死刑廃止とは根源的な選択であり

 ●フランス国民議会、死刑廃止法案の審議における、法務大臣ロベール・バダンテールの演説全文訳(1981年9月17日)原文(フランス語)訳: 村野瀬 玲奈(ここにその一部を紹介しておきます)

 《犠牲者の不幸と苦しみについては、それを引き合いに出す人々よりもずっと、私は自分の人生の中でひんぱんに、その影響の広がりを確かめてまいりました。犯罪が人間の不幸の遭遇点であり地理的場所であるということを、私は誰よりも熟知しております。犠牲者自身の不幸と、それ以上に、犠牲者の親族や近親者の不幸があります。また、犯罪者の親族の不幸もあります。そして、たいへんに多くの場合、殺人者の不幸もあります。そうです。犯罪は不幸であります。そして、感情、理性、責任感ある男女には、まずその不幸と闘おうと望まない者はいないのです。/ しかし、自分自身の心の奥深くで犠牲者の不幸と苦しみを感じ、それでいて暴力と犯罪がこの社会の中で退くようにあらゆる方法で闘うという、この気持ちとこの闘いは、有罪者を必ず死刑にすることを意味することはできないでしょう。犠牲者の親族や近親者が罪人の死を望むことは傷ついた人間の自然な反応であり、私はそれを理解いたしますし、それを考えもいたします。しかし、それは人間の自然な反応なのです。一方、司法のあらゆる歴史的進歩は、個人的報復を乗り越えることでありました。まず同等報復刑法を拒否するのでなければ、どうして個人的報復を乗り越えられるでありましょうか。

 死刑にこだわる動機の奥底には、しばしば告白されないままの、排除への誘惑があるものだというのが真実です。多くの人にとって耐えられないように思われるのは、刑務所に入った犯罪者の生命よりも、犯罪者がいつの日か再び罪を犯すという恐れなのです。そして、この点に関しての唯一の保証は用心のために犯罪者を死刑に処することだと多くの人が考えているのです》

 《…結局、死刑廃止とは一つの根源的な選択であり、人間と司法についてのある一つの構想なのです。人を殺す司法を望む人々は、二重の信念に動かされています。一つは、完全に有罪の人間、つまり自分の行為に完全に責任のある人間が存在するという信念。もう一つは、こいつは生きてよい、こいつは死ななければならないと言いうるほどにその無過誤を確信した司法が存在する可能性があるという信念です。/ 私はこの歳になって、この二つの断言はどちらも等しく間違っていると思います。彼らの行為がどれだけ恐ろしくどれだけ憎むべきものであろうとも、完全な有罪性を持っていて永遠に完全な絶望の対象にならなければならない人間はこの地上にはおりません。司法がどれだけ慎重なものであっても、また、判断をくだす陪審員男女がどれだけ節度がありどれだけ不安にさいなまれていようとも、司法はずっと人間の行いでありますから、誤りの可能性をなくすことはできません》

 《したがって、みなさんの良心にゆだねられている選択ははっきりしています。一つの選択肢は、人をあやめる司法を私たちの社会が拒んで、基本的な価値観の名のもとに、つまりすべての価値のうちで司法を偉大で尊敬できるものにした価値観の名のもとに、恐怖をもたらす者、つまり心神喪失者あるいは犯罪者、あるいはその両方の命を引き受けることを受け入れることです。つまり、それは死刑廃止という選択です。もう一つの選択肢は、何世紀もの経験にもかかわらず、この社会が犯罪者を抹殺することで犯罪をなくせると信じることです。つまり、それは死刑という選択です。/ この排除の司法、つまりこの不安と死の司法が決められるとき、偶然の誤差が伴います。しかし、私たちはこの排除の司法を拒否します。私たちがこれを拒否するのは、それは私たちにとって反司法であるからであり、それは理性と人間性を圧倒する激情であり恐怖であるからです》

 《実は、死刑の問題は、明晰な精神で分析しようとする者にとっては単純なことであります。犯罪抑止効果についても、抑圧手段についても、死刑の問いは提起されようがないのです。政治的選択についてか、あるいは道徳的選択についてしか、死刑の問いは提起されないのです。/ すでに申しあげたことでありますが、以前の深い沈黙も見ましたから、すすんで繰り返し何度でも申しあげます。犯罪学者が行なってきたあらゆる研究が示してきた唯一の結果は、死刑と凶悪犯罪率の変遷の間には関係がないという事実が確認されたということです。この点について改めて次のような研究を指摘いたします。1962年の欧州評議会の研究。イギリスが死刑を廃止することを決定し、それ以降2度にわたって死刑復活を拒否する前に死刑廃止国すべてについて行なわれた慎重な研究であるイギリスの白書。同じ方法にしたがって行なわれたカナダの白書。国連によって作られた犯罪予防委員会によって行なわれた研究。その最後の文章はカラカスで昨年練り上げられておりました。最後に、欧州議会によって行なわれた研究。その研究には私たちの友人であるルディさんもかかわっております。そして、それらの研究はこの重要な採決にまでたどりついたのです。その採決を通して本国会では、本国会が代表するヨーロッパ、もちろん西ヨーロッパという意味ですが、そのヨーロッパの名において、欧州から死刑がなくなるようにとの圧倒的多数の意思表明がなされたわけです。すべての人が、私が申しあげた結論に賛成しております。

