だれが規則を作るのか

 DNA鑑定で無罪、全米で200人 米国でDNA鑑定の結果、冤罪が晴らされた例が少なくとも200人に達した。この中には死刑囚14人も含まれている。多くは目撃証言が有罪の根拠とされていた。/ 無実を訴える受刑者の救援活動をしている非営利組織「イノセンス・プロジェクト」(IP、本部ニューヨーク:写真右)によると、シカゴで81年に起きた誘拐、婦女暴行、強盗事件で有罪判決を受け、24年以上も服役していた男性(48)が、このほどDNA鑑定で無実が証明された。IPが活動を始めた89年以降、有罪判決がDNA鑑定で覆ったのはこれで200人目。/ 男性は一貫して無実を主張したが、2人の目撃証言があり有罪判決を受けた。その後IPの活動で実施された、女性の服に付着した精液のDNA鑑定が、無実の決め手となった。/ IPによると、無実が証明された200人が刑務所で過ごした時間は計2475年、1人平均約12年。無罪を勝ち取った人の62%は黒人だった。/ 88%が性的暴行、28%は殺人で有罪判決を受けていた。77%は誤った目撃証言が有罪判決の根拠だった。当初のDNA鑑定が誤っていた例も3件あった。(asahi.com・07/04/26)

 (ヘッダー写真は「足利事件の再審判決後、笑顔で「完全無罪」と書かれた紙を手にする菅家利和さん=宇都宮地裁で2010年3月26日、小林努撮影:毎日新聞2021/1/24 05:00)

***

  服役後に冤罪判明の男性、再審が決定 富山地裁支部 強姦(ごうかん)などの疑いで逮捕され、2年余の服役後に冤罪が分かった富山県内の男性(39)について、富山地裁高岡支部は12日、再審開始を決定した。検察側が男性の無罪を求めて再審請求していた。/ 法務省によると、裁判所の再審決定は新たな被告の判決確定後に行うのが通常で、確定前に決定するのは極めて異例という。/ 男性は「早く終わりにしたいと思っていた。決定まで長かった。捜査側には法廷ですべてのことを明らかにしてほしい」と話した。/男性は02年1月と3月に起きた強姦など2事件で逮捕され、同年11月に懲役3年の実刑判決を受けて服役。05年1月に仮出所した。だが、別の事件で公判中の被告(52)が昨年11月に2事件を自供。県警は1月19日に同被告を再逮捕した。(asahi.com・07/04/12)

***

 二つの事件はいずれも犯罪に当たると判断された結果の有罪が一転して無罪になったケースでした。ここには人権という観点で看過できない問題が存在しますが、それとは別の視点で規則作りと規則破りの問題を考えたいのです。「無罪を勝ち取った人の62%は黒人」というのはどういう理由からでしょうか。

  集団と規則~だれが規則をつくり、だれにそれを適応するのだろうか(ある項目で引用したものです) 《あらゆる社会集団はいろいろな規則をつくり、それをその時々、場合場合に応じて執行しようとする。社会の規則は、さまざまな状況とその状況にふさわしい行動の種類を定義し、個々の行為を「善」として奨励し、あるいは「悪」として禁止する。ある規則が執行された場合、それに違反したとおぼしい人物は、特殊な人間 ― 集団合意にもとづくもろもろの規則にのっとった生き方の期待できない人間 ― と考えられる。つまり彼は、アウトサイダーと見倣(みな)されるのである。

 しかし、こうしてアウトサイダーのレッテルを貼られた人間が、そうした事態に対して、まるで異なった見方をすることもありえよう。彼は自分がそれによって判定された規則を承認していないかもしれず、また、自分に判定を下した者たちに判定者としての権限も法的資格も認めないかもしれない。ここに、このことばのもう一つの意味が生ずる。すなわち、規則違反者が判定者をアウトサイダーと見倣すこともありうるということである。(H. S. ベッカー『アウトサイダーズ ラベリング理論とはなにか』)

  アウトサイダーであると判断された人もいれば、そのような判断を下した人びとこそアウトサイダーだといいうる場合もあり得るというのです。規則というものは、大なり小なり、社会全体の合意を得て成りたっていると考えられそうですが、はたしてどうか。(「規則」の多くは多数決で決められます)万人の目が一致して「あいつは悪い」というような事態はまれです。「あいつが悪いというやつが悪い」となることもしばしばです。(右写真は Becker)

 以下のような新聞記事に興味をもちました。このような事態のなりゆきをどのように思われますか。ある行動を取っている人びとと、それを非難する人びとの考え方はまったく異なっているというのはいくらでもあること。でも、そのような状況において、非難され、「逸脱」しているとされるのは特定の人びとにかぎられるのも事実です。非難されたから「悪い」のか、悪いから「非難」されたのか。どちらですか。

+++++++++++++++++++

 ブッシュ批判Tシャツ着用の女性、飛行機から降ろされる ブッシュ米大統領への侮辱ととれる言葉をプリントしたTシャツを着て、飛行機に乗っていた乗客が、ほかの乗客からの苦情で途中で飛行機から降ろされる出来事があり、米メディアで話題になっている。/ リノ・ガゼットジャーナル紙によると、乗客はワシントン州在住の材木商、ロリー・ヒーズリーさん(32)。ロサンゼルス発のサウスウエスト航空機で夫とともに、両親が待つオレゴン州に向かっていた。だが、経由地のネバダ州リノで乗員から「Tシャツを裏返しに着るか飛行機から降りるか、どちらかを選べ」と迫られた。数人の乗客から、Tシャツの表現で苦情が出たためだ。(⤵️)

