学習は教授の結果じゃないよ

 世界中どこででも、その秩序が革命的と呼ばれようが保守的といわれようが、漸進的といわれようが、学校は既成の秩序を再生産するように仕組まれた組織的な事業体である。いたるところで教育への信頼が失われ、学校に対する反抗が起こっているために、人々は根本的な選択を迫られている。つまりこの危機は、学校を新しい装置と置き換え、これらの装置に合うように現在ある権力構造を調整しなおすことによって解決することのできるまた、そうして解決しなければならない問題として取り扱うべきものなのだろうか。それとも、この危機は産業の過程を通じてそれ自身を再生産するどの社会の政治・経済にも本来そなわっている構造的矛盾に、社会がいやおうなく直面させるものなのだろうか。(イヴァン・イリイチ「学校をなくせばどうなるか」1973年)

 彼が1970年にだした『脱学校の社会』(Deschooling society)は、大変な反響を呼びました。「義務的な学校教育をなくしてしまえ」という意見は、あまりにも突飛であり、過激すぎるという点で、彼の真意がじゅうぶんに伝わらなかった嫌いがあります。半世紀が経過した現在、イリイチの言いたかったことはよくわかる気がぼくにはします。

 学校は人間を仕合わせにするどころか、かえって苦しめてきたのではないか。学校教育はどんな職業に対してもすべての人々に平等なチャンスを与えようとしてきたのではなく、「学校制度は…、チャンスの配分を独占してしまった」(『脱学校の社会』)のです。学校が「教育」を独占したという意味は学習のほとんどは「学校で、教師に、教えられたこと(teaching)」の結果だということで、何かを習うのに、得体のしれぬ大人からよりは、学校の教師からのほうが信頼されるという奇妙な事態が生みだされてしまったのです。(それがもたらしたのは「学歴社会」でした)

 「学校は、人々の成長し学習しようとする自然な傾向を、教授されることに対する需要に転換するものである」「学校は人々に自らの力で成長することに対する責任を放棄させることによって、多くの人々に一種の精神の自殺をさせるのである」(『脱学校の社会』)彼の指摘は過激に取られますが、正鵠を射ているとぼくにはかんがえられます。学校(教師)の権威主義の由来・来歴でもあります。「教師」に権威なんかありゃしないにもかかわらず、彼の教える「知識?」(試験問題)の持つ力を「自分の権威」と錯覚したんですね。今でもこの手の「かんちがい教師」はいますよ。

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 「しかし、それにしても、『学習』にこれ程までとりつかれた社会は、かつてほかにあったでしょうか。より多く、より良く、より速く、より容易に『学習』することばかり議論している社会は、以前この世に存在したことがあるのか。そもそも、『学習』に関する議論や懸念が存在すること自体が、私たちの社会の問題のあり方を示しているのではないか。ヘラクレスの時代、エリザベス朝の時代、独立戦争後のアメリカのようにエネルギーに満ち、健康で行動的で創意工夫に富んだ社会が、そんなに多くの時間を『学習』論議にさいただろうか?」((ジョン・ホルト『なんで学校へやるの』)

 答えは明らかだ、とホルトは言います。健康(健全)な社会の人びとは、物事をなし遂げようとすることによって学ぶのだ。「主体的で目的に満ち、意味に溢れた生活および仕事」と「教育」つまり「脅しと褒美、恐怖や欲望の圧力下で行われる、人生から切り離された学習」との間に一線を画すことの必要性を認めたと言うんです。

 彼の指摘は正しい。でも、それはことの半分だけです。確かに、わたしたちの社会においても、農林漁業などにあっては、そこで必要とされる技術や知識を「教える」学校などというものはことさら必要ではなかった。未熟な者はみんな、大人や熟練者がしていることを見覚え、見習いながら自分で訓練を重ねて、知識や技術を習得していたからです。

 ホルトはなにを言おうとしているのでしょうか。学校から逃れるため、学校を否定するために、もう一度第一次産業に従事することを唱えたのでしょうか。

 えらく過激な、また怖いことをいっていると思われるでしょうか。でも、そう思われること自体に、学校教育の影響というか力が働いているのかもしれませんね。たいていの人は、自分が経験してきた「学校教育」がそれほど非難されるものでも、あまりにも非人間的なものだったとも考えたくないのが人情なのだといったらいいか。それもまた、一つの経験に過ぎないとわりきれれば結構ですが、そんなに単純にうけとめられないのもまた人情なんですね。ホルトやイリイチなどが問題視した状況は半世紀経ても少しも変わっていないどころか、さらに学校や教育による「非人間化」の事態が進んでいるといわなければなりません。

