私は立たない 坐っています

 もともと「教育」という行いは文化そのものだったといいたいのです。土地に根ざして営まれていたという意味です。それぞれの作物にふさわしい土壌があるように、その土地に根ざした「教えと学び」のスタイルがあった。にもかかわらず<教える>に特化してきたのが日本の近代学校教育でした。国是・国策としての「近代化」はひとえに教育、それも学校教育に頼りきりにならなければ進められなかったと信じられたからです。

 国家が創設した大学は、遅ればせの「近代化」をなしとげるエンジンの役割を押しつけられました。そこで教授されたのは、いうまでもなく西欧の文物、つまりは「新知識」だった。大学以下の教育体制が「近代化路線」に強引に参入させられたのは当然でした。すべての諸学校では中央から持ちこまれた教育内容をひたすら生徒や学生たちの脳髄にたたき込んだのです。それがいまなおつづいて、学校教育の「習い性」となったのでした。その結果、獲得された成果は「国民国家」という箱船に同乗した身内意識でありましたが、失われたものはその土地に独特の地味であり、風情というものでした。これは土地だけのことではなかったのは無論です。ひとりひとりの存在が独特の土壌だったからです。

 本日は立春の2日前。明治の初期に太陽暦に変えられる(明治五年十一月に改暦布告)以前、「立春」は旧暦正月、一年の初めでした。世間は「新春」を寿ぐ習いであったのです。新暦の今日では「入試の春」であり、「別れの春」「いまこそ、別れめ、いざさらば」と「泣いて喜ぶ日」だった人もいるでしょう。「もうあの嫌な教師に会わなくていい」「嫌いなやつとの別れはいいね」と。早い学校では「卒業式」なる行事が開かれるでしょう。今では「卒業証書授与式」というところも多いようです。どこが違うのですか。「(卒業)式」と「(卒業)証書授与式」では字数に多少があるし、それがもたらす印象や雰囲気も異なりそうですが。この「授与」という表現が曲者でしょう。誰が授与するのですか。ここにも長い歴史があります。いずれの御時にか、それに関しては触れざるを得ませんが、いまはスルーします。だれのための「式」かと問えば、「いうまでもない」という答が返ってきそうです。いつの時代でしたか、どこかの学校で式に参加しなければ卒業証書(だか入学証書』を発行しないと強弁した校長がいました。今でもいるのですか。「そんなものいらないよ」といえ!(ないか)。

 ぼくは「式」はなんであれ、好きじゃないというより「嫌い」でしたし、いまも、行きたくないですね、いかなる式でも。つい最近「結婚式」のお誘いをいただきましたが、無礼ながらお断りしました。まず参加したことがありません。義理を欠くことにおいて、ぼくはあるいは、褒められませんが、人後に落ちないと自認しています。なぜ嫌いなのか、理由はありますが、要するにだれのための「式」なのか疑問に思うばかりというのが一つの理由といえば理由。ある種の「無理強い」が性に合わないんですね。ここに、邪念いっぱいのわが心にもよみがえる一つの詩があります。

 鄙(ひな)ぶりの唄                                  

 それぞれの土から/陽炎(かげろう)のように/ふっと匂い立った旋律がある/愛されてひとびとに/永くうたいつがれてきた民謡がある

 なぜ国歌など/ものものしくうたう必要がありましょう/おおかたは侵略の血でよごれ/腹黒の過去を隠しもちながら/口を拭って起立して/直立不動でうたわなければならないか/聞かなければならないか

 私はは立たない 坐っています    (茨木のり子『倚りかからず』所収・筑摩書房、1999)

 鄙(ひな)というのは「都から離れた土地。田舎」、つまりは自然状態に近い土地・在所という意味。もちろん、人が住んでいる。人がいなければ「文化」は不要です。「それぞれの土」とは、ひとりひとりの分ということ。それぞれが自分の唄(言葉・思想)をもっている、自分に似合った唄をうたいたいというのは一つの態度であり、生きる姿勢(方法)です。自分の言葉で自分の感情を表現し、自らの唄を口ずさむ。それが生きるエネルギー。存在の根拠地。それこそ「文化」というものでした。時代はすっかり「文明」の時代に。人間が文化を生むけれども、文化が人を生み育てるのです。(茨木のり子さんは20歳の時が戦争のさなか。女学校時代には全校生徒の代表で軍事訓練の指揮をとったという。「かしらあー、右」とかなんとか。その自分の無残な「過ち」が許せなくて、この詩のような境地に至った。それに費やした時間は戦後の相当に長い時間だった)

