「法痴」のデタラメ

 さて、我々は心理学者にも会いました。彼らは明らかに、とても善い人たちで、非常にリベラルで、物事を十分公正に見ることのできる人たちでした。しかし、もし彼らにとって、他人の財産を盗むことや、銀行強盗を犯すことや、売春することや、人を殺すことや、自分自身男であるのに男と肉体関係を持つなどといった行為全てが、ことごとく心理学上の問題で、心理学者は個々の人々がその問題を解決するのを手助けしなければならないというのなら、それは心理学者が本質的にシステムの共犯者であるという徴ではないでしょうか。軽罪を犯すとか、重罪を犯すということは、要するに、あまりにも基本的なやり方で問題にすることなのだという事実を、心理学者は隠蔽しようとしているのではないでしょうか。それが非常に基本的なやり方であるために、それが社会問題であることを我々は忘れてしまうのです。それが道徳的問題であるかのような印象を持ったり、諸個人の権利に関係しているかのような印象を持ったりするのです…。(「フーコー「アッティカ刑務所について」1974年)

 法律違反は「犯罪」である、あるいは「犯罪」は法律違反である。どっちなんですか。どっちが先にあるのですか。世の中には善人と悪人、加害者と被害者の二種類の人間がいると、しばしば考えられてきました。上の文章はフーコー(1926-84)がフランスの刑務所改革に積極的に荷担していた時代に述べられた意見です。まるで犯罪者を擁護していると思われるでしょう。たしかに当時もフランスではそのように見られて、フーコーたちは非難されたのです。(フーコーについては、日をおいて後述したいと考えています)

 世の中にはさまざまなシステムが機能しています。したがってある部分だけをとりだして、それについてものをいったり、それを「いいもの」にしようとしていじることはそもそも不可能だといえます。刑務所だけを問題にして、そこに入れられている囚人は犯罪者だといってみたり、学校制度をそれだけで変えようとしてもできない相談だということです。 

 フーコーの指摘も社会システム、資本主義経済システムの問題として刑務所(「監視と処罰の制度」)をとりあげているのです。罪を犯すことは悪いことだという「道徳の問題」から人間を裁くならば、その罪を犯した個人の性格や生活に原因があるはずだから、犯罪者をどこかに隔離(追放・排除)すれば、問題の原因は消えてしまうという理屈。問題児は追放してしまえ、というわけですが。はたして、それで解決するのでしょうか。「それが非常に基本的なやり方であるために、それが社会問題であることを我々は忘れてしまうのです」この言いかたでなにを言おうとしたのか。個々の人間(犯罪者とされている)の行為の問題ではなく、むしろ社会システムの問題なのだといって、さて通じますか。ここはきわめて大切なところですね。「法が犯罪者を作る」といって…。

 さまざまな犯罪防止のために法律が作られます。法の制定以前にはまったく問題にならなかった行為も、いったん法律が制定されれば犯罪にされます。「株の時間外取引」は問題なしだった。でも、いったんある人たちにとって不都合だと見なされれば、(法律が急いで作られて)その行為は「法律違反」として裁かれるようになります。法によって犯罪者は作られるのです。今は法さえ作らないで、舌先三寸で法行為を左右している。これは犯罪じゃないのですか。

 法治国という言葉(実態)があります。いくつもの意味にとらえられますが、この島ではどうでしょうか。政治家は自分たちの都合のいいように「政治資金規正法」などという法律を作ります。だからこの国は法治国だといえるか。残念ながら、ノーです。あるいは特定の企業や集団に有利なように法律が作られる場合も法治国とはいわないはずです。法はだれにも適応されて、はじめて法の主意を得る。

 「俺は法解釈を変えた」から、それで法が施行されて問題なんかあるものか、と嘯く。この島国は一人の無謀・無能・無恥な人物の傍若無人な振る舞いで「放置国」「法痴国」に堕してあえいでいます。投薬する薬はあるのか。あったとして、薬の効き目はあるのか。

子育ては世間の仕事でした

  今日は早朝からはっきりしない雨が降りつづいています。このところ、ぼくはほぼ五時には起床です。ラッパはなりません。ウグイスも啼きません、(大変心配しています。昨秋の台風襲来で塒(ねぐら)を破壊されたのか、あるいは世間(人界)にいや気がさして行方をくらましたのか)もう彌生ですのに。雨は嫌いじゃないんですが、普段のように外の作業ができない。だから室内でパソコンをいじりまわすことになります。ついでのように、駄文づくりとはよくない仕業ですが、仕方ありませんね。