 両者は「脱学校」のすすめを主張し実践しました。ホームスクールやフリースクールの叢生はその証明でした。ぼくたちの島社会でも同じような経過をたどって今日に至っています。学校歴や学歴がそれなりに幅を利かせているのは確からしい。でもその利かせる幅はずいぶんと狭く偏っているのも事実じゃないですか。人間の幸せ(仕合わせ)をどこに見出すか、それによって「学校」や「学歴」は浮いたり沈んだり。さらにいえば、どこであれ、大学にまで行ってしまえば手遅れになるような仕事や職業もあり、それによる幸不幸も異なるのです。職業選択の幅は大学に行くことで狭められるとは考えない人がほとんでしょう。でも、それは事実なんですよ。

 「(教師が」教えたことがらが学ぶということじゃない。それは学ぼうとしているものの活動から生み出されてくるものなんだ」(ホルト)教師なんていなくったって、ものを学ぶことはいくらでもできますよ。自学・自習は最も経験として貴重な教育機会ではないですか。今は「コロナ禍」の長丁場です。老いも若きも、ガセネタに惑わされないで、自分(我)流に「ものを学ぶ方法・態度」を身につけられるといいですね。他人からとやかく言われるのではなく、自分で自分を賢くするいい機会となりますように。(病院や医者がいまどんな状況なのか、病気を診てくれない多くの病院や医者がいる、なんでやねん?どうして院内感染が多発するのか(?)ウイルスにも医者にも政治家・官僚にも要注意だ)

 余話です。ぼくのところに来てくれる「石屋さん」は十五歳で仕事の道に入ったといわれました。ただいま、四十過ぎで、三人の子どもさんがいます。ぼくは全幅の信頼を彼においています。いい仕事をされるし、何よりも人の良さというか頼れる人というか、彼が高校や大学に行っていたら今のような職人さんになっていなかったと断言できます。大小取り混ぜて、粗末な庭に石を置いてもらっています。完成は未定で、作られてゆく過程を見ているのがいいですね。そこではぼくも彼の弟子のように動いたりします。(右は「石屋さん」が、最近手掛けている鳥居。この工事で出た土が拙宅の庭に運び込まれた。庭の手入れには格好の土となっています)

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少なくなった「大人の先生」

 学校と私:少なくなった「大人の先生」=住職・無着成恭さん

 山形師範学校にはいわば“緊急避難”で入学したわけで、実家が禅寺だから僧侶になるつもりでした。小学校のころから毎朝5~6時に起きたら読経や掃除、仏事の手伝いの日々。東京の駒沢大学に進学する予定でしたが、東京大空襲でそれどころではなく、実家から通える師範学校へ行くことになりました。

 入学した年の夏に終戦。戦後の混乱は戦中の混乱よりひどい「大混乱」で、食糧難や物資不足で大変でした。特に本が無くて困りました。毎日本屋をはしごしていい本が入荷していないか見ていました。2軒ほどなじみの本屋ができて、いい本が入ったら米1升とこっそり交換してくれたのを思い出します。山形市内を流れる須川の堤防が決壊した時には、授業を休んで補修工事の土運びを2週間して本を買うお金をためたこともあります。学校の1学年下に小説家の藤沢周平さんがいましたが、彼もいつも本を読んでいる学生でしたね。

 師範学校時代に思い出すのは、戦争直後の墨塗り教科書と米国の教育使節団の報告書でした。師範学校の学生でしたが、近くの小学校で戦前の教科書に墨で塗る様子をつぶさに見ました。「ああ、先生が自分で教えたことに墨を塗らせるような教育だったのか。自分が習ったことがうそだったのか。何がうそだったのだろう。教育というのは恐ろしいな」と思いました。その経験が原点になり、マニュアル的な「国家による教育」ではなく、人間の本質にある好奇心を育てる「人間の教育」が大切だと痛感しています。

 今は子どもの立場に立って自分を見ることができる「大人の先生」が少ないのが気になります。私が山元中学校の教師だったころ「学校のイチョウやモミジの木があるが、紅葉でイチョウは黄色く色づくのに、なぜモミジは赤くなるのか」と聞く生徒がいましたが、そこで「授業に関係ない」と言ってはいけません。「いいところに気づいた。一緒に考えよう」と話すべきです。答えは色素が変動する影響のためですが、今こそ生徒の疑問や考えを抑え込まない教育が必要です。<聞き手・船木敬太>

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今井正監督で原作の映画化が。

 ■人物略歴 ◇むちゃく・せいきょう=1927年山形県出身。48年山形師範学校卒業。山形県山元中学校の教師時代に文集「山びこ学校」がベストセラーに。56年、駒沢大学卒業。03年から大分県国東市の泉福寺住職。(毎日新聞・06/12/04)