 それに、誠実に問いを発しようとする者にとっては、なぜ死刑と凶悪犯罪の発生率の変遷の間に犯罪抑止的関係がないのか理解することはむずかしくありません。これだけひんぱんに探求に専念しているのに他のところではその根拠を見つけることができない犯罪抑止的関係のことにはあとで立ち戻ります。そのことについて単純に考えるなら、最も恐ろしい犯罪、大衆の気持ちを最も強くとらえるということが理解できる恐ろしい犯罪、すなわち凶悪犯罪と呼ばれる罪は、しばしば、理性の防御までなくしてしまう暴力と死の衝動に我を忘れた人間によって犯されるものだということなのです。この狂気の瞬間、この殺人の激情の瞬間に、死刑であれ終身刑であれ刑罰を想起することは、殺人者にはありえないことなのです》

《明日、みなさんのおかげで、フランスの司法はもはや人を殺める司法ではなくなるのです。明日、みなさんのおかげで、夜明け方のフランスの刑務所の黒い天蓋の下で人目をしのんでこっそり執行される、私たちの共通の恥である死刑が無くなるのです。明日、私たちの司法の血塗られたページがめくられるのです》

*http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-250.html

場合によっては死刑も

 基本的法制度に関する世論調査 内閣府大臣官房政府広報室 (世論調査報告書 平成21年12月調査)

(1) 死刑制度の存廃

 死刑制度に関して,「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」,「場合によっては死刑もやむを得ない」という意見があるが,どちらの意見に賛成か聞いたところ,「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」と答えた者の割合が5.7%,「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えた者の割合が85.6%となっている。/ 前回の調査結果と比較してみると,「場合によっては死刑もやむを得ない」(81.4%→85.6%)と答えた者の割合が上昇している。/都市規模別に見ると,大きな差異は見られない。

 ア 死刑制度を廃止する理由

 死刑制度に関して,「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」と答えた者(111人)に,その理由を聞いたところ,「生かしておいて罪の償いをさせた方がよい」を挙げた者の割合が55.9%,「裁判に誤りがあったとき,死刑にしてしまうと取り返しがつかない」を挙げた者の割合が43.2%,「国家であっても人を殺すことは許されない」を挙げた者の割合が42.3%,「人を殺すことは刑罰であっても人道に反し,野蛮である」を挙げた者の割合が30.6%,「死刑を廃止しても,そのために凶悪な犯罪が増加するとは思わない」を挙げた者の割合が29.7%,「凶悪な犯罪を犯した者でも,更生の可能性がある」を挙げた者の割合が18.9%などの順となっている。

 イ 即時死刑廃止か,いずれ死刑廃止か

 死刑制度に関して,「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」と答えた者(111人)に,死刑を廃止する場合には,すぐに全面的に廃止するのがよいと思うか,それともだんだんに死刑を減らしていって,いずれ全面的に廃止する方がよいと思うか聞いたところ,「すぐに,全面的に廃止する」と答えた者の割合が35.1%,「だんだん死刑を減らしていき,いずれ全面的に廃止する」と答えた者の割合が63.1%となっている。

 ウ 死刑制度を存置する理由

 死刑制度に関して,「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えた者(1,665人)に,その理由を聞いたところ,「死刑を廃止すれば,被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」を挙げた者の割合が54.1%,「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」を挙げた者の割合が53.2%,「死刑を廃止すれば,凶悪な犯罪が増える」を挙げた者の割合が51.5%と高く,以下,「凶悪な犯罪を犯す人は生かしておくと,また同じような犯罪を犯す危険がある」(41.7%)などの順となっている。(複数回答)/前回の調査結果と比較してみると,「死刑を廃止すれば,被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」(50.7%→54.1%)を挙げた者の割合が上昇している。/都市規模別に見ると,「死刑を廃止すれば,被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」,「死刑を廃止すれば,凶悪な犯罪が増える」を挙げた者の割合は小都市で高くなっている。/性別に見ると,大きな差異は見られない。/年齢別に見ると,「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」を挙げた者の割合は70歳以上で高くなっている。

 エ 将来も死刑存置か

 死刑制度に関して,「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えた者(1,665人)に,将来も死刑を廃止しない方がよいと思うか,それとも,状況が変われば,将来的には,死刑を廃止してもよいと思うか聞いたところ,「将来も死刑を廃止しない」と答えた者の割合が60.8%,「状況が変われば,将来的には,死刑を廃止してもよい」と答えた者の割合が34.2%となっている。/前回の調査結果と比較してみると,大きな変化は見られない。/都市規模別に見ると,大きな差異は見られない。/性別に見ると,「将来も死刑を廃止しない」と答えた者の割合は男性で,「状況が変われば,将来的には,死刑を廃止してもよい」と答えた者の割合は女性で,それぞれ高くなっている。/年齢別に見ると,「状況が変われば,将来的には,死刑を廃止してもよい」と答えた者の割合は30歳代,40歳代で高くなっている。

(2) 死刑の犯罪抑止力

 死刑がなくなった場合,凶悪な犯罪が増えるという意見と増えないという意見があるが,どのように考えるか聞いたところ,「増える」と答えた者の割合が62.3%,「増えない」と答えた者の割合が9.6%,「わからない・一概には言えない」と答えた者の割合が28.0%となっている。/性別に見ると,「増える」と答えた者の割合は男性で,「わからない・一概には言えない」と答えた者の割合は女性で,それぞれ高くなっている。(詳細は内閣府のHPを参照)

(古いデータですが、「死刑」問題に関してはこの島の政府の基本姿勢は変化がないと考えています。詳細な「調査結果」を掲載しようと考えたのですが、あまりにもお粗末なのでやめました。「死刑」を弄んでいるのではないかといいたくなるのです。「内閣府」は今日の政治状況の中でどんな役割をしているのか、想像しただけで虫唾が走ります。調査は「中立」「公平」だとぼくにはとても思われません。他国を持ち出すまでもなく、この島社会の「犯罪」「刑罰」に対する姿勢はきわめて恣意的であり、刹那的であると、ぼくはずっと考えてきました)