 「私は立たない 坐っています」といえば、そんな不敬・不遜な態度は(公の名において)認めない、「お前だけを坐らせておくわけにはいかない」と、生徒も教師も「ものものしくうたう」ことを強いられる。滑稽かつ愚弄かつ唾棄すべき風潮ですね。頽廃のきわみだと腹の底から思う。こんな風潮がいたるところで何年も続きました。今日ではどうなんでしょう。いろんな「君が代」があっていいと思う。なくてもいい。卒業式にうたう唄はいろいろとあっていい。「式」は誰のものだろうかという思いは募るばかりです。

 「君が代を千年以上も前の詠み人知らずの歌として認め、明治以前の千年のあいだ、べつのさまざまの抑揚でうたいつがれてのこっためずらしい歌と感じる道は、どうして今もとざされているのか。別の調子でこの歌をうたうことに、学校はどうして罰をあたえるのか」(鶴見)(鶴見俊輔・網野善彦対談『歴史の話』朝日新聞社、1994年)

 こんな堅苦しい雰囲気に満ちた風土のなかから、伸びやかで心豊かな青春を育むことができるはずがない。学校教育で生み出される「生きる力」などとは、悪い冗談だと思う。それはまた別種の「生きる力」なのだろう。「鳥かご」や「犬小屋」に閉じこめて、鳥や犬に「さあ、ここで生きる力をつけるのだ」といってみて、さてそれはどんな力なんだろう。人間の好みに飼い馴らされる力ですか。実にグロテスクだというほかない。人間と同様に、「学校」もまた氏より育ちなんだ。「学校」を変える(教育する)のは至難の業であります。不可能ではないけど。(馬耳)

捕まったが最後…

 天候の悪い日は室内で野放図に時間を無駄使いしている。you tube 濫視もその一つ。つい最近は『日本の黒い夏―冤罪』(日活・熊井啓監督。公開は01年3月)を見た。映画化のもとになったのは長野県松本市で94年6月に発生した「松本サリン事件」。これを題材にした県立松本美須々ケ丘高校放送部制作「テレビは何を伝えたか」に描かれた事件をめぐるマスコミの報道姿勢とその妥当性に対する深い疑念が映画化の動機になったとされます。

 住宅街での「毒ガス発生」直後に、発生現場近くの住人が警察に通報。後に家宅捜索を受け猛毒の「青酸カリ」が押収されたこともあり、この第一通報者(河野義行さん)は警察やマスコミによって「真犯人」に仕立てられる。妻は有毒ガスを吸引して意識不明の重体に(発生から14年後に亡くなられました)。(余談ですが、彼女の父はぼくの高校時代の「地学」担当教師だった)

 いかにして心ない組織や個人の共同作業(共同正犯)で「冤罪」が作られていくか、それが主題。作品の評価は、いまはしない。いつでもどこにでも「冤罪」の種は尽きないという、やり場のない憤懣を、改めてこらえきれないでいるというほかありません。

 この映画製作とほぼ同時期に以下のような「冤罪」事件とそれにかかわる、奇妙奇天烈な裁判(判決)が行われていました。同じような事例は劣島のあちらこちらでも。題して「捕まったが最後…」 

 99年1月、愛媛県宇和島市の女性が自宅から通帳と印鑑が盗まれているのに気づき、50万円が引き出されていたことが判明。県警宇和島署は翌2月、防犯ビデオに映った現金を引き出す男に「似ている」という証言から、男性を任意同行して逮捕した。男性は窃盗罪などで起訴されたが、結審後の00年1月、高知県警が別の事件で逮捕した男が盗みを自供。同年2月、男性は約1年ぶりに釈放された。検察側は同年4月、無罪論告をして法廷で男性に謝罪。愛媛県警も会見して謝罪した。翌月、松山地裁宇和島支部で無罪判決が出て確定した。(毎日新聞・2006/1/13)

