教師は光であればいい

 出る杭は打たれる

 「小砂丘などのいうことは他人の悪口ばかしで三文の値打もないと附属の一先生がいっている。しかしそれが何だろう。値打があるかないか、それはその先生などの頭で考へられる性質のものではなく、もっと高いものである。私は云うべきことをいい、聞くべきことをきいてゆく。世間がどう云ったってよいことだ」

 「私を教育界の危険人物、不良児だとして罵る者も沢山ある。それが何です。つまり私がいることも一つの事実だし、その人々の云うこともすでに一分一秒過去になりつつある出来事です」(「雪隠哲学」)

 一日、学年末おし迫って、郡役所で視学と会って話した。用件は私の転任問題についてゞである。

 「小砂丘君、全くやりきれない。僕は今日で、三日三夜、碌に眠っていないんだよ」

 といって、椅子を三つ接ぎ合わせて、物だるげにその上に横になり、肘を深く首の下に曲げた。はたげた胸のあたりから小形の蟇口が、カチリと床にすべりおちた。拾い上げながら話し出す。

 「君、眠くって仕方がない。一寸失敬するよ」

 私は神妙に卓を隔てゝ、その如何にも億劫げに見開いている睡眠不足の眼を見ながら、にこにこして話を聞いているうちに、せんでもいゝ苦しみをしている彼をかわいそうにさえ思った。

 「兎に角、うんとやってくれたまえ。君は人並以上やれる男だということは誰も知っている。けれども、誰一人君を採用しようという校長はないというんだがね。だから今度中々骨だよ」

 私が足掛九年の教員生活中、学校をめぐること七回という浮き草振りを発揮した中、この時がたった一度、自分から、というより余儀なくされて転任を申出でた時の話である。その言う処では、一つ当りをつけて交渉中だが、条件によっては採用してもいゝという校長があって、今日の私の態度如何をそれとなくその校長がのぞきに来ているというまるで、身売りの下見にひき出された恰好である。(小砂丘忠義「転任漫談」「教育の世紀」1927年3月号) 

 転任を申し出た理由は病父の看病だった。そこで出された条件は、前にも触れました。「中折帽をかぶれだとか、髪やひげを伸ばさぬこと、校長の悪口をいわぬこと、私のやってる雑誌の発行をなるべく止めてほしいといった、要するに人並になってやれという」「むしろ馬鹿げきったものばかり」だった。教師は光であればいい、それが小砂丘さんの心情だった。一年おれば一年の光がある、二年、三年いなければ光らないような性質のものではないというのです。

 「教師は何等かの光であればよい。恰も、航行者に於ける灯台の如きものである。日中でさえも船は難破することもあれば、衝突することもある。まして暗夜のことだ。しかしそれらは灯台の罪でも、元より手柄でもない。灯台は黙々として、あらん限り光っていればいい」

 師範卒業の前に博物の教師は「小砂丘は一番さきに校長になる人間だが、部下には信頼されそうもない」といわれたが、その易者みたいな予言はあたらなかった。部下にも友人にもたいそう好かれたからでした。しかしどういうわけか、「校長や視学、教育界の重鎮なるものが、私を目の敵にしていた」のです。

   八年何ヶ月かの教師生活中、なんと七度も転任を命じられたというのは驚きです。ついに、彼は愛想を尽つかしてしまった。

 「私には、如何に新しがっていてもどうすることも出来ぬ校長の頭の加減と、追われるが至当だと澄まして傍観している同僚の友愛さが手にとる様に読めてみれば、此上は私がさっさと出てゆく外ないと思われてくるのであった」

 そのような覚悟を決めかかっていたところへ新視学が呼びにきた。

「就職口があったから、今度こそ、今迄の態度を改めてやってくれ。君はどこまでも、人の誤解を受ける様にするからいけない」

 「十年近く、やってもやっても、誤解されるというならば、私はそれで結構です。その誤解されているまゝの男が、私の全てゞしょう」

 「その言葉がいけない。誤解されて平気でいるということがあるか。それを解くべく努めなければならぬ。心を入れかえなければいけない」

 「心を入れかえるといって、そう簡単に入れかえ得る心をもってはいない。…だから私は毫も心を入れかえる必要を認めない。…心を入れかえるなんて、馬鹿げたことは、子供にいうことであると思う」

 私の友は「小砂丘を使う校長がいない」といった時「彼を校長にする視学がいないのだろう」とその視学にいったことがある。真相はこゝにある。真実みんなが人間になれば、も少しみんなの生き得る転任があるだろう。真実彼らが人間としての真実を持たないが故に、不純な気もちの転任を命ずる。そんな時、あくまで是に対抗するということは必要である。(中略)

