教師っていってもなんでもないのさ

 生徒の反抗は、個々の教員の授業スタイルや教科内容にたいしてというよりむしろ、学校というもののたたずまいや教育関係の枠組みにたいして向けられている。経験的に体得された全体としての階級文化に照らしてそれらが相対化されるところに、生徒の反抗の真因があるのだ。そして、授業のスタイルや具体的な学習内容に工夫をこらすことはできても、学校の構成や教員ー生徒の規範的な教育関係を変えることはきわめて困難である。それでも個々の教員は、現存の学校秩序を与件としながら、居心地の悪い教室で不本意な授業をつづける以外にないし、そういう日々の実践から長期的は展望をつむぎ出すほかない。(略)

 今、教育の「危機」がやかましく論じられている。論争の渦中にあるのは進歩主義教育の基本的な考え方でありその適格性である。議論のトーンは高くなる一方だが―そして、実際に教壇に立っている教員たちの声が事実上かき消されていること、生徒たちの声に至ってはまったく耳に入ってこないこと、その点がいかにも気になるけど―実情から見れば、それは徹頭徹尾イデオロギー的な争いである。真の論点は、学校教育という場で生起する階級対立にあり、労働力の再生産過程にあり、総じて文化と社会の再生産過程にあるはずだ。(ポール・ウイリス『ハマータウンの野郎ども』熊沢誠・山田潤訳、筑摩書房。ちくま学芸文庫版もあります)

 Learning to LabourーHow working class get working jobsというタイトルで本書をウイリス(社会学者)が出版したのは1977年のことでした。「学校への反抗・労働への順応」といえば、いかにもイギリスの話だということになりそうですが、わたしたちの社会においても同じような問題が発生していたにちがいないのです。そして現在も、それとは同根ではあっても、別種の学校とのたたいが行われているのだといいたい、それはけっしてだれの目にもはっきり映っているとは思えないのですが。「学校の種別化」というのはどういう問題から生じたのか。教育における「格差」でしょうか。それとも、人によって在学する学校というものが社会的(階級的)に決定されているとでもいうのかしら。

 「反学校の文化の内奥から表層まで一貫している特徴は、『権威=当局』(オーソリティ)に対する、類型的でもあれば個性的でもある抜きがたい敵愾(てきがい)心である」(同上)

 (何人かの生徒の対教師への「敵愾心」をこもごもに述べています)

ジョウイ …教師はおれたちを処分できる。教師はおれたちよりもえらいんだ。やつらにはおれたちよりもでかい組織がひかえてる。おれたちのはタカがしれてるけど、教師はでっかい制度を味方にもってるものな。それでも、言いなりになるってのはシャクじゃないか。なんていうかな、権威ずくってのはムカツクね。

エディ 教師だからっていうだけで、教師は自分たちのほうがえらいし、力もあるんだって思ってるのだ。でもほんとうはさ、教師っていってもなんでもないのさ。ただのふつうの人間じゃないかよ、なあ。

ビル 教師って、よほど何でもできると思ってるんだ。そりゃ、おれたちよりはできもよくて、えらいかもしれないけどさ、やつらはそれよりももっとえらいって思ってるんだぜ、そんなことないのにさ。

スパンクシー ファースト・ネイムで教師を呼びつけにできたらどんなにいいだろう。やつら、まるで神さまきどりだもんな。

ピート 神さまならよほどましだよ。

 「反学校的」な男子生徒は自称〈野郎ども〉(the lads)と名乗っている。彼らの悪態はとどまるところをしらない。(彼らに対する、筆者のウイリスのインタビュー)これだけあけすけに、言いたい放題に口にだして言うのは「健全」なんでしょうか。反対に、表向きはいい子ぶっていて、実際はえげつないほどに学校や教師を軽蔑している子がいるとするなら、それに対してどういえばいいんですかね。〈野郎ども〉は優等生にむかっては〈耳穴っこ〉(ear’olesーear holes)とさげすんで呼ぶのです。

ビル 教師に接する態度ってものを連中はやかましくいうだろう。生徒のおれたちに接する態度ってものもあるはずだよ。

ジョウイ 人生、ちょっぴりおもしろくしようと思うんなら、教師がしてくれたことになにかお返しをしてやることだよ。

 学校とはなんだろうか?

