ウグイスはまだ啼かないか

 早春賦 (吉丸一昌詞 中田章曲)(1913年 発表)
春は名のみの 風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど
時にあらずと 声もたてず
時にあらずと 声もたてず

氷融け去り 葦(あし)はつのぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けばせかるる 胸の思いを
いかにせよと この頃か
いかにせよと この頃か

 すでに立春は過ぎました。(2月4日)毎年、この時期には隣の竹藪からウグイスの笹啼きがさかんに聞こえてくるのですが、この春はいまになっても、その気配がありません。人界のウィルス騒動に危機感を感じたのか、それとも殺伐とした俗世に嫌気がさしたのでしょうか。「早春賦」はぼくの愛唱歌です。「好きになった人」やちあきなおみさんの「矢切の渡し」と同等かそれ以上に好んでいます。当地は「谷」ではありません。標高はたかだか(ひくひく)百メートル程度。それでも春の知らせが時節をたがわずに届くのですから、なにもない寒村であっても(ふざけたことを言うなと近所から怒られそうです)、新参者のぼくにも少しは愛着が湧こうというものです。

 歌詞に「つのぐむ」や「あやにく」などといまでは耳にしないことばが出てきます。どんな意味なのか。ぼくもよくわかりません。わからないけど、歌の調子はいいですよ。このメロディでは「歌が旗になる」という気がしませんでしょう。「千代に八千代に」「勝ってくるぞと勇ましく」というのと根っこからちがうでしょう。「春は名のみ」がいいといったのは、だれですか。清少納言(?)まさか。

 ぼくの家の周囲はもともとは檜と杉の植林地だったが、そこに孟宗竹が invade してきた。その勢いたるや驚異的です。その竹林をねぐらにウグイスたちは家庭(home)を築いていたのです。のどかな風景の中、毎年かならず立春を過ぎると「初鳴き」を耳にすることができたというわけ。ところが今年はまだ「啼く」気配がまったくない(2月22日記・本日は「ニャンニャンニャン」で「猫の日」だとよ。ニャンデヤ)。(カーソンの『沈黙の春』を想起し、身震いしています。寒さや新型肺炎のせいばかりではありません)そこでハタと気がついた。広島の「ウグイス」たちはえらいご馳走をもらっていたというニュースが流れた。ホントかウソか、相場の二倍とかの馳走にあずかったそうな。それを近所のウグイスさんらが聞き知るところとなり、ハンストを実行しているか、あるいはひょっとして広島へ赴いたか。一億五千万とはたまげた話だね。げに「地獄の沙汰も金次第」とは親鸞でさえ言わないよ。夫婦でクズ。夫は「法務大臣」だったそうな。もう手の施しようがない。「薬石効なく」で、ヤブといえどももさじを投げるね。こんな連中が「セージ」をつかさどるという島国はほかにあるか。山口だの広島だの、維新時を一歩も出てないね。「お医者の頭に雀が留まる 留まるはずだよ藪だもの」ウグイスはいないのか。いなくても、啼けるだろ。

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噺 雑談などについて

 どこだったかの駄文で「雑談」は「ざつだん」ではなく「ぞうだん」であると述べ、ぼくが書く・話すのはまさしく「ぞうだん」ですということをいいました。かなり前に読んでいた佐竹昭宏さんの著書を想いだしました。以下に、氏の記述の概略を掲げておきます。(正確な引用ではないこと、お断りしておきます)

《「はなし」ということばが文献の上に現れはじめる時代は意外に新しく、室町時代の末頃からであるが、『天正十七年本節用習』に、「咄 雑談」という説明がついている通り、用法はかなり後までこの意味を失わない。「はなし」とは、いずれも肩のこらない雑談であった。武辺ばなし、手柄ばなし、化物ばなし、諸国ばなし、お伽ばなし、などなど。》

《「はなし」の原義が、肩のこらない雑談、くつろいだおしゃべりであった以上、今日のような意味での「大事なはなし」などというものは本来ありえなかった。「はなし」は大事にあずからない。その代わり、おもしろく、珍しくなければならなかった。 はなしの衆。御はなしの衆→秀吉の寵臣曾呂利新左衛門など》

《「はなし」は耳あたらしく新鮮であることをもって生命とした。江戸時代の前期、すでに「はなし」に対して「噺」という日本製の漢字が発明されていた事実こそ、新鮮であることを「はなし」の必要条件と認めていた時代の意識を物語るものであろう。その頃、まだ漢字「話」はもっぱらカタルとのみ読まれていて、ハナスとは読まれていない。》

《現代では「雑談」の二字を何のためらいもなく、ザツダンと読む。古くはこれをザウタンと読んだ。》

 ザウタン→ゾウタン→ゾウダン→ザツダン(明治になってから?) 冗談→雑談 話→放し 口から出まかせの「咄」(佐竹昭宏『古語雑談』平凡社ライブラリー版、2008年)

 「はなし」は大事にあずからない(与らない・関与しない・関わらない)というのはいいですね。また「はなす」は「カタル」(語る・騙る)であった。今日たくさんの「騙り人」が往来を所せましと右往左往しています。くれぐれも注意を。(「語る」と同語源。もっともらしく、巧みに話しかけるところから、騙(だま)す、詐称する)(デジタル大辞泉)

