学歴は洋服みたいなものさ

【学歴】●academic background●academic qualifications●academic record●educational background●history of schooling

【学歴社会】●society in which one’s schooling counts●society which places excessive emphasis on academic records●society which places undue emphasis on academic records●society which sets a greater value on the academic career of an individual than on his real ability

【学歴偏重】●education-obsessed●excessive valuing of academic background●putting undue emphasis on educational background

【学歴偏重社会】●academic background-oriented society●education-obsessed society●society where undue respect is paid to academic background●society which places excessive emphasis on academic records●society which places undue emphasis on academic records(英辞郎)

【学歴】学業についての経歴。どういう学校を卒業したかという経歴。「―がものを言う」

【学歴社会】人の社会的地位や評価などが、学歴によって決められたり、判断されたりする学歴偏重の社会。(大辞林)

 学歴とか学歴社会という言葉は、社会学的には「ニュートラル」なものですが、けっしてそのようなとらえ方がされないのはどうしてなのか。大学進学率が何年度は40%で、三年後には45%にあがったというのは事実です。その事実をどのように解釈するか、人によってさまざまです。事実を社会問題として理解しようとするなら、その方法があるはずです。

 「学歴」に過度の意味や価値を含ませるのはどうしてか。学歴が高いか低いかというより、履歴書に記される「学校名」に関心があるからです。大学を出たという、単なる事実以上に、何大学卒かが物を言う(物を言わない場合もある)社会の現実があるからです。いまでも、かな。ぼくはいつでも「学(校)歴」は洋服見たいなもの、着脱可能で、それ自体に好みや流行はあるけれど、それを着けている中身(身体や脳体には無関係)だと考えています。 

(厚労省調査)

 何を学んだ(学ばなかった)かという経験や実績より、どの大学を卒業したかに比重がかかるのは、大学や当事者にとってはいいことなのかね。受験、入学、在学、卒業という単語が重視されることはあっても、それぞれの名詞を構成する動詞(経験)がほとんど問われないのは、いかにも不自然だし、その不自然さを意識しない(させない)社会の風潮こそが、学校教育を空洞化させてきたのだとおもうのです。「入学」と「卒業」が短絡してとらえられ、その期間に何を学んだり何を学ばなかったりしたかが問われないとしたら、まことに異常ですな。自分の経験に照らしてみても、何年間は在学していたが、そこではついぞ学ばなかったのですから、それを看板にするという破廉恥はできないと銘記しているのです。

 ある特定の大学を出れば、卒業生はみんな同じ色に染まるということはあり得ないにもかかわらず、一色に染めて(染められて)しまう傾向が(世間には)濃厚にあります。学歴というものより、学校歴がより多くの関心を抱かれる所以です。つまらんことよ。

 A大学を出たとか、B大学出身ですといったり、わたしはS高校卒ですなどという、その事実が示すものはなにか。それこそがA大学やB大学、あるいはA高校と、それぞれの個人との関わりをあらわすにちがいないのです。よく言われることですが、どの大学卒かというよりもその大学で何をしたのかということの方がはるかに大事です。でも、どんな大学を出たところで、似たり寄ったりのことしかしない(あるいはいうほどのこともしなかった)ということであれば、やはり、どの大学卒かに関心が赴くのは仕方のないことなのかどうか。ぼくには学校に対する不信の念は半端じゃなくありますから、この島社会の体制(政治・行政・企業など)が歪められ、偏頗なものにされている多くの責任は「大学卒」にあると確信しています。今日、マスゴミの「堕落」「不作為」が非難されますが、大半がいまどきの大学出なのだから、そうなるのは当然であると、ぼくは経験からおもっている。こんな人やあんなやつが書く新聞なんか読めるかよ、といいたいほどのものですよ。官庁や企業、政界にも友人・知人がたくさんいるから、なおさらそのようにおもいますね。

 「人の社会的地位や評価などが、学歴によって決められたり」するのが学歴社会だというけれど、はたしてホントにそうでしょうか。あからさまにA大学卒、B大学卒、V大学卒では給料がちがうというのは、明治時代以降にはありました。それを最初にしたのが官僚界です。卒業大学による差は著しかった。国立と私立、さらに大卒と高卒でも差はあった。今もあるでしょう。だから、すこしでも高い給料が欲しいからと学歴上昇が進んだのは事実です。でも、何をするか、というたしかなちからがもとめられないなら、その社会(会社)は何なんですかといいた。