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 ●2012年の死刑判決と死刑執行(2013年4月10日現在)(amunesty International 報告)

 2012年の死刑をめぐる状況は、数カ国で多少の後退はあったものの、世界的には死刑廃止の潮流が継続していることをアムネスティは確認した。/アムネスティの調べでは、死刑を執行した国は21カ国、件数は682件であった。これは2011年とほぼ同数である(それぞれ21カ国、680件)。この682件には、他の国々の総数を優に上回って数千にのぼるとされる、中国の死刑執行は含まれていない。確認されている死刑執行数では、イラン、イラク、サウジアラビアの3カ国で、世界総数の4分の3に達している。/死刑廃止に向けた前進は、世界の全地域で見られた。米国は、南北アメリカで唯一の死刑執行国だが、州単位で見ると2011年に13州が執行したのに対して、2012年は9州に減少した。コネチカット州は4月、死刑を廃止する17番目の州となった。また、全米で下された新たな死刑判決は、12件であった。

 南アジアでは、数カ国で死刑の再開など退行的な動きがあったが、これは、アジア太平洋全体の死刑廃止の潮流に逆行するものである。ベトナムは死刑判決を下さず、シンガポールも死刑の法律の改正を検討しているため、執行停止を順守している。/サハラ以南のアフリカでは、死刑廃止へのさらなる進展があった。ベナンでは、死刑関連の条項を撤廃する立法的措置を取った。また、ガーナは、新憲法で死刑を廃止する計画だ。シエラレオネでは、ついに死刑囚がいなくなった。/そしてラトビアが、特定の犯罪にのみ適用していた死刑を廃止する法律を1月1日に発効させ、世界で97番目の全廃国となった。

 死刑廃止へ向かう世界の動向

•G8国で死刑を執行したのは、日本と米国のみ

•国連加盟国193カ国のうち174カ国で死刑執行なし

•米国は、南北アメリカで唯一の死刑執行国

•ベラルーシは、ヨーロッパと中央アジア唯一の死刑執行国

•アフリカ連合54カ国中、死刑執行は5カ国のみ。37カ国は、法律上または事実上、死刑を廃止

フランスで死刑制度を廃止した時の法務大臣(バダンテー)。上の本は彼が書いたもの

•アラブ連盟21加盟国のうち7カ国が死刑を執行

•ASEANでは10加盟国のいずれでも、死刑執行なし

•英連邦54カ国で死刑執行は、5カ国のみ

(最近のデータ等については次回のブログにでも載せることにします)

(「死刑制度」などに関する問題は、ぼくには重いテーマですが、これまでもふらふらしながら考えてきましたので、その愚論をゆっくりと述べていきたいと考えているのです)

大学は何をする場所か

 「閉じ込め」の制度

  いまやこの社会おける大学という教育制度は根本的にその性格を変えてしまったようです。いわば伝統的な大学観の命脈は夙に尽きたのだとぼくには思われるのです。その理由はさまざまですけれども、従来容認されてきた「知の伝達(伝播)」がほとんど機能不全に陥ってしまったといいたい。もちろんこのような指摘は誰もがすることで、数十年以前から声高に叫ばれていたことでもあります。その大半は大学の外部からでしたが。

 しかるに大学が教育制度としての体裁を維持し続けるかぎりでは、自己の内部に蓄積される矛盾や錯誤を自覚することははなはだ困難であり、それゆえに大学それ自身(大学を構成する教職員・学生はいうまでもなく、大学にあいかわらずなにがしかの幻想を抱くすべての存在を含む)は変化に対してきわめて鈍感であり、ときには外部からくる変化への要請に心ならずも抵抗しさえするわけです。自分のことは自分が一番よくわかっているのだから、というわけです。ますます大学はその性格を変えられていきます。

 大学の教師の仕事とはどのようなものだったのでしょうか

 言葉による、それも社会の他の部門ではあまり見られない独特の言葉を用いて行われる「知」の伝達、それが大学教師の仕事ということになっていましたが、大学という制度内で行われるこの仕事はまったく時代遅れになった。完全に過去のものになってしまったのです。表面的には過去の遺物として教授の学生に対するある種の「権力」関係―教える教師対教わる学生が共同で産み出す秩序の幻影はかろうじて残存していますが、形だけで内実はまったく空虚です。学生は教師にいささかの権威も認めていない。認める素振りすら見せていないのです。これは悲劇なのか喜劇なのか。その意味では、大学は劇場に似ています。劇場こそが大学だというべきかも知れません。―このようにいって演劇を貶めるつもりはありません。

 そこに現出するのは見せかけの世界であり、社会から切断された時間と空間が支配する世界でしょう。教師は自分の語ることばが威厳をもって学生に届いていると信じている、信じたいと願っている。まるで悪い冗談みたいな話ですが、まぎれもない事実です。その証拠に試験制度を挙げてみましょう。教師が語ったことがどれだけ正確に学生に伝わったかを検査することがその要諦になっているのが試験というものです。ほとんどの試験は何も見ないで、ということは記憶に頼ってという意味ですが、行われます。そこで価値ありとされるのは「知」の内容なんかではない。「知」の水準はまったく問題外です。話されたことの再現(記憶力)の程度を検査すること、これが大学(にかぎらず)教育の核心部分をなしてきたのです。経験を伴わない、経験に裏づけられない記号の支配する「私見」の横行(強制)ではないでしょうか。