 それにしても「はなし」とは肩のこらない、くつろいだ(寛いだ)おしゃべりだというのはうれしいし、なんだか肩の力がスッと抜けていきそうですな。今でもそうあってほしいとぼくはいつも「はなし」てきました。それを「あいつは「冗談」しか言わないと非難されますが、たかが「ぞうだん」でしょ。「じょうだん」が通じないといつもイライラしていましたね。へんに「マジ」は困りものです。「寛」は「寛大」「寛恕」「寛容」と心の広い様子をしめしています。「寛田」は「ひろた」と読む。極めつけは「寛仁大度」です。「間寛平」なんてのもあります。

 また「話」は「はなし」、つまりは「いい放し:放題」か、口から出まかせだから「咄」とはいいじゃんよ。「とっさ」は「咄嗟」です。瞬間に口をついて出るという意味で、「とつ」は舌打ちの音だとされます。「嗟」もまた舌打ちです。「嗟嘆」「怨嗟」は嘆いたり、恨んだりの謂い。つまりは「舌打ち」なんだ。「チッ」とか「チエッ」とか「ええーっ」とか。「小咄」は「こばなし」。「こばなしもどき」を一つ。「一生懸命に駆けてはみたが どうも馬には敵わねえ」

 さらには「はなし」は新しくなければつまらぬからと「噺」になる。口がそういうことなら耳もまた。「新聞」ですね、それが三日もすぎれば「旧聞」となる。現下の諸「新聞」は「醜聞」だな。「毎日醜聞」も「朝日醜聞」「読売醜聞」に「産経醜聞」もありまさあ。ぼくはもっぱら旧聞派のようです。つまりは時代遅れ、包み紙にしか役立たず。ぼくの存在自体が「旧聞に属す」ですな。

 こんな調子で「騙れば」きりがなくなるのが、ぼくの悪癖です。でも、すべて「騙り下ろし」ですよ。いい加減に切り上げますが、まあ、「かたる」の内容がくつろいだ雑談(ざつだん)であるのが一番だと、学校時代から痛感していました。まじめに肩ひじ張った「騙り」なんか、誰が聞きますかいな。「カタルに落ちた」は「腸カタル」ではありません。「雑談」上等・結構じゃないか。結構毛だらけ猫灰だらけ、です。げに、まじめはこわいという「はなし」。

 「大事な」とか「重要な」という形容詞がつく「話」は言葉(形容)が矛盾しているというか、大事な「でまかせ」なんかあるわけないでしょと言いたくなる。ぼくが落語にいれあげたのもおもしろければこそでした。「はなし」は「くつろげる」のがなによりだから。寄席に行ってノートをとる無粋な人間はいないでしょうよ。「廓話」など絶対に学校ではあつかわない。あつかってみなさいよ。文科省はじめ各地の教委の「マジ連中」はどんな顔をするか。狂喜乱舞するか、ね。「こんなのがっこじゃおせえねえ」といつも志ん生さんは「咄」ていました。(彼の真意は、こんなばかばかしいことを学校などで教えられてたまるか。「かたり」の訓練(経験)、年期の質がちがうよ、カネがかかってんだ、だったろう)無念、ぼくは志ん生にあらず。「おまえは畳の上では死ねない、きっとジョーダンの下敷きになって死ぬるよ」とやまのかみ。

 本日は「ヴァレンタインデー」とか。これのいわれはいろいろとありますが、要は「バレン」と「タイン」の二人の情話・恋物語が源でした。イタリアだったか。それがチョコと結びつくとは猪口才な話。みんな商売っ気がらみです。「月に群雲 花には嵐 思うお方は女房持ち」というのは杏樹さんですが。「ちょっとじゃまなやつ」がいるから、世の秩序が保たれてもいます。(他人の「女房」を横取りするというのは稀ですね。それだけ男は心棒が足りないという「はなし」ですか)人類は歴史始まって以来「惚れた 腫れた」で暮らしてきました。

 昔のギリシャはアテネに「アリス」と「テレス」の二人がいました。相思相愛だったが、ついには添い遂げられずに果てたといいます。ぼくが学生時代に新宿大久保に「ありすとてれす」という茶店がありました。某大学の学生が、長い間プラトン時代の哲学者アリストテレスは「ありす(谷村君?)」と「てれす」だと思いこんでいたそうです。実話です。ぼくは恩師とは言わないけれど、親しくしていただいた担当教師(哲学専門)から聞きました。

 東海林太郎の名唱に『旅笠道中』(藤田まさと曲・大村能章詞)があり、ぼくは惚れぼれしながら口ずさみました。その三番。「亭主もつなら堅気をおもち とかくやくざは 苦労の種よ」これに関しても言いたいこと、つまり「騙りたい」ことは山のようにありますが、横でやまのかみが険しい顔で立っていますので、このあたりで。「夜が冷たい 心は寒い」自然と口をついてくる。怨嗟か咄嗟か(?)

