒の詩人・評論家。この「遠山啓」は追悼文として79年に書かれた。

 敗戦直後、西日が落ちかかった東工大の階段教室で遠山さんは「量子論の数学的基礎」という講義をされていた。その講義に参加したときの情景を、後年いくども思うかべたと吉本さんは書かれています。粗末な詰め襟の国民服姿での「量子化された物質粒子の挙動を描写するために必要な数学的な背景と概念をはっきりと与えようとする」講義だった。

遠山啓さん

 ことの発端は、敗戦直後に工場動員から帰ってきた学生たちの数人が「なんでもいいから講義してくれという。ぼくたちは大学にはいったが、工場動員の連続で、ロクな教育を受けていない、だから、講義というものに飢えているのだ」ということからだった。「率直にいうと、長い教師生活のなかで、そのときほど熱をこめて講義したことはなかったような気がする。講義をきくほうも、するほうもなにかに利用しようという目的もなく、まったく無償の行為だったからであろう」(遠山啓「卒業証書のない大学」)

 「教える―教えられる」ということ

 「遠山さんはわたしに教えたのではなかった。だからわたしは教えられたのだ。遠山さんはわたしに教えた。だからわたしはそのことを教えられなかった。」

 吉本さんのこの指摘こそ、願わしい「教育」というものが内包しているはずの真髄を言いあてているとぼくは直観しました。これをべつの言い方になおせば、「先生が教えたから、わたしは学ばなかった。先生が教えなかったから、私は学んだ」と。これを学べ、という強要から、なにが生まれるのか「千六百年に関ヶ原の戦があった」と教えられるが、それでなにを学んだことになるのか。

 さらに、吉本さんはつづけられます。

 「物心ついてから、がさつな生活と戦争と敗戦の荒廃しかしらず、およそ教養の匂いなどひとかけらももっていないわたしには、この講義がつくりあげている稀にみる稠密(ちゅうみつ)な潜熱のような雰囲気が貴重なもののように思われた」(同上)

二人静か
一人静か

 なんだってそうですが、他者といっしょになにかをなしとげるのであって、授業も教室にいる全員が協力して作り出すものではないですか。教室(にかぎらない〉で教師は独り相撲を取る場合がきわめて多い。教室を土俵に見立てると、そこにいるのは教師ばかりという殺風景な場面が浮かびます。「一人(教師)静か」や「二人(教師・生徒)静か」はいただけない。それは花の名であり酒の銘柄にもありますから、そちらに譲り、互いが一瞬の「無償の行為」に浸りきるという、そんな経験をしたことがある人は、それだけで幸せだったろうと羨ましくなるのです。「優劣の彼方」で行われる「無償の行為」というものかもしれません。(「稠密な潜熱」の土俵上)(吉本さんの続きです)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

教育とは〈予想する〉…

 以下は、むのたけじ(1915~2016)という新聞人が実際に学校で経験した話です。

《…ぼくの旧制中学時代(現在秋田県立横手高校にぼくは昭和二年四月から同七年三月まで在学した)のことを思いだしたので、書いてみよう。当時は上級生の下級生に対する鉄拳制裁が「質実剛健の校風助長に役立つ」としてなかば公認されていた。最上級の五年生は週一回か二回、下級生全員を雨天体操場に集め、かねて生意気だと目星をつけていた下級生をみんなの前でなぐったり蹴ったりした。あまり行きすぎないように監督するため、教師が当番制で体操場にはいってきたが、集団心理でいたけだかになっている最上級生たちは声をそろえて教師のアダナを連呼し「帰れ、帰れ」と怒鳴った。それで姿を消す教師もいたが、じっと立ちつくしている教師もいた。

 その教師は、近ごろ見る写真ではずいぶん肥えて良いかっぷくをしているが、当時は全くやせ細っていて声も弱々しかったので「ヨガ(夜蛾)」とアダナされていた。だから、その教師が制裁の場へはいってくると、悪童達は「いまは昼だ、ヨガの出る幕じゃない、時間をまちがえるな、帰れ、帰れ」と怒鳴った。教師にとってそれは堪えがたい屈辱であったろうが、その教師は体操場の一隅に立ち続けて情景をみつめていた。石のようにだまりこくったポーズは、岩のようにきびしかった。そのとき、教師と生徒達の間には火花の散る決闘に似た何かが流れたのをぼくは思い出す。(左写真は石坂洋次郎さん・1900-1986)