 まあ、好きだった柳田国男さん(1875-1962)の文章でも引き写してみましょう。柳田さんについてはホントに早くから興味をいだき、つまらない本まで書きました。「碩学」という語も死語になりましたが、彼は正真正銘のソレでした。いい面悪い面の二面を持った人として、ぼくは時間をかけて彼から学んだといえます。学び方がよくなかったせいで内容はからきし無でしたけれど。それにしても、柳田さんもはるか彼方に遠ざかってしまった感がぬぐえないのはどうしたことか。歴史の果て、神話の世界か。

 「ヤラヒは少なくとも後から追い立て突き出すことでありまして、ちょうど今日の教育というものゝ、前に立って引張って行こうとするのとは、まるで正反対の方法であった…人を人並みにして人生に送り出す期限は、もとはご承知の通り思い切って早いものでした。…人を成人にする大切な知識の中には、家では与えることの出来ぬものが実は幾つもありました。そういう点については世間が教育し、又本人が自分の責任で修養したのであります。ヤラフというのは何か過酷のようにも聞こえますが、どこかに区切りをつけぬと、いつまでも一人立ちが出来ぬのみならず、親より倍優りな者を作り上げことも出来なかったのであります」(柳田国男「四鳥のわかれ」)(*ヤラヒはヤラフ(遣る・やる)の変化)

 いまでは「児やらひ」などという語は死語になりました。その意味は「児やらひ」という、一人の幼い者をいろいろな人々(世間)がそれぞれに関与することによって、ついには「一人前」に育て上げるという教育がみられなくなったということです。(*いちにん‐まえ【一人前】①一人に割り当てるべき分量。一人分。②おとなとなること。また、おとなとして扱われること。③人並に技芸などを習得したこと。)(広辞苑)

 柳田さんの文章を熟読してほしいですね。「人を人並みにして人生に送り出す期限は、もとはご承知の通り思い切って早いものでした」ということがおわかりでしょうか。早い者は5歳や7歳で一人前になるべく世に出た。これは洋の東西を問わないことです。今日は大学教育(?)が浸透して、どなたも大学に行こうとされます。それ自体は悪いことじゃないでしょうが、でも、社会に出るのは早くて20歳を過ぎてから。この20年以上をどのように育てられたかが、その後の人生にはっきりと影響を与えます。

 とにかく、人を一人前(大人)にするような教育は、特定の場面を除いて、ほとんどなくなりました。熟練とか習熟といった尺度が一人前になるまでの測定権を受け持っていたのに、それが社会から失われてしまった結果、いまでは年齢だけが「大人か子どもか」を分けるにすぎないのです。20歳(一面では18歳に)だから大人というのは法律上の区切りで、実態とはかけ離れていることは否定できません。

 では、どうしてそのような教育の形態がなくなってしまったのか。その理由はいくつでも数えることはできそうですが、いちばんの問題は子どもの教育が学校によって独占されたという事実です。各地各様の生産や労働の風土に応じて産育・養育や教育が行われていた、その意味では文字どおりに「土地の力(文化)」によって人間も動物も植物も(すなわちあらゆる生命が)育てられていたのです。これこそが地域主義というもので、学校教育が普及させられることによって、土地に根ざした地域主義が壊滅させられたんですね。ブルドーザーで列島が均(なら)された。

 「人が世に立ち一人前となるが為に、かねて定まった試験を経なければならぬことは、昔は却って今よりも数しげく、又例外の無いものだったらしいが、それを窄(せま)き門などと歎く者の無かったのは、是非通してやりたいという情熱が盈(み)ち溢(あふ)れ、従って又通って行く者の悦びであったからである。西洋の学者は第二の誕生などと称して、成人式だけをひどく重々しく見るようだが、少くとも我等の歴史に於ては、この段階は幾つもあって、それが必ずしも呪法を主たる目的としたものでは無かった。人間の生の営みを宗教倫理、政治経済等々に分類して考えることは、それこそ現代人だけの智巧であって、何千年とも知れない過去社会には、それがすべて融合して、渾然(こんぜん)たる『此の世』というものを作って居た」(柳田国男「社会と子ども」)