 大学教育が機能しなくなった一番の原因は「知」そのものの一般化です。専門・特殊な知識そのものが広く社会に開かれたという状況(知のインフレーション)が進行し、その結果、大学がもっとも価値あるものとしていた学術価値の効力が失われることになったからです。当たり前に通用していた専門性をもった「知」はもはやおいそれとは通用しない、大学を除いては。だから、無意味とさえ思われる試験制度がいまもなお持続しているのです。

 大学の教師に(かぎらず)なにがしかの権威があったとされるのは、彼・彼女が扱う「知」に一種の権威が認められていたからです。多くの教師は自らが持っていると錯覚していた権威を「知」が有する権威と混同していただけなのです。しかるに「知」そのものの効力が失われた以上、必然的に教師の権威(もともと定かではなかった)も失墜して当然であるにもかかわらず、その自覚が働かないままに形骸ばかりを後生大事に守ろうとしてきたのです。では、「知」の権威が失われたのはなぜかという問は大学の教師から発せられはしませんでした。「知」の伝達や伝播が有効性を保てなくなったとき、大学教師に残されたのは権威ぶった風を装うほかないことになります。

 ある時期までは、入学試験が過度に激しくなったのもこのことと無関係ではないとぼくは思います。つまりそこで用いられる原理は「検査」「ふるい分け」ということです。与えられた「知」に価値があるかどうかより、それをいかに真面目(を装って)に受け入れたか否かを「検査」することに意味があるというわけです。能力主義とか競争原理といった今につづく現象は、前もって「能力」を限定した上での「検査」に由来するものでした。能力=学力は高いけれども、判断力はいたって弱いという奇妙な存在が絶え間なく生産されて今日に及んだという次第です。政治家や官僚も例外なく、大学出の印を顕著に有しています。

 大学は社会から排除された(者を収容する)境界、それも社会にとって必要とされた装置なのです。もし、大学が社会に不必要は存在ならこんなに長く続かなかったはずです。そして大学が排除された(する)境界であるなら、教師も学生も社会から排除されていることになります。大学(学校)とは学生にとって「モラトリアム」の時・空間であるとしばしばいわれます。正確にいえば、学生時代とは社会からの排除(隔離)の期間だということです。一定の期間をかぎって排除されていればいるほど、その期間が過ぎれば社会にわれ先に同化しようとします。もうたくさんだ、自分一個の始末は自分でするよ、といわぬばかりにときには過剰に同化します。社会に同化するためにこそ排除されているのだということができるのです。(ある精神科医は大学は「膨大な金を使った失業対策事業」だといったことがあります。その意味は?)

 教室の風景は「詞章記誦ノ末ニ趨リ空理虚談ノ途ニ陷リ其論高尚ニ似タリト雖トモ之ヲ身ニ行ヒ事ニ施スコト能ハサルモノ少カラス」(「学制・前文」)という先祖返りに見られます。一方では、その極北にある実用・実学主義の目に余る趨勢です。英語(会話)の過度の重用は何を示しているのか。実用と非実用の奇妙な同居?同床異夢というのかしら。

 春三月に卒業、四月には入学や進級、このユカシイ年中行事はどこかに吹き飛ばされ、いまだに「学校(授業)再開」は完全には果たされていません。「授業のない学校」はどんな組織・制度なのか。「一斉休校」の必然性はなかったと、ぼくは今でも考えています。(オンライン授業などといいますが、それで、何がどこまでできるのか。それで足りるのなら、「放送学校」ですね。それも可ですかな)

 さまざまな困難を抱えている大学制度、ひいては学校制度が存在理由を示すのはどこにおいてなのでしょうか。

IIIIIIIIIIIIIII

ことばの「旗」には…

 自分のなかに他人がいる、またその反対に他者のうちに自己が反映されている、このような事情は長い歴史の経過をたどってきた民族集団には程度の差はあっても認められることでしょう。そしてその集団の構成員に対する規制や束縛が強ければ、それだけこの傾向は濃厚になるともいえそうです。それは単純に否定されるべきことではありません。他者を思いやる情が深いほうが薄情よりいいに決まっているからです。また、自分がうちひしがれているときに、他者がいたわってくれることはまことにありがたいことだから。

 孟子にも「無惻隠之心、非人也」]の言葉がありました。他人の立場に立て、とはしばしばいわれることです。相手の身になって考えろ、とも。このような言い草が以前より頻繁になったかどうかぼくにはわかりませんが、もしそうなら、それだけ自他の分離がすすんだ証拠であるといえかもしれません。自他不分離があいまいなままに終わるとどういうことになるか。自分が何者であるか、他人は自分にとってどのような存在かがわからなくなるのだろうと思います。自己の発見ははっきりした他者との出逢いによるんですね。

 《しかし「ひとは誰でも」というふうに「みんな」という多数派の言葉に身をよせて物言う術というのは、ほんとうはずいぶんあやしげなんです。子どもたちが何か欲しいとき、「みんなもってるよ」という。だけど、その「みんな」というのは、まずたいていはクラスで二、三人くらいだといいます。「みんな」「人は誰でも」といった言葉でいうと、いかにもそのように、またそのようでなければならないみたいにおもえるというふうな物言う術にたいして、へんだという留保をのこしておかないと、「私」と、「人は誰でも」「みんな」とが、だんだん見分けもつかなくなっちゃいます。そうでなくても、言霊のさきわう国柄だから、言葉にたいしてよくよく「私」をむきあわせてゆくことができないと、言葉がすぐ旗になっちゃうのです》(長田弘「一人ひとりの側から」)(長田・1939-2015)