 その教師、石坂洋次郎さんがその後たくさんの青春小説を書くことができた源泉は、あの<踏みこんだきびしさ>の中でつちかわれたものかどうか、ぼくにはわからないが、けれども、ぼくら当時の悪童連の側ではいまでも同級会を催すと、ご本人不在のところでヨガ、ヨガとよんで敬愛の話題はつきない。ぼく個人についていえば、石坂文学に心ひかれることは少ないが、国語と作文と倫理の授業を担当した「すばらしい教師・石坂洋次郎」に対する尊敬と感謝は、あれから三五年すぎた現在もかわらない。(「高校生への手紙」・65/05)

 もう一つ。敗戦直前(1945/8)の一コマです。ここにも教育・教育者というものを考える上で大切なヒントがあるように思う。

 《ヒロシマに原爆のおとされる約一週間前、私は月島方面にあった東京府立商業学校(現在の都立第三商業高校、昭和三年設立)へ講演に行った。その学校から新聞社へ「戦意高揚の講演に記者を派遣してほしい」という申し込みがあって、当時極度に少人数となっていた社会部員の中から偶然私が指名されたのであった。そのとき何を話したかをあらましおぼえている。私は、東南アジア先々への従軍体験をもとに、アジア諸民族の独立を求めてやまぬ課題は情勢がどうなろうと生きつづけると述べ、だからわれわれ日本人はたたかい抜かねばならないと説いた。日本が勝とは考えなかったが、負けることを望んでもいなかった私がそのときに若者たちに語ったことは、明白に「戦意高揚」の言葉であった》

 むのさんは中学を卒業して奉公に出ることになっていた。家計の余裕がなかったからです。「成績が優秀なんだから、上の学校に出してやれ」という篤志家の援助で東京の学校に入ることになった。(現在の)東京外国語大学卒業後に新聞記者になります。このエピソードは別の新聞社に就職していたときのことでした。

《ところが玄関まで見送ってきた校長は、質問するようでもあれば独語するようでもある口調で、「いよいよ民主主義の時代ですなあ。民主主義はこの国でどのように展開されるでしょうねえ」と行った。私はギョッとした。私は何も言わずに校長の顔を見た。ああ、じれったい、その名前が思い出せない。背の低い私の顔とほぼ同じ高さにあったその人の顔は微笑もせず緊張もしていなかった。五十を一つか二つこしたと思われるその人は、頭髪がうすく、顔のつくりは平凡で、当時だれもが着た国民服ではなく背広を着て、ネズミ色のネクタイをしめていた。その人から受けたショックは二十年たったいまもなまなましいのに、どうして名前を忘れてしまったのだろう……》

 初めて会った一人の校長の言葉は、むのさんに大きなナゾを投げかけたようです。

 《ともあれ、戦時中に私が「民主主義」という単語を日本人の口から聞いたのはそれがはじめてで、それきりであったのだが、その約二週間後――私は敗戦の日の日付で勤務先に辞表を出してもう野人生活をはじめていたが、浦和市本太の麦畑の中にあったわが家へ、あの商業学校の小使さんが現在(今からほぼ55年前)なら二万円に相当する金額のはいった角封筒を持ってたずねてきた。そして「これは講演の謝礼です。……その記者(むのさん)は朝日新聞社にはとどまっていないだろう、きっとやめているだろう、と校長先生が言ってました」と言った。

 一人の教育者が初対面の俄か弁士にむかって「民主主義」を言うことができたのは、なぜであったか。なぜ私の退社を、当の私でさえ辞表を書く日までそんなことになるとは思ってもいなかったのに、彼は推断できたのか。本人から説明を聞ける機会を持たずに経過してしまったが、彼の側の説明がどうあれ、この出来事から〈教育とは、予想することだ〉という実感を私は抱いた。(「教師たちに問う」・1965/05)

