問答無用は論外と知るべし

 《授業での問答の時には、教師がよく知っていること、答えをしっかり胸に持っていること、それを子どもに聞くということが、ほとんどだと思います。鑑賞などで危ない時はあるようですが。教師はよく「ほかに」「ほかに」と言いますが、その教師自身は、ほかに何を考えているのかしらと思うことがよくあります。

 こういう場合は、教師自身に発言してもらったほうがよほどよい、と思うことがあります。「ほかに」「ほかに」と、よほど子どもに期待しているのかな、思うときもあります。私はもっと教師がほんとうに聞きたいこと、聞かないと困ること、それを子どもに聞く機会をもたないと、ほんとうの問答の力がつかないし、問答の必要感もでてこないと思います。自分がよく知っていることを相手に聞くということは、普通の生活では無礼なことですから、しません。ですから、ほんとうに聞こうという、そこなのです。それは、教師が何も知らなくて、分からなくて聞いているということとは、まったく別なことです》(大村はま『日本の教師に伝えたいこと』筑摩書房刊。1995年)

夜間中学「こんばんは」2003年/日本/16mm/カラー/92分

 必要に迫られた場面でなければ、たしかな「問答」(ダイアローグ)というものはなりたたないといわれる。「生きた人間が生きた人間に聞いて、生きた人間が生きたことばを使って答える、そういうことでしょう、問答というのは」ともいわれます。

 「何と読みますか」 「そう、よろしい」

  これは問答なのか。聞かないよりはましだろうが、それでなにが行われたのか。答え合わせをする、検査する、確かめる、そのために聞く、そんな問答まがいが世に氾濫しているというのが大村さんの慨嘆でした。

 ところが学校には、よくひとつの学校型の優等生がいて、教師が何か聞いたら、とにかく返事をするのがいいんだと思い込んでいます。何はともあれ、なんでもいいから、とにかく早く答えたほうがいいんだ。いや、そうしなければいけない、というふうに考えているようです。そういう子がぱっと手を挙げて感想を言います。そうすると、教師 はそれを聞いて、「ほかに」 とか言って、(私はこの「ほかに」ということばが大嫌いです。だれかが答えた答えのほかにと言って、さっき答えた人はちっともねぎらわれないことが多いのです)「ほかに」「ほかに」とやっているうちに、とにかく答えることがいいんだ、考えることよりも答えることが大事だと心得る、そんなふうにならされていくわけです。

 答えられたときだけ褒められて、黙っているとよくない。子どもは教師に喜んで欲しい。これはもう当然のことですから、何か言おうとします。私は、これはこわいことではないかと思います。ほんとうに自分の気持ちが表せることばでなくとも、とにかく適当に言えるというのは、こわいことではないでしょうか。

 「ほんとうに言おうと思っていないことでも、適当に人に言えるということは、とても寂しいことのような気がします」(同上)

 大村さんは「問答本来のもの」といわれました。本来の問答、それは対話ということを指すでしょう。対話というのは、文字どおりに一対一の話し合い。

  「聞き手のいない一対一の世界」、これこそが対話の生まれる場だというのです。

 教室にはたくさんの子どもたちがいる。だれかひとりに質問して答えさせるのは、いかにも一対一の対話のようにみえる。しかし、多くの子どもたちがそれを聞いているだけなのだから、よく言えば問答ではあろうけれども、対話ではないのです。大村さんの言われることはまことにその通りで、いかにも誰もができそうに思いがち。ところがどっこい、そんなにかんたんにいきますかいな。「教えよう」「教えられたい」、そんな甘えた姿勢が教室をいじけたものにし、愉快でないものにしているんですね。話す―聞く、これを破り、これを越えたところから対話の手がかりが顔を見せるのです。「おしゃべり病」の教師と「聞き耳病」の生徒のなれ合いをすっぱりと断捨離することです。

 この問題は教室の中だけでは終わらない。家庭や企業など、少なくとも人が人に話しかけることからしか何事も始まらない「社会」においては必須の課題となっているのです。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

ナント・ホクレイ?

