自分の弱さをかくさない

 宮本常一(1907-1981)というひとに再登場してもらいます。家業は旅籠屋でした。お遍路さんたちがよく泊まりに来ていたそうです。民俗学者。山口県周防大島生まれ。大島は瀬戸内でもっとも大きな島。この島人の遍歴にも騙るべき多くが残されていますが、いずれの日にか。胸を病み、遅れての天王寺師範卒。日本各地を歩きとおした人で、それはまるでものに取り憑かれたような歩き方、聞き方でした。村に生きる人々の姿を温かく描いた民俗誌を数多く残す。著「忘れられた日本人」「家郷の訓」など。『宮本常一著作集 全50巻』(未来社刊)が残された。

 宮本さんは比類ない大きな仕事をされました。ぼくは何十年にもわたって、彼の仕事から学びつづけてきたし、いまなお、読みついでいる。人間の生活―賢・愚とりまぜたものです―それをじつにていねいに調べようとされました。列島が「経済成長」という大きな怪物に併呑されていくさまざまな場面や情景、あるいはその流れに翻弄される常民の生活を委細漏らさず記録するかのように、列島の端から端まで歩きとおされた。

 青春時代の一時期、宮本さんは苦労されながら、師範学校を出られ、短期間でしたが、小学校教員を経験された。その時期の姿を調べたことがあります。低いところから、子どもたちと同じ地平で歩かれようとしている姿がはっきりと認められたとぼくには思われました。

 《ふりかえって見ると、私は決していい教師ではなかった。むしろいたってお粗末で、欠点だらけであった。自分の教壇を立派に守った記憶もないし、子供たちに対しても決して忠実ではなかった。そしてそれは教え子に対してのみではなく、親や妻や子に対しても同様なのである。そういう自分を比較的卑下しなくて考えるようになったのは敗戦のおかげだが、そのまえにいとぐちをつくって下さったのが芦田先生だと思っている。(略)

 自分の持つ人間的な弱さをジッと見つめ批判している先生の一面にふれて、大へん親しみを覚えるようになった。それまで師匠というものはすべて一つの完全な人格として私の眼にはうつっていた。私にない多くのものを持っている人としてうつっていたのである。しかし芦田先生の場合は自分の人間としての弱さをジッと見つめていたばかりでなく、私などにもかくさなかった。劣等児に対しての特別な思いやりもそういう所から来ているものと思うが、御自身としては、そういうものをたえずのりこえられようと努力せられて、生涯をつらぬかれたのであろう》(宮本常一「芦田先生の一面」)

 「優劣のかなた」の大村はまさんもまた、芦田さんに導かれた時期をもっていました。

 《先生はほんとうに個人を見ていらしたと思います。ひとりひとりを見ぬき、どのひとりをも生かそうとされました。今、中学生の指導の大きな問題点の一つは、個人差に応じる指導ではないかと思います。これができなければ、中学校の教室をいきいきとさせることはむずかしいと思います。(略)芦田先生の徹底した個人差の考え方は、私をグループ指導のくふうにうちこませました》

 《また、そのグループ指導についても、グループにすることによって、個人をよりよく指導するためで、いく人かを一つのたばにして扱うのではないという考えや、たとい、はっきりした、いわゆる能力別のグループにした場合でも、指導者が、優にも劣にも、人間として真に同じ尊敬をもっていれば、優越感も劣等感も起こさせるものではないという自信をもたせてくれました》(大村浜「芦田先生に学んだもの」)

 すでに何回か触れた芦田恵之助さん。彼にはたくさんのお弟子たちがおられました。この師弟関係という一面もまた独特の雰囲気を有するものであり、それには別途で語られる多くの物語がありそうです。

 《高師の附属にいたころの話を少し申してみます。わたしは複式の学級をもっておりましたが、どんなに骨折ってみても子供が作文をかかんです。これほど骨折っても書かんなら、お前ら書きたいことを勝手にかけ―こう突っ放しました。すると、五、六年の学級が一心に書き出しました。実におもしろい文がたくさんできました。題を与えても、系統立てて、すっかりお膳立てして書かせようと努力した時には到底得られなかったようないきいきした子供の生活を書いた文が生まれました。わたしはこれに打たれました。子供の作文は結局この方法だと思いました》