 ぼくはあるとき、たまたま大きな集会(二千人くらい)で雑談をする機会を与えられた(それは、ある年の「入学式」においてでした)。ほとんどが若い人たちだったので、むのさんのエピソードを急いで騙りました。集会が終わった直後に、一人の青年(新入生)がぼくのところに来て「おばあちゃんがむのさんの友達で、いつもむのさんの話を聞いていた。こんな場所でむのさんのことを聞くとは思ってもいなかったので感激した。早速おばあちゃんに伝えます」という。彼は秋田から上京したばかりでした。いかにもむのさんらしいなあ、いまも元気なんだと感じ入ったことがありました。その二年後だったか、むのさんは亡くなられました。

◎ むのたけじむのたけじ( 1915~2016)ジャーナリスト= 「戦争絶滅」を訴え続けた、ジャーナリスト・むのたけじ(本名・武野武治)。21歳で報道の世界に入り、101歳で亡くなるまで、日本の戦前戦後を鋭く見続けた。むのは大正4年(1915年)秋田県の小作農民の家に生まれる。働いても働いても、貧困から抜け出せない―貧富の絶対的格差の中で働く両親を目の当たりにして育ち、「社会の仕組みを変える」と決意する。東京外国語学校(現・東京外大)へ入学、報知新聞を経て昭和15年朝日新聞社に入社。戦争へと突き進む政治の裏側を取材。その後、従軍記者として中国・東南アジアの戦場を目の当たりにする。直ぐに終わると言われた戦争は泥沼の一途を辿る。拍車をかけたのは、‘国益に反することは書かない’と新聞社自らが課した‘自主規制’による報道の「嘘」だった。記者でありながら真実を書くことが出来なかった悔恨から、むのは昭和20年、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」と終戦の日に退社。(↷)

 「ジャーナリストは何が出来たのか」。そして、「どうすれば人間が幸せに暮らせる社会が出来るのか」。二つの命題を胸に、故郷の秋田に戻り週刊新聞「たいまつ」を創刊する。読者とともに作る新聞を目指し、常に生活者の視点から日本そして世界の姿を見つめ、鋭く深い思索に裏打ちされた言葉を紡ぎ出してきた。そこには「日本は地域から生まれ変わる必要がある」という強い思いが根ざしていた。90歳を迎えてからは、憲法9条の大切さを精力的に訴えて講演活動を重ね、反戦を訴える若者たちを応援、子供たちに向けた本を記した。「ジャーナリズムとは、歴史の日記。過去に何があって現在に至っているのか。何をやって、何をやらなかったのか。人間の歩みを伝えるのが、私たち古い世代の仕事なのだ」。『平和を手渡す』という強い決意を胸に、ジャーナリストとして生きぬいた。(NHK・アーカイブス)(https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250497_00000)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

今日は天気がいいね

《校長先生のことをおぼえている。七十年たってもおぼえているのは、めずらしいと思う。

 旧東京市を横切り、電車を乗りついで小学校に達するのだが、一年生には苦しかった。他にもそういう一年生がいるらしく、朝礼のとき、ぱたん、ぱたんと倒れる気配がする日もあった。

  校長先生の話は、みじかかった。

 「今日は天気がいいね。」

 それだけ言って壇から降りてしまうこともあった。全校生徒八百人を前にして、それだけ言って終わるのは、今、私が老人になってみると、めずらしいことだと思う。高い位置に昇ったことのある人は、引退してからも、話が長い。結婚披露宴などに呼ばれて、話のとまらない人は、高い位置に昇ったことのある人だ。

 校長先生は、雨の日に校内の廊下などですれちがうと、「○○君、元気か」などと呼びかけてくる。一年生それぞれにそうだった。

 一年生は、全校生徒八百人の中にはじめて入ると、恐怖をいつももっている。愉快とは言えない。朝礼の時の他にも、校長先生はときどき、話をすることがあった。そのときには、すこし長めで、その話を七つ八つ、今もおぼえている。

  当時、先生は初老で、今、私が八十二歳になって考えてみると、新入生の名前をおぼえるのに努力が必要だったろう。おそらく、新入生の写真と名前をあわせておぼえるように、自分なりの練習をしたにちがいない。そして名簿を読み上げるのとちがって、偶然に出会うときに心から湧き出るように、その名を呼んだ。