 久しぶりに無着さんのお話が出ていました。いろいろな意味で、日本の教育、とくに学校教育にとっては大切な方だとぼくはおもってきました。戦後の「民主主義の教育」を心底から実践しようとした、「本物の教育」を生み出そうとしたという点では傑出した教師だったといえます。無着さんが実践されようとした教育はいつでもぼくたちの目の前に立ちはだかっています。教育という名でどんなことを行おうとするのか、それをいつでも教えてくれているように、です。

 ぼくにとってはいろいろな意味で、変な言い方ですが、懐かしい人です。「山びこ学校」出版に際してのエピソードを、その本の出版に携わった人から伺ったことがあります。

 いまでは学校教育は壊滅状態にあるといっても過言ではないでしょう。なぜそのような事態にいたったのか、たくさんの原因や理由がありそうにおもわれるし、いや、じつに単純な事から今日に至る事態がうみだされたともいえそうです。その意味では無著さんは「教育逃亡者」でした。若い時のエネルギーは「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったが、そのさなかに、「勢いを殺がれた」「撃ち落された」。それほどにこの島の学校を動かす「暴力的な奔流」の激しさに音を上げざるをえなかったのだ。奔流は勢いを緩める濁流のごとくに流れています。教師も生徒もその奔流に「呑み込まれて」いるほかないのです。でも、ここからの反転をこそ、ぼくたちは静かに試みようとするのです。権力が使う暴力に怯むわけにはいかないのです。「人間の本質にある好奇心を育てる」本物の「教育」に大きな期待と希望をいだいて、一歩ずつ前に進みたい。

 そのためにも、いったい学校とはなんだろうか? いつでもこんな疑問を持ち続ける必要があります。生徒の疑問を抑えないためにも、みずから「疑問論難止むことなし」という姿勢を貫きたいですね。

(左上は、無著さんが戦後の一時期、勤務した「明星学園」です。現在もそこで、ぼくの友人が「悪戦苦闘」(なかなかの善戦ですよ)しています。

https://www.news-postseven.com/archives/20160212_383376.html

https://futoko.publishers.fm/article/14606/

「子どもの国」を実現したい(承前)

 視学の訃を聞いた時、僕でさえ涙を感じた。けれ共それは単に視学の死を惜しむ涙ではなくて、衷心おしむことの出来ないことを悲しむ涙であった。(中略)

  人間が人間の死をかなしみ得ないほどの悲痛がまたとあろうか。(「闡明」)

 その後、上田庄三郎さんは幡多郡益野小学校の校長になりました。二十七歳だった。赴任当時、焼失して校舎がなかった益野小学校で、彼は校舎のないままで森や野原、あるいは神社や空き地を利用して縦横無尽の活動を子どもたちと展開するのでした。

彼はそれを「益野自由学林」と称し、詳細な「益野小学校経営案」を立案します。

 「全教育方針」と題して、次のような教育哲学(原理)を鮮明にします。

 ・学校全体にわたる教育方針は全校教師児童の総合意志によって樹立せられ、校長はこれの実現の任にあたります。

  ・右の方針は固定せられたものではなく、むろん、全校教師と児童とはこれが批評と改造の自由と責任とを持っております。

・校長は常に自分の教育精神を深刻堅実偉大に成長させ、自分の人格の威力を逞しくして、全校教育の清新自由な活動を生起させる淵源と自負して居なければなりません。

・どこまでも純真なる愛、どこまでも自由、そうして児童の全意欲が健かに生きてひしめく「子供の国」にしたいと云うのが理想です。(原文は仮名書き)(著作集①所収)

 校長として再建運動に奔走したわけでもないのに、やがて住民からの強い要求によって校舎は新築されました。ときに、大正十三年四月でした。その際に語られた上庄校長の「謝辞」が教え子の西村政英によって書きとめられています。(西村著『魂をゆさぶる教育』)

《学校が兵営でない限り、学校が牢獄でもない限り、子ども達に最大の自由が認められ、最大の創造心を培う殿堂であらねばならない。

    およそ子ども達の自由と創造の天地と殿堂を壊し、これに圧迫を加えようとするものは、もはや、教育というものではなく。また教育を語る資格はない。自由と創造のない処、学校というものは不必要である》

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 ひとりひとりの心身に深くかかわる教育は国事(国策)そのものなのでしょうか。この時代のこの国において、なお教育は私事にきわまると、ぼくはかんがえている。私事といえばただちにわがままで自分勝手な、と非難されそうですが、それは浅はかな言い分だとおもう。

