教室のなかでの解放感

「未来につながる教室―群馬県島小学校」

 《日本じゅうの数しれない小学校の、どの校長先生が、文部大臣の参観申しこみを、にべもなくことわる勇気をもっているだろうか、そして現職の堂々たるコワモテ文部大臣のかわりに、ひとりの若い作家を歓迎するだろうか?

 今日の日本の様ざまな状況に、大臣たちをおくりこんでルポルタージュさせるという企画がたてられた。はじめ文部大臣に、地方のひとつの小学校に行ってもらうことになったが、連絡をうけたその校長先生は、かたくそれをことわった。文部大臣の参観がとくに意味をもつわけでもないだろうという判断があったわけだ。そこで、ぼくはいわば文部大臣のかわりの役割をつとめることになった。(略)

 ぼくは村の国民学校で解放されていなかった、と思う。また教室は教師を鵜匠とし、子供たちを鵜とした鵜飼のようなもので、子供ひとりひとりと教師とのあいだに束縛とにたつながりはあっても子供たち同士の横の自由なつながりはなかった。その二つが両立するなど思ってもみることはできなかったものだ。横のつながりを子供仲間でつけること、それはひそひそ内緒話をすることにすぎなかった。それはむしろ教室の敵だった。

 教室のなかでの解放感、子供どうしの横のつながりが、先生との縦のつながりをさまたげるどころか、かえってそれをおしすすめるという感覚、それだけでも、もし島小学校が日本の戦後の初等教育の一般につうずるものなら、ぼくは戦争中の国民学校教育に怯えて暗い生活をおくったものとして、戦後の新教育の小学生たちを祝福したいのである。戦後の子供の世界には暗さの種がひとつだけは少ないのだから。

「未来誕生」

 これらのことは島小学校だけの独自のものというべきでないかもしれない。しかし、僕が斎藤さんと一緒に利根川を渡し舟でわたり分校に行ってみた六年生の国語の授業には、まさに島小学校の面目があった。

 分校の六年生二十人は女の先生の指導で、チエホフ作・神西清訳「カシタンカ」という三十ペエジほどの童話をよんでいる。すでにその前の時間までに、言葉の解釈とか文章の理解とかの段階は終っている。そして、この段階までがぼくらの小学生のころの国語の授業だったのだが、島小学校での真の授業は、そこからはじまるのである》(大江健三郎「未来につながる教室」)

 作家の大江健三郎さんが島小学校を訪れたのは昭和三十七年五月で、斎藤さんが島小に着任して十年が経過していました。そして斎藤さんが境町東小学校に移られたのは翌年のことでした。斎藤さんは、この大江さんの参観とルポについて書いておられます。「作家の大江健三郎氏は、昭和三十七年五月に、雑誌『文藝春秋』の企画で二日間島小学校を参観した。そして『文藝春秋』七月号に「未来につながる教室」というルポルタージュを書いた」(斎藤喜博『可能性に生きる』)

 「教室で困ってしまい考えこんでいる先生を美しく感じた体験はこれがはじめてだった」

「未来誕生」

「なぜクラスの子供たちがこのように生き生きと組織されているのか?自分の意見がのりこえられても、なぜその子供は屈辱感とともに黙りこまないのか?つねに黙ってにこにこしながら発言する子供をみまもっている、いわば陽かげの子供たちに、疎外感がないのはなぜか?」

 大江さんは数々の感嘆と驚嘆を交えてこのルポを書かれています。たくさんの教師たちが公開授業に参加していました。そのなかに明星学園の「絵の先生」がおられ、大江さんにつぎのような島小批判をされたそうです。

 「明星では授業のあいだに、先生が芸術や学問、専門の分野にすすんで自分を肥やすことができる。しかし島小学校の教師たちはモラリッシュで犠牲的な精神にみちている」

 教師はもっとエゴイスティックであるべきで、「子供のために、という考え方は古いし、このままだと島小学校の先生たちはしだいに自分を貧しくしてゆき、斉藤さんがいなくなれば永つづきはしないだろう」

 「参観の教師たちすべてが去った二日目の夕暮、子供たちが校長先生や自分たちの先生の躰にちょっとさわりにきたりしていた解放的な教員室で、斎藤さんをかこんだ先生たちとぼくはしばらく静かに話す時間をもてた。斎藤さんのいう良い教師の条件とは、頭の良い、育ちの良い、美しい教師ということだそうだが、そこに集まっているおだやかな先生たちには、確かにその印象があった。これらの島小学校の教師たちは、その全生活を教育に投入しているのだ、と斎藤さんはいった。教材を研究するために熱情をかたむけ、仲間、校長、専門家に協力をもとめ、そのうえで子供たちと格闘している教師たちなのだと。そして明星学園の先生が不安に感じたことにたいする斎藤さんの回答はじつにはっきりしていた、島小学校の先生の精神が貧困であるものか、現場で自分をつくりあげることのほかに教師になにがありえよう?」(大江)

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 ここで戦中から戦後にかけて、日本の学校教師はどのように生き抜いてきたのかという問題に逢着します。斎藤さんが言われているように、大半の教師たちは「戦争のあやまりであることを少しも知らなかった」のではなかったか。これを別の言い方で表せば、時流・時局に乗っていたということです。戦争が間違いであるということも、この戦争が無謀であるということも、ほとんどの教師にはわからなかったと思う。あまりにも深く体制のなかに入り込んでいたからです。  

