いたるところに「学校」あり

 「学校とわたし」

 小学校の思い出は、やはり写真との出会いかな。下町でげた店を開いていたおやじは、本業より写真に夢中。セミプロ級の腕前で、よく七五三や入学式の写真撮影を頼まれて、おれが助手としてついていった。

 兄弟は他にもいたのになぜおれを選んだのかはわからない。三脚を立て、暗箱の中にカメラを組み立ててレンズをのぞくと、逆さまの校舎が見えた。一切の風景を遮断して被写体と向き合う、あの不思議な一瞬は忘れられない。

 おやじはじきに、ベビーパールという名前のおもちゃのようなカメラを買ってくれた。それでいっぱしの「芸術作品」を撮るぞ、と思ったんだな。小学校の林間学校で日光の東照宮に行った時、1人で朝早く起きて、閉まっていた門を乗り越えて、中の風景を撮ったことを覚えている。

 放課後はろくに勉強もせず、外で友達とメンコや剣玉、ベーゴマ遊びをしていた。でもなぜか成績はよくて、5段階評価で音楽が3だった以外はオール5だった。読書が好きだったわけでもないけれど、作文もほめられたりしたなぁ。

 小学校で覚えているのは戦地から引き揚げてきた帰還兵の先生。毎朝、本を朗読してくれた。朗々と「レ・ミゼラブル」を読み上げるんだが、ジャン・バルジャンの人生が胸に迫り楽しみだった。クリスマスの時期になると外国人の家に連れていってくれ、ジングルベルを聞いたりした。読書とか英語とか、これからの時代を生きるのに必要だと思ったんだろうなぁ。

 中学で初めて好きな女の子ができた。修学旅行ではその子を狙ってシャッターを押した。もちろん寺も撮った。女と風景。そのころからずっと、同じものを撮っているのかもしれない。

 写真を専攻しようと千葉大工学部の写真印刷工学科に進んだが、期待と違って、フィルムやカメラの仕組みを勉強する学科だった。32歳でプロになるまで特に撮影の勉強はしなかった。おやじが購読していた「写真新聞」を小さいころからながめたり、撮影助手をしたりで、自然と感覚が身についた。学びの場は現場だったってことだろう。【聞き手・山本紀子】 ==============

 ■人物略歴

 ◇あらき・のぶよし=40年東京都生まれ。通称アラーキー。64年、下町の子どもを撮った写真集「さっちん」で太陽賞受賞、72年に電通を辞めフリーに。女性ヌードを多く手がけ、作品に「わが愛、陽子」など。(毎日新聞 2008年5月19日 東京朝刊)

  「学校とわたし」というコラムはどれくらいつづいているのか。(ぼくは新聞を読まなくなって久しいので、このコラムの現況も知らないままです。新聞はたちまち旧聞になり、反対に旧聞は新聞に顔貌をかえるのが世の常のようでもあります。したがって、「旧聞」をひとまとまりでも束ねておけば、世の中の人情や世情を知るのに不自由しないという仕儀に至るようです。ぼくは今では考えられませんが、「切り抜き」などという面倒をいとわずにやっていたことがあり、それがかなりの分量になって残っている。ひまにあかせて折々、そいつを引っ張り出してはあらぬことを妄想したり、世の無常や無情を嘆いてみたり、ということはしませんで、いつでも変わらないままなんだなあ、という諦念を強くするのです。ぼくの出発地点は「諦念」です。あるいは「絶望」といってもいいのです。ぼくに言わせてもらえば、「希望」と「絶望」は紙一重。人は安易に「希望」を口にしすぎますな。ぼくには「絶望」を語っているようにしか聞こえません。

 「学校とわたし」の今回はアラーキー、単に切り抜きが目についただけです。一度だけどこかで会った記憶があります。不思議なお顔をされていました。小さな方でしたね。でも、さすがに彼のフォトはいいものだというぐらいはわかります。森山大道さんとはまったく異なりますが。

 それぞれのひとが「自分と学校・学校と自分」、「自分の学校・学校の自分」を語っておられました。学校に対する距離感の違い、教師に向ける眼差しの濃淡、あるいは学校そのものに対する信心と不信。学校(教育)に寄せる想いはまた、一人ひとりの生き方の流儀を語るものでもあるようです。卒業して何(十)年も経った時点での語らいですから、美化する人もいれば、はなから峻拒する人もいます。でも「脱学校」「反学校」「非学校」(大まかに言えば、学校を拒否した)という観点で話す方はまずいませんね。

