「好きなことをやんなさい」(承前)

 回転すし店に車突入、14人けが 大津市内、運転の男逮捕

 6日午後6時半ごろ、大津市大江の回転すし店「スシロー瀬田店」にワゴン車が突っ込んだ。大津市消防局によると、子ども5人を含む客14人がけが、37歳の主婦は左脚骨折で1カ月の重傷。大津署は自動車運転過失傷害の疑いで、車を運転していた大津市瀬田、トラック運転手山末裕昭容疑者(59)を現行犯逮捕した。同署はブレーキとアクセルを踏み間違えた可能性があるとみて調べている。(共同通信・10/06/06)

 忍び込んでみたら警官の家! 窃盗未遂容疑で現行犯逮捕

 窃盗目的で忍び込んだ民家は警察官の自宅だった――。京都府警は6日、住所不定、無職真崎稔容疑者(67)を住居侵入と窃盗未遂の疑いで現行犯逮捕し、発表した。府警によると、真崎容疑者は「盗み目的で入った」と容疑を認めているという。

 府警によると、真崎容疑者は6日午前11時40分ごろ、京都市伏見区の2階建て民家に侵入。机の引き出しなどを物色していたところ、非番で自宅にいた東山署地域課の男性巡査(28)が物音に気付き、取り押さえて現行犯逮捕した。男性巡査の大声で、近所に住む別の男性警察官も駆けつけたという。(朝日新聞・10/06/06)

 電線窃盗容疑でとび職逮捕 電柱登って切断、感電

 電柱によじ登って電線を切断し、盗んだとして、北海道警苫小牧署は4日、窃盗の疑いで住所不詳、とび職平岡佳基容疑者(49)を逮捕した。逮捕容疑は2月15日、苫小牧市樽前の電柱に設置されていた長さ約20~40mの銅製の電線11本(約2万3千円相当)を盗んだ疑い。同署や北海道電力によると、平岡容疑者は感電して両手をやけど。さらに電柱から落ち、腰を打って入院していた。(共同通信・10/06/04)

 ✖回転すし店に飛び込んだ運転手は何を食べようとしていたか。(「シャコ?」)

 ✖警官の家に忍び込んだお父さんの罪名は「何」だと思いますか。(「前方不注意」?)

 ✖感電し落下し入院した鳶(とび)のお父さんの「診断名」はなんだっただろうか。(「打骨感電症」?)

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 「好きなことをやんなさい」「やりたいことをやってください」は命がけだということ。

 「あんたの好きなことをやんなさい。それが一番の親孝行」とおっかさんがいったかどうか。あるいは「なんでも、やりたいことをやってください」と妻が後押ししてくれたか。いずれにしても、この列島(劣等)ではいろいろと「好きなこと」「(やってはいけないのに)やりたいこと」をなし遂げようとしている強者・弱者(愚者・悪者)が後を絶たないようです。現下の「パチ」はいかがですか。ぼくは、なにがなんでも「やらせない」派ではありません。なにごとも「やりすぎ」はよろしくない。「自粛」でホントに感染しないんですか。何事も無理に抑えると、ろくなことはない。(「浜の真砂は尽きるとも 世に盗人のためは尽きまじ」と嘯いたのはだれ?)

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オマケです。

 電線盗容疑の男再逮捕 88件関与か 市原署

 電柱に登って電線を盗んだとして、市原署は19日、窃盗の疑いで住所不定、無職、根本政明容疑者(31)=別の窃盗罪で起訴=を再逮捕した。市原市内では昨年以降、電線が何者かに盗まれる事件が88件(被害総額約2500万円)あり、同署は根本容疑者が関与したとみて裏付けを進める。

ピカ線という

 再逮捕容疑は2015年10月28日~18年7月25日午後2時ごろの間、同市菊間の市道で、電柱に設置された電線2本(被害額約23万円)を特殊な工具で切断して盗んだ疑い。

 同署によると、根本容疑者は7月に暴行事件で逮捕された際、乗っていた車から盗品が見つかり、電線を盗んだことを認めた。過去に電気関係の工事に関わった経験があるといい、同署は窃盗(自動車盗)容疑での再逮捕後、電線を盗んだ疑いでも捜査していた。

 根本容疑者は盗む上で危険の少ない低圧線を狙って犯行を繰り返し、盗品を売却したとされ、「電柱に登り、電線を切って盗んだ。生活費と遊ぶ金欲しさにやった」と供述。同様の被害は周辺の自治体でも確認されており、同署は根本容疑者との関連を調べる。(千葉日報・2018年9月20日)

 拙宅は山中(といっても、ほんの丘程度の高さです)にあります。土地柄か、太陽光発電が盛んですね。立地条件がいいのでしょう。(ということは)そのせいか、パネルと蓄電装置をつなぐ太いケーブル(銅線か)の盗難が頻繁に発生しています。散歩していると、持ち主の「やられた、三度目や!」「もうあかん、廃業やで」(なぜか、関西弁)という悲鳴が看板に掲げられているのをしばしば目にします。また、歩道の雨水を逃がす「グレーチング」の盗難も盛んに。某所に転売するそうです。

 売電や買電が政策として促進されてきましたが、いまでは終了してしまいました。だれが得をしたのか。東電は盗電を連想させて、よろしくない。ぼくは「トーデン」との契約をやめました。ろうそく生活でもしようかと、思案中です。(ネットはどうする?)