 《オレは学歴もコネも地位もない。技術しか人に勝つ方法はないんだ。当たり前のことをやっていたら、だれも相手にしてくんないよ。いつもそう思っているから、これが自分の活力になるんだよ。いま?いまだってそうさ。コンプレックスのかたまりだよ、オレなんてのは》と語るのは岡野雅行さん。町工場の経営者でした。今でも現役ですね、確か。国民学校卒でした。(詳細はどこかで)

 学歴も地位もコネもないという自覚が、人をどんな風に育てるかということですし、反対に学歴もコネも地位もあるという意識が人間をどこまでも傲慢にかつ無責任にしてしまうかということの反証みたいな啖呵だと、わたしは岡野さんの言葉をうけとめました。(昨年秋にノーベル賞受賞の吉野彰さんと組んで、リチウムイオン電池の開発に貢献した人でもあります。「携帯」進化の親です)

 自分が作るならどんな仕事も面白いし、その仕事は人間を育ててくれるということをほんとうに経験したいものですね。そして、はたらくのは「何のため」か「だれのため」かをいつも考えていたい。

心の中の美しい夕日

 マニラの夕日 1959年、小さなスクーターを貨物船に積み込み、23歳の小澤さんはヨーロッパを目指しました。寄港地のマニラでのことです。(1935年、旧満州生まれ。父は歯科医師。板垣征四郎と石原莞爾の一字ずつから命名されたという)

 「マニラに着いた時に寒暖計を見たら、三十八度もあるのには驚いた。暑いはずだ。その代わり夕焼けはすごい。見ているこっちの顔にまで反映してくる。夕焼けを見ながら、戦争で死んだ人のことを思うと胸が痛くなって来る。この辺は激戦地だったそうだ。夕焼け小焼け あした天気になあーれ」(小澤征爾『僕の武者修行』新潮文庫)

 「僕は、五十九年に六十三日かかってヨーロッパに行ったのですが、最初に舟でマニラに寄ったとき、マニラのイロイロという港で夕陽を見ました。(中略)そのときはもうもう肝をつぶすくらい、赤さといい、大きさといい、圧迫力といい、日本で見たことがない、少なくとも僕は生まれてから見たことがない夕陽だった。その印象があまり強いんで、これは何か美しいもの、だれが見ても美しい眺めなんだと思った。夕陽というのはどこの国で見ても美しい眺めだけどマニラは特別だと。夕陽というものに対して非常に目を開いたわけ」(小澤征爾・大江健三郎『同じ歳に生まれて』中央公論新社)

 2001年11月、小澤さんは合唱団「城の音」といっしょに東京医科歯科大学付属病院で音楽会を開きました。難病・重病の子どもたちを前にしてのことでした。

三木露風(1989-1964)
「赤とんぼ」(三木露風作詞・山田耕筰作曲)(昭和二年)


 1 夕焼け 小焼けの 赤とんぼ
   負われて 見たのは いつの日か

 2 山の 畑の 桑の実を
   小籠に 摘んだは まぼろしか

 3 十五で 姐やは 嫁に行き
   お里の たよりも 絶えはてた

 4 夕焼け 小焼けの 赤とんぼ
    とまって いるよ さおの先

 

 子どもも親も医者も看護婦さんも、みんな目に涙。顔をぬらしながら、小澤さんは一人ひとりの子どもの手をとり、励ましたのです。 「戦争があったり、大人でも参ってしまうような難病と生まれながらにして苦しい闘いをしている子どもに会ったりすると、『音楽なんてやってもしょうがないじゃないか』と本当に思うことがあるんです。…でも、それは違うみたいね。ぼくらの音楽を一生懸命に聴いてくれる一人一人がいるじゃないですか。そういう姿を見ると、こっちの気持が伝わったのかなと思いますね。何かを感じてくださるものがある。それだけで音楽をする意味がある」

 「たとえば夕陽が沈むじゃないですか。五人も十人も集まって缶ビールでも飲んでわいわいやっていたら、夕陽はちっとも美しくないですよ。一人で、しかも集中力があって、自分に対して『自分は自分だ』というのがわかっている時に、夕陽を見ると美しいんですよね。しかも、忙しくほかの何かをしている時は自分がないから、あまり美しくないわけ」