 そこに共通して認められるのは、多様で多彩な不信の念のようでもあります。もちろん、ぼくには信じられないような「学校礼賛」を語られる人もいました。どんな学校だったか。あるいはそれは学校じゃなく、遊園地だったか。学校は「必要悪」以下のものでしたね、ぼくには。

吾人は吾人の吾人なり

 若い教師の仕事 「凡そ世に、他人の手先にあやつられるばかりというべきものはないと思う。それは第一義の吾人の名誉を無視したことだからである。第一義の名誉とは『吾人は吾人の吾人なり』ということである。この名誉こそは私達の命がけになって保護しなければならぬものである」「私達の出発点はここです」(小砂丘忠義・「山の唄」)

 上田庄三郎さんたちと同じような「教育宣言」を放ったのです。「われはわれなんだ」という自己(個人)を天下に突き出す覚悟の闡明でもありました。これを書いたのは当時22歳だった小砂丘忠義(ささおかただよし)さん(1897年生まれ)です。高知県出身。高知師範学校を卒業後、母校だった杉尋常小学校の訓導(教師)として赴任します。そこに三年間とどまる。(戦前、教員になるには師範学校卒の資格が(原則としては)不可欠でした。その「教師養成教育」の内容には独特の形式尊重主義が頑固に順守されていたとも言えます。明治初期以来の師範教育の性格がこの島社会の教師たちに色濃く反映されているのです。その点についてはいずれ触れるつもりです)(ヘッダー写真:https://blog.goo.ne.jp/kyouikubunkasai-jimu/e/0c37c24ee1f71502f56bc799e641b645

*小砂丘忠義 1897‐1937(明治30‐昭和12) 生活綴方,生活記録の方法の確立に足跡を残した高知県の小学校教師,のち編集者。本名笹岡忠義。1917年高知師範学校卒業。この運動の源流のひとつであるSNK協会同人などを経て上京し,《教育の世紀》や《鑑賞文選》の編集に携わったのち,第二次《綴方生活》(1930年10月~37年12月)を主宰した。同誌の読者で寄稿者でもあった全国の綴方教師たちの寄せる各地の子どもの綴方の読解と整理にとりくみ,日本語と日本語による文章表現指導体系の発見と確立に力を注いだ。(世界大百科事典第二版)

 文集「山の唄」第一号が創刊されたのは1919年1月のことでした。翌20年には旭尋常小学校に移動。なによりも自分あっての生活であり、人生だとはっきりと悟っていた人だった。「吾人は吾人の吾人なり」と宣言したのは「山の唄」第二号においてでした。

 後年、「生活綴方の父」などと称されることになるのですが、早くも教師生活の出発点にその明確な萌芽が見てとれる。「吾人は吾人の吾人なり」と自他ともに自覚するには「ことば」をもって語らなければならない、そのように語らせる仕事こそが教師のおこなうべきことだというはっきりした覚悟がありました。

 後に『私の綴方生活』でこの時期のことをつぎのように書いています。

 「私はまず、綴り方からと考えて教壇に立った。何々式だの、何々主義という縄ばり内にこもる流行の嫌いな私である。無定見に近いのんきさでゆっくり私はやってきた。十年たつ中にはむろん自分も成長する。自分が成長すれば私の綴り方も成長するだろう。あわててここに仕上げを見ようという興味は毛頭ない。月並な杜撰(ずさん)な言い分だが仕上がるということはある意味で危険なことであり、また大した意味のないことである。大器晩成でなくて大器なればそれだけ永久に未成であるはずだ」

 あるとき、小砂丘忠義さんが担当していた子どもの綴方につぎのようなものが出た。/「日本武尊(ヤマチタケル)はクマソの子であって、エゾを討ちました」(五年M)

 この「綴方」をみて、小砂丘さんはいうのです。「私は面白いと考えた。まず形の上では誤謬はない。そして初めて歴史を習った子どもとして多少なりとも歴史的記述も出来ている。少なくともMとしては、その頭の中で何らか考えたらしい創作の跡を私は見た。これならばみんな綴り方はやり得ると私は信じた」