 漬物桶に塩ふれと母は産んだか 

 何がたのしみで生きてゐるのかと問はれて居る (放哉から二句)

「好きなことをやんなさい」

 一流企業で役員コースに乗った四十九歳のエリートサラリーマンが、故郷で独り暮らしをしている母親の病気を機に人生を見つめ直し、電車の運転士になりたいという子どもの時の夢を実現させる-▼映画「RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語」は、ばらばらだった家族の再生物語でもあり、鉄道ファンならずとも見応えがある。ところが、現実にはさらに上を行く人たちがいた▼訓練費七百万円を自己負担しても、運転士になりたいという男性四人が先日、千葉県のいすみ鉄道に契約嘱託社員として採用された。訓練費は四人とも貯金などで工面して、既に一括納付したという▼「小さいころからの夢を実現させたい」と、三十年近く勤めた会社を辞めた男性は家族に反対されたが、最後は「やりたいことをやってください」と理解してくれたという▼房総半島の水田地帯や山あいの木立の中をのんびりと走るこのローカル線は一九八八年、県と沿線の自治体が出資し第三セクターとして開業。それ以来、ずっと赤字が続き、廃線の危機に直面している。四人の夢がかなうよう経営の再建を願うばかりだ▼映画では、運転士への挑戦を決めた主役の中井貴一さんに、母親役の奈良岡朋子さんが病床から語りかける場面がある。「好きなことをやんなさい。それが一番の親孝行」。母の言葉はありがたい。(東京新聞「筆洗」・10/06/06)

 公募運転士、夢へGO! 千葉・いすみ鉄道、4人採用

 千葉県のローカル線「いすみ鉄道」は10日、運転士になるための訓練費700万円を自己負担してもらう条件で公募していた訓練生4人を契約嘱託社員として採用した。4人は1~2年かけ、「夢の運転士」を目指してレールを走り始める。

 自己負担で自社の運転士を養成するのは全国で初めて。4人は千葉、東京、埼玉、広島の40~50代男性。応募時はいずれも会社員で、現時点では会社を辞めた人も辞めていない人もいる。訓練費は4人とも貯金などで工面して、既に一括納付したという。

 10日、本社がある大多喜駅ホームの辞令交付式で、鳥塚亮社長は「皆さんの経験を生かし、地域社会に貢献する姿を見せてほしい」と激励した。/埼玉県志木市の吉井研治さん(51)はインターネットで公募を知り、「小さいころからの夢を実現させたい」と、29年勤めたバイク卸売会社を4月末に退職。妻と3人の子どもは当初反対したが、最後には「やりたいことをやってください」と後押ししてくれた。「小さいころから鉄道や飛行機に乗るのが大好きだった。不安もあるが頑張りたい」と笑顔を見せた。

 4人は9月の学科試験に向け、日曜日ごとに講義を受講。年末には実技試験があり、両試験に合格すると、ディーゼル車の運転に必要な「甲種内燃車運転免許」の国家資格を取得できる。さらに半年ほどかけ、同社の運転士と車両に同乗して訓練を受け、社内試験に合格すれば嘱託運転士になり、週1日以上勤務するという。

 訓練期間中は、県の最低賃金に準じた賃金が同社から4人に支払われる。/いすみ鉄道で働く運転士11人は全員がJRからの出向社員かOB。うち4人は60代と高齢化が進み、保有するディーゼル車6両の運転に必要な国家資格を持つ運転士は減少していた。/経営再建中でもあり、同社は3月、「鉄道ファンに夢を実現してもらえれば」と自己負担を条件に訓練生を公募。千葉と東京で開いた説明会には計24人が参加し、5人が選考試験を受けていた。

 いすみ鉄道=千葉県の房総半島中央部を走るローカル鉄道。大原駅(いすみ市)-上総(かずさ)中野駅(大多喜町)の26・8キロ(14駅)を運行。1988年3月、県と沿線自治体が出資し第3セクターとして開業したが、慢性的な赤字体質で2008年度末の累積赤字は約1億5000万円。社長を公募するなどし経営再建中。(中日新聞・10/05/10)

 この春(4月1日)、いすみ鉄道は開業(国鉄木原線として)90周年を迎えました。苦節も苦節、よくも運行していますなあ、というほどに、苦心惨憺の歴史を重ねてきた鉄道です。たかだか運行距離が27キロ未満でも、住民の足ですから、廃止するわけにもいかずで、まさにいまなお、悪戦苦闘。ぼくは鉄道好きじゃありませんが、この路線だけは別格。山中で出会うとどっきりします。この4人の「転職組」は今も健在のようですが、詳細は未確認です。コロナ禍がすこしでも落ち着いたら(いまの対策じゃおぼつかない)、ゆっくりと出かけてみたいと考えています。

 もうずいぶん昔になりましたが、「鉄道員」(ぽっぽや)という映画(1999年公開)の切符をいただいて鑑賞したことがありました。出演していた女優さん(なんとか涼子)の知り合い(所属事務所の経営者)からいただいたものです。高倉健さん主演。著名な方が出演していたそうですが、記憶にありません。また、映画の印象はいまでは稀薄です。ぼくは映画はからきしだめです。観る力がないのでしょう。(何本もエキストラで出たことがあるんだ、京都時代に)やまのかみにいつでも軽蔑されています。彼女は映画大好き人間でしたから。

 いすみ鉄道は、映画化にドラマ化(NHK BS放送)と大もてぶりですが、現実の営業には陽光が差しません。房総(暴走)半島には「銚子電鉄」「小湊鉄道」と車社会では「無用の長物」(厄介者)化した鉄道路線があります。これは劣島の縮図ですね。痴事さんにひとはたらきを願いたいが、そりゃ無理ですね。