 「自分の精神が、気持が落ち着いていて、何かに集中できる時に心の中に美しい夕陽がある。それは大抵、心の中がとても静かな時なんですね。いい音楽は、音楽会にお客さんが千人座っていても、音楽やっている人と一人一人ですから。ぼくはいつもそう思う。たとえ客席でぼくといっしょに家族が座っていても、ぼくはぼくで聴くわけ。一人一人が音楽を聴いている。たくさん聴いていても、音楽は個人的なもんじゃん」(同上)

 「インスティチューションよりも個人のほうが絶対大事なんだ、というのが僕の信念だと、だんだんわかってきました。ところがインスティチューションに入っちゃうと、お金もかかるし、いろいろ道のりもあるし、その人があるポジションに就くまでに時間がかかったりするので、えてしてインスティチューションのほうが自分より大事だとなりがち。そうじゃないと僕は思うんですね」  小池真一『小澤征爾 音楽ひとりひとりの夕陽』(講談社+α新書) 

 ここでいう「インスティテューション」とは「音楽学校」ですね。それよりも「個人のほうが絶対大事」という「信念」。左の写真は1961年、N響の指揮者になるが「感情的な軋轢のためN響からボイコットを受ける。小澤はたった一人で指揮台に立つという苦い経験をさせられ、指揮者を辞任」(wikipedia)日本では指揮台に立たないと決意したとされます。

 その後の活躍はご承知のとおりです。(左上の写真は恩師になるバーンスタイン氏(NYPhil.の常任指揮者)と。

 (追記 「世界の楽壇の第一線に立ち続け、戦後日本のクラシック音楽界を牽引した指揮者の小澤征爾さんが2024年2月6日、心不全で死去した。88歳だった」(朝日新聞記事より)(一周忌に。2025年2月6日)(山埜聡司)

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窓は開いているか

 窓の外からことばがはいってきました。

 二人の奥さんが道ばたではなしています。

「もう眼も駄目ね。頭も駄目。ならってもすぐ忘れてしまう」

 もうひとりはあいずちをうちます。

「でも、勉強ってたのしいわね。さようなら」

 この人は五十七、八歳くらい。相手の人は五十五歳くらいでしょうか。二人とも、私は回覧板をもってゆくときに会って、知っています。

「ならってもすぐ忘れてしまう。でも、勉強ってたのしいわね。さようなら」

 このことばは、私には達人のことばのように思えます。(「鶴見俊輔「わからないことば」)

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 大正のはじめに、官立の小学校の国語教師として国定教科書を型どおりに教えていて、ゆきなやみ、神経病にかかった芦田恵之助が見出したのも、この一回かぎりのことば(子どもそれぞれの状況からはえでる)を見出そうという方向でした。そこから、随意選題という綴り方教育の方向があらわれました。

 文をつくるもとには、このような一回かぎりのことばへの模索がはたらいています。

 文をつくることは、〇☓式教育ではつかみきれない力で、それゆえにいまの教育体系では排除されました。大阪大学医学部では、

「条件反射について書け」

 という試験問題を医学部学生にだしたら、多くの学生がまったく書けなかったということです。〇☓をつけることになれた学生は、自分の知識にまとまりをつけて、自分の言葉で書くことができなくなっていました。

 こういう教育制度は、いっぽうで大量の大学卒業の優等生をつくるとともに、戸塚ヨット・スクールにおいやられる子どもたちもつくっています。(同上「一回かぎりのことば」)

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 「でも、勉強ってたのしいわね。さようなら」ホントにわくわくしませんか。おしいことには、いまは隣近所もなければ、言葉が入ってくる「窓」も閉ざされてしまっています。少しばかりの連絡路である「窓」が四方に向かって閉じられている状況は、今日の社会生活における人と人の関係を象徴しているように思えます。障壁のある関係。

 「おぼえなければならない」といわれたとたんに勉強はつまらないものになります。忘れても忘れても、かまわないんです。忘れることがたのしい、となれば達人です。自分の娘に対して「おはようございます。どちらさまでしたか」という母親もまた達人だね。世に、これを「認知症(アルツハイマー」」というそうです。繰りかえしの精神がぼくたちにはほとんどといっていいほど、育てられていないと、ぼく自身は実感し、痛感しています。