お仏壇のようです、どこも

 私に比べると、私の妹は確かに勇敢である。妹は師範を卒業すると山奥の学校へやられた。所が妹は頑として応じない。

 「私はそんな所でやれないことを知っている。そこへ困りにゆくことは私には出来ない」というのである。その為にうけるべき制裁は喜んでうけるといって、本人が赴任しないものだから、おかげで、校長も、視学も、師範の校長までも、少からずいじめぬかれていた。(同上)

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 いろいろな意味で、「教育にひとを得る」という問題をぼくは小砂丘さんらの処遇などをみていて強く感じます。現場(教師)と行政(視学・教育委員会)の関係に代表されるテーマです。内容や実情を詳しくな知りません(まったく無知ということではありませんが)。なん人かの校長だった友人や知人がいたし、それなりの交友もありましたから、それぞれがたいへんであるということは感じていました。現場と現場監督のあいだならまだ事情は互いに理解もできるし、納得もできるでしょう。同じ土俵に立って批判しあうという、改善・向上の余地もあるのだろうと思われます。

 そもそも、土俵がちがうんですね。かたや「丸い土俵」なら、こなた「四角い土俵」です。勝負にならない。

 だが、現実には小砂丘さんが嘆いたような事態はいつでもどこにでも多く見られるのも確からしいのです。子どもたちと教師たちの共同作業である「教育」をクロコに徹して条件整備する、その役割に専念すれば問題の起こる余地もうんとすくなるだろうに。残念ながら、見つめる方向がちがっているのだから齟齬をきたすのが当然です。ある人曰く「同じ穴の狢でいいじゃん」別人はのたまう「おれは嫌だね」と。いつまで続くぬかるみぞ。

 「真実みんなが人間になれば、も少しみんなの生き得る」道も開けてくるのです。誰彼の善悪をいっても始まらないという気もします。結論など出ようはずもないのですから。「ひとを得る」といいましたが、これは一面ではないものねだりで、すでに「ひとを得ている」とも思われますから。妙な言い方ですが、はたして小砂丘さんの能力や資質を評価し、思う存分に活躍の場を支えてくれる行政側の人間がいたとして、彼に代わる新たな(別の)人物が来てもそうなる保証はどこにもありません。また彼(ササオカ)は評価に値しないという言い分も「一理」かもしれないと思わせるのが教育界というところでしょうから。毀誉褒貶は人界の常、人事の常態です。

 みもふたもないいいかたですが、ようするに自分の思うところを成し遂げようとし、それを阻害するものが出てきたら闘うしかないのです。(あくまでも現場における実戦で、教師は武闘派であるべし。それは嫌だ、という教師がいてもいい)どこまでも「子どもの側」に立ちつづければ、きっとあちこちから鉄砲玉や矢が飛んできます。「社会状況」に批判的になれば、かならず批判(非難)されるようになる。さらにそれが先鋭化すれば「対立」に発展します。

 「小砂丘」や「上田」は「一高知県」の「この時代」にしかいないのではない。いつでもどこでも同じ問題はくりかえされる(当事者にとってはいつでも初体験ですが)。歴史はくりかえすのではなく、止まっているんですね。ぼくはこれまで、あちらこちらの「校長室」を訪ねたことがどれだけあったことか。わあー珍しい!と驚嘆した校長の居所は一か所もなかった。(どこでも「歴代校長」の写真がありました。それは仏壇室でした。まるで先祖代々、何代目に当たるのが「オレ(当代)」といっているようでした。「灯台」じゃありません)歴史は確実に止まっているのです。歴史なんかない、進歩がないということ・百年一日。「校長」は必滅でも、「校長室」は不滅です。

 ぼくには「校長室」は鬼門でした。だから「鬼門の主」との相性は悪かったし、いまも悪いんですね。

宮本常一さんの若い日の一面

 旧知の岸田定雄から勧められて、宮本さんが郡山中学校の嘱託教師になったのは昭和十九年のことでした。その期間はわずかに一年三ヶ月にすぎなかったが、同僚や生徒たちに強烈な印象を残したのです。

 「同僚教師だった土井実は、あれほど生徒から慕われた先生はみたことがないといい、教え子の下戸保次は、穏和な表情でこの戦争は負ける、ときっぱりいった宮本の言葉が今でも忘れられないという。

郡山中学校

 『昭和十九年の七月、江田島の海兵学校の合格通知がきて先生に報告に行くと、この戦争は負ける、しかし、江田島はいま日本で一番勉強のできる環境にあるので、勉強だけはしっかりしろ、ただし、命だけはもっていかれるなよ、といわれました。あの当時はいばりちらして暴力をふるう先生が多かったんですが、宮本先生だけはいつも懇切丁寧に教えてくれ、われわれに手をあげたことは一度もありませんでした』」(佐野眞一『宮本常一と渋沢敬三 旅する巨人』文芸春秋社刊)