 歎異先師口伝之信

鴨川から遠望する比叡山。

 竊(ひそか)に愚案をめぐらして粗(ほぼ)古今を勘(かんが)うるに、先師の口伝(くでん)の真信に異ることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、幸に有縁の知識によらずんば、争(いささ)か易行(いぎょう)の一門に入ることを得んや。全く自見の覚語を以て他力の宗旨を乱ることなかれ。よて故親鸞聖人の御物語の趣、耳底に留むるところ、いささかこれを注(しる)す。偏(ひとえ)に同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々。

「歎異」とあります。

 歎異抄については、何かと異説があります。まず著者はだれか。明治以降では「唯円」というのが定説らしいのですが、その唯円が何者であるかが判然としません。東国地方の親鸞の同士であるらしいというばかりです。いくつかの異説の一は、如信説。親鸞の実子善鸞の子とされます。(後年、善鸞は親鸞に背いたという理由で、義絶)つまり親鸞の孫が書き残したものとされるのです。その二は覚如説。親鸞の末娘の長男の子、つまりは親鸞の祖孫です。

 ぼくは詮索は好みませんし、その能力もありません。さいわいに定説でもありますので、唯円作『歎異抄』ということで愚論を続けます。

 唯円は常陸(茨城)の人とされます。親鸞は師の法然とともに「承元の法難(1204、5年)」によって後鳥羽上皇から流罪を命じられ、法然は土佐に、親鸞は越後に幽閉されました。略述すれば、法然のとなえる「専修念仏(南無阿弥陀仏)」を延暦寺や興福寺衆徒が禁止するように朝廷に訴えた事件。これにもいろいろと尾ひれがつくのですが、ここでは省略。

河和田の唯円ゆかりの地。水戸市内。

 流罪の咎が解けた後、親鸞は東国に赴きました。(いったん京都に帰ったという説あり)都における布教が叶わなかったからです。この時期に多くの同行の士が生まれますが、唯円はその一人だというのです。親鸞はその後、京に戻ります。

 (蛇足ながら ここに後鳥羽上皇が出てきます。鴨長明のスポンサーだったことについては別のところで触れています)親鸞が生まれたのは長明の終の棲家になった京都伏見の日野(自動車じゃありません)でした。年代的に重なる時期もあり、二人が出会っていたら、さぞかしと思われたりします。また長明と同時代を生きた貴族・九条兼実(『玉葉』という日記で知られる)の弟は慈円で、九歳のころに親鸞が得度を受けるきっかけを作った僧でした。京都は狭い世界だったし、貴族社会もまた「敵であり仲間である」という政治家そのままの交友関係で縛られていた時代だったといえます。

カメラの位置に拙宅がありました。通称「あたごさん」

(余談ながら 京都の北にそびえる愛宕山(標高924m)、ここに竈(かまど)神が祭られています。ぼくの卒業した中学校では毎年冬季に愛宕登山を課します。(落語に「愛宕山」あり)ぼくは何回のぼったか。この神社に詣でた直後に、本能寺の変を起こしたのが明智光秀。この山のふもとが清滝で、さらに北に向かうと月輪寺があります。九条兼実が隠棲した寺とされます。法然・親鸞が流罪になった時、別れを惜しむために二人はこの寺まで来て、兼実に面会を求めたとされます。騙りきれない逸話がいっぱいで、ぼくの少年時代の渉猟コースでもありました。まるで長明のように、あちこちと彷徨していました)

月輪(つきのわ)寺

 阿弥陀信徒だった唯円たちがはるばる常陸あたりから京の親鸞を訪ねてきた。

 「おのおの十余ヶ国のさかひをこえて、身命をかへりみずしてたづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり」

 ぼくには信仰らしいものは皆無ですから、唯円たちが示す信仰心の苛烈さには理解の行き届かないところがあります。そんな「お前」が親鸞を騙るというのは、我ながらおかしいなあ、という心持がします。極楽に往きたいためではないのは言うまでもありません。たんに『歎異抄』をかじり、親鸞の心情を垣間見たいだけのよこしまな気持ちがこのような破廉恥・無礼をさせているのです。

叡山・延暦寺・根本中堂

 元に戻って、唯円は師の没後三十年ほどもたったころ、「ひそかに一つの考えが生じて来た。師の伝えた教えが古今をみてみると本当の信心とはおよそ異なっているのを歎くようになった。これでは後の世代が学ぶのに迷いが生まれるであろう。ありがたい導きにあって、どうして「やさしい念仏専修」の門に入ることができよう。自説でもって他力本願の宗旨を乱してはならない。

 したがって、師の語るところ、耳に残っているところをここに取り出しておく。ほかでもない、後続同行の士の疑惑を防ごうとするためである。

 「歎異」、つまりは師の教えがいまでは異なって流布されている、それを知って嘆かざるを得ないという唯円の、信心を通して師に回帰しようというこころざしが、著述のきっかけとなっていると読めるでしょう。忘れられない親鸞の言葉を書き残しておこう、その一点が歎異抄の核心であります。