 「無罪」でよかった、と「もろ手を挙げてバンザイ」じゃありません。盗りもしないのに逮捕され、あろうことか有罪判決。それも、一年以上も拘置されていたのです。警察・検察の罠にかけられた男性が起こした賠償請求訴訟の判決が06年1月18日に松山地裁でありました。裁判長は「供述の強要や誘導などはなく、捜査に違法性はなかった」と、男性の請求を棄却した。無理無体に「犯人」に仕立てた、それこそ違法じゃないですか。この事件および裁判から十数年経ったが、あいも変わらず、警察・検察・裁判にかかわる事態は少しもかわらないという構造をどうしますか。

 「犯人でもないのに、犯人にさせられた」からには、そこに強制・強圧の捜査があったとみるのは「合理的」。だが、この化石裁判官氏は請求を棄却した。ああ無能!警察側は「男性は自ら進んで“自白”しており、強要はなかった。(盗んだ金の使途や隠し場所などの)裏付け捜査も十分」と、これまた間抜けな陳述。なんのこっちゃ。これも今に変わらぬ、人間性を虚仮にした嘘と歪曲の極致。このような「真っ赤な嘘」のごり押しは警察だけではなく中央官庁でも国会でも、いまなお白昼堂々と(盗人、猛々しく)実行されているのです。

 進んで自白し、進んでムショにはいりたがる、そんな奇特な人間もときにはいるけど、「(盗んだ金の使途や隠し場所などの)裏付け捜査も十分」とは、どういう意味か。犯人になるために、この男性は自分で「偽装」したとでもいうのか。(いくら偽装ばやりの世の中でも、それはないよ)でも、このすり替えと自己弁護の「三分の理」が、どこかの「ソーリ」の胸糞の悪くなる答弁になんと酷似していることか。(碁・将棋でいえば、すでに詰んでいる。見苦しいし、恥ずかしい。あれえ! 裸で出歩いている、気づかないふりをしているね。子どもに聞いてみな。地位に恋々とね。)

 捕まったが最後、この国(警察や検察)では白を黒、それも真っ黒に塗りたくる。そして、「わたしは白です、やってない」という人間に対して、「警察(検察)が黒だというのだから、お前は真黒だ」と判事が斬りすてる。病院にいけば「病人に仕立てられる」、学校に入れば「人間性を壊される」人権侵害を訴えた警察では「さらなる人権侵害が」、かかる「理不尽は許さない」と裁判にすがれば「お前を訴えた側(病院や学校や警察)に落ち度はない」と「今様越前の守」はふんぞり返る。(ぼくは、いまは亡き加藤剛さんが好きだった。ぼくにないまじめさがあったから。それで…?)時代遅れの「法服」を着て、高所から呪文を唱え、「請求は却下する」だって。(判決を「下される」側は悲劇だが、悪いけどこれこそ「抱腹絶倒」の図だよ。判事には咎はないんですか。無謬なんですか。裁かれないんですか)

 さて、どうするか。なにより肝心なのは、他人に頼らないこと。それにかぎります。病気にならない、なったら自分で治す。治る力は自身にある。警察の厄介になるような状況を金輪際作らない。「捕まったが最後」だから。本当に学びたいなら学校に行かない。行けば、興味のないことを強いられる。さらに、心も体も傷つけられる。学びたいものを見つけて、じっくり自分で自学・自習する。そうすれば、学んだものはきっと自分の栄養(力)になる。「教師に頼る」という甘ったれた根性がまちがいのもと。(教職の「営業妨害」をするのではない。可能なかぎり、自学自習を阻害・邪魔しない教師であってほしいと願うだけです)

 専門家がそれらしい顔をして、素人を見下す時代が長くつづきました。他人を軽蔑したり、見下したいために専門家になるのですか、と減らず口をたたきたくもなる。そうだとすると、動機はじつに不純だし、第一、その了見が卑しい。自称・他称「専門家」すべてはそうじゃないでしょう。とすれば、まともな専門家になりきれぬ「半ちく専門家」がなけなしの権威(あるいは特権)をふりかざし庶民(大衆)を苦しめるということか。自分もまた「大衆」なのに、さ。「天に唾だね」見苦しくも無残な風潮です。まずは危うきに近寄らず。不用意にそんな「風潮」に巻きこまれないようにしたい。(南無三)

《氷見冤罪で県に賠償命令 富山地裁、国への請求は棄却 2015/3/9付・日経

 富山県氷見市で2002年に起きた強姦事件で再審無罪となった柳原浩さん(47)が、違法な捜査で逮捕、起訴され、約2年間の服役を強いられたとして、国や県に約1億400万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、富山地裁は9日、県に約1966万円を支払うよう命じた。国への請求は退けた》