(⤴️)大統領とチェイニー副大統領、ライス国務長官の写真とともに、米国で話題になったコメディー映画「ミート・ザ・フォッカーズ」(邦題ミート・ザ・ペアレンツ2)の題名をもじった「ミート・ザ・ファッカーズ」(くそったれに会う)という言葉が刷り込まれていた。ヒーズリーさんの両親は民主党支持者で、空港の出迎えで笑ってもらう冗談のつもりだったという。/「私のいとこはイラクで戦っている。別の国を自由な国にしようとしているときに、Tシャツで飛行機を降りなければならないなんて。これは自由とはいえない」。人権団体と相談し、民事訴訟を起こす構えだ。(朝日新聞-2005/10/07)

 「規則(この場合は、多数の感情?)破り」と見なされたのはTシャツを着た女性。でも、この女性から見たとき「規則破り」は苦情を申し立てた人たちだし、降りるように命じた乗員であるともいえるのです。「お前はアウトサイダーだ、という方がアウトサイダーなのだ」ということだってある。決められた規則は、どんな時でも守らなければならないというのは絶対条件ではない。

 だれが決めた規則か、それは不問にはできませんね。「stay home」とどなたが言い出したのか。外に出るなと「自粛」を強いて、はたしてコロナ禍に効果があったのか。自粛するもしないも、ぼくは自分で判断したい人間です。「自粛警察」というのはだれのこと、なんのことですか。「規則破り」はだめだというが、破らねばならない「規則」だってあるでしょう。「治安維持法」を出すまでもなく、勝手に「オレがすることが法律だ」という、クズが仕掛けた今回の違法行為に反対するのは「憲法を守る」という意味では、人民のまっとうな行為でした。

*****

「おとり」と「めとり」

越中おわら風の盆・富山市八尾で、9月1日から3日にかけておこなわれる(今年はどうか)。

 「日本では家が大切にされ、その家に血のつながりを持つものが尊ばれたのであって、他家からはいったものはやや低く見られる。世間も低く待遇するのである。したがって結婚して他家にはいらなければならない女の地位は低く見られることになる。

 だが、子どもができ、その子があとをとることになれば事情はかわってくる。世嗣(よつぎ)の親になるからである。

 しかし武家社会のように男中心の社会はともかくとして、男も女もともに働いた社会ではすべての女がみじめであったわけではない。女の相続権がかなりつよく見られたし、東北地方の奥羽山脈の両側にそうて姉家督(あねかとく)制度のあるところでは、家のなかで女が隠然たる勢力を持っている。

 これは長子が女であった場合、養子をもらって、女にあとをとらせる慣習であるが、宮城県栗駒町などでは姉にかぎらず、女の子はすべて家から出さず、養子を迎えて分家させているものが多いから、もともと母系的な色彩のつよいところであり、この地方の相続形式は栗駒式が旧来からのものであり、後にだんだん長男子相続へかわってきてそのなかへ母系的な姉家督が残存しているのではないかと思われる。」(宮本常一「女の位置」『女の民俗誌』所収。岩波現代文庫版)

 「明治の終わりごろまで、一般に女の地位はきわめて低いもののように考えられ、また若者たちの間には村の娘を管理する権利のようなものが存在した村も多いが、女はただ男の意志の自由になっていただけではなかったようである。男女の関係もそのはじめは女が男の気をひき、男の眼にとまろうとするような行為または儀式から出発している。踊りというのは本来そういうものではなかったかと思われる。

 大正時代、日本にいたロシアの学者ネフスキーは、踊りは男取り(おとり)だろうといったことがある。これは妻を迎えることをめとる(娶る)という言葉と対応する。日本では女によってなされる踊りがきわめて多い。それはもと男をえらぶためのものであったといっていいほど踊りにともなって情事が見られている。また多くの男が一人の女のところにかよっても、そのなかから一人の男をえらぶ自由は女の方にあった」(宮本常一「女の伝承」同上文庫所収)

 「この選択の自由は重要な意味を持っている。それによって女の運命がきまってしまうものだからである。そして自らの選んだものを大切にした。このことがあったからこそ女は家のよき伝承者たり得たのである。女を頑固なものにしたのもそうした自由意志がその最初にあったからである」(同上)

 宮本さんの指摘するところは、一方的に女は男に服従していたのではなく、いろいろな場面で「選択の自由」があったということです。どの男を選ぶか、どの家に奉公に行くのか、今からでは十分に理解できないことのようですが、以前ははるかに女に選択権が与えられていたらしい。

朝日新聞(05年9月29日)

 「盆踊り」は劣島の「夏の風物詩」といわれるような風情がありました。しかしその踊りにはさまざまな歴史が含まれていた。今ではそれはすっかり忘却されてしまいました。生活の中で必要とされない「事柄」はおのずから廃れます。「去るもの 日々に疎し」というのは人間ばかりではなかったのです。(ぼくにはとても懐かしい人である「ネフスキー」の名前が出てきました。かれは数奇な運命をたどったロシア出身の研究者でした。日本民俗学にも小さくない貢献をなした人として、もっと敬意と評価を払われていい存在だとぼくは考えています。いずれ、彼のことも書いておきたいと思います)

 「昔はさかんに離婚する風習のあったところが少なくなかった。とくに西日本に多かったが、離婚の経験を持つものにきいてみると、出されたのではなく、出てきたのである。『いやになったもの同士が一緒にいるのは道徳にあわんでしょう』と対馬のある老婆はいった」(「女の位置」)

 離婚する夫婦の数は、宮本さんの言われる時代と比較はできませんが、現在も決して少ないとは言えない。「出されたのではなく、出てきた」というのはいかにも旧家制度下の表現ですが、ともかく離婚するカップルの多さは何を語るのか、一考に値すると思われます。