 昭和二十年四月、郡山中学を辞めた宮本さんは大阪府庁の農務課に嘱託としてはいった。大阪府下の各地をまわり、自給体制のために指導してまわったのです。

 「宮本はあるとき、農業指導にたずねていった北河内郡の被差別部落の区長からこんな話を聞き、いいしれぬ衝撃を受けた。縁側に腰をおろし、戦況について雑談をしていたときだった。区長は突然、こういった。

 『私たちはね、本当はこの戦争は日本が勝ってもアメリカが勝ってもどっちでもいいと思っているんです。日本がおさめようが、アメリカがおさめようが、下積みであることにかわりはないのですから』

 宮本は敗戦を説き回っていたが、アメリカに占領されてもいい、と公言する日本人に出会ったのはこれがはじめてだった。

 宮本は自分のなかで区長の言葉を何度も反芻し、これはこの人一人の問題ではない。日本全国には何百万、あるいは何千万というほど下積みの生活を強いられ、自分たちの意志でないことのために働き、しかも報われることのない人びとがいるのだとあらためて思った」(佐野・同上)

 これから一年後、二十一年八月に次男の誕生を旅の空で聞いた。ほんの数日、郷里に戻って赤子を抱き、また旅に出た。と間もなく、次男の危篤をしらせる電報がとどく。急遽引き返して家についたら葬儀の準備中だったそうです。わずか五十日にばかりの生を終えた次男に対して宮本さんはつぎのような手向けの文を書き残されました。

 「私はこの子のためにこの子が生きて果たすであろうと思われる人間としての義務と愛情と誠実とを背負うて将来を生きていきたいと思う。その祝福されたる中にふくまれていた近親者たちの希望のたとえ一部でも私や子の母によって実現したいものであると思う。そしてそれがこの疲れ果てた国土の上に少しでも生き生きしたものをもたらすためのものでありたいと思う」(同上)

周防大島

 ここに、けっして強者の側に立とうとしなかった、小さな巨人がいます。

(宮本さんは昭和二年(1927)に師範学校第二部を卒業し、直ちに尋常小学校訓導に。その後は、教職と病気療養を繰り返しながら昭和十年(1935)までを過ごす。教員生活は通算でも十年に満たなかった。この年に、渋沢敬三、柳田国男に相次いで邂逅。昭和十四年に教職を辞して民俗学研究に入る。この間、渋沢の指導が大きかった)

(手持ちの資料が少なく、じゅうぶんな展開はむずかしいのですが、芦田恵之助さんとの出会いもあったからでもありませんが、「教師・宮本常一」について、できれば「綴り方」教師の視点から書いてみたいと長い間、願っているのです)

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 忘れられぬふたりの先生

渋沢敬三と

 一番印象に残っているのは、高等科一年の時に習った先生ですね。かなり文学好きな先生だったんですが、この先生によって初めてぼくらの中にあった固定観念が破られたんです。絵を画くときも、それまでは線が第一で、薄く色を塗っていたのを、荒いタッチで画くのだと教えられたり、綴方も自分のいつも考えていること、それを書けばいいんだといわれて、きらいなのが好きになったりしたもんです。ところがその先生が一年ほどで転任になってしまったので、あまり残念なのでみんなで追っかけていったりしたんです。そのあときた先生は、人は良かったのですが、前の先生がやめた余韻があったり、真価がわからなかったりして、気にくわんもんですから、私が大将になって、ストライキをしたんです。そのために、ついにその先生がやめてしまったんですが、やめるとき、ぼくに“きみはおおきくなったら学者になれ、この書物はたいへん参考になると思うからきみにやる”といって、『瀬戸内海論』という書物をくれたんです。私はその書物を今でも持ってますが、ストライキをやった生徒を憎みもせずに、本をくれたんですから、今思うとやはり偉い先生だったんですね」(「農に生まれ農に生きる」「人間の科学」に所収。誠信書房、1963年10月)

〇宮本常一(1907~1981)民俗・民族・民具・生活学者。山口県大島郡東和町(現、周防大島(すおうおおしま)町)生まれ。大阪府天王寺師範学校卒業後、大阪府下小学校、奈良県郡山(こおりやま)中学校教員歴任のかたわら近畿民俗学会で活躍。柳田国男(やなぎたくにお)、渋沢敬三に認められ1939年(昭和14)上京。渋沢の主宰するアチック・ミューゼアム(現、神奈川大学日本常民文化研究所)研究所員となり、以来全国各地を調査、その足跡は日本の隅々に及ぶ。かたがた各地で農業および生活改善にかかわる教育指導を実践。またその調査研究は社会・経済・文化各領域にわたり、独特の民俗学を確立。さらに民具学、旅学(たびがく)、島嶼(とうしょ)学を提唱した。一方、全国離島振興協議会、林業金融調査会、日本観光文化研究所等の設立運営に尽力した。1964~1977年武蔵野(むさしの)美術大学教授。文学博士。周防大島文化交流センター(周防大島町)には、宮本が収集した民俗資料、文献などが収蔵展示されている。[高松圭吉](『宮本常一著『瀬戸内海の研究』(1965/復刊・1992・未来社) ▽『宮本常一著作集』全50巻(1967~2008・未来社)』)(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