 「能力主義の社会秩序とその教育体系は抜きさしならない二律背反を含んでいる。なぜというに、大多数は敗者となる定めであるにもかかわらず、全員が同一のイデオロギーに与(くみ)しつつ競い合うことが求められているのだから」(ウイリス)

 「だれだって、やればできるのだ」だって。ホントかね。学校はどの地域でも、どの国においても似たりよったりで、まず同じような顔をしているんだ。学校はなくならない、そして行かなくてはならないものなら、それとの付き合い方を十分に学ばなければならない。「野郎ども」のような反抗心むき出しの行動や態度もありえますが、そこはもう少しかしこくつきあいたいものです。ぼくが願うのは、学校の餌食にならないことです。あまりにも近づきすぎたり、反対に全く学校と交わりを持たないのも、どうでしょう。ぼくは早い段階から、学校や教師に不信・不審の念を隠さなかった。「優等生」にはなる気がなかったし(なれなかったのではないさ)、劣等生に甘んじるものどうかね、という中途半端な姿勢を貫いていた(結果からみれば)とも言えそうです。(「権威ずくってのはムカツクね」、ホントに)

知育偏重より知育不徹底

 教育者に主義のあるのは非常に宜しい。又何々主義の教育の如き名称を有するのも便利であるに相違は無いが、主義の適用には大いに考慮を費さねばならぬ。主義に囚われた教育者ほど厄介なものは無い。微妙至極の人性を取扱うのに主義などを振回されてはたまったもので無い。教師は主義を立するのもよいが早く主義を超越しなくてはならぬ。

奈良女子師範付属小学校

 私は学習の名称を用ゐる。時には自律的学習と云ふが、その自律的たる形容詞も時には誤解の種子となることがあるから用ゐない方がよいかとも考へる。只教育と云へば教師の側面から眺めた様に思はれるから、児童の方から眺めた学習と云ふ名称を用ゐるのである。

 学習の意義は沢山ある 学習を単に事実の記憶とするならば、それは学習を最も狭義に用いたもんである。有機体が外界の刺戟に反応して起す所のあらゆる変化を学習というのならば学習の意義は最も広い。…生活によってよりよく生きることを体得するのが学習で、学習は生活を離れて存するもので無い。

 我が現時の教育に於て知育偏重の弊が指摘されている。如何にも知育の偏重は悪いが偏重と言うよりも寧ろ知育の不徹底と云いたい。及ぼしては教育方法の不徹底と云いたい。情操教育を十分にしないで何とて知育の徹底があろう。人生を渾一的に取扱わず、徒らに分析的思想に囚われた教育をするから、知育偏重の弊を痛感せねばなら様になるのだ。…余は再び云う知育偏重でなくて知育の方法が悪いのであると。

 学習室は生活場 いまの教室生活は余りに静止的で活動的で無い。又束縛的・定型的・受動的だ。之を改めて自立的に発展的に能動的に学習する様にしたいものである。…教室と云うより学習室と云うほうが適当であろう。

 教科書学校 社会国家の進歩に伴うて学習も進歩したならば社会応じ又社会を創造することが出来るのだろうが、慣習的勢力に屈服して伝統的学習生活をしては社会の進歩に伴うことは困難である。他人の作った教科書又は教授細目によって学習する教科書学校の学習は社会の進歩に伴うことが困難で、且つ学習者の実際生活と離れるのが極めて普通の状態である。(以上はすべて木下著『学習原論』目黒書店 1923年刊)