(▼氷見の冤罪事件 富山県氷見市で2002年に発生した強姦事件で、タクシー運転手だった柳原浩さんが誤認逮捕され、富山地裁高岡支部から実刑判決を言い渡され、約2年間服役した。06年に鳥取県警が強制わいせつ容疑で逮捕した男の自白から誤認逮捕が判明し、富山県警と富山地検が柳原さんに謝罪した。柳原さんは07年に再審無罪が確定した)(日経新聞)

人はみな、ヘロデになって…

 悪い習慣はつづくもので、おそらく三十年以上もラジオの深夜放送を布団にはいって聞いています。もちろん耳栓(イヤホン)をしながらで、時には耳から外れたまま朝をむかえる時もあります。この何年かはほぼ十時には寝床につく。気性は至って短い、いや起床でした。これも決まったようにいまなら六時前後です。日の出前が定番。朝日(新聞じゃない)がみられるときは茶を飲みながら五分でも十分でも飽きずに眺めています。あるいは鳥(その多くはウグイス》の声が合図の時期もあります。拙宅は海から30キロほど離れていますが、標高が約百メートルほどの丘の上にあるので、まあまあの日の出が拝めます。

 以下の駄文は十五年も前に書き散らしておいたもので、いままた、当時の震撼とさせられた精神の状況(震え)がまざまざとよみがえったので、恥を忍んで再録しておこうと考えた次第です。

 (ぼくはあまり文章を書くのが好きではありませんが、野暮な理由で駄文でも書けという注文というか、強制がたまにありました。おそらく三十になるかならないか位からでした。文章のイロハもわからず、段落のつけ方、引用の仕方、はては句読点の打ち方など皆目わからないままで引き受けさせられたりしました。その際、ほとんどは見様見真似で、他人の書き方なり文章法を、まるで剽窃まがいに取り入れたりしたものでした。後年になって、話し言葉のままに文章を書くという癖のようなものがついてしまい、以来ずっと「です、ます」で通してきた。「である」「する」という表現がしっくりこなくなったような気がしたのです。(丸山真さ男という人も『日本の思想』だったかで、そのような問題に触れていたような気がしますが、記憶違いかもわかりません)普段通りの話し言葉というようなものが、ぼくの場合には書き言葉になったといえそうです。「言文一致体」がどんなものだったか、今ではその細部は知る由もないのですが、この書き方(まあ「生活綴り方」というべきかも)を、我流の言文一致表現とでもいっておきます。これ以降のは文章はできるだけ普段の話し言葉で書きつけることになりそうだという「断り」の挨拶でした)

《数日前のことでした。夜中の三時だったかのニュースで、夢うつつの耳にとどいたのは、徳島県阿南市に住む母親が二人の子ども(男児と女児)をダムの貯水池に放り投げて殺したという事件でした。いったいそんなことがあるのだろうか、とうつつに夢を見ているのだと思ったようだ。「ひとりずつ投げ込んだ」と自首してきた母親が語ったというのです。背筋が寒くなるような、それでいて作り話を聞いているような、やりきれない気持ちに襲われたのは事実でした。どうしてこんなことが?この世にあってたまるか》

《(同じラジオ番組で)四時すぎ。わたしの意識は幽玄の世界にはいったままでした。「心の時代」というテーマで、一人の神学者が「すべてはヘロデになってしまったのか」という意味のことを話していました。イエスが生まれたとき、東からきた博士たちがエルサレムにきて、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、その方を拝みにきました」時のユダヤの大王であったヘロデは彼らに「ベツレヘムに行くように」と命じたので、博士たちは東方で見た星を追いながら、ベツレヘムにやってきた。その星は幼子(イエス)の生誕の地上でとまったのです》

《ヘロデはこの話をきいて、ベツレヘム周辺で生まれた二歳以下の男児を一人残らず殺してしまった。このオレがユダヤの王なのに…。それは許しがたいことだ、と。イエスはヨセフ、マリアとともにエジプトに逃げて助かりました》

《ひとはみなヘロデになってしまったのか。親が子を殺し、子が親を殺す。夫が妻を殺し、妻が夫を殺す。友が、また友を殺す。子どもが子どもを殺す。たがいに殺戮しあう。なぜ?カネのため、恨みのため、衝動におそわれて。殺す理由みたいなものはいくらでもある。殺すのは誰でもよかった、と。殺したいから殺す。それ以上でも以下でもないのでしょうか。救いのない時代です》