 型破りの教師がいたものですね。これでは並みの校長が驚くはずです。でも、小砂丘さんは校長たちの横やりなどいっこう気にしていないようです。「ヤマトタケルハクマソノコダッタ」という歴史的事実のあやまりを云々するのが彼の主眼ではなかったからです。

*日本武尊 記・紀にみえる景行天皇の皇子。仲哀(ちゅうあい)天皇の父。九州の熊襲(くまそ)の首長を攻めほろぼしたとき,熊襲から日本武尊の尊称をえる。のち伊勢(いせ)(三重県)にいた叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣(くさなぎのつるぎ)をさずかって東国の蝦夷(えみし)を平定,帰途伊勢の能褒野(のぼの)で病死したとされる。「日本書紀」によれば,このとき30歳。名は小碓(おうすの)尊。別名に日本童男(やまとおぐな)。「古事記」には倭建命とあり,名は小碓命。別名に倭男具那命。(デジタル版日本人名大百科事典+Plus)

*古代九州西南部の地域とその地に住む人々の総称。《古事記》では〈熊曾の国〉とみえる。肥後(ひご)国球磨(くま)郡,大隅(おおすみ)国贈於(そお)郡の両地方に基づく名称であろう。後に隼人(はやと)の名称に吸収されていくが,《日本書紀》では地名のほか,この地方に住んだ勇猛な豪族名としても用いられている。(百科事典マイペディア)

 「私は…すべて自由選題で自由な表現を待つことにした。等しく自由選題にしても何か一文書かねばならぬという考えでやってはもとより何の自由選題でもない。既に完全な課題強課になっているものと見ねばならぬ。自由選題が題材をのみ子どもに自由選択せしめる程度ではいけない。題材はもちろん表現もさらには文章を書くか書かぬかも当然自由であるべきはずである。書くまで待とう綴り方でもない。書かしてみせん綴り方ではさらにない。やきもきせんでも、子どもは実に見事に書き得るものだとの全肯定に私は出発した。(略)我々の生活は、学校の綴り方や、試験の為にあるのではなく、もっと一番さきを行ってるものである」(『小砂丘忠義『私の生活綴方』)

 今から百年以上も前に、こんな実践を敢行しようとした若い教師たちがいたのです。芦田恵之助さんは「随意選題」といわれていました。小砂丘さんは芦田氏も痛烈に批判しています。

 彼らにとって、子どもと寄りそい、子どもとつきあう、それこそが「教育」というものだった。そのような交わりを阻害する要因(土佐教育界の官僚たち)は万難を排して除外するという心意気だった。太平楽を並べていたのは小砂丘さんたちだったか、あるいは惰眠をむさぼっていたのは県や郡の視学たちではなかったか。「出る杭は打たれる」、かならず打たれるのは当然の成り行きでした。「打ちつづけ」なければ、放った矢が自分(視学)たちの方に返ってくるからでした。小砂丘さんは抵抗に抵抗を重ねた。その最大の武器は教育という「実践」であり、他者には指一本触れさせない「現場」に徹するという姿勢にありました。   

____________________

日常の暮らしが生命の根本

徳永 野の花診療所では死を前にした患者さんに何かしたいことを尋ねて、実現するようにお手伝いしています。「たんぼの土を踏みたい」「焼き肉を食べたい」「空をみたい」「道を歩いてみたい」・・・。

 生きているときは、日常の暮らしより理想や主義主張、仕事、金もうけが大事だが、死を前にすると価値が逆転する。ありふれた日常の暮らしが生命の根本だとわかる。今の社会は主義主張の方が肥大化しすぎているから、修正する必要がありますね。

鶴見 日常の暮らしというのはそれだけ、すごいんだ。

徳永 ベルトコンベヤーにのった人生はつまらない、と死ぬときにわかる。それでは遅いんだけどね。ところが、例えば好きな山登りをやったという人は「死の野郎がもうちょっと遅くきたらいいのに。でも山登りもいっぱいしたし、しょうがないかな」と、どこかで手を打つ。死と取引できたりする。だが、ベルトコンベヤー人生では取引できるものがないので、死んではならない。死は悪で、遠くにおくもの、となる。(中略)

