人間らしく生きるって…

 《人権が語義どおり「人」の権利であることが、なにより問題なのである。身分への帰属でなく、人一般としての個人ゆえに権利の主体とされるようになったこと、そのことに、人権の近代性がある。(中略)

 「人間の尊厳」というふうに、はなしを緩(ゆる)やかに一般化すれば、おそらくすべての文化が、それに同意するだろう。しかし、何をもって「人間らしく生きる」生き方と考えるかで、ふたたび態度が分かれるはずである。神の求めや共同体の利益に身をささげることこそが、「人間らしさ」の完成と考える文化もあるだろう。もっと身近なところでいえば、「こと挙げせず」「まわりと溶けあって」「持ちつ持たれつ」やってゆくくらしの方が、自分自身のものの考えや心情にこだわって生きるより「人間らしい」と考える人は、少なくないはずである。いずれにしても、そうした文化からすれば、「人」権は、自分たちの文化的アイデンティティをこわすもの、呼び方によっては「エスニシティ殺し」(ethnocide)にほかならないだろう。こうして、「相違への権利」が主張される。ただし、その「相違」は、西洋中心主義に対するかぎりで主張されるのであって、自分自身の共同体内部での「相違」は、端的に禁止されることが多いのだが。

 いま、私たちはもはや、単純に西洋近代をモデルとして想定された普遍主義の立場をとることはできない。しかしまた、単純な文化相対主義に助けを求めることもできない》(樋口陽一『一語の辞典 人権』三省堂刊。1996年)

 「人権思想」とは「西洋中心主義」の人権(男の優越)思想であるといっていいでしょう。文化や文明の程度を測る尺度は無数にある―という意味は、ほとんどないということでもありますね―そのようにぼくは考えてきました。

 何かが進んでいる・遅れている、あるいは優れている・劣っているなどといったところで、それは一定の尺度で測らなければいえないことです。1メートルは100センチという共通の尺度でしか、長短が測れないのと同じことです。車が何万台あるから進んでいるというのは寝言みたいなもので、それだけのこと、見方を変えれば、車を所有しないことはきわめて先進的かもしれませんでしょ。

 人権論にも同じような状況が見られます。意味がわからないからこそ「般若心経」がありがたいと人は感じるんでしょうか。「人権」の意味や価値がなんであるか、あまりうるさく詮索しないで、わからないなりにありがたいということになっていないかどうか。「鰯の頭も信心から」という俚諺(俗信)がありました。「人権尊重も信心から」なら、「人権蹂躙も信心から」であるとすれば、さてどうしますか。「鰯の頭」の類があまりにも多すぎやしませんか。学歴重視や学歴信仰などはその代表格か。

 男の人権、女の人権、老人の人権、子どもの人権、…と人権の範囲が広がってきました。そして、人間の人権から、犬や猫の人権、魚の人権、ゴキブリやウィルスの人権…。際限のない「人権の海」の深みにはまることで、「人権」思想があまりにも「人間中心主義(エゴイズム)」である(あった)ことに気づかされるのは大切なことだと思います。

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 《しかしながら、人間対動物の区別は、人間の規範としての私たちが、自分たちを境界線上にある人たちから区別する三つの方法の一つにすぎません。二番目の方法は、大人と子供の区別を持ち出すことです。無知で迷信深い人々は子供と同じだ、と私たちはいいます。彼らは適切な教育を施されてはじめて真の人間性を獲得します。もし彼らにそのような教育を消化吸収する能力がなさそうなら、それは私たちのような教育によって進歩しうる人間とは違う種類の人間だという証拠です。アメリカや南アフリカの白人の意識のなかでは黒人は子供と同じなのです。だから黒人男性はどんな年齢層でも「ボーイ」と呼ばれました。(男に対して)女性はいつまでたっても子供っぽい、と男性はいいます。だから女性の教育などに金をかけず、その社会的進出の道を閉ざすのは当然なのだ、と。

 しかし、女性に関しては、真の人間の範疇から彼女たちを除外するもっと簡単なやり方があります。たとえば、「マン」という言葉を「人間」という言葉と同義語として使うのです。フェミニストたちが指摘しているように、そのような言葉遣いは、平均的な男性の女に生まれなくてよかったという気持ち、同時に究極的な格下げである「女性化」に対する恐怖を助長します》(リチャード・ローティ「人権、理性、感情」)

 ここに伺われるのは「男中心」に地球、いや宇宙は動いているのだという傲岸不遜なマッチョ主義(macho model)に対する、ローティの嫌悪です。「人権」観念やそれが機能する「原理」は男社会にあって、男が固持していた権力や権威を、絹のハンカチに包んでカモフラージュした代物なんです。男並みになるというのは、だから根拠もなにもない話だと言いたいね。