 「戸塚ヨット・スクール」のことをご存じですか。きわめつけの「スパルタ教育」(暴力とまちがえられることもあった。校長の戸塚さんは「傷害致死」罪等で有罪になっています)で、まさに「問答(ことば)無用」の身体教育を実践。それは、この国の教育にもっとも欠けている部分だと指摘する人たちがおられます。(このスクールに関しては、さまざまな批評がなされてきました。現在もつづいています。いまも「教育活動」をされています。その内容などについては、自分の目で確かめられることをお勧めします)(スクール問題は映画化されました。「スパルタの海」主演は伊東四朗さん。原本は上之郷利昭著『スパルタの海 甦る子供たち』です) 

「一回かぎりのことば」とは、だれに対しても(あるいは、犬や猫に対しても)使われることばとは、正反対のことばです。その場でしか使う値打ちのない言葉というものがあるのです。

 ずいぶん昔の話。国語教師だった大村はまさんが中学生を担当していたときのことです。その学校では生徒の喫煙(教師のではない)が生徒指導上の大問題になっていた。生徒指導の教師、なかにはもちろん国語教師もいました、かれらは喫煙している生徒たちを見つけると「おまえら何をしてるんだ」「いいかげんにしろっ」などと大声を張り上げ、どなっていた。大村さんはそんな教師たちの言動を見ながら、「自分にあんな指導はできない」「国語教師として、どなることはできない」と思いながらも、問題の生徒たちにはなすすべをもたないままでした。

 あるとき、授業のために職員室をでて教室に向かっていくと、廊下に数人の生徒がたむろし、これみよがしにたばこをふかして大村さんを挑発するのだった。どうしよう?

 そのとき、一人の生徒に「〇〇君、この前の発表はよかったよ。この次もお願いね」といった。その瞬間、かれは手にもっていたタバコを後ろにかくしたというのです。

 たぶん、ぼくの記憶ではこれだけの話だった。でも、ぼくは大村さんの行為に感動した。ことばなんて、というがよい。「一回かぎりのことば」がでるためには、相手に対してどんな思いをもたなければならないか。わからぬ人にはいっても無駄だ。(左の写真は「禁煙」指導の場面だそう)

綴り方という方法

 あるとき、小砂丘さんが妻からシャツを「買ってきて」と頼まれたのに一ヶ月も忘れていたら、妻は自分で買ってきた。それをみせびらかしながら、「これでやっとせいせいした、頼んだって買ってくれないんだから」といった。小砂丘さんは冗談交じりに「それはすまなかった。おかげで寒いめにあったね」と相槌をうった。ところが驚いたことに、妻は「寒ければいいのだが、ずっと冬物で、暑苦しくてたまらなかった」といったそうです。

 「シャツがなければ寒いだらうとは我ながら迂闊であつた。ないために却つて暑くるしいことさへあり得ることに気づいてゐなかつたのだ。かういふ認識不足をしでかしがちなのを是正したさにこそ殊更に〈地方性〉を考へなおさうとしてゐるのだつた」(「綴方生活」第七巻 第五号・昭和十年五月発行)

 概念でものをいう、概念に振りまわされる、こんな姿勢を木っ端みじんに砕こうとしたのが彼のやろうとした「綴方」の実践でした。これはプラグマティズムそのものでした。実践主義とも生活経験尊重ともいうべき態度でした。

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 「生活綴方」とはどんな教育だったのか。再び芦田恵之助(あしだえのすけ)さん(1873~1951)の登場です。日本における「生活綴方」の源流に位置するひとりです。

 随意選題の提唱

 「私の随意選題による綴り方教授は、当時漸く抬頭して来た自由思想の影響をうけたのではありましょうが、その根抵をなしたものは、従来の綴り方教授、即ち課題によるものが、自分でも興味がなかったし、担任学級に課してみても、児童が少しも喜ばなかったという事実でした。興に乗っては、何事にも夢中になる児童が、いかなければ生ける屍のごとく、その苦痛をすら訴え得ぬことをしみじみあわれに思いました。何とかして児童をその拘束から脱して、文を綴る喜びに浸らせたいと思いました」(『恵雨自伝上』)   