 鶴見俊輔さんと徳永進さんとの対談。(「生き死に 学びほぐす」2006年12月27日・朝日新聞)徳永さんは現在、鳥取県でホスピスケアのある野の花診療所を運営している。

http://nonohana.no.coocan.jp/

 その徳永さんとガン患者の女生徒の会話。

 「がんでなかったら、がんでないとはっきり言って下さい」「ええ、がんじゃありません」「ああ、よかった」(その患者は自分ががんであることをしっているが、信頼する医者からそうじゃないといってほしかったのです)

 鶴見さんはこのことを次のようにいう。

 《医者は「あなたはがんです」というのが正しいのかもしれない。しかし、徳永が「がんではありません」というのは、死に臨む人が語り残したことばをくみ取り、まなんだからである。

 戦前、私はニューヨークでヘレン・ケラーに会った。私が大学生であると知ると、「私は大学でたくさんのことをまなんだが、そのあとたくさん、まなびほぐさなければならなかった」といった。まなび(ラーン・learn)、後にまなびほぐす(アンラーンunlearn)。「アンラーン」ということばははじめて聞いたが、意味はわかった。型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された。

 大学でまなぶ知識はむろん必要だ。しかし、覚えただけでは役には立たない。それをまなびほぐしたものが血となり肉となる。

 徳永は臨床の場にいることによって、「アンラーン」した医者である。アンラーンの必要性はもっとかんがえられてよい》(同記事より) 

 鶴見さんはみずからの大学体験(学生として、教師として)から、「大学でまなぶ知識はむろん必要だ」といわれるのですが、はたして必要なのかどうか。今日ではまことに疑わしい。それは大学にかぎらない話で、学ぶことが成りたっていないのが学校教育なんだから、まなびなおしもありえないという恐ろしい状況が浮かびあがってきます。

 知識をまなぶというよりは符丁や単語を受けいれるだけが生徒の仕事で、その符丁や単語を受けいれさせるのが教師の天職だというのが、まるでそれぞれの相場になってしまっているんじゃないでしょうか。

 まなぶという経験があって初めて、まなびなおす(学びほぐす)が意味を持ってきますね。単に試験のために覚える(暗記する)だけではほとんど学びなおす材料(元手)にはならないでしょう。

*https://www.thka.jp/helen/life.htm

lIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

学校化社会の行方

 学校はすぐれてフォーマルなもので成り立つ世界だ。学校には画然とした構造がある。独特な建築様式があり、校内規則があり、教育上の慣行がある。教職員のあいだには位階制度があり、その権限は行きつくところは国家によって、威厳をつくした法律によって、国家に属する抑圧装置としての警察によって、正統性を保障されている。(ポール・ウイリス『ハマータウンの野郎ども』筑摩学芸文庫、既出)

  ここでウィリスが使っている「フォーマルなもの」「画然とした構造」「独特な建築様式」「校内規則」「教育上の慣行」「教職員の位階制度」ということばはすべて、学校文化を体現する内容です。学校が行使する権限は国家によって正統(正当)性を保障されているというのはイギリスだけではなく、この島社会における学校にも妥当するでしょう。むろんそれは近代産業社会に共通してみられる現象でもあるのです。なぜならば、産業社会が進化する度合いは学校教育が生みだす労働力の質と量に大きく依存しているからです。

 国家という大きな集団の秩序を維持させるためにはそれだけ教育制度を得体のしれないだれかの手に譲りわたすことができない装置だと認められている証拠でもあるのです。どのような集団においても「異質分子」は存在する。逆に、異質な存在を許さない集団、全員が集団の規範に従順であるような集団は永続することはできない。葛藤や対立があるからこそ、集団を維持させようという力学がはたらくからです。

 学校においても事情は変わらない。大多数が学校文化に同調しようとし、また同調をうながす工夫がなされる。でもどんなに巧妙に装置を駆使して同調を求めたとしても、そこにはかならず異質な存在、同調を拒もうとする生徒集団、あるいは教師集団が出現します。

(集団が一旦構成されると)今度は集団の意思として一定の(または特定の)行為の規準― 行動・態度・信条といった生活様式と言い換えてもよいし、広くは文化構造と呼んでもよいだろう ― を個人が内面化することを要求し期待するのである。そしてこの内面化の過程そのものが、言葉の広い意味では「教育」(教化・規格化・訓練などを含む)と一般に称されるものである。