*Richard McKay Rorty(1931-2007)アメリカの哲学者。『哲学と自然の鏡』『偶然性・アイロニー・連帯』『文化政治としての哲学』など。

 「(男並みに)女に人権を」とか、「(大人並みに)子どもに人権を」とか、「(人間並みに)動物に〇権を」というのは時代遅れ、いやどうしようもない偏見にまみれているのだと思うんです。「男=人間」中心主義に、です。あるいは「男根ーロゴス中心主義」(ジャック・デリダ)という偏見に、です。  

 ここまできて、さてどのようにして「ぼくたち」は(「わたしたち」、と言い換えるべきですか)新たな「人権文化」の第一歩を踏み出しますか。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

男と女の世界はいま…

 …ひとが男であるか、それとも女であるかということは、人が雄性であるか、それとも雌性であるかということとは、まったく別のことなのである。ジェンダーとは、いうなれば、ひとが四角形であるか円であるかのどちらかを意味するようなものであるが、これとちがって性役割というのは、他の種々な役割がその上に作られる土台に似ている。たとえば人によっては、自分の皮膚が、あたかも女性用または男性用の下着として選べるものであるかのように、それを身体につけて、外皮と可塑性をそなえた自分自身を皮下に感じる人がいる。また人によっては、自分の性役割を、両親からジェンダー不在の性の衝動を押しつけられたコルセットのようなものとみなす。これこそ、自分たちがユニフォームやドレスをその上に重ねて、それを変えたり、時として捨てたりすることのできる土台にほかならないというわけだ。ヴァナキュラーなものとして、ひとは生まれ、そして育って、男となり女となる。これにたいし性役割は、後天的に獲得されたものである。〈割り当てられた〉性役割や教えられた母語にたいして、ひとは親や社会を非難することはできるけれども、ヴァナキュラーな話しことばやジェンダーについては、文句をいうすべはなにもないのである。(イリイチ『ジェンダー 男と女の世界』)

(*vernacular 【@】バーナキュラー、【変化】《複》vernaculars.【形】(言語が)自国の、自国語の、その土地特有の、自国語で表された[書かれた]、現地語で表された[書かれた]【名】土地の言葉、方言 1.その土地特有の,(言語が)自国の,自国語(現地語)で表された, 2.母国語(one’s native language))

 ジェンダー論は、一時の勢いを失ったように見えますが、時にはかなり活発に、あるいは異常に興奮した雰囲気の中で議論されることもあるようです。イリイチの本は1982年に書かれたもので、このテーマに関しては比較的早い段階の登場でした。そんなことよりも、彼がとらえようとした「ジェンダー」が独特の理解に基づいているということのほうが、ぼくにとっては興味を引くところです。カギになるのは「ヴァナキュラー」という概念ですね。

 通常は「生物学的性別・性差」をセックス(sex)とするのに対して、社会的・文化的な脈絡のなかで「作られた性別・性差」をジェンダー(gender)と理解しています。それ自体はとりたててどうということのない話で、問題はその先にあることになります。ジェンダー論もけっして一筋縄ではいかないようです。

 刊行時にも大いに誤解され、あるいは批判されたイリイチの『ジェンダー』をいま改めて読みなおすのはいかがでしょうか。けっして無意味じゃないどころか、むしろ人間の社会史・生活史において「男と女」はどのような関係を結んできたのか、これからいかなる関係を結ぶことになるのかを再考するいい機会だと思うほどです。

 「ジェンダーとは実体=実在的なものである。この概念は、経済的中性者としてのセックスには当てはまらない。中性者の視座からすると、性(セックス)は、二次的な一属性、一個人の特性、人間的存在の形容的=非実在的特性、である」

 「たいていの人は、性役割を変更のしにくいものと考えている。だから女性は、自分たちが性役割を抑圧的なかたちで押しつけられているものと心得ている。だがそれを好もうと好むまいと、ある性役割をもつということはーそれが受けいれられたものであれ強制されたものであれー、あるジェンダーに所属するということ以外の何かを意味するのである」(同上)

 さらに腰を据えて、このジェンダー論を考察する必要がありますが、残念ながら、ぼくには少しばかり時間が足りません。この季節は「タケノコ」の収穫?期で、老齢にはなかなか骨折りです。すでに何日かはそれに充てたりしたのですが、まだまだ残されています。つまりは竹藪の整理をしておかなければ後で大変な目に合うというのです。また、雨が降る、やたらに成長する。少しでも手間を省くと雑草のなかに拙宅は囲まれて、あるいは埋まってしまう。という具合で、時には「竹取の翁」であり、また時には「草刈りマサオ」の役割がぼくに課せられます。これは「ジェンダー」か、男だからしなければと、思われているのか。