 《爾来わたしの綴方の時間は、おまえさんたちが自分で題をきめて、書きたいと思うことを、好きなように書け―そういうやりかたをして二年目の冬の高等師範の附属の講習会に随意選題の綴方教育というように発表をいたしました。すると芦田は外国の自由思想をとり入れて自由作文をはじめたといわれました。この随意選題は当時はなかなか非難もされましたし、批判も受けました。広島の附属にいた友納友次郎君は系統主義による綴方を標榜しておりましたので、友納君には一番咬みつかれたのですが、彼は彼の信ずるところを主張し、我はわが是(ぜ)なりと信ずるところを行ずるのみであります。わたしはこの綴方の随意選題一本で今日までずうっと貫いて参りました》

 *芦田恵之助(1873-1951)]国語教育家・教師。兵庫生まれ。国語科の読み方教育と綴り方教育に独自の理論を展開。著「綴り方教授」「読み方教授」。(大辞泉)『芦田惠之助国語教育全集』(全25巻、明治図書出版, 1987年)

 「高師」とは東京高等師範学校(現在の筑波大学)。「随意選題」は字のとおり、子どもが自分でなにを書くかを自分で選ぶという意味です。それが後の「生活綴方」につながっていく。

 大切な仕事をしたひとですから、功罪が半ば(毀誉褒貶)するのは当然だろうと思います。どんなひとについてもそうですが、彼や彼女はすばらしい仕事をしたのだから、「それをていねいに学びなさい」というまではいい。でもその学び方はむずかしいですね。その仕事を真似ることはできても、表面だけのことです。そのひとがみずからの方法を発見したように、自分もまた自分の方法を発見することがあるのだということを教えられる(考えさせられる)のではないでしょうか。他者から学ぶというのはそういうことです。(芦田さんは牧口常三郎氏とも近しい間柄だった。芦田さんも「教祖」と称されたような人です)

責任を折半しながら

 忘れた青さ

 …私は、すぐれた教育技術者によって人間が作られてゆくという発想から遠く離れて教育を考えている。よき対話者としての父もなければ、鑑とするだけの教師ともめぐりあわなかった。

 それと言うのも、私の父が地方の警察の刑事であって、同じ県の中を始終転勤してまわっていたことと無縁ではない。私は、一年ごとに転校し、いつも先生になじまないうちにその地を去っていった。父はアルコール中毒寸前で、酒が切れるとよく母をぶった。だから私は、彼らを人生の「教師」として私の中で人格化するためには、想像力のたすけを借りなければならなかった。私は、いつでもいらだっている自分と、そんな私を管理し自律しているもう一人の自分とのあいだで、引裂かれていた。ウラジミール・マヤコフスキーの詩に

中山競馬場

  空は

  けむりの中で青さを忘れ

  ……

というのがあるが、私自身もまた外界の「けむり」によって、むしろ自失することがあっても、自分を強化することはなかった。

 戦後復活した「道徳教育」の押しつけがましい我慢の強要、スパルタ式体育教師のリビドーに奉仕するような長距離ランニング、そして教師たちの買った「馬券」のために、丸暗記して点数をかせがされるクラス別対抗のアチーブメント・レース。書きたくないときに書かされる作文という名の心境レポート、そして民主主義という名で、自分の存在さえも相対化され平均化されてゆく集団生活。―少なくとも、与えられた教育の中で私は「忘れた青さ」を、べつの場所で取りもどさなければ、窒息してしまいそうなのであった。

ウラジーミル・マヤコフスキー(1893-1930)