 いずれにしろ、教師と生徒の関係は学校社会の根幹をなしています。かりにこの関係がくずれるならば、たちまちのうちに学校社会は機能停止におちいってしまう。「教える」行為が内包しているとみなされる権威とそれに対して教えられる側の子どもたちが服従するという関係、この枠組みが学校のすべてであるといっても過言ではないのです。 

 どんなことがあってもこの権威 ― 服従の関係を維持しようとするのは集団内で勢力をもっている側の人びとです。したがって、教師の話すことには侵すことのできない権威があると生徒たちに信じこませることがつづくかぎり学校集団は秩序を保てるのです。

 反対に、秩序維持を最優先させようとするところから、学校にみられる抑圧的な雰囲気や傾向が生まれてくるともいえます。学校において生じる諸問題の多くは、学校社会(集団)がかざす規範への同調化の強制からで生みだされるとおもわれますが、その裏側の事情としては、強制的に規範への同調をうながさなければならないほど、つねに対立や葛藤の危険性がそこに潜在しているということかもしれません。

 ウィリス(イギリスの社会学者)が描いたハマータウン校にも、箸にも棒にもかからない生徒たちが大手を振って闊歩している様子が活写されています。まさに傍若無人のふるまいようでした。そのような生徒たちを、ウィリスはlads(野郎ども)と名づけました。どうあがいたところで出身階級である労働者の身分から抜けだす手段をもたない子どもたちです。そのような「野郎ども」の代表格がジョウィと呼ばれる少年です。彼は学校における、学校に対する自らの距離感を著者との会話でつぎのように語ります。

  ジョウイ…この今のために生きたいんだよ。この若いうちに人生を楽しみたいんだ。出歩くために金がいる。できたら女の子と出歩きたい。今だよ、今、車が欲しいのさ。今、先のことを考えてどうするんだい、五年、十年、十五年、そのときはそのときで考えるさ。ところが他の連中はさ、たとえば、〈耳穴っ子(ears)〉(優等生)なんかはさ、やれ試験だの、それ勉強だので、仲間とつき合うこともしないし、楽しむこともとくにない、それで十五年も辛抱して気がついてみりゃいいおとなになっててね、結婚して所帯もってってぐあいになっちまってるんだ。おれたちとの違いはそこだと思うね。おれたちは今のことを考えてて、この今を楽しもうとしている。やつらときたら、将来のことを考えてて、いつか最高の日がくると思ってるんだね。そりゃ、きっと規則に縛られた生活だろうよ。言ってみりゃ、お役人タイプってとこかな。マイホームを持ったりするようなことは全部おれたちより先にするさ。やつらは名士になる。ああ、お役人タイプの名士になるぜ。おれたちは下積みでウダツがあがんないのさ。(同前)

  このような少年たちが示す学校観は、まさに反学校文化そのものというべきです。がんじがらめに張りめぐらされたフォーマルな文化の網目に対して、すきあらばそれを切りさこうとせぬばかりに学校文化を嫌いぬいているのです。一面では、反学校文化、対抗文化が棲息する余地があるというのは、学校集団の存続には欠かせない条件なのかもしれません。むろんそれは、教師たちにとっては許しがたい状況であるのでしょうが。

 ハマータウン(架空の都市)の時代からはるかに隔たった状況にぼくたちはいるように思われます。この島社会と英国の事情も同日の談ではありません。たしかに、われわれの社会において「学校崩壊」とでもいうべき危機的時期はありましたし、その余波は今なお継続しています。ただ表立って認められないのは、学校文化の一元化(単線化)、あるいは階層化がさらに進んだ結果でもあるでしょう。「格差」社会などといわれた事態がいっそう進化したため、それが常態となってしまって、あからさまに問題を深刻に受け止められなくなったともいえそうです。

 学校をめぐる問題が深く静かに先行してしまったような現在、事態はさらに深刻の度を増しているといえるでしょう。この島社会では猛烈な「少子化」が進行しています。「一定数による集団」によって構成(形成)されてきた学校も、この外的要因によって核心部分で変化せざるを得なくなっています。また少子化に見合った学校数を実現できているのかどうか、この問題も学校を根底から変えてしまう要素をはらんでいます。