 「かねて定まった試験」とはマークシートを塗りつぶすよう、不真面目なものではなかったことだけはたしかです。実際にやってみる、モノを作るとか作業をこなすとかして、実用に供することがなければ周りから認められなかったのです。今のように、年を重ねれば、半人前であろうが「大人になれる」というのは周りも困るでしょうけど、本人にはもっと辛いことだと思います。自分が大人であるという標(しるし)はどこにあるのか、まことに頼りのないことだからです。今日から君は成人だ、といわれてその気になったところで、中味が空っぽじゃどうしようもない。その気になって空騒ぎをするしかないというのも気の毒なこと。「成人式」の滑稽さ。

 ぐずぐずとつまらないことをいっていますが、学校(教育)は一人の人間にどんな仕打ちをしてきたかをはっきりととらえなおす必要があるといいたいがためです。それだけのことではあっても、じゅうぶんに理解してもらえないのは、学校教育によって恩恵や利益を得たと考えている(錯覚している)人間が相当に多いからです。国家や社会にとって学校教育を支配し、じゅうぶんに機能させることはみずからの命運のためには決定的な意味を持っていました。でも幸か不幸か、国家と個人とは、本来はぴったり一致しないものなのです。身体に服を合わせるのか、服に身体を合わせるのか。そんなの決まってるじゃんよ、と大きな声で言いたいんですが。

 となれば、国家の要求を個人の必要に合わせるのか、個人の欲求を国家の要請に合致させるのかという選択肢がでてきそうですが、それは言葉だけの話。事実は長い歴史が語っているとおりです。こんなところから、おそらく人権(人間性回復)の問題がその姿を現してきたんじゃないですか。まだまだ、ですね。(柳田国男はどこにいる)

学校は何をしているの?

 学校教育を支配している原理は「競争主義」の原理だといわれます。それは個々人の能力や努力にのみ選別化の基準をおくという(仮象の)ものです。学力が高い、成績が優れているとされる子どもはそれだけ能力を発揮したからであり、反対に成績の振るわない子どもは能力や努力の面で劣っているとされ、その結果については本人も否応なしに納得させられるのです。「やればだれだってできる」(ホントか)と教師はいいます。そして子どもは「「できなかったのは、自分がやらなかったからだ」と神妙に納得させられるのです。競争原理とはそのような成績の差を正当化する威力をもっているかのように個人に対して作用する。どの子も同じ条件で五〇メートル競走をしているのだから、結果に遅速の差が出るのはあたりまえだというわけです。この原理は相当に長く威力をもちつづけてきたようです。これが「センス」なんですね。ぼくはいつも振るわないガキでしたから、少しは反省したかと思いきや、「センス」には一向に関心が向きませんでした。

 「能力主義の社会秩序とその教育体系は抜きさしならない二律背反を含んでいる。なぜというに、大多数は敗者となる定めであるにもかかわらず、全員が同一のイデオロギーに与しつつ競い合うことが求められているのだから」と指摘するのは英国の社会学者ウィリスです。彼は重要な本をいくつも出版していますが、ぼくがよく引用(上にも引きました)するのは邦訳『ハマータウンの野郎ども』(筑摩学芸文庫)でした。学校の「現実」が活写されすぎているほど。(英国ですが)

Paul Willis

 だれでも一番になれないことは明白であるにもかかわらず、「やればできる」という決まり文句を教師は口にします。やればやっただけの成果があらわれる、そのような場面はいくらでもあるでしょう。しかし、コンテストではだれかが一番になれば、だれかは二番になれても、けっして一番にはなれない。つまり学校の「勉強」はコンテストになっているんだ。試験のできばえを他人と競うコンテストであるなら、とにかく勝負に勝たなければならないということになります。勝てば誰彼となく評価してくれる期待感がある。自分がかしこくなるための学習ではなく、だれかに勝つための学習とはいかにも経済競争に似ています。ぼくはいつでも競争から離脱しようとしてきた。その程度の「勉強」かよ、という捨て台詞のようなものを吐きながら、「その気になれば、いつだってできるぜ」といっていました。ついぞ、「その気に」はなれなかったが。コンクールというのも同じですね。ショパンコンクールだのチャイコフスキーコンクールって、マジですか、とぼくはいまでも不信感でいっぱいです。一位のショパンと二位のショパンにある差ってなんだ。