専門家から素人の時代へ

 二十世紀は「専門家の時代」でした。科学や技術や芸術はもちろん、戦争や強盗、商売や政治の世界まで、専門家たちがさかんに覇を競っていたのが前世紀だったと思います。もちろんいまでも「専門家」がいっぱしのことをいってはいますが、医者が患者を死に至らしめ、教師が生徒を無能にし、科学者は商売人と結託して環境を破壊してしまい、政治家は金の亡者みたいに成り下がってしまったのも事実のような気がします。(あらゆる「専門家」がそうであるというのではないこと、もちろんです)

 専門家になるにはどうすればいいか。一点を除いて他のことがらにはすべて無関心になることです。大学では七科目入試や五科目入試がありましたが、それもだんだん「専門性」が求められたのか、「三科目」入試は「一科目」試験に凌駕されてしまいました。その結果どうなったか。いわなくてもいいでしょ。一点(一科目)を除いて、まったく空っぽ。

 それに輪をかけるように、大学ではありもしない(とはいわないが)「専門性」を高めるという理屈で、どんどん「教養にかかわる授業」を削減しました。その反動で起こってきたのが、まるで文科省の「ゆとり教育」みたいなものでしたね。内容の三割削減や週休何日制などの導入だった。

 どんなものにも反動はあります。いまはまた「教養教育」の花盛り。法学教養や教職教養はいうまでもなく、商売教養や政治教養まで叫ばれたりします。挙げ句の果てに、よくわからないけど「国際教養」などという新手の「教養」まで売りにだされました。これはいったいどんな教養なんだろう。知らないのはボクだけで、ホントは立派な「国際教養」があるにちがいない。たとえば、…。ホントは「国際強要」だったりして。グローバルとか何とかいってさ。

 民俗学者であった宮本常一さんに『日本を思う』という文章がある。そこに次のようなことが書かれていました。単細胞のぼくは、なるほどと納得した次第です。

 《年功序列とは本来能力主義のことだったのである。過去の日本社会で年功序列がいちばんはっきりしていたのは漁撈社会だが、それは農業などとは違って、個人の能力が収穫にじかに反映するからである。そしてその体験によって認定された。漁撈社会ではこれは合理的な考え方であったに相違ないが、それが現在の会社組織にまで持ちこまれると、往々にして逆の意味に取られるというのは皮肉である》

 《少なくとも学校教育はその住んでいる場をよくするためにあるのではなく、その場をぬけ出してゆき、また自分の属している階層からぬけ出して、より高い階層に入るために存在していると言っていい。学校出という肩書が物をいうのはそのためである。

 しかし肩書が物を言わなくてすみ、学ぶことによってその住む社会全体が高まってゆくような考え方なり生き方なり、政治がほしいものであるということを歩いていてしきりに感ずる。が世の中はそれとはまるで違った歩みをつづけていきつつある》

 この文章が書かれたのは70年代の直前です。「高度経済成長」などという大津波が発生して、教育も政治も文化もすべてが経済の「配下」に完全に置かれた時代のことでした。経済が優位に立つ社会は「福笑い」(規格外)を締め出し、「教養」を虚仮(こけ)にし、年寄りを邪魔者にする体制であったことはまちがいなさそうです。ようするに、金にならなければ、教育も教養もあったのもか、ということになったんだと思われます。

 まだまだ元気であったころ、画家の岡本太郎さんは「肩書は?」と聞かれて、「人間」などとしゃれたことを言っていました。「肩書」がものをいうのかね、と訝りながら、ぼくは、平凡に徹しようと、何十年も生きてきたのです。世間でいう「いいこと」の何十倍も「よくないこと」をしてきたぼくには、だから幸いにして語るべき、誇るべき「肩書」は皆無。だが、ものをいう「肩書」は微塵ももち合わせないけれど、人の何倍も「社会全体が高まってゆくような」生き方を懇望してきたように思います。まだまだ、足りませんが。歩みの鈍(のろ)いにも程があると、自分でも思いますが。慌てず騒がず。 

 「高度経済成長」という呪文を必死に唱えながら、いまもまだ、その描かれた軌跡の延長線上を、翔ぶがごとく、歩くがごとく、転ぶがごとく。一夜の迷妄ならぬ、積年の白昼夢ですね。世の中に「不幸」「不善」が充満しているにもかかわらず、要路に立つ人々は「経済」、いや「金儲け」から抜け出せないで足掻いています。「国難」と叫ぶしりから、「万事が金」かね。他人の十倍の収入があっても、十人前のメシは食えないんだなあ。