 これも志ん生さんの教えてくれた狂歌?かな。「夫婦は一世 親子は二世 主従は三世で 間男は四世」。お後がよろしいようで。(「じょうだん」からコマ)

 

心が歩いて行く

    歩く                                      幸田文

 手足を動かしてするといふことと、頭でじつと考へるといふことは、二ツの違つたことに思ひがちな習慣がある。けれどもこれは結局するといふ一ツのことになる。考へるというふことをしてゐるのであつて、するといふことを手足を動かしてすることにきめるから、じつと考へることがすることと別物に思へるだけの話である。だからすることは頭の部分と手足の部分と二ツあるのだ。目に見えるのと見えないのとの相違だけである。考へるとか思ふとかは、現在の一点から動いて、高い丘へ広い野へ低い谷へと一歩一歩歩きだして行く心なのだ。心が歩いて行くことが、考へる、思ふなのだ。(中略)

 「歩く」とはいつたい何だろう。左右の足を代りがわりに動かして前へ進むことで、なんでもなく始終やつてゐることだ。でも、歩いたかと云はれると、五十年をふりかえつて見て、「歩いた」と返辞のできるのは二度しかないやうである。あとは、「やうな気」がばかりする空しさである。一度は女学校の通学、これは、十八町の堤(どて)をどうしても是非歩かなくてはならなかつた。足のほかに頼るものがなく、電車もバスもない時代だつたし、渡し船さへも早朝の通学時間には間に合はないことが度々だつたからであり、五年間に歩いたこの堤は、たしかにひたむきに歩いた手応へがある。それからもう一度、終戦のあと食糧事情がひどく偏(かたよ)つてゐたとき、病父にたべさせたいいつぱいで、毎日歩きに歩いてさかなを追つかけ、菜つぱを捜しまわつたが、それもたしかに歩いたといふ確信がある。通学は疲れたなどと感じたことはなく、充実して歩いたし、食糧さがしは疲れを堪へつゝ、たしかに歩いて歩き通したといふ感じである。(「歩く」1956年1月)

●幸田文(1904-1990) (東京生れ。幸田露伴次女。1928(昭和3)年、清酒問屋に嫁ぐも、十年後に離婚、娘を連れて晩年の父のもとに帰る。露伴の没後、父を追憶する文章を続けて発表、たちまち注目されるところとなり、1954年の『黒い裾』により読売文学賞を受賞。1956年の『流れる』は新潮社文学賞、日本芸術院賞の両賞を得た。他の作品に『闘』(女流文学賞)、『崩れ』『包む』など。) 

 『幸田文全集 全23巻』(岩波書店刊、94年~97年)を購入したのはいいのですが、それをすべて読了していないのはどうしてか。面白くないからではなく、ぼくの根気が足りないからだというのが事実だ。「文」全集にとりかかる前に、もろもろの材料がぼくの前に行列していて、それを始末しようとしている間に、「幸田文」がお留守になったというのが実際です。そろそろ、ゆっくりと読みたいところですが、残りの持ち時間が僅少・些少になってきました。昨日亡くなられた野村克也さんは84歳でした。彼が南海に入団したころ、(昭和31、2年)当時のことをぼくはよく記憶しています。どうしてなのか。理由は簡単ですが、ここでは話さない。ノムさんにはゆっくりと休んでもらうことにして、文さんです。

 ふっと思いました。文さんがこの文章を雑誌に書かれたとき、ノムさんは南海キャンディーズじゃない、ホークスに二軍選手(給料7000円)として入団したんじゃなかったか。彼はいわゆるブルペンキャッチャーであって、けっして一軍に上がることがない、投手の練習時の「壁」としての入団だった。契約期間は一年だったか。その年の終わりころに「来年は契約しない」と球団から宣告された。京都の網野町(郷土)の期待と希望を一身に背負っての南海入りだっただけにノムさんは納得できなかった。どうして駄目なのかと食い下がったが、約束(契約)だからと球団側がとりあわなかった。そこで彼は「わかった。俺は帰りの電車で飛び込みする」と幹部に告げた。「南海二軍選手、首になり南海電車に飛び込む」と翌日の新聞にでかでかと出ても構わないか、と幹部を脅迫したんだね、脅迫したおかげで首がつながった。(ノムさんについては、後日?)

 たしかに文さんの書いたものをまじめに読まなかったが、少ないけれど何度も読んだものはあります。この「歩く」は短編ですからなおのこと、ぼくはくりかえし読んできました。じつを言えば、露伴に夢中で過ごしましたから、その娘さんに気づくのが遅かった。たいていは親父ではなく娘に気を引かれるのでしょうが、ぼくは違いました。ぼくが気づいたときには文さんは「後期高齢者」だったというのは失礼な。年齢に関係なく、もっと丁寧に読んでおくべきでした。