下中弥三郎

 次に引用するのは、少し意外の感がある人です。

 《私の見るところでは、教育の本義は至つて簡単なことだと思ふのであります。

 「個性と個性の相互接触によつて互に個性の発達をはかる」

 これが教育の本義だと思ふのであす。これを外にして教育の意義はないと思ふのです。

 子供から申せば、自分の天分を伸ばさうとすることであり、親、先生、友人、社会から申せば、他の個性(子供であれ大人であれ)の存分な発達のために力添へすることであり、而も、それ等の力添へが、やがてまた力添へをする人々自身の個性を発達させることになる、それが教育のまことのすがたであります》(下中弥三郎「教育の本義を思ふ」)

 上田庄三郎さんは、下中さんとは早い段階からの知己だった。

日本で最初の教員組合を主唱したのが下中さん。「啓明会」の、いわば土佐支部として「闡明会」(大正八年)を作り、それを拠点に教育界の民主化に乗り出したのが上田さんでした。結局は、頑迷固陋で凝り固まっていた土佐教育界の見事なまでの策略に引っかかって、ついには故郷を捨てざるを得なくなった。時に、大正十四年三月のことだった。翌四月には上京することになります。

 「貴兄はかねてから県外への志望があるときいた。貴兄のような有為な人材をおくのはおしいから、新学期の異動期にご希望にそいたいので至急赴任先を知らせるよう」

という手紙が視学(現在の教育委員会教育長か)から上田さんのところに届いた。それをみて烈火の如く怒った上田さんは返書をしたためた。

 「県外志望をしない者に虚構の云いがかりをした者は誰か、視学でありながら有為の人材を郡内におくことを喜ばないのは何故か、退職する者が赴任先を知らせねばならぬという法律がどこにあるか」と、十ヶ条の質問書を送りつけた。こうまでしても、厄介者を追放したかったのが視学でした。いまでも官僚組織は自己の論理であらゆることを差配しようとします。今日では教員組合はまったく骨抜きにされましたし、それは教員の権利を防衛するという意味ではまことに残念だし、あらためてその問題を再考すべきだと考えてしまいます。その点でも上田さんの実践した組合活動は線香花火のごときものでしたが、十分に評価される必要があるとぼくは考えています。

 高知では高校全入運動が全国に先駆けてさかんに唱導されたのも上田さんたちの前史があったからこそでした。そして、その運動を側面からも大いに助けたのが下村さんでした。上京後は、その死(1958年10月)に至るまで、下中さんと交わりつづけた。下中さんについても、どこかでお話をしたいと考えています。なかなかの傑物・怪物でした。

〇下中弥三郎 出版人。兵庫県に生まれる。幼少で父を亡くし、陶器職人として修業していたが、1898年(明治31)神戸に出て、検定で教員の資格を得る。1902年(明治35)上京、『婦女新聞』記者を経て1911年埼玉師範学校教諭となる。1914年(大正3)百科事典の原形ともいうべき『ポケット顧問 や、此(これ)は便利だ』を著したが版元が倒産、同年6月平凡社を創業、自著を通信販売する。関東大震災後の1924年、本格的な出版を始めた。円本ブームのなか1927年(昭和2)に『現代大衆文学全集』、1928年に『世界美術全集』を発行、地歩を固めた。1931年破産したが、『大百科事典』の企画を発表、1935年完結後ふたたび破産。一方、1925年ころから農民自治運動を指導、1931年以降大アジア主義者として活動、1940年の大政翼賛会発会に協力するなど、社会運動に関心をもっていた。これが理由で第二次世界大戦後公職追放になるが、1951年(昭和26)社長に復帰、「百科事典の平凡社」としての特色をつくった。世界連邦運動の推進者、世界平和アピール七人委員会委員としても知られる。[清田義昭]『下中弥三郎伝刊行会編『下中弥三郎事典』(1965・平凡社)』(日本百科全書(ニッポニカ))

難死やあわれ、生き延びよう

 《エール大学の心理学者が行った実験のことを書いておこう。…「体罰と学習」の心理学の実験をするという名目で、さまざまな年齢、社会的背景の人々をアト・ランダムに集める。隣室に生徒がいて簡単な質問に答えて行くということになっていて、集められた被実験者は「教師」で、「生徒」がまちがった答を出すと、「教師」は(生徒に)「体罰」を加える。その体罰によって、「生徒」の学習効果がどれだけあがるか―「体罰と学習」の実験の目的はそこにあると、被実験者は教え込まれている。さらに、この実験がいかに重要であるかについても、人類の科学の進歩にいかに貢献するかについても。