 戦争中には「聖戦」に心身を捧げ、戦後になると「平和と民主主義」に命をかけた(つもりになった)のだろうと思うばかりです。それでなんの問題があるものか、という気分だったかもしれない。にもかかわらず、戦中も戦後も時局や時流に流されず、おのれの仕事に専念した教師もいたでしょう。いずれにしても、他人の言動を、後からとやかく言うことは避けます。

 斎藤さんの、まことに奇妙ですが正直でもある(と、ぼくには思われる)回想です。

 「昭和十九年になると、村にも空襲警報が出されるようになった。そのうちに銀色の美しいB29が一機、村の上空をゆうゆうと通っていくのがみえるようになった。軍部の話では、日本は力があるから敵機の一機や二機はかまわず飛ばせておくのだということだった。大本営発表も大戦果の発表ばかりだった。だから愚かな私は、ほんとうに敵機の一機や二機はかまわずにおくのだと思っていた。

 しかし年老いた私の父はそうはいわなかった。「いくさに勝っているのなら敵の飛行機がくるはずがないではないか。負けてるからくるのだ」といいきっていた。(中略)

 このことは、私にとってはのちに痛い教訓となった。田舎にいて、しかも教師という狭い世界にいて、ツンボ(ママ)桟敷におかれたということはあるが、ツンボ桟敷におかれたということは老人たちも同じである。ところがその人たちが、みごとに事実で判断していたのに、私にはそれができなかったということは、私がまだいかにも教師であったということである。教師としての思いあがりであったということである」  

 ことさらに戦時中のエピソードにふれましたが、特別の意味があるわけではありません。普段の行動が戦争中にもそのまま出ただけだということをいいたかったんです。非常時だから、非常時用の行動があるわけではない。平常時の「教室」でやっているそのままが非常事態の「教室」でも行われるのだということです。たくさんの先輩教師が戦時中にとった行動を知れば知るほど、そのようにいえるようです。それならば、ぼくたちの生きている現在は「非常時」なのか、「平常時」なのか。

 大江健三郎さんのルポは立派な教育論であり、授業論だと、ぼくはくりかえして読んできました。ここではほんの少しばかりの引用になりましたが、詳細は「未来につながる教室」を読むほかありません。「明星の先生」が出てきます。彼は高名な教師でしたが、斎藤さんは遠慮なく批判し、大江さんも同調するのです。この時期は「明星学園」がとても元気は時代でもあったのです。(蛇足 もう何十年になりますか、大江さんに来ていただき、いろいろな話を若い人といっしょに伺う機会がありました。それ以前にもなんどかお会いし、教えられたことがありました。今は昔の話です)

 ここにもまた、一枚の「教師の残映」が記録されていました。

学校はだれのものか

 「緊急事態」だからと見逃され(許され)ているのですけれども、二月末に時のPMが「全国一斉休校」を打ち出し、なんの異議も意義も見いだせないままに、「休校状態」はいまだにつづいています。これはどういうことなんだという嫌な気が今もしているのです。(公立)小中学校は、基本的には地方自治体の設置学校です。したがって、その機能停止や改廃を決める権限も一義的には「地方公共団体(教育委員会)」にあるはずです。にもかかわらず「一斉休校」という、根拠も効果も検討も検証もされないままに打ち出された「無謀な政策」は「憲法違反」に当たるというほどの問題だとぼくには思われます。(「教育の機会均等を侵す」行為、さらには…ととれますから)

 そこまでするのは大げさだという人もいるでしょうし、休校措置は妥当であったという人もいるでしょう。「休業自粛」とは趣が異なるかもしれませんし、結果として「休校」やむなしということであっても、それをほかでもない「PM」が宣言し、それに無抵抗で島全体がしたがうとき、いったい「自治体」とはなんでしょうか。政府や中央官庁の下請け行政に甘んじていること自体が「自治権」の放棄であり、「教育権」の蹂躙だというほかないのです。三割自治と揶揄されてきましたが、そんな上等なものではなかった。無自治体というアホらしい嬌態ですね、これは。「税収権」も奪われたままです。痴方交付税という「おためごかし」でお上から「いただいている」始末です。

 いったい、学校はだれのものか。子どもが学ぶ場所、子どもを教育するところ、いや教師の職場である、とんでもない、国が発展するために作られた制度だと議論は沸騰するのかも知れません。じつに奇妙な話です。学校教育が始められてから一五〇年も経過しようというのに、いまだにこのような疑問がときとして大まじめに出されるのです。(議論されるならまだしも、今ではほとんど暗黙の裡に、国家の管轄下にあるのです)

 考えてみれば、こんな疑問は不思議でもなんでもないのかもしれません。だれかのものと決めつけようとすることこそが奇妙だといえます。ひとそれぞれに、自分の立場にたって、「学校教育」を論じようとするのですから、だれもが納得する結論がでることはないといってみたらどうか。ようするに、どのような視点から学校を見る(論じる)かが重要だといってみたくなります。

 子どもの成長や発達を願う立場からみれば、学校は子ども(その関わりでいうなら、親たち)のためのものだといえます。教師がいてこそ、子どもの成長や発達に資する教育が可能となる(そのように懇望してやまない)というなら、それは教師がいなければなりたたない組織(教師の職場)であると考えられます。しかし、子どもの成長を可能にする教師の役割を容認するにしても、けっして個々人の努力や情熱だけでは一日だって維持できないのはいうまでもありません。それがじゅぶんに達成されるためには莫大な経費や施設・設備が欠かせない。