「学習原論」

 木下竹次(1872-1946)、福井県出身。東京高等師範学校卒業以後、各地の師範学校(奈良、富山、鹿児島、京都)の教員を経る。1919年奈良女子高等師範学校教授。大正時代の「新教育」の担い手の一人として論陣を張り、「合科学習」を主張して、新教育の方向を促そうとした人でした。引用文は「合科」学習論の一部です。ここに提示している課題はぼくたちの時代に直結している大きな課題でもあります。(飛びとびに、任意の箇所引用をしておきました)

*大正・昭和期の新教育運動の指導者 奈良女高師付属小学校主事;京都女子師範学校校長。 新教育運動指導者。生年明治5年3月25日(1872年) 没年昭和21(1946)年2月14日 出生地福井県 旧姓(旧名)川崎 学歴〔年〕東京高師〔明治31年〕卒 経歴福井県下で小学校準訓導を勤めた後、東京高師を卒業、奈良師範学校付属小学校主事、富山県師範学校教諭、同付属小学校主事、鹿児島師範学校、同女子師範学校長となった。このころ独自の学習法理論を形成。その後京都女子師範学校長を経て大正8年奈良女子高等師範学校付属小学校主事となり、同校学習研究会を組織、特設学習時間を設け、低学年の大合科学習、中学年の中合科学習、高学年の小合科学習という学習法を実践、雑誌「学習研究」を通じて全国に広がり「奈良の学習」と呼ばれた。著書に「学習原理」「学習各論」「学習生活の指導原理」などがある。(二十世紀日本人名辞典)

*「各教科に含まれる教育内容を一定の中心的課程に統合し、総合的に学習させる方法。主として小学校低学年で行われる」(大辞林第三版)

 ブログのこのカテゴリーでは「生活綴り方」にかかわる雑文を展開しており、それが大正時代の「新教育」運動そのものだとはいえないにしても、なにがしかの影響を互いに与え合ったのは事実だと、ぼくには思われます。いわゆる大正デモクラシー期に勃興した「新教育」運動とそこから生まれ出た「新教育」に土台を据えたいくつもの私立小学校の誕生は、さまざまな毀誉褒貶を含みながら今日まで歴史を重ねてきました。木下さんはそのような教育史のなかで一定の役割を果たした存在として、再評価されるべき人物だとぼくは考えています。

 いずれ機会を設けて、彼の「理論と実践」について駄文を述べることがあるかもしれません。さらには「新教育」の担い手となったいくつもの私立小学校に関しても、不十分であることをあらかじめお断りしたうえで、触れてみたいと愚考しているのです。

(追記 以前にどこかで触れた東京高等師範学校付属小の佐々木秀一校長先生も、木下さんと同じ師範学校の卒業生でした。卒業年次は木下さんが1898年、佐々木さんは1902年でしたから、かろうじて重なって在学していた時期があったと思われます。この時期、あるいはその後には、アメリカのジョン・デューイがこの島では大いに受容されたし、二人ともデューイの直系筋にあたっていたとも言えます。なお、デューイが日本に初めてやってきたのは1919~21年でした。その間に中国にもわたっています。この時のデューイの日本に対する見方が大きく変わった根拠になる発言も残されています。大正デモクラシーがいかなる状況下で育っていったか、デューイを通して考えられそうです。

 日本におけるデューイ研究の礎を築いたのが佐々木さんでしたが、木下さんの、いってみれば経験主義的な教育・学習論にもデューイの影響は濃厚に認められそうにぼくには思えます。この点に関しては、もうすこし資料等にあたって、いくばくかの新たな視点が提示できれば面白いと考えてもいます)

まず、自分に注意を払うこと

 注意を払う

 私たちは、両親や小学校の先生から「注意しなさい」(ペイ・アテンション)と言われて育つ。子供の頃より、この同じ言葉を強くあるいは優しく命じられながら、大人になっていく。やがては慣れて聞き流すようになるかもしれない。だが、人生においてこれは非常に大事なことである。なぜなら、注意を払うとは、心のエネルギーをどう使うかということであり、このエネルギーの使い方の如何が、自らをどのような自己へと育てるのか、どのような人間になることを学ぶのかを決めるからである。