  十年あまりたって、私(鶴見)はアメリカの捕虜収容所にいた。便所掃除のコツを教える、白いひげの上杉さんという老人がいた。私が当番にあたったとき、上杉さんは私に、「君は高等師範の附属小学校だろう」とたずねた。「そうです。」

 すると、「君たちの小学校の校長先生が、会いたいと言うので、ジョン・デューイのところにつれていったことがあるよ。」

 そうか。朝礼の訓示がみじかかったのは、デューイから来たのか。すれちがったときに、一対一で、生徒の名前を呼ぶというのも、デューイから来ているのか。(鶴見俊輔『思い出袋』岩波新書、2010年)

 高師の附属小学校の校長は教授が務めるのが慣例でしたから。佐々木秀一先生も教育学の歴とした教授だった。(「高師」とは「東京高等師範学校」で戦前の教員養成学校の頂点に位置していた。その後は「東京文理大学」、「東京教育大学」から「筑波大学」と変名・変装して現在に至っている)当時の佐々木先生の令名はたいへんなものだったと思われます。著述もかなりの数がありました。(ぼくも何冊かは所有している)鶴見さんは佐々木さんがいかなる人物だったか、当時はもちろんのこと、その後(この著書を書かれた時期)もご存じなかったようで、ただただ挨拶の短い校長、デューイ直伝のプラグマティストと判断されたのでしょう。その判断の是非はともかく、ある意味では佐々木校長に真性の(と思われる)プラグマティズムが生きていることに驚かれたのです。

文京区茗荷谷にあった校舎。卒業生は「茗渓会」に属し、長く劣島の教員人事を牛耳っていた。(ぼくはメーケーではない)

 実はちょっとした因縁があります。ここに書くのは余計なことですが、ぼくは佐々木さんの孫筋に当たるようだと気づいたのはかなり前です。大学・大学院(行ったのは無駄だった)時代の教師が元教育大学教授で佐々木さんの後輩でした。この教授は高名な人で、たくさんの著書も書いていた。ぼくはいつも暇だったので、彼の戦前・戦中期に書かれた本を読んでいやな気分に襲われたのを今でも記憶している。故人の評価にかかわる話で、とやかく言いたくないのですが、大変な「国家主義・国粋主義」の人でした。(多かれ少なかれ、地位ある人間どもが権力に靡いた時代だったから、無謀な戦争に走ったのだと思います)ぼくが出会った時期(二十歳頃)はそれを隠して教授は「立派なクリスチャン」だった。さらに「嘘つきのキリスト教徒」というイメージをいだかされたのは、彼が亡くなった時でした。教師不信は止むことがなかった、とは自分で招いた不幸だったね)

 以後、若気の至りか、その教授のマヤカシ性が頭について離れなくなりました。(これもまた、貧相なぼくの「教師の面影」かもしれない。ひねくれていたから、「悪い面影」しかぼくには残っていないことになる。残念なことだ)

《明治に入って、プラグマティズムは、ウィリアム・ジェイムズを通して三人の知識人に深い影響をあたえた。夏目漱石、西田幾多郎、柳宗悦。その後、日本の哲学者のあいだでは、消えてしまった。だが、大学教授から遠く離れて、佐々木秀一という小学校校長の教育の中に、これはジェイムズではなく、デューイを通してだが、プラグマティズムは生きていた。》(同上)

 佐々木さんのデューイ論はここでは触れませんが、学生時代からぼくもジョン・デューイはたくさん読んでいました。彼の『民主主義と教育』(Democracy and Education. 1916年)はいまなお、ぼくの身近にありますね。デューイについても騙る種は尽きませんな。「日本の哲学者のあいだでは、消えてしまった」と鶴見さんは言われるが、いやちがいます、とぼくはいいたい。田中王堂から石橋湛山へと、それから…と。戦後の51年、デューイはこの島にやってきていくつかの講演をしています。大正期にも来日していますね。いずれ騙りますかな。(脇道にそれて、終わり) 