 これまで学校がになってきた役割、資本や文化の再生産という機能は、経済社会の変質によって新たな方向をもとめざるを得なくなってきます。第一の波(狩猟社会)、第二の波(農業社会)、第三の波(工業社会)につづく第四の波はどんな社会なんでしょうか。その姿が見えるようで見えないのが今でしょう。「情報化」のその先になにが待ち構えているのでしょうか。人間性を放棄しないで、この先をどのように生きるか、いきられるか、それは学校の課題そのものです。

IIIIIIIIIIIIIIIIIII

試験勉強は堕落

 ケーベル博士は、試験勉強は勉強の堕落という意見であったから、試験などには一向重きを置かなかった。白紙の答案に対して、哲学はそう簡単にわかるものではない、白紙の答案はよい答案である、と云って八十点を与えたり、試験に欠席しても、事情を述べれば点が貰えるという時代さえあった。口頭試験の時、何を聞いても答えの出来ぬ学生に、それでは君に答えの出来る問題を出そう、一体何点欲しいのだ、と聞かれた。正直に六十点あれば結構ですと答えたら、よろしいと云って、即座に六十点くれたなどという話は、たしかに西洋人離れがしている。井上巽軒博士などはこういう流儀に不満で、あなたは惜しげもなく百点をやられるが、私にはそんなことは到底出来ないと云うと、ケーベル博士は笑って、それじゃ私も来年から三十点均一にしましょうか、と更に問題にしなかった。こんな自由な態度で試験に臨んだ者は、恐らく他に一人もあるまい。(柴田宵曲『明治の話題』ちくま学芸文庫、2006年)(引用文は現代仮名に改めた)

 *ケーベル博士(1848~1923)=ドイツの哲学者。ロシアに生まれ,横浜に没。モスクワ高等音楽院卒業後,イェーナ,ハイデルベルク両大学で哲学,文学を学ぶ。1893年東京帝国大学教授として来日,その教養と人格で学生を感化,大正期の知識人に大きな影響を与えた。《ケーベル博士小品集》(1919年―1924年)を残し,夏目漱石に随筆〈ケーベル先生〉がある。(マイペディア)

  *柴田宵曲(しばた・しょうきょく)(1898~1966)=日本橋の商家に生まれる。中学校卒業後、上の図書館に通い万巻の書を読む。独学で俳句・短歌に精通し、後にホトトギス社に入る。『子規全集』の編纂に尽力した人。『柴田宵曲文集』全八巻(小沢書店刊)。

 学校といえば子規も落第生でした。大学予備門(第一高等中学校、のちの旧制第一高等学校の前身。法・理・医・文の四学部とともに東京大学(1877-1886)を構成する)の入学試験を明治十七年九月にうけました。あらかじめ「英語はダメ(力不足)」と自覚していたが、度胸試しでの受験だった。それでも合格したそうですね。(このあたりにもおもしろいエピソードがありますが、いずれまたの機会に)

 「一緒に行った連中が片隅の机に並んで陣取り、互いに気脈を通ずる約束で、隣りの方からむづかしい字の訳を伝えて来る。或字の訳を「ホーカン」と教えられて、幇間と書いて出して置いたが、それは法官であったらしいというような滑稽が「墨汁一滴」に書いてある」(同上)

 子規と漱石は同級。漱石は子規よりは勤勉だったそうですが、「下読など殆ど遣らずに、一学期から一学期へ辛うじて綱渡りしていた」という始末。

子規

 その子規です。「昔から学校はそれ程いやでもなかったが、試験という厭な事のあるため、遂には学校という語が既に一種の不愉快な感を起すほどになってしまった」「余は今でも時々学校の夢を見る。それがいつでも試験に困しめられる夢だ」(同上)

  時鳥(ほととぎす)啼くや伏屋の受験生(尾崎紅葉)

    読んだノート読まぬノートや子規(ほととぎす)(沼波瓊音)

  「支邦の科挙ほどではないにせよ、試験が青年の心を蝕んだ分量も尠少ではなかったろうと思う」というのは、その被害をより少なくしか受けなかったであろう宵曲の感慨です。このブログの別のところで触れましたが、宵曲は開成中学に進んだが家の都合で数か月後に退学し、それ以降は上野の図書館に通いつめ万巻の書を読破したという傑物でした。  