 私は、マヤコフスキーの「ぼくは心のための男さ」という句を反芻し、学校の外に「学校」をさがし、挙句に大学一年で中退し、それに代わるものを居酒屋、野球場、ダンスホールなどに求めるようになった。教養主義はメガネと運動不足しかもたらさないからおまえはじぶんで、思想を生成するために市街にかかわってゆかねばならない、と私にいってきかせてくれたのは、私自身の本能である。一冊の岩波文庫を読むように、一人のホステスの身の上話を「読む」ことは、自分を生徒にするだけでなく、教師にもしてくれる。自分は自分自身の師であると共に、名もない行きずりの酔客の師になっているかも知れないし、その師弟の相互関係は限りなく交錯し、幾何学的に社会を構成しているのである。

 私は、一度も「ほんとうの」教育者像を考えてみたことはない。しかし、私が今まで私自身と責任を折半しながら自分を教育してきたものなら、それは限りなく挙げることができる。のらくろ上等兵。アルチュール・ランボー。坂本キエおばさん。大列車強盗ジェーシー・ジェイムズ。中西太。セッちゃん。小川医師。石童丸。映写技師阿保さん。谷川俊太郎さん。予想屋の政。古川益雄氏。オスワルト・シュペングラー。その他大勢。(寺山修司「私自身 市井の万事が教師」)

(*てらやま‐しゅうじ【寺山修司】歌人・劇作家。青森県生れ。早大中退。前衛芸術家として短歌・演劇・映画など多方面で活躍。劇団「天井桟敷」を主宰。詩文集「われに五月を」、歌集「空には本」など。(1935~1983)(広辞苑 第五版)

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教師は教えなかった、だから…

〔ある時期、ある場所の「教師vs生徒」〕

 わたしは、ひとはひとに影響を与えることも影響をうけることもできない、という太宰治の言葉が好きだ。この言葉はひとはひとに教えることもひとから教えられることもできない、ということをも意味している。遠山さんはわたしに教えたのではなかった。だからわたしは教えられたのだ。遠山さんはわたしに教えた。だからわたしはそのことを教えられなかった。多くの学生たちのあいだには教授はただ敬遠すべき偽善者たちであり、大学は諸悪の根源であり、ただ通過すればいいと考えている怠惰でひねこびた箸にも棒にもかからない暗鬱な存在がきっといる。かれらに取柄があるとすれば、ただ無垢で無償でありたいという願望だけだ。わたしはそんな学生の一人であった。遠山さんの教育理念と情熱をもってしても、このような存在は落ちこぼれるほかないにちがいない。だがわたしの信じているところではこのような存在の地平を解明するところに膨大な未知数の課題が開かれているはずであった。(吉本隆明「遠山啓」『追悼私記』・ちくま文庫所収)

 遠山啓さん(1909~1979)は熊本生まれ。東京工業大学の教授を務められ、同時に算数・数学教育にも情熱を傾けられました。数学計算における「水道方式」を提唱。雑誌『ひと』創刊。さらには広く教育全般に対して発言をつづけられた。一方、吉本さんは東京工大卒の詩人・評論家。この「遠山啓」は追悼文として79年に書かれた。

 敗戦直後、西日が落ちかかった東工大の階段教室で遠山さんは「量子論の数学的基礎」という講義をされていた。その講義に参加したときの情景を、後年いくども思うかべたと吉本さんは書かれています。粗末な詰め襟の国民服姿での「量子化された物質粒子の挙動を描写するために必要な数学的な背景と概念をはっきりと与えようとする」講義だった。

遠山啓さん

 ことの発端は、敗戦直後に工場動員から帰ってきた学生たちの数人が「なんでもいいから講義してくれという。ぼくたちは大学にはいったが、工場動員の連続で、ロクな教育を受けていない、だから、講義というものに飢えているのだ」ということからだった。「率直にいうと、長い教師生活のなかで、そのときほど熱をこめて講義したことはなかったような気がする。講義をきくほうも、するほうもなにかに利用しようという目的もなく、まったく無償の行為だったからであろう」(遠山啓「卒業証書のない大学」)