 「みんなが」をかざして物言う術はすでに小さな子どもにも修得されています。これも親や周囲の教育のたまもので、「みんな」がしていることができなければ恥ずかしいでしょ、とのべつ諭された結果です。始末に悪いのは「みんな」をもちだせば、理屈の上では返す言葉がないという事態です。これはなにも子どもの場合にかぎらなくて、「この印籠がみえないのか」と啖呵を切る助さんや格さんみたいなもので、「みんな」「誰でも」といわれれば、二の句がつげないような気分にさせられます。一陣の疾風(竜巻)みたいなもので、息をつめてやりすごしほかなくなります。

 全員一致などとは考えられないのに、多数決もかぎりなく全員一致に近づけたがる風潮が蔓延しています。クラスの二、三人が「みんな」であるような状況はいたるところで発生しています。異論や反論は許さない。それは多数に対する反抗であり、不服従だと受けとられるから。だから、あの人の意見はおかしいなあと思って異見を述べても、ほかの人の聞くところとならない。これが重なると、だんだんと口を閉ざしてしまよう。その結果、またもや全員一致とされてしまうのです。まことにあやういデモクラシーだといわざるをえません。異見・異論を認めることは、多数派を形成したと見なしている人びとが犯すかも知れない過ちを防ぐことがあるんです。

 「わたしはあなたの意見には賛成しない、でも言っていることは理解できる」というようなケースはきわめてまれではないでしょうか。はなから人の意見を認めようとしないのはいかにもまずいことですけれど、自分とちがう意見を出す人とは親密な関係になれないと思い込む人がいることもたしかです。「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」というのは、その人が気に入らなければ、その人に関わりのあることはすべて気に入らぬということのようです。ぼくたちの日常生活においては「袈裟が憎けりゃ、坊主まで憎い」といってもよいような、理屈に合わないことがたくさんありそうです。

 相手を認めるというのはどういうことか。好き嫌いで判断することもあるでしょう。でも、好き嫌いをいえば、いったん好きになったらいつまでも好きだ、ということにはなりませんね。情念という動揺つねならぬフィルターをとおしてものを眺めれば、写し出される像はいつもちがって見えるものです。《じぶんとはちがう、だけれども、そこにそういう人がいると知るだけで、おのずと気が開けてゆくということがあります》(同上)

 「こんなことを考える人がいる」という驚きは、自分のものの見方を広げてくれるはずです。自分では思いもよらなかった考えがあるものだという経験は、わたしの視野をたしかに拡大するんです。そのような人や意見に出逢えないのは不運というよりは、不幸の部類にはいるとぼくは考えてきました。「わたし」と「あなた」は別々の「私人」ですが、それが「私たち」となると、「共有・公共」の空間をつくります。それを共同体(community)といっていい。「あなた」を追放・排除するのは、この「共有・公共」空間を壊すことです。「私とあなた」で形成していた「共同体」を破壊することなんです。いじめや虐待、DVなど、あるいは「自粛しないなら」と相手を「脅迫する」のも同じことです。共通の言語をも壊すことになります。

 「国難突破」のため「心をひとつに」という「旗」を振っている愚かしい輩がいます。できるわけはないし、あってはならないですよ。軽薄そのものの「ことば」です。ときには言葉が「旗」に、それが「武器」にもなる、ぼくたちはしばしば経験しているでしょう。「ことばの旗」には猛毒があるのです。その手にじゃない、その旗には摑まらないね。感染しないように、よくよく注意したい。

 「外出は自粛しよう」と「みんな」がいう。「みんな我慢して、自粛しているのに」「どうしてお前だけで遊びに出ているんだ」と、ある市の公園の砂場で「カッターの刃が二十枚。県外ナンバーの車に疵をつける。まるで「鬼滅の刃」(別話の番外編)だったのか。「病院に来ないでくれ」「観光に来ないでくれ」「店に来ないでくれ?」だと。本音か、希望か、それとも、心外ですが、か。「排外」ならぬ「排人」ですね。この風潮・空気こそが「国難」だとぼくは考えるのだ。「旗によりなさんな」、とんでもない怪我をするから。「旗を振れ、振らないと罰則だぞ」という国難だ。「国破れて山河あり」「城春にして草木ふかし」なんだね。

 「STAY at HOME」という掛け声が「旗」になっている。この旗を立てた奴は罪作りだと、ぼくには思われます。言葉が旗に、「この指とまれ」と掲げて、例外が出ると踏みつぶす。「同調圧力」とも「過同調」とも言います。今の状況は、それが張り詰めています。まもなく「破裂」ですね。「軍旗、はためく下に」(結城昌治原作・深作欣二監督、丹波哲郎・左幸子主演。1972年)(「敵前逃亡」の汚名を着せられた「亡夫」の名誉回復を願った妻の物語)、庶民は集え、か。

 だれもが「汚名」を着せられる危険性と隣り合わせ。「着せる」のは「国」であり、「会社」であり、「隣人」であり、…。いまもなお、「汚名着せ」が蔓延中ですね。

 「緊急事態宣言」の再延長だって。根拠も示さず、ほとんど無意味です。というより、暴力ですね。(外に目を向けると、あちこちで休業中止、営業再開。外出は可能と。それを見るにつけ、こちとらも「経済活動を」と「再延長」を「中止」したくてウズウズ。まもなく「宣言解除」ですよ。それも根拠なし。空気で「延長」、空気で「解除」だと。「だれが旗を振っているのやら」

 ぼくはこのことについてはものを言いたくない。最要路に立つ人物が「サイボーグ【cyborg】」であることは明白であるにもかかわらず、それを取り巻き(官僚や政治家どもだけではない、マスゴミもツルンデきた)が悪用して(傀儡〔カイライ〕にして)、食い潰そうとしてきた。相当に食い潰されたと思われます。ために、この島社会はボロボロになりました、身も心も。その正体、それは永田町に置いてはいけない「ロボット〔cybernetic organism〕」でした。