 二十一世紀も二十年経過。はたして普段着の「素人」は歩きだしているのか。もちろん専門家(玄人)はいなくならない。歴史は地層だから、なくなりはしないのです。だからといって、これまでのように専門家風を吹かしてもらっては困るんだ。素人を侮ってもらっては、なお困るんだね。だれだって、根も端も「しろうと」だったんですから。(そこらにある辞書の解説には要注意ですね。以下を参照。狭いし、低いよ、程度が)ぼくの生き方は素人のものです。人生の素人。

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*しろ‐うと【素人】 の解説 《「しろひと(白人)」の音変化》

1 その事に経験が浅く、未熟な人。その道で必要な技能や知識をもっていない人。また、その事を職業・専門としていない人。「素人とは思えぬみごとな芸」「素人考え」⇔玄人 (くろうと) 。

2 芸者・娼妓などの商売で客の相手をする女性に対して、一般の女性。堅気の女性。⇔玄人 (くろうと) 。

「浮利を追わず」だって、住商は

3 近世、上方で、私娼のこと。「かくとはいかで―の、田舎の客に揚げられて」〈浄・油地獄〉

*くろ‐うと【玄人】 の解説

1 技芸などに熟達した人。ある一つの事を職業、専門としている人。専門家。くろと。「玄人と思わせる包丁さばき」⇔素人 (しろうと) 。

2 芸者・ホステスなど、水商売の女性。くろと。⇔素人 (しろうと) 。(デジタル大辞泉)

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白だ黒だと喧嘩はおよし、白と言う字も墨で書く

建物は精神の住みか(番外編)

 東京海上ビルをめぐる渦巻きをも包みこんで時代の流れは激しく動いた。ハイウェイの貫入によって街の表情を変えていったこの国の高度経済成長の先行きに、前川國男は深い危惧の念を抱いていた。「日本の現在の状況は」と彼は書いている。「あるいはこれを経済の繁栄である」とする政治家もいるであろうが、たとえ庶民はかりそめの快適さに充足感を味わっているとしても、花の枯れた旧都、鳥の鳴かない田園、そして汚辱と非行とにあふれた危険大都市のどこに、人間の尊厳をみいだしうるであろうか」と。(宮内嘉久『前川國男 賊軍の将』晶文社刊)

上野文化会館

 前川國男。物故して三十五年が立過ぎようとしています。その代表作は東京文化会館、紀伊國屋書店本店、神奈川県立図書館・音楽堂、京都会館、埼玉会館、国立国会図書館新館などなど。前川も設計した建物にぼくはどれほど通ったでしょうか。若いころ河名前は知っていたが、前川がどんな人かまったく知りませんでした。上野には何十回、紀伊国屋にも。馴染まないことおびただしい建物だなあ、と感じたことは確かです。

 文中にある東京海上(現、東京海上日動、左の写真)ビル問題とは、東京海上ビルの本社建て替えを前川に依頼し、65年10月に東京都に建築設計の申請を出したが東京都は皇居を見下ろすような建物を認めるわけにはいかないという理由で認めなかった。高さ制限が外され、容積率規制に切りかわった時期で、申請拒否は不当なことであったのです。(高くすることを認める、その代わりに敷地の部分を開放せよ)

新館
上野西洋美術館

 これは丸の内一体に膨大な土地をもつ三菱地所の意向に配慮しすぎた都の偏った行政だったことが明らかになります。詳細は省きますが、敷地の開放は地主の三菱にとっては利益を損ねる話であって、だから三菱は東京海上ビルの建築に横やりを入れ、東京都に働きかけたのです。後には時の総理大臣が国会で、この問題に言及することさえありました。(「皇居を直接見下ろすようなビルは不敬に当たる。国民感情からしても好ましくない」)

 都は条例を設けて前川設計による建築を中止させようとしたし、マスコミも「美観」をそこねるという都の方針の尻馬に乗り、無責任な報道を垂れ流していた。ようやく申請から五年を要し、最上階の五階分を削るという妥協によって認可されることになった事件をさしています。国や都の行政がだれの利益を図ろうとしているのか、事態は旧態のままなのです。

旧館(敗戦直後はGHQ本部に)

 前川さんは大学卒業(23歳)と同時にル・コルビュジェのアトリエに入所。二年間の留学から帰国して以来、近代日本の代表的な建築家として生涯を貫いた人です。

 ちいさなエピソードをはさみます。戦後の52年、日本相互銀行本店(*当時。下に写真あり)が竣工後に、雨漏りがひどいと聞かされた前川は「掃除の小母さんが来る前に単身その現場に赴き、外壁のプレキャスト・パネルの目地に問題があったことを突きとめ、コーティング(充填剤)を全部取り替えることにした、その経費、当時のカネで三百四十万円を自己負担して」(同上)  