 「教える―教えられる」ということ

 「遠山さんはわたしに教えたのではなかった。だからわたしは教えられたのだ。遠山さんはわたしに教えた。だからわたしはそのことを教えられなかった。」

 吉本さんのこの指摘こそ、願わしい「教育」というものが内包しているはずの真髄を言いあてているとぼくは直観しました。これをべつの言い方になおせば、「先生が教えたから、わたしは学ばなかった。先生が教えなかったから、私は学んだ」と。これを学べ、という強要から、なにが生まれるのか「千六百年に関ヶ原の戦があった」と教えられるが、それでなにを学んだことになるのか。

 さらに、吉本さんはつづけられます。

 「物心ついてから、がさつな生活と戦争と敗戦の荒廃しかしらず、およそ教養の匂いなどひとかけらももっていないわたしには、この講義がつくりあげている稀にみる稠密(ちゅうみつ)な潜熱のような雰囲気が貴重なもののように思われた」(同上)

二人静か
一人静か

 なんだってそうですが、他者といっしょになにかをなしとげるのであって、授業も教室にいる全員が協力して作り出すものではないですか。教室(にかぎらない〉で教師は独り相撲を取る場合がきわめて多い。教室を土俵に見立てると、そこにいるのは教師ばかりという殺風景な場面が浮かびます。「一人(教師)静か」や「二人(教師・生徒)静か」はいただけない。それは花の名であり酒の銘柄にもありますから、そちらに譲り、互いが一瞬の「無償の行為」に浸りきるという、そんな経験をしたことがある人は、それだけで幸せだったろうと羨ましくなるのです。「優劣の彼方」で行われる「無償の行為」というものかもしれません。(「稠密な潜熱」の土俵上)(吉本さんの続きです)

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教育とは〈予想する〉…

 以下は、むのたけじ(1915~2016)という新聞人が実際に学校で経験した話です。

《…ぼくの旧制中学時代(現在秋田県立横手高校にぼくは昭和二年四月から同七年三月まで在学した)のことを思いだしたので、書いてみよう。当時は上級生の下級生に対する鉄拳制裁が「質実剛健の校風助長に役立つ」としてなかば公認されていた。最上級の五年生は週一回か二回、下級生全員を雨天体操場に集め、かねて生意気だと目星をつけていた下級生をみんなの前でなぐったり蹴ったりした。あまり行きすぎないように監督するため、教師が当番制で体操場にはいってきたが、集団心理でいたけだかになっている最上級生たちは声をそろえて教師のアダナを連呼し「帰れ、帰れ」と怒鳴った。それで姿を消す教師もいたが、じっと立ちつくしている教師もいた。

 その教師は、近ごろ見る写真ではずいぶん肥えて良いかっぷくをしているが、当時は全くやせ細っていて声も弱々しかったので「ヨガ(夜蛾)」とアダナされていた。だから、その教師が制裁の場へはいってくると、悪童達は「いまは昼だ、ヨガの出る幕じゃない、時間をまちがえるな、帰れ、帰れ」と怒鳴った。教師にとってそれは堪えがたい屈辱であったろうが、その教師は体操場の一隅に立ち続けて情景をみつめていた。石のようにだまりこくったポーズは、岩のようにきびしかった。そのとき、教師と生徒達の間には火花の散る決闘に似た何かが流れたのをぼくは思い出す。(左写真は石坂洋次郎さん・1900-1986)

 その教師、石坂洋次郎さんがその後たくさんの青春小説を書くことができた源泉は、あの<踏みこんだきびしさ>の中でつちかわれたものかどうか、ぼくにはわからないが、けれども、ぼくら当時の悪童連の側ではいまでも同級会を催すと、ご本人不在のところでヨガ、ヨガとよんで敬愛の話題はつきない。ぼく個人についていえば、石坂文学に心ひかれることは少ないが、国語と作文と倫理の授業を担当した「すばらしい教師・石坂洋次郎」に対する尊敬と感謝は、あれから三五年すぎた現在もかわらない。(「高校生への手紙」・65/05)