 身命を賭して遠方からここに来たのも「ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり」と親鸞は言う。

「しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文(ほうもん)等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはべらんは、おほきなるあやまりなり」

 「念仏が大事というが、そのほかに法文(教義)なども知っていると、もしや考えておられるなら、それは大きな誤りである」と親鸞は明言するのです。そんなものは南都や北嶺の学者(僧)にきけばいい。親鸞はひたすら「専修念仏」大事と師(法然)に教えられた通りを信じているのだ。念仏を唱えて極楽へ行くやら地獄に落ちるやら、自分はまったく知らない。

「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう」(聖人にだまされて、念仏を唱えて地獄に落ちたって、いささかの後悔もない)

 法然も親鸞も比叡山にのぼって学問をした。当時は延暦寺は国(官)立だったといっていい。もう一方の興福寺も同じ官立系列に属していました。世に「南都北嶺」と称していますが、それは今にいわれる(まことに頼りないが)国立大学、いや官立大学にあたりますね。「講義」だの「講座」「講演」「講堂」と今でも使われることば(符丁)は多くはお寺から来ました。えらい坊さんは教授です。頭を丸めない生臭坊主が各地の大学を占拠している風ですね。いまでは「講義」は「抗議」に、「講座」は「口座」に「講演」は「公園」になっているんじゃないかしら。ぼくの知っている大学の何代目かの総長(山口組じゃない)は「わが大学はディズニーランド」で結構、入場料さへ払ってくれるなら、「どなたでもどうぞ」とほざいていました。坊主丸儲けかね。

 再び蛇足ながら 「承元の法難」というのは、いわば「学問の正当性」の争いのお面をかぶった、信者(門徒)獲得競争でした。いまの大学入試における志願者争いを見れば事情はわかりそうですね。南都も北嶺も、ともに官立大学。一方法然と親鸞は私立の「専修(念仏)学校」ですらなかった。掘っ立て小屋同然のものでした。入試もなければ授業料もなし。入りたければ誰でも結構。「悪人もどうぞ」という具合だったから、官立は怒りました。「シマ」「縄張り」を荒らされるのを放置できなかったから、朝廷(いまなら文科省か内閣か。まさか皇居・宮内省じゃないでしょう)に訴えた。(一説によれば、日本のヤクザの系譜をたどれば、禅寺に至るといいます。「一宿一飯」「仁義を切る」「果し合い」などなど)

 勝負は端(はな)からついていました。国家権力ににより近い勢力が勝つのが今昔の「センス」だった。官位(官職と位階)とは権力者からの距離計測装置。無位無冠の法然・親鸞組は犯罪人として流刑に処されました。なんだか、今の時代にも通じているでしょ。嘘八百吐いても、一寸たりとも地位は変わらない。あろうことか、三権の長を自任している。汚濁された権力の椅子ですよ。消毒ぐらいじゃ追っつかない。焼却処分しかないでしょ。盗人猛々しいというのは誤りで、政治家・官僚猛々しいですね。辞書も改ざんしなければ。「盗人に追い銭」で、庶民はいい面の皮。「泣く子と地頭には勝てない」はいまでは「泣く子も黙る、塵芥政治家・官僚」ですか。

 いま、島社会は別口の「法難中」です。人命を弄ぶ輩たちに牛耳られ、乗っ取られています。(元国税庁長官が公文書改ざんの指示を出し、その作業を行った下僚が自死したという事件で遺族が元長官を相手に訴訟を起こしたという報道がありました。「私や妻が事件にかかわっていたら、総理も議員も辞める」と大見えを切った、国会答弁がすべての始まりでしたな。それがウイルス退治のためにと、厚顔にも人民に命令を下しているという現下の滑稽の図。どうしようもない「私」が歩いている)

(註「南都は奈良,北嶺は比叡山延暦寺をさし,最澄が比叡山を開いたことを奈良の仏教教団と対比して呼んだもの。10世紀に入り,諸大寺の僧兵中,春日大社の神木を擁した興福寺の僧兵と日吉(ひえ)神社の神輿(みこし)を奉じた延暦寺の僧兵とが代表的となり,互いに確執を繰り返し,朝廷への強訴(ごうそ)を行った。そのため南都北嶺の称はもっぱら強訴の僧兵をさすこととなった」(百科事典マイペディア)