 ここまできて、学校はけっしてだれだれのものと、一義的に所有者を特定できないことがわかります。そんなことはあたりまえだといわれそうですが、この国における学校教育がつねに問題をかかえており、ときには驚くばかりの愚劣な議論が政治の領域でなされるのをみるにつけ、学校は「俺のものだ」という我が物顔の主義主張がまかり通ってきたともいえるのです。現に、通っている。

 問題は「学校」という言葉で何が含まれているかということでしょう。建物も土地も「学校」だし、教室の仕事も、子どもの学習(教育)も「学校」に含まれます。内的・外的要素を誰かが「独り占め」することは許されないという意味で、だれのものでもないというのです。

 教育の政治的中立性とはどういうことか。いかなる党派であれ、ある種の政治権力が学校教育を、どのような方法を使おうとも、支配することをいさぎよしとしない、民主主義社会のためのひとつの原理を示すものだと考えられます。国家権力であれ、一人ひとりの教師のそれであれ、はたまた子どもや親たちの意向であれ、それらが学校教育をかたよった方向に導かないためにはこの原理をないがしろにしてはならないことを教えています。

 ではなぜ、このような原理が大きな価値をもつのか、もたされているのか。いうまでもなく、特定の権力(勢力や党派といってもいい)が学校教育を牛耳り、そのあり方をきわめていびつなかたちにゆがめてしまうことがあったからです。その具体例はあげるまでもないでしょう。学校教育をみずからの思想や教義や利益のための道具とした事例は枚挙にいとまなしです。明治以降の学校教育史とは、一面ではまさしく学校・教育が政争の具とされてきた歴史でもあったし、その流れは今日においてもまったく変わりません。はからずも今回、隠されていた問題が一瞬にしろ、表に浮上したと思われたのですが、だれも何ともいわない。

 「何か(コロナ)の事情」で「休校」せざるをえないときもあるでしょう。でもそのためにはバカが「勝手に」突然「宣言」していいことにはならない。こんなことを認めていたら、次は何をしだすか。(散々今までしてきたではないか)おのれの不法行為は一切認めないという「傍若無人」の行状を一刻も早く阻止しなければならないのではないですか。「始末に負えない」ではなく、「始末に負える」としなければ。

 奇怪で魔訶不思議な国の「オキナ」の気分にぼくはなっています。

偶像は壊されるものだ

 山びこ学校を生きた「卒業生」の証言

 《私たちは、この三年間、ほんものの勉強をさせてもらったのです。たとえ、試験の点数が悪かろうと、頭のまわり方が少々鈍かろうと。私たち四十三名は、ほんものの勉強をさせてもらったのです。それが証拠には、今では誰一人として、「勝手だべ。」などという人はいません。人の悪口をかげでこそこそいったりする人はいません。ごまかして自分だけ徳をしようなどという人はいません。/ 私たちが中学校で習ったことは、人間の生命というものは、すばらしく大事なものだということでした。そしてそのすばらしく大事な生命も、生きて行く態度をまちがえば、さっぱりねうちのないものだということをならったのです》(佐藤籐三郎「答辞」1951年3月22日)

 《当時、われわれの間に一つの偶像が存在していたわけだね。無着先生は農村教師なんだ、農村を改革する教師なんだ、という一つの偶像だったわけだ。「無着先生は東京へ行ってもっと勉強して、地方へ帰って先生をするだろう」という考えがあったわけだね。ところが、先生自身のあれからの生き方を追求していった場合、しだいに疑問に思うようになった》《「山びこ学校に耐えられない」から飛び出したといっても間違いじゃないという気がするんですがね。ぼくは、先生がそう正直にいった方がいいと思うな。おれは自分を「耐えられなかった」とはっきりいえる。やまびこ学校のああした教育の中で生きてきたんだといわれるごとに、おれは耐えることができなかった。はっきりさせ、訣別するためにおれは『25歳になりました』を書いたわけだ》(佐藤籐三郎「朝日ジャーナル」1960・3・27号)

 証言:「山びこ学校」の生徒で答辞も読んだ農民作家、佐藤藤三郎さん(掲載時、76歳)

 私たちの小学校(国民学校)には、校長と教頭と教務主任ぐらいしか正規の免許を持った先生はいませんでした。先生は軍事体制と敗戦の渦中ですぐ代わるし、教科書を墨で塗って、卒業まで本格的な教育を受ける機会はなかった。/ ところが中学に入って無着先生の型破りな授業を受けて、こんな先生もいるのかと驚きました。教科書も使わず、授業は横道にそれることが度々あり、「自分の頭で考えろ」「何でもなぜと考える人になれ」と言われ、全員が「無着イズム」にすっかりひかれた。/ 子どもと一緒に無我夢中で生活したいわゆる熱血先生で、バランスに欠けていたことも事実ですが、それ以上のものもあった。中学卒業後、私は定時制高校に進みましたが、英単語を覚えるとか、漢字を書くとか、そういう学力を高める教育は受けてないことに気付き迷いました。知識の量には他の生徒と大きな差があった。確かに「なぜ」と考えるのはすべての学問の基本ですし、社会に疑問を抱くことも、書くことも大切だと今も思います。

 でも、自分たちの生活を見つめるあの教育だけでは結局、世の中の経済第一主義には勝てなかった。村でいくら頑張っても生活は豊かにならず、過疎化の流れに勝てなかった。母校の閉校は、寂しいなんてもんじゃない。過疎を導いた社会への怒りですね。(朝日DIGITAL・12/04/23)