 それはともかく「歩く」です。ぼくは山中に住んでいますので、歩く道や獣道には不自由しません。それ以前は街中にいましたので、「飲み屋」も目立ち、自動車も多く、さらに運転が乱暴なやからもいましたので命がけで「歩く」覚悟を必要としました。いまも命がけですが、敵は車じゃなくて「イノシシ」です。アクセルだけのブレーキなし。くわえてハンドルという肝心な機能がない相手ですから(ぼくの感覚からすれば、ですが)、出会わないことを念じながらの散歩です。どうかすると、町内には猟友会などという恐ろし気な団体もあって気が抜けません。年に何度か「駆除日」があるようです。人間の敵と名指したものを「駆除する」という発想というか、姿勢には怖気づきますね。「「発砲注意!近所に人家あり」という看板が山の中に立てられています。(先日、やまのかみと車で下の街まで買い物に出かけた際、大通り(国道××号)に出る手前で、いきなり大きなイノシシ(🐗)が車の前に飛び出してきました。危うく直撃を食らうところでした。近くの有料道路でも「イノシシの飛び出し注意」という看板が出ています)ジビエだかジバエだかわかりませんが、異性と仲良くとはいかないものか。

 文さんは女学校時代に十八町の堤(土手)を通学したといいます。(曖昧な記憶ですが、彼女は当時千葉県の市川に住んでいて、そこからどこだったか、学校まで歩いたというのです。「町」(「丁」)は360尺(60間)で約110メートル。だから十八町は2キロ弱です。大した距離じゃありませんね。その昔、多くは江戸から京大坂まで歩きました。それも驚くほどの短時日で、その距離はおよそ500~600キロです。新幹線なら2時間余。時間や速さがどれほど人間のもろもろの能力を損ねているかという話です。「速さ」を競う時代は、一面においては「人間の退歩・堕落」をあえて獲得するという錯覚しきった状況を生みだしました。「歩行」の習慣が多くの人から奪われた結果、衰えたのは「思考」の態度・心構え、つまりは意欲でしたね。他人がすべて「お膳立て」してくれる時代に突入したのです。

 「歩く」は「思う」と同じ働きの二面であるというのは正しい。ぼくは少し前(50歳くらいまで)には山登り(山歩き)が好きでした。登っているときの脳の働きがとてもさわやかだったのを時に想いだしたりします。「下界」の憂さはいっさい脳内に入ってこなかった。貴重な経験でした。一日の重労働から疲れきって帰宅し「虫唾」が走り続けている胃痛に苛まれながら、小さな庭の緑に触れた時に感じたのと同じ効果を脳や身にもたらしてくれました。山の空気や緑の木々はぼくの「胃薬」(キャベジンや太田胃散ではない)でした。やぶ医者いらずです。

 「心が歩いて行くことが、考へる、思ふなのだ」というのはその通りだと感じ入りました。現代人はほんとに歩かなくなったといわれます。そうですかね。現代とか前時代などに関係なく人間には「歩く人と歩かない人」の二種類があるということじゃないでしょうか。 歩行優先と歩行回避の2種。どちらがいい悪いじゃないわけで、要は歩くか歩かないか。猪も猿も狐も狸もみんな「歩行第一主義」者です。自転車に乗る猿や猫などはたまに散見しますが、あれはやるのではなくやらされているんでしょ。だから彼や彼女は「よく考える、思う」派かと思いきや。直情径行だから、まるである種の人間並みですね。「動物の人間化」に対応して(ある人達が責任を感じてか、すすんでか(?))「人間の動物化」が超高速で進んでいるのが今日ただいまです。「気をつけよう、人は急に止まら(れ)ない」だってさ。まさしく、命がけです。「人の女房と枯れ木の枝は 登りつめたら命がけ」(どどいつ・都々逸)という学校で扱う知識ではないがちょっと大事な哲学がここにある。ぼくはこれも志ん生から伺いました。彼は度重なる「命がけ」の経験者でしたから、真に迫っていましたね。ちょっと意味は違うか、いや同じか。どうせなら別のものに命をかけたい。

 「歩くことが考えることだというのか」と口をとがらして車や電車に乗りながら文句を垂れている人の顔が見えるようだ。どうぞ、ご随意に。さらには、安くないお金を払って「室内歩行」に心がけている方もおられるようです。どうか、ご勝手に。ぼくは天気に恵まれればほぼ10キロほど歩きます。じつにさわやかですね。でも上には上がいます。隣、と言っても500メートル離れていますが、その親父さん(ぼくと同年)はなんと一日八時間歩くそうです。近所の評判では「あれは徘徊病さ」です。彼は週に三回、通院しながら「人工透析」をされています。一回あて四時間だか。これは医源病だといわれていました。(医者の見立てまちがいで生じた疾患)さて、歩こう、前を見て。(イノシシは「人間を人間と思ってないね」じつに傍若無人です)(時間切れ。時刻は午前11時)(今戻ってきて、追加分を書こうとして思考がはたらかない。きっと歩行しないで、車行だったからだと、思い当たりました。時刻は午後3時過ぎ)

 その昔、もう亡くなられた随筆家の岡部伊都子(オカベイツコ)さんと電話で話していた折、彼女はぼくにいいました。「Rさん。私は学校に行かへんかったから、ぎょうさん考えられるようになりました」まあ、ぼくにあてつけたように言われたとぼくは受け取った。それでよく考え(歩行)もしないで、「ぼくは学校(大学)へ行ったけど、それにもかかわらず、考えられるようになったし」と減らず口をたたいたことを今思い出しました。少し歩いてこよう。歩行は思考だ。

(いったん中止です。時刻は午後4時半です) 