(厚生労働省「人口動態統計(確定数)の概況」2018年)

 一方では、日本の女性、ことに農村や漁村の女性たちがもっていた伝承者としての性格やかしこさは、明治以降に学校教育が普及することによって失われてきたのだと、宮本さんはいわれる。戦後になってなによりも女性の解放が叫ばれたにもかかわらず、それとは反対に無口な女性が多くなったともいわれる。どうしてなのか。流れは逆になっていてもおかしくないのに、むしろ男に頼り、自分で選択できない女性が増えてきたとするなら、それは広く普及するようになった学校教育のせいだということになります。

 もちろん、いまでも男よりよほど強い権限を家の中で行使している女性も健在です。ボクのところなどはその典型かもしれない。よそのことはあまりしらないから、断定はできませんが。(「時代が変わる」といいます。だが、時代を変えるのは人びとであるのですが、その人々が時代によっても変えられるのですね)

(前列右から)柳田国男・ネフスキー・金田一京助 (後列左)折口信夫

++++++

●ネフスキー ニコライ(英語表記)Nevskii Nikolai Aleksandrovich

国籍ソ連 生年1892年2月6日 没年1937年11月24日 出生地ロシア・ヤロスラブリ

学歴〔年〕ペテルブルグ大学東洋学部〔14年〕卒 主な受賞名〔年〕レーニン賞〔62年〕

 経歴1915年ペテルブルグ大学(のちのレニングラード大学)派遣の官費留学生として来日。民俗学者の柳田國男、折口信夫、伊波普猷らと親交を結び、日本文化、日本民俗学を研究。’17年のロシア革命のため帰国を延期し、’29年まで日本に滞在、小樽高商、次いで大阪外国語学校、京大などのロシア語講師を務める傍ら、日本各地を調査旅行し、東北のオシラ信仰、アイヌのユーカラ、沖縄宮古島のフォークロアなどに関する論文を「民族」その他の雑誌に発表。’22年北海道出身の萬谷磯子と結婚。’29年ソ連に帰国、レニングラード大学とレニングラード東洋学研究所の講師となり、日本文化研究、西夏語研究を続行したが、スターリンによる粛清の犠牲となり’37年10月夫妻ともに逮捕され、11月24日レニングラードで銃殺刑に処せられた。  

 死後’57年に名誉回復され、’62年には西夏文献学等の業績に対しレーニン賞を授与された。’90年長らく不明だった没年と没地がソ連誌に掲載された略伝により判明。’91年、14年に及ぶ日本滞在中に沖縄宮古島の方言を記録したノートのマイクロフィルムが、ソ連科学アカデミー東洋学研究所のL.グロムコフスカヤらにより早稲田大学図書館に寄贈された。邦訳書に「アイヌ・フォークロア」(北海道出版企画センター)がある。(20世紀日本人名事典の解説)

****

前車の覆るは後車の戒め

 飽きもしないで、宮本常一さんを続けます。理由はいくつか。ぼくが彼をこよなく好きであるということ、さらには宮本さんは地べたを這うがごとくに、島の各地を踏査された「記録の確かさ」をぼくは認めているから、です。

 《工場誘致は戦後の税制改革から起こって来た現象である。工場誘致によって地方にも有利な就労の機会の生ずることは地方を活気あらしめるものとして喜ぶべきものであるかも知れない。また固定資産税がその町の財政を支えることになる。だが割安な労賃で労働者を雇い入れそれによって得た高い利潤は地元におちつくのではなく他へ持ち去られてしまうのである。そういうことを承知で地方政治家たちは工場誘致に狂奔するほど地方の資本力は枯渇しているのである。(中略)/工場誘致だけではない。最近は観光設備に血の道をあげているところが少なくない。観光客が来さえすればその土地が発展するように考えてのことでるが、しかし観光施設ができて、地元の人でそこを利用し得るものは何人あるのであろうか。豪華な観光ホテルは都市から来た観光客のためのものであり、また観光客のおとす金は外部資本がもっていってしまう》(宮本常一「日本列島にみる中央と地方」1964年)(左は朝日新聞(大阪版)2016年10月4日。〈「せかいのかみやま」の「今」がどうなっているのか〉「前轍」の戒めとはならないだろうか。劣島各地に死屍累々と「悪夢の跡」があるのですが。まあ、束の間の夢でいいから、と白昼夢を我も彼も。

 このように書いて宮本さんは、これは戦時中に「外地」で見られた「植民地風景だ」といわれます。敗戦後の旧植民地は高い犠牲をはらって「植民地風景」を払拭するのに懸命であったのに対して、「戦後国内に伸びつつある植民地政策は地方民すらもこれを歓迎しようとしている」ではないか。国外においてとられた植民地政策は旧植民地の住民をいつも支配者の風下に位置させていたその反動で、怒りをもって独立にかりたてたのだったが、現実に生じている国内の植民地政策に対して住民が怒りを示す気配はない、とも。戦地の植民地政策を現に地方都市で実施しようとしている政府の政策を地方住民は「歓迎」さえしているのです。

 「その植民地主義によって地方在住民はいよいよ浮足だって行きつつある。そしていよいよ自主性を失いつつある」明治以来、政府がとってきた政策は地方の衰微をもたらせるものでしかなかった。地方を踏み台にして「今日の繁栄をつくりあげていったのだが、それに対して報いられることはほとんどなかった」というのが実態だった。