 何かに一生懸命に注意を払っているとき、本気で取り組んでいるとき、私たちは、知性、感情、道徳的意識のすべてを動員している。仕事でも、遊びでも、大事な人との交わりにおいても、同じことが起きている。このとき、私たちは、行っていること自体に没頭しているので、自分のことは忘れている。それは楽しいひとときであるかもしれないが、私たちがそれを行うのは、楽しさを求めてではなく、それが広い生の文脈において自分がほんとうにしたいことだからである。つまりそれには「意味が感じられる」。自分という意識は極小になる。しかも、その目的は楽しみにひたることではない。にもかかわらず、私たちが真に幸せに感じるのは、こういうときである。(ベラー他『善い社会』既出)

ベラー氏

 不注意に注意を払う

 「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」(マルコ・八章―十八節)

 ここで用いている意味の注意は、自分から進んで、行いや態度を慎むこと。である。(同上)

 私たちは専門家や専門的意見を必要としている。…専門家の意見をどう評価するかを学ぶというのは、市民教育の基本である。・・・ともかく、専門家の意見を評価することは、物事の手始めにすぎず、結局の所、いちばんの重要事ではない。さまざまな選択の道徳的意味合いを考量することこそが肝要なのである。この点において、家庭や地域共同体のなかで注意を払うことを身につけた市民は、それを一般化して、より広い問題に適用することができる。家庭が民主主義の学校であり、学校が民主的な共同体であるとき、こうした知恵は、すでに学ばれたということである。(同上)

 この書籍からの引用はすでに別の個所で行っています。アメリカの社会学者たちがアメリカを「善い社会」にするという展望のもとに家庭や地域における「公民性・公共性」を養うための方法に関する膨大かつ精緻な理論を展開したものです。これはアメリカという「社会」のある時期、ある地域の課題として「公民・市民」を育成するためのプログラムを述べたものともとらえられます。ぼくたちの社会と決定的に異なるのは、宗教(教会)の日常生活に占める位置づけです。ぼくたちの理解が容易に届かないところでしょう。善し悪しの問題ではありません。

 また、「公共・公民」という視点がぼくたちの島では全くと言っていいほどに欠けているのもおおいに気になります。(この点についても、他のブログで愚説を少しばかり述べています)家庭も地域社会も、一足飛びに「国家」の網の目に取り込まれているともいえるからです。本日、出されるという「コロナウイルス感染拡大」問題に関する「緊急事態宣言」とかいうもの、いかにも奇妙な扱われ方をしているといえます。もっといえば、はたして「宣言」する必要があるのかとさえ、ぼくには思われます。物事には「裏」が必ずあります。(ぼくは裏読みはしないし、できないし、興味はない)

 「外出自粛」はあくまでも「自粛」=「自分から進んで、行いや態度を慎むこと」(デジタル大辞泉)で、これを他人から言われる筋はないんです。(self restrain)「お前は外出を自粛せよ」という滑稽な話はあり得ない。もしそのようにいいたいなら「外出禁止」でしょう。ロシアでは禁を犯した5人が射殺されたとネットにはありました。インドその他では警官が棍棒で叩く、道路に正座させ、お仕置きをすると。それもこれも、お上の「禁止」命令を破ったからです。この島ではあからさまな禁止や戒厳などはしないのに、必要以上に「お灸」が効いてしまう。「これはお願いです」「禁止ではありません」といいながら、その効果はお願い以上、禁止以上です。暗黙の「右へ倣え」かね。「センス」の圧力です。

 ぼくはしばしば「注意は自分にするものだ」「他者からの注意は、命令であり、文句であります」といってきました。「自分から進んで、行いや態度を慎むこと」でなければ、いつまでも、何歳になっても他人から「とやかく言われる」ままの人間になるでしょう。いままさに、「ことは生命にかかわる」から、「他人に迷惑をかける」から、強い圧力をかけてでも「強制的に自粛させる」「自粛を強いる」という、ふざけた(顛倒した)事態になるのです。