 教師によって決められた「題」を与え、決められた形式の文章を書かせようと「どんなに骨折ってみても子供が作文を書かん」それならいっそのこと、「お前ら書きたいことを勝手に書け」となったというのです。押しつけではなく、強制でもない作文教育の方法は窮余の一策だった。行くところまでいって、その先一歩も進めないときに、道は開かれたのです。道元の言葉だったでしょうか、「百尺の竿頭、進一歩」というのがあります。ながい竿の最先端まで登っていき、先のないところをさらに一歩を進めよ、というものです。無理難題なのですが、万策つきる地点までいたらなければ、なにかがうまれるはずもないのです。窮余の一策でした。

 「どんなに骨折ってみても子供が作文を書かんです。これほど骨折っても書かんなら、お前ら書きたいことを勝手に書け ― こう突っ放しました。すると、五、六年の学級が一心に書き出しました。実におもしろい文がたくさんできました。題を与えても、系統立てて、すっかりお膳立てして書かせようと努力した時には到底得られなかったようない きいきした子供の生活を書いた文が生まれました。わたしはこれに打たれました。子供の作文は結局この方法だと思いました。爾来わたしの綴方の時間は、おまえさんたちが 自分で題をきめて、書きたいと思うことを、好きなように書け ― そういうやりかたをして二年目の冬の高等師範の附属の講習会に随意選題の綴方教育というように発表をいたしました。すると芦田は外国の自由思想をとり入れて自由作文をはじめたといわれました」

 綴り方とは?

 今では作文といわれますが、その授業の意義を芦田さんは以下に言う。

 「綴り方教授の意義 綴り方とは精神生活を文字によって書きあらわす作業で、綴り方教授とは綴り方に関する智識を授けて、之に熟達せしむる教師の努力と、学習に関する児童の努力をあわせたものである」

 「綴り方教授の立脚点 精神生活は或いは之を声にあらわし、或いは之を筋肉にあらわし、或いは之を文字にあらわす。一を談話といい、二を動作といい、三を文章という。綴り方教授において取り扱うのは文章である。談話・動作・文章は各その形式はちがうけれども、精神生活を外界に発表するものであることは同一である。発表は人間自然の慾望で、吾人がもし心中に不平を生じ、又は満足を感ずれば、之を知己に語り、之を朋友に伝えて、共に喜び、共にかなしまずにはおかぬ。もし何等かの事情のために、この発表が妨害されると、吾人は殆どその苦痛にたえぬ。綴り方教授はこの人間自然の強き要求の上に立脚するものである」(芦田恵之助『綴り方教授』大正二年)

 芦田さんとほぼ同時期に児童のための芸術教育に新境地を開いたのが鈴木三重吉(1852~1936)さんでした。三重吉は広島市(現・広島市中区大手町2丁目1の13)に生まれた。東京帝國大學英文科在学中の明治38(1905)年、短編小説『千鳥』を書き上げた。『千鳥』は夏目漱石によって高い評価を受け、漱石門下生として活躍を続けた。大正7年(1918)年には森鴎外(1862-1922)らの賛同を得て、児童雑誌『赤い鳥』を創刊。芸術的に価値のある童謡・童話を子どもたちに提供しようという画期的な運動をスタートさせた。

 雑誌はおよそ二年間の休刊期をはさんでその死に至るまで継続されたのでした。当時すでに高名であった作家や詩人、音楽家や画家などもそのサークルに誘いながら、結局はたった一人で、全国から集まってくる児童の綴方を読み、雑誌に掲載しながら、一時代の児童の芸術教育運動をリードしたといえます。

 「多くの人々は、綴方の作品が伸びにくいのをこぼしている。しかし、或人々の場合には、作品が伸びないというのには、まず第一には、児童には到底書けないことを書かせようとかかっているような、根本の無理が手伝っている。まずその点を反省しなければならない。つまり題材の問題である。われわれにしても、物を書くといえば、所詮、じぶんが実さいに見、聞き、感じ、考えたことしか書けるわけがない。要約すれば、われわれ自身が経験した事実でなければ叙出できない」(三重吉『綴方読本』1935年)

 「事実は書ける、概念、観念は書けない。書けても没個性的な、共有性のものに終わるのみで、作品としては何等の価もない」(同上)