*佐藤藤三郎(1935年生まれ) 昭和後期-平成時代の農民,評論家。昭和10年10月26日生まれ。山形県山元中学で無着成恭(むちゃく-せいきょう)に教えをうけ,昭和26年文集「山びこ学校」に生活記録がのる。上山(かみのやま)農高定時制に在学中,農民詩を発表。以後,農業のかたわら著作活動をつづける。上山市教育委員,上山市農協理事。著作に「底流からの証言」「まぼろしの村」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

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《東京へでてきてからのぼくは、〈無着はにげだしたのだ〉とか、〈無着は退歩した〉とか、〈なにもやっていない〉とか、もっとひどいものになると、〈無着は有名になるために『山びこ学校』をつくったのだ〉とか、〈無着は『山びこ学校』をふみ台にしただけだ〉などというひなんめいたことばをきかされつづけてきました。そのようなときでも、そういうことばになるべく耳をかさずに、「ほんものの教育とはなにか」という問題を考えるように努力してきました。その結果のひとつがこの本です。

 この本には『続・山びこ学校』という名まえをつけました。それはなぜかといえば、この本も、まえの本も教師としての無着成恭が自分の教育理念を主張するために編集したものだからです。つまり、この本にも、まえの本にも無着成恭がいるという意味で、しかし、『山びこ学校』からはじまって『続・山びこ学校』にいたるまでのあいだ、教師としてのぼくはおおきな変革をしいられてきました。しかたのないことだったのです。ここのところだけは、読者のみなさんにぜひとも語っておきたいのです。

 『山びこ学校』は、戦前にはじまった生活つづり方運動が、戦後の解放的なムードのなかで、いっきょに開花したものであるとか、戦後民主主義教育のピークであるとか、文学としてもよむにたえるものであるとか、さまざまに評価されてきました。いずれも一面の真理をついていて、ぼくはこのような評価を否定しはしません。だが、教師としてのぼく自身はこの『山びこ学校』を戦後の生活経験主義的な教育の所産であるとみています。

 …ぼくは、「社会科でもとめているような、ほんものの生活態度を発見させる、一つの手がかりをつづり方にもとめて」子どもに作文をかかせたのでした。つまり、子どもたちが自分の、そして自分をとりまく人びとの生活を観察し、考えあって、行動までに発展させていくための素材として作文をつくらせたのでした。

 ぼくは社会科は、すべての子どもが自分たちの生活をただしく認識するためであり、生活をただしく認識すれば、そのさきはおのずから問題解決の方向がでてくるはずだという仮説のもとにおこなわれたわけです》(無着成恭編『続・山びこ学校』麦書房、1970年)

 1954年4月、無着さんは山元村を出て、上京。駒沢大学仏教学部に編入学します。(生家は禅宗の沢泉寺)1956年3月、明星学園において、彼は寒川さん(道夫。1910-1977)(生活綴り方を実践した教師、この人についてもいずれは駄文を書く予定)に出逢う。その時の明星学園校長は照井猪一郎という、秋田出身の人でした。

 1970年、明星学園小学校長を最後に寒川さんは退職。1977年病気のために亡くなられました。その後、無着さんは同学園小中学校の教頭となり、遠藤豊校長と「明星教育」をつづけますが、1983年には相次いで辞職(追放というべきか)。遠藤さんは「自由の森学園」を作り校長となる。無着さんは教師を辞め、僧侶生活に入ります。(無着氏のその後については、別のところで書いています。機会を設けてさらに「山びこ学校」に関する駄文を書く予定です)

*(明星学園=大正13年5月15日、成城学園の教師であった、赤井米吉・照井猪一郎・照井げん・山本徳行の4人によって、井の頭の地に創立された。昭和3年4月5日、上田八一郎を初代校長として迎え入れ、旧制中学校を設立、併せて旧制高等女学校を設立する。昭和22年4月、学制改革により、新制中学校、高等学校に改組し、小学校・中学校・高等学校からなる、12年一貫体制を築き今日に至っている)(同学園の旧HPより)(https://www.myojogakuen.ed.jp/about/history

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 失敗をおそれず、自分で判断を

 何度でもくりかえしたいとぼくは考えているのですが、いったい自分はどういう人間であり、どんな人間になろうとしているのか、それをまずこころの根っこにすえておく必要があると思うのです。そのうえで、ぼくたちはどんな時代、どんな集団や社会に生きているのかという状況判断をつねにていねいに点検することが求められます。そのさきに、どんな「国家」にぼくたちは囲繞されているのかという課題に直面するはずです。

 初めに国があるというのはまずいんじゃないですか。ぼくたちは国家に生まれてくるのではないし、ましてその国家のために生き死にするのだという虚構を見据えなければ、自分の座るべき位置がいとも簡単に覆されてしまうでしょう。まず自分です。この「自分」を育てるのが生活における大半の仕事になるともいえるのです。以下に引用するのは、すでに紹介したものですが、なんどでも吟味する値打ちがあると同時に、そうする必要があると考えるのです。