社会と学校について

 アメリカは「建国」からまだ三百年たっていません。(1775-83年、独立戦争。76年独立宣言。同年に、トマス・ペイン(Thomas Paine:1737-1809)は「コモンセンス」を著す)何かというと「アメリカ一点張り・一辺倒」であった時代は戦後すぐの時ならいざ知らず、いまははるかに昔の歴史の一齣になったと、ぼくなどは考えたりしますが、決してそうじゃない人たちもいます、かなりたくさん。「なんてたってアメリカ」「アメリカ第一」(島に住んでいながら)というのです。じっさいにはこの島は米国の「第五十一州」のようでもあります。

 かくいうぼくも、若いころは「アメリカの民主主義」かぶれ(接触皮膚炎)寸前にあったことを隠しません。もちろん、大学に入ってからの話です。もっぱら「民主主義」だの「デモクラシー」などと、世間並みにぼくも熱に浮かされていた時期でした。以後は「アレルギー」体質になりました。つまりは「過剰反応」ですね、この米国に対して。

ペイン「コモンセンス」

 入学した大学はぼくにとっては場違いなものだったし、ことに教育内容はよくないものだった。ひどいものでありました。自身の選択が誤っていたのだから、それ(大学教育)を否定するのは自分を否定することと同義みたいでね。まあ、どこの大学でも似たようなものと割り切って、勝手な道を歩こうとしていました。たとえ有料であっても他人から者を学ぼうという浅はかなこころがけ(根性)こそがよくなかった。ようするに 「学校の正体」がじゅうぶんにわかっていなかったのはなんとも不覚でした。

 大学に入って初めて読んだ本がジョン・デューイ(1859-1952)という人の「民主主義と教育」(Democracy and Education、1916年刊)でした。いまではいくつかの文庫本でも読めます。ぼくは浩瀚なこの本を英語で読み出しました。(分量は文庫本で2冊分)時間はかかりましたが、つまずきながらも、ともかく最後まで読み切りました。そのおかげかどうか、今でも英文でいくつもの文章を記憶しています。

 なぜデューイだったか。当時(六十年代後半)、この島では彼がもてはやされていたからです。教育を考えるにはデューイに限るとまではいわなくても、かなり重視されていました。今はどうなったか。彼は食品・雑貨屋さんの息子で、バーモント(カレー)州で生まれました。はじめはドイツの観念論(カントやへーゲルなんか)に接近、やがて心理学を学び、そこから教育問題に至った人です。

 (いずれ項目を立てて、彼について騙りたいのですが、今は省いておきます)

 彼には残された著作は多いのですが、ここでは『学校と社会』という講演集を引用しながら、当時(十九世紀末)のアメリカ社会(デューイの活動はシカゴを中心にしたもの)の教育状況を推し量ろうと思います。(この本は、当時デューイがいたシカゴ大学で「実験学校」を主宰した彼が行った保護者向けの講演(1899年)から成り立っています。著書の刊行は1915年)実験学校は当初は二十人足らずで始められ、その後は大学付属小学校となり、デューイが校長さんだった。七年ほど続けられました。School and Society. という書名に留意しなければなりません。

 ソローよりも四十年以上も後に生まれ、しかもソローの歩いた同じような方向を目指したデューイのことばを少しばかり、以下に紹介しましょう。

 「…たんに事実や真理を吸収するということなら、これはもっぱら個人的なことがらであるから、きわめて自然に利己主義におちいる傾向がある。たんなる知識の習得にはなんら明白な社会的動機もないし、それが成功したところでなんら明瞭な社会的利得もない」

 「実のところ、成功のためのほとんど唯一の手段は競争的なものであり、しかもこの言葉の最も悪い意味におけるもの―すなわち、どの子どもが最も多量の知識を蓄え、集積することにおいて他の子どもたちにさきがけるのに成功したかをみるために復誦ないし試験を課して、その結果を比較することである。じつにこれが支配的な空気であるから、学校では一人の子どもが他の子どもに課業のうえで助力することは一つの罪になっているのである」

 「学校の課業がたんに学科を学ぶことにあるばあいには、互いに助け合うということは、協力と結合の最も自然な形態であるどころか、隣席の者をその当然の義務から免れさせる内密の努力となるのである」(ジョン・デューイ『学校と社会』岩波文庫版)

 このようにデューイが述べたのは十九世紀末でした。学校教育の現状を批判した『学校と社会』はいま読んでも、今日の学校教育に対する立派な批判として通用しそうです。それはまた、日本の学校教育の現状をも射当てているとぼくには思われます。その意味は、古今東西を問わず、「学校の役割」は同じであり、それはけっして子どもをじゅうぶんに伸ばし、賢くするための場になっていないということです。