*https://japan.unwomen.org/ja/news-and-events/news/2018/9/definition-gender

「ジェンダー(Gender):ジェンダーとは、男性・女性であることに基づき定められた社会的属性や機会、女性と男性、女児と男児の間における関係性、さらに女性間、男性間における相互関係を意味します。こういった社会的属性や機会、関係性は社会的に構築され、社会化される過程(socialization process)において学習されるものです。これらは時代や背景に特有であり、変化しうるものです。

また、ジェンダーは一定の背景において女性・または男性として期待され、許容され、評価されることを決定します。殆どの社会では、課せられる責任や負うべき活動、資金・資源へのアクセスと支配、意思決定の機会において、女性と男性の間に違いや不平等が存在します。ジェンダーはより広範な社会・文化的背景の一部でもあります。社会・文化を分析する上で(ジェンダー以外の)他の重要な基準として、階級や人種、貧困レベル、民族や年齢などがあります」(UNWOMEN 日本事務所の HPより)

学校にゆかないのに、莫迦か

 今の教育は、旧教育の反動的大勢からその手段方法の上には完全に近いまでに改革されつつある。学校教育あって以来、かくも児童の生活が重大視され愛護されたことはあるまいとさえ思われる。然しながら一歩を深く考察する時は、いかに完全な大仕掛な設備で愛し護られているにしても、畢竟児童は現代文明の奴隷として仕立てあげられているものに過ぎない。

 全てにわたって児童の環境(教育資料)に対して無批判である。様々な教育方法の優劣を証するものは、その実験の結果であり、その実験の結果の優劣は唯いかに児童が現代文明の奴隷として、大人でさえも驚くばかりに彼等がよく仕上げられたかに過ぎない。

 「教育とは過去の文化を伝達することなり」を嫌がった処で、まるで違った進んだらしい方法で装ったりしても事実は依然としてやっと伝達である。かくの如き教育にどうして現代資本主義的文明の生活を改造する様な人間の育成が期待されよう。資本主義的文明の奴隷として仕立てられた人間が創造するものはやっぱり資本主義的文明の繰り返しにすぎない。これではいつまでたっても人は学校へゆかない事をむしろ得意にし、「君は学校にゆかなかったのに、そんなに莫迦(バカ)なのか」という反語がいつまでも生きるであろう。 (上田庄三郎『大地に立つ教育』著作集①国土社刊。1978年) 

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 この著作(「大地に立つ教育」)が出版されたのは昭和十三(1938)年でした。時に、日中戦争の最中のこと。上田庄三郎。今ではよほども物好きでなければ「忘れられた日本人」です。高知の幡多郡出身の小学校教師であり、その後には教育批評家として先鋭な論陣を張った方です。

 彼の教育論、土の教育論とは「労働・教育」論でもありました。(これは、すでに触れたことでありますが、現在の平凡社の創立者である下中弥三郎さんの教育論にも通じるところです。また下中さんはこの島で最初の教師の労働組合「啓明会」を立ち上げた人ですが、上田さんはそれを土佐において積極的に支える活動をしたのでした)

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 「高等科の生徒とともに、村の土運びを請負いでやったこともあった。労働の間に子供たちとともに、土にまみれた手で、駄菓子を食べたり、お茶を飲んだりする間に、教案にも細目にも書かれていない、真の人間教育が行われるように思った。いっしょに働くという生活態度の中でのみ、行いの教育は実現される。教師と児童の対立では、教育はできない。教師と児童とが、より高いものの前にならんだ時、はじめて教育的関係がなりたつのである。労働という行いの前に、師弟がたちならぶ時、教科書の前に師弟が立ちならぶ時、はじめて教育的関係が成立つ。自分はすでに完成された教師であるぞというような自覚ができればもう、教師ではなくて、教育政治家になったのである。青年教師時代には、それがなかった。子供との近似生が多分にあり、特に労働の前にならんだ時は、教師などはまったく子供の労働者にすぎない。自ら水に入はいってはじめて水泳の授業ができるのである。子供の野性の中にとびこむことのできるのが、青年教師の強みである」(同上)

 上田さんの父親は「木挽(こびき)」(木材をのこぎりでひいて用材に仕立てること。また、それを職業とする人)(デジタル大辞泉)だった。彼は小学校を終えると深い山に入り、父の仕事を手伝った。教師の支援で上級学校に進みんだが、師範学校在学中も休暇になると、炭焼きをしていた。彼にとっては生活そのものが労働だった。まさしく「野性味」にあふれた時代を生きていたのです。だから、この「野性味」を奪われてしまったら、青年教師にはなにが残るというのか、それが上田さんの出発地点でした。