 《私たちは、両親や小学校の先生から「注意しなさい」(ペイ・アテンション)と言われて育つ。子供の頃より、この同じ言葉を強くあるいは優しく命じられながら、大人になっていく。やがては慣れて聞き流すようになるかもしれない。だが、人生においてこれは非常に大事なことである。なぜなら、注意を払うとは、心のエネルギーをどう使うかということであり、このエネルギーの使い方の如何が、自らをどのような自己へと育てるのか、どのような人間になることを学ぶのかを決めるからである。何かに一生懸命に注意を払っているとき、本気で取り組んでいるとき、私たちは、知性、感情、道徳的意識のすべてを動員している。仕事でも、遊びでも、大事な人との交わりにおいても、同じことが起きている。このとき、私たちは、行っていること自体に没頭しているので、自分のことは忘れている。それは楽しいひとときであるかもしれないが、私たちがそれを行うのは、楽しさを求めてではなく、それが広い生の文脈において自分がほんとうにしたいことだからである。つまりそれには「意味が感じられる」。自分という意識は極小になる。しかも、その目的は楽しみにひたることではない。にもかかわらず、私たちが真に幸せに感じるのは、こういうときである》(ベラー他『善い社会』既出)

R.Bellah

 現下に生じている「パンデミック」問題について、さまざまな意見や論評がなされていますが、あまりにも科学や疫学(医学)の内容にかかわるもので、ほとんどはそれを受け入れる準備がない。一方的に流される報道に惑わされ、当局から出される指示などに従うほかないという事態になってしまう。だが、行政や政府から流される「情報」は当事者の発信にもかかわらず、その真偽はまず疑わしい、というよりは、なお誰かの「受け売り」だとぼくたちは考える。言わされているのか、言われたままを流しているのか。

 《私たちは専門家や専門的意見を必要としている。…専門家の意見をどう評価するかを学ぶというのは、市民教育の基本である。…ともかく、専門家の意見を評価することは、物事の手始めにすぎず、結局の所、いちばんの重要事ではない。さまざまな選択の道徳的意味合いを考量することこそが肝要なのである。この点において、家庭や地域共同体のなかで注意を払うことを身につけた市民は、それを一般化して、より広い問題に適用することができる。家庭が民主主義の学校であり、学校が民主的な共同体であるとき、こうした知恵は、すでに学ばれたということである》(同上)

 残念ながらこの指摘に関して、ぼくたちはまだまだ、その道筋の端緒にもついていない状況にある。「専門家」がこもごも、勝手なというか、自己の思い込み(持論)を言っているとしか考えられないようなことが多すぎるし、また「そうかな」と疑問を持つにもかかわらずほとんどが同じ議論のくりかえしに遭遇する。素人目で、奇妙なことを言っているなといいたくなることが多すぎる。こまかいことは言わないが、「外出自粛」が要請され、たしかに「混雑」が見られなくなったように見えるのに「なぜ、感染者数が減じないのか」、「感染者を特定する検査数がどうして増えない(ふやさない)のか」「全国一斉休校の結果はどうであったのか」等々。データもなければ、検証結果も知らされない。これでは何をどうするかという判断材料は皆無だから、当局の指示・命令に従えばいいのだと、ぼくは諾々と受けることはできないのです。大量の情報には「真偽」がいりまじり、専門家の意見には議論の余地もある。そんなとき、ぼくたちはどうすればいいのか。「当面(当分の間じゃなく)の間」が感染状態です。

 ぼくはただいまの「困難な事態」にあって、何よりも指摘したいのは「マスゴミ」報道には気をつけよう、しっかりと「眉につば」をつけておこう、可能ならば、一切黙殺するのも手であろうという姿勢をとるという点です。「マスゴミ封鎖」です。ほとんどが権力(当局)側の広報・宣伝媒体じゃないかとさえ思われる。さもなければ、反(半)体制の立場でしか報じないという偏狭さ。言われるままか、何でも反対か。「中立」はないのは当然で、ありたいのは「中庸」なんです。揺れながら、迷いながらの手探り状態をしばらくはつづける。そのあたり(揺れ揺れ状態)から、始めたい。  

 さらに重要なのは、以下の視点です。

 《責任をもって行動するためには、何が起きているのか、何が私たちの応答(レスポンド)を求めているのかを問わなければならない。神学者のR.H.ニーバーは、著書『責任を負う自己』のなかで次のように論じている。…たいていの場合、私たちは、自分にたいして起こされた出来事を漠然と受け入れるか、周囲の出来事には関わるまいとするかのどちらかの行動をとる。しかし、私たちは、出来事を「解釈」しなければならない。とくに、ここで自分と関わりのある他人が何を考えているのか、その意図を解釈しなければならない。「応答」「解釈」に次ぐ三つ目の要素は、自分の行為が他人に及ぼす働きである。ニーバーはこれを「アカウンタビリティ」と呼んでいる。ところで、私たちが何か行為を起こすとき、たいていそれは、自分とそれまで連続した関係を全然もっていなかった人間や物と、そのときだけ出会って終わりというようなものではない。その文脈はたいていパターン化されたものであり、そこには「社会的連帯」の要素もある》(同上)

 他国では「都市封鎖」「ロックダウン」「外出禁止」などという強制・強硬措置が実施され、「違反」には罰則がともなう。ひるがえって、この社会では「自粛」がお上から「要請」され、やがてそれは「自己規制」に広がり「他者監視」に移行する。「コロナ」は「怖くない」、「正しく恐れよ」といわれて、たかをくくっていた。「五輪開催は既定路線」とまで「コロナ」はなめられていた。だが、一向に事態は改善せず、他国では猛烈な勢いで状況が悪化しているニュースが流されてきた。「五輪開催は無理」と他国からいわれだしたとたんに、「延期(来年も無理じゃ)決定」。その瞬間に「ウイルス」が「蔓延」しだした、これはほんとですか。だれかの作為が働いているんじゃないですか。各国で死屍累々の惨状で、「体育の祭典」もないでしょう。IOCという金と名誉の亡者集団は即解散とはいくまいが。