 「体罰」は電気ショックによって行われることになっていて、被実験者のまえには、ちょっとしたショックにすぎない十ボルトくらいから死の危険さえ招く四百ボルトにいたるまでのスイッチがならんでいる。しかし、本当のところは、「生徒」など隣室にいなくて、「生徒」の解答と称するものは実験者、つまり、エール大学の心理学者の手によって被実験者にわたされるしくみになっている。それによって、被実験者は「体罰」の電気ショックのスイッチを入れる。スイッチを入れると、「生徒」の反応が壁づたいに聞えてくる。―それは、あらかじめテープにとられたさまざまな人工的な反応なのだが、真実そのままにでき上がっていて、「止めてくれ」、「助けてくれ」という懇願の声、哀訴の叫びから、最後には壁を叩く音、ついでは、死を思わせる沈黙までもが含まれている。

 一方、実験者の側からは被実験者に対して、あらゆる種類の「激励」が加えられる。「それぐらいは大丈夫だ。あいつはウソを言っているんだ。」「この実験は科学の進歩のために必要なのだ。」「何ごとがおこっても、エール大学が責任をとる。」こうした状況の下で、いったい何人が四百ボルトのスイッチまで手をのばすか―実は、実験の目的はそこにあった。エール大学の心理学者は、あらかじめ、全米のその領域の専門家に彼らの予測を求めていたのだという。専門家は一致して、十パーセントぐらい、つまり、真の狂人だけがそれをなし得るという数字を出した》(小田実「平和の倫理と論理」『「難死」の思想』所収。岩波現代文庫。2008年)

 小田実(1932~2007)作家、評論家。61年『何でも見てやろう』。大学卒業後、代ゼミの英語講師。渡米。65年「ベトナムに平和を!」市民連合(ベ平連)を結成。小説に『Hiroshima』『「アボジ」を踏む』『玉砕』など。評論に『世直しの倫理と論理』『市民の文』『中流の復興』など多数。

 小田さんが上の文章を書いたのはいまから五十年以上も前のことでした。東京オリンピックが開かれたのが1964年でしたが、その数年後の時期でした。そこで問題となっているのは「国家(権力)と個人(の権利)」で、いまなお、それはわたしたちの課題でもあるでしょう。

 《戦争の理念が国家の強制原理としてあるとき、それに対決し、抗する道は、より高次の人類の普遍原理に依拠することだろう。国家が自己の理念達成のため、また、その自己保存のため、人を殺せ、と命ずるとき、私たちは、いかなる理由においても人間には人間を殺す権利はない、という普遍原理によってそれを拒否することができる。国家が戦えと命ずるとき、いかなる理由においても戦争は罪悪であるという理由で、その命令に抗することができる。おそらく、私たちの被害者体験を論理的に救い、それを下から強力に支えてくれる原理は、こうした普遍原理しかあり得なかっただろう》(同上)

 彼がアメリカ滞在(留学)中にエール大学の「心理学実験」の話を聞いたそうです。

 このスイッチを押せば、「生徒」が死ぬにちがいない、こんな残虐な行為は「狂人」しかしないだろうと、その道の「専門家」は判断したという。はたして、実験の結果はどうだったのか。

 《しかし結果は六四パーセント―ということは、これは狂人の行為でも何でもなく、ふつうの人間がふつうになし得る行為だということだろう。そして、その行為は、決して、強制された行為ではなかったのだ》(同上)

 なぜ、このようは結果が生じたのか。そこにはさまざま要因が考えられます。(この島における「死刑制度」に賛成する人はおよそ八割だという報告が時として政府の調査として行われてきました。ぼくは以前から「官僚の統計」はまず信用しないことにしてきました。魔が差して使ったことも幾たびかありますが、かならず「眉唾」とことわっていました。悲しいね。

 人間は寛容にも不寛容にもなれる。また慈悲深くもあるし、無慈悲でもあるのが人間なのでしょう。それだけの話です、と言い切ってしまって構わないのか。当事者でないことを前提にすれば、人間はどんなに悪辣にも、あるいは良心のかたまりみたいな存在にもなれる。本人にも自覚がないのがほとんどでしょう。自分を棚に上げないことだ。

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 世界の多くの国では「新型コロナウイルス」の猛威(医学や科学の無力+政治の不作為 ー ことに日本劣島においては)にノタウチまわっているというのが現状です。このところの報道を見るにつけ聞くにつけ、「自称・詐称 政治屋」どもは自らの権力や特権を確保・維持するためには人民の苦しみを歯牙にもかけず、あまたの「市民・国民」の死すら、数字でしか語ろうとしない。血圧が高いとか低いとか、「下血」がどれだけあったとか、(やんごとなき方の病状について)いかにもフザケタ情報を垂れ流したのは三十年ほど前のことでした。大きな顔をしている「報道機関」はすでに、とっくに死んでいます。いままた同じ過ちを平然と繰りかえしている。要路にある屑どもは必要な情報を隠し、改ざんし、自分たちの都合に合わせて捏造する、税金を元手にして好き放題な振る舞いに狂奔している。