#うちで治そう #4日間はうちで

 PCR検査の相談目安変更へ 「37.5度」削除も検討

 新型コロナウイルスに感染したかどうかのPCR検査の必要性を判断する相談センターへの相談の目安について、政府の専門家会議は、重症化しやすい人は風邪の症状が「2日程度」続いた場合としていた日数をなくし、すぐ相談しやすくなるよう目安を変更する方針を固めた。「37・5度以上」が4日以上としていた発熱の目安も削除することを検討している。

読売新聞(5/5)

 専門家会議が2月17日にまとめた目安では、軽症者が医療機関に殺到して医療崩壊するのを防ぐといった狙いから、風邪の症状や37・5度以上の発熱が4日以上続いた場合に帰国者・接触者相談センターに相談することとされた。高齢者や基礎疾患がある人ら重症化しやすい人についても、2日程度続いた場合だった。

 しかし、軽症と判断されて自宅で待機していた感染者が亡くなったり、検査を受けられない人が相次いだりして厳しく批判されたことから、見直しを議論。厚生労働省が専門家の意見をまとめ、連休明けにも公表する方針を決めた。

 見直し案によると、重症化しやすい人や妊婦らは発熱があればすぐに相談していいほか、人によって平熱は異なると批判されていた発熱の目安「37・5度」も削ることを検討している。また、息苦しさや強いだるさ(倦怠(けんたい)感)に加え、高熱が出た場合もすぐに相談できると明記する。

 厚労省によると、いまの目安を決めた2月はインフルエンザの流行時期で、症状の区別が付きにくかったが、インフルの流行期を過ぎたこと、新型コロナウイルスは軽症と思われていても急に重症化するといった特性がわかってきたことなどから、見直すことにしたという。(5/5(火) 21:15配信朝日新聞デジタル)

 この程度の「人命尊重」レヴェルですよ。ウイルスの特性がわかってきたから、変更(見直し)することにしたという。嘘だね。見苦しい「自己弁護・弁解」ですね。

 一人一人の症状に応接することをはなから拒否していたし、「具合が悪くなっても医者にクルナ」と、東京都医師会の馬鹿どもも言っていた。「専門家有志」なるものどもも、「#家にいよう」などとかいう虫唾の走る「悪誘導」をしていました。詳しく載せるのは胸糞が悪いのでやめておきます。要するに「いのち」を塵芥のようにしか見ていなかったという明証だ。「犬死」ばかりは断固としてしませんように。(「コロナ専門家有志の会「#うちで治そう」ひっそり撤回に批判の声」 https://news.goo.ne.jp/article/jisin/nation/jisin-https_jisin.jp_p_1855075.html

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 師の教えたこと (コラム「南風」) 

 年をとったせいか、卒業した大学の恩師の一言を最近よく思い出すようになった。恩師は「学者や専門家と称する人たちの言うことは信じてはいけない」と教えてくれた。

 学者が学者を信じるなという率直な発言を今でも鮮明に思い出す。理由として「お金もうけを研究している経済学の教師に金持ちがいないこと」を例としてあげた。恩師は続けて「学者は過去のことについては詳しいが未来のことは知らない」と話していた。つまり、未来のことについては学者もそうでない一般の人もそんなに違いはないということである。

 この見識はなかなか薀蓄(うんちく)があるように思われる。金融のプロたちが犯した最近のリーマンに象徴される国際金融危機。原因については比較的所得の低い人たちに貸し出す住宅向けのサブプライムローンの焦げ付きが危機の発端と説明されているが、危機を事前に予測した人は注目を浴びなかった。

 世界最高のシンクタンクと称される日本の官僚組織が運営する日本国家は、近隣アジアの興隆をよそ目にしながら、長期のスランプに陥っている。これは、官僚が立てた政策が必ずしも適切でなかったことを示していないか。

 また、大学の先生方が登場するテレビ討論を見ていると、個々の論者によって発言が異なり、結論が一致しない場合が多い。つまり、どなたが正しいかは、時間がたってみないと分からないということだ。/ このような論旨を展開すると、行く着く先は他人を信じるなということかと言われそうであるが、決してそうは思わない。学者や専門家は情報の宝庫であり、参考にすべき意見の持ち主である場合が多い。

 恩師は「うのみにしないで、自身で考えろ」と言いたかったのだろうと解釈している。(照屋健吉、沖縄テレビ開発社長)(琉球新報・2009年10月15日)

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 「天声人語」を愛読していたころの「痕跡」(あるいは「前科」)として

 亡くなった多田富雄さんが読売新聞に連載していた「落葉隻語」は、ライバル紙ながら楽しみだった。今度一冊にまとまったのを読み(青土社刊)、また色々と教わった。近ごろの日本人の「過剰な無菌志向」を案じて、こう書いている▼「子供がたまに発熱したり下痢したりするのは、黴菌(ばいきん)との戦い方を習得しているからである。…成長の時期にここで戦い方を学習しないと、雑菌に対する抵抗力が弱くなり、逆にアレルギーを起こしやすい体質になる」と。そして「免疫学者の私が言うのだ。信じていい」

 しかし、無菌志向はますます高じているようだ。たとえば子の遊ぶ砂場も、砂には抗菌加工をし、抗菌用の備長炭を敷いたのが人気だと小紙の記事にあった。ショッピングセンターの有料施設だが、犬猫のふんもなく安心なのだという。