 宮本さんは周防大島という瀬戸内の島で生まれ育った。その島は交通の便が悪く、住民は日常の行き来に不自由していた。そこで、「国鉄バス」を導入してもらおうと陳情したら「小さい島のくせに、国鉄バスなどもってのほかだ」といわれた。住民は占領軍に頼むことをおもいついた。この島では明治十七年からハワイへの移民が行われており、占領軍には移民の二世が何人かいたのです。実際に陳情したところ、ひとりの二世が島に来て「この島から国税をどれだけ出しているか」「また国家からいくらの税金がこの島に投入されているか」と質問されたのに、だれもまともに答えられなかった。ようやくにして調べた結果、戦時中に県立高校の建物が国家から移管されただけで、はるかに国税を多く納めていたことが判明しました。

 そこで、国家投資が島の納税額よりはるかに低いのだから、「それは国家の政策的怠慢である」として申し入れてみよ、と教えられたとおりに陳情したら、「国鉄バス」が通じたというのです。とられるだけとられて、その見返りがなくとも、それに不満も不平も言わないように国民は押さえ込まれてきたのです。(JRバスは2007年9月30日で廃止)

 「植民地における文化は定着性のないのを特色とする。文化をもたらした支配者たちは定住性に乏しい。一方在住民たちにとっては自らが生みだした文化ではなく、支配者に強いられ、また真似たものである」( ここで一言。戦時中の軍幹部の八割もが「病気・事故等」で亡くなったのであって、戦死したのはごくわずかだった。兵隊は死ぬために戦争に駆り出されたのでした。「一将巧なり 万骨枯る」とは、まことに「戦死やあはれ」ですね)

 いつの時代にあってもみずからの根拠地(文化)を失いたくないという根源の要求を手放したくはない。

 《狭い家に住み、もまれる電車にのり、終日机に向かって事務をとり、夕方になれば帰っていく。家庭自体が甚だ不安定なものであり、日々の生活が枠にはめられたものであるとすると、これから三〇年五〇年の後にでき上がっていく人間像というものははたしてどういうものであろうか。広い鶏小屋を走りまわって餌をあさっている鶏と、バタリーで飼われている鶏とは解剖して見ると内臓がすっかりかわっているという。これからさきの人間の体質や思想にもバタリー的な要素が加わって来るのではなかろうか。新しい都市文化はすでにそういう人間を作り始めている。(右写真は養鶏用のbattery cage)

 文化のいたりつく終局がそういうものであっていいのだろうか。それは一種の人間の消耗品化である。

 人口の都市集中はこのままにしておいていいものであるかどうか。また収入がふえて、時間の余裕ができて、レジャーをたのしむ生活が幸福な生活というものであるだろうかどうか。あるいはまた新産業都市計画によって人口の地方分散は可能になるのであろうかどうか。マスコミとマスプロのこれほど発達した中にあって、はたして地方文化が発展していくものかどうか。これからさき地方の持つ意義はどんなに変わっていくものであろうか。それらについての検討はまだほとんどなされたことはない。ただ地方人口の減少だけが問題にされている。》(宮本常一「日本列島にみる中央と地方」昭和39年) 

 東京オリンピックが開催される直前の猛烈な普請ぶりをありありとおもいだします。いまから五十年以上も前に宮本さんが指摘した諸点はことごとくといっていいほどに、無惨な状況を晒すことになりました。地方は中央の「植民地」だとする傾向は急激に進んだのがこの時代以降でした。それを称して「高度経済成長期」ともてはやしていたのです、国を挙げて。しかしさらにおどろくのは、いまなお、その路線というか方向を必死になって突きすすんでいるといわなければならないようです。「劣島改造」は進行中です、無残な姿をさらしながら。どこまでつづく泥濘(ぬかるみ)ぞ。

 「地方の時代」というのは、まるで「痴呆の時代」を思わせます。首長やその取り巻きが地方を食い物にし、その首長は東京と結託し、または中央から天下ってくるのですから、いつまでたっても、地方の衰弱はとどまるところをしらないのです。この状況を生み出し永続させてきた原因や理由はなんでしょうか。宮本さんは「国家資本の片寄り」だといいました。中央(東京)だけが投資の実権をにぎってはなさなかったからです。いうまでもなく、収税権も握って離しませんし、あろうことか「地方交付税」などと馬の鼻先に付けたニンジンのように、地方団体をなぶりものにしている始末です。今回の給付金も勿体をつける筋合いはまったくないのであり、納税者に戻すだけの話です。(ぼくは「税を納める」とは言わない。「税を取られる」のが現実ですから)

 「国家投資の地方的中心がいくつかつくられてよい筈である。今日の府県では単位が小さすぎる。むしろ府県の存在することが地方開発の障害にさえなっている」という。これまでも道州制がなんどか議論されかけましたが、最後には中央が実権をはなそうとしなかったゆえに、それはいつでも立ち消えになったのでした。「三割自治」の弊害が問題にされながら、いまもその不自然な事態はつづいています。

 陳情政治を打破し、国の門戸を四方にむかって開く。これしか地方も中央も共存共栄する道はないと、宮本さんは指摘しました。「地方の生産、文化が中央のおこぼれによって、それに追随して発展するのではなく、地方の自主的な力によって発展する対策のとられない限り、僻地性の解消はあり得ないと考える」(同上)まず実現の可能性はなさそうですが。

 奇しくも「東京五輪」は「東京コロナ」に様変わりしたのが現下(春から夏への能登半島ならぬ、島社会)の状況であり、感染者は、その多くが中央から地方へと分散?天下り?か、かくして拡散していきましたし、同様の事がさらに再現されるはずです。その政治体制は、内容においても仕組みにおいても、とどまるところを知らぬ頽落の一途です。