 生活綴方教育(運動)は、その後に各地で大きく渦を巻きますが、中央に『赤い鳥』があってはじめて力を得たという側面を忘れてはならないでしょう。その意味では児童教育の隆盛に向かう方向を決めたという点で、三重吉さんの貢献ははなはだ大きいものだったというべきでしょう。「赤い鳥」についても、どこかで触れてみたいですね。

 ふたたび、小砂丘忠義(ささおかただよし)さん。1897(明治30)年~1937(昭和12)年。本名笹岡忠義。高知師範学校を卒業後、県内各地の小学校教員・校長として働きながら、「極北」「蒼空」などの多くの機関紙・文集を発行した。今でいうところの、「学級文集」のもっとも最初期の実践家だったといえます。この一事でも、貴重な仕事をされました。

 その後上京して、1931(昭和6)年に郷土社をつくり,雑誌「綴方生活」「綴方読本」を発行し、生活綴方運動を全国的にひろめた。以下、略年表風に。

1897(明治30)年4月25日 長岡郡東本山村に生まれる
1917(大正6)年、高知師範学校を卒業し,大杉尋常高等小学校訓導となる
1920(大正9)年、土佐郡旭尋常高等小学校,翌年土佐郡行川高等小学校に転ずる
1922(大正11)年、土佐郡梅ノ木小学校(鏡村)に転じ,翌年長岡郡岡豊小学校(南国市)に
1924(大正13)年、「地軸」を出版し、翌年長岡郡田井第一小学校(土佐町)校長。12月上京
1927(昭和2)年、文園社編集部に入り「鑑賞文選」の編集をする
1931(昭和6)年、郷土社創立
1937(昭和12)年、10月10日肝臓肥大症で、東京にて病没。満40歳。

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平時も緊急時も「虐待」はつづく

 〇児童虐待:乳児を殴って死なせた父親に懲役3年 盛岡地裁

 生後4カ月の長女を殴って死なせたとして、傷害致死の罪に問われた岩手県雫石町板橋、会社員、高橋拓也被告(23)に対する判決公判が15日、盛岡地裁であった。卯木誠裁判長は「親としての自覚に著しく欠ける」と厳しく指摘し、懲役3年(求刑・懲役5年)の判決を言い渡した。

 判決によると、高橋被告は昨年12月16日午後9時ごろ、当時住んでいた盛岡市内のアパートで、年賀状の写真用に桃々(るる)ちゃんと長男(1)を撮影しようとしたが、桃々ちゃんがぐずって思い通りに撮れなかったことに腹を立て、頭を拳で2回殴った。桃々ちゃんは頭の骨を折り、約1カ月後に脳の機能障害で死亡した。

 高橋被告は事件の1カ月半前から、あざができるまで桃々ちゃんの顔や背中をたたくことがあったという。【苅田伸宏】(毎日新聞・2004年6月15日)

 〇虐待?一家の子供5人保護、4人栄養失調…東京・町田

 東京都八王子児童相談所は23日午後、町田市で子ども5人が、両親から虐待を受けている疑いがあるとして、児童福祉法と児童虐待防止法に基づいて一時保護した。4人は栄養失調の状態で入院、うち2人は歩行が困難なほど衰弱しているという。

 同相談所は病院での検査を待ち、父親(52)と母親(38)の告発も検討する。

 保護されたのは小学校3年と2年、6歳、4歳、1歳6か月の男児2人と女児3人で、1歳6か月の乳児を除き4人が入院した。4人は食べ物を十分に与えられていなかったとみられ、小学校3年と2年の子どもはほとんど小学校に通ったことがないという。

 同相談所は2002年12月、児童が学校に来ないと小学校から通報を受けて、調査を始めたが、両親に面談を拒否され、子どもたちの状況を把握できないまま、一家は昨年、同市内で引っ越しをしてしまった。同相談所は行方を捜していたが、今年3月、市民から「近くに住む子どもたちが虐待を受けている」との通報があり、この家族と分かったことから、警視庁町田署員とともに子どもたちの安否確認の立ち入り調査を実施し、一時保護に踏み切った。(読売新聞)(2004年6月24日)