 漱石も落第(留年)組でした。師であった人を描いた「ケーベル先生の告別」から一部を。

(ケーベル先生は今日きょう(八月十二日)日本を去るはずになっている。しかし先生はもう二、三日まえから東京にはいないだろう。先生は虚儀虚礼をきらう念の強い人である。二十年前大学の招聘しょうへいに応じてドイツを立つ時にも、先生の気性を知っている友人は一人ひとり停車場ステーションへ送りに来なかったという話である。先生は影のごとく静かに日本へ来て、また影のごとくこっそり日本を去る気らしい。(中略)すべてこんなふうにでき上がっている先生にいちばん大事なものは、人と人を結びつける愛と情けだけである。ことに先生は自分の教えてきた日本の学生がいちばん好きらしくみえる。(⤵️)

(⤴️)私が十五日の晩に、先生の家を辞して帰ろうとした時、自分は今日本を去るに臨んで、ただ簡単に自分の朋友、ことに自分の指導を受けた学生に、「さようならごきげんよう」という一句を残して行きたいから、それを朝日新聞に書いてくれないかと頼まれた。先生はそのほかの事を言うのはいやだというのである。また言う必要がないというのである。同時に広告欄にその文句を出すのも好まないというのである。私はやむをえないから、ここに先生の許諾を得て、「さようならごきげんよう」のほかに、私自身の言葉を蛇足だそくながらつけ加えて、先生の告別の辞が、先生の希望どおり、先生の薫陶くんとうを受けた多くの人々の目に留まるように取り計らうのである。そうしてその多くの人々に代わって、先生につつがなき航海と、穏やかな余生とを、心から祈るのである(漱石「ケーベル先生の告別」『硝子戸の中』所収)

 明治時代がおおらかだったのではないでしょう。いつの時代にもケーベル先生はいたし、反ケーベル先生もいました。教育に向ける姿勢というか、教育をなんと考えるかという根本の哲学に決定的な相違があるのですね。ぼくは「教師」じゃありませんでしたが、こころはケーベル先生派でしたね。落とすための「試験」ほど嫌なものはありませんでしたから。あつかわれるのが瞬間の問題か人生の問題か、それが問われるのでしょう。

_______________

ここでは、百年一日ですよ

 十年一日、というのが世間の相場です。だが、政治の世界や役人の世界ではちがう。以下の記事は「読売」という新聞社が乗せた記事だから驚くのではない。どんなところにもまとももいれば、頓珍漢で慇懃無礼もいるという例証に過ぎない。いまにつづく嘘つきとマヤカシの万世一系ですね。嘘つきはいまもなおイケシャーシャーと嘯(うそぶ)いている。昔も今も変わらぬものは、立て板に水と流れ出る 嘘も方便(無骨)

 小学校で先生が子供たちを諭した。「ひとが嫌がることを進んでしなさい」。ある男の子は教えを守るべく、女の子のスカートをまくって歩いたという◆実話か、誰かの創作か、国語学者の見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)さんが著書「ことばの海をゆく」(朝日選書)に書き留めている。「ひとが(するのを)嫌がることを」の意味で先生が表現を縮めて話したのを、「ひとが(されて)嫌がることを」と勘違いしたらしい◆縮めた物言いとは誤解を招きやすいもので、「消えた年金」の公約論争もそうだろう。来年3月末までに記録の名寄せを終え、持ち主をすべて特定することを政府は約束した―一般にはそう受け止められてきた◆全体の2割、約1000万件が特定困難と判明し、政府は釈明に追われている。年度内の完了を約束したのは記録の点検であって、持ち主の特定ではない。「選挙だから“年度内にすべて”と(表現を)縮めて言ったのだ」(町村信孝官房長官)と◆スカートまくりの子と同じですな、短縮表現を誤解しましたね、と言われて得心のいく有権者はいまい。選挙であればなおさら、聞き手が誤解しない表現を普通は心がけるはずである◆言葉の信頼度?政権の寿命?次なる選挙の獲得議席数?言葉をあいまいに縮めたとき、一緒に縮んでしまったものは、さて何だろう。(07年12月13日  読売新聞「編集手帳」)