 ぼくは「日常の生活ぶり」においては進歩論も進化論も取りません。進歩でも進化でもない、あえて言えば、「深化」という、まったく別個の「機制」によって動かされているのだと思うのです。文化と文明という問題として、これを熟考しなければならない。主題は「さらになお、収奪される劣島」となるはずです。

 稿を改めて書かなければならないような重要な問題が、いくつもここに出てきます。「国破れて山河在り」はけっして戦争だけがもたらしたのではない。明治以降、ぼくが知っているのは「昭和三十年代」からですが、いったいどれだけ山野を荒らし、農地を荒廃させ、農村を破壊し、家族をつぶしてきたか。それは人心の破壊に直接関係していたからこそ、言葉を失うのです。おそらく、もう限界点をはるかに過ぎてしまった地点に、ぼくたちは茫然と立ち竦んでいるにちがいないのです。内からも外からも、痛めつけられて路頭に迷っているさなかに、ウイルスの無音の襲撃を受けているのです。ぼくたちは例外なしに「コモンズ(共有地)」というホームグランドを奪われた homeless 状態に置かれている。(●「共有地の悲劇」= 経済学で、多くの人の利己的な行動によって共有資源が枯渇すること。山林や漁場などの共有地(入会地(いりあいち))において、各自が適量を採取すれば存続できる資源も、自己利益のために濫伐・乱獲する者が増えれば枯渇し、共有地全体の荒廃を招くことから。コモンズの悲劇)(デジタル大辞泉の解説)

****

わかってくる態度

 「学問のすすめ」という短文において、作家の司馬遼太郎は興味深いことをいっています。

 《学問がある、というのは、知識があるということではない。私は語学の学校を出た。いまさらこんなことをいうのは恩師への誹謗になりそうだが、私が接した多くの語学教師は言葉の練達者であっても、べつに学問があるようなけはいはなかった。大工の徒弟が、カンナの削り方だけを教えられるようにして(つまり家の建て方は教えられずに)語学を学び、学んだところで知的要求がすこしもみたされず、ちょうど牢獄で、バケツを、あっちへもって行って水をすて、こっちへもってきて水を満たし、それを一日千回もくりかえしているような(囚人は発狂同然になるそうだが)作業であった。まったく、えらい目にあった。そういうにがい経験があるから、学問というのは知識とはちがうのだろうということで、多少の感覚はできた。

  学問というのは、態度なのである。》(司馬遼太郎「白石と松陰の場合―学問のすすめ」)

 六代将軍だった徳川家宣(いえのぶ)の政治顧問であった新井白石(はくせき)は一七〇九(宝永六)年十一月、江戸の茗荷谷(みょうがだに)の「切支丹(キリシタン)屋敷」でイタリア人宣教師シドチに会っています。鎖国時代に渡来したというので、禁を犯したかどで監禁されてしまった。その彼を白石が取り調べにあたったのは有名な話です。シドチはかろうじて日本語を話せたそうですが、だれにもその意味が通じなかった。しかし白石だけには彼のいうことがわかった。

 じつに奇妙な日本語だったが、それをじっと聴いているといくつかの法則らしい、いわば独特の調べ、特徴というものが存在することに気がついた。それをもとにして話を聴いていけば、自然に彼の日本語がわかってきたのです。(註 そこから「西洋紀聞」が生まれた)

 「このわかってくる態度というものが、学問であろう」と司馬さんはいいます。

 山口県の萩に生まれ、密航を企てたとして斬首の刑に処せられた吉田松陰(しょういん)(1830-59)。

 かれは一度も学校(藩校)に行かないで、十七歳で明倫館(藩校)の先生になります。いまならさしづめ、小・中・高・大学での教育を一切経験しないで、どこかの国立大学の教授になるようなものだったろうと司馬さんは驚嘆する。その短い生涯において、かれがとった学問の方法はまったくの「独学」だったといえます。そして、そのかなりな部分は「旅行」という学び方でした。旅に出て、多くの人に出会うことがかれの学問の内容であり方法であったのです。

 一年ほどの江戸遊学時代に四ヶ月もかけて東北旅行をはたしています。

 「松陰にとっての旅行はかれの大学のようなもので、たんなる遊山ではない。かれの文章にもあるように、この当時、東北諸藩の教養水準はきわめて高く、多くの学者がこの日本の僻陬(へきすう)の山河にすんでいる。…東北旅行は、松陰のみじかい生涯のあいだにあっては大学院の課程にあたるかとおもえるほどに収穫があった」(司馬・同前)

 日本の陽明学の開祖は中江東樹(とうじゅ)です。「わが門下に躰充(たいじゅう)とて、俊秀なる人ありて、平日疑問論難止むときなし」と、いつも師匠を質問攻めにしていたという。その「疑問論難」にむけて先生がていねいに応答して生まれたのが「翁(おきな)問答」(1649年刊)という書物でした。先生に対する「平日疑問論難止むときなし」いう弟子の態度もまた学問をなすものではなかったかとおもうのです。ここで使われている「学問」ということばは「生き方」の探求を指していたでしょう。

 先の短文を、司馬さんは次のように結ばれています。

 「この両人(白石と松陰)に共通しているのは知的好奇心の強烈さと、観察力の的確さと、思考力の柔軟さであり、その結果として文章表現がじつに明晰であったということである。さらにいえることは、両人とも学問をうけ入れて自分のなかで育てるということについての良質な態度を、天性かどうか、みごとにもっていた。学校教育という場は、学問にとって必要ではないというのは暴論だが、しかしかれらがもっていたこの態度をもたずに学校教育の場にまぎれこんでもそれは無意味であり、逆に、学校教育から離れた場所に身をおいていても、この態度さえあれば学問(その種類にもよるが)は十分にできるという例証になりうるのではないか」