ミレー「木挽き」

 土に生き、自然とともに生きる教育、それはどんな教育だったか。

 「入学試験と云う四字(死字だ)の前に青息吐息で子供を苦しめて教育と称し愛と称しているのが唯今の都会地の親と教師だ。親は一番二番という囚人宜しき成績順番という虚名にありつきたい為に、教師は入学率という学校の虚名の為にだ。そうしてそれ等虚名の為には本尊たる子供は神経衰弱になろうと、肋膜になろうとてんで頓着しない狂態である。どうしてそんなに一番二番があり難いのか。仮に女の子で女学校の一番ならいい嫁の口があるとでも云う事にして見る。今でさえそうだのに子供が成長して嫁にゆく頃まで、自分の心眼で女を選ぶことが出来ず、履歴書を引張りださねば結婚しないという様な、時代おくれの婿を今からさがして置く気であろうか。そういう馬鹿げた男に言って置こう。今の様な学校で成績の一番の女とでも結婚したら木石や修身書と暮す程にも味がなく潤がなくそれでいて、帳面で拵えるまごまごした料理に小半日も待たされて然も水に醤油をかけたよりも不出来なご馳走に我慢させ続けられることを承知せねばならぬ」(上田庄三郎「教育のための戦い」上田庄三郎著作集②国土社刊。1977年)

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 上田庄三郎さんがこれを書いたのも、先に引用したものとほぼ同時期でした。これをみるに、この島で学校教育が開始されて以来、常にかわらず、教師や子どもが常在していたのは「比べる教育」、「競う教育」のアリーナであり、闘争の場でした。かかる「反教育」「非教育」の万世一系は今に続いているのです。学校教育の本質は「競う」「比べる」というところにあるということです。大事なことはその「本質」を外れた地点に立つという姿勢であり態度です。それをぼくは「思想」といいたいのです。その意味では、上田さん(小砂丘さんはもちろん)は十分に「本質」を外しています。

 「学校存在の根本義は決して入学試験の準備などという様なちっぽけな情けない表皮問題にあるのではなくて、吾が最も天真なる原人の要求を培育し現代文化を至純な愛の源より見直して行こうとする処にある」

「入学試験の成績をよくする事を考えるよりか入学後卒業後迄に漸次頭角を現してゆく事を親も子供も考えねばならぬ」

 大正末期に茅ヶ崎に理想の学校をうちたてんとして土佐から上京。ものの見事に返り討ちにあう。しかしその後に、上庄さんの本領はますます発揮されることになります。以後は「プロレタリアジャアナリスト」として筆法も舌鋒もいよいよ鋭く、敵を選ばずに過激な教育批判、学校批判、政治批判をつづけました。

 高知時代には十二年間の小学校教師(十回ばかりの不意転、上司のいうことに耳を傾けなかったというかどであちこちに回された。まあ、明らかな「島流し」(いやがらせ・いじめ・人権侵害)です)を経験し、弱冠二十八歳で校長になりました。彼に校長としての管理能力があったのではなく、彼を使いこなす校長が群下には一人もいなかったからというのが、校長就任(校長にならされた)の理由だった。師範卒以来、徹底した反時代的・反権威主義的な小学校教育を実践しました。

 大地の教育を標榜しただけでなく、それを実際に「田舎」でやってみたし、都会でもやろうとして乗り出したのが茅ヶ崎での「児童の村小学校」の経営でした。子どもが十二、三人で、たった一人の教師が上庄さんだった。

 「なんと云っても人間は自然の子である、真に自然を視る目のないものは人生の落伍者である。聡明なる親はその子に貯金をしてやるよりも自己の少しの不便にたえて子供の為に絶好の自然の豊富な土地に居住して子供の肉体と精神とを剛健にし生涯の悪戦苦闘にたゆる生命力を逞しうする覚悟が必要である。さしあたり我が学園はあらゆる意味に於て子供の国としての理想郷だと云える」(同上)

「(茅ヶ崎)児童の村小学校」はこの地上にほんの一瞬だけ存在した学校ですが、その「存立の理想」「教育への願い」はいつでも求められていたものでしたし、今でも求められています。いうまでもなくこれからもまた、少しでも子どもの幸せのために「教育」に期待するものならだれでも絶やせない「灯」であるにちがいありません。

 上田庄三郎・小砂丘忠義の二人を交互に紹介する風情で「生活綴方」教育のなにがしかを述べようと愚論を重ねています。いろいろと語るべき事柄があるように思われますが、ぼくの知性という才能が著しくかけているうえに、努力するという本当の才能が皆無ですので、なんとも情けない仕儀に至っております。まあ、ほんのしばらくですから、もう少し続けてみましょう。この駄文のなかでも、ぼくがもっとも驚くというか、特筆すべきだと思うのは、二人は(高知師範学校の先輩後輩ですが)、弱冠二十歳前から教職を開始し、文字通り「若気の至り」で強烈は教育実践を敢行しようとしたことです。教育委員会の古だぬきたちが音を上げるほどの抵抗ぶりを示したのは、二人に共通する「正義感」でしたが、それはいったいどこから生まれたのか、ぼくにはもっとも関心のあるところです。教育に寄せる彼らの「義務感」はどんなものだったか、それがすこしでも解き明かせたら、望外の幸運ですね。(写真など、いずれ当時のものも含めて、新たに掲載したいと考えております)