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子供をさがす

  テレビを買ってくれという一年生になる男の子に、勉強しなくなるからとか、隣近所から見にこられても、家の中がちらされて困るからとか、いろいろの理由をつけて買ってやらないものだから、子供は近所のテレビを見に行く。夕方母が山からかえって見ると子供がいないので、娘によびにやらせると元気にもどって来た。見たいのをサッサともどって来たのだから、内心得意だったのだろうが、「いくらいってもいうことをきかぬような子は家の子ではない」と母が叱ると、子供はだまって外へ出ていった。風呂をたいていた祖母がそれを見ていた。眼に入れてもいたくないほど可愛がって、孫のいうことなら何でもきくのだがテレビを買うことだけは反対である。

 さて夕飯時になっても子供はかえって来ない。祖母は心配のあまり方々をさがしにあるきはじめたがどこにもいない。おろおろして大きい声で孫の名をよんであるくものだから村の者も気づき、母もすてておけなくなって、心あたりをさがしたが、どこへも来ないという。

 もしものことがあってはならぬとて、警防団の人に出てもらうことにして、家の近所のお宮の森へ何十人というほどのものが、はいりこんでさがしてくれた。そのほかのところへもみなさがしにいってもらったが、どうしてもわからない。

 九時すぎ子供の父が所用先からもどって来た。ようすをきくと、姿をかくした動機は簡単なのである。もうしばらくさがしてみようと、あてもなくいってみて海の方へも出てみたがどうしようもない。家へかえると表の戸袋のところからひょっこり出て来た。そこのあたりはなんべんもさがしたというが、だれも気がつかなかった。

 子供にしてみると、家の者を少し心配させてやろうとかくれたのだが、さわぎが大きくなって出られなくなってしまったのである。すっかり機会をなくしているところへ、父親の声がきこえてきたので出て来た。

 さっそく探してくれている人々にお礼をいい、また拡声放送機で村へもお礼をいった。子供がいたとわかると、さがしにいってくれた人々がもどってきて喜びの挨拶をしていく。その人たちの言葉をきいておどろいたのである。Aは山畑の小屋へ、Bは池や川のほとりを、Cは子どもの友だちの家を、Dは隣部落へというふうに、子供の行きはしないかと思われるところへ、それぞれさがしにいってくれている。これは指揮者があって、手わけしてそうしてもらったのでもなければ申しあわせてそうなったのでもない。それぞれ放送をきいて、かってにさがしにいってくれたのである。警防団以外の人々はそれぞれその心当たりをさがしてくれたのであるが、あとで気がついてみると実に計画的に捜査がなされている。

 ということは村の人たちが、子供の家の事情やその暮し方をすっかり知りつくしているということであろう。もう村落共同体的なものはすっかりこわれ去ったと思っていた。それほど近代化し、選挙の時は親子夫婦の間でも票のわれるようなところであるが、そういうところにも目に見えぬ村の意志のようなものが動いていて、だれに命令せられるということでなしに、ひとりひとりの行動におのずから統一ができているようである。

 ところがそうして村人が真剣にさがしまわっている最中、道にたむろして、子のいなくなったことを中心にうわさ話に熱中している人たいちがいた。子どもの家の批評をしたり、海へでもはまって、もう死んでしまっただろうなどといっている。村人であるが、近頃よそから来てこの土地に住みついた人々である。日頃の交際は、古くからの村人と何のこだわりもなしにおこなわれており、通婚もなされている。しかし、こういうときには決して捜査に参加しようともしなければ、まったくの他人ごとで、しようのないことをしでかしたものだとうわさだけはしている。ある意味で村の意志以外の人々であった。いざというときには村人にとっては役にたたない人であるともいえる。

 さて、そのとき若い男がひとり、たしかに子供をさがしに出かけたはずなのにいつまでたってももどって来ない。

 「あいつのことだから、どこかへ飲みにいったのかもわからない」というものと、

 「いや、山寺までいったのではないか」というものとがいた。そして結局山寺へさがしにいったのだろうということになった。

 はたしそうであった。一時間ほどしてもどって来て、

 「こいつ、よくも俺をだましたな」と子供を追いまわして、

 「もう一ぺんだましたら承知せんぞ」といってかえっていった。

 かれは呑んべえで、子供たちをいつもどなりつけていたが、子どもに人気があった。かれは子供がいなくなったときいて、子供の一番仲のよい友達のいる山寺までさがしにいったのである。そこは一番さびしく不便な山の中であった。(昭和35年1月「教師生活」)(宮本常一『忘れられた日本人』に所収)

● みやもと・つねいち:民俗学者。山口県生れ。日本中を旅して歩き、民俗研究に、生きた人間の生活と社会経済史的な構造という視座を導入。離島振興・農業改善の実践にも従事。著「忘れられた日本人」など。(1907~1981)(広辞苑)

「これらの文章ははじめ、伝承者としても老人の姿を描いてみたいと思って書きはじめたのであるが、途中から、いま老人になっている人々が、その若い時代にどのような環境の中をどのように生きてきたかを描いてみようと思うようになった。それは単なる回顧としてではなく、現在につながる問題として、老人たちのはたしてきた役割を考えてみたくなったからである。(略)