 もう一つ。敗戦直前(1945/8)の一コマです。ここにも教育・教育者というものを考える上で大切なヒントがあるように思う。

 《ヒロシマに原爆のおとされる約一週間前、私は月島方面にあった東京府立商業学校(現在の都立第三商業高校、昭和三年設立)へ講演に行った。その学校から新聞社へ「戦意高揚の講演に記者を派遣してほしい」という申し込みがあって、当時極度に少人数となっていた社会部員の中から偶然私が指名されたのであった。そのとき何を話したかをあらましおぼえている。私は、東南アジア先々への従軍体験をもとに、アジア諸民族の独立を求めてやまぬ課題は情勢がどうなろうと生きつづけると述べ、だからわれわれ日本人はたたかい抜かねばならないと説いた。日本が勝とは考えなかったが、負けることを望んでもいなかった私がそのときに若者たちに語ったことは、明白に「戦意高揚」の言葉であった》

 むのさんは中学を卒業して奉公に出ることになっていた。家計の余裕がなかったからです。「成績が優秀なんだから、上の学校に出してやれ」という篤志家の援助で東京の学校に入ることになった。(現在の)東京外国語大学卒業後に新聞記者になります。このエピソードは別の新聞社に就職していたときのことでした。

《ところが玄関まで見送ってきた校長は、質問するようでもあれば独語するようでもある口調で、「いよいよ民主主義の時代ですなあ。民主主義はこの国でどのように展開されるでしょうねえ」と行った。私はギョッとした。私は何も言わずに校長の顔を見た。ああ、じれったい、その名前が思い出せない。背の低い私の顔とほぼ同じ高さにあったその人の顔は微笑もせず緊張もしていなかった。五十を一つか二つこしたと思われるその人は、頭髪がうすく、顔のつくりは平凡で、当時だれもが着た国民服ではなく背広を着て、ネズミ色のネクタイをしめていた。その人から受けたショックは二十年たったいまもなまなましいのに、どうして名前を忘れてしまったのだろう……》

 初めて会った一人の校長の言葉は、むのさんに大きなナゾを投げかけたようです。

 《ともあれ、戦時中に私が「民主主義」という単語を日本人の口から聞いたのはそれがはじめてで、それきりであったのだが、その約二週間後――私は敗戦の日の日付で勤務先に辞表を出してもう野人生活をはじめていたが、浦和市本太の麦畑の中にあったわが家へ、あの商業学校の小使さんが現在(今からほぼ55年前)なら二万円に相当する金額のはいった角封筒を持ってたずねてきた。そして「これは講演の謝礼です。……その記者(むのさん)は朝日新聞社にはとどまっていないだろう、きっとやめているだろう、と校長先生が言ってました」と言った。

 一人の教育者が初対面の俄か弁士にむかって「民主主義」を言うことができたのは、なぜであったか。なぜ私の退社を、当の私でさえ辞表を書く日までそんなことになるとは思ってもいなかったのに、彼は推断できたのか。本人から説明を聞ける機会を持たずに経過してしまったが、彼の側の説明がどうあれ、この出来事から〈教育とは、予想することだ〉という実感を私は抱いた。(「教師たちに問う」・1965/05)

 ぼくはあるとき、たまたま大きな集会(二千人くらい)で雑談をする機会を与えられた(それは、ある年の「入学式」においてでした)。ほとんどが若い人たちだったので、むのさんのエピソードを急いで騙りました。集会が終わった直後に、一人の青年(新入生)がぼくのところに来て「おばあちゃんがむのさんの友達で、いつもむのさんの話を聞いていた。こんな場所でむのさんのことを聞くとは思ってもいなかったので感激した。早速おばあちゃんに伝えます」という。彼は秋田から上京したばかりでした。いかにもむのさんらしいなあ、いまも元気なんだと感じ入ったことがありました。その二年後だったか、むのさんは亡くなられました。