 これに照応するような話が現世利益の建築家だった丹下健三にありました。さる有名なゴルフ場のクラブハウスを設計した彼のところへ、雨漏りがひどいのでなんとかしてほしいと支配人がたのみにきたところ「あゝ、それはどうぞそちらでご自由になさって下さい。私の仕事は、建物が出来、竣工写真の撮影がすんだら、それで終わっておりますので」これを聞いた前川は、「建築家の風上におけんよ」と吐きすてたというのです。(前川・丹下両氏は「子弟」関係にありました。この間の二人の感情のもつれは他人には分かりかねるところであります。幾分かは著者の宮内さんの言い分に、ぼくが揺れたかもしれません。いずれは心静かにして、二人の関係(子弟?)を愚考したい)

 恥ずかしくなるようなグロテスクな「骨格」を日夜さらしていた東京都庁の設計も丹下さんでした。竣工後、「これは巨大な粗大ゴミだ」と言い捨てたのは気鋭の設計家の磯崎新さんでした。(ここの束の間の「主」にはどうしてろくでもない輩が座るのかな。設計者の祟りか。この地に建てるについても紆余も曲折があり過ぎました。政治家不動産屋の暗躍が)

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〇日本相互銀行の変遷(日本の企業の系譜というか、M&Aの軌跡というか)

都庁

  太陽銀行┐      

      ├─太陽神戸銀行┐

   神戸銀行┘       ├─さくら銀行┐

           三井銀行┘      ├─三井住友銀行

丹下氏

                 住友銀行┘

※太陽銀行の前身は大日本無尽

旧日本相互銀行本店

 1940年 大日本無尽設立

 1948年 日本無尽に改名。

 1951年 相互銀行に転換して日本相互銀行

 1968年 普通銀行に転換して太陽銀行

 1973年 神戸銀行と合併して太陽神戸銀行

 「いま最もすぐれた建築家とは、何もつくらない建築家である」(前川國男「<建築家>」JIA1971年春号) 

 「いま最もすぐれた教師とは、何も教えない教師である」(?)

〇前川国男1905‐86 建築家。新潟市の生れ。1928年東京帝国大学建築学科を卒業後,渡仏してル・コルビュジエに師事し,近代建築の持つ倫理観に影響を受ける。帰国後多くの競技設計で国粋的な建築様式と対抗するが,〈大東亜建設記念営造物懸賞設計〉(1942)の審査員として丹下健三による軍国主義下の画期的作品を追認した。戦後は被災住宅の復興に力を注ぎ,また建築表現のための技術追求により戦後建築の基礎をひらいた。作品に紀伊国屋書店(1947),日本相互銀行本店(1952),東京文化会館(1961)などがある。(世界大百科事典第二版)

醜悪の館(フジテレビ本館)

〇丹下健三(1913~2005) 建築家。大阪府生まれ。東京大学教授。戦後日本を代表する建築家・都市計画家として海外でも多くの作品を残す。代表作に広島平和記念資料館・新旧東京都庁舎・東京オリンピック国立屋内競技場・大阪万国博覧会会場・スコピエ都市計画・フジテレビ本社ビルなどがある。(大辞林第三版)

東京カテドラル(丹下氏設計)

(蛇足 今回は前川・丹下の師弟関係を書いてみようかなと愚考したのがきっかけでしたが、それには触れられなかった。どの業界でも師弟関係はつきものです。しかし、建築・設計の世界には独特のものがあるという見立てをぼくは持っています。前川とコルビジェ、これも興味津々というところですが、いずれも機会を改めて黙考してみたいですね)

(本日は「昭和の日」だとさ。「STAY HOME」とだれに言われなくとも、ぼくは草取りや土いじりです。その合間を縫ってお買い物。ネットで「チューリップ」(佐倉)や「フジの花」(福岡)を無残にも切り落としている映像が流れていました。「三蜜」だか「八蜜」を避けるためだとか。ヤナことを言うバカ者もいるんだ。人が集まらないために「花々」を切り倒すというグロテスクな仕業、心ない仕打ち。サクラ見物を避けるために「桜木」も切り倒せばよかっただろうに。「苦渋の選択」だと。そういう選択はあるのでじゃないよ。虫唾が暴走してさ、言葉もないやね。かくして前川や丹下の設計による建物も破壊される運命にあります。やっぱり長明さんの「方丈庵」だね、それはプレハブでした)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

教師自身が解放されなければ…

 ここにも、何人もの「教師の影」がありますよ。

 「もしも、意地悪の録音家がいて、先生のコトバを、こっそりと、そっくりそのまま録音したとすれば、どんなことになるのでしょうか。わたくしは、あるとき、こんなことを考えて寒む気をもようしたことがありました。