 「菜の花ラインに乗りかえて」は吹石一恵主演。(ときどき、「本田かおりさんはいますか」と乗客に聞かれるという。吹石が演ずる「元国際線客室乗務員」の作中名。リストラにあって、転職したという想定です。のどか(長閑)だし、世間からずれている(ヴァーチャルリアリティ)「乗客」がいいですね。(だから赤字なんだわ)これ以上、余計なことはいわない。ナイナイになりたくナイから)

子供も育ち、父母、教師も育つ

 木々の緑が目にまぶしい季節が続く。五月晴れの光に輝く緑もよければ、雨にぬれるしっとりした緑も鮮やかだ。この時期に旅先の車窓から眺める田んぼの緑も楽しい▲植えたばかりの細い苗が風に揺れている。遠目からは、一枚一枚の田んぼが薄緑色にくくられて、まだ苗のない代田と絶妙なコントラスト。目を凝らせば苗の列がくっきり線条となり、これまた見事な幾何学模様を作る▲長い列島、田植えの時期はそれぞれだ。沖縄県の3月初旬から始まり、ちょうど今は北海道が最盛期に入る。稲の品種や二毛作との関係で6月までかかる地域もある。そもそも、5月を「さつき」と読むのは、田植えをする「早苗月」からきたという▲田植えと言えば、かつて棚田を借り苗を1本ずつ手植えしたことがある。水ぬるむ田に地下足袋姿で腰を曲げ、という昔ながらの体験で、最も感動したのは、何とも心もとない2、3枚のひょろひょろした葉が太陽と水と土の力で十数本のたくましい稲に分けつ(枝分かれ)していく過程だった▲もちろん、自然の力に頼るだけで良き収穫は望めない。適切な除草や水管理があってはじめて実りの秋を楽しめる。それ以前に、まだ冬の終わらぬうちから田を起こし、あぜぬりし、堆肥(たいひ)を入れ、田打ちをし、水かけ、しろかきをする。この基本動作が欠かせない。(略)(毎日新聞・10/05/24)

 このところ、近辺の田植えはほとんどが済んだようです。早苗の美しさには例えるものがない、独特の清新さがあるので、ぼくはときにあぜ道に降り立ち、早苗の風に揺らぐ姿を眺めることがしばしばです。「揺らぎの姿勢」はぼくのもっとも好むスタイルであるのです。好きな言葉じゃないのですが、「ブレる」のがわが流儀なんです。

 その昔、田植えは「早乙女」という若く明るい女性たちの晴れ舞台でもありました。田植えは、稲を運んだりしている男どもが好みの相手を見つける(婚活の一種だった)ための行事でもあったのです。今はほとんどが機械化され、細部の始末だけを人手でするのです。遠目にも老夫婦らしい二人が苗を植えています。うんと昔の「早乙女」の横に、それを見染めた「昔の嵐君」が寄り添うように植えていました。(興ざめするのは、その早苗田の横の休耕田、草が生え、荒れ放題の混沌状態にあります。稲をつくらなければ補助金、作れば罰金という悪政治をどれだけ続けてきたことか)

 その田植えや早苗を見る時期になると、ぼくはよく想い出します。芦田恵之助さんの次の言葉を。彼はほんとうに気宇壮大な教師だった、壮大すぎるところがあった。ぼくには、まるで幻影の教師でした。

 「私が近頃面白くてたまらないように思うのは、教室が国家の苗床と見え出したことです。日本の水田に植えつけられた稲の一本々々を調べてみても、一本として苗代田で育たないものはありません。それと同じく、日本国民といわれるものは、誰一人小学校という苗床で育たないものはありません。日本国民一億万、その中に特殊の事情で初等学校を経由しないものがあるとしても、大多数は小学校に於て、国民たるべき教育をうけたものです。中等教育、高等教育、大学教育となると、その数が次第に減少するけれども、小学教育ばかりは、義務教育として強制しているのだから、国民の苗床といっても、さしつかえないと思います」(『教式と教壇』昭和13年)

(芦田恵之助(1873~1951)(あしだえのすけ)=教育家。兵庫県生れ。号は恵雨。東京高師付小訓導。岡田式静坐を学び,東洋的行の立場から〈自己を綴る・読む〉教育,随意選題による作文教育を提唱。退職後地方教壇行脚(あんぎゃ)を重ね,雑誌《同志同行》発行。著書《国語教育易行道》《静坐と教育》など)(マイペディア)

 《教育の本義とはなんぞ、これは一口にいえば「育つ」ということです。子供にむかっていう時には「育てる」ということです。育つとはだれが育つのか、それが子供だけだと考えたらいけないと思います。子供も育ち、父母、教師も育つ。父母、教師も育ち、子供も育つ、育つという気持ち一つになれば、教育するものと教育されるものとが一つに触れ合うことは、当然のことであります。

 こういうことは理屈の上からいうのでありますが、なんのことかわからんけれども、なるほど理屈でそうなるのならば認めてもよいと仰せられるのではないかと思います。教育のほんとうの意義が子供も育ち、父母、教師も育つ、その育つ喜びを感じた時にきわめてなめらかなる教育の空気というものがつくられるのではないか》(青山廣志『法楽寺の芦田恵之助先生Ⅱ』大阪恵雨会)

 「ともに育つ」、それはどんなことをさすのか。「理屈の上からいうのであります」と芦田さんは述べるのですが、実際にはこんなことがありました。ある子どもが運動会で獲得したメダルが教室でなくなった。それを知って職員室へ行き、別のメダルをもってきた。それを盗まれた子に渡し、盗んだ子の親からメダルを返してもらって、その母親を呼んで、つぎのようにいった。