 学校の内外で必要以上に数字(成績)が重んじられるのを手はじめに、どこまでいっても競争原理がはたらいているのが学校教育の実情です。これを「学校化国家」といったらどうか。くりかえしになりますが、産業経済側で重んじられる価値観こそ学校が必死ですがる教義となっているのです。個々の子どもたちがどれだけ多量にこの価値観を自分のものにするか、それを競わせるための競争主義だといってもいい。まるで食うか食われるか、勝つか負けるかの生存競争の闘争場(アリーナ)となっているのが教室だといっても過言ではありません。これが百年余も続いてるんです。

 資本主義的の経済システムが機能すればするほど、原理的にも実際的にも経済資本(典型はカネだ)の分配において不平等を生みだすのはさけられない。産業経済体制の諸々の制度は、根本的には、社会的・経済的不平等をもたらすような構造になっているのです。市場をめぐる利潤獲得競争が(表面上は)資本主義の真骨頂だとされるなら、勝者と敗者が明確に生みだされるのは当然の道理です。しかし、現状は純粋な競争主義に基づいてはいない。大きなちからをもつ企業は、さまざまな政治上・政策上の便宜を得てさらにいっそう大きなちからをもつように仕組まれています。(常習的な便宜供与さ)消費税を全員に負担させて、そこから大企業の法人税の大減税をしようなどというのはその見本ですよ。みんなから取って、ごく一部の者どもで山分け、これが列島の経済・政治の実情だといえるでしょ。××ミックスですな。

 学校でも同じような現象が見られます。成績競争に早い段階で勝利する子どもは、その勝利によってさらに競争を有利に展開することができます。その反対に、成績が振るわないと判断された子どもはいっそう不利な競争を強いられる。教育という「インフラ」に金をかけられるかどうかが、子どもの成績を左右するのです。「格差社会」というけど、実際は「格差国家」なんだ。国家当局によって格差は作り出されているから。

 さまざまな学校段階に一貫している性格があります。それはどんな学校もさらにその先にある学校への準備教育が主流となっているという点です。そして最終的には就業・就職のための準備教育こそが学校の最大の機能であることになります。これがその時々の学校教育の必要・必然性をいちじるしく阻害し、歪曲していることはいうまでもありません。小学校は中学校の、中学校は高等学校の、高等学校は大学のための「下請け教育」を担わされているのです。まるで明日のために今日があり、明後日のために明日があるといわぬばかりです。「下請けいじめ」は経済界だけの悲劇ではない。ここに教師の苦労と頽廃の蔓延(はびこ)る理由があるのです。(わかるでしょ。ここでは、詳しくは述べない)

 子どもは幼く弱い存在であり、保護し監督しなければならないという子ども観は古いものではありません。おそらくこの列島でも江戸時代以前にさかのぼらないんじゃないですか。そして、大人と子どもという区別がされたときに「子どもは発見された」といってもいいでしょう。大人になるため、社会へでるための準備を周到にかさねるために学校教育が始まったともいえます。(子どもと大人という区分はいつ始まったのか。これもまた大事な問題です。子どもは「小さな大人」という子供観が生きていた時期がどこの地域にもありました)

 そのような準備教育にはふたつの側面が見られます。

 そのひとつは、いわば教育の社会的な側面ともいえるもので、社会に必要とされる多様な労働力の確保と生産性向上のための教育機能です。そのことによって、たえず物的資本の増大が期待されるからです。いい人材が集められれば、市場競争において有利に商売を展開できるからです。

 もうひとつの側面とは、いわば個人的なものです。物的資本(典型はカネ)が増大することによって、個人生活における消費は拡大し、生活水準の上昇が約束されるからです。これを見ても、学校教育はけっして子ども自身の成長や発達に焦点をあてて実行されるのではないのが明らかです。

 これを学校教育が担っている統合化機能ということもできるでしょう。統合(integration)というのは社会のさまざまな集団(セクター)が求めている人材を適切に送りこむことです。単純に社会化するというのではなく、それぞれの需要(必要)に見あった人材(能力)を供給するといってもいい。そのために学校はいろいろな訓練を施して、既存の社会秩序を子どもたちに抵抗なく受けいれさせようとする。人材配置機能ですね。学校が毎日やっていることはそんなことなんです。けっして子どもや親のためなんかじゃありませんよ。「金の卵」ってなんだ?「就職氷河期」だって?