 他人に指摘されるまでもなく、ぼくは「偏見」から自由ではなく、「偏見」によって生きるほかないと自覚している。でも、どこまでもその「偏見」から解放される「知識」をさがし求めるという「姿勢」、これを貫くことは至難の業ですが、それを中断するわけにはいかないとも考えている。でなければ、この「社会」は「国家」に浸食されるに任せ、いつまでたっても特権(政・官・財)が幅をきかし、人権は危機の淵に置かれつづける。現状はまさにその典型例です。ぼくたちはどんな自治体=社会にしたいんですか。(一億が構成する「自治体」なんて想像すらできない)「そんな面倒なもの(公共)はいらないよ、いきなり国家でいいじゃん」「命令して(マスク・十万円)くれるものが必要なんだ」「動くより、動かされたいのが人間なんだよ」というのが当節の風潮なんですか。

固定は安定

 「われわれは、怠け者なので、固定というものを常に求めてるんです。固定がほしいんです」(鶴見俊輔)

 偏見を持たないことはすばらしいが、それは「人間の分際」では、まずありえない。まちがう危険性をおそれずに、自分流の「判断」をくりかえし下すこと、「試行錯誤」から何が生まれるのか、この「まちがいながら」の態度がぼくたちに求められています。「自分の」「自分で」判断を!「まちがえたっていいじゃないか、人間だもの」(みつを?)

 「さまざまな選択の道徳的意味合いを考量することこそが肝要なのである」

 「自分たちの公園」という意識

 現在、地球規模で大きな災厄に見舞われています。もちろんぼくたちの「社会」もその例外ではありません。「一蓮托生*」という言葉を使うのは適切ではないと思われますが、どういう具合に展開するのか、その帰趨はいまだに定かではなさそうです。専門家や政治家、さらには官僚までもが入り乱れて、百花繚乱というべきか船頭多くしてというべきか、混乱を深めているのが実情ではないでしょうか。一人の当事者として、身の行く末は他人にあずけないのを旨としてきた人間としては、なにかと批判や文句を要路にある人々にぶつけたい気もしますが、ままよ、他人は他人、だから他人任せは凶と出るだろうくらいの気持ちで、なにかにつけ注意を払っているのです。

上野「恩賜公園」

 連日、さまざまな情報がながされ、問題にかかわるデータが報告されていますが、ぼくはすなおに受け入れる気がしないのです。PCR(polymerase chain reaction)検査の内容を詳しく聞かされることもなく、被験者数が多いとか少ないとか。また「本日は感染者数が何名あった。累計で何名だ」とかうるさいくらいですが、その実態(中身)はまったく知らされない。素人には知らさない、行政や医療の関係者(専門家)は「市民は無知である、無知は美徳だ」とでも思っているのか、誠実ではありませんね。ネット情報でぼくが居住するC県では検査所を設けたが、「場所は非公開」だと役所が言っている。バカも休み休み言えと言いたいね。知らせると殺到するからというのがその理由。住民(市民・県民)を救う気がないというほかない。表立って発言する人たちはどこに腰を据えているのか、判然としません。というより、わが身可愛さで、当然ですが、それもこれも職務(住民への奉仕=公務員の仕事)を果たしたといわれたうえでの話じゃないか。

これも「恩賜」だ

 「国民一人あて一律何万円の給付金」で政争だか政治取引をしている惨状。「国民」を人質にして、覇を競うという退廃のきわみです。さすがのノンポリ人間も、こんな政治や行政になけなしの税金を取られているかと考えると情けなくなる。どうしてこうなるの?という核心的な問題を考えるには時も悪いし、場面も悪いけど、だからこそと、この島の懸案を季節外れと知りながら提示するのです。国家が「私人」の一挙手一投足をとやかくいうのだけは御免被る。要は「私」が育ち切っていないから「官」がのさばる。私の集まりである「公」があいまいだから「国」がでしゃばる。国難ではあっても「社難」とは言わないのはなぜか。「社」は「会社」を指すのではない。「社会」そのもの、「公共」をいうのでしょう。

*「よい行いをした者は極楽浄土に往生して、同じ蓮の花の上に身を託し生まれ変わること。転じて、事の善悪にかかわらず仲間として行動や運命をともにすること。▽もと仏教語。「托」は、よりどころとする、身をよせる意。「託」とも書く」(デジタル大辞泉)

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 《さらに日本の場合厄介なのは、日本にはパブリックなものの意識がないことです。よくわかりませんがヨーロッパには都市国家の精神というものが生きていますね。たとえば「自分たち」の公園というようなものがある。具体的にある。自分たちの公園があれば、自分たちの町があり、自分たちの国につながる。われわれには「自分の」というものしかない。三坪の庭をやっと確保して、庭だ庭だと叫び、そこで安心立命している。どうも成り立ちが違うのではないだろうか、よく日本人は公徳心がない、といわれますが、このないということはどうも根が深いようです。