 「教師としての自分も盗んだことがあるといい、母親もきっと盗んだことがあるから思いだしてほしいとたのみ、おたがいに盗んだことがある人間として子の盗癖を直すようにこれから外部の誰にもこのことを公にすることなく、努力していこうという。ともに育つとは、このような心ぐみを含んでいた。

 そういう努力を、芦田はつねにかくしており、彼が生徒たちに印象をのこしたのは、そのいつもかわらざる快活な態度だった」(鶴見俊輔「めだかの学校」鶴見俊輔集8所収、筑摩書房刊、1991)

 メタル

 五月の第二土曜日は、春の運動会の日です。やつと学校生活になれたばかりの一年生が、一人もころばず、泣かないで、徒歩競争をしてくれるようにと祈つていました。

 開会、間もなく尋一の徒歩競争が終つて、私の学級にも、金メタル三つ、銀メタル三ついたゞきました。さあ控え所は大へんです。喜ぶ者六人、うらやむ者はその他でした。私は何か知ら、おそろしい予感がしたので、

 「そのメタルは全部先生があずかつておいてあげよう」

 「いやだ、いやだ」

 「では、教室にしまつておきなさい。落とすと行けないから」

 これには六人とも、すなおに従いました。

 午前の部がおわつて、食事のために、全児童が教室にはいつて来ました。つきそつている母もありました。この時突然、

 「メタルがない‼」

と一人がさけびました。つゞいて二人、三人ついには六人。

 「メタルがない‼」

幻影のメダル

といつて、泣かんばかりです。母親たちも不信の目を見張りました。

 私は今更に予感をおぼえながら、とにかくこの場をまとめなければなりません。うそも方便です。

 「あれは先生があずかつておいた。失えるといけないから、まつていたまえ、今もつてくるから」

と賞品室へいつて、予備のメタルの中から、金三つと銀三つを持つて来て、

 「これだろう。おべんとうがすんだら、メタルはみんなおかあさんに預けておきなさい」

といつて渡しました。(略)(出典は?、今はぼくの「メモ書き」のままに写しておきます) 

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 自分の弱さ、欠点を子どもの前で隠さない教師でありたい。この島社会では「聖人君子」(知識や徳の優れた、高潔で理想的な人物」(デジタル大辞泉)であることを求められ、自分でもそのようにふるまいたくなるのが、教師稼業でしょう。電車に乗っているときも、飯を食っているときも、寝ているときも「教師であれ」とは、ちと窮屈すぎます。おちおちしていられません。親鸞じゃないけれど「悪人」で結構と割り切ってしまわなければ、いつでも自分を偽ることに汲々とするばかりです。弱い、という自覚は人間を強くしてくれます。芦田さんの強みは弱い自分を、自他に隠さなかった点にあります。存外、それはむずかしいのですが。

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  石楠花の 紅の蕾の ゆるみたる  椎花

  早苗とる手もとや昔しのぶ摺  芭蕉

  早乙女の下り立つあの田この田かな  太祇

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笑いは良薬、医者いらず

 (ぼくには「悪癖」がいっぱいあります。新聞の「コラム」を集めるのなんかはどうしようもないほど。昔は切り抜き帳を作っていたので大変だった。その後は、PCで安易に保存できるようになったので、悪癖は加速した。いったいどれくらいあるのか、見るのも嫌だ。そんなものでも悪いとばかりは言えなくもない。新聞は旧聞になってこそ、味が出ると納得したからです。(人間も同じか)「社説」は盲腸だと言いふらして虚仮にしたが、「コラム」は臍(へそ)で、まあ本体の「表裏(腹背)がわかる」くらいの便利さがある。数十年前には小新聞でセコイのを書いていたこともある。本日は「旧聞」に「旧著」です。ご照覧を)(「社説」の読者は、(それを書いた)筆者だけという噂もあるよ)

 「笑う門には福来る」といわれるように、笑いの効力は大きい。自分だけでなく周囲をも和やかにするほか、笑うことで免疫力が高まるなど健康への効能も指摘されている▼だが、気掛かりなデータもある。ある調査によると「最近は笑う機会が減った」という大人が増加しているという。パソコンや携帯電話のメールなど表情を必要としないコミュニケーションが増えた点を理由に挙げる声もあるが、そればかりではないだろう▼先に県内の小学校高学年の児童を対象とした作文コンクールの審査を担当した際は、ドキリとさせられた。テーマは「笑顔」。子どもらしいほのぼのとした内容を予想していたのだが、現在の社会に対する痛烈なメッセージも目立ったからだ▼「最近は戦争や殺害事件など私たちを怖くさせるものばかり。未来の人々には、笑顔という文字がなくなっているかもしれません」「兵士にされた子どもたちは、笑顔になることなく死んでいってしまうのでしょうか」▼このような児童たちの思いは胸に刺さる。ストレス社会でなかなか笑えない大人に加え、子どもたちも笑顔を率直に受け止めることができなくなりつつあるとすれば、由々しいこと。笑顔は元気の、そして希望のバロメーターであるはずだから▼幸い、「笑という字はすごいと思います。この一文字で何かが変わるかもしれない」と記した作文もあった。その通り。落ち込んだ時でも、心から笑うとふっと気持ちが楽になるから不思議だ。(秋田魁新報社「北斗星」・10/01/10)(註 このコラム、あまり面白くないね。失礼)

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 「わたしは十年ばかり前にハンス・セリエの古典的な名著『生命のストレス』を読んだことを思い出した。セリエはその書物の中で、副腎の疲労が、欲求不満や抑えつけた怒りなどのような情緒的緊張によって起こり得るということを非常に明快に示し、不快なネガティブな情緒が人体の科学的作用にネガティブな効果をおよぼすことを詳しく説明していた。