 この数日、降ってわいたように列島全体が危機に襲われ、それを退治するために「鉄面皮仮面」がやおら登場し、危機から人民の身を守るため、にわか仕立ての「非常事態宣言」もどきを出しました。まるで「危機状況」の下手な「自作自演」であり、自己救済(青汁ではない)本意のために列島の大半の住民を巻き込むような鼻息の荒さです。飛沫感染に十分に注意したいね。人民のいのちを尊重しているのかと問うのも恥ずかしい売り込み政治だというほかない。このあわれな状況の収束はいつ到来するのか。願わくば、五輪前に来てほしいね。(「学校」は「列島」の敗戦後と同じで、今でも「独立」なんかできてないよ)

配電盤教育の残したもの

 「育てる」という行為は「育つ」あるいは「育てられる」という感覚・機能ときりはなせない。たんに言葉の問題とみられそうですが、子どもを育てる母親が自分はもう育ちきったとみなしたら、その瞬間に彼女は子どもを「育てる」保育者から、「しつける」監督者に変わってしまう。教師が自分を「育てる」という感受性を失えば、子どもに対してひたすら「教える」、「与える」授与者になることうけあいです。「教える」と「育てる」はちがう。「育てる」があってはじめて「教える」がなりたつのではないか。「教える」の根底に「育てる」がなければ、どうしても「教育」は強制(無理強い)になるほかないものです。いやというほど、ぼくは長い間に経験してきました。

 それはまだ年端のいかない子どもに自分の考えや価値観を移しかえている・圧しつけているに過ぎないのです。親の考え方や教師の世間知(センス)を子どもや生徒の頭に植えつけることが「教育」となっている。そのような行為をして「育てる」とはいわない。頭が柔らかいうちに世間の常識を子どもに注入する、それが長い間、この国では「教育」の別名であったのは事実です。注入主義ですね。注入度合いを測るには「試験」は不可欠であり、試験の結果がランクづけられなければならないという屁理屈が成り立ったのです。成績の良し悪しを決める判定者が学校だという意味です。それ(成績のランク)を世間が待ち望んでいるのです。

「金屏風」が…

 その結果、どのような事態が子どもに、そして、社会に生じたか。

 家庭からも学校からも「育てる」が放置・放棄され、その代わりに台頭してきたのが「教える」「与える」「授ける」という強制・管理主義でした。どの学校段階をきりとっても、そこで行われているのは「教師が教え、生徒が聞く」であり、教師の話をどれだけ正確に記憶したかが問われるのです。小学校でも大学でも、その点では「教育の悪質」は少しも変わらない。教える=与える、受けいれる=覚えるだけ教育が主流となってきたのです。「受け」のいい子がもてはやされる。

 何事であれ「育てる」というのは深く相手(対象)にかかわらなければ不可能です。相手かまわずいっせいに言葉を投げつけるような乱暴な行為によってはなにものも育てることはできない。にもかかわらず、この国ではひたすら教え・与え続ける「教育」が展開されてきました。その理由や目的はなんだったのでしょうか。

 西欧なみの近代国家になるためには「教える」装置、詰めこみ機械である学校は必須のものだったのです。別のいい方をするなら、求められたのは国家のための学校教育であり、個人のためのものではなかったという意味です。ひとりの人間が成長し一人前になる、そのような教育は後回しにされ、忘れ去られた。なによりも国家本意、国家に発する学校教育が優先されたのです。

 もっとも典型的な学校教育のスタイルは日本初の大学として国家によって作られた東京大学のそれであったといえます。一八七七年に創設された東京大学では多くの授業は外国語で行われ、それを担当したのはお雇い外国人たちでした。時の総理大臣よりも高い給料を支払ってでも外国語による一斉授業で「新知識」「西洋の文物・文明」を受容させることが必要だった。「近代化」(という名における「西洋化」)をめざしていた国家における重要な装置として東京大学(後に改称して東京帝国大学となる)は機能させられたのです。いわば、東大は列島全体に「西洋化」を図るための宅急便ならぬ個急便となったわけです。

 大学教育にかぎらず、学校教育を国家が主導するのは「近代化」の後発・後進国家であった日本に固有のものでした。欧米のおおくの大学は私立であるのが一般的であった。(むろん、例外はあった)また、科学的な発明や発見の大半は大学外の労働現場においてもたらされたのです。

 近代化に遅れた国として西洋が何世紀もかけて蓄積してきた「文物・文明」を一日でもはやく仕入れることは、時の政府にとっては緊急かつ至上の命題であった。そのために採用されたのが一斉授業という方法だったのです。教師が話し学生はそれを記録する。教師の話を暗記するのが学生の勉強であり、収入(話された内容)と支出(記憶された内容)のバランス(均衡具合)を調べるのがテストでした。帳簿勘定の学問・教育といっていたほどです。