 「私は旧教育の類型的な諸点、すなわち、旧教育は子どもたちの態度を受動的にすること、子どもたちを機械的に集団化すること、カリキュラムと教育方法が画一的であることをあきらかにするために、いくぶん誇張して述べてきたかもしれない」

「旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書・その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある。それでゆくなら、子どもの生活はあまり問題にならない」(同上)

《デューイ【John Dewey】アメリカの哲学者・教育学者。プラグマティズムの立場から論理学・倫理学・社会心理学・美学などあらゆる方面にわたる業績があり、また子供の生活経験を重視する教育理論は大きな影響を与えた。著「民主主義と教育」「哲学の改造」「確実性の探究」「論理学」など。(1859~1952)》(広辞苑第五版) 

 いまなお(二十一世紀に入っても)、私たちの社会、というよりは「島国」の学校教育は「旧教育」に支配されているといえそうですね。

 学校になじめばなじむほど、学校という制度に自分を預ける度合いが強くなればそれだけ、学校で行われる教育(授業内容)が実生活から離れてしまうのはなぜか。生きる力を育てる教育などということがさかんに、まことしやかに叫ばれてきましたが、そのこと自体が学校では生きる力が育た(て)ないことの証明になっていたでしょう。「いや、そうじゃない」と反論があるかもしれない。決められてことができ、言われたことを素直に実行するような力こそが「生きる力」なんだというのですか。ここにはっきりと学校教育の目的や意味があるようにぼくは考えています。

 つまり、生きる力を個々のこどもが自らのうちに育てるようなプログラムは最初から学校には存在していないのだということです。では、いったいなんのための学校、なんのための教育なのか、このことはあらためて問われる必要がありますね。これこそが「生きる力」であると子ども以外の何者(元締め)、そういう塊が断定した「教育」を徹底して行おうとするのが学校なんだ。

 「旧教育は子どもたちの態度を受動的にする」とデューイが批判したのは今から百年以上も前のことだった。受け身は柔道にあるばかりではない。いやなことだが、「旧教育」は「永遠に不滅」(同語(義)反復ですが。

 この小さな本が「学校と社会」と題されて、「学校と国(国家)」といわれていないことにぼくたちはていねいな考察を及ぼさなければならない。一人の人間は「社会」に属し、「国」にも属しています。でも両者(同じ人間が属する集団)は機能もねらいも異なるんですよ。クラブと教室の役割がちがうように。第一、気分がまったくちがうんだ。社会人といって国家人という習慣が、ぼくたちの生活圏にないのはどうしてですか。(「社会」と「国」はちがうよ)

子どもといっしょに歩くひと

 石垣りん(1920~2004)。芯が強くて、意志の大切さをぼくに感じさせてくれた詩人。

 ある雑誌に次のようなエピソードを語っておられます。

 「親戚の女子高生が言ってきたことがあるんですよ。<試験に石垣りんの詩が出たけど、正解がわからない>っていうの。「作者が表現しようとしたのはつぎのどれか」という設問の正解が作者の石垣さんにもわからなかった、と。

 「詩って、いろいろ意味がとれるでしょ。与えられた中から答えを選ばなきゃいけないって言うのは大変不都合だと思った」

 「洋服でも着物でも、昔は自分で作ってましたよね。いまはみんな、買う、つまり出来合い品から選ぶんです。答えも選ぶんです。自分で書くのでなくて」

 「子どもたちが自分で考え、自分で書く。大事なそのことに付き合ってくれる大人がいなくなった。怖いことですね」

 石垣さんが高等小学校を卒業して「事務見習」で東京丸の内にあった銀行に就職したのは昭和9年(14歳)のときでした。(すでに八十五年以上が経ったんですね。お別れしたのはついこの前だったような気がします)初任給は18円。その18円が、自身の意に反して、一家を支えるなけなしの元手となった。四畳半に6人の生活から、硬質な光沢をもった、清冽であり薫風薫るような詩が生みだされました。このあたり、青春の大半を使い尽くした、並大抵ではなかった明け暮れが強いた辛苦が石垣詩の骨格を作ったと思われます。

 「出来合い品から選ぶ」「子どもたちが自分で考え、自分で書く。大事なそのことに付き合ってくれる大人がいなくなった。怖いことですね」という文章に目がとまった時、飲んだくれだったぼくでさえも慄然とした。恐れおののいたといっても過言ではなかったと思いました。子どもが歩く、その子どもと「いっしょに歩く人」が教育者だったといったのはソクラテスという哲人でした。