◎ むのたけじむのたけじ( 1915~2016)ジャーナリスト= 「戦争絶滅」を訴え続けた、ジャーナリスト・むのたけじ(本名・武野武治)。21歳で報道の世界に入り、101歳で亡くなるまで、日本の戦前戦後を鋭く見続けた。むのは大正4年(1915年)秋田県の小作農民の家に生まれる。働いても働いても、貧困から抜け出せない―貧富の絶対的格差の中で働く両親を目の当たりにして育ち、「社会の仕組みを変える」と決意する。東京外国語学校(現・東京外大)へ入学、報知新聞を経て昭和15年朝日新聞社に入社。戦争へと突き進む政治の裏側を取材。その後、従軍記者として中国・東南アジアの戦場を目の当たりにする。直ぐに終わると言われた戦争は泥沼の一途を辿る。拍車をかけたのは、‘国益に反することは書かない’と新聞社自らが課した‘自主規制’による報道の「嘘」だった。記者でありながら真実を書くことが出来なかった悔恨から、むのは昭和20年、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」と終戦の日に退社。(↷)

 「ジャーナリストは何が出来たのか」。そして、「どうすれば人間が幸せに暮らせる社会が出来るのか」。二つの命題を胸に、故郷の秋田に戻り週刊新聞「たいまつ」を創刊する。読者とともに作る新聞を目指し、常に生活者の視点から日本そして世界の姿を見つめ、鋭く深い思索に裏打ちされた言葉を紡ぎ出してきた。そこには「日本は地域から生まれ変わる必要がある」という強い思いが根ざしていた。90歳を迎えてからは、憲法9条の大切さを精力的に訴えて講演活動を重ね、反戦を訴える若者たちを応援、子供たちに向けた本を記した。「ジャーナリズムとは、歴史の日記。過去に何があって現在に至っているのか。何をやって、何をやらなかったのか。人間の歩みを伝えるのが、私たち古い世代の仕事なのだ」。『平和を手渡す』という強い決意を胸に、ジャーナリストとして生きぬいた。(NHK・アーカイブス)(https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250497_00000

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今日は天気がいいね

《校長先生のことをおぼえている。七十年たってもおぼえているのは、めずらしいと思う。

 旧東京市を横切り、電車を乗りついで小学校に達するのだが、一年生には苦しかった。他にもそういう一年生がいるらしく、朝礼のとき、ぱたん、ぱたんと倒れる気配がする日もあった。

  校長先生の話は、みじかかった。

 「今日は天気がいいね。」

 それだけ言って壇から降りてしまうこともあった。全校生徒八百人を前にして、それだけ言って終わるのは、今、私が老人になってみると、めずらしいことだと思う。高い位置に昇ったことのある人は、引退してからも、話が長い。結婚披露宴などに呼ばれて、話のとまらない人は、高い位置に昇ったことのある人だ。

 校長先生は、雨の日に校内の廊下などですれちがうと、「○○君、元気か」などと呼びかけてくる。一年生それぞれにそうだった。

 一年生は、全校生徒八百人の中にはじめて入ると、恐怖をいつももっている。愉快とは言えない。朝礼の時の他にも、校長先生はときどき、話をすることがあった。そのときには、すこし長めで、その話を七つ八つ、今もおぼえている。

  当時、先生は初老で、今、私が八十二歳になって考えてみると、新入生の名前をおぼえるのに努力が必要だったろう。おそらく、新入生の写真と名前をあわせておぼえるように、自分なりの練習をしたにちがいない。そして名簿を読み上げるのとちがって、偶然に出会うときに心から湧き出るように、その名を呼んだ。

  十年あまりたって、私(鶴見)はアメリカの捕虜収容所にいた。便所掃除のコツを教える、白いひげの上杉さんという老人がいた。私が当番にあたったとき、上杉さんは私に、「君は高等師範の附属小学校だろう」とたずねた。「そうです。」