《どのような意識がわが子を殺すところにまで、母親を導いたのか。この女性は元教師であったという。教師だったというところに何か意味があるというのではありません。でも、それ以外の職業についていたら、ここまで追い込まれることはなかったといえるのかどうか。大人も子どもも、ヘロデとなり、自分の地位(属性)を奪おうとする人間を殺さなければ、自分は心を安んずることができなくなった、そんな酷薄な時代にわたしたちは生きている。殺さなければ、殺されるのだ、と》

《母親が二人の子どもをダムの貯水池に投げ込んで殺したというニュースにふるえながら、もうろうとした状態で、ああ、そういえばフレーザーの「金枝篇」にもそんな神話があったなあと、あらぬところに想念が飛んでいくようでした。聖なる森に一人の王(祭司)がいる。王の力が衰えたとみると、新たな候補者(若者)がその王を殺して、その座を奪取するというのだ。世にいう王権交代神話。わたしたちはいつとは知れぬ、遠い昔の神話時代そのままをいまだに生きているのかも知れないのです。そのとき、王とは、あるいは王権とはなんなのでしょうか》(李四)

【二十二日午前九時ごろ、阿南市内の主婦(41)が「八歳と五歳の子供二人を福井ダム貯水池に投げ込んで殺した」と阿南署に自首してきた。徳島県警捜査一課と阿南署が同市福井町鉦打の県営福井ダム貯水池を捜索したところ、供述通り男児の遺体が浮いているのを発見。小学校二年生の長男(8つ)と確認されたため、県警は同日午後九時十五分、主婦を長男を投げ込んで殺したとする殺人容疑で逮捕した。(中略)幼稚園児の長女(5つ)は同日夕までの捜索で見つかっておらず、県警機動隊や阿南署、阿南消防組合などは二十三日朝、捜索を再開する。(中略)主婦は夫と長男、長女の四人暮らし。中学校の教諭をしていたが、数年間の休職を経て二〇〇四年三月に退職している。同年九月に、徳島市内の病院で統合失調症と診断され約二カ月入院。今年六月から八月にかけても、阿南市内の病院に入院していた。県警は夫らからも事情を聴きながら詳しい経緯について調べる】(徳島新聞・05年12月23日付)

動物園は学校だという雑談

 いまどきの動物園は子どもたちの学校も顔色を失うような一芸や二芸どころか多芸に秀でた優等生が各地で覇を競っている。そのうちに各種科目の甲子園大会なるもの、あるいは共通一次試験などが開催されるかもしれない。いや、もうすでに犬や猫のコンテストが盛んになっている。という具合に、教育効果は動物たちの上に如実に表れている。成果を上げるために飼育員さんたちは教授法を極めようとし、研究会を開いて日夜励んでいるだろう。努力はきっと報われる。小生の寓居近くに「鼠坂」なる県道が走っている。乃木坂だの欅坂だのと、坂ばやりだが、いずれは素敵なネズミさんがセンターをとる「何人組」かが出てくるにちがいない。チュー目するといいな。

 ぼくは久しく動物園に行かないが、至って物臭だからというだけの理由である。理屈を言えば「人間園(社会)」の方がよほど面白い、怖い、凄い、いや理不尽な事例に事欠かないほどで、この先どこまで堕ちていくのか、それを想って気が狂いそうになる。ゆとりも遊びもなく、マジで親殺し、子殺しが続発しているという惨状。体力は十分にありそうな若者が他人の稼ぎを横取りする。老境の域に達している人間をだまして大枚を巻き上げる。たしかに応接にいとまなしとはこの状況をいう。嘘は休み休みにどころか、のべつ幕なしに衆生を虚仮にして開き直っている偉いさん(御仁)もいる。今や世界の「リーダー」だと自認しているそうだ。

 整然とした、静寂の気が満ちている動物園こそ楽天地なのだろうか。いずれにしろ、塵芥にまみれて人間界に足や首を突っ込みすぎて、いまはもうzooに出かける余裕すらないというのが本音。