●松下村塾=江戸末期、長門(ながと)萩にあった私塾。吉田松陰の叔父玉木文之進の家塾を、安政3年(1856)から松陰が主宰し、高杉晋作・伊藤博文ら明治維新に活躍した多くの人材を養成。平成27年(2015)「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。(デジタル大辞泉)この小さな「学校」は江戸末期の「松下政経塾」のごとき位置を占めていました。というより、「松下塾」が松陰のひそみに倣ったというのが正解でしょう。両者は「雲泥万里」と言うべきですが。

 知的好奇心とは「疑問論難止むときなし」という姿勢であり、じっと耳を傾けているとだんだんに「わかってくる態度」というものだということではないでしょうか。(ぼくは松陰好きではありません。偏狭なナショナリスト。時代の制約はどうしようもありませんでしたが。彼についても少し雑文を書いてみたいですね)

 子どもも大人も含めて、人のもつべき大切な資質の一つは(ひとによってとらえ方はさまざまにちがいますが)、それは相手に対して質問しつづけることだと、ぼくは考えてきました。そんな人に対して、これまた疑問でいっぱいになった相手が出会うと、そこではどんなことが生じるのでしょうか。  

婦人には、三従の道あり

「女子に教ゆる法」 《婦人は、人につかふるもの也。家に居ては父母につかへ、人に嫁しては舅姑・夫につかふるゆへに、慎みてそむかざるを道とす。もろこしの曾大家が言葉にも、「敬順の道は婦人の大礼なり」といへり。黙れば女は、敬順の二をつねに、守るべし。敬とは慎む也。順は従ふ也。慎むとは、おそれてほしゐままならざるを云。慎みにあらざれば、和順の道も行なひがたし。凡そ女の道は順をたっとぶ、順のおこなはるるは、ひとへに慎むよりをこれり。詩経に、「戦々と慎み、競々とおそれて、深き淵にのぞむが如く、薄き氷をふむが如し。」、といへるは、をそれ慎む心を、かたどりていへり。慎みておそるる心もち、かくのごとくなるべし。

 婦人には、三従の道あり。凡そ婦人は、柔和にして、人に従ふを道とす。わが心にまかせて行なふべからず。故に三従の道と云事あり。是亦、女子に教ゆべし。父の家にありては父に従ひ、夫の家にゆきては夫に従ひ、夫死しては子に従ふを三従といふ。三の従ふ也。幼きより、身をおはるまで、わがままに事を行なふべからず。必ず人に従ひてなすべし。父の家にありても、夫の家にゆきても、つねに閨門の内に居て、外にいでず。嫁して後は、父の家にゆく事もまれなるぺし。いはんや、他の家には、やむ事を得ざるにあらずんば、かるがるしくゆくべからず。

 只、使をつかはして、音聞(いんぶん)をかよはし、したしみをなすべし。其つとむる所は、舅、夫につかへ、衣服をこしらへ、飲食をととのへ、内をおさめて、家をよくたもつを以って、わざとす。わが身にほこり、かしこ(賢)だてにて、外事にあづかる事、ゆめゆめあるぺからず。夫をしのぎて物をいひ、事をほしいままにふるまふべからず。是皆、女の戒むべき事なり。詩経の詩に、「彼(かしこ)にあっても悪(にく)まるる事なく、ここにあつてもいと(厭)はるる事なし。」といへり。婦人の身をたもつは、つねに慎みて、かくの如くなるべし。》

++++++++++++++++

 これは江戸時代の本草学者であり思想家でもあった貝原益軒(1630-1714)があらわした『和俗童子訓』(巻之五)の「女子に教ゆる法」の一部です。『和俗童子訓』は宝永七年(1710)、貝原益軒が八十一歳のときに書いたもので、江戸時代以降、一部階級(武家階級か)の女性の生き方をつよく特定するほどの影響力をもちました。これを種本にした『女大学』がただちに数種刊行され、後々に大きな陰影を残すことになったといえます。(本頁上部の写真参照)

 「女は陰性(いんしょう)なり。故に女は男に比ぶるに、愚かにして目の前なる可然(しかるべき)ことも知らず」「総じて婦人の道は、人に従うにあり」という徹底した男性優位性、女性蔑視観をこの社会に植えつけたのです。あるいは、既存の社会に厳然として根付いていた「男尊女卑」の慣習は風俗を、そのままの現実として書き表したともいえるでしょう。現実の姿を描写し、それが現実の状況をさらに深めるという依存関係にあったともいえるのです。

 明治になってからも「女大学」は猛威をふるい、同一内容のものが数十種も出版されたし、また「教育勅語」と「女大学」を結びつけた教科書「中等教科明治女大学」がなんと、加藤弘之と中嶋徳藏によって公刊(1906年)され、第二次大戦の敗戦時まで使われたのです。なかでも「良妻賢母」は普遍性を持った「女性像」であったし、その表現の根底には夫に対しては「良妻」であれ、子どもに対しては「賢母」たれと、女性自身の自己実現を省みられていなかったのです。「悪妻愚母」を奨励するのではありませんが、自分の足で立つ女性、それを強く願うし、そのためには経済的な自立は欠かせない条件だと、ぼくは考えています。いまもなお、その実現を阻む環境にあるのはどうしてですか。それを考えるのもぼくたちの世代の課題でした。