 「専門家の意見を必要としている」のは確かですが、その言い分を真に受けるためではない。黙って聞いていれば、どんな結果になるか知れたものではない。医者は「患者の生命や健康を守る」とさかんにいうが、ぼくたちはまさか信じていないでしょう。どうして、あちこちで院内感染が「大量発生」するのでしょう。理解できない(したくない)のは「東京都医師会」「厚労省」などの専門家はいまだに「感染」が疑わしい場合でも「医者にクルナ」といって恥じるところがないことです。自己否定(自殺行為)しているのに気づかない(ふりをしている)。世も末だね。「コロナは医者に」というのが本筋なのに、さ。学校の教師も専門家、賢くなりたいなら「君たちは学校にクルナ」というのでしょうか。

 「専門家の意見を評価することは、物事の手始めにすぎず、結局の所、いちばんの重要事ではない」という指摘をよく考えたいですね。真に受ければバカを見る。バカを見ても後の祭りです。最後は自分でなんとかまちがえないように判断しようとする、そのための専門家の意見です。

 自分の注意によってまちがいを少なくするためで、唯々諾々と受け入れるということではないんだ。

 「宣言」を発令しても、現状と変わりはないと要人たちは口をそろえる。それなら、どうして出す必要があるのか。コロナ禍はけっして「深刻」ではない、だから好き放題していいというのではない。「深刻」を煽る輩がいるのだ。だから前にも後ろにも「油断大敵」、それは何事においても言えるのです。当たりまえに「自粛・自制」をしなければならない。慎重にわが身を守り、他者に迷惑をかけぬために「注意を自分に」払う。連日、映像・画像に出っぱなしの「善男善女」たちは他人(国民。住民)思い・情け深い人々なのではないでしょう、また別の戦略や政略で「注意してくれている」んです。さすが「立派な政治家だ」と、ぼくは口が裂けても言わない。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

緊急事態はどこにあるのか

 いま現在、アメリカには強烈な順応主義がはびこっています。九月十一日の攻撃の成功に、人びとは驚愕し、衝撃を受け、怯えています。最初の反応は結束すること(列を引き締める[close ranks]いう軍隊用語を想起させる)、そして愛国心の再認。あたかも、あの攻撃により、愛国心に自信がもてなくなったかのように。国じゅうが国旗に覆われています。アパートや家の窓から国旗が垂れ、店やレストランの表に国旗が掲げられ、クレーンやトラックにも、カーラジオのアンテナにも国旗がたなびいています。アメリカの伝統的な暇つぶしだった大統領(それが誰であれ)の揶揄も、愛国心にもとると決めつけられるようになりました。

 何人かのジャーナリストが新聞や雑誌から解雇され、ごく穏やかな批判的見解(攻撃当日のブッシュの謎の失踪に疑問を投げかける、など)を授業で述べただけで、公に譴責を受けた大学教師もいました。検閲のなかでももっとも重大にして効果のある自己検閲がそこここで行われています。討論を展開すれば意見の相違と同一視され、さらに意見の相違は忠誠心がないものと決めつけられます。この新たな、先の見えない緊急事態では、従来のさまざまな自由の保障は「贅沢」かもしれない、という思いがひろがっています。世論調査によると、ブッシュの「人気度」は九十パーセントを超えそうですが、旧ソ連型の独裁体制の指導者たちの支持率にほぼ近い数字です。(スーザン・ソンタグ『この時代に想う テロへの眼差し』木幡和枝訳、NTT出版刊、2002年 In Our Time, In this Moment) 

9.11後のアメリカの恐怖を感じさせる「順応主義」についてのソンタグ(Susan Sontag 1933-2004)の発言です。

 アメリカのことはともかく、こちら側でも「愛国心」の押し売りが始まっています。「お国のために命を投げ出すことができる人間を作る」そんな教育をするためにこそ、教育基本法を改正するんだといわぬばかりです。二十年前の話です。