学校優等生の標本だ

 「優等生論」

 さて、僕が赴任してまもなく子供達の間にパン(メンコ)が流行りだした。パンとは厚紙の表面に絵がいてあり、それを地面に叩きつけて相手のやつを扇ぎ倒しくらをする遊戯である。これにウソクといふのとホンクといふのとあつてホンクといへば、勝つた方が負けた方の札をとるのである。

 その札をとつたりとられたりするのが賭博に似ているからとあつて僕らが子供の頃には学校で禁止せられ、もつてる札はすつかりとり上げられ、小山の如く校庭につみあげられてむざんにやきはらわれたことがある。 

 そのパンが流行してゐるといふことは僕らは知らずにゐた所へ前々からのその学校の優等生が、忠勤顔をして僕につげにくるのだ。

 「先生、××さんはパンをうつてをります」

 「さうか、やつてもいヽぢやないか」

  するとその取まき連が口々に説明して、事情にうとき新任の教師に古来の遺風を知らさうとする。

 「パンはとめられてゐます」

 「パンはばくちのはじめだと前の先生がいひました」

 「先生、とりあげておしまひなさい、前の先生はとりあげて焼いてしまひましたよ」

 僕は前任の山の中の学校にゐた頃は、はなたれ小僧や髪をぼうぼうのばした子供や泥と垢にまみれた子供と一緒だつたのだ。それらの子供が、猿のやうにすばしこく、手も足も血だらけにして山の中をかけまはつてゐた頑健さと原始さとは身体中、手にも顔にも表はれてゐた。

 今日の前に囀つてゐる子供の顔の何とのつぺりしてゐることか。おまけに着物の袖に手をひつこめて、ふうふういつて身体を前屈みにしあがつて、いやにへらへらと先生に親しげに笑ひかける。正しく学校優等生の標本だ。

 「ところで、君たちはパンをしたくないのだね」

 「えヽ、ちつともしたくありません」

 「さうか、したくないのならしないがあたりまへだ。だが××君らはそれが面白いから、したいのだらう」

 「でも、先生、パンはとめられてゐますもの」

 「なぜ、とめられてるのだね」

 「パンは、バクチのはじめだから」

 「おや、君たちはバクチといふものを知つてるのかね」

 「知りません」

 「なんだ、知らないのか、知らないのに、そんなに恐ろしいのか」

 「けれど、先生がさういひました」

 「あヽさうか、だが考へてみたまへ。本当はしたくないならいヽが、したいけれど先生がとめたからやめるといふのは僕はきらいだ」

 それから僕は、バクチが投機、射倖的な遊びであるに対し、パンは角力や剣道と同じく技術と力量とで堂々と戦ふ勝負ごとであることを話してきかした。

 「ぢや、先生、僕らもやつていヽのですね」

 「おや、君たちもやつてみたくなつたのかね」

 「やつてかまはんなら、僕らもやりたいです」

 子供たちの次には村会議員といふ村の長老からも抗議があつたが、それがみんながみんな「バクチのはじめ」をふりまはして来るのだ。「バクチのはじめ」といふやうなお札の空文句で僕らは動くものではない。

 自分の生活を極度に節約圧縮して、先生のきもちを巧みに忖度し、うまくさきまはりして愛くるしい笑顔をし、忠実な犬となりきれば学校優等生といふものになる。一度び 学校優等生といふものになれば将来学校優等生といふ立場を失ふまいとそれのみに固定してしまつてますますへんなものになつてくる。全く仕様のない存在である。

 だれかの機嫌をとり、だれかの御用をつとめることより教へてゐなかつた昔日の学校にこのいやな優等生がゐたことは当然の話である。といふのは、この話はもうよほどの昔のことなのだ。(小砂丘忠義「綴方生活」1931年1月号)

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 小砂丘さんの生家は貧窮の極みでした。父親の仕事(木こり、炭焼きなど)のために広い山野を遊び場にして暮らしていました。小学校を終えると、ひとえに教師の勧めで高等小学校へ、さらに師範学校へと進みます。1913(大正2)年に、高知師範学校に入学しました。(その二年先輩だったかに上田庄三郎さんがいました)

 「一体私はうけてきた師範教育をありがたいとはそんなに思わぬ代わりに全然之を牢獄の強制作業だったとも思わぬ。ただ時がまだ、官僚気分のぬけきらぬ、そして、自然主義前派の馬鹿偶像礼拝の気の濃い時だったので、今考えて、まだまだ修業の足りない教師のいたことは事実である」(『私の綴方生活』)