 一つの時代にあっても、地域によっていろいろの差があり、それをまた先進と後進という形で簡単に割り切ってはいけないのではなかろうか。またわれわれは、ともすると前代の世界や自分たちより下層の社会に生きる人々を卑小に見たがる傾向がつよい。それで一種の悲痛感を持ちたがるものだが、ご本人たちの立場や考え方に立ってみることも必要ではないかと思う。(宮本常一『忘れられた日本人』「あとがき」)

 「が私の一ばん知りたいことは今日の文化をきずきあげてきた生産者のエネルギーというものが、どういう人間関係や環境の中から生まれ出てきたかということである」ともいわれ、「忘れられた世界やそこに生きる人びとを含めて、歴史は特別の有名な人びとによってのみつくられているのではなく、大ぜいの民衆によってつくられていることを知ってもらいたい」とも、同じ「あとがき」で述べられているのです。何かを言うつもりがなくて、宮本さんの文章を紹介してみたくなっただけです。ぼくはこの「子供をさがす」を何回読んだことか。百回はくだらないと思います。なぜそんなに?百回ぐらい(ぼくは)、あるいは五回ほどお読みになれば理由が判然とするかもしれません。(忘れられた一人の大衆)

 

美しい魂は悪い子供が… 

 「私は放校されたり、落第したり、中学を卒業したのは二十の年であつた。十八のとき父が死んで、残されたのは借金だけといふことが分かつて、私達は長屋へ住むやうになつた。お前みたいな学業嫌ひな奴が大学などへ入学しても仕方なからう、といふ周囲の説で、尤も別に大学へ入学するなといふ命令ではなかつたけれども、尤もな話であるから、私は働くことにした。小学校の代用教員になつたのである」

 坂口安吾(1906-1955)が1947年に書いた「風と光と二十の私」の書き出しの一部です。「代用教員」とは免許状をもたない無資格教員のことで、身分も期間も不安定な臨時雇いの教師でした。以下は一端(いっぱし)の不良少年が小学教師になる図です。代用教員にはなかなかの人材がいました。石川啄木などは代表格でした。(このテーマについても稿を改めて書きたいね)

 「私は生来放縦で、人の命令に服すといふことが性格的にできない。私は幼稚園の時からサボることを覚えたもので、中学の頃は出席日数の半分はサボつた。教科書などは学校の机の中へ入れたまゝ手ぶらで通学して休んでいたので…田舎の中学を追ひだされて、東京の不良少年の集まる中学へ入学して、そこでも私が欠席の筆頭であつたが…」などと「望ましい中学生」像からは大きく逸脱していた。「凡そ学校の規律に服すことのできない不良少年が小学校の代用教員になるといふのは変な話だが、然し、少年多感の頃は又それなりに夢と抱負はあつて、第一、そのころの方が今の私よりも大人であつた。私は今では世間並みの挨拶すらろくにできない人間になつたが、その頃は節度もあり、たしなみもあり、父兄などともつたいぶつて教育家然としてゐたものだ」

 彼の人間観察はたしかなもので、それは「堕落論」や「白痴」、さらには「日本文化私観」などでつとに証明されています。

 「本当に可愛いゝ子供は悪い子の中にゐる。子供はみんな可愛いゝものだが、本当の美しい魂は悪い子供がもってゐるので、あたゝかい思ひや郷愁を持つてゐる。かういふ子供に無理に頭の痛くなる勉強を強ひることはないので、その温かい心や郷愁の念を心棒に強く生きさせるやうな性格を育てゝやる方がいゝ。私はさういふ主義で、彼らが仮名を書けないことは意にしなかつた」

 「小学校の先生には道徳観の奇怪な顛倒がある。つまり教育者といふものは人の師たるもので人の批難を受けないやう自戒の生活をしてゐるが、世間一般の人間はさうではなく、したい放題の悪行に耽つてゐるときめてしまつて、だから俺達だつてこれぐらゐはよからうと悪いことをやる。…俺のやるのは大したことではないと思ひこんでゐるのだが、実は世間の人にはとてもやれないやうな悪どい事をやるのである」(いまではこんな教師像が通用するのかどうか、時代は頓に悪化するといったら非難されるかな)

 「自主的に思ひ又行ふのでなく他を顧みて思ひ行ふことがすでにいけないのだが、他を顧みるのが妄想的なので、なほひどい。先生達が人間世界を悪く汚く解釈妄想しすぎてゐたので、私は驚いたものであつた」(この指摘は当たっていると思う。教師の典型が抱く人間論世界観ですね)

 今に変わらぬ「教師像」が活写されているようです。教師は聖職者だということがそもそもインチキであって、そんなきれい事でつとまる仕事ではないというところから出発しなければ、たちまちのうちに息が詰まって倒れることは請け合います。文科省はけっして推薦しないでしょうが、安吾のような偽らない教師がいてもかまわないというより、いてくれなくては困るとぼくは思う。子どもたちがみる大人が型通りの教師だけというのは、けっして褒められたことじゃありません。ここでは触れないが、生徒との交わりですこしばかり真似のできないような経験を安吾先生が書いています。ぜひとも「風と光と…」を読んでください。