 「人を殺す」「人の死を平常心を以て見る」のはおそらく奴らには日常茶飯事なんだとぼくは思っている。人命は尊いなどという利いた風なことを抜かさないでくれ。生きること、それもつましく生きることをけっして邪魔してほしくない。邪魔されたくない。具合が悪い人は「医者にクルナ」という算術家医者たちは人を殺すのを商売にしているとしか思えない、症状を訴える人間より、感染したくない・感染を恐れる手前の都合を優先する、そんな破天荒な断末魔の修羅の海にぼくたちは浮遊している。自分の力で生き延びる。安易に「専門家」崩れには身を任せない。(誠実な政治家・官僚・医者がかならずいることをぼくは失念しているのではありません。だが、でかい声で利権をあさる、反吐の出そうなあさましい連中の暴力・悪逆のかぎりに、少数者の良心は圧殺されかかっているのです)

*難死=戦争や大震災によって多数の一般市民にもたらされる無意味で不条理な死のこと。作家小田実の造語。現下の「犬死」も同然の不幸こそ、「難死」というべきだ。

*この島で、意図的に検査を回避している理由はなにか。感染者の累積数しか報じないのはなぜか。消極的な検査体制を放置したまま、感染爆発を煽り続ける輩がこの島を乗っ取ってしまったかのようです。 

ポイズン・アイビー

 初めて「登校拒否」という日本語を知ったとき、ぼくはどこか、すがすがしい気分を味わった。自分の過去のひそかな一コマを思いがけず、棚ぼた的に公認されたような感じがして。

 子どもが学校に不安を覚えて心理的な理由で行けなくなるケースは、もちろんアメリカにもある。けれど、それを歴(れっき)とした社会現象といちづけて、簡潔且つオフィシャルらしく表してくれるイディオムがないのだ。あるいは、カウンセラーたちの間で何か用語が使われていながらも、一般に流布していないだけのことかもしれないが。(A. ビナード「ウルシ休み」『空からやってきた魚』所収、草思社刊。2003年) 

和英辞典には:

refusal to attend school (登校拒否)

psychological hatred of attending school(心理的理由からの登校ぎらい)

schoolphobia(学校恐怖症)

truancy(ズル休み)

 A. Binardさんは1967年、アメリカ・ミシガン州生まれの在日米国人。「朝美納豆」と日本名表記。詩人、文筆家、ラジオ出演も。広島在住。最近は島のあちこちで講演活動を重ねてもおられます。その彼が上に紹介した文章につづけて、次のように語っています。「学校なんか行きたくないなあ」というのは、古今・東西を問わず、いつでも見られる現象だったことが分かります。ただ、その現象に対して、社会(世間)がどのような反応を示すかが彼我のちがいのようです。

 《ぼくは中学校でtruancyに手を染め、高校でも続行した。だがschollphobiaの経験は小学二年生のときの一度だけ、それも本当の「登校拒否」とはいえず、ニアミス程度だった。夏休み中に引っ越し、転校生として新学期からクラークストーン・エレメンタリー・スクールに入ることになったぼくは、ミセス・ウエストランドの教室は何だか冷ややかで、自分の居場所がうまく見つからなかった。先生とのコミュニケーションも取れず、そんな或る朝、ぼくは母に「学校はやめた」と宣言したのだ。》

 それに対してお母さんはどのように答えたと思われますか。

 「そんなことは許しません」

 「行きたくなければ行かなくてもいいのよ」

 「わたしには関係ないことだわ」

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 …そんな或る朝、ぼくは母に「学校やめた」と宣言したのだ。

 「そうなの?」といって理由を聞いたり、「行った方がいいと思うけど」とやわらかくアドバイスするみたいに母は話したけど、無理に登校させようとはしなかった。その日の午後はずっと『大草原の小さな家』を数章分、読み聞かせてくれた。

 翌朝、ぼくが再び「行かない」というと、パジャマ姿のままいっしょにシリアルを食べながら、母は自分が子どもだった頃のエピソードを問わず語りに ― 厳しいカトリックの小学校に通っていた母は、クラスきってのおてんばで、低学年からすでにズル休みの常習犯だった。とはいえ、老練な修道女たちは容易にだまされず、親にもだんだん見ぬかれてしまい、しかしそれでもズル休みの新しい手口を捻り出そうと日々探求していた。そこでふっと思いついたのが「ポイズン・アイビー」。(同上)