 1917(大正6)年4月、郷里の出身校であった杉尋常高等小学校に赴任します。師範学校の四年間はけっして快適なものではなかった。また杉小学校時代も周囲の理解を得られなかった。それはあまりにも彼が自尊独立の気概が強かったからでもあるし、逆に「教育の世界」が因循姑息を絵に描いたように頽廃していたからでもあった。いつに変わらぬ学校教育の風景があったのです。

 出る杭は打たれる。小砂丘さんは師範時代から打たれつづけていたといっていい。「しかしそれが何だろう」という姿勢は生涯にわたって失わなかった。なぜか。いわずと知れていることです。腐りきった教育界を根底からつき崩そうとしたからです。そのために教師になったというのですから。

彼は足かけ九年の教師生活中に学校を七回も変わりました。その実、無理にも変えられたというのが本当でしょう。あまりにも器量が大きかったからで、その器量を嫌うばかりで、使いこなす校長や視学(教育委員会の役人)がいなかったのです。

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あまりさへ疫癘うちそひて

 「世の中飢渇して、あさましき事侍りき」

 「また、養和のころとか、久しくなりておぼえず。二年が間、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春、夏日照り、或は秋、大風、洪水などよからぬ事どもうちつづきて、五穀ことごとくならず、夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるそめきはなし。

 これによりて、国々の民、或は地を捨てて、境を出で、或は家を忘れて、山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれども、さらにそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼めるに、たえて上ぼる物なければ、さのみやは操もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見立つる人なし。たまたま交ふる者は、金を軽くし、粟(ぞく)を重くす。乞食、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声、耳に満てり」

 養和は1181年から82年まで。二年の間、世に飢饉がおこり、すさまじいできごとが続いた。春夏は日照り、秋には台風に洪水、穀物が実ることもなかった。秋の収穫や冬の取入れの賑わい(そめき)はみられなかった。(ヘッダー写真は三康図書館所蔵『方丈記絵巻』:https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20220905-OYT8T50094/

 民衆は土地を捨て、よそに行く、あるいは家を捨てて山に住んだ。いろいろな祈祷が始まり、特別の修法も持たれたが、効験(ききめ)もなかった。都の常で、何事も田舎を頼りにしていたのがいっかな物資は京に入ってこなかった。「さのみやは操もつくりあへん」恰好ばかりもつけてはおられないので、さまざまな宝物を捨てたり処分したりした。それでも目を止める人さえなかった。たまさか交換が調っても、「金を軽く」「粟を重く」とまるで、この島の戦前・戦後の闇物資の物々交換のようだった。物乞いは路傍に溢れ、憂い悲しむ声が耳を満たすのであった。

 今を去る八五〇年ほど前の京都の惨状ぶりを長明は克明に記しています。よく言われるようですが、長明という人は今のレポーターのさきがけで、天変地異の災害やそれがもたらす苦しみを現場から中継するかのごとくに記録しています。人生のとば口に立つ、ひとりの青年長明は年ごとにくりかえされる天変地異の異様なさまをいかに眺めたか。今風のカメラ目線で、なんともやりきれない場面をさも効果あらしめるように作為(人工)的に切り取るのではなく、いのちのはかなさ、世の政を導く貴人や貴種のどこまでも邪(よこしま)な振る舞いにときにはいかり、ときには諦念を深めながら、眼前の「あさましき事」「世の乱れる瑞相」に心を痛めていたのです。いとも簡単にいのちが選別され、あるいは捨てられるというほかない、昨今の薄情な仕打ちを片方に眺め、さらに長明の時代を遠望してみるのです。いのちの彼我の軽重を計ることはできませんが、ぼくたちは幸せな時代に生きているとは嘘にもいえそうにないのです。

 「前の年、かくの如く、からうして暮れぬ。明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘(えきれい)うちそひて、まさざまにあとかたなし。

 世人、みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚(いを)のたとへにかなへり。果てには、傘うち着、足引きつつみ、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものども、歩くかとみれば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。とり捨つるわざも知らねば、くさき香、世界に満ち満ちて、変はりゆくかたち、ありさま、目もあてられぬこと多かり。いはむや、河原などには馬、車の行き交ふ道だになし」

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  昨日(20/04/21)の報道で「行き倒れ」の人があったので、病院に搬送したが死亡が確認されたといいます。死後の検査で「陽性」が認められたという。他にも複数人がいると報じられています。検査にもたどり着けない無数の感染者がいることが多くの証拠をもとに語られている。異様に(とぼくには思われます)多い専門病院の「院内感染」はこの事実(検査を受けていない、隠れ感染者の存在)を知らしめていないか。ぼくがもっとも知りたい数値や情報はどこからも届いてこない。隠されているとしか思えないが、なぜ隠すのでしょうか。木の葉が沈み、石が浮かぶとかいう世の中の異常・非情をぼくたちは眼を見開いて凝視しなければならない。