 ―何なにしてはいけません。

 ―何なにするのはいけないことです。

 ―それはダメです。

 ―しなければなりません。

 ―するものです。

 ―したらいいでしょう。

 ―するように注意しなければなりません。

 ―しなさいよ。

 教師のコトバの語尾というものは、どうして、こうも、禁止や覚悟や命令義務感や道義に関係するもので結ばれるのでしょうかしら…

 あまりにも芸術性に乏しい、概念のコトバのら列とその終結にわれながら驚くということもしばしばありますので、外国映画の画面のすみにかかれる日本語訳のみじかい、気のきいいた文章に、思わず心うたれて、ハッとするというようなこともありました。

 生きた子どもたちと、魂の触れあいをしているところが学校の教室なのですから、どうにかもう少し感動的なコトバのとりかわしを、わたくしたちはできないものでしょうか。このこともまた、わたくしたちの古い型からの解放のために、ぜひ自覚してみたいことだと思われます」(国分一太郎『君ひとの子の師であれば』東洋書館刊、1951年)

 国分さん(1911~85)は山形の出身、もと小学校教師であり児童文学者でもありました。戦前・戦後の「生活綴方」実践の第一人者と自他ともに認めていたひとです。

 国分さんの指摘はけっして教師にだけあてはまるものではなさそうです。親もそうだし、警察官もそうです。たいていの大人は子どもに対して、そのような口をきくのではないでしょうか。まあ、すべてが命令口調なんですね。ホントにいやになるほどです。

 さらに国分さんはつづけます。

 「また、教師のコトバには、よく「だから」とか、「それだから」とか、「そのために」とかいうコトバが出てきます。けれども、よく聞いていると、そのコトバも、どうして「だから」なのか、何のために「そのために」なのか、どうだから「それだから」なのか、よくわからないことが多いようです。

 つまり、教師たちが、ほんとうにわかっていて、事実をつみかさねて、「それ故に」というコトバを使用していないようなことさえ多いことに気がつくのです。そのくせ、子どもたちに対してだけは、「もっとはっきりといいなさい」とか、「正直にいいなさい」とか、「どういうわけで、そうなのか、よく考えていいなさい」とか、勝手な注文をしているときが多いようです」(同上)

 他者とていねいに話をすることは、殊の外、むずかしいようです。たとえ、それが生徒であっても子どもであっても、相手に言いたいことが伝わるというのは簡単なことではありません。決まり文句、それしか言わないのは教師や親で、聞かされるほうはうんざりするほかないのですね。「早くしなさい」「静かにしなさい」と親も教師もそれしか言えないのかとおもわれるほど、この文句を言うのです。

 それを「注意」と勘ちがいしてるんだね。子どもに注意する、生徒を注意するといいながら、ようするに「命令」し「禁止」し、「文句」を垂れるだけなんだ。これを「お為ごかし」といいます。

(お為ごかし=おため‐ごかし【▽御▽為ごかし】 表面は人のためにするように見せかけて、実は自分の利益を図ること。じょうずごかし。「お為ごかしの親切」「お為ごかしを言う」デジタル大辞泉)

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  汽笛               (秋田県金足西小学校4年生)

 あの汽笛          

 たんぼに聞こえただろう

 もう あばが帰るよ

 八重蔵 泣くなよ

 「これが北方教育の叙情だ」といって、たくさんの東北の教師たちの前にこの詩をつきつけたのは山形の国分一太郎さんでした。その国分さんは昭和九年十一月、仲間をさそって「北日本国語教育連盟」を結成。翌年には機関誌「教育・北日本」を創刊することになります。

 《その(生活の困窮・疲弊)ため、子どもたちは生活の危機にさらされ、かつかつの生存権の確保のため、学習の権利をすら奪われがちである。このような状態から子どもたちを救い、彼らの将来の幸福を保障するためには、子どもたちの教育の上でも、現実におし流されてしまう子どもをつくるのではなく、どんな状態のなかでも生き抜いていく意欲の旺盛な子どもを作らねばならないし、この現実を変革していく方法を追求する知性をもった子どもに育てなければならない》(国分一太郎「北方性教育」『生活綴方事典』所収)

 国分さんについてもこの後(ブログ)で、「北方(性」教育」の実践家の一人として、その活動を概観していきたいと考えています。まぎれもない「生活綴り方」教育の展開をさらに進めた功績者でした。東北地域(方)における学校教育の一側面を「北方(性)教育」という名で呼ぶとすれば、さしずめ上田庄三郎さんや小砂丘忠義さんたちの教育実践を「南方(性」教育」を称することもできます。だとすれば、「中央(性」教育」というものもあっていいんでしょうね。はたして、それはどんな教育実践だったか。

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作文または綴り方(閑話)

〇小学校に教科目として綴方(作文)が設けられたのは明治二十四年(文部省令)

小学校教則大綱(抄)(明治二十四年十一月十七日文部省令第十一号)   