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怠け者先生

 戦後の島の文学史に大きな足跡(ダイダラボッチみたい)を残された吉本隆明さん(1923-2012)の「私の教師」経験談です。教師とは何者だったか。

 《この教師は一見怠け者で、自分が授業をしたくないと、生徒に代わるがわる授業をやらせたり、視学官が授業参観にくるという日は、その前日に主だった生徒を呼んで、「あしたの授業ではこういう質問をしろ」と振り当てた。八百長で、生徒は面白がった。わたしが覚えているのは、「吉本、おまえは、蚊はどうしてぶーんとうなりをあげるのですかと質問しろ」といわれたことだ。いってみれば「八百長授業」だが、それが面白かった。この先生の近くに寄ると、ときどき酒の匂いが残っているような人だったが。何とはなしに好意をもっていた》(吉本隆明『こどもはぜーんぶわかってる』批評社、05年)

 吉本さんはこの教師がとても好きだったという。なぜだか理由はわからなかったが、とにかく好きだった。「けれど僕らから見ても、とにかく怠け者の先生」だった。(ヘッダー写真:https://forms.gle/wjaoXEzjQukUk44n8)

 《自分の授業中に、地理の時間なら地理が得意なやつに「あっ、お前」なんて呼びつけて「お前、これを説明しろ」などと言うのです。この地域の県庁所在地はどこで、この地域の特産物は何かとかを説明させて、自分は椅子に座っているだけで何もしないのです。また、呼び出されて傍に寄ると昼間なのに酒の臭いがぷんぷんするわけです〈笑〉。そうするとこの先生は夕べお酒飲んだのだなって思うわけです》(同上)

 いい先生、いい父親、いい母親、そしていい子ども。おそらくこんな幻影(観念)に呪縛されてきたのがこの社会の多くの人びとだった。「いい教師」とはだれにとってか。かりに子どもにとって「いい教師」といったところで、すべての子どもの「いい教師」になれるとは考えられない。「いい先生」の中身は千差万別です。「どんな人もだれかの教師になる」という意味のことを言ったのはニーチェだった。

 吉本さんはこの怠け者の教師が好きだった。どうして好きなのか、それがあるとき「これだと思った」というのです。

 同じ学校に、若いまじめな教師がいた。なんでこんなに怒るのかわけがわからなかった。ベーゴマをやっていると見回りに来る。さっと隠して、彼がいなくなるとまたやり出す。その教師が朝礼で「ベーゴマしていた奴は前に出てこい!」と詰問した。だれも出て行かないで黙っていたら、「何でお前たちは正直じゃないのか」と怒鳴り散らした。

 怠け者の先生は三年のとき吉本さんの担任でしたが、生徒たちの後ろ側の肋木(ろくぼく)に寄りかかって若い教師のお説教を聞いていた。

 《僕らも罪の意識がありましたから指摘されたら困るなと思って俯いてドキドキ不安になっているときに、怠け者の先生が突然「わかりません!」「聞こえません!」って大きな声を出して怒鳴りだしたのです。僕はアッと驚きました。そしてわかったのですね。ああ、この先生はその若い先生に反発している、反発していることが伝わるように大きな声で言う、そういう先生だったのだと。そういうことは一回しかなかったのですが、普段は怠け者の先生なので何でこういう先生が好きなのか僕は自分でもわからなかったのですが、このときに気付いたのです》(同上)

 吉本さんは「アッと驚き」、この怠け者教師の神髄を直感(直観)したというんですね。隆明さんは佃島育ちだったと思います。「江戸」がまだ残っていた時代だったかもしれない。授業中に酔っぱらって教室に入る教師が生息していた。教師の質(良か悪か)を子どもというものは言葉を使わないで掴む。そのグリップの方法は確かだとぼくにも思われる節があります。

《肝心なのは生涯の問題か瞬間の問題か、ということがいいたいだけだ。そこをちゃんと区別しないといけない。何事であれ、熱心に教えれば子供が乗ってくるかもしれない。だがそれがどうしたというのだ。大事なことはそこにはない。生涯にかかわる問題をもっと大事にすることだ》(『家族のゆくえ』光文社、06年) 