 東京の声欄では高校生がそれを嘆いていた。「過剰に気にすると、鳥のふんも不潔と気になるだろう」という、その感覚に一票を投じたい。生きとし生けるもの、「汚さ」なしに命をつなぐことはできないのだから▼ある元大学教授は小紙に、「そのうち犬や猫にも触れなくなってしまうのではないか」と感想を寄せていた。加えて「危ない」やら「騒がしい」やらで近年、遊ぶ場所はとみにインドア化していると聞く。幼い日常がやせ細ってはいないか心配になる。

 五感を働かせてのびのび遊ぶ経験は将来、親が思う以上に生きる力を生むそうだ。過保護で芽を摘むことなかれ。多田さんの一節を、子育て全般への貴重な教訓と読む。(朝日新聞・10/06/11)

 疫学の碩学だった多田さん。ご存命でおられたなら、現下の万般の事態・状況をなんと見たでしょうか。何度かお声を聴いたことがありました。ホントに「寡黙の巨人」であったと感じられたことでした。

*多田富雄(1943-2010)=免疫学者・文筆家。茨城県出身。千葉大学医学部卒業。同大学医学部教授,東京大学医学部教授,国際免疫学会連合会長などを務めた。東京大学名誉教授。1971年にリンパ球の一種で免疫反応を調整するサプレッサー(suppressorは〈抑制するもの〉の意)T細胞を発見した。文筆家としても知られ,著書の《免疫の意味論》で大仏次郎賞,《独酌余滴(どくしゃくよてき)》で日本エッセイスト・クラブ賞,《寡黙なる巨人》で小林秀雄賞を受賞している。能の創作も手掛けている。1984年に文化功労者。(百科事典マイペディアの解説)

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 専門家にもさまざまな分野の人士があります。泥棒の専門家、詐欺の専門家、悪質商法の専門家、藪医の専門家、稀に見る医療の専門家、(絶滅種になった)政治の専門家などなど。「その道の専門家」はいまでは「絶滅危惧種」となったのでしょうか。一面では残念なことでもあるし、他面では「素人の時代」到来と歓迎される向きもあります。

 「玄人はだし」という世間語もありました。《玄人もはだしで逃げだすほどである意》素人が技芸や学問などに専門家が驚くほどすぐれていること。「玄人跣の腕前」》(デジタル大辞泉)(ほんとにそんな意味ですか)かかる人間蔑視の藪以下医者連中の蔓延状況にあっても、ぼくたちは安易に「専門家」に身も心もあずけますか。(志の高い医者もきっといることをぼくは疑わない。まだぼくが出会っていないだけです)若いころは、一端(いっぱし)によく聞かれました。「専門は何ですか」と。いつでも答えは決まっていました。「ナンニモセンモン」なんだと。ぼくは、アマチュア、好事家、ディレッタント(dilettante)で十分すぎるほど。この道一筋は、生き方の流儀には副わないね。

 さてさて、自分の足で歩こう。自分によく注意を払おう。

不器用な人間ほど一流に…

 ちょうど十年前の事でした。「十年一昔」というか「十年一日」といいますか。「ショック」は地球規模で発生していました。(ぼくがまだ新聞を少しはていねいに読んでいた時期の記録でもあります。まるで「十年一昔」ですね)そして、今日。苦難は地球規模です。出口は見えません。

 21世紀の徒弟制度は

 世界のトヨタの大規模リコールは、一自動車メーカーを超えて日本の製造業全体が直面する問題と映ります。日本のものづくりは盤石なのでしょうか。

 トヨタ自動車の世界への貢献には計り知れないものがあります。

 一九〇八年、フォードが開始したベルトコンベヤーによる分業と流れ作業の大量生産方式は、二十世紀の車社会を出現させました。続くGM(ゼネラル・モーターズ)のモデルチェンジと大型高級化販売戦略は車を誰もが欲しがる憧(あこが)れの商品に躍進させました。

 ◆ものづくりは日本の命

 これに対して、トヨタの編み出したカンバン方式は部品在庫一掃の革新的な生産方式でした。ジャスト・イン・タイムとも呼ばれるこの究極のコスト削減策は自動車の生産現場ばかりか、あらゆる企業に導入されていくことになり、グローバル時代をけん引する方式となったともいえます。

 もちろんその徹底したコスト削減と効率化が意味をもち輝くのは高品質に支えられることが絶対条件です。ものづくりへの信用と信頼があってのコスト削減です。

 トヨタのリコール問題は品質問題だけに還元できない側面をもつようですが、一企業だけの問題として見過ごせないのは、市場原理に染まった日本の社会そのものが、ものづくりの心や働くことの問いかけを忘れてしまったのではないかとの疑問がよぎるからです。 

 そんな時代への反省からでしょう。社員教育に徒弟制度を取り入れている横浜市都筑区の小さな木工会社が全国的な話題と注目を集めています。

 注文家具をつくる有限会社「秋山木工」で、家具職人の秋山利輝さん(66)が代表。「技能五輪全国大会」の金メダリストなどの一流の職人が次々と育っています。

◆不器用人間が一流になる

 徒弟制度は江戸時代から二百五十年の歴史と伝統をもちますが、秋山木工の制度は、秋山代表の体験から生み出された独自のシステムです。さまざまな工夫のなかの最大の特長は面接の徹底でしょう。入社希望の若者本人ばかりか、秋山代表の、若者の実家を訪ねての両親への長時間面談が加わります。(右は秋山代表)

 厳しいスパルタ教育に耐えるには本人の決意と覚悟のほかに両親の見守りと励ましが絶対に必要だからです。修業が生半可でないことはやがてわかってきます。

 毎年三月、二~十人の新入社員が採用されます。倍率は十倍前後、北海道から沖縄まで、高卒に一流国立大学の卒業生も交じります。丁稚(でっち)としての四年の研修と職人としての四年の修業の計八年が職人養成の全行程です。