 長明を読む理由がどこにあるのか、判然としないままに、これまでぼくは何度も読んできました。だが、今回ほど、長明の「方丈記」の視点や視野がまっすぐにぼくに届いたことはなかった。人間の「欲得」は決して死なない。年齢・性別・学歴不問です。名誉欲も権力欲も、かかる人民の苦しみや悲しみのさなかにおいてこそ、むき出しになるのだとすれば、ぼくには語る言葉もない。生命よりも欲得を!生きているうちが花なんだと、あざけりの声が聞こえそうです。

 堀田善衛さん(1918-1998)の『方丈記私記』(筑摩書房刊、1971)はぼくの愛読書でした。何度読んだか。

 「私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、われわれの古典の一つである鴨長明の「方丈記」の鑑賞でも、また、解釈、でもない。それは、私の、経験なのだ」と、この「私記」を書き出しています。

 「(一九四五年)三月十日の東京大空襲から、同月四月二十四日の上海への出発までの短い期間を、私はほとんど集中的に方丈記を読んですごしたものであった。…/ しかし、方丈記の何が私をしてそんなに何度も読みかえさせたものであったか。/ それは、やはり戦争そのものであり、また戦火に遭逢してのわれわれ日本人民の処し方、精神的、内面的な処し方についての考察に、何か根源的に資してくれるものがここにある、またその処し方を解き明かすためのよすがとなるものがある、と感じたからであった」(「私記」)

 敗戦前の三月十日、堀田善衛さんは「東京大空襲」に遭遇された。その時の経験が克明に「私記」に記されています。「前の年、かくの如く、からうして暮れぬ」と長明が描いたこの時期、清盛は福原遷都を強行した時期でもありました。青年堀田さんと青年長明さんとの歴史の隔たりを越えた符合を、どのように評するのがいいのだろうか。

 年表風に。1173(承安三)年、親鸞が日野の里に生まれていました。二年後の安元元年、法然は専修念仏を唱えます。安元三年、大火。1178(治承二)年、安徳天皇誕生。治承四年、福原遷都。頼朝、義仲相次いで挙兵。1181(養和元)年、清盛没。養和の飢饉。治乱興亡は人民の塗炭の苦しみをよそに、さらに打ちつづきます。

 「そうして、…安元三年の大火のとき長明は二十五歳であり、治承四年四月の大風と六月の福原遷都は長明二十八歳のときのことである。私自身もまた同じような年恰好であった。二十七歳であったのだ」

 「つづけて養和の大飢饉が来る。養和元年とは、治承五年(一一八一)七月に改元されたものであり、翌年の五月には寿永と、またまた改元されるのであるが、この二年間は実に怖るべき大飢饉・悪疫流行の最悪の年であったのだ。長明二十九歳、三十歳の時のことであり、私自身もまた自分の年恰好と、世の中の有様行末をひきくらべて暗澹たる思いをさせられた。この頃に硫黄島の軍が全滅していた」(「私記」)

  おそらく、人間の生きた時代や社会のどんなところにも「方丈記」は書かれてきたにちがいないのです。

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「朝鮮」という総和を生きる

金石範 もう一言付け加えると、私はね、この戦後生きてきたひとりとしてね、問題は生き方なんですよ。その生き方というのは、彼の場合(金時鐘)は八・十五の解放を原点にして、逆さまなかたちでこれまで一生誠実に生きてきたということ。私の周辺でも必ずしもそうじゃない場合もかなりあるんですよ。そういう意味では、やはり在日する者としてのひとつの誠実に生きる姿が彼の話のなかにでてくるじゃないですか。ただあの時こうしたああしただけじゃない、全体を、ともかく悩みながら一応誠実に生きてきたという。年取るとね、そういう思いが強いよ。そうじゃないすべての人を否定してるんじゃなくて、やはりこういう生き方もあるということですよ。

金時鐘 ぼくの場合は何も誠実に生きたということもないし、そういうかたちで評価してくださる先輩とか知人たちもいますけど、ぼくの場合はね、このような暮らししかできようのない状況を生きてきたというにすぎない。

金石範 それはその人の人間的な資質にもよるかわからんけどね、人間そうじゃない場合が多い。適当に順応して、そうでないように見せながら生きている。それが世の中だろう。私はそのようにできなかった。時鐘もそうなんだよ。