 私の住んでいる大阪の東郊の東大阪市というところは、街路樹が非常に少ないところなのですが、市役所のひとにきいたら、植えても植えても抜かれてしまうからだそうです。これなど、道徳の問題として考えるよりも、社会人間としての成り立ちが違うんだと考えた方が、わかりやすいようです。日本は国家がなくなると悲惨な国民だ、という言い方ができるかも知れない。いい悪いの問題ではありません。事実問題です。

 そこでこうした日本人の条件を考えながら、これからの国家というものを考えなければならないわけです。といって別段いい智恵があるわけではない。

 それは、もう一ぺん市民社会教育をしなおす、という方法です。つまり「自分たちの」というヨーロッパ風の意識を国民総がかりで建設することです。われわれはたやすく市民社会という言葉を口にするが、そんなもの実はほとんど身についていない。市民社会はヨーロッパでは自然発生的歴史的なものだが、われわれにはまったくの借り衣だった。それを、できるかどうか知らないが、とにかく皮膚の一部にまで持っていこうじゃないか、というのは、どうでしょう。

 街路樹の二本や三本抜くかも知れん国民に適合した国家というのは、実は警察国家です。しかしわれわれはこれにはコリゴリしている。警察国家は願い下げだ。となれば、われわれは歯をくいしばっても本当の市民社会を一度つくってみよう。その上でもう一ぺん国家というものを考えてみよう。この方法しかありません》(「日本史から見た国家」『司馬遼太郎が考えたこと』4 に所収、新潮文庫、2005年)

 家庭内(私的)の問題に国家が土足で踏み込んでくるという驚天動地の事態に対して、ぼくたちは存外平気というか無関心であるようです。暢気に構えていると、知らぬ間に「自由は凍結」「私的空間は剥奪」されるのですが、それさえ一気呵成に強行されないかぎり、緩やかに穏やかにやられると、ぼくたちは馴致されてしまうのです。まるで「ぬるま湯のカエル」状態です。気づいたら茹(ゆ)で上がっていたということになります。そうなっては「万事休す」。前世代は「コリゴリ」したはずですが。その「コリゴリ」が(戦後生まれに)継承されていないのだろうか。

 商店街の休業要請がいつの間にか「強制」となり、営業自粛が「禁止」となっていく。都内や県外から「パチンコ移民」多数発生で、I 県が困っていると。また県外者が来ると県境で「検温」という自治体(Y県)も出ています。藩体制に逆戻りです。あちこちの「自粛」の街頭内外に警察官(番所役人)の姿が見え隠れしています。それがどうしたといわれるかもしれない。「コリゴリ」したい連中が劣島に「門前雀羅をなす」とは正反対の横行三昧か。

 「街路樹の二本や三本抜くかも知れん国民に適合した国家というのは、実は警察国家です」というけれど、今はまだまだそこまで進んでいないといえるか、はたして何歩手前か。「私」があって「私たち」。「私たち」がつくるのが「公共空間(社会)」です。国家は無用(とぼくは言いたい気がしますが)とはいうまい。でも、それが蒙昧な政治家・行政者に拉致されたらどうします、「市民」として。

 「マスク配布」や「十万円給付」は「国」の仕事じゃないはずです。「地方(痴呆)自治体」は何をするための行政単位か。他国では「大統領」と「州知事」がケンカもどきという。「本当の市民社会」に寄り添っていこうとしているのは、はたしてどちらか。「自治」を武器に「管の支配勢力」と闘ったらどうか。今の混乱時はその時期ではないとでもいうのか。「国税」というけれど、それはもともとは住民が一時あずけたもので、本来は「自治(自分たちの生活)」のためのものですよ。(ノンポリにふさわしくない駄弁ですが、こんなことを愚考してきたのだという自省の意味で書いておきます)

「左前」は縁起が悪い?

 女性支配の観念世界に一貫するものとして、まず、右側に対する左側の優位を挙げることができる。左は女性の受動的な性質を、右は男性の能動的性質を示す。(略)/次に夜の胎内から生まれた昼に対する夜の優位という観念もまた、同一の根本原理の第二の表明として劣らず重要である。これと逆の関係は女性支配の世界には完全に矛盾するであろう。すでに古代人は夜の優位を左の優位に、さらに両者を母の優位になぞらえているし、…(略)祭儀の執行において、月は太陽よりも、受胎する大地は受精する海よりも、自然生活における死の暗い側面は、生成の明るい側面よりも、死者は生者よりも、葬礼は祝賀よりも重きを置かれている。(バハオーフェン*『母権制序説』) 

(*Johann Jakob Bachofen (1815~1887)スイスの古代法学者。主著『母権制序説』1861。他に『古代墳墓象徴試論』『タナクイル伝承』など)

 右手の優位―right(右)はどうしてright(正しい)のか?

 バハオーフェンの「母権論」はわたしたちの国でもかなり早くから受け入れられていました。ことに大正期にがそうでした。人類の家族史は父権制一本槍ではなく、それ以前には女性支配(母権制)がはっきりと認められるとするのが彼の考察です。「母権制」とは、①娘による相続権の独占、②娘だけが老齢の両親を扶養する義務を負う、③婚姻財産を持参するのは男性であり、それを用意するのは姉妹たちである、という慣行から成り立っているとされます。そして、このような「母権制」は「父権制」より古い文化(古層)に属するものであり、その繁栄の後に「父権制」の圧倒的優位の前に消え去ったというのです。

 そのことはさておき、今日の「人権論」の前提になっている「右手の優位」について、もう少し考えてみたいと思います。

□強者の人権?弱者の人権? ―人権の根拠を問う―

Ⅰ―「人」権の根拠(「基礎づけ主義」の限界を超えて)

*じん‐けん【人権】(human rights): 人間が人間として生れながらに持っている権利。実定法上の権利のように自由に剥奪または制限されない。基本的人権。(広辞苑)

1「人」とはだれのことか? 