共通一次試験

 試験の結果、優秀な記憶力の持ち主で、教師に従順な学生だと判定された帝国大学の人材が欧米に長期の留学を命じられました。見事に欧米の学問を仕入れる(暗記する)ことができた段階で留学組は帰国し、以前のお雇い外国人に変わって大学の教壇に立ったのです。ますます学問(欧米の新知識)の受容と分配が大学の大切な役割となりました。その後、この帝大にみられる講義(授業)風景がそれ以下の学校のお手本となりました。ひとをじっくりと育てるのではなく、促成栽培で乱穫を期するのが習い性となったのです。「教える・教えられる」が学校教育の主流となった時代の始まりです。それ以降、留学の仕方も授業の方法も、試験偏重の風潮もわたしたちの社会の根づよい伝統となってきたのはご承知のとおりです。選別教育はかくして列島に蔓延しました。

 科学技術、科学文明、あるいは機械文明などという合言葉でもてはやされた二十世紀、そのような工業化を競った時代にはげしく求められたのが「教える」に特化した学校教育だった。工業化を推進した国家が必要としたのは「良質の労働者」を大量に産出する教育装置だったのです。制度化された学校は一手にその要求を引きうけることになりました。いわば、小学校から大学にいたるまでの学校は配電盤(switchboard)(知識・技術の分配装置)の役割を担わされたのでした。

 その反動で「育てる」教育は無惨にも放棄された。「教」をたのみ「育」をつぶすような教育が生みだしたのはどのような人間だったか。時間がかかることは経済的に割に合わないのは製品生産でも人材産出(開発)でもおなじでした。そこで求められたのは国家(教師)の要求に応じることができる生徒、すなわち従順で器用な人材であったのです。

 従順で器用な人材は判断力や考える能力の点ではじゅうぶんに育てられてこなかったので、多くの問題を抱えて学校を離れたことになります。人生のスタート段階で、親や教師にオモネルことを覚えた人間は、大事な場面では決して自分で考えられないし、決断できないと思う。知識というけど、それは言われるままに鵜呑みした「記号集」だから、それを分解し、ひもとこうとしなければ、生きた言葉に変えられないのです。

 教師が言ったこと、親が言いつけたことと別の次元にそれら(言われたこと)を変換する能力こそが才能じゃないでしょうか。そういう才能を育てるには「遊び心(playful)」がないとね。余裕といってもいい。あるいは揺さぶりをかける精神でもありますよ。センスに対する「ノン」ですね。

ハタから表札を…

  表  札

 自分の住むところには / 自分で表札を出すにかぎる。

 自分の寝泊まりする場所に

 他人がかけてくれる表札は / いつもろくなことはない。

 病院へ入院したら / 病室の名札に石垣りん様と / 様が付いた。

 旅館に泊まっても / 部屋の外には名前は出ないが / やがて焼き場の鑵(かま)はいると

 とじた扉の上に / 石垣りん殿と札が下がるだろう / そのとき私がこばめるか?

 様も / 殿も / 付いてはいけない、 / 自分の住む所には / 自分の手で表札をかけるに限る

 精神の在り場所も / ハタから表札をかけられてはならない

 石垣りん / それでよい。

  このように断固と言い切った詩人は2004年12月26日に亡くなられました。石垣りんさん、84歳。彼女が銀行に事務見習いとして就職したのは昭和9年(1934年)、14歳のときでした。初任給十八円、昼食代支給だったそうです。

 「私は好きなことをしたくて働くことをえらび、丸の内の銀行に入社しました。以来三十年余り、同じ場所に辛抱しておりますが、職業と生活は、年月がたつほど私を甘やかしてはくれなかったので、結局そこで学びとらされたのは社会と人間についていでした。戦争も、空襲も、労働組合も、です。

 終戦後、労働組合が結成され、職場の解放と共に、働く者の文化活動が非常に活溌になった一時期、衣食住も、娯楽もすべて乏しく、人々は自分の庭や空地に麦、カボチャを植えて空腹の足しにし、演劇も新聞も自分たちの手でこしらえはじめたころがありました。