金時鐘 なぜ「朝鮮」籍にこだわるのかというと、たしかに韓国籍をとれば、もっと自由でいられるしな、金先生くらいだったらもっとよくしていられるのにと言ってくれる人もおるけど、そういう方便の問題じゃないんだな。ぼくの場合は、あれほど無道きわまりないことやって作り上げた韓国という国家体制をね、出来あがった体制の過程を身をもって知ってる者としてね、実際的に韓国のこの五〇数年というのは、もし戦争責任というのが厳密に言えることならね、植民地統治下でいい思いした連中らがな、おおっぴらに復権して政財界から芸術、教育界に至るまで重鎮におさまってきたという年月なんだよね。で、日韓関係の友好というのも、日本でも戦争犯罪者に類する連中らが自民党という権力与党の重鎮にすわって何十年来たわけでしょ。ぼくは日本で最初に出会ったのが、幸いにも金石範先生であったり、姜在彦氏といった民族意識の強い社会科学者たちだったんですが、ぼくも民族分断の単独選挙に抗った者として、「朝鮮」という総和を生きるしか方法がない。

 よく、それでお前は人間かっていう手紙を縁戚の人からもらったこともありますよ。ぼくの母の弟になる人が、日帝時に帝国大学出た何人もいないうちの一人なんですけど、お前は人でなしだと、〔韓国に〕帰ろうと思えばいつでも帰れる、私が保証する。親父やお袋が死の床に伏せっているというのに、それほどまでもアカが好きなのかと、公認会計士の叔父は会うたびになじった。ぼくは思想のために行かなかったというより、あんなことを経てきた四・三がありますから、アメリカのごり押しで出来あがった国家に帰依することはできない。では自分がずっと行きつきたかったのが今の北なのかっていうと、かつての南に負けず劣らずくらいの国に今なっている状態があって、なおさら総称の「朝鮮」に固執するわけです。決してぼくが思想が強いとか、そういうことで「朝鮮」にこだわっているんじゃなくて。これはまったく意地です。

金石範 北と南が単独国家体制になっていて、したがって北の共和国国籍とか南の大韓民国国籍とかになっているけれど、それは分断された祖国の「かけら」としての「国籍」、「片割れ」の「国籍」であって、本来的なもんじゃない。「分断の象徴」なんだ。勿論、国家体制というのがあるから、それは現実的な法的強制力をもっています。しかしそれは絶対的なもんじゃない。その現実をこえて本来的なものを求めるのがわれわれの想像力。私が「在日」をカバーする祖国統一を前提にした連邦的な準統一国家を考えるのはそのためです。私には「北」も「南」も祖国ではない。したがって「北」の「国籍も「南」の「国籍」も取得しない。統一祖国が私の祖国なんです。

金時鐘 自分で合理化できるものがあるとすれば、幸か不幸か詩をやったということでしょうかね。自分の意識を「支配」というと、物理的な気がしてぼくはいつも観念的な心情的な「差配」という言葉を使いますけどね。ぼくの意識を差配していた言葉が日本語で、自分の国の言葉は日本語を介して、プリズムが色を分けるようにして紡がれてくる。ぼくにとって「解放」とは何かというとやっぱり自分の言葉の問題ですね。だから意地があるとすれば、詩をやることであり、非人道的なことをやってできあがった国家に、今なお同調できない。ぼくは金先輩にも文京洙にもすまなく思うけど、ぼくはね、済州島好きじゃないねん、愛してるけど。(金石範・金時鐘『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』編者文京洙・平凡社、2001年)

●金石範(キム・ソクボム)1925年、大阪生まれ。主な著書に、『鴉の死』、『火山島』、(大佛次郎賞、毎日芸術賞受賞)、『海の底から、地の底から』、『満月』、評論集に『転向と親日派』などがある。

●金時鐘(キム・シジョン)1929年、朝鮮・元山市生まれ。詩集に『新潟』、『猪飼野詩集』、『光州詩片』、『化石の夏』、評論集に『「在日」のはざまで』(毎日出版文化賞受賞)などがある。

●文京洙(ムン・ギョンス)1950年、東京都生まれ。現在立命館大学国際関係学部教授。主な著書に『ハングル教本』、『現代韓国への視点』(共著)、『アジアの人びとを知る本』第五巻(編著)など。

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 ここでいわれる「朝鮮」籍とは「韓国」籍に対応するものではありません。あくまでも総和としての「朝鮮」という国籍です。日本の敗戦後の四七年、外国人登録令によって、当時の「在日」はすべて国籍は「朝鮮」とされました。翌年、大韓民国が成立するに及んで韓国籍をとる人もいました。しかし五二年の講和条約発行前に、日本国は在日朝鮮人の日本国籍を剥奪したのです。以来、「日韓条約」締結まですべての朝鮮人は無国籍状態に置かれることになるのです。今日まで日本政府は北朝鮮を国家として認知していないために「朝鮮」籍は国籍とは認められていません。

 いまなお、「在日」問題はぼくたちの日常に厳として横たわっています。ことあるごとに、それは「差別」の根源にある歴史のなかの消えることも消すこともできない課題としてこの島社会の核心部に貫通しているのです。いずれ、このテーマについても稚拙な持論(自論)のようなものを書いてみたいと考えています。