 以下、閑話の中の閑話。これまで以上の与太話になるのを許していただく。(表題の「雑談」は「ざつだん」でもあるが、ここは「ぞうだん」と読みたい。そこから「冗談(じょうだん)が生まれた。「冗談だろ」と言われても困る。これは歴史的に説明されてきた話で、「雑煮」を何と読む)

 ひとはなぜ動物園に行くのか、と問うてみる。どうしても行かねばならない理由はなにか、と。即座に、理由などあるものかと一喝されそう。したがって、この愚問の解答は自明だ。「人たるもの、動物園に行くべき」と法律に書いてあるわけではない。

 ところが、既存の学校に対してはそうはいかない。憲法にも法律にも小・中学校(義務教育)に行かせなければならぬ(行かなければだめ)と規定されている。法律の面から言っても動物園と学校は異なる。また構造というか機能の面でも両者はちがう。第一、学校には檻がないではないか。(本当にないのか)動物の調教につきものの鞭もない。まして暴力まがいの訓練もないというのは建前。学校にあって動物園に見られないのは宿題だけかしら。たしかに、今どきの動物園は学校化(教育化)してきたのも事実で、各園では毎日のように発表会があるし、「授業参観」も。だからそれに備えてはげしい訓練も行われる。教える側も教えられる側も熱心にならざるを得ない。おれは猿だ、猪だと本性むき出しでは入場料を出してきてくれない。猿でも猪でも人なみ(猿なみ、猪なみ)に励まなければ園の経営に響き、はてはわが身の生存にかかわるのだ。ここも人間の学校社会と同様の競争原理が働いている。存続競争か。

 学校と動物園のちがいはなんだろう。片方には本物の猿もいれば狸もいる。象も熊も狐も、あるいはサギさえもいる。学校にも顔つきも仕草も、あるいは声までも、ある動物にそっくりな教師(や生徒)がいるだろう。だから、この二つは同根だと言い募る人がいてもおかしくない。(いや、やっぱおかしいよ)はたして、動物園は学校なら、学校は動物園といえるか。(どういうわけだか、動物の人間化と人間の動物化が同時に進行しているさなかのように思われてならない)

 動物園が学校だなどといった手前、少々小物だが、ここでメダカの学校とスズメの学校に触れる。 元祖「めだかの学校」は神奈川県下の小田原近郊にあった。第二次大戦直後にさかのぼる。今は小田原城近くの荻窪に新設(1996年8年5月)され、名誉ある学校の伝統を墨守している。加えて、各地各所に多数の分校が現存している。メダカのブリーダーも盛業中のようだ。今では楊貴妃だの紫式部などと高貴なメダカ(名門出)が高貴ぶりを発揮し、好事家に高く評価(要するに売買)されている。日本のメダカの生態や生息状況は単純ではなく、なかなか複雑な歴史を示している。学校が創立されるよりはるか以前に、日本の各地には固有種ともいうべきメダカたちがそれぞれの固有の文化を紡いできたのである。何事にも意味があり、歴史があるという好例だが、このメダカを絶滅危惧種にしてしまったのは、やはり人間界に横溢している傍若無人な生存欲だった。

 その「メダカの学校」が創設された経緯はよく知られている。創立者で初代校長は茶木滋氏(1910-1998)である。横須賀出身だった。製薬会社勤務中に「めだかの学校」を生んだ。晩年は千葉の船橋に居住されていた。一度お会いしたような気もしている。学校創立は1950(昭和25)年。それには「みなさまのN●K」も一枚かんでいた。(詳細は省く)この学校の校歌が「めだかの学校」で中田喜直氏(1923-2000)作曲。人口に膾炙したのは「だれが生徒か先生か みんなで元気に遊んでる ♪」というくだり。中田の父は章氏(1886-1931)で「春は名のみの風の寒さや」で始まる『早春賦』の作曲家。ぼくはこの歌が大好きだ。(勝手にしろよ)

 だれが生徒でも先生でもない。階級分化などしていないと評価されたというのだ。あるいは「わたし教える人」「あなたは教えられる人」という役割分担がない、たがいが教え、学びあう。まさに平等の関係が謳われている。ほんとうにそうか。メダカの習性に照らして、そのような平等尊重の精神(?)などが考えられるのか。ぼくのところにも小さな人口池(つまりは水溜まり)があり、だれか知らないうちにメダカを何匹か入れておいてくれたのが、五年も六年も生きている。もちろん同一個体じゃない。ときに観察(授業参観)してみることがあるが、たがいに教え学びあっているとはとても思えない。想像以上に生存競争は激しそうなのである。こんどゆっくりと彼や彼女にインタビューしよう。(つづく)