 すると、「君たちの小学校の校長先生が、会いたいと言うので、ジョン・デューイのところにつれていったことがあるよ。」

 そうか。朝礼の訓示がみじかかったのは、デューイから来たのか。すれちがったときに、一対一で、生徒の名前を呼ぶというのも、デューイから来ているのか。(鶴見俊輔『思い出袋』岩波新書、2010年)

 高師の附属小学校の校長は教授が務めるのが慣例でしたから。佐々木秀一先生も教育学の歴とした教授だった。(「高師」とは「東京高等師範学校」で戦前の教員養成学校の頂点に位置していた。その後は「東京文理大学」、「東京教育大学」から「筑波大学」と変名・変装して現在に至っている)当時の佐々木先生の令名はたいへんなものだったと思われます。著述もかなりの数がありました。(ぼくも何冊かは所有している)鶴見さんは佐々木さんがいかなる人物だったか、当時はもちろんのこと、その後(この著書を書かれた時期)もご存じなかったようで、ただただ挨拶の短い校長、デューイ直伝のプラグマティストと判断されたのでしょう。その判断の是非はともかく、ある意味では佐々木校長に真性の(と思われる)プラグマティズムが生きていることに驚かれたのです。

文京区茗荷谷にあった校舎。卒業生は「茗渓会」に属し、長く劣島の教員人事を牛耳っていた。(ぼくはメーケーではない)

 実はちょっとした因縁があります。ここに書くのは余計なことですが、ぼくは佐々木さんの孫筋に当たるようだと気づいたのはかなり前です。大学・大学院(行ったのは無駄だった)時代の教師が元教育大学教授で佐々木さんの後輩でした。この教授は高名な人で、たくさんの著書も書いていた。ぼくはいつも暇だったので、彼の戦前・戦中期に書かれた本を読んでいやな気分に襲われたのを今でも記憶している。故人の評価にかかわる話で、とやかく言いたくないのですが、大変な「国家主義・国粋主義」の人でした。(多かれ少なかれ、地位ある人間どもが権力に靡いた時代だったから、無謀な戦争に走ったのだと思います)ぼくが出会った時期(二十歳頃)はそれを隠して教授は「立派なクリスチャン」だった。さらに「嘘つきのキリスト教徒」というイメージをいだかされたのは、彼が亡くなった時でした。教師不信は止むことがなかった、とは自分で招いた不幸だったね)

 以後、若気の至りか、その教授のマヤカシ性が頭について離れなくなりました。(これもまた、貧相なぼくの「教師の面影」かもしれない。ひねくれていたから、「悪い面影」しかぼくには残っていないことになる。残念なことだ)

《明治に入って、プラグマティズムは、ウィリアム・ジェイムズを通して三人の知識人に深い影響をあたえた。夏目漱石、西田幾多郎、柳宗悦。その後、日本の哲学者のあいだでは、消えてしまった。だが、大学教授から遠く離れて、佐々木秀一という小学校校長の教育の中に、これはジェイムズではなく、デューイを通してだが、プラグマティズムは生きていた。》(同上)

 佐々木さんのデューイ論はここでは触れませんが、学生時代からぼくもジョン・デューイはたくさん読んでいました。彼の『民主主義と教育』(Democracy and Education. 1916年)はいまなお、ぼくの身近にありますね。デューイについても騙る種は尽きませんな。「日本の哲学者のあいだでは、消えてしまった」と鶴見さんは言われるが、いやちがいます、とぼくはいいたい。田中王堂から石橋湛山へと、それから…と。戦後の51年、デューイはこの島にやってきていくつかの講演をしています。大正期にも来日していますね。いずれ騙りますかな。(脇道にそれて、終わり) 

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怠け者先生

 戦後の島の文学史に大きな足跡(ダイダラボッチみたい)を残された吉本隆明さん(1923-2012)の「私の教師」経験談です。教師とは何者だったか。

 《この教師は一見怠け者で、自分が授業をしたくないと、生徒に代わるがわる授業をやらせたり、視学官が授業参観にくるという日は、その前日に主だった生徒を呼んで、「あしたの授業ではこういう質問をしろ」と振り当てた。八百長で、生徒は面白がった。わたしが覚えているのは、「吉本、おまえは、蚊はどうしてぶーんとうなりをあげるのですかと質問しろ」といわれたことだ。いってみれば「八百長授業」だが、それが面白かった。この先生の近くに寄ると、ときどき酒の匂いが残っているような人だったが。何とはなしに好意をもっていた》(吉本隆明『こどもはぜーんぶわかってる』批評社、05年)