 今年度版「青少年白書」が公表されました。詳細は別の機会に譲りますが、それに関する報道がありましたので、以下に掲載しておきます。

 〇児童虐待相談、困難な事例増加=関係機関の連携不十分-青少年白書

 小野清子青少年育成担当相は22日午前の閣議で、2004年版「青少年の現状と施策」(青少年白書)を報告した。それによると、02年度に全国の児童相談所に寄せられた児童虐待に関する相談件数は2万3738件と前年度に比べ、微増していることが分かった。児童虐待防止法が2000年に施行された後、急増していた相談件数の伸びがようやく鈍る結果となったが、白書は「質的にも困難な事例が増加してきている」と指摘。関係機関が「十分に対応し切れていない」と厳しい認識を表明している。 

 相談の内訳では、身体的虐待が46.1%で最も多く、育児などの怠慢・拒否37.7%、心理的虐待12.8%、性的虐待3.5%と続いた。被害者を年齢別に見ると、零歳から小学校入学前の乳幼児が半数を占めた。

 白書は今年1月、大阪府岸和田市で中学3年生が餓死寸前で保護された事件にも言及。予防から早期発見、保護、アフターケアまで、児童相談所や福祉施設などの連携による切れ目のない施策を求めている。

 相談件数は、同法施行前の99年度は1万1631件だったが、01年度は2万3274件とこの2年間で倍増していた。(了)(時事通信)[6月22日10時31分更新]

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 現在、劣島全体に「緊急事態宣言」なるものが発令中。警戒警報のようですが、強風や豪雨、あるいは台風のそれとはちがい、人間であることをいくばくか制限されて、ひたすら「蟄居」(「自粛」ともいう)を余儀なくされている状態にあります。かかるとき、「Stay Home 週間」とだれがひねり出したのか、ぼくにとっては不快な「合言葉」で、上を下への大混乱、でもないか。(みずからの状況判断の重大な誤りを誤魔化す、目くらまし作戦でしかないよ、罪深いね痴事さん)「旗」「ことば」「符丁」がこんな時期にはきっと出されます。「旗の下に」全員集合と鼓吹し、それに背を向けると白や黒の目が射抜かんばかりに攻撃してくる。例外は許さないというのは、まことにいやな風潮。安っぽいコンクリートのように、固まるんですね、緩むのも早いかも。

 自粛で自宅に、だから「DV」が増加し、児童虐待が増加する。ホントか。常時「暴力」は生じているから、「今でも」起こっているのでしょう。暴力(虐待)は物理的な力ばかりではない。嘘も改竄も、捏造も汚職も、「汚いマスク配布」も、突然の「全国休校」も、ぼくに言わせれば、立派な「暴力」ですよ。人民に対する暴力、人民への虐待ですね。人民を無知と決め込んで好き放題のタカリ根性こそが「暴力」であり「虐待」じゃないですか。「自宅待機」も虐待そのもの。ここには「誠実さ」が微塵もみられない。普段から「不誠実」である証拠だね。

 政府も行政も「自分のいのちは、自分で守れ」といいいたいのなら、もっとはっきりと「宣言」すべきですね。「我々は何もしない」「我々は自分のいのちは自分で守る」から、「人民諸君も、ね」と。見殺しにされないように。ぼくたちはどこまでも、注意深くありたいですね。

 ぼくは「政治家や官僚」なんかに聖人君子であることを求めない。そりゃ、無体というもの。まるで太陽が西から出るのを求めるようで、地球が消滅しても、それはあり得ないからだ。無理は言わない。ちょっとした「当たり前の感受性」をわきまえてくれというばかり。「ホシノゲン」とのバカコラボもボーリョクだった。

 《首相は24日の新型コロナウイルス感染症対策本部の会合で、学校休校や外出自粛によって児童虐待やDV(ドメスティックバイオレンス)被害のリスクが高まっているとして、防止策を強化する考えを明らかにした。/ 首相は「家庭内での暴力の根絶や被害者支援に向けて、政府を挙げて取り組みを強化していく必要がある」と強調。児童虐待に関しては、地域のネットワークを総動員し、子どもや家庭の状況を定期的に把握すると説明した》(時事・20/4/24)

 「あんたに言われたくない」という気分がわくばかり。「政府を挙げて取り組みを強化」するから、まちがえるんだ。また「マスク」でも配ろうというのかしら。「イチハヤク」はだれに言うのか。(「君にこそ、いいたいね」)