 少し飛躍気味ですが、「肝心なのは生涯の問題か瞬間の問題か」。教師が子どもにむけて仕掛けるのは「生涯の問題」なんだというわけです。この機微はゆっくりと考えてみる必要がありそうです。(「吉本、教師を体験する」はつづく)

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「十年一昔」かね

 この島社会にはたくさんのことわざ(諺)がありました。今はなくなったといいたいね。諺が生まれ出るような生活もなければ知恵も失われたと考えているからです。諺は生活の知恵でしたから。「十年一昔」という俚諺はどういう意味だったか。今はあまり使われなくなったのは、その諺に表現されていた「現実」や「現象」がなくなってしまったからでしょう。「世の中は移り変わりが激しく、10年もたつともう昔のこととなってしまう」(デジタル大辞泉)というらしい。また反対に「十年一日」ともいうのね。(「同じ状態がずっと続いて、進歩や発展がないさま」)(同前)

 ここに、果たして十年前はどんな「昔」であり「一日(いちじつ)」だったかを確かめるつもりで「旧聞」を出してみた。社会や人間はずいぶん変わるのか、あんまり変わらないのか。変わる部分と変わらない部分があるんだといえば、身も蓋もありませんぜ。

「ドイツには「カラスは仲間の目玉をえぐらない」ということわざがあるという。動物行動学者のローレンツはこれはことわざとしては例外的に正しいと述べる。あの鋭いくちばしで仲間の目を突いていたら、カラスはすぐに絶滅するからである▲一方、彼は小さなくちばししかもたぬキジバトとジュズカケバトを飼っていた。ある日彼が帰ると、キジバトが羽毛ばかりか皮までむしられ、倒れている。ジュズカケバトはその上からなおも相手の傷をつついていたのだ▲ローレンツによれば、強い牙やツメ、くちばしなどのある動物は同種への攻撃を抑制する本能をもつ。それに対し無力な動物は仲間への攻撃の歯止めを欠き、人間もその一つらしい。だが文明は、攻撃性の抑制がきかない人間に武器という攻撃力を与えたというのだ」(毎日新聞・10/06/23)

カラス

 コンラート・ローレンツ(1903-1987)はオーストリア生まれの動物行動学者。刷り込み理論で名高い。1973年にノーベル医学生理学賞受賞。たくさんの著書を書いています。彼の理論にはいくつかの修正も加えられてきました。(ここでは、遺憾ながら詳細は省く)

 上の記事に続いて「旧聞」です。

 「広島県内のマツダの工場で42歳の男が乗用車を暴走させて従業員を次々にはね、11人を死傷させた。男は同社の元期間工で、「マツダをクビになり、うらみがあった」「むしゃくしゃしていた。どうでもよくなった」などと自暴自棄ともいえる供述をしているという▲(中略)車であれ、刃物であれ、自分がどうなってもいいという殺意に操られればたちまち多数の人命を脅かす。攻撃を抑制する本能に代えてモラルや情理を蓄えた人間の社会だが、それをあざ笑うかのような攻撃衝動は今どうして噴き出るのか」(同上)

 次は大学の登場です。十年前の大学事情ですね。「今は昔」、それとも「今も昔も」か。

 「昨年の「大学の実力」調査で8割強もの大学が開いていた保護者会。そこには、学生を一人前の社会人に育てようと懸命な現場の姿が浮かぶ。関西の私立大が保護者との「懇談会」を始めたのは7年前。全国各地に学長ら教職員が年に数回出かけ、個人面談も行う。「学生に関する情報が欲しい」と学生部長。学生支援には親の協力が不可欠と強調する。

関西のK大学の「保護者会」風景ですって。盛況ですね。

 保護者向けの大学見学会などを行う別の私立大の教員は、「親を教育したい」と打ち明ける。学生の代わりに履修登録をする、授業中の私語を注意したことに抗議する。さらには「気に入らない就職先なら、働かなくていい。養ってあげるよ」と言う親さえいるという。「親自身が自立の妨げをしていることに気づいてほしい」と嘆く。