 ズル休みと登校拒否

 「登校拒否」にあてはまる言葉がアメリカにはないということから、ビナードさんはみずからのschoolphobia(学校恐怖症)の体験を語っていたのでした。小学校の頃に、担任教師とウマが合わず「学校やめた」と宣言したら、母は自分のtruancyのことを話してくれた。ポイズン・アイビーは「ツタウルシ(蔦漆)」。その枝葉にふれるとたいていの人ははげしくかぶれます。お母さんは、この漆にかぶれれば学校が休めると考えて、友だちと林に入って、ご丁寧にも葉っぱを身体に塗りつけたそうです。(しめしめ、と思ったことでしょう)

 その結果は?なんと治るのに二週間もかかった重度の皮膚炎になり、まるで拷問の苦しみを味わったといいます。「こんなひどい全身のかぶれなんて見たことがない、一体どうしたんだ!と祖父が繰り返し追求したところ、とうとう母は白状して、泣き面に蜂の大目玉を食らった」

ツタウルシ

 「母の話は覿面(てきめん)ではなかったが、じんわりと効果があって、一週間休んでから、ぼくはまた学校へ行き出した。そしていたたまれない気持ちになったとき、全身皮膚炎の試練を想像して、少しは楽になった気がする」

 ことの顛末(てんまつ)を聞いてしまえば、「なんだ、そんことか」とあまり印象には残らないかも知れませんが、それは学校に行きたくなかったご当人ではないからでしょう。行きたくないし、行かなければならないと焦っているこども(ビナード)にとって、母親の経験談(だった?)は、「学校(教室)へ行くのはいやだ」という引くに引けない緊張状態を少しはほぐしてくれることになったんじゃないでしょうか。学校の絶対性とでもいうべき掟に穴が開いたのかもしれない。

 「お前はズルしてるんだ」と真正面から迫ってこられたら、結果はどうなったでしょうか。これは登校することが暗黙の前提、無条件の約束なんだとかたくなにとらえられていてはできない相談です。どんな関係をふだんから築いているかという親子の関係(コミュニケーション)のなかで交わされた感情の綾だったとも思うのです。

 そこまでいって、さらに学校にむやみに自分をあずけるのはどうかと考えます。これはぼく自身の経験であり感覚でもありますが、学校や教師から一歩も二歩も身を引いておくことが大切なんじゃないですか。その理由は? 繰り返してあちこちで騙っていますね。

 つまりは、学校は絶対ではないということ、あるいは、ぼくは学校を全否定はしませんでしたが、相対的なものととらえ、自分とは五分五分じゃないかと幼いなりに悟ったんじゃなかったですかね。成績はふるわなかったけれど、あんな勉強、その気になればいつだってできるさ、とたかをくくっていました。いまだに「その気」にはならないままですが。学歴も学校歴も、わが身の丈には合いませんよ、古すぎて。(若いころ、まわりに「博士号」を所持しているのがたくさんいました。「偉いのか」と思っていたが、当人を見るとどうもそうでもない、まるで「クズ(屑)」にしか見えなかった。それなりに歳を重ねて「学位」の仕組みがわかって納得したのでした。何十年も前に取得したものをいつまでもぶら下げているんじゃないよ、と悪態をついたものでした。運転免許証だって、三年ごとに更新講習や試験がありますよ)(「学位」を金で買った知(痴)人もいたね)

優越感を感じるから褒めるわけだろ

 学校の先生と生徒は本来は師弟だよな。だけど、親方と弟子みたいな関係にはなっていないな。なっていたら世の中はもっと違うだろうしな。先生と生徒はまだまだ他人だよ。先生はほんとうにその子が立派に育って欲しいと思っているんだろうか。あるいは思っているかもしれないけれど、実際はそうしているようには見えないよ。無事に何もなく静かに卒業していってほしいと思うほうが強いんじゃないか。(中略)

 だから、そういう忍耐というか我慢というか、そういうものが一つもなくて、人と接するという時代だから、昔とは全然違ってきているわけだよ。

 人を預かるとか、人を教えるとかいうのは、そんな軽いものではないよ。それこそ、その子がいろいろなことを気づくまで、じっと待ってやって、その子が感じて、そして行動をとって、思い切りやって、本当に一所懸命やった結果であれば、それがどうであろうと、結果はいいよ。一所懸命きちっとやれれば、それでいいんだ。そこまでの責任は親方が取るわけだ。だからまかせるにしても、放り出してやるにしても、背負うのは親方や。

 そんなだから、弟子の側に行って、「ようやった」とか、そんなふうに褒めるのはバカだよ。だいたい、いまの人は褒めるけども、そんなもんじゃないわ。

 褒めるっていうのは、自分が優越感を感じているから褒めるわけだろ。自分は何もしないのに。それこそずるいよ。弟子だって、ずっとやっているんだから、褒められたくてやっているんじゃないってことに気づくよ。師弟とはそういうものやと俺は思うな。(小川三夫『不揃いの木を組む』) 