男の法と女の生と

 原理というものは、現実なくしては存在しえません。一見、特定の社会現象の痕跡を完全に消し去ろうと努力したかにみえる、もっとも高度な抽象性を備えた法律上の概念も、実は社会生活のなかから生まれています。それは特定のグループ間の交渉のなかから、我が身の安泰に疑いを抱かない支配階級の思い上がりのなかから、現実の残虐行為の傷を通して、声なき、疎外された人々の犠牲によって、権力なき人々の ー たいていの場合は妥協による、しばしば多大の犠牲を伴う ー 勝利として、生まれているのです。

 法は三段論法式に否応なく誕生するわけではありません。それは支配と支配に対する挑戦という社会的論理に駆りたてられ、変化と変化に対する抵抗との相互作用によって練りあげられます。法の生命は経験であって、論理ではないという事実はコモン・ローに限ったことではありません。すべての法の陰には人間の、もしあなたが注意深く読めば、その血が行間に流れていることがわかる人間の物語が隠されています。条文が条文を生むのではありません。人間の生活が条文を生むのです。問題の核心は ー 政治と歴史の問題、つまり法の問題の核心は ー だれの経験がどの法のもとになっているかにあります。(キャサリン・マッキノン「戦時の犯罪、平時の犯罪」既出)

 マッキノンはミシガン大学の法学の教授であり、もっともラディカルなフェミニストとしても知られています。日本にも何度か来日しています。(文末に略歴を出しておきました)

 「問題の核心は…だれの経験がどの法のもととなっているかにあります」もっと直接的にいえば、男性の権利や人権が語られるとき、それはまちがいなく女性を排除したままでなされるという意味です。人類の半分を占める女性が不在のままで「人間とはなにか」とか「権利とはなにか」とかが規定されているのが現実だということでもあります。これはこの島社会にも明確に見て取れる「法の性格」です。今日の国会の勢力分布や男・女議員比の状況を見れば、どんなに目をふさいでいたとしても、成立した法律がいかに偏頗なものであるかが分かろうというものです。この数年に起こった、一連の「安保法制」制定過程に限られないことです。

 「人類の半分を形成する人々の尊厳、不可侵性、安全、生命などへの制度的、組織的侵害に対して適用されない人権の原理を認めるということは、いったいどういうことなのでしょうか。それは他者の尊厳を侵害することによって自分たちの尊厳を守り、他者の不可侵性を侵害することで自分たちの不可侵性を保ち、他者の安全を侵害することによって自分たちが安全になることなのです」とマッキノンはいいます。「だれの経験がどの法のもとになっているか」

 人権を考える視点をどこにすえるか。けっして簡単な話じゃないことだけは確からしい。私たちに求められているのは、これまでの人権観念ーそれはマッキノンによれば、男中心の、男だけが人間であると自己認識した、きわめて偏った人権論でしたーをベースにした平等論や公平論の拡大や強化などではなく、あらたな人権文化にむけての決然とした一歩を踏み出すことではないでしょうか。新たな医療技術の展開によって、これまで人類が経験したことのない生命の新段階ーたとえば、生殖補助医療がもたらした人工授精、代理母出産、出生前診断とそれによる「生命の選別」などーを迎えた今、わたしたちはまったく生命や人権に係わる未知の領域に一歩を進めてしまったと言わざるを得ないからです。

〇 Catharine A. MacKinnon 弁護士,法学者 ミシガン大学ロースクール教授 米国

・生年月日1946年10月7日 専門フェミニズム

・学歴スミス大学〔1969年〕卒,エール大学ロースクール〔1977年〕卒

・経歴エール大学ロースクール在学中から弁護活動、立法活動などフェミニストとして実践に携わりつつ、社会変革のための理論構築作業を続ける。1979年の著書「働く女性のセクシュアル・ハラスメント」で、職場での性的嫌がらせ(セクシャル・ハラスメント)は公民権法で禁止される雇用上の性差別に当たると主張し、一躍フェミニズム法学の旗手となった。’89年ミシガン大学ロースクール教授。また、ボスニア・ヘルツェゴビナで集団強姦された女性を支援し、代理人として裁判を提起するなど弁護士として法廷で活躍。他の著書に「フェミニズムと表現の自由」(’87年)、「フェミニストによる国家論をめざして」(’89年)、「ポルノグラフィと性差別」(’88年)、「ポルノグラフィ―『平等権』と『表現の自由』の間で」(’93年)がある。(出典・日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」)

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