 それを思い出した途端に、当然の疑問がわたしの心に湧いてきた。では積極的、肯定的な情緒はどうなのだろう。もしネガティブな情緒が肉体のネガティブな化学反応を引き起こすというのならば、積極的な情緒は積極的な化学反応を引き起こさないだろうか。愛や、希望や、信仰や、笑いや、信頼や、生への意欲が治療的価値を持つこともあり得るのだろうか。化学的変化はマイナスの側にしか生じないのだろうか。

 たしかに、積極的な情緒を引き起こすということは、水道の栓をひねってホースの水を出すように簡単にはいかない。しかし自分の情緒をある程度までコントロールできれば、それだけでも病理学的にいい効果を生ずるかも知れない。不安の念をある程度の自信感で置きかえるだけでも役に立つかも知れない」(カズンズ『笑いと治癒力』岩波現代文庫。2001年)

 ノーマン・カズンズ(Norman Cousins)(1915~90)アメリカの最も高名なジャーナリスト。『サタデー・レビュー』の編集長を三十年にわたって務めた。また、広島の被爆女性25人をアメリカに招き、皮膚移植手術を受けられるように図った人でもあった。彼は1964年に重度の「膠原病(collagen disease)」に罹り、完治の確立は「五百に一つ」と診断されたほどでした。

 「もしネガティブな情緒が肉体のネガティブな化学反応を引き起こすというのならば、積極的な情緒は積極的な化学反応を引き起こさないだろうか」というカズンズの語るところはたしかです。肉体と心理と精神は一体であるからこそ、自分を卑下するより、自分を励ます方が生活の理にかなっているのです。「笑という字はすごいと思います。この一文字で何かが変わるかもしれない」という小学生は見上げた哲学者です。お見事!

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 いつごろからなのか。私たちの周りから“心のゆとり”が失われていったのは。取るに足りない事柄で、感情的にぶつかり合う▼駆け出し記者のころに、先輩から「遊び心も大事だぞ」と助言を受けたことがある。かつかつだと良い記事は書けない。遊び心=ゆとりがないと、自分が見えなくなると同時に、周囲への目配りや気配りができなくなる―という▼そのことを思い出させたのが、本紙教育面で連載された小野田正利大阪大教授の「イチャモンを超えて」。娘が同級生に針で刺されそうになった。担任は「他人の気を引こうとして、危害を加える悪い子だ」と説明するだけ▼母親はその少女と直接話し合う。危害行為に至る要因を把握し、少女の親と話し合った。その後、彼女は見る見る変わり娘の最高の友人になったという。おせっかいのようだが深い思いやりを感じた▼子どもだけではない。大人もそうだが、行為には何らかの理由がある。ある一面だけをとらえ「あいつは○」とレッテルを張りがちだ。だが、一度張ったレッテルをはがすのは相当な労力が要る▼かつて那覇市内の壮年が、深夜徘徊(はいかい)する少年たち一人一人と話し合い、エイサーを通して育成した。壮年は「ボルトも締め過ぎると亀裂が生じるのと同じでね」と語った。ゆとりを持ち多角的に見ることで違った解決策も見えてくる。(琉球新報「金口木舌」・09/12/05日)(註 小野田さんは「モンスター」の名付け親)

 多くの衆生は世のため他人のために生きているのではない。役に立たない(無駄な)ことはしないというのは、いかにも合理性をもった姿勢だと思われがちですが、事実はその反対ですよ。ムダ、不経済(道草だ)こそがもっと求められていい生き方の流儀だと思いたいのです。「役立たず」と他者を罵るのは、おのれこそ「役に立っている」という不遜(無根拠)な自惚れだし、「この無能め」という侮辱は、手前こそ「有能だ」という傲慢で、救いがたい意識の表明です。そんな意識が、おそらく国を滅ぼしたのではないですか。今もまた「傲岸不遜」が我が物顔で闊歩しているようですね。これが人の世の常です。

 役立たず、大いに結構、無能はなお結構と、真正の無能者であるぼくは怯(ひる)む様子がありません。遊び教の信者はまた、笑い宗の門徒でもあります。遊び心を不断に発揮する、「自称・有能者」を笑い飛ばす、こんな生き方こそなにかを生みだす。ナンセンスが存在しなければ、センスは手持無沙汰でしょうよ。

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 彼は微笑で人生を大肯定した

 「四月に当校へ来ました時は三年以上はいて、きっと何とかの仕事をしてみるつもりでしたのに、止むをえない都合のため出来かねることになりまして、私にとりましてもまことに残念で仕方がありません。

 折角たてた経営案も十分に自分の手で行い得なかった事を、まことに心残りに思いますし、皆様にも相すまなく思います。

 私は、生徒が明るい心で進んで勉強しようとするような、たとえ幼いなりにでも独り立ちしてどこへ行っても困らぬようにやってゆける、その基礎を作るのを今年一ぱいの仕事ときめておりました。(左写真は小砂丘さんが責任編集をしていた雑誌)

 私という人間は高知県では教師仲間に知らぬ者のない厄介者となっております。というのは会の時に議論したり、雑誌を出して教育論を発表したりして、郡や県の役人ににくまれたり、えらい校長にきらわれたりして、とうとう小砂丘はいけないとなっているのです。

 私が一生懸命にやればやる程、誤解は深まります。それで世間の教師並みにやれとの忠告をあびます。世間並みとはまず私の信念をすててというのですが、それはできぬ性分です。