 吉本さんはこの教師がとても好きだったという。なぜだか理由はわからなかったが、とにかく好きだった。「けれど僕らから見ても、とにかく怠け者の先生」だった。(ヘッダー写真:https://forms.gle/wjaoXEzjQukUk44n8

 《自分の授業中に、地理の時間なら地理が得意なやつに「あっ、お前」なんて呼びつけて「お前、これを説明しろ」などと言うのです。この地域の県庁所在地はどこで、この地域の特産物は何かとかを説明させて、自分は椅子に座っているだけで何もしないのです。また、呼び出されて傍に寄ると昼間なのに酒の臭いがぷんぷんするわけです〈笑〉。そうするとこの先生は夕べお酒飲んだのだなって思うわけです》(同上)

 いい先生、いい父親、いい母親、そしていい子ども。おそらくこんな幻影(観念)に呪縛されてきたのがこの社会の多くの人びとだった。「いい教師」とはだれにとってか。かりに子どもにとって「いい教師」といったところで、すべての子どもの「いい教師」になれるとは考えられない。「いい先生」の中身は千差万別です。「どんな人もだれかの教師になる」という意味のことを言ったのはニーチェだった。

 吉本さんはこの怠け者の教師が好きだった。どうして好きなのか、それがあるとき「これだと思った」というのです。

 同じ学校に、若いまじめな教師がいた。なんでこんなに怒るのかわけがわからなかった。ベーゴマをやっていると見回りに来る。さっと隠して、彼がいなくなるとまたやり出す。その教師が朝礼で「ベーゴマしていた奴は前に出てこい!」と詰問した。だれも出て行かないで黙っていたら、「何でお前たちは正直じゃないのか」と怒鳴り散らした。

 怠け者の先生は三年のとき吉本さんの担任でしたが、生徒たちの後ろ側の肋木(ろくぼく)に寄りかかって若い教師のお説教を聞いていた。

 《僕らも罪の意識がありましたから指摘されたら困るなと思って俯いてドキドキ不安になっているときに、怠け者の先生が突然「わかりません!」「聞こえません!」って大きな声を出して怒鳴りだしたのです。僕はアッと驚きました。そしてわかったのですね。ああ、この先生はその若い先生に反発している、反発していることが伝わるように大きな声で言う、そういう先生だったのだと。そういうことは一回しかなかったのですが、普段は怠け者の先生なので何でこういう先生が好きなのか僕は自分でもわからなかったのですが、このときに気付いたのです》(同上)

 吉本さんは「アッと驚き」、この怠け者教師の神髄を直感(直観)したというんですね。隆明さんは佃島育ちだったと思います。「江戸」がまだ残っていた時代だったかもしれない。授業中に酔っぱらって教室に入る教師が生息していた。教師の質(良か悪か)を子どもというものは言葉を使わないで掴む。そのグリップの方法は確かだとぼくにも思われる節があります。

《肝心なのは生涯の問題か瞬間の問題か、ということがいいたいだけだ。そこをちゃんと区別しないといけない。何事であれ、熱心に教えれば子供が乗ってくるかもしれない。だがそれがどうしたというのだ。大事なことはそこにはない。生涯にかかわる問題をもっと大事にすることだ》(『家族のゆくえ』光文社、06年) 

 少し飛躍気味ですが、「肝心なのは生涯の問題か瞬間の問題か」。教師が子どもにむけて仕掛けるのは「生涯の問題」なんだというわけです。この機微はゆっくりと考えてみる必要がありそうです。(「吉本、教師を体験する」はつづく)

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