 入社時は男も女も丸刈り。最初の四年は寮生活で、休みは盆と正月の十日間。この間、親の面会も恋愛も許されません。毎朝五時前の起床、近所の掃除とマラソン、平均睡眠時間三~四時間のハードな日々とあっては脱落者が出ても不思議ではありません。むしろ耐え抜く若者が多いことの方に、頼もしさとこの国の未来への希望を感じさせます。

 奈良県明日香村の最も貧しい家に生まれ、中学二年まで名前も書けなかった秋山代表を積極人間に変えたのは徒弟制度下での必死の修業でした。下積み時代の苦労は、将来、壁を乗り越えるための投資が信念ともなりました。

 著書の「丁稚のすすめ」(幻冬舎)には体験から得た数々の持論が披露されています。

 「職人は技術より人間性」「不器用な人間ほど一流になれる」「褒めるよりも叱(しか)って伸ばす」

 器用な人間は謙虚な心を忘れ傲慢(ごうまん)になり、結局は謙虚にひたむきにやり続ける不器用人間が大成することになったりするからです。

 秋山木工からはこの三十年で五十人の職人が巣立ちました。一人前にした職人を八年で退職させるのは企業経営の点からは損失ですが、世界に通用する職人を一人でも多く世に送り出すとのこれまでの人生への恩返しの実践です。

 それに弟子たちが他社や海外で腕を磨き、自分と同じように職人を育ててくれることを期待しています。そうすれば職人魂が次々に引き継がれ、日本のすばらしい技術と文化が伝えられ生き残っていくことにもなるからです。/若者たちに愛され尊敬される献身的な親方の存在。そこに徒弟制度が二十一世紀に生き残れるかどうかのカギがあるようです。

 ◆仕事や幸福を見つめる

 マネーゲームにも似た倫理なき資本主義には空(むな)しさが漂います。かつての西洋が資本主義発展のなかにプロテスタンティズムの倫理を見たように日本にもそれぞれがその仕事に励むことによって救いが得られるとの教えや考えがありました。仕事や幸福についてあらためて見つめ直す時期です。(東京新聞・10/02/14)

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 教える、育てる。この営みはさまざまな方法がありました。その典型例が「徒弟」という制度でありました。ある時期までは学校教育の教えの方法と並行して存在していましたが、いつの頃からか、徒弟制は捨てられてしまいました。あまりにも古くさいという理由だったでしょうか。それとも、そのような時間がかかりムダが多い方法は、効率や経済性を追求する時代の精神(風潮)とは相容れないということだったか。

 そのような古色蒼然とした教え、育てる方法が復権しているというよりは、必要とされるところでは営々と維持されてきたのです。人が育つ、それもみずからの生き方を的にすえて育つためには、けっして捨ててはならない人生の流儀だったと思われるのです。

 上の記事に紹介されている秋山さんの著書から。

 《「仕事が早い」という言葉があります。/ 多くの場合、これは賞め言葉として使われています。いろいろなことを短時間に、起用にこなす人間は、企業にとっては使いやすく、貴重な人材なのかもしれません。即戦力を求める企業が増えたいまの時代では、重宝されるでしょう。/私の会社にも、仕事の早い、〝器用な〟丁稚がいます。/ しかし、私の会社では、〝器用な〟ことは評価されません。/ 仕事が早くできることは大切なことです。お客様から注文を受けたら、納期は必ず守らなければいけませんから、時間感覚があることは重要です。/ ですが、仕事が早い、器用、というだけでは、将来通用しなくなります。(中略)

 器用な人間は、何でもすぐにできてしまうので、「何かを学びたい」「教えてもらいたい」という謙虚な心を忘れがちです。また、「できる」ことが当たり前なので、何かを達成したときの感動も少ないことが多いようです。その結果、伸びしろに限界が出てきます。/ また、器用な子は、小さい頃から賞められた経験が多いので、失敗して怒られることに慣れていません。打たれ弱いので、根を上げて早い段階であきらめてしまいます。(中略)/ ですから、私は器用な人間は徹底的に訓練します。

 「自分が器用だからと言って、威張るな!傲慢になるな!」「謙虚な心を忘れるな!」》(https://www.akiyamamokkou.net/

 これでも器用に生きる方を選びますか。きっと、器用なひとは不器用な人間を嫌い抜きますね。「ドジ」「間抜け」「のろま」などと口を極めて罵る。これは一面では「不器用」だったぼくの実感でもあります。

 その理由はなんですか。きっと、相手の気持ちを読みすぎる自分の卑しさを嫌悪するのを、まったく隠そうとしない、不器用な人間をうらやましく思うからではないでしょうか。「あいつは、卑屈じゃないなあ」という裏返しの羨望の念からだと思いますね。

 器用な人は「隣が見える」「隣を見てしまう」から、気が移るんですね。「なんで、こんなしんどいことをせなあかんねん」と理屈に走ります。と、これは他面では「器用人間」だったぼくの告白です。でも、不器用者をまったく悪者扱いするのが世間なんですね。どうしてなんですか。

●ぶ‐きよう【不器用/無器用】 の解説1 手先が器用でないこと。また、そのさま。ぶきっちょ。「―な手つき」2 物事の処理のへたなこと。また、そのさま。「―でお世辞一3 道理にはずれていること。卑劣なこと。また、そのさま。「女の道をそむいた―な魂ここにある」〈浄・国性爺後日〉(デジタル大辞泉)

*https://president.jp/articles/-/34031

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