 子どもと歩く、どころか、自分でさえも歩かない、歩こうとしない大人(親・教師など)がいなくなったのはなぜだろう。マニュアルが横行する時代は人間の器量が著しく棄損される時代でもあるのです。それもまた、教育のなせる業といっていいのか。「考える」は「歩く」です。

 以下はオマケです。

  詩の四行に読みこまれている悲哀と怒り。かくて、わたしたちは大切なものを忘れていく、忘れられるはずはないのに。それでいいのか。

 死者の記憶が遠ざかるとき、

 同じ速度で、死は私たちに近づく。

 戦争が終って二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、

  覚えている人も職場に少ない。                     (「弔辞」)

「伝わらない部分」は残るね

質問 自分の思いを正確に伝えていく方法についてお聞きしたい。

佐野 わたしが読んでちっとも気持ちが伝わってこない文章っていうのは、自分を自分以上に見せようと思って、恰好つけたり気取ったりしている文章っていうのが非常に伝わりにくいと思います。名文でなくっても非常に稚拙な文章であっても、正直に自分の気持ちを言えばその思いは伝わると私は思う。で、谷川さんにもお聞きします。

谷川 まず第一に、自分の思っていることを正確に伝えるってことは、基本的に不可能だってことが一つありますね。それからもう一つは、その前提として自分が思っていることを、正確に自分が知っているかどうかってことも、ちょっと疑問があるってことがあるんですよね。その場合、もしそれが非常に激しい情熱に裏付けされている場合には、多分正確にわかっていると思いますね。つまりものすごく怒っているとか、ものすごく悲しいとかっていう場合がある。

手に持つのはペンか

 そうじゃなくて、もうちょっと、つまりなんか複雑微妙な自分の感情の揺れとか、心とかってことだと、それは、ことばで正確に伝わるってことは、まずないんじゃないかなって思うんです。ことばって基本的にそういうもんだと思うんですけれども。ただ幅があるってことはあります。

 それからもう一つの点は、散文で書く場合と、詩で書く場合は、全然違うんじゃないかってことがあるんですけれども。(中略)

 で、散文の場合には、やはりちょっと違ってて、やっぱり自分ですごく集中して考えて、どういうふうに言えば一番自分の言いたいことに正直か、ってことを相当考えなくちゃいけないと思うんですね。だからその場合に一番よくないのは、佐野さんが言ったように見栄を張るとかいろいろあるけれども、もう一つは、紋切り型の、例えば新聞とか雑誌とかあるいは他の書き物とかで、前に自分が読んだものをそのまま当てはめてしまうっていうのは、僕は多分もう一つよくないことじゃないかと思うんですけどね。

 だから、すごく集中して自分の気持ちにできるだけ正直に書こうとすれば、散文の場合には、ある程度は僕は書けるだろうと思います。だから、それが他の人に全然違うようにイメージされても、それはなかなかその他人を責めるわけにはいかなくてね。で、自分はどんなに正確に正直に書いたと思っても、〝ことば〟ってのはどうしても他人に受け取られる場合には、ある誤差っていうのは出てきてしまうと思うんですけれども。(鼎談「100万回生きる方法」『神話的時間』所収。熊本子どもの本の研究会刊、1995年)

 佐野とあるのは、絵本作家・佐野洋子さん。1938年に北京で生まれる。2010年没。作品に『おじさんのかさ』『おぼえていろよおおきな木』『100万回生きた猫』など。

 谷川とあるのは谷川俊太郎さん。1931年に東京に生まれる。作品に『二十億光年の孤独』『空に小鳥がいなくなった日』『ことばあそびうた』など。

 国語のテストで、作者はこの時何を考えていたかなどと問われる。「この一行」でいくら原稿料がもらえるか、まあ、「そんなとこだぜ」というのは谷川俊太郎さんです。印税がどれくらいはいるかなどというのがオチ(あるいはケチ)ですね、と当の作家が言うんだからまちがいないようですね。ぼくの駄文も試験問題に出たことがあります。中学入試だったか。ぼくには正解がわからなかった。原稿料はスズメの涙?見たことないが、まず「溜まらないほど」でしょうね。「どうしてこう考えたの」って聞かれても、記憶になんかありゃしませんよ。