 今度の上京は主としてこの世間並みにはやって行けぬ為、と今一つ貧乏の為なのです。上京したとて金のとれる見込みは一つもありませんが、今度やめると八年間教師をした僅かばかりの一時恩給がもらえますから。皆様へは多大の御迷惑をおかけすることになりますが、お許し下さいませ。 たとえ私はどんなに世間の教育者におじられきらわれましても、教育は大変すきです。そして又一番大切な仕事だと信じています。ですから今ここをやめていっても、やはり教育に関係した仕事にうちこみます。

 私は僅か半年とはいえ、この土地でお世話になりましたことへの感謝を生涯抱きしめます。長女夢はここに来て這いだし立ちだし、片言も始めるという成長をしましたし、それに私の教師をやめる最後の活動をした土地になりましたものですから。どうしてもこの土地への親愛をとり去る事はできません。生徒に別れゆくこの悲しさと、いじらしさを痛感するにつけましても、私はこの村にほんとの教育の育ちゆくことを望んでいます。

 教育第一の声ばかりではだめです。教育の振興は百般の隆盛の基だということを知っていただきたいのです。それを知るには一つの遠大な希望と方針です。も一つは皆が教育を理解することです。

 教育とは学校の先生がするものだとばかり思っては不十分です。村民全体、国民全体連帯責任でやるべき最上の仕事なのです。どうしても教育については、みんなの者が、研究してかからんとだめです。家庭では実務はとれんでもよい、大見識をもって、教育の精神を体得してもらわんとなりません。どうかこの意味において、皆様が常に教育の為に御専念下さいますことを祈ります。皆様のおしあわせと共に」。  去らんとする田井村第一校住宅にて。 小砂丘

 《僅かに九ヶ月で「東京」へ行かれたが、去られる前に、児童一人一人に対し、それぞれの性質の応じて、日頃使用所持しておられた色々の物を下さった。お前は書き方がうまいからといっては、筆、硯を、お前は綴方がうまいからといっては、「赤い鳥」という風に。 

 別れの日は辛かった。女の子たちは皆泣いた。Tやんが声を挙げて泣いた。私もこらえ切れずに泣いた。しばらくは学校行きが淋しくて空しかった。

 その頃から私は、ひそかに、将来教師になろうと思いはじめていた。

 私の教師志向や願望のあれこれは、小砂丘先生に対する憧れや、先生の情熱と気魄の影響が、決して少なくなかったと考えている。

 四十年に余る長い教員生活の中でも、何かにつけて先生を思い出し、自ら励まし反省するよすがとしていた。教育実践の場でも、相つぐ教育闘争の場でも、いつも小砂丘先生を背中におぶっていて、先生が肩越しに私をのぞいて居てくださったのである》

 このように記すのは小砂丘のクラス最後(田井小学校)の児童であった沢田年(すすむ)さんです。父母への「別れの挨拶」(上掲)を書いたのは大正十四年十一月末のことでした。十二月三日には東京池袋に開かれたばかりの「児童の村小学校」に到着した。二十八歳でした。(やがて上田庄三郎さんと再会します)(左上写真は池袋児童の村小学校・野村芳兵衛さん)

 ここから小砂丘忠義の闘いの第二ラウンドが始まったのです。十二年間の壮絶な闘いが。

 《居てくれるなといふところに止ることは出来ぬ。如何に堂々たる理由を並べてみたところで、結局は私のゐることが嫌いなのである。さうは云いかねて小細工ばかりせねばならぬ人間の心は、やはり一朝一夕には治らぬ弱さである。自分がゐたからだと思へば、所詮我身の劫の深さをあはれむ心になる。

 で私は次の学校へいつた。ここでこそ思ひきり、教育学を知らぬ教育をやりはじめた。何にも知らぬ故に、何物にもこだわることなく、伸び伸びしていきさうに思はれた》(小砂丘忠義「転任漫談」)

 小砂丘さんの父親と従兄弟であった人の子どもに津野松生という方がおられた。小砂丘さんとは又従兄弟にあたります。津野さんは小砂丘さんの生徒でもあった。また、彼の影響を受けて、後年は小学校の教師になり、小砂丘さんの上京とともに東京に移り、生涯にわたって、その近くにいたのでした。さらに後年(1974年)、『小砂丘忠義と生活綴方』という本を出版されました。津野さんは上田庄三郎さんとも懇意でした。(何年前になりますか、ぼくは土佐は宿毛まで出かけて、津野さんを尋ねたのですが、すでに亡くなられていました。ひそかに、彼の終の棲家を覗き見るばかりでした)

 「わしはどこっちゃあで使うてくれんようになって、ここ(土佐郡田井村・田井第一小学校)へ来た。ここで皆さんがわしを悪う云うたら行くところがないきに、どうぞうんとほめとうせ」

 大正十四年三月のことでした。この年、十一月末には上京の途につきます。これ以降、一度も教壇に立つことはなかった。全国から届けられる子どもたちの作文に埋もれながら、そのひとつひとつに目を通し、批評を書いた。雑誌「綴方生活」の編集をほとんど一人でやりとげた。

 来る日も来る日も「作文」(「生活綴方」)を読みつづけていました。

 いったい、彼を駆りたてたものはなんだったか。

 「瀕死の床にありながら『綴方生活』の校正をみ、『腹水はどちらから出ても同じことじゃ』といって、夫人を慰めるためにじょうだんを云っているところ、どんな苦難のなかでも笑って戦った小砂丘の不敵な生活精神があった。小砂丘の笑顔以外は思い出せないほど、彼は微笑で人生を大肯定した。いかなる場合にも悲観しなかった」と追悼の言葉を書くのは、刎頸の友だった上田庄三郎兄でした。