 ある国立大の教員は「もうリポートを書けません」と親に泣きつかれたことがあると苦笑していた。入学以来、わが子に代わって課題に取り組んできたが、専門課程で付いていけなくなったというのだ。大学が運営に腐心する保護者会の取り組みは、間違った親の出番を軌道修正する意味も持って、ますます重みを増すようだ」(松本美奈)(2010年6月24日  読売新聞)

 学校のもっている大切な機能・役割のなかでほとんど等閑に附されているのはなにか。子どもを人質(出汁・だし)にして、親を再教育することです。そんなことは考えられもしないという向きもあるが、じつはこれこそもっとも重要な学校の働きなのだとぼくはずっと考えてきた。その理由はいたって簡明です。子どもがじゅうぶんに安心して育つためには、まずもっとも長いつきあい(濃厚接触)を避けられない親の偏見や短慮、それに暴力から子どもを救う必要があるからです。

 もしも親たちが思慮の足りないままで「親でございます」「私がママよ」と子どもの前に立つとどうなるか。考えるまでもない。「親を教育したい」というだけではまだ不足で、親をこそ教育しなおすべきだというのです。これはけっして小中高校にかぎらない話で、大学もこの役割から自由ではないのさ。それがようやく大学人にも親たちにも気づかれだした。保護者会、おおいに結構ですな。それにしては手遅れだったね。

東京のC大学「父母連絡会」風景だそうです。「役員会」もありますよ。

 「親自身が自立の妨げをしていることに気づいてほしい」というのはいまに限らない話で、ぼくはうんと若かった二十歳頃から何人もの親から子どもの面倒をみてほしいと頼まれました。まあ、家庭教師といってかまわないが、それは子どものではなく、親の家庭教師だった。これは徹底していた。親の再教育はそんなに困難ではなかった。子どもが身の丈にあった成長をするために、親の考えや態度がどんなに大切かをひたすら納得させる性質のものでした。もしそれがうまくいけば、子どもはひとりで歩き出しますね。ようするに、「親の自立」ですよ。自立大学という学校だったね、ぼくが作ったのは。

ローレンツ父さんの後を追うアヒル

 さて、教師も親も自分は「キジバト・ジュズカケバト」か、あるいは「カラス」なのか、とくと考えてみるべきでしょう。新聞記事は「攻撃を抑制する本能」などとのんきなことをいっていますが、とんでもない、その「本能」こそが「教養」なんだ。じつに崇高な感情でもあるのですね。教養という「本能」が滅んで、ついに「攻撃性」が出番を得たんだね。「教養学部」はいつでも必要です。ブレーキとハンドルを踏み間違えないのが「教養」なんですよ。それは学歴とは全く関係ない。むしろ学歴は「まちがえなく踏む」ときの邪魔をするね。怖いですよ。

キジバト

 大学に保護者会なんて、という嘆きの声が当の大学内から起こったといいます。大学人の慨嘆はどういうことだったんですか。まさか、大学は「学問の不、いや学問の府」であり、「象牙の薹、いや塔」だから、そんなものはいらないというのだったら、顔を洗ってくださいというべきでしょうね。暢気に構えていると、キジバトが暴れだしますよ。もう暴れ放題か。いずれ企業社会にも「保護者会」「父母会」なる成人自立阻害組織ができるでしょう。いやもうとっくにできてるよ、君だけが知らないのさ。

 猫を被ったふりをしているが、「キジバト」はホントは怖いし獰猛なんです。学内にはカラスもハトも生息している。(ハトは「平和の使い」だなんて、だれがいったか)そぼ降る雨の中、家の引き込み電線に「平和の使い」がこちらを睨んででいます、ずっと。その横手にはカラスが。我が家にも保護者会を!