 先生!試験問題はよく考えて出してください。よーく考えて。「誤差」(書き手と読み手のとらえ方の違い)はかならず残ってしまう。なのに「正解は一つだけ」となぜ言えるんだかね、先生さん。百点満点というのは荒唐無稽ですよ。接近値(接線値)という度合いがいいんじゃないですか。いい線とか、まあそうだろな、ちょっとちがうような、とか。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

世に従へば、身、苦し

 「すべて、世の中のありにくく、わが身と栖との、はかなく、あだなるさま、また、かくのごとし。いはむや、所により、身のほどにしたがひつつ、心を悩ますことは、あげて計(かぞ)ふべからず」

 世の中はおしなべて住みづらいし、この身も住まいもはかなく、むなしい限りだ。まして住むところや、身過ぎの明け暮れにはなにかと心悩ましいことばかりであり、そのような心痛は数えればきりはないほどにある。

平清盛(1180-1239)

 長明が出生以来の変転はいずれも本文中に記されているが、生誕直後の保元・平治の乱(1156、59年)に始まり、安元の大火(1177年」、治承の竜巻(1180年)、福原遷都(1180年)、養和の飢饉(1182-3年)と、この十年ほどの災厄は凄まじいものがあった。いかな人間でもこの天変地異の連続に心穏やかでなくなるどころか、暗澹たる心地がしたでしょう。自分を生んでくれた母の所在も安否も不明であり、たった一人の身内であった父も二十歳前に亡くなっている。父は下賀茂神社の「正禰宜惣官」だった。身寄りのない独り身に長明は深い孤独を託(かこ)っていたか。

下賀茂神社・糺の森(境内の一角にマンションが)

「世に従へば、身、苦し。従はねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心休むべき」

「すべて、あられぬ世を念じすぐしつつ、心をなやませる事、三十余年なり。その間、折り折りのたがひめ、おのづから、みじかき運をさとりぬ。

 すなはち、五十の春をむかへて、家を出で、世を背けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず、何につけてか執をとどめん。

 むなしく大原山の雲にふして、また五かへりの春秋をなん経にける」

 遥かな昔、ぼくたちの想像を絶するような「有為転変」の時とところに生活を重ねた長明の人生苦はいかほどであったろうか。天変地異に慄き、定職らしいものを持たない、身の丈に合わせるほかない見過ぎ世過ぎも心痛の重しにこそなれ、一日として安閑たる時はなかったように見えます。しかし、それはまた僕たちの時代の生活苦であり、苦悩・苦汁の種であることに変わりはないとも言えます。「朝に死に、夕に生まれるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける」

 世の習いに素直であれば、義理や人情に縛られよう。また世の中に背を向けて生きるには、よほど気が張る。あるいは狂気じみてもくるだろう。どこかしかるべき土地でなんなりと仕事をしてわが身がしばらくでも休まる心地を得たいものだ、という気弱な(?)心境になっていた。

 長明は五十を前にして、神職「禰宜」に就こうとしたことがありました。もともとは神官の家の出であったが、後ろ盾はなく、なにかと苦労してきた時でもありました。

 若くして和歌や音楽には才能を示していた長明は後鳥羽上皇の支持を得ていた。「新古今集」を編むための選者に推された(和歌所寄人)こともある。詳細は省くとして、そのころ、鴨河合社(=下賀茂神社境内「糺の森」にあった)の禰宜に席が空き、それを求めて、長明は曽祖父が兄弟同士であった一人の縁者と争ったが、いろいろな誹謗などもあり、後鳥羽院の推薦もむなしく、長明は外れてしまった。後鳥羽院は見かねて、であったと思われますが、別口の神職を用意したが、今度は彼がこれを断った。

後鳥羽院(1180-1239)

 この三十年、生きにくい世の中を渡りながら、いつも苦心惨憺してきたが、五十になって街中の家を出て、世の中に背中を向けることにした。妻子もいないので縛られるものは何もない。無職の身であれば、なにに執心することがあろう。この時代、官位も高くなく、後ろ盾もない独り身には、生きるによしなしで、まるで背伸びをして(あるいは強がって)生きている風情がします。 

 世上言われるように、長明は「無常」を感じ、「超俗」に走る人ではなかったというのが本当らしい。世をはかなんで出家し、山中深くに住まいするという「風狂」の影は彼には見えない。大原というのは都(宮処)の北部ですが、御所からは指呼の距離、おそらく都の街区を彼はいつも見つめ続けていたにちがいありません。今に見ておれ…。