 以下は、安吾の一側面です。「私はその頃太陽といふものに生命を感じてゐた」「雨の日は雨の一粒々々の中にも、嵐の日は狂ひ叫ぶその音の中にも私はなつかしい命をみつめることができた」「私と自然との間から次第に距離が失はれ、私の感官は自然の感触とその生命によつて充たされてゐる」(彼は東洋大学のインド哲学科かを出ていたと記憶しています)

 「教師然」とするとはどのようなことでしょうね。手本・模範・師範・見本その他。いずれも息をしていないような、つまるところ「生命力」にかけたような雰囲気が想像されます。「四角四面は豆腐屋の…」みたいな堅苦しい上に、なんか情味にかけるような印象があります。わざわざそんな「像」に自分を当てはめる必要なんかないんじゃありませんか。いうまでもありませんが、現実の教師たちには多彩な表情や個性を有している「典型」がおられるのをぼくは疑わないのです。そのうえでなお言いたい。不良教師よ、出でよ。そんな呼びかけをしたいのですが、採用試験には馴染まないよね。でも、優良佳作ばかりじゃ、優等生に向かない子どもたちが困るでしょ。(「教師よ、堕ちろ!」)

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「育つ」と「育てられる」

 ギリシャの哲学者だったプラトン(BC427-BC347)が書いた対話編のなかに『メノン』と題された一編があり、そのはじめの部分に奇妙な話がでています。それを材料に「ものを学ぶ」というのはどのようなことかを考えたい。メノンは貴族階級に属しており、ソクラテス(BC470-BC399)の友人。彼の家にはたくさんの「召使い」がいた。そのうちの一人(10歳くらい)を呼び、ソクラテスは次のような問題を出した。ギリシャ語はできるが、一度も学校にいったことのない子どもだった。わざとそんな子どもを選んだのです。「一辺の長さが2プウス(センチ)の正方形があるとしよう。その2倍の面積をもつ正方形はどのようにして作ることができるか」

 その子はいとも簡単に「それはこうだ」と即答した。しかし、彼の答えはまちがっていた。考え直してふたたび答えたが、それもまちがいだと指摘されました。その結果、彼は途方に暮れてしまったのです。ソクラテスはまったく「教えないで」「質問する」ばかりでした。ひたすら子どもはその問に答えるよう求められ、ついに「どうにも答えられない」というところに追いつめられたのです。はじめは知っていたつもりだったが、問いつめられて、わけがわからなくなったのです。

 今度は紀元前の古い人ではなく、現代の音楽家の話を紹介しましょう。カナダ生まれのピアニストの経験談です。「若者はいかにして音楽に対する個性的なアプローチを身につけることができるか、それは教えられるものなのか」と質問されて、ピアニストは答えました。

《わかりません。本当にわからない。…自分にできるのはただ、誰かにテープ係になってもらって学生の演奏を録音し、それを聴き直させて、こういうのです。「オーケー、満足かい?自分の演奏の速度、全体の感じやなんかはうまくいったと思う?」…でも本当にためになるものというのは、自分自身を見つめることからのみ得られるのだろうと思います。ですから教師にできる最良のことは、それをそっとしておいてやることでしょう。ただいくつかの質問を投げかけて、自分の演奏には疑問の余地があるのだということ、そしてその解答は自分で見つけねばならないということを自覚させるのです》《教師にできるのは質問することなのです。…教師が自分のものと言える唯一の役割はまさにこれなのです。教える立場というのはそれ以上のものではありません》(グレン・グールド)(1932-82)

(ぼくは心底、グールドに惹きつけられたし、今でもそうです。倦(う)まず弛(たゆ)まず半世紀に及んで聴き続けています。彼の演奏は類例を見ない独自のものでした。バッハがこんな風に弾かれるんだという驚愕、あるいは戦慄を多くの音楽関係者や愛好家が経験したはずです。ぼくは二十歳過ぎたころ、彼のいくつかのバッハ演奏を聴いて素人なりに驚かされた。平均律やパルティータ、あるいはイギリス組曲、フランス組曲などなど、次々に発売されるレコードを心待ちにして聴きしびれたものでした。レコード一枚が2000円の時代です。いわゆる「クラシック」にほとんど関心を持っていなかったぼくは、グールドに巡り合って以来、他の何よりも音学好きになったといえます。ここは演奏論や音楽論を述べる場ではないので、駄弁はやめますが、彼が死して約四十年。彼ほどに音楽を面白く楽しく、そして興味をもたせて愛好家をひきつけた音楽家は出なかったとぼくは言ってみたい。その彼の教育論(?)ですから、見逃すわけにはいきません。さらに機会を設けて論じてみたいと考えています)

 話を戻します。ソクラテスは「教えないで、質問する」だけだった。グールドは「教師の最良の仕事は質問することだ」といいました。どんな人でも「自分にとって」いちばんの教師は自分自身です。だから、「自問・自答」なんです。自問と自答のくりかえしから、ぼくたちは考える力を伸ばし、また問う力をそだてられるのです。問いを作り答えを見つける、それが考える働きが本来的に行うことです。誰かに聞かれて(問われて)、自分が答えるというのは、自問の練習台です。