ⅰ)「男性(homme)および男性市民(citoyen)の権利の宣言」(1789.8)(所謂フランス人権宣言)⇔それに対するOlympe de Gougesの告発:「女性(femme)および女性市民(citoyenne)の諸権利の宣言」(1791.9)  

◆man(homme・Mensch)→人間→男性   

ⅱ)Catharine MacKinnon の告発

①「国際人権法」の実態と限界:《実質的にも形式的にも、人権の概念のなかに女性は含まれず、事実上、女性が不在のまま人間とは何か、権利とは何かが規定されています。人類の半分を形成する人々の尊厳、不可侵性、安全、生命などへの制度的、組織的侵害に対して適用されない人権の原理をみとめるということは、いったいどういうことなのでしょうか》(マッキノン「戦時の犯罪、平時の犯罪」『人権について』所収、みすず書房刊)

②形式的平等概念の欺瞞性:平等とは同一であることではなくて、階層序列(優劣)がないこと。

2なぜ、Human Rightであって、Human Leftではないのか?

ⅰ)右(right)は正義(right)だとされています。いったいどうしてだろう。

 《われわれの両手ほどよく似ているものがあるだろうか。しかし、両者の間にはなんという驚くべき不平等が存在していることだろう。右手には名誉と、嬉しがらせるような名称と、特権が与えられている。右手が行為し、命じ、「取る」のに対して、左手は、侮辱され、賤しい補助的役目を与えられている。左手は単独では何もできず、ただ、援助し、支え、「持つ」だけである》(ロベール・エルツ『右手の優越』既出)

ⅱ)尚右思想という「自然状態」:a.右手(男)と左手(女)の文化人類学

  =「人権」の原理(根拠) b.陰(女)(-)と陽(男)(+)の二元論

  あたりまえに口にし、耳にする「人権」の根拠はまず自然法でした。その法を信じる人だけにしか通用しない法でした。それはまた、現実の姿(男の優位)をそっくり写すものでしかなく、その現実こそが自然だったのです。しかし、〔今週のことば〕でもふれたように、女性支配こそが「自然状態」だったとする「尚左思想」というものもあったのです。

 《このような理念は、神話や歴史の中で、様々なかたちで表現されている。例えば、クレタ人はその出生国への最愛の念を「母なる国」という言葉で表した。(中略)/ 父性が制限的原理であるのに対して、母性は普遍的原理である。父性原理は自ずと狭い関係に限定されるのに対して、母性原理は制限を知らない点で、自然の生活原理そのものである。すべて人間を等しく包む同胞愛の考えは、子を産む母性に由来する。しかしそうした意識や認識は、父権制の確立とともに消え去っていく。父権制に基づく家族が個人の集団であるのに対して、母権制に基づく家族は普遍的性格をもった集団である》(バハオーフェン)

Ⅱ―だれの「人権」が侵害されるのか?

  人権の原理は人間(man)の経験に基づいているけれど、男性(man―male)の経験であって、女性(woman―female)の経験ではないということです。

 《「個人」とは「男性」(a man)を指し、人権とは主に「個人の」権利を指すのです。男性が人権を侵されることはありえます。というより、誰かの人権が侵されたとすると、その人間はたいていの場合、男性なのです》(マッキノン・同上)

Ⅲ―普遍的ということ~「文化」の相対性と「人権」の普遍性

 平等原理の拡大の基盤 → 性的不平等に対する抵抗。男性なみ(同等)に扱われることを要求するのではなく、女性であることを理由にした暴力や虐待に対するレジストあるいは拒絶。人権が侵害されるには、まず、人権をもつ必要がある。人権が存在しないなら、人間(性)に対する犯罪はないからです。新しい人権論への視座の獲得が求められています。

 少しばかり些末な部分にこだわり過ぎたようですが、ぼくたちの今立っている「人権の視座」、あるいは「人権の根拠」はどのあたりにあるのかを瞥見してみたまでです。エルツの考えに触れてみたとおり、「右」が多くの社会・集団においては有意な扱いを受けていました。われわれの島にあっても事情は変わらないといっていいでしょう。

 今日では慣習は壊れているようにも思われますが、婚礼写真(だけではなく、夫婦で並ぶ場合も)では、どうして男が右で女は左なのか。着物(洋服にも)に右前と左前があり、それぞれが男女に割り当てられていました。(ちなみに、「死に装束」は「左前」でした)結婚指輪なるものはなぜ左手の薬指ですか。人差し指でも中指でもありませんが、どうして?

「(男の)右」は正しい、それが「人権(human right)」だとなると、万人に普遍的なものとしての根拠がいささか怪しくなるでしょう。

 このような人権思想の現在に至るまでにはさまざまな要素が何十にも重なり合い、絡み合ってきたのは確かです。それを解きほぐそうとするのではなく、もっと単純で明快な「人権の位置づけ」をぼく流に試みたいと愚考しているのです。かなり難しいのですが。ようするに、「性別」を越えて生きる同士なんですよ。ヒューマニズムは「人間中心主義」であることはまちいありませんね。(2020/04/18)