 機を見て敏であったとはいえませんが、世事に鈍感であったとも思えない。「世を背(そむ)けり」とはいうが、声がかかれば一目散に駆け降りる心算はあったように思われます。いつのころか、彼は鎌倉まで実朝に会いに出かけています。長明没の三年後に実朝は暗殺されますが、京・鎌倉は長明にとっては生きる縁となっていたはずです。修羅場の人といえば、いいすぎでしょうか。

大原三山遠望

「むなしく大原山の雲にふして、また五かへりの春秋をなん経にける」心ならずも大原山の雲の下に住み、すでに五年も過ごしてしまった。(この「大原」の所在については異論もあるが、今は京の北部、三千院(天台宗派)のある地とする。貴顕紳士の別宅や別荘があった)当時にあって、この地は一つの「世間」であったし、長明が選んだ理由は明らかではありませんけれども、人跡未踏の地ではないという条件を彼は維持したにちがいないのです。

勝持寺の桜

 (蛇足 「大原」にはもう一つの候補地があります。北山に対して西山、「大原野」といわれています。嵐山の南西方にあり、そこには勝持寺(別名「花の寺」)がある。ここは西行ゆかりの寺でもあります。「春風の花を散らすとみる夢はさめても胸のさわぐなりけり」(西行)「西行桜」がありました。今はどうですか。寺の西方は長岡(京)であり、南には桂離宮があります。姉二人がそれぞれの地に居住しています。ぼくは中学生のころ、長岡の姉に会うためにしばしば大原野を通ったことを思い出します。さらに近くには在原業平の墓所とされる地もあります。業平ゆかりの十輪寺も健在です。はたして長明はこの地に住んだか。隠棲には似合わない風景ですがね。北山大原より、ぼくの好みは西山大原野です。)

 大原の「雲間」にいた五年の間、彼は何をしていたのか。歌を詠むことは続けていました。「新古今集」の成立はこの時期(1205年)で、神職任官事件の一年前です。彼の歌は十首が採用されています。世間とは没交渉ではなかったといえるでしょう。あちらこちらを、長明は足しげくといっていいほどに渉猟しているのです。いったい何を求めてだったか。

「すべて、世の中のありにくく…」「世に従へば、身、苦し…」「すべて、あられぬ世を念じ…」

 まるで世の中を呪わんばかりの、この苦衷や苦悩の漂白は長明のどこから生まれ、何に由来するのでしょうか。「家を出て、世を背(そむ)けり」というのは、彼の偽りない心情の吐露であった。すすんで家を出たのではなく、だから世を捨てたのではなかったのです。「世が世ならば」という見果てぬ夢物語は、五十(耳順)前の夜ごとの習いになっていたとぼくには思われてきます。

唐木さん

 彼は「世を捨てた人」ではなく、「世が捨てた人」だったとも言えます。

 ― ちょっと休憩です。ここまできて、若いころに耽読した唐木順三さん(1904-1980)の『無用者の系譜』を思い出しました。(一瞬の間に、二十歳時代に引き戻されました。唐木さんが本郷「赤門」のそばで立小便していたのを目撃したことがある。少し呑んでいる風でしたが。「良寛」や「一休」の著者が…と驚いたね、驚くに値しないか。(無駄話了)どうして「唐木」と分かったか。当時ぼくは彼に入れあげていたので、「尊顔」は知っていました。半世紀以上も昔のつまらぬ出来事)

 世に受け入れられない怨みに悶えた末の大原入りだったといえるのではないか。

 門閥も誇れず、位階も貧しい、それならば、と「歌詠み」に一縷(る)の望みをかけたが、ここでも門閥制度が侵入を禁じた。音楽の世界にも一門の壁が厚く、長明の住める世界ではなくなっていたのです。あらゆるところで幅を利かせていたのが門閥(家柄)、位階であった。それらは一連の門外漢封じの「注連縄(しめなわ)」だったといいたい。諭吉に倣って「門閥制度は親の仇でござる」といえばいえたのです。

 「たまゆらも心休むべき」土地を探し求めていた時期でした。彼は足しげく住処にふさわしそうな土地を求めて逍遥、あるいは跋扈したにちがいありません。もちろん、今日のように不動産屋さんはなかった。これは「駅近物件」ですなどと紹介してくれる人もいない時代でした。「大原」が北であれ西であれ、「たましきの都」に半日もかからずに帰れる距離にあったことを思えば、よほど長明は都を離れたくなかったはずだといえます。

 (「たまゆら」はアニメにあらず。「玉響」と書き、勾玉の擦れ合う間、一瞬を意味する)「たまゆら」が存外長期になるのも世の常です。(「無常」、それは長明には似合わない)