 いつも「自問し、自答する」ことが「自分をそだてる」には欠かせない態度だといえないかと思う。「そだつ」ためには「そだてる」がなければならない。だれかに質問されて(自分で自分に質問し)、それによって自分のなかのなにかが「そだつ」、それは「そだてられる」ともいえるでしょう。教える側からではなく、「そだてる」側から教育問題をとらえたい。「教育」の核心部はそこに存すると考えるからです。訓練や調教なら、外からの力によって無理にでも相手を習慣づける。この二つの働きはまったく似て非なものです。

 言い方を変えれば、だれかに「教えられる」というのは、その人から何かを「与えられる」ことでもあるでしょ。じゃあ、与えられるばかりだと、いったいどんなことが起こるのか、という問題ですね。与えられるのが当然と思われてきます。「くれなきゃいやだ」「もっといいものをください」与えられることに文句を言うようになります。学校教育でよく見る光景ではありませんか。「教えられる」に文句を言う。

 次はグールドよりも一世代前に活躍した音楽家の教育論です。もう一人の音楽家、ナタン・ミルシュタイン(ヴァイオリニスト)(1903-92)の例を出します。

《先生っていうのは、そんなに役に立たないと思うな。今の若い人は、先生のところへ行けば何かを教えてもらえる、などと考えている。違うんだよ!誰も教えることなんてできないんだ。教わろうったって無理なんだ。先生はたしかに上手に弾けるだろう。しかし、それは彼自身の方法で上手に弾けるんだ。それをいくらそっくり真似たって、同じ音など出せっこないよ》

《だから私は、こう思うんだ。教師の役目とは、生徒の心を開いて、生徒自身が進歩していくことを助けることだと。その意味で先生は、教えてあげることなんて出来ないとハッキリ告げるべきだと思うね。生徒は、自分の力でやり遂げなくちゃならないんです》(ミルシュタイン)

 ものを学ぶというのは自分をそだてるということです。そだてるためには、そだてられなければならない。これは教育の根っこの問題です。だれかによって「そだてられる」というのではなく、自分で自分を「そだてる」です。それは次のような意味ではないですか。大切なものを自分で「発見する」、自分の足りないところをみずからが「気づく」、そこに「そだつ」「そだてる」ということの秘密がありそうですね。

 別の言葉でいえば、どこかしらで「達成感」というものが自覚されるということですね。「自分はまだ足りない」っていう自覚、「自分にはこの部分が欠けてるな」という感覚です。おそらく、達成感というのは「欠けている」「足りない」という感覚の裏側にひそんでいる。不足感から達成感から、そこから充足感へ、この王道をゆっくりと歩きたいね。

 グールドはいつでも自身が自分の教師だった。「オーケー、満足かい?」といつも自問していた。教育について強い関心をいだいていたといわれるグールドの「教えの方法」、言いかえれば「学びの方法」は、おおいにわたしたちに刺激を与えてくれる。かれは教師になる希望を実現しないうちに亡くなった。かれはカナダトロントだったかの出身、もしウィーンだったらかれは存在できなかったと思われます。音楽にかぎらず、すべからく伝統」というものはこわいですね。

 「自分が受け入れているものをふくめて、疑う権利を確保すること、それが私のデモクラシーの基本です。それを手放してしまったら、人間はそこからつぶれていくと思うんです。人間の思想というのは弱いものでね、思想で一つにくくってしまったら危ない。どこかに通り道を残しておかないと、やっぱり自滅してしまうんですね」(鶴見俊輔)

 「自分が受け入れているものをふくめて、疑う権利を確保する」というのは、別の表現を使えば「わたしは自由である」ということじゃないですか。疑うというのは「ぼくは自由である」という意味です。疑う自由、あるいは自由に疑う。与えられたものを鵜呑みにするのではなく、それを疑ってみる。自分の頭で疑って見る。それをしなければ、自分がないというようなものです。自分が認めているものまで(ものこそ)疑う。それが「自由」ということ。考える、疑う、あるいは迷う、それが「ぼくは考える」ということの表れではないですか。

 与えられたものを飲み下す、丸飲みする。まるで鵜飼の鵜です。「これしかない」としがみつく、そのとたんに、ぼくたちは(考える)自由を失ってしまう。そこで止まってしまう。つまり、固まる。「これこそが正しい」と思いこんじゃう。そこで思考停止。自由の消失、放棄です。それはどこにもある罠だし、それにひっかかる人は後をたたない。下手な考え休むに似たり、それもまずい。自問するのはやさしいことじゃありません。でも自問する、自答する。あくなき挑戦だな。

 自分が信じているものさえも疑う。いや、信じているものほどはげしく疑うことができる。「それ(疑う権利)を手放してしまったら、人間はそこからつぶれていく」というのは、「そだつ」「そだてる」ことをやめてしまうという意味です。安易に受け入れることで、その先を考えようとしなくなるからです。自分にとって(自分が)「信じているもの」ってなんですか。

 「本当にためになるものというのは、自分自身を見つめることからのみ得られる」「誰も教えることなんてできないんだ」という言葉をもう一度思い出してください。自分で「気づく」ということは、ホントに大事です。自覚症状がなければ、どんな名医でも、いかなる診断も下すことはできない。(「そんな弾き方じゃダメだ」といわない音楽教師はいい教師)