*「第三条 読書及作文ハ普通ノ言語並日常須知ノ文字、文句、文章ノ読ミ方、綴リ方及意義ヲ知ラシメ適当ナル言語及字句ヲ用ヒテ正確ニ思想ヲ表彰スルノ能ヲ養ヒ兼ネテ智徳ヲ啓発スルヲ以テ要旨トス/ 尋常小学校ニ於テハ近易適切ナル事物ニ就キ平易ニ談話シ其言語ヲ練習シテ仮名ノ読ミ方、書キ方、綴リ方ヲ知ラシメ次ニ仮名ノ短文及近易ナル漢字交リノ短文ヲ授ケ漸ク進ミテハ読書作文ノ教授時間ヲ別チ読書ハ仮名文及近易ナル漢字交リ文ヲ授ケ作文ハ仮名文、近易ナル漢字交リ文、日用書類等ヲ授クヘシ」

小学校教則

 明治三十四年冬に書かれた尋常小学校四年生の綴方を以下に掲げます。題して「擬戦の記」とあります。

 明治三十有一年十二月九日、当校の四年級一同、白赤の隊となり、列を組み、午前八時十五分過に門を出て、整々堂々雉子橋を渡り、竹橋を入り、気象台の橋前を出で、麹町より四ッ谷門を過ぎ、内藤新宿に着き、それより分かれて、甲州街道を進み、玉川上水の架橋を渡り、暫くして左に曲がり、林に添える道にて軍歌を唱えて進み行きしに、其声天地に震いて、実に勇ましかりき。それより田畝に出でて見渡したるに、はや洗浄見えたれば、白隊は八幡山に陣を取り、赤隊は赤旗山に陣を布きて控えたり。折柄回線の用意を告げければ、伊藤君分隊を率いて前進す。時に敵陣のうち、高浜君一隊を引きつれ来るを見、此にあたり、ふんぷんとして戦い居たるに、敵兵林中より雲霞の如くああらわれければ、我が隊田畑の中を進み、適の左翼を打たんとせしに、之を知られければ、其こにて暫く血戦したるが、遂に破られて打死す。此時白軍勢鋭くしてて、赤悉く死して陣を取られたり。(以下略)

 次は大正三年のものです。同じく尋常小学校四年生が作者。

 まちにまったぎせんの日が来た。こんどは四年生だから、しっかりやろうと、腕に力こぶをいれて、学校を出た。初夏の風にふかれて、ヶ敷のよい道をあるいていったのは、こころもちがよかった。すこしくたびれたと思った時は、もう目の前になつかしい落合の原が見えた。

 よろこんで三分隊にはいると、やくわりがきまって、かいせんのラッパが野山にこだましてひびいた。

 それと同時にたまがぴゅうぴゅうととびかいはじめた。

 あっちが破れ、こっちがやぶれして、出るけっしたいのこゑもいさましい。そのうちに白がおしよせていって、赤の軍旗をぬいてもどって来たら、そばまでむかいにいった。第二回はかち、第三回はまけた。それからべんとうになった。べんとうをあけてほうばった時は、実にうまかった。すんでから一度あり、さいごの合戦となると、大さわぎmわいわいといってたたかった。そのうちにおわりのラッパがなって、白のかちとなった。白のよろこびのこえは、耳をやぶって、わあっと天地にひびいた。(「擬戦」大正三年春尋四)

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  おやのおん                               尋常二年男 ○ ○ ○ ○   

 私のきものは、お母さんがこしらへてくださったのです。学校へくるのは、お父さんやお母さんのおかげです。うちでは私をかはいがってくださいます。このおんをわすれてはなりません。おんをかへすのにはお父さんやおかさんのいひつけをよくきいておやにしんぱいをかけないやうにして、学校ではせんせいのおしへをまもるのです。それでおんはかいせるのです。(明治四十三年度各学年綴方優作集 白金尋常小学校) 

 およそ百年前の尋常小学校二年生の綴方です。「いひつけをよくきいておやにしんぱいをかけないやうにして、学校ではせんせいのおしへをまもるのです。それでおんはかいせるのです。」この部分には傍点(二重丸)が付されています。親の恩を忘れないどころか、それをかえすための処方を求めた課題であったと思われます。

 じつに紋切り型ですね。この「作文」の筆者はだれでしょうか。こんな見え透いた文章を書いていたのか、詰まらない。ぼくはがっかりした記憶があります。(あるいは作者は、作文の課題をよく呑み込んでいたので、「模範文」を書いたかも、と考えたりもしたのですが)それにしても「親孝行」というのはこんな陳腐なものであったのかね。教師はこれを書かせるために腐心していたのですね。書いた人は、文芸評論の領域を開いたとされる小林秀雄(1902-1983)さんでした。

 まさしく「閑話()」でした。(閑話= むだばなし。 心静かにする話。もの静かな会話)

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