 戦前、同人雑誌など出し、詩や文章は職場とは関係のない、ごく個人的なものと割り切っていた私は、自分と机を並べている人たちから詩を書け、と言われることに新鮮な驚きを覚えました。私に出来るただひとつのことで焼跡の建設に加わる喜びのようなものがありました。同時に、人に使われている、という意識が消え、これは私たちみんなの職場なのだ、と思うことの出来た、わずかに楽しい期間がそこにありました」(石垣りん「花よ、空を突け」)

 石垣さんは苦労して一家を支え、営々とあるいは孜々として詩作に励まれた。その詩の多くは、ぼくにはある種の決意というか断固たる姿勢・態度の表明のように思われ、心して読んできました。「表札」はいかがですか。どなただって、自分の表札に「〇×▲◆ 様」と「様」をつけないでしょう。いや知らないのはお前だけで、〇様や▽博士や◆弁護士などと、麗々しく添え書きしている人がたくさんいるんだよ。たしかにずいぶん昔はあったのをぼくも知っていますが、さすがに今日ではないでしょう。

 ある大学で総長だった人物が入学式や卒業式で「おめでとう、この一流大学に…」といった祝辞の記録を読んで驚天動地というほどではないが、なんという無恥者めと呟いたことを今でも覚えている。そのように詐称(自称)したのは一人だけではなかったから、しばしばのなさけない経験でした。一流だ、名門だなどということ自体が当人の人品をあらわしているのですが、一向に気づかないから、本人は平気なんですね。「祝辞」さんはそんなに品のある風にはまず見えませんでした。それにしても、ランク付けも廃りませんね。みなさん(ではないが)、胸に表札(肩書付き)をぶら下げた気分になって街中を歩いていらっしゃる。ハダカかも困りますけど、表札や勲章・徽章はどんなものですか。制服だっていやでしたから、ぼくに「表札」は無用でしたね。一流ではなく末流、名門ではなく無名門、あえて言うならそれだった。

議員バッジ

 成績一番になりたい、業績は会社のナンバーワンだ、世界の一位に命を賭けて、社長になりたい、大臣になりたい、もっと上になりたいという目標はまちがってはいないし、それをぼくはとやかくいうつもりはありません。どうぞ、勝手におやりください。ただし他者に迷惑をかけないで、というばかりです。「なりたい病」は感染し、蔓延する性質をもっています。地位や肩書ばかりが目標になると、どうでしょう。苦節何十年、ついに社長になれた、そして会社はつぶれた。こんな事例がたくさんあるんじゃないですか。「目標千何百何十店、▽▼薬局」という薬屋さんがありましたが、近年はあまり見かけません。目標達成はどうなったか。「イキナリステキ」も素敵じゃなくなりました。どこで躓いたか。 

独鈷(どっこ)

 「自分の住む所には 自分の手で表札をかけるに限る」というのは精神の自立宣言のようですね。自分の足で立ち、自分の足で歩く。もっといえば、ぼくは自分のお尻の上に座ることにしています。小さいし、固いんで坐りごこちはとても悪い。まさか、お尻を貸しててくださいとは言えないからね。だから他人の尻はいうまでもない、他人の肩にのっかってなんて、というのはご免被るのを心情にしています。「ボロは着てても ココロの錦」(「いっぽんどっこ」の唄から)「どっこ=独鈷」密教の法具)と水前寺清子さんは謳われました。「行くぜこの道 どこまでも」と今でも歩かれているのでしょうか。遥かなる道を自足で歩くのもまた哲学です。(たまには休憩したい張三)

 

「教えられたい」は甘えたい

 わからないことを聞くときには

 修業中の弟子が棟梁(とうりょう・親方)に「これはどうするんでしょう」と尋ねたら、必ず聞きかえされた。「君はどう思っているの?」「それはこうだ」とはけっして言わない。だから棟梁には下手(不用意)に質問できなかった。まちがっているかもしれないけど、「自分はこう思う」というのをもっていないと質問できなかったそうです。

西岡常一さん

 この棟梁は「最後の宮大工」と称された西岡常一(1908-1995)さんでした。斑鳩の里(法隆寺)所属の大工(祖父・父につぐ三代目)。西岡さんは自分の息子さんたちにも同じ態度をとられていた。宿題が分からないから、聞きに行くと「お前の考えは?」と必ず聞きかえされたというのです。また「あれはどうなっていたのや」と反対に質問されたそうです。