  昭和十二年十月十日、死去。四十一歳でした。

  死の床に横たわりながら詠んだ句をひとつ、ふたつ、みっつ。

窓開けば窓だけの秋深みけり
大芭蕉悠然と風に誇り鳴る
大芭蕉葉鳴りゆたかに風をのむ

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 小砂丘さんは無念であったろう。彼を受け入れることを拒否し、あろうことか姦計をめぐらせて「追い出し」をはかったのは行政(現、教育委員会)の連中でした。どうして一人の教師を総がかりでいじめ倒したのか。彼らには小さな自負心(優位意識)があった。だが忠義さんはそんなものを歯牙にもかけなかった。まず子どもたちを。この一事を彼はゆるがせにできなかったのです。彼の残した膨大な資料のほんの一部しか見ていないぼくですが、今につながる行政官僚の事なかれ主義に身命を賭して戦った忠義さんの孤軍奮闘に、なろうなら連なりたかったという世迷いごとを、ぼくは若いころから内心で唱えていたほどです。

 「教育とは学校の先生がするものだとばかり思っては不十分です。村民全体、国民全体連帯責任でやるべき最上の仕事なのです」と、教育を愛しぬいた、子どもを何よりも大事にした忠義さん。

(蛇足 コロナ禍に乗じて「九月入学」制を言い出す無責任。「先陣のさきがけ」かよ。「功名」に逸ってるんだな。これもまた「選挙運動」なんだね。「常在戦場」というらしい。「知事たちは、まず住民の生命・財産を守ることに専念すべきです。(ぼくは四月でも九月でもかまわない、それが子どものため、親のためになるのなら、です)だが、ドサクサに紛れるように、「九月からやろう」と言い出しかねない不見識は看過できませんね。根拠も見識も見当たらないな)

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親も子も、遊びをとりもどそう

 (もう四十年以上も昔の出来事になりました)

 受験校として名だかい開成高校の生徒が、父母をなぐりつけるので、父親が思いあまってその子を殺した事件。早大高等学院の生徒が、祖母に見張られていることを苦にして、反撃に出て殺した事件など。戦前にも、この種の事件はあるいはあっただろうから、ゆたかさにもかかわらず、戦後の日本には、この種の家庭内の殺人事件がおこっているというふうに考えるのが、適切だろう。ゆたかさにもかかわらず、この種の家庭内殺人がおこるのは、前の二つの例ではいずれも、家庭の内部にまで大社会の受験競争の気風が入りこんできていることに一つに重大な原因がある。(鶴見俊輔「世代から世代へ」)

   旧聞に属します。以下のような事件が起こりました。それは偶然の出来事だったのかどうか。

 母親の頭部持ち少年自首 17歳高3逮捕 会津若松

 15日午前7時ごろ、福島県会津若松市花春町、県立高校3年の少年(17)が、首から切断された女性の頭部を入れた手提げバッグを携え、「母親を殺した」と会津若松署に自首した。署員が少年の住むアパートを調べると、母親とみられる頭部が切断された遺体が見つかった。同署は殺人容疑で少年を緊急逮捕した。

 同署によると、少年は自首した際、取り乱すなど動揺した様子はなく、調べにも落ち着いて応じた。「自宅アパートで夜中、母親の首を1人で刃物で切って殺した」と供述したという。

Oedipus

 アパートで見つかった遺体には刃物のようなもので切断されたあとが見られ、遺体の近くには刃物があった。遺体の頭部は何かで包んだりはせず、そのままバッグに入れられていた。

 少年は奥会津地方の出身。会津若松市内の県立高校に通うため、高校2年の弟と2人でアパートを借りて住んでいた。母親は実家からアパートを訪ね、被害に遭ったとみられる。

 少年が通っていた高校は午前中、急きょ臨時休校とし、生徒を帰宅させた。校長らが緊急会議を開き、対応を協議した。(以下略)(河北新報・07/05/15)

 時代がどんなに変わろうと、それは人間が生活する環境にあらわれる表面上の変化であって、個々人の心理意識の深部(内面)は変わらないというより、変えられないのだといえるかもしれません。とはいっても、見えないところでどんなことが生じているのか。

著者はソニーの創業者

 親殺しや子殺しの原因、あるいは社会的な背景にはさまざまな要素がからんでおり、いちがいにいうことは適切ではありません。でも、すくなくとも「教育」「学校」「学歴」というものがそれぞれに対して大きな圧力となっていることは否定できないと思われます。

 「学歴尊重」、いや「学歴偏重」という社会現象(問題)がいまだに人心をつかんではなさないということになるのでしょうか。開成や早大付属校の生徒にかかわる事件と新聞記事にある会津若松における事件とは似ているとも似ていないともいえるでしょう。しかし、家族や家庭という「育つ ― 育てる」という場のあり方がそのまま教育(学校)問題に直結しているという点では共通しているのではないか。教育問題が家庭という小さな集団を直撃、爆撃しているのです。

 そして学校においても「たがいに支えあう」という根本の働き(関係)が失われてしまえば、それはひたすら学力や教師の評価を求めるだけの闘争の場とならざるをえない。それもまた、競争や闘争が「教室」を轟沈させているのです。また、そのような競技場になるためにひたすら猛進してきたのも事実ではなかったか。なぜそうなったか。優劣の競い合いが「経済社会」のあらゆる場面で進行しているからです。勝ち負け、それこそが人間の幸せの程度を決めるのだというのですか。コロナ禍にあえいでいる最中にも、どこかで優劣の差を強いる圧力が働いているのです。