 おりしも、この島では教育基本法「改正」問題が論議を呼んでいました。(2006年12月、ABE内閣(一次)時に改正)

 《自民党と公明党は全面改正の「基本法」案分の調整を進めています。「国を愛する心」の表現は、自民が「伝統文化を尊重し、郷土と国を愛し、国際社会の平和と発展に寄与する態度の涵養」とした。一方の公明は、自民の「郷土と国を愛し」の部分を「郷土と国を大切にし」とする案まで譲歩した》(朝日新聞・04/06/10)

貴重な読書経験をしました

 ゴミみたいな話ですね、「愛する」と「大切にする」とにどんなちがいがあるんですか。汚く言えば、「目くそ鼻くそ」。どっちにしても、どうあってもこの文句(「愛国心」といわれるもの)を「基本法」に書き加えたいというのですね。

 この島の「指導者」は米国の後塵を拝するのを国是(正確には島是)にしてきたし、いまはもっと後塵を吸引すらしているのです。「感染」もまた政治なんだ。ブッシュジュニアに尾を振った総理がいました。

 そして、今現在の状況です。ソンダク指摘するところの「体制順応主義」がはびこっているのは彼の国、彼の地だけではない。ほぼあらゆる問題について、わたしたちの社会(島)でも、多くの人はじつに従順です。異論を唱えながらも、従順なんだな。「この受け身の姿勢は、リベラルな資本主義と消費社会の勝利の当然の結果なのかもしれません」(ソンタグ)

 そういえば、アメリカには二大政党があるといわれているけど、「この二大政党はじつは同一の党の二派」なんですね。イギリスもご同様。この島のいくたびかの総選挙で、「二大政党の時代、政権交代の可能な政党政治」がさけばれましたが、なんのことはない、同一政党の二つの派閥にすぎなかったというわけ。それは今に至ってじつに明らかですね。

 現下の「コロナ禍」問題では、何を血迷ったかといいたいほどに、「要人」どもは人民を煽りに煽っています。敷島の東西南北、まことに危機意識過同調強制のオンパレードです。この問題が発生した当座、心配はいらない、大事なのは「正しく恐れる」なのだとしたり顔でノタマッテいたお歴々が形相も凄まじく「緊急事態宣言を」、「バカ殿、決断なされ」と。ロックダウンだのオーバーシュートだのと騒ぎに騒いでいるうからやからの胸の内こそが「緊急事態」じゃないか。「正しく」でも「正しくなくても」でもかまわない、恐れる必要はない。恐れるべきは、この機に便乗して人民の心や情緒を蹂躙する輩の赦しがたい姦計なんだ。誠実を装う不誠実が横行している。 

 いよいよ異論も討論も許されない雰囲気が劣島に充満しかかっています。「大本営」発表を露疑わないという、この愚愚愚。旧来式のme-tooism(右に倣えば、怖くないね)という無責任な風潮を断ち切れるか。一人ひとりが自主性かつ自守性を奪われないようにしたい。都都逸には「毒」があるんですね。でも高熱も咳も伴いませんし、肺炎なんぞにはまず無関係ですね。いいとこrは、精神の気概を保ち、かつ伸ばしてくれる点です。

 嫌なお方の親切よりも 好いたお方の無理が良い

 野暮で渡れる世間じゃないが 粋で暮らせる世でもない

学校が兵営でない限り(承前)

 内には立憲主義、外には帝国主義を標榜していた日本、世に「大正デモクラシー」と称され、あるいは民本主義が唱われていた時期、それが大正という時代でした。多くの師範学校出身教師たちはこぞって「新教育運動」に参画しようとしていたのでした。

 上庄さんが教師になったのは大正三年、すでに彼はデューイをはじめとする「児童中心」の教育実践を試みていた。「児童の自由を尊敬しようとするには、教育者は自ら自由人でなければならぬ」というのが彼の心情となっていた。それは当時にあって、「国家の教育」「国家の教師」というくびき(規制)が勢いを増して学校を支配していたことの証明でもあったでしょう。教師の自立、教育の自由の達成、それは個々の教員の努力や情熱だけではとうてい達成できないものであった。そこに「闡明会」は生まれたのです。