 明治以降に「女子教育」の振興をはかるために、各地に女子の教育機関が起こりました。その多くは今日の「女子大学」に至る歴史を紡いできたとも言えます。この島社会で、女性に大学の門戸が開かれたのは戦後になってかららでした。その根底には「女大学」流の女性軽蔑観が滔々と流れていたと想像しても、あながち間違いであるとは言えないとぼくは考えています。それでは明治も大正も昭和も遠くなり、平成でさえ過去となった現在、女性の地位はいかほどの浮き沈みを見せているのでしょうか。「女大学」の「大学」は学校じゃありません。儒教の経書(四書)の一つです。『論語』『中庸』『孟子』と並んでいるのが『大学』でした。まあ、教訓書といったところでしょうか。

 一見すると関係なさそうですが、ぼくはネットの画面を見ていて、やっぱりそうなんだなと痛感し、情けなくなったんです。国会の内閣委員会(15日)での法務大臣・森まさこさんの無様な晒されよう、でした。おそらくこれがボクシングなら「タオル」が投入されていたでしょう。任命権者は彼女を見殺しにしたといっていい。TKOどころかKOそのものだったと思う。おろかな勘繰りですが、男性大臣だったら、はたして、…。奴は「逃げ切れる」と考えているのでしょうか。「クズ」の専守防衛に地位か名誉か(両方か)をかけているのなら、恥ずかしい限りです。首尾よくいって「勲章」ぐらいなんだから。大臣の気持ちは超滅入り状態( dispirited)だろうよ。そこまでしても、やり甲斐がないですよ。所詮はクズとフジか。その心は、カットウ、それぞれが、目下「葛藤中」ですか。

 あらゆる事柄において、物事・人事(世の中の状況)は直線的には進まないようです。一歩進んで二歩下がる、ですか。

*******

● 貝原益軒=1630‐1714(寛永7‐正徳4) 江戸前期の儒者,博物学者,庶民教育家。名は篤信,字は子誠,通称は久兵衛。号は損軒,晩年に益軒と改めた。先祖は岡山県吉備津神社の神官で祖父の代より黒田氏に仕え,父は祐筆役らしく,その四男として福岡城内東邸に生まれた。幼少年期に父の転職で地方に移住したことや青年期の永い浪人生活が,後年〈民生日用の学〉を志す結果となった。壮年期に黒田藩に再就職し,京都に数年間藩費留学して松永尺五,木下順庵らの包容力に富んだ学風の朱子学者や,中村惕斎,向井元升らの博物学者と交際し,また元禄直前の商業貨幣経済の進展を背景として上方(京坂地方)を中心に起こりつつある経験・実証主義思潮を体認し,後年それをあらゆる方面に最大限に発揮させ,膨大な編著を残した。(世界大百科事典 第2版の解説』

●「女大学」=江戸中期以降広く普及した女子教訓書。貝原益軒(かいばらえきけん)あるいはその妻東軒(とうけん)の著とされてきたが、証拠はない。現在では益軒の『和俗童子訓』巻5の「女子ニ教ユル法」を、享保(きょうほう)(1716~36)の教化政策に便乗した当時の本屋が通俗簡略化して出版したものとされる。現存最古の版は1729年(享保14)で、その後挿絵や付録をつけ多くの異版が出た。益軒の原文が結婚前の女子教育を17か条に分けて説いたのに対し、本書は字数を3分の1に減らし19か条に分け、まず女子教育の理念、ついで結婚後の実際生活の心得を説く。(⤵️)

 一度嫁しては二夫にまみえぬこと、夫を天(絶対者)として服従すること等々、封建的隷従的道徳が強調される。益軒には敬天思想に基づく人間平等観があり、それが原文の基調となっていたが、『女大学』ではすべて捨象されている。明治に至り、『女大学』を批判し、近代社会生活における女性のあり方を説くものが、福沢諭吉(ゆきち)の『新女大学』(1898)をはじめとして数種出ている。[井上忠](日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

 徳川時代の女道論で最も勢力のあった貝原益軒の「女大学」に対しては、幕末、明治初期の頃から、福沢は甚だ批判的で、常にその所説を駁撃してやまなかったが、この書において福沢は「女大学」の各条項を徹底的に批判し、併せて自己の立場からの「新女大学」を書いたものである。
明治三十二年四月一日から七月二十三日まで三十四回に亘り「時事新報」紙上に発表せられ、同年十一月菊判洋紙活字版の単行本として上梓された。(http://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/fukuzawa/a53/117

名倉談義 ~ 養子について

 次の一文は、民俗学者であった宮本常一(1907~1981)が著した『忘れられた日本人』に収められているものから一部を引用したものです。(何度目になりますか)昭和三五年に愛知県北設楽郡内に位置する名倉の地を宮本さんが訪れた際に土地の老人から聞いた話をまとめたのが「名倉談義」です。そこには、いまではまったくこわれてしまった村社会の姿や人間関係のありさまが眼前の事実として語られています。土地の古老、松沢喜一さんの語るところを聞いてください。 

 《小笠原のシウばァさんのつれあいは、敬太郎といいまして、子供のときこの家の子になりました。わたしがまだ生まれていなかったと思いますが、そのころ西三河の郡の方はひろみでありながら、よほど暮しのむずかしいところであったそうであります。それであまった子供をこの方へ連れて来る者が多うありました。敬太郎の家もくらしがまずしうて、その母親が子をつれてやって来ましてな、方々の家へたのんであるいて、とうとう私の家へおいてかえったのであります。

 たのむといいましても、まあ、その家へいって「今夜一ばんとめて下され」とたのみます。たのめば誰もことわるものはありません。台所のいろりばたへあげて、夕食を出して、しばらく話をしていると、そのうちみなそれぞれへやへ寝にはいる。敬太郎のおふくろと敬太郎はいろりのはたにねるわけです。敬太郎のおふくろはそれがかなしうてならぬ。この子は自分がかえってしまったら、こういうように一人でここにねせられるかもわからん。そう思うと、「よろしくたのみます」ということができん。それであくる朝になると、「いろいろ、おせわになりました」といって出ていくと、とめた方も別にこだわることもなく、「あいそのないことで」といって送り出します。