  教師も大臣もほんとに「縮めて言った」のだろうか。だから、誤解されたといいたいらしい。でも、よく考えるまでもなく、言いたいことを言っているのであって、誤解の余地がなさそうです。「ひとが嫌がることをせよ」というのは、そのとおりで、子どもが悪さをしたのは教師の言葉をまともに受けたからです。たしかに教師はそんなことを言うはずはないという疑問が一方にありながら、でもあの偉い先生だから嘘を言うはずはないと思ったのです。

 大臣の発言もけっして縮めていったのではない。あの人だからきっと、できるかどうかに頓着なく、「最後の一人まで」と啖呵を切ったのです。短縮形を誤解したほうが悪いなどと言う屁理屈は、そっくりお返ししたい。その証拠に、大臣を擁護し弁解がましい発言をした直後に「言い方が足りなかった」とかいいながら、謝罪?したのはだれだったか。「誤解されたなら、ごめんなさい」というのが口癖になっている政治屋。本音を言っておいて、真意が伝わっていないというのも、盗人猛々しい。

 ようするに、口からでる言葉が死んでいるんです。「口から出任せ」いって、批判されても、ほとぼりが冷めれば問題なしと口を拭ってしまう、その軽薄な根性がすけてみえるようです。軽佻浮薄(軽はずみでうわついている・こと(さま)。(大辞林)「プッツン」したり、「正直言って公約が頭にさっと思い浮かばなかった」などと、はずかしげもなくのたまう党首や総理が国政の任に当たっているのだから、油断も隙もあったものじゃない。

ぼくは受け取らない

 徴収した「税金も年金」もまるで自分の取り分とでも「誤解している」のか、好き放題に山分け、湯水の如く浪費するなどというのは政治家や役人の風上にもおけないといったところで、いけしゃあしゃあとしているのだから、開いた口がふさがらない。いままた、コロナ禍をして「奇貨居くべし」とばかり、湯水のごとくに「税金」を「私的に」利用する。「私的」とは自己宣伝であり、自己主張であり、自己愛であり、自己暗示であり、…。米国から武器を買うのも自己宣伝さ。

  「言葉とはさみは使いよう」といいたのではありません。「使いよう」をいう以前に、言葉に誠実さがあるかないか、それが問われなければ仕方ないのです。だれもが同じ言葉を使えば、その効用は同じだなどということはありえない。その言葉をどういう心持ちで使うのか、言葉を伝えたい相手の側に身を置くというなんでもなさそうな知恵が微塵もなさそうなのはどうしてか。言葉の不誠実はもちろん人間の不誠実の現れです。人間は言葉でできているとぼくは言う。存在を成り立たせている言葉に実がないのは、人間に実がないのであって、これはどう転んでも取り繕うことはできない。自分を大きく見せたがるのは小人の悪弊だが、大きく見せたつもりで、すこしも大きくなっていないことに気がつかないという人間の不出来には驚嘆する。俺は偉いだろと、飼い犬にまで言いふらしているのかもしれないとおもえば、さもしさの心情や哀れを催すね。

戦時下の議事堂前

 これは「国語力」や「会話の方法」の問題などではなく、人間教育の根本から生まれる結果なんだ。自分の言葉で騙る・語る能力を育ててこなかった報いがいま庶民の上に降りかかっているというこの上ない不幸をぼくは託(かこ)っている。形式民主主義の欠陥がもろに噴出しているのです。どうしてこんな奴原(ヤツバラ)が議事堂に屯(たむろ)しているんだと嘆いても始まらない。

  「言葉をあいまいに縮めたとき、一緒に縮んでしまったものは、さて何だろう?」

 パンツのゴムか、言った人の寿命か。はたまた相手に対する敬意の念か。詰問されてもいかようにも逃げられる道を用意していたのは事実でしょう。政治家本人に寄せる信頼は縮むどころか、地に落ちていますよ。しかしだ、尊敬の念が欠如していると、嘆いてみたところで、人に対する敬意の持ち合わせがないのだからと、まるであきらめの気持ちが生じてくる。それが作戦だったか?嘘を四六時中吐いていると、周りも本人も、それがホントだと信じ込むのだから、薬石効なし。あるのは他者への蔑(さげす)みだけなのか。