 「たとへ正当な主張要求も、少ない力では蹂られるから、蹂られないだけの力を為すために団結である」(「闡明」創刊号)

 視学の訃を聞いた時、僕でさえ涙を感じた。けれ共それは単に視学の死を惜しむ涙ではなくて、衷心おしむことの出来ないこおとを悲しむ涙であった。(中略)

  人間が人間の死をかなしみ得ないほどの悲痛がまたとあろうか。(「闡明」)

 その後、上田庄三郎さんは幡多郡益野小学校(現土佐清水市)の校長になりました。二十七歳だった。赴任当時、焼失して校舎がなかった益野小学校で、彼は校舎のないままで森や野原、あるいは神社や空き地を利用して縦横無尽の活動を子どもたちと展開するのでした。

益野小学校(2009年に廃校となりました)

 彼はそれを「益野自由学林」と称し、詳細な「益野小学校経営案」を立案します。

 「全教育方針」と題して、次のような教育哲学(原理)を鮮明にします。

・学校全体にわたる教育方針は全校教師児童の総合意志によって樹立せられ、校長はこれの実現の任にあたります。

・右の方針は固定せられたものではなく、むろん、全校教師と児童とはこれが批評と改造の自由と責任とを持っております。

・校長は常に自分の教育精神を深刻堅実偉大に成長させ、自分の人格の威力を逞しくして、全校教育の清新自由な活動を生起させる淵源と自負して居なければなりません。

・どこまでも純真なる愛、どこまでも自由、そうして児童の全意欲が健かに生きてひしめく「子供の国」にしたいと云うのが理想です。(原文は仮名書き)(著作集①『大地に立つ教育』所収、国土社刊、1978年)

 校長として再建運動に奔走したわけでもないのに、やがて住民からの強い要求によって校舎は新築されました。ときに、大正十三年四月でした。その際に語られた上庄校長の「謝辞」が教え子の西村政英によって書きとめられています。(西村著『魂をゆさぶる教育』)

 「学校が兵営でない限り、学校が牢獄でもない限り、子ども達に最大の自由が認められ、最大の創造心を培う殿堂であらねばならない」

   「 およそ子ども達の自由と創造の天地と殿堂を壊し、これに圧迫を加えようとするものは、もはや、教育というものではなく。また教育を語る資格はない。自由と創造のない処、学校というものは不必要である」

 ひとりひとりの心身に深くかかわる教育は国事(国策)そのものなのでしょうか。この時代のこの国において、なお教育は私事にきわまると、ぼくは考えている。私事といえばただちにわがままで自分勝手な、と非難されそうですが、それは浅はかな言い分だとおもう。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

うその世界から来た私が

 十一年私の精励した教員社会というものは、溌剌たるライフに遠ざかること、土方社会、馬喰社会以下であると断言したところで、あながち私の悪口雑言癖だと、一笑に付するには当るまい。否それは正しく、私の誠実と真面目の実証なのだ。それが私の生まれつきででもあるかの如くに、私はそこで間断なき反感と憎悪の中にしかめつらばかりしていなければならなかった。世に拗ねてばかりいなければならなかった。これ以上いたら恐らく私は、到底、再生復活の見込みのない迄に硬化した木人参になってしまうところだった。(中略)

 私の啄木はうたう。

  こころよく我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なんと思ふ

          (上田庄三郎「土を離れて」『大地に立つ教育』所収、1938年) 

 上田庄三郎(1894~1958)。高知県土佐清水市出身。小砂丘忠義とともに高知で教師生活を送っている中で、いわば県教育界から追放されるがごとくに、上京し、新たな視野を開いた人でした。いまでは、二人ともに忘れられた日本人です。彼らは教師の本領を発揮することがどんなに権力と衝突し、その抑圧を受けるか、その見本のような人物でした。