 すでに別のところで触れていますが、小川光夫さんは宮大工の棟梁。法隆寺、法輪寺や薬師寺金堂の修理や創建に西岡常一さんの副棟梁として従事した大工さんです。その後、宮大工(養成)集団「鵤(いかるが)工舎」主宰しましたが、いまは後進の指導に当たっておられます。詳しいことはともかく、ものを学ぶというのはどういうことかを如実に示してくれるのが小川さんの「現場」主義です。大工の仕事場(建築場)であり、教師の仕事場(教室)です。「現場」という言葉の有する雰囲気にぼくはあこがれてきました。現場で自分のすること、すべきことがあるから「現役」なんですね。

 この二つの「現場」はもともと一つであったとおもわれますが、いつとはなしに(学校教育が始まってからでしょうか)はっきりと分離したのです。それがいいか悪いかということではなく、ものを学ぶ方法や目的が異なってしまったという意味です。またものを学ぶ側にも二通りの人間が生み出された(いいかえれば、新たに「もの学びの人種」が作られたということです)ことになります。学校の登場は「教えられる人間の登場」でもありました。

 《大工というのは、まず自分ができなくてはならない。他人じゃないんだ。みんなしてどうこうしようというのはいかん。それは、まだ学校の気分が抜けないからだな。なぜできないやつがそういうことをしたり、いうかといったら、結局は自分に自信がないからだ。自信があれば、そんなものいらん。一人でもやる。(中略)

 できないやつにかぎって、仲間だからといって、いたわりみたいな気持ちでやっているのだろうけれども、そんなのは仕事のうえでは必要ないんだ。みんなして相談しあいながら、人のあらはほじくらないように、痛いところは触らないように気を遣ってというような、そんな考えではだめなんだ。それというのも、要するに、自分自身が弱いからだよ。 触れられたくないから触らない。そういうことも、まあ、年格好も腕も同じぐらいだからそうなってしまうんだな。そういう状況だと、仕事は上のやつが引っ張るんではなくて一番最低が平均点になってしまうんだ。

龍源院(座間市)鵤工舎施工(平成27年9月)

 きっと学校ではそういうふうに教えているんだろうな。小学校でも中学校でも人の悪口をいうのはやめましょうとか、みんなでかばい合いましょうとか、助け合ってとか。学校の先生は、二年先か三年先のことを考えればいいけど、俺らは一生食える職人に育てなければならない。一生のことを考えたら、かばい合いとか助け合いだとかの前に、自分がちゃんと生きていく技を身につけなくてはいかんということがあるんだ。 

 生きていくための職業だとか、一生自分のためだとかいう考えは学校にはないからな。これは先生にもないものな。そういう点でも、いまの学校はだいぶひどいらしいな》(同上)

 昔から大工さんの仕事を見るのが好きでした。一日中、見ていて飽きることがなかった。そのうちに自分でも大工になろうかと考えたこともありました。もちろん、大工に必要な肝心なものがいちじるしく欠けていたので、その望みは絶たれてしまいましたが。

 どうして大工さんに惹かれたのか、というよりは「大工の現場」に魅せられたのか。そこに「仕事」があるからだということだったと思う。まちがいなしに「現場」がそこにあったからです。

富山県高岡市国泰寺

 小川さんたちが八一年年から三年がかりで取りかかった仕事に、富山県高岡市の国泰寺建立がありました。その時にはつぎのようなエピソードが残されました。

 国泰寺の現場で朝の散歩をしていたら稲葉心田老師に会った。

 「老師、みんな、朝ここへ来て座禅を組んでいるようですけど、うちの職人にも座禅を組ませなくちゃいけませんか」

 「バカッ、あんなのは暇人のするこった。おまえらはそれだけの時間があれば仕事をせい。それが座禅以上の修行だ」

 やるべき仕事があるというのはそういうことなんですね。仕事に没頭する。

 《職人っていうのは、考えたことと実際にやることの両方をするんだから大したものだと思うんだよ。ほかのものは知識だよ、知識だけでいいんだから。大工は知識だけじゃないんだから。知ったことを生かさなくてはならない。生かしてものをつくるんだから。それができるようになれば、後のことはついてくるんだ。

 試験なんか記憶力のテストだけど、職人の仕事はその人の全人生や。

 木に鋸(のこぎり)を入れたら、それで終わりだよ。元に戻せない。真剣勝負ですよ》(同上)

 「知ったことを生かさなくてはならない」という教育の現場はどこにあるのでしょうか。