 教えないで教える

 棟梁が弟子を育てるのは「見本を示す」だけです。こうしなさい、ああしなさいなどとはいわない。たとえばカンナ(鉋)を研(と)ぐのも「こういうふうに研ぐのや」と教えない。「こないふうに削れるように研いでみなさい」というだけです。西岡さんのお爺さんも宮大工でしたが、あるとき孫の西岡さんに「鉋(かんな)はこんなふうに削るのや」といって、向こう側が透き通ってみえるほどに薄くて美しい鉋屑(かんなくず)を放り投げただけで、どこかへいってしまったそうです。

法隆寺遠景

 弟子になるほうは大工になろうという気持ちがありますが、それに加えて「教えてもらいたい」という「衣」みたいなものももっている。それが修業の邪魔になるのです。だから自分でこの衣を解か(脱が)なければならないのです。自分で解こうという心構えがないと、ものは正しく伝わらないと西岡さんはいわれました。

 「学校や今の教育は違いますな。まず手取り足取り教えますな。子供がわからな、教え方が悪いと言いますしな。それでそのときはこないする、こんなときはこうやったほうがいいと、こと細こうに教えますな」

 「私らはいっさいそんなことはしません。…こんなですから今の教育に浸った人たちは何と理不尽で、遠まわりな古くさいもんやと思いますやろな。しかし、これが一番の早道ですな。へ理屈を並べるよりも、本当に伝えようと思ったら、このほうがいいんです。形式的に暗記して、そのことの意味がわからんでも、そのときさえ覚えた気になればいいというんなら言葉だけで伝えてもいいんです。親方がいったことを弟子が繰り返していう。それだけでいいし、それやったら本でも読んでいればいいんです。棟梁なんていりませんな」「大工はそのときの試験に通ればいいというんやないです」(西岡常一『木のいのち 木のこころ』新潮OH文庫)

 教えてもらいたいは甘えのあらわれ

「教えてもらいたい」という「衣」を分厚く着せるのが学校であり、上手にたくさんの「衣」を着た子が優等生というわけです。「衣」とは「化粧」みたいなもので、いつも厚化粧していると、自分のスッピン(素顔)がわからなくなります。だからよけいに塗りたくることになるのでしょう。でもむりにはりつけた化粧はいつかは必ずはげおちるものでもあります。「教えられたい」というのは一種の甘えだとぼくは経験してきた。

薬師寺西塔

「自分はこう思う」「自分の考えはこれです」という当てもなしに、相手からの答えを鵜呑みにするだけ、こんな教育を何十年もつづけることで、はたしてその人の何が育つというのでしょうか。(あんまり立派に育ってしまうと困る人がいるのでしょう。だから、ほどほどに、言うことを聞く「人材を養成」するのがこの島の学校の寸法にピタリと合うのだね。でも、寸法があわなければどうする、なに自分流で何とか生きる知恵をつけるものですよ、人間は。でも、それには辛抱がないと。

 西岡常一という棟梁はとても大切な「伝説の人」であり続けています。ぼくは一面識もなく、彼の仕事場だった法隆寺や薬師寺などの建築を何度もなんども眺め、また彼が残した何冊かの書物を通して、知るばかりだったが、それでじゅうぶんでした。いつのことだか、志賀直哉という作家が「法隆寺はだれが作ったか、作者(大工)がわからないが、建物を見ているだけでじゅうぶんである」という意味のことを話していたのを記憶している。小学生のころからぼくは奈良に行っていました。

 西岡さんが薬師寺の西塔の再建がなり、お披露目をした時だったか、東塔とは基壇の高さや軒の長さ、その他さまざまな点でちがいが目立っていた。心配ご無用、何百年かすれば両塔は同じようになるというのが西岡さんの答えだった。法隆寺は木造で1300年以上が経過している。おそらく創建時に朝鮮半島を渡ってきた大工たちはそんなに長く建物がもつとは考えていなかったし、ましてや千年以上もたせる建物を作ろうとしたはずがない。日々の建築に精魂を傾けた結果が、ぼくたちの眼前に建っているというのです。まさしく、「現場に生きる」人々の真骨頂だったと思いますね。

 西岡さんの死は、掛け値なしの文化財の喪失であったと素人ながらに、つくづく実感しました。機会を見つけてまた彼について騙りたいですね。ぼくは少年時から、斑鳩の里に何度通ったことか。大工になりたいと本気で考えていた時期がありました。身近に棟梁がいたからでもあり、寺をはじめ建築物を見るのがことのほか好きだったからでした。(信仰心なき寺社建築好き)