 こうして家々へとまわってみて、親が気に入らねば、子供をあずけなくてもよいわけであります。敬太郎のおふくろも方々をあるいてみたが、どこの家も気に入らなかったようであります。それでわたしの家へ来た。わたしの家には、私の祖母にあたるモトというばァさんがいました。夕はんがすんでひときり話をして、みなへやへはいったが、モトばァさんが、「かわいい子じゃのう、わしが抱いてねてやろう」というと、その子がすなおに抱かれてねました。おふくろはそれを見て涙をながして喜んで、この家なら子供をおいていけると思うて「よろしくたのみます」といってかえったそうであります。それから敬太郎はモトばァさんに抱かれてねて大きくなりました。

 敬太郎は大きくなって親もとへ挨拶にかえったが、ふるさとの者にはならず、この土地のものになりました。私も敬太兄ィといってなにごとにも力を貸してもらいました。はじめはこの屋敷に家をたてて分家したのであります。そうして、わたしの家を本家にして出入りしておりました。シウさんはこの上の加藤の娘で、なかなかのしっかり者でありましたから、二人でかせいで、いまの場所へ大きい家をたてたのであります。

 この村にはもらい子が分家した者が何軒もあります。たいていは西三河の方から来たものでありました。もらい子の奉公人だからというて、むごいことをするようなことはなかったが、やしない養子には財産をあまりわけてやることはなく、跡つぎ養子には財産をゆずりました。

 わたしの家は、この村では古い家でありますが、分家も出したことがなく、たった一軒だけで何百年ほどつづきました。ところがわたしの祖父にあたる富作という人には子がなくて、上から国吉という子を跡つぎにもらいました。ところがこれは大して読み書きもできません。子がないのだからどうせもらうならもう一人もらおうということになって田口からもらったのが米作という人で、これがなかなかよくできた人だと富作もこの方にかかることになりましたが、これが私の父親であります。しかし国吉も跡つぎにもらったのですから、財産をわけんわけにはいけません。六分と四分にわけて家をたてたのが、いまの貞登さんの家で、血はつながっていないが、親の代は親類としてつきあいました。

 跡つぎ養子とやしない養子とは それだけの差がありました。親類というのは祝言や葬いのときによい役がつき、また仕事の手伝いあいをします。やしない養子が分家すると、仕事の上で本家をたすけることが多くなりますが、いまわたしのうちと小笠原はそういうことはありません。祝儀・不祝儀の手伝いあいはいたします。》

++++++++

  宮本常一という人は生涯にわたって旅をつづけ、日本全国をじつにていねいに歩かれました。一年のほとんど半分を異境の地で過ごされたのでした。彼の記録によれば、昭和二五年には二七三日間も旅で過ごしたほどです。交通がいたって便利になった今日からは想像することができない、そんな時代に歩きつづけた宮本さんの踏査から生みだされ後世に残されたのは、ぼくたちが住んでいる社会の今にいたる歴史、つまりは、人間の生活・文化―それは人びとの生き方でもありました―というものが親から子どもへ、大人から未成年者へとたしかに受けわたされる、その実際の姿・形だったといえます。愛知県の名倉地方で出会った古老から聞き書きされた話に託されたのは、わたしたちには考えることすらできないような、その時代その地域の人びとに宿されていた感情の深さというものではなかったでしょうか。

 ぼくたちの社会にはこんな思いをもって生きていた無数の人びと(庶民)がいたのだと、宮本さんはいいたかったのかもしれません。歴史の教科書に名前が出ることは絶対にありえない、そんな人間たちこそがこの国の歴史を作ってきたのだということに心を向けてほしい、と。そんな人びとのことを、彼は「忘れられた日本人」と呼んだのです。

 『忘れられた日本人』には男女を問わず、多くの老人が登場します。日本各地の農・山・漁村に生き死にした、ほんとうに個性的な老人たち―昔の村社会の人たちはだれも似たような生き方をしていたのだから、その性格やものの見方も似かよっていると、ぼくたちは思いがちですが―生活の知恵に恵まれた、自立した老人たちがこの書物の主人公であるといっていいほどです。その「あとがき」に宮本さんは、この本を書く動機となったものについて、つぎのように書いておられます。

  《この文章ははじめ、伝承者としての老人の姿を描いてみたいと思って書きはじめたのであるが、途中から、いま老人になっている人々が、その若い時代にどのような環境の中をどのように生きてきたかを描いてみようと思うようになった。それは単なる回顧としてでなく、現在につながる問題として、老人たちのはたしてきた役割を考えてみたくなったからである》

***********

 ぼくたちはいま、少子・高齢化の時代(一面では、それは多くの人によって、あるいは望まれたものであったかもしれないのですが)そのまっただなかにあって、さまざまな問題に直面させられています。科学や技術が格段に進歩した今日において、教育・福祉・医療といった諸課題に対する有効な政策がかえってうちだせないでいるのはなぜでしょう。また物質的には、以前と比べようもないほどに「豊か」になったのに、老人や児童をはじめとする他者の人権を蹂躙するような事件が日常的に多発しているのです。いつの時代にもこのような事態が人びとを襲っていたとはいかにも考えにくいことでしょう。その一例として、「子ども」に向けられる前代社会(大人)の視線(眼差し)というものをあげてみたわけです。  『忘れられた日本人』が公刊されたのは一九七一(昭和四六)年四月。一九八一年一月三〇日に、宮本さんは亡くなられました。七四歳でした。

‣‣‣