教育は強制ですか(承前)

 学校は一つの制度である。この点についてはいくつかのポイントを押さえなければならないが、それについては後に触れる。ここでは「教師=教える人」と「生徒=教えられる人」という役割分担が自明の前提になっている組織であるということだけをいっておこう。「教師vs.生徒」の関係は反転しない。

 さらに急いで付言しておくが、このエッセイまがいの駄文ははホルト論ではないし、学校教育の是非を述べるものでもない。それは現役で店を張っている研究者や教育者がやるべき仕事であり、このぼくは、他には観衆がほとんど見られないうらぶれた外野席、それも球場の外にあるような原っぱにぽつねんと座している「学校・教育」の部外者であり、門外漢であると告白しておきたい。「部外者は立ち入り禁止」という張り紙が目に入るが、入ろうとしなければ、部外の者には無関係。とまあ、告知だけはしておこう。ぼくが願うのはことに当たって、すべからく部外者であり続けたいという姿勢だ。外から球場内の試合をただ見するつもりもない。入場料を払ってまで見る価値があるかどうか。ぼくには判断できないが、たぶん金は無駄にしたくないという貧乏根性に身を任せるにかぎる。学校内や教室内でどんなことが行われているのか、まんざら知らないでもないし。

 ホルトに戻る。ジョン・ホルトは大学を卒業して小学校の教師になった。熱心な教師であった彼は、だんだんと「学校改革」にエネルギーを注ぐようになった。「<学校>をなんとか変えなければ?」「子どもが生き生きするような学校はどのようにしたら作れるか?」信じられないが、こんなことをまじめに実行しようとするのだから、「マジで」と腰を引きたくなる。「魚屋で大根を求める」の類だったと思う。彼にはとてつもない経験になったはず。手にした一本のスコップで大山を掘り崩すような難行だったろう。だが、かれは賢明であった。「学校は変えられない」、それなら「自分を変えよう」と「脱学校」「非学校」を図ったのだ。

 そしてついに「学校(教育・学習)に代わるもの」を求め続けた結果、全米でも屈指のホームスクーラーの先陣を切る人となっていく。1970年代から80年代ににかけてのことだった。彼の立場はじつに明確である。「物事を成し遂げる、すなわち、主体的で目的に満ち、意味に溢れた生活および仕事」というものと、「教育、すなわち、脅しや褒美、恐怖や欲望の圧力下で行われる、人生から切り離された学習」とはまったく別物だという視点を実践や理論の核心にすえた。どうでもいいことなら教えられるが、人生にとって肝心なところはまず無理だ。

 かれは教職にありながらたくさんの著書を出版し、そのどれもがミリオンセラーになった。それだけ教育や学校に関りや関心をもつ人々がかれの主張に耳を傾け、その実践活動に参加したということだと思われる。さらに彼はハーバード大やUCLA大(バークレイ校)の招聘教師になったが、大学からはたいして支援を得られなかった。それは当然で、当の場所(学校)におりながら、自分のよって立つ足元を切り崩そうとする人間に好意を抱く学校関係者はいないだろうから。大学教授に何ができるか、できたか。かれは自らを律したともいえる。

教育は強制ですか

 Teach Your Own. ― アメリカのホームスクール(または、学校解放)運動の推進者であった John Holt(ジョン・ホルト。1927-1985)のもっとも重要な著書のタイトルです。(1981年刊。邦訳は『なんで学校へやるの』1984年刊、一光社)このタイトルに留意したい。「自身を教えなさい」とでもいうように、「自分の教師は自分なんだ」というのだ。「習うより、慣れろ」といわぬばかりに、他者から「教えられる」という学校にあってはお定まりの姿勢をはげしく否定した。世に「ホームスクール教育」「ホームスクーラー運動」と呼ばれるようになった嚆矢である。「学校」にも「学習」にもかれは見切りをつけた。

 《「学校」を変革することは可能か?―という問いに、「否」の答えを返す前に、私はより根底的な疑問を抱くようになりました。「学校」とは、たとえそれがうまく運営されるとしても、一体全体、なくてはならないものなのか、と。「学校」は学習の場として最善のところではないのではないか、と否定的な見解を持つようになったのです。ある特殊な技能教育の分野を除けば、「学校」などたいして存在価値がないのではないか、と》