医者の見立てと易者の筮竹

 「医学校の同僚がある婦人のことを話してくれた。入念な検査の後、片方の腎臓がすっかり機能を失っていることを知らされた婦人は、そのショックで突然聴力を失い、何ヶ月もの間根気よく心理療法をづけて、やっと聞こえるようになったのだいう。同僚はこのような起きなくてもいい病気が起きる事例を問題視していた。診断を伝えるときのいつものやり方が、本来の病気に劣らず深刻な問題を引き起こしているのである。

 私が会って話をするように頼まれた人たちは大半ががん患者だったが、ほかにもありとあらゆる重病の患者がいた。多発性硬化症、硬皮症、糖尿病、心臓病、パーキンソン病…。こうしたケースで目立った事実は、診断が出たとたんに病気が悪化したということである」(ノーマン・カズンズ『ヘッド・ファースト ―希望の生命学』春秋社刊。1992年)

 カズンズ(1912~1990)はアメリカ屈指のジャーナリスト。加えて、多彩な平和運動を果敢につづけた人でもあった。(拙ブログでも以前に触れておきました)

 自らの重病回復体験をもとに『500分の一の奇蹟』『私は自力で心臓病を治した』等を発表。晩年の十年間はUCLA医学校のスタッフとして、精神神経免疫学という未知の領域に突きすすみ、「人間の脳には病気を克服しやすいようなからだの状態をつくり出す働きがある」ことを検証しようと、精力的に働いた。

 医者が診断を下したとたんに患者の症状がいちだんと悪化するのはなぜだろう。「もしかしたら症状にレッテルが貼られたとたんに、病気の攻撃に対抗しようとする彼らのからだの抵抗力がひどく減退してしまうのではないだろうか」 彼はそう推理した。

 こんなことを思案していたとき、「ロサンゼルス・タイムズ」に載った小さな記事を見つけます。フットボールの試合中、何人かの観客が食中毒症状を訴えた。診断の結果、全員がスタンド下の自販機でソフトドリンクを買ったことがわかった。主宰者は観客の安全に配慮し、マイクで「自販機で飲み物を買った人が食中毒になった。自販機は使わないでください」と場内に知らせた。

 その知らせが響きわたったとたん、スタジアムは吐き気をもよおす人や失神する人で 大混乱になった。(中略)五つの病院から救急車が出て、…入院が必要になった人も一〇〇人以上にのぼった。ところが、自販機はシロだった。それが判明したとたん、「病気は、不思議にも、はじまったときとまったく同じように突然消えてしまった」

 患者たちは病院のベッドから下りて、家に帰っていった。カズンズはいう。

 「決定的な働きをしたものは、病気が起きたときも、おさまったときも、『言葉』だった。言葉が心の力によって病気を助長する、あるいは回復を助長する方向に処理されたのである」だれかに対して、どんな言葉をつかうのか。医者でも教師でも、あるいは親でも、きっと忘れてはならない事柄ではないでしょうか。コミュニケーションというものが、どれほど安易に語られているか、現実のありさまは驚くべき事態にあるのではないか。

 「君は末期のがんである、余命は三ヶ月だ」と「宣告」する権限を医者はどこから手に入れたか。

どうするんですか?オークションに?

 この島社会の医療問題にもたくさんの課題が指摘されています。現下の「新型肺炎」にしても失わなくてもよかったいのちが粗末に扱われている。症状を訴えて病院に行くと、医者は診察しようともしない。医者もそうだが、官僚や政治屋が医者以上に権威や権限を振るっている現状をなんと形容したらいいのか。病人を診察するのも重要ですが、余計な口や手を出しすぎる政治屋や官僚たちをまず、診察台にのせるべきじゃありませんか。マスクを半端じゃない高値でオークションに出品していた県議がいた、静岡だったか。もう病院じゃあつかえないね。県議に嫌疑だもの。

古い映画(1957年松竹・原作は井伏鱒二・渋谷實監督)

 「生兵法は大怪我の基」だとはっきりと宣告すべし。ひょっとしてたいていの医者は「つける薬がない」「これ以上、手の尽くしようがありません」というかもしれない。やっぱりな。さて、どうするかだ?(いつも書きながら情けなくなるのはどうしたことだろう。医者に行かなきゃ。おっと、本日は休診日か。行かなくてよかった。月曜でも行かなかったろうね)

 医者の見立てと易者の筮竹(ぜいちく)、どちらも陽気の「気(卦)い」次第(拙作)。つまりは、当たるも八卦、当たらぬも…。お医者の頭に雀が留まる 留まるはずだよ藪だもの(ドドイツ)