  貧乏の家に生まれて店奉公 夜な夜な泣いた十六の頃  (庄)

 明治四十三年に高知師範学校に入学。大正三年四月、母校の岬小学校の訓導に赴任。三年後に下川口小学校に配転される。この間に、着々と県視学の間に「上庄、度し難し」の素地が作られていきました。

 私が君等から「先生々々」と呼ばわるようになったのは、去年(大正九年)の四月か らの事だ。それまでは全く知らぬ人間同士であった。初めて君等に逢った時はいやに私が偉そうに勿体ぶっていたねえ。でも君等はすぐに信じきったように知らぬ私を「先生」 と呼んでくれた。そこではじめて君等を生徒だと感ずるようになった私だった。

  是から一年余りの間に、私は君等に何を教えることが出来ただろう。私の心はそれを耻(はずか)しがっている。うその世界から来た私が、君等にうそを教えはしなかったとどうして断言することができよう。うそばかり教えていたのだ。私は君らにうそを教えた。そのかわり君らは私にほんとうを教えてくれた。何という恐ろしい代償であろう。うそで曇っていた私の心が君らの神さまのようなほんとうの心に清められて、ようやくほんとうに甦ろうとしているのだ。今私の心はまるはだかになってほんとうのすがたを、君らの前にあらわしたさでいっぱいだ。それで私はこの誓言を書く。(上田庄三郎「土の子供と語る」『大地に立つ教育』上田庄三郎著作集①所収、国土社刊。1978年)

  「私が初めてこの学校へ来たとき私は君らの前に立たせて校長先生が言ったっけ」

上田に師事した西村正英著「青年教師上田庄三郎」

「ここに見えられるのは上田先生と云われます。上田先生。…お生地は三崎で六年前にK市の師範学校を優等で卒業せられましてから、郷里の三崎に三年下川口に三年と郡下有数の大きな学校ばかりおいでになりました。私はいつかああいう立派な先生をお迎えしたいと始終思っておりました。今多年の希望がはたされまして非常に悦ばしく思っております。皆さんも…」

   この驚くべき虚の挨拶にびっくりした私は何を言ってよいかわからなかった。

 「只今校長先生の云われたのはみんな虚です。ああして私を偉そうに思わせようと言っとるんです。あれは大人がよくするお上手というものです。君らはどんなことがあっても心にもない嘘をいうものではありません。嘘は人間を傷つけるものです。今私の魂はあきらかに傷つけられました。」(同上)

 子どもたちの前で「校長の嘘っぱち」を暴露したものだから、狸校長はジロッと上庄さんを睨んだそうです。じっさいのところ、校長は彼が赴任してくるのを望まなかった。「あんな理屈をいうのがくると困るな」というのだった。

 上田さんはただちに教師の権利を守るために「闡明会(せんめいかい)」なる団体を結成します。

 「放課後の職員室に居残って、「闡明」の原稿を書き、手を真黒にして印刷することは、歓ばしい労働である。それは誕生の歓喜であり、創生の法悦である。

  闡明は営利を目的とする内職ではない。勿論危険思想の掃き溜めでもない。僕等二十有余の同人が、内的に外的に加えられたかも知れない児戯的迫害によって、新生命の、止むに止まれぬ顕現である。自我の向上と会の発育とが握手する処とに新味を有する「闡明会」の同人が、会に対する、同時に自我に対する最高の奉仕である」(「闡明」第一号、大正九年六月)(大正九年三月に同人の多くが「不意転(意に添わぬ、強いられた転任)」にあっている)(つづく)

*上田庄三郎氏の文章中には、今では明らかな「差別表現」と言うべきものが認められます。初読時には驚きを禁じ得なかったし、同時に「上庄」にしてと落胆したのでした。引用に際しては「訂正」すべきだったかもしれませんが、当時の状況や彼の仕事(実践)の性質等を考えそのままにしたことを断っておきます。