 《私自身の胸に聞いてみても、現に私が知っている知識の大半は、「学校」で習ったことではないのです。集会、ワークショップ、セミナーなど、いわゆる「学習環境」とか「学習経験」という言葉で総称される場所なり機会のおかげで身につけたものでも全然ないのです》 

 《時間が経つにつれて、私の疑いはさらに深まり、「学習(ラーニング)」という言葉それ自体にも、ある種のうさん臭さを感じるようになりました》(以上、邦訳『なんで学校へやるの』(大沼安史訳)から)

 ホルトが没してから35年以上が経過した。ぼくは若いころさかんに彼の著書を読んだ。折しも日本の学校は狂乱期(「受験戦争」と称される反教育とそれが生み出した「学校・教育」の目を覆いたくなるような荒廃)にあたっていたと思う。70年代からの十数年のこと。学校は改革できると元気な老や若たちは意気込んだが、ぼくはそうじゃなかった。学校が変えられるとは思いもしなかったし、また変わってほしいとも考えられなかったから。言ってみれば、それは必要悪として飲み込む、やり過ごすものだった。学校でなにかを教える(学ぶ)なんて、ありえないと心底思っていた。それはぼくのいやな、しかも厳然として負わされた小・中・高校時代の苦々しい経験から「学んだ」(反語的にいえば)事柄だった。不幸なことであったが、学校や教師にはいつしか不信感を隠さなくなった。そしてこれまた荒廃のさなかにあった貧寒たる都市の大学に入ってから(あるいはそれ以前からも)、いずれ郷里に帰って山村の学校教師にでもなろうかと漠とした妄想を思い描いていた。そんなときにホルトに遭遇した、まさにencounter。(右写真はホルトの死を伝えるニューヨークタイムス紙。1985/09/15)

 最初はHow Children Fail.(1964年)。さらにHow Children Learn.(1967年)。辞書を片手におぼつかない読解力だったけど、懸命に読んだことを今でも覚えている。彼の主張は一貫していたというか、いや教職経験の積み重ねに応じて、大きく変化していったというほうが正確だろう。「学習の場として、学校は失格だ。それにはたいして価値などないのだ」と、ここまでは多くの人も言うことだが、かれはさらにその先を求めた。それを鮮明にしたのが、Teach your own. だった。学校制度からの解放(脱学校)宣言であったと思われた。

 ホルトはアメリカを襲った経済恐慌時代直前のニューヨークに生まれ、そのあとに二人の妹がつづいた。やがて一家はニューイングランド地方に移住し、そこで学校教育の洗礼を受けた。学校はかれにとってけっして快適な場所でもなければ、どうしても行かなければならない聖地でもなかった。生きることに必要な物事はまず学校では教えられもしなければ、学ぶこともなかったというのだ。大学(Yale Univ.)を43年に卒業し、その後、海軍に入隊。戦後の46年に除隊し、いくつかの経歴を重ね、53年にコロラド州の私立学校の教員になった。それを勧めたのは妹たちだったという。どうしてだったか。「にいちゃん、小学校の先生になるといいよ」と言われた兄は、その通りにした。

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(おそらく、この文章を書いて始めたのが、「ブログ(駄文集録)」の出発点だったと、今思い返しています。ジョン・ホルトの本を読みだしてもうかれこれ60年くらい経つ。以来、彼我の国の学校教育は迷妄を極め、衰退を止められず、今では、学校は「反人間性の砦」の感があると言ったらどうでしょう。進学校、受験校を目指して若い感情をいたずらに殺伐とさせ、その挙句に「高学歴者」が社会における政治や経済の要路に立って、個々人は言うに及ばず、人心そのものが荒んでいるという思いを、ぼくは一層深めています。

 その後もホルトのような改革心に燃えた教師が出てきて、学校再生、教育甦生のために心身を捧げて来たし、今もいることをぼくは確信しています。願わくば、学校が子どもや教師の「躓きの石」とならないことを。もっともっと、学校に質のいい「自由を」と、ぼくは切望している)(本日、この駄文(「教育は強制ですか」)を読んでくださった方がいたおかげで、ぼくはまた、自らの駄文に出会いました。言いたいことは変わらないどころか、一層切実に「教育は強制ですか」と激しく疑う次第です)(2025/02/09)

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