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 「テレビが普及して子供の多くはそのまえにへばりついている。親の注意で多少ひかえている子供があるにしても、いま一日のうちで、一番多くの時間を費消しているのは、眠る以外にはテレビを見ることではないかと思っている。

一家で鑑賞

 と同時に街頭や広場で子供を見かけることが少ない。一つは道路に車があふれて、子供たちのあそぶ余地がなくなったことも原因していよう。今から一〇年まえまでは子供たちは街頭であそんでいたものである。街頭でなければお宮の森、寺の境内、空地などがあそび場で、そこで日がくれてくらくなるまであそんだ。(中略)

 しかも、子供たちの間に、それほど多くのあそびの持たれたのは、親たちがいそがしすぎて、子供のことにかまけている間がなかったからである。親は朝くらいうちから、夜くらくなるまで働いた。子供たちはその間自分らの仲間であそばねばならぬ。ごく小さいときは子守りの背で、一人あるきができるようになれば、子供たちで仲間をつくってあそんだ。そしてそこにはおのずから子供たちのささやかな自治も存在した。「子供のけんかに親が出る」ということは大人社会でもいちばん軽蔑せられたもので、子供世界は子供のものであり、眼にあまるようないたずらをしいている場合はともかくとして、子供同士がつかみあいをしていても大人は笑って見ていることが多かった。(宮本常一「こどものあそびの行方」宮本常一著作集第13巻所収。未来社刊、1973年)

街頭テレビ

 宮本さんがこれを書いたのは一九六八年でした。この当時の状況は、一面においては今日の街の姿、子どもの生活を先取りしていたと考えられます。子どもの遊びが少なくなり、それにとって代わって、テレビやゲームが一人一人の子どもの遊び相手となった経過はそのとおりですが、子どもの遊びが少なくなったというよりは、子どもの遊びに親が干渉するようになったことがもっとも大きな時代の風潮となったのです。

 これを宮本さんは次のように指摘されています。

 「しかし小学校から中学校へ、さらに高校へのルートがひらけて、自分の前途に広い世界のあることがみえてくると、人はその方の道をえらび、親はまた子をそうしたルートに向わせようとする。親が子供のあそびに干渉しはじめたのは一般民衆に進学ルートがひらけてきてからのことである。少しまえまで子供は自由にあそんだ。そのとき鍵っ子は問題ではなかった。あそぶ子がいなくなると鍵っ子が問題になってくる。道路に自動車がふえただけで街頭から子供の姿がへったのではない」(同上)

紙芝居をただちに実演

 学校が子どもの生活を独占した、あるいは支配するようになったのです。朝から夕方まで、さらには帰宅してからの時間の使い方まで学校(教師)、それにつられて親までがあれこれと口出しするようになったというのが、子どもの遊びが街中から消えた大きな理由だったというのです。

 「今まで人間は人間であるとともに自然児であった。青空のもと太陽のもとで育った。それがくったくのない性格をつくり出した。しかしいま子供たちは家の中に釘づけにされ、親にしばられて太陽の子ではなくなってきたという感をふかくする」(同上)

紙芝居(要見物料)

 子どもの遊びが消えたということは親の生活にもゆとり(遊び)がなくなったことを意味します。大人も子どもも、ゆとりもあそびもない乾燥しきった、あるいは湿気でいっぱいになった生活を余儀なくされるようになった時代と社会、それが今日まで延々とつづいてきたのではなかったでしょうか。

「これらの事実を通して今実に大きな人間の革命がおこりつつあると思うのは私一人で あろうか。これから、二〇年、今の子供たちが大人になってゆく時代の変化は、想像をこえるものがあるのではないかと思っている」(同上)

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 子どもの遊び、それを児戯に類するなどといって揶揄するような雰囲気がありますが、子どもの遊びこそは、大人の過去の姿であり、未来の像でもあったのです。「勉強と遊び」ではなく、「勉強の中に遊びを」「遊びの中に勉強を」、これこそがとりもどされるべき、ぼくたちの日常生活の姿ではないですか。(ただ今現在も、ささやかな遊び(パチ)を奪うことに躍起になっている行政官僚の美しくない感情があらわです。それに乗せられて「住民」までもがその列に連なっている)

 「自粛」でどれほどの効果があるのか。感染防止のための自粛なら、ぼくたちはいつまでも「巣ごもり」を続けなければならない。そして自粛を継続しているうちに、感染者が減じてくるなら、それはいったいどういうことだったのか、政治的ではなく医学的に説明しなければならないはずです。「マスクと消毒・手洗い」でまず防衛です。「自粛強要」の蔓延という、この風潮(感染性横一線症)には「虫唾」が走ります。自粛は自分でするもの、要請はお願い・依頼です。「罰則」を伴う自粛も要請もあるものかよ。大小にかかわらず「権力」は「罰(✖)」を振りまわすんだ。

 ぼくは本日も「竹取の翁」です。採るのも大変、食材にするのも大変、食するのも大変、大変✖3=しばらくは「翁」を自粛。でも長く自粛すると、庭が竹藪になる。生活の場に「遊び」があり、それがぼくの精神の「自主トレ」になるような、そんな日常があれば何も望まない。右へ行け、左に曲がれとあらぬ命令を下されることは肯んじないのです。自分のことは自分で。DIYですよ。

(じ‐しゅく【自粛】 の解説[名](スル)自分から進んで、行いや態度を慎むこと)(よう‐せい〔エウ‐〕【要請】 の解説[名](スル)1 必要だとして、強く願い求めること)(デジタル大辞泉)

  しずけさ、竹の子みんな竹になつた(山頭火)

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